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digraph - hellog〜英語史ブログ

最終更新時間: 2024-04-28 17:37

2023-02-07 Tue

#5034. ヘボン式ローマ字表記は本当に英語に毒されている? [youtube][notice][romaji][digraph][h][spelling][orthography][french][norman_conquest][link][alphabet]

 一昨日公開された YouTube 「井上逸兵・堀田隆一英語学言語学チャンネル」の最新回では,英語史の観点から日本語を表記するためのローマ字について,とりわけヘボン式ローマ字について語っています.「最近よく見かける shi,chi,ji などのローマ字表記は,実は英語的ではない!」です.17分弱の動画となっております.どうぞご視聴ください.



 今回依拠したローマ字使用に関するデータは,昨年9月30日に文化庁より公開された,2021年度の「国語に関する世論調査」の結果です.詳細は「令和3年度「国語に関する世論調査」の結果について」 (PDF) よりご確認いただけます.
 日本語を表記するためのローマ字の使用については,これまでも様々な議論があり,本ブログでも romaji の記事群で多く取り上げてきました.今回の YouTube 動画ととりわけ関連の深い記事へのリンクを張っておきますので,合わせてご参照ください.

 ・ 「#3427. 訓令式・日本式・ヘボン式のローマ字つづり対照表」 ([2018-09-14-1])
 ・ 「#1892. 「ローマ字のつづり方」」 ([2014-07-02-1])
 ・ 「#1879. 日本語におけるローマ字の歴史」 ([2014-06-19-1])
 ・ 「#2550. 宣教師シドッチの墓が発見された?」 ([2016-04-20-1])
 ・ 「#4905. 「愛知」は Aichi か Aiti か?」 ([2022-10-01-1])
 ・ 「#4925. ローマ字表記の揺れと英語スペリング慣れ」 ([2022-10-21-1])
 ・ 「#1893. ヘボン式ローマ字の <sh>, <ch>, <j> はどのくらい英語風か」 ([2014-07-03-1])
 ・ 「#3251. <chi> は「チ」か「シ」か「キ」か「ヒ」か?」 ([2018-03-22-1])

 日本語社会がいかにしてローマ字というアルファベット文字体系を受容し,改変し,手なずけようとしてきたかを振り返ることは,これから英語を始めとする世界中の言語や文字とどう付き合っていくかを考える上でも大事なことだと考えます.今回の動画を通じて,日本語を表記するためのローマ字使用について改めて考えてみてはいかがでしょうか.

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2023-02-03 Fri

#5030. 英語史における4種の綴字改革 [spelling_reform][spelling][webster][shaw][orthography][standardisation][orthoepy][johnson][diacritical_mark][digraph]

 英語綴字の改革や標準化への関心は,英語史の長きにわたって断続的に観察されてきた.古英語の "West-Saxon Schriftsprache" は正書法の策定の1例だし,初期中英語期にも "AB-language" の綴字や Ormulum, Laȝamon などの綴り手が個人レベルで正書法に関心を寄せた.16世紀以降には正音学 (orthoepy) への関心が高まり,それに伴って個性的な綴字改革者が立て続けに現われた.18世紀以降には Samuel Johnson や Noah Webster が各々正書法の確立に寄与してきたし,現代にかけても数々の新しい綴字改革の運動が旗揚げされてきた.hellog でも spelling_reform の多くの記事で触れてきた通りである.
 Crystal (288) によると,伝統的な正書法 (TO = traditional orthography) に対する歴史上の改革は数多く挙げられるが,4種類に分けられるという.

 ・ Standardizing approaches, such as New Spelling . . . , uses familiar letters more regularly (typically, by adding new digraphs . . .); no new symbols are invented.
 ・ Augmenting approaches, such as Phonotypy . . . add new symbols; diacritics and invented letters have both been used.
 ・ Supplanting approaches replace all TO letters by new symbols, as in Shavian . . . .
 ・ Regularizing approaches apply existing rules more consistently or focus on restricted areas of the writing system, as in Noah Webster's changes to US English . . . or those approaches which drop silent or redundant letters, such as Cut Spelling . . . .


 穏健路線から急進路線への順に並べ替えれば Regularizing, Standardizing, Augmenting, Supplanting となるだろう.これまで本格的に成功した綴字改革はなく,せいぜい限定的に痕跡を残した Hart や Webster の名前が挙がるくらいである.そして,限定的に成功した改革提案は常に穏健なものだった.英語史において綴字改革はそれほど難しいものだったのであり,今後もそうあり続ける可能性が高い.

 ・ Crystal, D. The Cambridge Encyclopedia of the English Language. 3rd ed. CUP, 2018.

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2023-01-15 Sun

#5011. 英語綴字史は「フランスかぶれ・悪筆・懐古厨」!? by ゆる言語学ラジオ [graphotactics][orthography][spelling][gh][digraph][yurugengogakuradio][spelling_pronunciation_gap][grapheme][voicy][prestige][minim][linguistics][link][youtube]

 言語学 (linguistics) というメジャーとはいえない学問をポップに広めるのに貢献している YouTube/Podcast チャンネル「ゆる言語学ラジオ」.昨日1月14日に公開された最新回では,1つ前の回に引き続き,<ghoti> ≡ /fɪʃ/ の問題を中心に英語の綴字と発音の珍妙な関係が話題となっています(前回の話題については「#5009. なぜバーナード・ショーの綴字ネタ「ghoti = fish」は強引に感じられるのか?」 ([2023-01-13-1]) も参照).2回にわたり私が監修させていただいたのですが,その過程もたいへん楽しいものでした(水野さん,関係者の方々,ありがとうございます!).
 ghoti, high, women, nation, debt などの綴字について,水野さんと堀元さんの軽妙洒脱なトークをどうぞ.ものすごいタイトルで「フランスかぶれ・悪筆・懐古厨。綴りの変遷理由が意外すぎる。【発音2】#194」です.



 「フランスかぶれ・悪筆・懐古厨」というフレーズですが,英語綴字史のツボのうち3点を実におもしろく体現している表現だと思います.英語の綴字は,中英語以降にフランス語風にかぶれたというのは事実です.また,悪筆というのは写字生個人の悪筆というわけではありませんが,当時の特殊な字体や字形が,現代の観点からは悪筆と見える場合があることを指摘しています(今回は縦棒 (minim) が問題となっていました).懐古厨は,英国ルネサンスと重なる初期近代英語期に古典語(特にラテン語)への憧憬が募ったことを指しています.
 フランス語かぶれと(ラテン語)懐古厨は,時代も動機も異なってはいますが,社会言語学的にいえば,いずれも威信 (prestige) ある言語への接近としてとらえることができます.これは,英語綴字史を通じて観察される大きな潮流です.
 この2回の「ゆる言語学ラジオ」で取り上げられた話題に関して,私自身も「hellog~英語史ブログ」,Voicy 「英語の語源が身につくラジオ (heldio)」,YouTube チャンネル「井上逸兵・堀田隆一英語学言語学チャンネル」,著書などを通じて,様々に発信してきています.ここにリンクをまとめると煩雑になりそうですので,note 上に特設ページ「「ゆる言語学ラジオ」の ghoti 回にまつわる堀田リンク集」を作ってみました.そちらも合わせてご覧ください.
 なお,最新回の最後の「おおおっ,オレかよ!」は,「#224. women の発音と綴字 (2)」 ([2009-12-07-1]) のことです.12年前の個人的な仮説(というよりも感想)で,書いたこと自体も忘れていますよ,そりゃ(笑).
 Voicy パーソナリティ兼リスナーとして,「ゆる言語学ラジオ」の Voicy 版があることも紹介しておきたいと思います.最新回「フランスかぶれ・悪筆・懐古厨。綴りの変遷理由が意外すぎる。#194」です.


