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invisible_hand - hellog〜英語史ブログ

最終更新時間: 2024-10-04 14:24

2018-06-23 Sat

#3344. 「言語で庭園で,話者は庭師」 [functionalism][language_change][systemic_regulation][teleology][invisible_hand][causation]

 Aitchison (175--76) が,言語に内在する自己統制機能 (systemic_regulation) を取り上げつつ,言語を庭園に,話者を庭師に喩えている.その上で,この比喩の解釈の仕方には3種類が区別されると述べ,それらを解説している.

[L]anguage has a remarkable instinct for self-preservation. It contains inbuilt self-regulating devices which restore broken patterns and prevent disintegration. More accurately, of course, it is the speakers of the language who perform these adjustments in response to some innate need to structure the information they have to remember.
   In a sense, language can be regarded as a garden, and its speakers as gardeners who keep the garden in a good state. How do they do this? There are at least three possible versions of this garden metaphor---a strong version, a medium version, and a weak version.
   In the strong version, the gardeners tackle problems before they arise. They are so knowledgeable about potential problems that they are able to forestall them. They might, for example, put weedkiller on the grass before any weeds spring up and spoil the beauty of the lawn. In other words, they practice prophylaxis.
   In the medium version, the gardeners nip problems in the bud, as it were. They wait until they occur, but then deal with them before they get out of hand like the Little Prince in Saint-Exupéry's fairy story, who goes round his small planet every morning rooting out baobab trees when they are still seedlings, before they can do any real damage.
   In the weak version of the garden metaphor, the gardener acts only when disaster has struck, when the garden is in danger of becoming a jungle, like the lazy man, mentioned by the Little Prince, who failed to root out three baobabs when they were still a manageable size, and faced a disaster on his planet.


 続く文脈で Aitchison は,強いヴァージョンの比喩に相当する証拠は見つかっていないことを説き,実際に取り得る解釈は,中間のヴァージョンと弱いヴァージョンの2つだろうと述べている.つまり,庭師は,庭園の秩序を崩壊させる要因の予防にまでは関わらないが,悪弊の芽が小さいうちに摘んでおくということはするし,あるいは秩序が崩壊寸前まで追い込まれた場合に大治療を施すということもする.話者(そして言語)は,予防医学ではなく対症療法を専門とする医師である,と喩えてもよいかもしれない.
 言語変化の「予防」と「治療」という観点については,「#837. 言語変化における therapy or pathogeny」 ([2011-08-12-1]),「#835. 機能主義的な言語変化観への批判」 ([2011-08-10-1]),「#546. 言語変化は個人の希望通りに進まない」 ([2010-10-25-1]),「#1979. 言語変化の目的論について再考」 ([2014-09-27-1]),「#2533. 言語変化の "spaghetti junction" (2)」 ([2016-04-03-1]),「#2539. 「見えざる手」による言語変化の説明」 ([2016-04-09-1]) も参照.

 ・ Aitchison, Jean. Language Change: Progress or Decay. 4th ed. Cambridge: CUP, 2013.

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2018-06-06 Wed

#3327. 言語変化において話者は近視眼的である [language_change][teleology][invisible_hand][glottochronology][drift][indo-european][inflection]

 「#3324. 言語変化は霧のなかを這うようにして進んでいく」 ([2018-06-03-1]) で,言語変化において話者が近視眼的であることに触れた.言語変化をなしている話者当人の言語的視野は狭く,あくまで目先の効果しか見えていない.広範な影響や体系的な衝撃などには及びもつかない.つまり,言語を変化させるという話者の行動は,ほぼ完全に非目的論的であるということだ.
 Joseph (128) はこの話者の近視眼性を繰り返し主張しつつ,逆に遠視眼的な言語変化論を批判している.例えば,長期間の複数世代にわたる言語変化を説明すべく提案されてきた言語年代学 (cf. 「#1128. glottochronology」 ([2012-05-29-1])) のような方法論は,受け入れられないとする.というのは,言語年代学では,実際の話者が決して取ることのない汎時的な観点を前提としているからである.例えば,2018年の時点に生きているある英語話者が,向こう千年の間に,どれだけの英単語を別の単語で置き換えなければ言語年代学の規定する置換率に達しないかなどということは,考えてもみないはずだからである.言語年代学の置換率は経験的に導き出された値ではあるが,それをゴールに据えた時点で,目的論的な言語変化論へと化してしまう.
 英語を含め印欧諸語に数千年にわたって生じているとされる屈折の水平化という駆流 (drift) についても同様である.何世代にもわたり,一定方向に言語が変化しているようにみえるからといって,個々の話者が遠視眼的な観点から言語を変化させていると考えるのは間違いである.そうではなく,個々の話者は近視眼的な観点から言語行動をなしているにすぎず,それがあくまで集合的に作用した結果として,言語変化が一定方向へと押し進められると理解すべきだろう.
 これは,Keller の唱える,言語変化に作用する「見えざる手」 (invisible_hand) の理論にほかならない.「#2539. 「見えざる手」による言語変化の説明」 ([2016-04-09-1]) も要参照.