Referrer (Inside): [2023-05-14-1] [2023-04-28-1]

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2023-01-13 Fri

#5009. なぜバーナード・ショーの綴字ネタ「ghoti = fish」は強引に感じられるのか? [graphotactics][orthography][spelling][phonotactics][gh][digraph][yurugengogakuradio][spelling_pronunciation_gap][grapheme][voicy][youtube]

 言語に焦点を当てた YouTube と Podcast の人気チャンネル「ゆる言語学ラジオ」の1月10日に公開された最新回は「ghoti と書いてフィッシュと読む?英語学ジョークを徹底解剖【発音1】#193」です.英語の綴字と発音の乖離 (spelling_pronunciation_gap) を皮肉ったものとしてよく知られている話題が紹介されています.私が英語綴字史を研究しているということもあり,このたび続編となる次回と合わせて監修させていただくことになりました(水野さん,お世話になっています!).



 <ghoti> という綴字で fish /fɪʃ/ と読める,というトンデモネタですが,これは英語の綴字改革に関心を寄せていたアイルランド出身の劇作家 George Bernard Shaw (1856--1950) が英語の綴字のひどさを皮肉ったものとして紹介されることが多いです.Shaw および <ghoti> の <gh> に関する hellog 記事として,以下を挙げておきます.

 ・ 「#15. Bernard Shaw が言ったかどうかは "ghotiy" ?」 ([2009-05-13-1])
 ・ 「#605. Shavian Alphabet」 ([2010-12-23-1])
 ・ 「#1195. <gh> = /f/ の対応」 ([2012-08-04-1])
 ・ 「#2085. <ough> の音価」 ([2015-01-11-1])
 ・ 「#2590. <gh> を含む単語についての統計」 ([2016-05-30-1])
 ・ 「#3945. "<h> second" の2重字の起源と発達」 ([2020-02-14-1])

 なぜ <ghoti> ≡ /fɪʃ/ が成り立つのかについては,ゆる言語学ラジオの2人のトークに勝る説明はありませんので,ここで野暮なことは述べません.
 Shaw はこの例を皮肉として挙げたわけで,当然ながら私たち受け取る側も何かしらの違和感を感じています.<ghoti> ≡ /fɪʃ/ のカラクリは説明されれば分かるけれども,かなりの牽強付会だと感じます.この強引さの感覚はどこから来るのでしょうか.
 私たちは,現代標準英語の正書法 (orthography) のなかでも特に文字配列法 (graphotactics) が守られていない点に反応しているのだろうと思われます.英語綴字の諸規則は複雑多岐にわたりますが,そのなかでも綴字を構成する文字素 (grapheme) の配列に関する規則があり,それを文字配列法と呼んでいます.<ghoti> ≡ /fɪʃ/ のなかでもとりわけ子音に対応する綴字 <gh> と <ti> について,文字配列法の規則が破られている,つまり不規則だという感覚が生じているのです.
 <gh> ≡ /f/ の関係は確かに cough, enough, laugh, rough, tough など比較的頻度の高い語にもみられ,極端に珍しいわけではありません.しかし,この関係が成り立つのは基本的には語末(形態素末)においてであり,このことが文字配列法の規則に組み込まれていると考えられます.つまり,英単語には <gh> ≡ /f/ の関係が語頭(形態素頭)で現われる例がないために,ghoti が文字配列法の規則に違反していると感じられるのでしょう.
 同様に <ti> ≡ /ʃ/ の関係も,それ自体は決して珍しくありません.-tion や -tious をもつ単語は多数あり,私たちも見慣れています (ex. nation, station, ambitious, cautious) .しかし,/ʃ/ に対応する <ti> は基本的にそれだけで独立して現われるわけではなく,後ろに <on> や <ous> を伴って現われるのが文字配列法の規則です.<ghoti> の <ti> を /ʃ/ と読ませる際に感じる強引さは,この規則違反に由来します.
 英語の文字配列法については以下の記事もご覧ください.

 ・ 「#2405. 綴字と発音の乖離 --- 英語綴字の不規則性の種類と歴史的要因の整理」 ([2015-11-27-1])
 ・ 「#3882. 綴字と発音の「対応規則」とは別に存在する「正書法規則」」 ([2019-12-13-1])

 ゆる言語学ラジオには Voicy 版 もあり,今回の最新回はこちらとなっています.



 Voicy 内ではゆる言語学ラジオも,私の「英語の語源が身につくラジオ (heldio)」 も,同じ「語学」セクションにカテゴライズされているチャンネルであるため,たまに両アイコンが仲良く横に並ぶことがあります(笑).

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2022-10-29 Sat

#4933. wh の発音 [pronunciation][spelling][phonetics][phonology][phoneme][ame_bre][digraph][consonant]

 <wh> という2重字 (digraph) は疑問詞のような高頻度語に現われるので馴染み深い.しかし,この2重字に対応する発音についてよく理解している英語学習者は多くない.
 what, which を「ホワット」「フィッチ」とカタカナ書きしたり発音したりする人は多いかもしれないが,イギリス標準英語においては「ワット」「ウィッチ」である.つまり,Watt, witch とまったく同じ発音となる.音声学的にいえば無声の [ʍ] ではなく,あくまで有声の [w] ということだ.
 上記はイギリス標準英語の話しであり,アメリカ英語はその限りではなく what, which は各々 [ʍɑt], [ʍɪtʃ] が規範的といわれることもある.しかし,実際上は有声の [w] での発音が広まってきているようだ.
 <wh> の表わす子音の現状について Cruttenden を参照してみよう.

In CGB (= Conspicuous General British) and in GB speech in a more formal style (e.g. in verse-speaking), words such as when are pronounced with the voiceless labial-velar fricative [ʍ]. In such speech, which contains oppositions of the kind wine, whine, . . . /ʍ/ has phonemic status. Among GB speakers the use of /ʍ/ as a phoneme has declined rapidly. Even if /ʍ/ does occur distinctively in any idiolect, it may nevertheless be interpreted phonemically as /h/ + /w/ . . . . (Cruttenden 233)


 ちなみに上記引用文中の "CGB (= Conspicuous General British)" は Cruttenden (81) によると,"that type of GB which is commonly considered to be 'posh', to be associated with upper-class families, with public schools and with professions which have traditionally recruited from such families, e.g. officers in the navy and in some army regiments" とされる.いわゆる "RP" (= Received Pronunciation) に近いものと捉えてよいが,様々な理由から RP と呼ぶべきでないという立場があり,このような用語遣いをしているのである.
 他変種については,次の引用が参考になるだろう.

The only regional variation concerns the more regular use of [ʍ] in words with <wh> in the spelling. This happens in Standard Scottish English, in most varieties of Irish English and is often presented as the norm in the U.S., although the change from [ʍ] to /w/ seems to be more common than is thought by some. (Cruttenden 234)


 手元にあった Longman Pronunciation Dictionary (3rd ed.) の "wh Spelling-to-sound" も覗いてみた.

Where the spelling is the digraph wh, the pronunciation in most cases is w, as in white waɪt. An alternative pronunciation, depending on regional, social and stylistic factors, is hw, thus hwaɪt. This h pronunciation is usual in Scottish and Irish English, and decreasingly so in AmE, but not otherwise. (Among those who pronounce simple w, the pronunciation with hw tends to be considered 'better', and so is used by some people in formal styles only.) Learners of EFL are recommended to use plain w.


 引用の最後にある通り,私たち英語学習者は一般に <wh> ≡ /w/ と理解しておいてさしつかえないだろう.
 <wh> と関連して「#3870. 中英語の北部方言における wh- ならぬ q- の綴字」 ([2019-12-01-1]),「#3871. スコットランド英語において wh- ではなく quh- の綴字を擁護した Alexander Hume」 ([2019-12-02-1]) の記事も参照.

 ・ Cruttenden, Alan. Gimson's Pronunciation of English. 8th ed. Abingdon: Routledge, 2014.
 ・ Wells, J C. ed. Longman Pronunciation Dictionary. 3rd ed. Harlow: Pearson Education, 2008.

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2022-10-22 Sat

#4926. yacht の <ch> [dutch][loan_word][silent_letter][consonant][spelling_pronunciation][metathesis][phoneme][grapheme][spelling_pronunciation_gap][spelling][consonant][phonology][orthography][digraph][eebo]

 学生から <ch> が黙字 (silent_letter) となる珍しい英単語が4つあるということを教えてもらった(貴重な情報をありがとう!).drachm /dræm/, fuchsia /ˈfjuːʃə/, schism /sɪzm/, yacht /jɑt/ である.典拠は「#2518. 子音字の黙字」 ([2016-03-19-1]) で取り上げた磯部 (7) である.
 今回は4語のうち yacht に注目してみたい.この語は16世紀のオランダ語 jaght(e) を借用したもので,OED によると初例は以下の文である(cf. 「#4444. オランダ借用語の絶頂期は15世紀」 ([2021-06-27-1])).初例で t の子音字がみられないのが気になるところではある.

a1584 S. Borough in R. Hakluyt Princ. Navigations (1589) ii. 330 A barke which was of Dronton, and three or foure Norway yeaghes, belonging to Northbarne.


 英語での初期の綴字(おそらく発音も)は,原語の gh の発音をどのようにして取り込むかに揺れがあったらしく,様々だったようだ.OED の解説によると,

Owing to the presence in the Dutch word of the unfamiliar guttural spirant denoted by g(h), the English spellings have been various and erratic; how far they represent varieties of pronunciation it is difficult to say. That a pronunciation /jɔtʃ/ or /jatʃ/, denoted by yatch, once existed seems to be indicated by the plural yatches; it may have been suggested by catch, ketch.


 <t> と <ch> が反転した yatch とその複数形の綴字を EEBO で検索してみると,1670年代から1690年代までに50例ほど上がってきた.ちなみに,このような綴字の反転は中英語では珍しくなく,とりわけ "guttural spirant" が関わる場合にはよく見られたので,ある意味ではその癖が初期近代英語期にまではみ出してきた,とみることもできるかもしれない.
 yatch の発音と綴字については,Dobson (371) が次のように言及している.

Yawt or yatch 'yacht' are two variant pronunciations which are well evidenced by OED; the former is due to the identification of the Dutch spirant [χ] with ME [χ], of which traces still remained when yacht was adopted in the sixteenth century, so that it was accommodated to the model of, for example, fraught and developed with it, while OED suggests that the latter is due to analogy with catch and ketch---it is certainly due to some sort of corrupt spelling-pronunciation, in the attempt to accommodate the word to native models.


 <t> と <ch> の綴字上の反転と,それに続く綴字発音 (spelling_pronunciation) の結果生み出された yacht の妙な異形ということになる.

 ・ 磯部 薫 「Silent Consonant Letter の分析―特に英語史の観点から見た場合を中心として―」『福岡大学人文論叢』第5巻第1号, 1973年.117--45頁.
 ・ Dobson, E. J. English Pronunciation 1500--1700. 2nd ed. 2 vols. Oxford: OUP, 1968.

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2021-08-22 Sun

#4500. 文字体系を別の言語から借りるときに起こり得ること6点 [grapheme][graphology][alphabet][writing][diacritical_mark][ligature][digraph][runic][borrowing][y]

 自らが文字体系を生み出した言語でない限り,いずれの言語もすでに他言語で使われていた文字を借用することによって文字の運用を始めたはずである.しかし,自言語と借用元の言語は当然ながら多かれ少なかれ異なる言語特徴(とりわけ音韻論)をもっているわけであり,文字の運用にあたっても借用元言語での運用が100%そのまま持ち越されるわけではない.言語間で文字体系が借用されるときには,何らかの変化が生じることは避けられない.これは,6世紀にローマ字が英語に借用されたときも然り,同世紀に漢字が日本語に借用されたときも然りである.
 Görlach (35) は,文字体系の借用に際して何が起こりうるか,6点を箇条書きで挙げている.主に表音文字であるアルファベットの借用を念頭に置いての箇条書きと思われるが,以下に引用したい.

   Since no two languages have the same phonemic inventory, any transfer of an alphabet creates problems. The following solutions, especially to render 'new' phonemes, appear to be the most common:

1. New uses for unnecessary letters (Greek vowels).
2. Combinations (E. <th>) and fusions (Gk <ω>, OE <æ>, Fr <œ>, Ge <ß>).
3. Mixture of different alphabets (Runic additions in OE; <ȝ>: <g> in ME).
4. Freely invented new symbols (Gk <φ, ψ, χ, ξ>).
5. Modification of existing letters (Lat <G>, OE <ð>, Polish <ł>).
6. Use of diacritics (dieresis in Ge Bär, Fr Noël; tilde in Sp mañana; cedilla in Fr ça; various accents and so on).


 なるほど,既存の文字の用法が変わるということもあれば,新しい文字が作り出されるということもあるというように様々なパターンがありそうだ.ただし,これらの多くは確かに言語間での文字体系の借用に際して起こることは多いかもしれないが,そうでなくても自発的に起こり得る項目もあるのではないか.
 例えば上記1については,同一言語内であっても通時的に起こることがある.古英語の <y> ≡ /y/ について,中英語にかけて同音素が非円唇化するに伴って,同文字素はある意味で「不要」となったわけだが,中英語期には子音 /j/ を表わすようになったし,語中位置によって /i/ の異綴りという役割も獲得した.ここでは,言語接触は直接的に関わっていないように思われる (cf. 「#3069. 連載第9回「なぜ try が tried となり,die が dying となるのか?」」 ([2017-09-21-1])) .

 ・ Görlach, Manfred. The Linguistic History of English. Basingstoke: Macmillan, 1997.

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2021-07-14 Wed

#4461. なぜ <th> は1子音に対応するのに2文字なの? [sobokunagimon][th][consonant][digraph][thorn][grapheme][runic]

 学生から寄せられた,素晴らしい素朴な疑問.なぜ <th> は2文字なのに1つの子音に対応しているのか,なぜ専用の新しい1文字を用意しなかったのか,という問いです.
 英語の <th> という綴字,およびそれに対応する発音 /θ, ð/ は,きわめて高頻度で現われます.英語で最高頻度の語である定冠詞 the をはじめ,they, their, that, then, though など,"th-sound" はなかなか厄介な発音ながらも英語のコアを構成する単語によく現われます.英語学習者にとって,攻略しないわけにはいかない綴字であり発音なわけです.("th-sound" については,th の各記事で取り上げてきたので,そちらをご覧ください.)
 <th> が表わす無声の /θ/ にせよ有声の /ð/ にせよ,発音としてはあくまで1子音に対応しているわけなので,綴字としても1文字が割り当てられて然るべきだという考え方は,確かに頷けます.1つの子音 /t/ に対して1つの子音字 <t> が対応し,1つの子音 /f/ に対して1つの子音字 <f> が対応するのと同じように,1つの "th-sound" である /θ/ あるいは /ð/ に対して,何らかの1つの子音字が対応していても不思議はないはずです.ところが,この場合にはなぜか <th> と2文字を費やしているわけです.綴り手としては,高頻度語に現われるだけに,<th> を2文字ではなく1文字で書ければずいぶん楽なのに,と思うのも無理からぬことです.
 標題の問いがおもしろいのは,英語史上の重要な謎に迫っているからです.実は,古英語・中英語の時代には,ずばり "th-sound" に対応する1つの文字があったのです! 2種類用意されており,1つは "thorn" という名前の文字で <þ> という字形,もう1つは "edh" という名前の文字で <ð> という字形でした.前者は古代のゲルマン諸語が書き記されていたルーン文字 (runic) から流用したものであり,後者はアイルランド草書体 <d> に横棒を付けたものが基になっています.いずれも古英語期には普通に用いられていましたが,中英語期になって <ð> が廃れ,<þ> が優勢となりました.しかし,同じ中英語期にラテン語やフランス語の正書法の影響により,英語の同子音に対して2文字を費やす <th> の綴字も台頭してきました.そして,中英語期の末期には,印刷術の発明と普及に際して <th> が優先的に選ばれたこともあり,1文字の <þ> はついに衰退するに至ったのです.この辺りの経緯については,「#1329. 英語史における eth, thorn, <th> の盛衰」 ([2012-12-16-1]),「#1330. 初期中英語における eth, thorn, <th> の盛衰」 ([2012-12-17-1]) をご参照ください.
 標題の素朴な疑問の根底にある問題意識は「なぜ <th> は2文字なのに1つの子音に対応しているのか,なぜ専用の新しい1文字を用意しなかったのか」ということでした.英語史的にみると,実はひっくり返して問う価値のある重要な問題なのです.つまり「"th-sound" に対して古英語・中英語では1文字の <þ>, <ð> がせっかく用意されていたのに,なぜ近代英語期にかけて2文字からなる <th> にわざわざ置き換えられたのか」という疑問となります.