 ・ Joseph, B. D. "Diachronic Explanation: Putting Speakers Back into the Picture." Explanation in Historical Linguistics. Ed. G. W. Davis and G. K. Iverson. Amsterdam: Benjamins, 1992. 123--44.
 ・ Keller, Rudi. "Invisible-Hand Theory and Language Evolution." Lingua 77 (1989): 113--27.

Referrer (Inside): [2018-06-07-1]

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2018-06-03 Sun

#3324. 言語変化は霧のなかを這うようにして進んでいく [language_change][syntax][teleology][invisible_hand][lexical_diffusion]

 言語変化,とりわけ統語変化の進行の仕方について,言語学を分かりやすく紹介してくれることで定評のある Aitchison (100) が次のように要約している.

Syntactic change typically creeps into a language via optional stylistic variants. Particular lexical items provide a toehold. The change tends to become widely used via ambiguous structures. One or some of these get increasingly preferred, and in the long run the dispreferred options fade away through disuse. Mostly, speakers are unaware that such changes are taking place. Overall, all changes, whether phonetic/phonological, morphological, or syntactic, take place gradually, and also spread gradually. There is always fluctuation between the old and the new. Then the changes tend to move onward and outward, becoming the norm among one group of speakers before moving on to the next.


 言語変化は,非常にゆっくりと進行するために,それが生じている世代の話者にとってすら案外気づかないものである.新旧両形が共存する期間には,「#3318. 言語変化の最中にある新旧変異形を巡って」 ([2018-05-28-1]) で述べたように,両者のあいだに何らかの含蓄的意味や使用域の違いが意識されることもあるが,さほど意識されずに,事実上ただの「揺れ」 (fluctuation) として現われることも多い.言語変化は語彙を縫って進むかのように体系内で伝播していく一方で,言語共同体の内部でもある話者から別の話者へと伝播していく (lexical_diffusion) .言語変化は creep (這う)ように進むという比喩は,言い得て妙である.
 また,別の箇所で Aitchison (107) は,Joseph (140) を引用しながら,言語変化のローカル性,あるいは近視眼性に言及している.

[S]peakers in the process of using --- and thus of changing --- their language often act as if they were in a fog, by which is meant not that they are befuddled but that they see clearly only immediately around them, so to speak, and only in a clouded manner farther afield. They thus generalize only 'locally' . . . and not globally over vast expanses of data, and they exercise their linguistic insights only through a small 'window of opportunity' over a necessarily small range of data.


 個々の話者は,大きな流れのなかにある言語変化の目的や結果は見えておらず,近視眼的に行動しているだけである.言語変化の「見えざる手」 (invisible_hand) の理論や目的論 (teleology) の話題にも直結する見解である.
 標記のように,「言語変化は霧のなかを這うようにして進んでいく」ものなのだろう.

 ・ Aitchison, Jean. Language Change: Progress or Decay. 4th ed. Cambridge: CUP, 2013.
 ・ Joseph, B. D. "Diachronic Explanation: Putting Speakers Back into the Picture." Explanation in Historical Linguistics. Ed. G. W. Davis and G. K. Iverson. Amsterdam: Benjamins, 1992. 123--44.

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2018-01-20 Sat

#3190. 言語変化の偶然と必然,そして運命 [language_change][causation][teleology][spaghetti_junction][invisible_hand][drift]

 「#2867. 言語変化の偶然と必然」 ([2017-03-03-1]) で論じた話題だが,九鬼周造の『偶然性の問題』を読んで,改めてこの問題について考えてみた.
 偶然と必然は明らかに対立する概念である.しかし,私たちはときに「偶然の必然」や「必然的偶然」などのオクシモロンを口にする.なぜこのような矛盾した表現が可能なのだろうか.
 九鬼 (74) によれば,因果的必然性と目的的偶然性は結びつきやすく,因果的偶然性と目的的必然性は結びつきやすい.つまり「異種結合」が起こりやすいという.

およそ機械観はその徹底した形においては因果的必然性のみより認めない.従って因果的偶然性の存在の余地はない.しかし,目的的必然性を否定し,その結果として,目的的偶然性を承認する.自然科学的世界観はこの傾向を代表している.それに反して,目的観が徹底的な形を取った場合には,目的的必然性によってのみ一切を説明しようとする.従って目的的偶然性は存在しない.その代りに,因果的必然性の否定の結果として,因果的偶然性は存在することができる.基督教神学が神の意志によってすべてを説明する場合,因果的偶然を意味する奇蹟の存在を認めるのはこの関係に基いている.この意味において,因果的必然性は目的的偶然性と結合しやすく,目的的必然性は因果的偶然性と結合しやすい.「偶然の必然」というような逆説的の語はこういう結合の可能性に基づいたものである.