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2020-09-12 Sat

#4156. なぜ英語には s と微妙に異なる th のような発音しにくい音があるのですか? --- hellog ラジオ版 [hellog-radio][sobokunagimon][hel_education][pronunciation][consonant][voice][th][digraph][phonetics]

 英語には th-sound と呼ばれる変な発音があります.日本語にはない発音なので,私たちはこれを比較的近い /s/ や /z/ と聞き取り,サ行音,ザ行音で音訳する慣習に従っています.「変な発音」というのは日本語母語話者にとってだけでなく,世界の多くの非英語母語話者にとっても同様で,あまり慣れない音であることは事実です.ある意味で,th-sound は世界語としての英語の「玉に瑕」といってもよいかもしれません.では,音声の解説をお聴きください.



 th-sound は世界の言語のなかでも比較的まれな音ということですが,たまたま昔からこの音を持ち続けてきた英語の内部で考えると,とりわけ有声音の /ð/ は,the, this, that, then, there, though, with など,きわめて頻度の高い語に現われるために,実はメジャーな音といってよいのです.是非とも /θ/, /ð/ を /s/, /z/ と区別して習得しておかなければならない所以です.
 今回の素朴な疑問と関連して,##842,1022,1329の記事セットをご覧ください.

Referrer (Inside): [2020-09-16-1]

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2020-07-16 Thu

#4098. 短母音に対応する <ou> について --- country, double, touch [spelling][spelling_pronunciation_gap][digraph][french][loan_word][etymological_respelling]

 <ou> ≡ /ʌ/ の例は,挙げてみななさいと言われてもなかなか挙がらないのだが,調べてみると標題のように案外と日常的な語が出てくる.country, couple, courage, cousin, double, flourish, nourish, touch, trouble 等,けっこうある.
 これらの共通点は,いずれもフランス借用語であることだ.古フランス語から現代フランス語に至るまで,かの言語では <ou> ≡ /uː/ という対応関係が確立していた.英語では中英語期以降にフランス単語が大量に借用されるとともに,この綴字と発音の対応関係も輸入されることになった.中英語の /uː/ は,その後,順当に発展すれば大母音推移 (gvs) により /aʊ/ となるはずであり,実際に現代英語ではたいてい <ou> ≡ /aʊ/ となっている (ex. about, house, noun, round, south) .しかし,中英語の /uː/ が何らかのきっかけで短母音化して /u/ となれば,大母音推移には突入せず,むしろ中舌化 (centralisation) して /ʌ/ となる.その際に綴字が連動して変化しなかった場合に,今回話題となっている <ou> ≡ /ʌ/ の関係が生まれることになった(母音の中舌化については,「#1297. does, done の母音」 ([2012-11-14-1]) と「#1866. putbut の母音」 ([2014-06-06-1]),「#2076. us の発音の歴史」 ([2015-01-02-1]) の記事を参照).
 ただし <ou> ≡ /ʌ/ を示す上記の単語群は,中英語では <o> や <u> で綴られることが多く,現代風の <ou> の綴字は少し遅れてから導入されたようだ (Upward and Davidson 146) .このタイミングの背景は定かではないが,もし意識的なフランス語風綴字への回帰だとすれば,一種の語源的綴字 (etymological_respelling) の例ともなり得る.
 なお,本来語でも <ou> ≡ /ʌ/ の事例として southern がある.固有名詞の Blount も付け加えておこう.変わり種としては,アメリカ英語綴字 mustache に対してイギリス英語綴字の moustache の例がおもしろい.Carney (147--48) も参照.

 ・ Upward, Christopher and George Davidson. The History of English Spelling. Malden, MA: Wiley-Blackwell, 2011.
 ・ Carney, Edward. A Survey of English Spelling. Abingdon: Routledge, 1994.

Referrer (Inside): [2020-11-19-1]

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2020-07-01 Wed

#4083. なぜ q の後には必ず u がくるのですか? --- hellog ラジオ版 [hellog-radio][sobokunagimon][hel_education][alphabet][digraph][q][spelling]

 hellog ラジオ版の第3弾.英語を学んでいる多くの大学生からも質問自体がなるほどと思った,というコメントが寄せられた興味深い素朴な疑問です.私たちは <qu> のスペリングには読むときにも書くときにも頻繁に触れているわけですが,あまりに慣れすぎているために,<q> の後にはほぼ必ず <u> が続くというこの事実に,意識的に気づいたことがあまりなかったのだろうと思います.
 6分間の音声にまとめました.以下からどうぞ.



 今回は /kw/ という子音連鎖を表わすのにどのようなスペリングをもってするかという話題でしたが,/k/ という1つの子音を表わすにも,英語には <q(u)> だけでなく <c> もあれば <k> もあり,意外とややこしいことになっています.この発展的な問題も含め,今回の内容を文章でじっくり読みたいという方は,ぜひ##3649,1599,2249,2367,1824の記事セットをご覧ください.
 今回の疑問のように,当たり前すぎて見過ごしてきた事実は意外に多いものです.このような疑問を発掘するのも,楽しい知的作業です.

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2020-06-30 Tue

#4082. chief, piece, believe などにみられる <ie> ≡ /i:/ [spelling][digraph][orthography][vowel][gvs][french][loan_word][etymological_respelling]

 英語圏の英語教育でよく知られたスペリングのルールがある."i before e except after c" というものだ.長母音 /iː/ に対応するスペリングについては,「#2205. proceed vs recede」 ([2015-05-11-1]) や「#2515. 母音音素と母音文字素の対応表」 ([2016-03-16-1]) でみたように多種類が確認されるが,そのうちの2つに <ie> と <ei> がある.標題の語のように <ie> のものが多いが,receive, deceive, perceive のように <ei> を示す語もあり,学習上混乱を招きやすい.そこで,上記のルールが唱えられるわけである.実用的なルールではある.
 今回は,なぜ標題のような語群で <ie> ≡ /iː/ の対応関係がみられるのか,英語史の観点から追ってみたい.まず,この対応関係を示す語を Carney (331) よりいくつか挙げておこう.リストの後半には固有名詞も含む.

achieve, achievement, belief, believe, besiege, brief, chief, diesel, fief, field, fiend, grief, grieve, hygiene, lief, liege, lien, mien, niece, piece, priest, reprieve, shield, shriek, siege, thief, thieves, wield, yield; Brie,, Fielden, Gielgud, Kiel, Piedmont, Rievaulx, Siegfried, Siemens, Wiesbaden


 リストを語源の観点から眺めてみると,believe, field, fiend, shield などの英語本来語も含まれているとはいえ,フランス語やラテン語からの借用語が目立つ.実際,この事実がヒントになる.
 brief /briːf/ という語を例に取ろう.これはラテン語で「短い」を意味する語 brevis, brevem に由来する.このラテン単語は後の古フランス語にも継承されたが,比較的初期の中英語に影響を及ぼした Anglo-French では bref という語形が用いられた.中英語はこのスペリングで同単語を受け入れた.中英語当時,この <e> で表わされた音は長母音 /eː/ であり,初期近代英語にかけて生じた大母音推移 (gvs) を経て現代英語の /iː/ に連なる.つまり,発音に関しては,中英語以降,予測される道程をたどったことになる.
 しかし,スペリングに関しては,少し込み入った事情があった.古フランス語といっても方言がある.Anglo-French でこそ bref という語形を取っていたが,フランス語の中央方言では brief という語形も取り得た.英語は中英語期にはほぼ Anglo-French 形の bref に従っていたが,16世紀にかけて,フランス語の権威ある中央方言において異形として用いられていた brief という語形に触発されて,スペリングに関して bref から brief へと乗り換えたのである.
 一般に初期近代英語期には権威あるスペリングへの憧憬が生じており,その憧れの対象は主としてラテン語やギリシア語だったのだが,場合によってはこのようにフランス語(中央方言)のスペリングへの傾斜という方向性もあった (Upward and Davidson (105)) .
 こうして,英語において,長母音に対応する <e> が16世紀にかけて <ie> へと綴り直される気運が生じた.この気運の発端こそフランス語からの借用語だったが,やがて英語本来語を含む上記の語群にも一般的に綴りなおしが適用され,現代に至る.
 細かくみれば,上述の経緯にも妙な点はある.Jespersen (77) によれば,フランス語の中央方言では achievechief に対応する語形は <ie> ではなく <e> で綴られており,初期近代英語が憧れのモデルと据えるべき <ie> がそこにはなかったはずだからだ(cf. 現代フランス語 achever, chef).
 それでも,多くの単語がおよそ同じタイミングで <e> から <ie> へ乗り換えたという事実は重要である.正確にいえば語源的綴字 (etymological_respelling) の例とは呼びにくい性質を含むが,その変種ととらえることはできるだろう.

 ・ Carney, Edward. A Survey of English Spelling. Abingdon: Routledge, 1994.
 ・ Upward, Christopher and George Davidson. The History of English Spelling. Malden, MA: Wiley-Blackwell, 2011.
 ・ Jespersen, Otto. A Modern English Grammar on Historical Principles. Part 1. Sounds and Spellings. London: Allen and Unwin, 1909.

Referrer (Inside): [2021-03-30-1]

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2020-05-12 Tue

#4033. 3重字 <tch> の分布と歴史 [spelling][orthography][consonant][phonotactics][digraph][norman_french][digraph][trigraph][romaji]

 中学1年生の英語教科書に,英語綴字の世界に徐々に誘うためにヘボン式ローマ字を経由するという試みがあるようだ.そこで「抹茶」は matcha と綴られるとの記述がある.案の定それ以上の詳しい説明はなく,ヘボン式ローマ字(そして含意として英語の正書法の一部)では,そのように綴られるのだとさらっと提示されているだけである.今回は,この無声後部歯茎破擦音 [ʧ] に対応する <tch> という3重字 (trigraph) が,英語の正書法において,そしてその歴史において,どのように位置づけられてきたかを考えてみたい.
 現代英語の正書法では,[ʧ] の発音に対しては <ch> という2重字 (digraph) の対応が最も普通である (ex. chance, child, choose, crunchy, duchess, luncheon, bench, such, which) .しかし,主に語末において問題の <tch> への対応例も少なくない.例えば,「#49. /k/ の口蓋化で生じたペア」 ([2009-06-16-1]) でみたように古英語の口蓋化 (palatalisation) で生じた語形に由来する batch, ditch, match (相手), watch, wretch などがすぐに挙げられるし,「#95. まだある! Norman French と Central French の二重語」 ([2009-07-31-1]) でみたように catch といった Norman French 由来の借用語や,その他フランス語からの借用語の例として crotch, match (マッチ棒),butcher, hatchet, hutch などもある.
 Upward and Davidson (159) によれば,<tch> の事例の7割ほどは,ゲルマン系の語の語末において起こっているという.語中に現われる例は,上にいくつか示したもののほか,重要な語として古英語から文証される kitchen を挙げておこう.
 また,相対的に目立たないが,上述の通りフランス借用語の例も確かにある.それらの語は,中英語期の借用時にこそ boucher, hachet, huche などと <ch> で綴られたが,後に <tch> をもつ本来語に引きつけられたのか,butcher, hatchet, hutch という綴字へ鞍替えした.鞍替えといえば逆のパターンもあり,初期近代英語では atchieve, batcheler, dutchess, toutch などと綴られていた語が,後に <ch> で綴られるようになっている (Upward and Davidson 159) .
 語の内部での位置についていえば,「#3882. 綴字と発音の「対応規則」とは別に存在する「正書法規則」」 ([2019-12-13-1]) で触れたように,<tch> が語頭に立つことは原則としてない.
 音素配列論の観点からは,<tch> に先行する母音は原則として短母音であるという特徴がある.しかし,aitch (= H) だけは例外で2重母音が先行している.これは,オリジナルの ache の綴字が「痛み」を意味する語と同綴りになってしまうことを嫌った19世紀の刷新とされる (Upward and Davidson 159) .
 改めて中英語にまで話しを戻すと,当時の綴字の多様性はよく知られている通りだが,問題の無声後部歯茎破擦音についても <cc>, <cch>, <chch>, <hch>, <tch> などの異綴りがあった.現代英語の <tch> をもつ語群が,その安定的な綴字を示すようになるのは1600年頃だという (Upward and Davidson 38) .
 最後に世界の諸言語からの借用語にみられる,多少なりともエキゾチックな <tch> を挙げておこう.apparatchik, datcha, etch, ketchup, kvetch, litchi, patchouli, potlatch, sketch. そして興味深い固有名の例も.Aitchison, Batchelor, Bletchley, Cesarewitch, Craitchit, Dutch, Hitchin, Hutchinson, Kitchener, Mitchell, Redditch, Ritchie, Saskatchewan, Thatcher.
 このような複雑な歴史を経てどうにかこうにか定着した英語正書法の <tch> が,ヘボン式ローマ字による matcha (抹茶)の綴字に引き継がれていることになる.

 ・ Upward, Christopher and George Davidson. The History of English Spelling. Malden, MA: Wiley-Blackwell, 2011.

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2020-05-12 Tue

#4033. 3重字 <tch> の分布と歴史 [spelling][orthography][consonant][phonotactics][digraph][norman_french][digraph][trigraph][romaji]