 つまり,ある現象が「必然でもあり偶然でもある」という言い方の1つの解釈は,それが因果的には必然だが目的的には偶然であるということだろう.この異種結合の解釈は,目的論 (teleology) ではなく機械論 (mechanism) の立場の解釈である.したがって,機械論的に理解すれば,言語変化もまた「必然でもあり偶然でもある」現象なのである.
 この異種結合と関連して,九鬼 (244) が別の箇所で「偶然と運命」について論考している(以下,原著の傍点は下線で置き換えた).

偶然に対する形而上的驚異は運命に対する驚異の形を取ることがある.偶然が人間の実存性にとって核心的全人格的意味を有つとき,偶然は運命と呼ばれるのである.そうして運命としての偶然性は,必然性との異種結合によって,「必然―偶然者」の構造を示し,超越的威力をもって厳として人間の全存在性に臨むのである.


 この考え方によれば,運命とは,ある人にとって「核心的全人格的意味」をもつ,因果的には必然だが目的的には偶然である現象と理解できるだろう.平たくいえば,人にとってきわめて重要な結果がもたらされた場合,本当は目的論的に偶然であったとしても,あたかも目的論的に必然であるかのようにとらえてしまう傾向があり,それを運命と呼びたがるということだ.
 言語変化において,ときに運命と表現されることもある drift (偏流)について,この観点から考えてみるとおもしろい.印欧語族では数千年の間,屈折の衰退という drift が続いているとされるが,その駆動力の源泉が何であるかについては明確な出されていない.したがって,これをある種の運命であるととらえる論者がいる.そのような論者は,drift を印欧語族にとって「核心的全人格的意味」をもつものと信じており,それゆえに目的論的に必然の現象であるかのように感じて,運命と呼んでいるのではないか.つまり,drift という現象に多大な価値をおいているからこそ,ひょっとすると偶然の出来事にすぎないものを,運命という大仰な名前で,驚異をもって呼びたくなるのではないか.
 言語変化の偶然,必然,運命の問題については,invisible_handspaghetti_junction の考え方も参照されたい.

 ・ 九鬼 周造 『偶然性の問題』 岩波書店,2012年.

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2018-01-01 Mon

#3171. 1/f 繧?繧峨℃ [language_change][variation][chaos_theory][invisible_hand][complex_system][lexical_diffusion][speed_of_change][1/f][dynamic_equilibrium]

 2018年となりました.本年も hellog を続けていきます.よろしくお願い致します.
 新年最初の話題は「ゆらぎ」について.自然界に存在するゆらぎには規則的といえるものもあれば,まったく予想不可能なものもあるが,多くの現象においては,完全とはいえずとももある程度予測できるゆらぎが確認される.なかでも「1/f ゆらぎ」として知られているものは,身の回りにも数多く確認され,とりわけ人間が快を感じるもののなかにしばしば含まれていると言われる.そよ風,小川のせせらぎ,木漏れ日,木目や年輪,虫の羽音,岩塩の旨み,電車の揺れ,古い町並み,日本庭園,畳の目,手拍子,太鼓のリズム,噺家の声,バッハやモーツァルトの楽曲などにみられるほか,宇宙線強度,細胞構造,心拍周期にも認められるという.「1/f ゆらぎ」という呼称は,対象のゆらぎの周波数 (frequency) を成分分析し,各成分の強さを数学的操作を加えてグラフ化すると,右下がりの相関直線が得られることによる.1/f2 や 1/f-1 でもなく 1/f であるところが,どうやら人間にとっての快のポイントらしい(武者,pp. 24--39).
 1/f ゆらぎが人間の生活に密接なところに多いというのは,言語(体系)にもみられる可能性があることを示唆する.ここで言語にとってゆらぎとは何かが問題になる.形式的な variation を想定することもできそうだし,言語変化 (language_change) の頻度 (frequency) や速度 (speed_of_language_change) などにも見られるかもしれない.例えば,1/f ゆらぎが語彙拡散 (lexical_diffusion) と関わっていたらおもしろそうだ.
 1/f ゆらぎは,複雑系 (complex_system) やカオス理論 (chaos_theory) とも深く関係する.言語体系が複雑系であり,言語変化がカオス理論の適用の対象となりうることは,「#3112. カオス理論と言語変化 (2)」 ([2017-11-03-1]),「#3122. 言語体系は「カオスの辺縁」にある」 ([2017-11-13-1]),「#3142. ホメオカオス (1)」 ([2017-12-03-1]),「#3143. ホメオカオス (2)」 ([2017-12-04-1]) などで触れてきた.そうだとすれば,1/f ゆらぎもまた言語に関与している可能性が高い.いずれの考え方にも共通しているのは,常に動いていて不安定なシステムこそ,周囲の予期できない変動に適応しやすいという点だ.不安定から安定が,混沌から秩序が生まれるようなシステムである.逆説的な言い方だが,そこには「動的な安定感」があるといってよい.あるいは最近の科学のキーワードでいえば「動的平衡」 (dynamic_equilibrium) である.「遊び」にも通じるものがある.
 この点と関連して,武者 (127--28) は 1/f ゆらぎを示す,目の焦点についての興味深い事例を紹介している.