 中学1年生の英語教科書に,英語綴字の世界に徐々に誘うためにヘボン式ローマ字を経由するという試みがあるようだ.そこで「抹茶」は matcha と綴られるとの記述がある.案の定それ以上の詳しい説明はなく,ヘボン式ローマ字(そして含意として英語の正書法の一部)では,そのように綴られるのだとさらっと提示されているだけである.今回は,この無声後部歯茎破擦音 [ʧ] に対応する <tch> という3重字 (trigraph) が,英語の正書法において,そしてその歴史において,どのように位置づけられてきたかを考えてみたい.
 現代英語の正書法では,[ʧ] の発音に対しては <ch> という2重字 (digraph) の対応が最も普通である (ex. chance, child, choose, crunchy, duchess, luncheon, bench, such, which) .しかし,主に語末において問題の <tch> への対応例も少なくない.例えば,「#49. /k/ の口蓋化で生じたペア」 ([2009-06-16-1]) でみたように古英語の口蓋化 (palatalisation) で生じた語形に由来する batch, ditch, match (相手), watch, wretch などがすぐに挙げられるし,「#95. まだある! Norman French と Central French の二重語」 ([2009-07-31-1]) でみたように catch といった Norman French 由来の借用語や,その他フランス語からの借用語の例として crotch, match (マッチ棒),butcher, hatchet, hutch などもある.
 Upward and Davidson (159) によれば,<tch> の事例の7割ほどは,ゲルマン系の語の語末において起こっているという.語中に現われる例は,上にいくつか示したもののほか,重要な語として古英語から文証される kitchen を挙げておこう.
 また,相対的に目立たないが,上述の通りフランス借用語の例も確かにある.それらの語は,中英語期の借用時にこそ boucher, hachet, huche などと <ch> で綴られたが,後に <tch> をもつ本来語に引きつけられたのか,butcher, hatchet, hutch という綴字へ鞍替えした.鞍替えといえば逆のパターンもあり,初期近代英語では atchieve, batcheler, dutchess, toutch などと綴られていた語が,後に <ch> で綴られるようになっている (Upward and Davidson 159) .
 語の内部での位置についていえば,「#3882. 綴字と発音の「対応規則」とは別に存在する「正書法規則」」 ([2019-12-13-1]) で触れたように,<tch> が語頭に立つことは原則としてない.
 音素配列論の観点からは,<tch> に先行する母音は原則として短母音であるという特徴がある.しかし,aitch (= H) だけは例外で2重母音が先行している.これは,オリジナルの ache の綴字が「痛み」を意味する語と同綴りになってしまうことを嫌った19世紀の刷新とされる (Upward and Davidson 159) .
 改めて中英語にまで話しを戻すと,当時の綴字の多様性はよく知られている通りだが,問題の無声後部歯茎破擦音についても <cc>, <cch>, <chch>, <hch>, <tch> などの異綴りがあった.現代英語の <tch> をもつ語群が,その安定的な綴字を示すようになるのは1600年頃だという (Upward and Davidson 38) .
 最後に世界の諸言語からの借用語にみられる,多少なりともエキゾチックな <tch> を挙げておこう.apparatchik, datcha, etch, ketchup, kvetch, litchi, patchouli, potlatch, sketch. そして興味深い固有名の例も.Aitchison, Batchelor, Bletchley, Cesarewitch, Craitchit, Dutch, Hitchin, Hutchinson, Kitchener, Mitchell, Redditch, Ritchie, Saskatchewan, Thatcher.
 このような複雑な歴史を経てどうにかこうにか定着した英語正書法の <tch> が,ヘボン式ローマ字による matcha (抹茶)の綴字に引き継がれていることになる.

 ・ Upward, Christopher and George Davidson. The History of English Spelling. Malden, MA: Wiley-Blackwell, 2011.

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2020-04-07 Tue

#3998. なぜ applea は普通の「ア」ではなく「エァ」に近い発音なのですか? [pronunciation][sound_change][vowel][digraph][a]

 apple, cat, man に含まれる母音は,日本語母語話者にとっては難しい音です.日本語の「ア」でもなければ「エ」でもなく,その中間音ということなので中途半端に聞こえます.カタカナでは「エァ」と2文字で書くのが近いと思われますが,発音としてはあくまで単母音であるので注意が必要です.この音は,国際音標文字 (ipa) ではまさに a と e を組み合わせた [æ] と表記されます.
 [æ] について,音声学的には様々に解説できますし,それに基づいた学習法や指導法もあるとは思います(音声学でいう母音四辺形については「#19. 母音四辺形」 ([2009-05-17-1]) を参照).しかし,ここでは英語史の観点からこの母音について考察したいと思います.標題の質問に真っ向から答えるのは難しいのですが,せめて歴史的な背景だけでも知っておくとモヤモヤは晴れるかもしれません.
 ざっと2000年ほど前の(西)ゲルマン祖語の時代にさかのぼりましょう.今回問題となっている母音の当時の発音は,日本語張りのシンプルな「ア」= [a] でした.ところが,紀元700--1100年の古英語の時代までに,発音に際しての舌構えが少し前寄り・上寄り(つまり「エ」寄り)となり,問題の [æ] となりました.文字として <a> とは別に <æ> が作り出されたのも同時期です(例えば古英語の「りんご」は æppel などと綴られました).古英語のこの文字は "ash" と呼ばれますが,ずっと後の19世紀後半に国際音標文字が策定されたときに,この母音を表わす記号として採用されることになりました.つまり,古英語の <æ> が先にあり,発音記号の [æ] は後にそれを拝借したものにすぎません(その逆ではないので注意).
 さて,古英語の [æ] は,中英語期になると少し後ろ寄り・下寄りの [a] へ回帰する傾向を示しました.正確にいえば,古英語から続く [æ] も完全に失われたわけではないので,[a] が [æ] よりも優勢となったと表現しておきましょう.[a] が優勢となったためか,この時代には文字 <æ> も用いられなくなり,英語のアルファベットから永遠に消えていきました(そして19世紀に発音記号として「復活」したことは上記の通りです).
 続く初期近代英語期には,再び [æ] が勢いを取り戻し,[a] は劣勢となります.そして,[æ] は現代にかけてその勢いを増し続け,ついに [a] は概ね追い払われてしまいました.
 つまり,この2000年ほどの間,今注目している件の母音は,[a] → [æ] → [a] ? [æ] → [æ] ? [a] → [æ] のように行ったり来たりを繰り返してきたのです(「?」は揺れを表わします).現在は [æ] の時代ということになりますが,標準発音でそうだというだけで,方言や話者個人によっては [a] もありますし揺れも頻繁でしょう.このような状況は,昔もおよそ同じだったはずです.
 なぜこのように振り子が振れ続けてきたのかはよく分かりません.ただ1つ言えることは,英語の歴史を通じて,この音は微妙な発音の違いを示しながらも同一性を保ち続けてきたということです(専門的には「同一音素であり続けてきた」と表現します).今後,再び振り子が振れて,英語史上何度目かのシンプルな [a] = 「ア」へ回帰する時代がやってくるかもしれませんね.そうなれば日本語母語話者にとっては楽でしょう.
 以上,Minkova (199--200) を参考にして執筆しました.

 ・ Minkova, Donka. A Historical Phonology of English. Edinburgh: Edinburgh UP, 2014.

Referrer (Inside): [2022-03-11-1] [2020-06-13-1]

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2020-03-04 Wed

#3964. 古英語の "digraph controversy" (2) [digraph][oe][spelling][phonetics][phonology][vowel][diphthong][typography][reconstruction][minimal_pair]

 [2020-02-24-1] の記事で取り上げた論争について続編をお届けする.
 古英語で <ea>, <eo>, <ie> と綴られる3種の2重字 (digraph) は,それぞれ歴史的には短い音素と長い音素のいずれをも表わしているとされる.つまり,古英語では同じ2重字で綴られていながらも,音韻的には「短い2重母音」と「長い2重母音」(現代の文献ではしばしば第1母音字に長音記号 (macron) を付して表記される)が区別されていたということだ.素直に解釈すれば,<ea> ≡ [ɛɑ], <ēa> ≡ [ɛːɑ], <eo> ≡ [eo], <ēo> ≡ [eːo], <ie> ≡ [ie], <īe> ≡ [iːe] のような対応関係と解してよさそうだが,これが論争の的になっているのだ.それもただの論争ではない.古英語文献学において最も複雑かつ辛辣な論争である.
 実のところ,これら長短の2重母音のいずれも古英語の終わりには滑化し,2重母音ではなくなってしまう.その点では後の英語音韻史にほとんど影響を与えていないわけであり,一見するとなぜそれほど大きな論争になるのか分かりにくいだろう.しかし,これは古英語の音韻体系に関する問題にとどまらず,類型論的な意義をもつ問題であり,だからこそ論争がヒートアップしているのだ.以下,Minkova (178--79) に従って,2重母音に長短の区別があったとする説に反対する論拠を挙げてみよう.
 まず,先の記事にも述べたように,類型論的にいって2重母音に長短の区別がある言語はまれである.そのようなまれな母音体系を,古英語のために再建してもよいのかという問題がある.そのような母音体系があり得ないとまではいえないものの,非常にまれだとすれば,そもそも仮説的な再建の候補として挙げてよいものだろうか.これは,なかなか反駁しにくい反対論の論拠である.
 もう1つの議論は,上の3種の2重母音とは別の2重母音 [ej] は,特に長短の区別を示していないということに依拠する.語源的にはこの2重母音は長短の区別を示していたが,古英語では語源的には長いはずの hēȝ (hay) と短いはずの weȝ (way) が特に対立をなしていない.とすれば,問題の3種の2重母音についても長短の区別はなかったという可能性が高いのではないか.
 3つめに,後の音韻史を参照してみると,「短い2重母音」はやがて短母音と融合していくことになる.つまり,「短い2重母音」は2重字で綴られているので勘違いされやすいが,実はもともと1モーラの母音だったのではないか.そこから対比的に考えると,「長い2重母音」は実は2モーラの普通の2重母音にすぎないのではないか.
 最後に,そもそも2重母音の長短の区別を実証する最小対 (minimal_pair) が限られていることだ.限られている例を観察すると,音素として異なるとする解釈によらずとも,別の解釈により説明し得る.
 今回は一方の側の論拠を紹介したにすぎないが,両陣営が各々の論拠を立てて激しい論争を繰り広げている.たかが2重母音,されど2重母音.恐るべし.

 ・ Minkova, Donka. A Historical Phonology of English. Edinburgh: Edinburgh UP, 2014.

Referrer (Inside): [2021-06-21-1]

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2020-02-24 Mon

#3955. 古英語の "digraph controversy" [digraph][oe][spelling][phonetics][phonology][vowel][diphthong][typography][reconstruction]

 古英語研究の重要な論争に "digraph controversy" というものがある.2つの母音字を重ねた <ea>, <eo>, <ie> などの2重字 (digraph) がいかなる母音を表わすのかという問題である.母音の質と量を巡って様々な見解が提出されてきた.
 古英語の写本では <ea>, <eo>, <ie> などと綴られているのみだが,現代の校訂版ではしばしば <ea>, <eo>, <ie> とは別に,第1母音字に長音記号 (macron) を付した <ēa>, <ēo>, <īe> という表記もみられる.これは <ea> と綴られる音には,歴史的には「短い」ものと「長い」ものがあったことが知られているからである.しかし,長音記号のないバージョンとあるバージョンとで,実際に古英語期において母音の質と量がどのように違っていたのかを突き止めることは難しい.そこで様々な推測がなされることになる.
 最もストレートなのは,綴字そのままに「短い2重母音」と「長い2重母音」を想定する案である.<ea> ≡ [ɛɑ], <ēa> ≡ [ɛːɑ], <eo> ≡ [eo], <ēo> ≡ [eːo], <ie> ≡ [ie], <īe> ≡ [iːe] などと再建する(「#2497. 古英語から中英語にかけての母音変化」 ([2016-02-27-1]) の母音一覧表を参照).しかし,類型論的にみて,少なくともゲルマン語派には2重母音 (diphthong) で短いものと長いものが区別されるケースはないことから,疑問が呈されている.
 それに対して,長音記号のないバージョンは単母音 (monophthong) であり,あるバージョンは2重母音 (diphthong) であるという解釈がある.この説については Minkova (178--79) がいくつかの論拠を挙げているが,ここでは詳細には踏み込まない.この説に従って再建された音価を以下に示そう (Minkova 156) .

ValueExample
DigraphEarlyLate
<ēa>æʊæəstrēam 'stream'
<ea>æəæheall 'hall'
<ēo>sēon 'to see'
<eo>ɛəɛġeolu 'yellow'
<īe>iə, iː(ġe)līefan 'to believe'
<ie>ɪəɪġiefan 'to give'


 古英語を音読する際に,2重字に対してどのような発音を採用するか.フィロロジーの第一級の問題である.

 ・ Minkova, Donka. A Historical Phonology of English. Edinburgh: Edinburgh UP, 2014.

Referrer (Inside): [2021-06-21-1] [2020-03-04-1]

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2020-02-23 Sun

#3954. 母音の長短を書き分けようとした中英語の新機軸 [me][vowel][spelling][ormulum][final_e][meosl][digraph]

 英語は全般的に母音の長短を表記し分けるのが苦手である.この問題とその背景については,以下の記事などで論じてきた.

 ・ 「#1826. ローマ字は母音の長短を直接示すことができない」 ([2014-04-27-1])
 ・ 「#2092. アルファベットは母音を直接表わすのが苦手」 ([2015-01-18-1])
 ・ 「#2887. 連載第3回「なぜ英語は母音を表記するのが苦手なのか?」」 ([2017-03-23-1])
 ・ 「#2092. アルファベットは母音を直接表わすのが苦手」 ([2015-01-18-1])
 ・ 「#2075. 母音字と母音の長短」 ([2015-01-01-1])

 しかし,母音の長短を書き分けようという動きが全くなかったわけではない.あくまで書き分けが苦手だったというだけで,書き分けの方法は模索されてきた.確かに古英語ではそのような試みはほぼなされなかったが,中英語になるといくつかの新機軸が導入され,なかには現代まで受け継がれたものもある.Minkova (189--90) より,そのような新機軸を5点挙げよう.

 (1) 後続の子音字を重ねて短母音を表わす
   Ormulum で採用された方法.follc (folk), þiss (this), þennkenn (think) などとする.一方,長母音を示すには,一貫していたわけではないが, (for), tīme (time) のようにアクセント記号を付す方法も採られることがあった.もっとも,この新機軸は Ormulum 以外ではみられず,あくまで孤立した単発の試みである(cf. 「#2712. 初期中英語の個性的な綴り手たち」 ([2016-09-29-1])).

 (2) 母音字を重ねて長母音を表わす
   aa (aye), see (sea), stoone (stone(s)), ook (oak) など.分かりやすい方法として部分的には現代まで続いている.関連して「#3037. <ee>, <oo> はあるのに <aa>, <ii>, <uu> はないのはなぜか?」 ([2017-08-20-1]) を参照.

 (3) 子音字の後に <e> を加えて,その前の母音が長いことを表わす
   いわゆる "magic <e>" と称される長母音表記.wife, stone, hole など.中英語開音節長化 (Middle English Open Syllable Lengthening; meosl) と密接に関連する表記上の新機軸である.本格的に規則化するのは16世紀のことだが,その原型は中英語期に成立していることに注意(cf. 「#2377. 先行する長母音を表わす <e> の先駆け (1)」 ([2015-10-30-1]),「#2378. 先行する長母音を表わす <e> の先駆け (2)」 ([2015-10-31-1])).

 (4) 異なる母音字を2つ組み合わせた2重字 (digraph) で長母音を表わす
   <ie> ≡ [eː], <eo> ≡ [eː] など.このような2重字は古英語にもあったが,母音の長短を表わすために使われていたわけではなかった.中英語では2重字が長母音を表わすのに用いられた点で,新機軸といえる.現代英語の beat, boat, bound などを参照.

 (5) 母音字に <i/y> を添えて長母音を表わす
   イングランド北部方言やスコットランド方言に分布が偏るが,baith/bayth (both), laith/layth (poath), stain/stayn (stone), keip (keep), heid (head), weill (well), bluid (blood), buik (book), guid (good), puir (poor) などとして長母音を表わした.

 ・ Minkova, Donka. A Historical Phonology of English. Edinburgh: Edinburgh UP, 2014.