目は物体の後ろ側に焦点を合わせています.そして焦点は,ピタッと一定のところに止まっているのではなく,いつも前後にふらふらと動いているのだそうです.
 この動きが,1/f ゆらぎに非常に近いのです.
 焦点が前にいったり後ろにいったり,ちょこちょこと絶えず動いているのは,動いているほうが,ものの位置が変わったときにすぐ焦点を合わせ直しやすいからです.テニスの選手がサーブを受けるときに,足を少し開いて上体を左右に揺すっていますが,あれは止まっていると,ボールが飛んできたときに体がすぐに動かないからでしょう.目の焦点も同じことです.
 また焦点は,見ようとするものよりも遠方に合わせられているのが普通のようです.見ているものが動くと,焦点がズレて画像がぼやけますが,もし焦点が物体に合っていると,ものが手前に来ても遠方に行っても,像がぼやけるという点では同じことになります.しかし,これでは焦点を合わせ直すのに,前後どちらに焦点を移動させればよいのか,とっさの判断ができません.見ているものよりも,少し遠方に焦点が定まっていれば,ものが焦点からズレて遠方に動くとものの像がはっきりしてきますし,その逆に手前に動けば,ぼやけかたが激しくなります.それと同時に,焦点は少し遠くに合わせられているのではないでしょうか.だから焦点が前後にゆらいでいるほうが,ものごとの変化に対応しやすいということでしょう.


 言語体系も常にゆらいでいるからこそ,人間のコミュニケーション欲求の絶えざる変化に即応できる柔軟なシステムとなっているのかもしれない.1/f ゆらぎの言語への応用は未知数だが,今後関心を寄せていきたい.

 ・ 武者 利光 『ゆらぎの発想 1/f ゆらぎの謎にせまる』 日本放送出版協会,1994年.

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2017-11-13 Mon

#3122. 言語体系は「カオスの辺縁」にある [chaos_theory][language_change][invisible_hand][complex_system]

 『カオス的世界像』の著者スチュアート (481--82) によると,カオスについて興味深いことは,カオスと秩序との境目に近い「カオスの辺縁」において,ただならぬ何かが起こっているということである.

 複雑性はカオスの概念の上に築かれるものである.実際,複雑性理論にうるさくつきまとう基本語――あるいはより正確には慣用句――は「カオスのふち(辺縁)」という語句である.カチカチと規則正しく時を刻む,歯車でできた時計仕掛の宇宙のように,いくつかのシステムは非常に単純な仕方でふるまう.しかし,カオス現象を示すシステムはもっとずっと複雑な仕方でふるまう.その極端な例として,気体分子の全体としてのランダムな運動がある.その中間にあるシステムは,もっと興味深い類のふるまい――複雑ではあるがパターンを暗示するようなふるまい――を示す.これらの複雑ではあるが組織化されたシステムは,まさに秩序とカオスの間の遷移状態にあるように見える――そして,それこそが「カオスの辺縁」なのである.ここで示唆されるのは,淘汰(選択)あるいは学習によってシステムがこの境域に行きつくということである.あまりに単純なシステムは,競合的環境のなかでは生き残れない.なぜなら,より複雑微妙なシステムはそれらの規則性を食い物にすることによって単純なシステムを出し抜けるからである.(もしもある現金輸送会社の車が,毎週金曜日の午前十時に銀行からお金を受け取り,正確に同じルートを通って輸送するとしたら,強盗はいとも簡単に現金強奪劇を演ずることができるだろう.)まったくランダムなシステムもまた,生き残らないだろう.なぜならそういうシステムは,秩序のある(コヒーレントな)ことは何もなし遂げられないからである.(もしも現金輸送車がまったくランダムなルートをとるとしたら,銀行に到着するまでに時間があまりにかかりすぎ,到着する前にその仕事は別の会社に奪われてしまうだろう.)だから,生き残るという点では,全体としての構造を失ってしなわない程度にできるかぎり複雑化するのが利益になるのである.進化するシステムは,カオスの辺縁にとどまるよう強いられているのである.


 言語体系も,環境の変化に柔軟に適応する体系である.言語変異や言語接触は「カオスの辺縁」ととらえることができ,まさにそこで最もおもしろい現象が繰り広げられている.言語は,生き残りに成功してきた,単純すぎも複雑すぎもしない1つのシステムなのである.
 関連して,「#3111. カオス理論と言語変化 (1)」 ([2017-11-02-1]),「#3112. カオス理論と言語変化 (2)」 ([2017-11-03-1]) も参照.

 ・ スチュアート,イアン(著),須田 不二夫・三村 和男(訳) 『カオス的世界像 非定形の理論から複雑系の科学へ』 白揚社,1998年.

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2017-11-03 Fri

#3112. カオス理論と言語変化 (2) [chaos_theory][language_change][teleology][invisible_hand][complex_system]

 昨日の記事 ([2017-11-02-1]) に引き続いての話題.カオス理論と言語変化の接点に注目した英語史研究者に Smith がいる.Smith (194) は,言語変化について次のように述べている.

Change . . . is the result of the complex interaction of extralinguistic and intralinguistic developments, and any resulting change itself interacts with further developments to produce yet more change. The conception is therefore a dynamic one . . . .


 Smith (195) は,上のように述べた後で,このような多様な側面をもつ言語変化を「カオス理論」で説明され得る現象として提示している.

   Such a multifarious conception of language change . . . seems to correspond to the most recent paradigm in both the natural and human sciences: 'chaos-theory'. Chaos-theory is really about order, about the way in which order results from complex interaction. The best-known popular example of this process --- the butterfly stamping in the forest causing a storm a thousand miles away --- is really about how a tiny innovation can make a difference, by interacting with other innovations to produce a snowball effect. If language is a metastable system deployed by interacting innovative and conservative language-users, it does not, in a chaotic world, require or imply some divine plan or overall grand design. Rather, living languages are the result of what Dawkins has called a 'blind watchmaker' effect, whereby order comes out of chaos.
   Such an approach is hardly revolutionary, and . . . no claims of special newness are made here.


 Smith は,言語変化を,言語に関与する種々の要素の "complex interaction" のたまものとしてとらえている.Smith の言語変化観については,「#1123. 言語変化の原因と歴史言語学」 ([2012-05-24-1]),「#1466. Smith による言語変化の3段階と3機構」 ([2013-05-02-1]),「#1928. Smith による言語レベルの階層モデルと動的モデル」 ([2014-08-07-1]) を参照.上の引用にもある "blind watchmaker" の比喩と関連して,teleologyinvisible_hand の記事もどうぞ.

 ・ Smith, Jeremy J. An Historical Study of English: Function, Form and Change. London: Routledge, 1996.

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2017-03-03 Fri

#2867. 言語変化の偶然と必然 [language_change][causation][teleology][entropy][unidirectionality][spaghetti_junction][invisible_hand]

 偶然(及びその対立項としての必然)とは何か,という問いは哲学上の問題だが,言語変化の原因を探る際にも避けて通るわけにはいかない.統計学者・確率論者である竹内による「偶然」に関する新書を読んでみた.
 竹内は,「偶然の必然的産物」 (139) という表現に要約されているように,偶然と必然は対立する概念というよりは,むしろ組み合わさって現象を生じさせる連続的な動因であると考えている.例えば,生物進化について「突然変異の起こり方には方向性はないが,自然選択の圧力のもとで,その積み重ねには方向性が生じ」ると述べている (138) .突然変異自体はあくまで「偶然」だが,その偶然を体現したものが何だったのかによって,次の一歩の選択肢が狭まり,ある特定の選択肢が選ばれる確率が高まる.そのように何歩か進んでいくうちに,最終的には選択肢が1つに絞られ,確率が1,すなわち「必然」となる.完全なる「偶然」から出発しながらも,徐々に「方向」が絞られ,ついには「必然」へと連なる,というわけだ.
 ある壺に白玉と黒玉を入れる2つの試行を考えてみよう.まず,第1の試行.壺には同数の白玉と黒玉が入っているとする.そこから無作為に1つを取り出し,白玉か黒玉かを記録し,壺に戻す,ということを繰り返す.いずれかの玉が出る確率は,大数の法則により1/2となることは自明である.では次に第2の試行.ここでは,無作為に1つ取り出した後に,それと同じ色のもう1つの玉を加えて壺に戻すということを繰り返してみる.最初の取り出しでいずれの色が出るかの確率は1/2だが,例えばたまたま白玉が出たとして,それを壺に戻す際には,もう1つの白玉も加えた上で戻すので,次の取り出しに際しての確率の計算式は,少しく白玉が有利な式へと変わるだろう.その若干の有利さゆえに実際に次の回に白玉が出たとすると,その次の回にはさらに白玉が有利となるだろう.回を重ねるごとに白玉の有利さは増し,最終的には白玉を取り出す確率は限りなく1に近づいていくはずである.最初は偶然だったものが,最後にはほぼ必然となってしまう例である.
 2つの試行から,偶然の蓄積される方法に2種類あることが分かる.1つ目ではいつまでたっても1/2という確率は変わらず,むしろ偶然が純化されていくかのようだ.言い換えれば,エントロピーの増大,あるいは情報量の減少である.一方,2つ目は,最初の偶然により徐々にある方向に偏っていき,最終的に必然に近づいていく.これは,エントロピーの減少,あるいは情報量の増大といえるだろう.竹内 (74) は,次のように述べている.