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2020-02-14 Fri

#3945. "<h> second" の2重字の起源と発達 [digraph][spelling][orthography][latin][greek][consonant][h][exaptation][gh]

 英語の正書法には <ch>, <gh>, <ph>, <sh>, <th>, <wh> など,2文字で1つの音を表わす2重字 (digraph) が少なからず存在する.1文字と1音がきれいに対応するのがアルファベットの理想だとすれば,2重字が存在することは理想からの逸脱にほかならない.しかし現実には古英語の昔から現在に至るまで,多種類の2重字が用いられてきたし,それ自体が歴史の栄枯盛衰にさらされてきた.
 今回は,上に挙げた2文字目に <h> をもつ2重字を取り上げよう."verb second" の語順問題ならぬ "<h> second" の2重字問題である.これらの "<h> second" の2重字は,原則として単子音に対応する.<ch> ≡ /ʧ/, <ph> ≡ /f/, <sh> ≡ /ʃ/, <th> ≡ /θ, ð/, <wh> ≡ /w, ʍ/ などである.ただし,<gh> については,ときに /f/ などに対応するが,無音に対応することが圧倒的に多いことを付け加えておく(「#2590. <gh> を含む単語についての統計」 ([2016-05-30-1]),「#1195. <gh> = /f/ の対応」 ([2012-08-04-1])).
 現代英語にみられる "<h> second" の2重字が英語で使われ始めたのは,およそ中英語期から初期近代英語期のことである.それ以前の古英語や初期中英語では,<ch>, <gh>, <ph>, <th> に相当する子音は各々 <c>, <ȝ>, <f>, <þ, ð> の1文字で綴られていたし,<sh>, <wh> に相当する子音は各々 <sc>, <hw> という別の2重字で綴られるのが普通だった.
 <ch> と <th> については,ラテン語の正書法で採用されていたことから中英語の写字生も見慣れていたことだろう.彼らはこれを母語に取り込んだのである.また,<ph> についてはギリシア語(あるいはそれを先に借用していたラテン語)からの借用である.
 英語は,ラテン語やギリシア語から借用された上記のような2重字に触発される形で,さらにフランス語でも平行的な2重字の使用がみられたことも相俟って,2文字目に <h> をもつ新たな2重字を自ら発案するに至った.<gh>, <sh>, <wh> などである.
 このように,英語の "<h> second" の2重字は,ラテン語にあった2重字から直接・間接に影響を受けて成立したものである.だが,なぜそもそもラテン語では2文字目に <h> を用いる2重字が発展したのだろうか.それは,<h> の文字に対応すると想定される /h/ という子音が,後期ラテン語やロマンス諸語の時代に向けて消失していくことからも分かる通り,比較的不安定な音素だったからだろう.それと連動して <h> の文字も他の文字に比べて存在感が薄かったのだと思われる.<h> という文字は,宙ぶらりんに浮遊しているところを捕らえられ,語の区別や同定といった別の機能をあてがわれたと考えられる.一種の外適応 (exaptation) だ.
 実は,英語でも音素としての /h/ 存在は必ずしも安定的ではなく,ある意味ではラテン語と似たり寄ったりの状況だった.そのように考えれば,英語でも,中途半端な存在である <h> を2重字の構成要素として利用できる環境が整っていたと理解できる.(cf. 「#214. 不安定な子音 /h/」 ([2009-11-27-1]),「#459. 不安定な子音 /h/ (2)」 ([2010-07-30-1]),「#1677. 語頭の <h> の歴史についての諸説」 ([2013-11-29-1]),「#1292. 中英語から近代英語にかけての h の位置づけ」 ([2012-11-09-1]),「#1675. 中英語から近代英語にかけての h の位置づけ (2)」 ([2013-11-27-1]),「#1899. 中英語から近代英語にかけての h の位置づけ (3)」 ([2014-07-09-1])).
 以上,主として Minkova (111) を参照した.今回の話題と関連して,以下の記事も参照.

 ・ 「#2423. digraph の問題 (1)」 ([2015-12-15-1])
 ・ 「#2424. digraph の問題 (2)」 ([2015-12-16-1])
 ・ 「#3251. <chi> は「チ」か「シ」か「キ」か「ヒ」か?」 ([2018-03-22-1])
 ・ 「#3337. Mulcaster の語彙リスト "generall table" における語源的綴字 (2)」 ([2018-06-16-1])
 ・ 「#2049. <sh> とその異綴字の歴史」 ([2014-12-06-1])
 ・ 「#1795. 方言に生き残る wh の発音」 ([2014-03-27-1])

 ・ Minkova, Donka. A Historical Phonology of English. Edinburgh: Edinburgh UP, 2014.

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2019-12-10 Tue

#3879. アルファベット文字体系の「1対1の原理」 [spelling][spelling_pronunciation_gap][orthography][alphabet][writing][grammatology][digraph][silent_letter]

 Cook (12--13) によれば,アルファベット文字体系(あるいは音素文字体系)には2つの原理がある.「1対1の原理」 (one-to-one principle) と「線状性の原理」 (linearity principle) である.昨日の記事「#3878. 正書法の深さ --- 英語と日本語の比較」 ([2019-12-09-1]) で取り上げた正書法の深さとは,およそ当該の正書法がこの2つの原理からいかに逸脱しているかの指標と理解して差し支えない.原理とはいっても理想的なアルファベット文字体系が備えているべき条件というほどのものではあるが,今回は1つ目の「1対1の原理」について考えてみよう.
 「1対1の原理」とは「特定の文字と特定の音素が1対1の関係で結びついていなければならない」という原理のことである.正書法的同型性 (orthographic isomorphism) と言い換えてもいいだろう.英語の正書法は,この原理からしばしば逸脱していることで知られる.逸脱のタイプについては「#1024. 現代英語の綴字の不規則性あれこれ」 ([2012-02-15-1]) の「不規則性の種類」にていくつか挙げたが,主要な3種を示せば次の通りとなる.

 (1) 特定の文字(列)に対して複数種類の音素(列)が対応してしまっている例,あるいは逆に,特定の音素(列)に対して複数種類の文字(列)が対応してしまっている例.たとえば,cat /kæt/, gate /geɪt/, about /əˈbaʊt/, father /ˈfɑːðə/, also /ˈɔːlsəʊ/ では,いずれも第1音節の母音を表記するのに <a> の文字が用いられているが,この <a> が表している母音音素はそれぞれ異なっている.1文字に対して5音素が対応してしまっているのだ.
 一方,/eɪ/ という2重母音音素に対応する文字(列)を考えると,以下の単語群では異なる文字(列)が用いられている:mate, eh, great, play, weight, Beowulf, halfpenny, pain, veil, obey, gauge, gaol, champagne, champaign, quoit, bouquet, café, Baedeker, Baal.1つの母音音素に対して,多くの文字(列)が対応してしまっている.これは明らかに「1対1の原理」に反している.(関連して拙論「なぜ英語は母音を表記するのが苦手なのか?」を参照.)

 (2) (1) の特殊なケースと考えることもできるが,2文字がペアになって1つの音素に対応する例や,2音素がペアになって1つの文字に対応する例がある.前者は,<sh> で /ʃ/ を表わし,<ng> で /ŋ/ を表わすなどの2重字 (digraph) の問題に関わる.2重字それ自体を1つの単位ととらえる限りにおいては,原理からの逸脱とはみなせないかもしれないが,厳密にいうならば逸脱の一種といえよう.後者は,/ks/, /juː/ などの2音素のつながりが <x>, <u> のような1文字で表わされる例を指す.

 (3) 文字(列)が無音に対応する,いわゆる黙字 (silent_letter) の例.いわば「1対0」の関係になってしまう点で,原理からの逸脱といえる.sign の <g>,limb の <b>,thought の <gh> など枚挙にいとまがない.黙字の他の例については「#1290. 黙字と黙字をもたらした音韻消失等の一覧」 ([2012-11-07-1]),「#2518. 子音字の黙字」 ([2016-03-19-1]),「#3857. 『英語教育』の連載第9回「なぜ英語のスペリングには黙字が多いのか」」 ([2019-11-18-1]) などを参照されたい.

 ・ Cook, Vivian. The English Writing System. London: Hodder Education, 2004.

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