宇宙のいろいろな局面において,「エントロピー増大の法則」と「情報量増大の法則」がともに働いていると思う.つまり,宇宙には必然性の枠に入らない偶然性というものが存在し,そうして偶然性には大数の法則を成り立たせるような,極限において完全な一様性をもたらす性質のものと,累積することによって情報として働き,一定の環境の下で新たな秩序を作り出すようなものとの二種類がある.前者の偶然性はエントロピーの増大をもたらすが,後者は情報量の増大をもたらすのである.より詳しくいえば,偶然に作り出された新しい秩序が情報システムによって捉えられることによって,安定し維持されることになるのである.


 ある現象が偶然でもあり必然でもあるというのは一見すると矛盾しているが,このように考えれば調和する.この見方は,言語変化論にも多くの示唆を与えてくれる.例えば,言語変化の方向性に関する議論に,unidirectionality の問題や invisible_handspaghetti_junction と呼ばれる仮説がある(「#2531. 言語変化の "spaghetti junction"」 ([2016-04-01-1]),「#2533. 言語変化の "spaghetti junction" (2)」 ([2016-04-03-1]),「#2539. 「見えざる手」による言語変化の説明」 ([2016-04-09-1]) などを参照).また,言語におけるエントロピーの問題については entropy の各記事で扱ってきたので,そちらも参照.

 ・ 竹内 啓 『偶然とは何か――その積極的意味』 岩波書店〈岩波新書〉,2010年.

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2016-12-24 Sat

#2798. 嶋田 珠巳 『英語という選択 アイルランドの今』 岩波書店,2016年. [irish][irish_english][ireland][language_shift][contact][review][invisible_hand]

 嶋田珠巳著『英語という選択 アイルランドの今』を読んだ.過去数世紀の間,アイルランドで進行してきたアイルランド語から英語への言語交替 (language_shift) が,平易な文体で,しかし詳細に描かれている.フィールドワークを通じて国民の心理にまで入り込もうとする調査態度,アイルランド英語の言語学的分析,言語接触に関する理論的な貢献,日本語もうかうかしていると危ないぞとの警鐘など,読みどころが多い.現代アイルランドの言語事情について,このように一般向けに読みやすく書かれた本が出たことは歓迎すべきである.
 著者は,アイルランドにおける言語交替という(社会)言語学的な研究を行なうに当たって,言語重視ではなく話者重視の態度をとることを宣言している.

わたしは言語をそのさまざまな現象とともに考えるとき,まず言語使用者,すなわち話者をその中心に置く.ことばをめぐるさまざまな現象(たとえば,言語接触,言語変化,言語使用,コード・スイッチング)はすべて話者の介在のもとにある.このようなことはあたりまえのように思えるかもしれないし,一度このような見方を提案された読者は,それ以外の見方は理解しづらいかもしれないが,実際に提案されている言語学分野の理論および考察の前提においては,さまざまな要因のもとに言語使用にゆれを生じさせる「話者」を捨象して,言語の本質を科学的に解明しようという試みのものとに理論が構築されてきた背景もある.(嶋田,p. 55)


 引用にあるとおり,言語学を筆頭とする言語に関する言説では「話者の捨象」は日常茶飯事である.とりわけ話者を重視するはずの分野である社会言語学や語用論ですら,議論が進んでいく間に,いつのまにか話者の顔が見えなくなっていることがしばしばである.
 しかし,言語は話者(及びコミュニケーションに関わるその他の人々)がいなければ言語たりえないという当たり前すぎる事実を再確認するとき,話者を捨象した言語学が早晩行き詰まるだろうことは容易に想像できる.言語学から話者を救いだすことが必要なのだ.このことは,本ブログでも次の記事などで繰り返し論じてきた.

 ・ 「#1549. Why does language change? or Why do speakers change their language?」 ([2013-07-24-1])
 ・ 「#1168. 言語接触とは話者接触である」 ([2012-07-08-1])
 ・ 「#2005. 話者不在の言語(変化)論への警鐘」 ([2014-10-23-1])
 ・ 「#2298. Language changes, speaker innovates.」 ([2015-08-12-1])

 とはいえ,言うは易しである.言説の慣れというのはすさまじいもので,気を抜くと,すぐに話者の顔の見えない言語論へと舞い戻ってしまう.言語体系そのものに立脚する言語学のすべてが誤りというわけでもないし,言語(体系)と話者(集団)の双方の役割を融合・調和させる「見えざる手」 (invisible_hand) のような言語(変化)論も注目されてきている(「#2539. 「見えざる手」による言語変化の説明」 ([2016-04-09-1]) を参照).言語学としても,言語(体系)と話者(集団)の関係について今一度じっくり考えてみる時期に来ているように思われる.

 ・ 嶋田 珠巳 『英語という選択 アイルランドの今』 岩波書店,2016年.

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2016-04-09 Sat

#2539. 「見えざる手」による言語変化の説明 [invisible_hand][language_change][causation][functionalism][spaghetti_junction]

 近年の言語変化の研究では,言語変化の過程を「見えざる手」 (invisible_hand) の原理により説明しようとする Keller の試みが知られるようになってきた.本ブログでも,「#8. 交通渋滞と言語変化」 ([2009-05-07-1]),「#1549. Why does language change? or Why do speakers change their language?」 ([2013-07-24-1]),「#1979. 言語変化の目的論について再考」 ([2014-09-27-1]),「#2298. Language changes, speaker innovates.」 ([2015-08-12-1]) などの記事で扱ってきた.
 Keller (123) が図示している "invisible-hand explanation" に,説明上少し手を加えたものを下に掲載しよう.

        (micro level)                                                                    (macro level)
┌────────────┐    intentional                         causal        ┌────────────┐
│                        │      actions       ┌─────┐    consequence     │                        │  
│   ○              ○   │  ───────→  │          │  ───────→  │                        │
│ \│/          \│/ │                    │invisible-│                    │                        │
│   │      ○      │   │  ───────→  │   hand   │  ───────→  │      explanandum       │
│ /  \  \│/  /  \ │                    │ process  │                    │                        │
│           │           │  ───────→  │          │  ───────→  │                        │
│         /  \         │                    └─────┘                    │                        │
└────────────┘                                                      └────────────┘
   ecological conditions

 左端の micro level には,ある生態条件のもとでコミュニケーションを行なう個々の話者がいる.個々の話者は意図的に言語行動を行なうが,それが集団的な行動としてまとめられると,それは入力として invisible-hand process と呼ばれるブラックボックスへ入っていく.そこからの出力は,必然的な因果律に基づき,右端の説明されるべき言語現象へと一直線に向かう.
 ある言語変化や言語現象の真の説明は左端,真ん中,右端のそれぞれの箱についての詳細を含んでいなければならないが,従来の「説明」の多くは,左端の箱の ecological conditions のいくつかを指摘するのみだった.例えば,同音異義衝突とかノルマン征服とか,しばしば歴史言語学において「説明」とされてきた事柄だ.しかし,それは真の説明の一部でしかないと Keller は指摘する.改めて,Keller (120) によれば真の説明とは,

An invisible-hand explanation consists --- ideally --- of three levels:

(a) The depiction of the personal motives, intentions, goals, convictions, and so forth, which form the basis of the individual actions: the nature of the speaker's language and the world he lives in, as far as they are relevant for the speaker's choice of action and his choice of linguistic means.
(b) The depiction of the process that explains the generation of structure by the multitude of individual actions. This process is called the invisible-hand process.
(c) The depiction of the generated structure.


 この「見えざる手」による説明は,先日「#2531. 言語変化の "spaghetti junction"」 ([2016-04-01-1]) と「#2533. 言語変化の "spaghetti junction" (2)」 ([2016-04-03-1]) で話題にした spaghetti_junction の説とも関係がありそうである.

 ・ Keller, Rudi. "Invisible-Hand Theory and Language Evolution." Lingua 77 (1989): 113--27.

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2016-04-03 Sun

#2533. 言語変化の "spaghetti junction" (2) [terminology][pidgin][creole][language_change][terminology][tok_pisin][cognitive_linguistics][communication][teleology][causation][origin_of_language][evolution][prediction_of_language_change][invisible_hand]

 一昨日の記事 ([2016-04-01-1]) に引き続き,"spaghetti junction" について.今回は,この現象に関する Aitchison の1989年の論文を読んだので,要点をレポートする.
 Aitchison は,パプアニューギニアで広く話される Tok Pisin の時制・相・法の体系が,当初は様々な手段の混成からなっていたが,時とともに一貫したものになってきた様子を観察し,これを "spaghetti junction" の効果によるものと論じた.Tok Pisin に見られるこのような体系の変化は,関連しない他のピジン語やクレオール語でも観察されており,この類似性を説明するのに2つの対立する考え方が提起されているという.1つは Bickerton などの理論言語学者が主張するように,文法に共時的な制約が働いており,言語変化は必然的にある種の体系に終結する,というものだ.この立場は,言語的制約がヒトの遺伝子に組み込まれていると想定するため,"bioprogram" 説と呼ばれる.もう1つの考え方は,言語,認知,コミュニケーションに関する様々な異なる過程が相互に作用した結果,最終的に似たような解決策が選ばれるというものだ.この立場が "spaghetti junction" である.Aitchison (152) は,この2つ目の見方を以下のように説明し,支持している.

This second approach regards a language at any particular point in time as if it were a spaghetti junction which allows a number of possible exit routes. Given certain recurring communicative requirements, and some fairly general assumptions about language, one can sometimes see why particular options are preferred, and others passed over. In this way, one can not only map out a number of preferred pathways for language, but might also find out that some apparent 'constraints' are simply low probability outcomes. 'No way out' signs on a spaghetti junction may be rare, but only a small proportion of possible exit routes might be selected.


 Aitchison (169) は,この2つの立場の違いを様々な言い方で表現している."innate programming" に対する "probable rediscovery" であるとか,言語の変化の "prophylaxis" (予防)に対する "therapy" (治療)である等々(「予防」と「治療」については,「#1979. 言語変化の目的論について再考」 ([2014-09-27-1]) を参照).ただし,Aitchison は,両立場は相反するものというよりは,相補的かもしれないと考えているようだ.
 "spaghetti junction" 説に立つのであれば,今後の言語変化研究の課題は,「選ばれやすい道筋」をいかに予測し,説明するかということになるだろう.Aitchison (170) は,論文を次のように締めくくっている.

A number of principles combined to account for the pathways taken, principles based jointly on general linguistic capabilities, cognitive abilities, and communicative needs. The route taken is therefore the result of the rediscovery of viable options, rather than the effect of an inevitable bioprogram. At the spaghetti junctions of language, few exits are truly closed. However, a number of converging factors lead speakers to take certain recurrent routes. An overall aim in future research, then, must be to predict and explain the preferred pathways of language evolution.


 このような研究の成果は言語の発生と初期の発達にも新たな光を当ててくれるかもしれない.当初は様々な選択肢があったが,後に諸要因により「選ばれやすい道筋」が採用され,現代につながる言語の型ができたのではないかと.

 ・ Aitchison, Jean. "Spaghetti Junctions and Recurrent Routes: Some Preferred Pathways in Language Evolution." Lingua 77 (1989): 151--71.

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2016-04-01 Fri

#2531. 言語変化の "spaghetti junction" [terminology][pidgin][creole][language_change][terminology][invisible_hand]

 地理的にかけ離れた2つのクレオール語が,非常に似た発展をたどり,非常に似た特徴を備えるに至ることが,しばしばある.Aitchison (233--34) によると,これを説明するのに "bioprogram" 説と "spaghetti junction" 説とがあるという.前者は Bickerton の唱える説であり,人間の精神には生物学的にプログラムされた青写真があり,クレオール語にみられる普遍的な特徴はそこから必然的に生み出されるとする (see 「#445. ピジン語とクレオール語の起源に関する諸説」 ([2010-07-16-1])) .一方,後者は,多くの道路が交差する spaghetti junction のように,ピジン語からクレオール語が発達する当初には,様々な可能性が生み出されるものの,可能な選択肢が徐々にせばまり,最終的には1つの出口へ収斂するというシナリオだ.
 理論的には両説ともに想定することができるが,調査してみると,すべてのクレオール語が全く同じ経路をたどるわけでもなく,似た特徴が突然に発現するわけでもなさそうなので,spaghetti junction 説が妥当であると,Aitchison (234) は論じている.
 spaghetti junction 説が言語変化の観点から興味深いのは,クレオール語の発達に関してばかりではなく,通常の言語変化に関しても同じように,この説を想定することができることだ.通常の言語変化にも様々な経路のオプションがあると思われるが,確率論的には,そこにある程度の傾向なり予測可能な部分なりが観察されるのも事実である.その意味では,それほど混み合っていない spaghetti junction の例と考えられるかもしれない.クレオール語の発達がそれと異なるのは,発達の速度があまりに速く,あたかも狭い場所に複雑多岐な spaghetti junction が集中しているようにみえる点だ.
 通常の言語変化とクレオール語の発達の違いが,もしこのように速度に存するにすぎないのであれば,後者を観察することは,前者の早回し版を観察することにほかならないということになる.クレオール語研究と言語変化論は,互いにこのような関係にあるのかもしれず,そのために両者の連動に注意しておく必要がある.Aitchison (234) 曰く,

. . . the stages by which pidgins develop into creoles seem to be normal processes of change. More of them happen simultaneously, and they happen faster, than in a full language. This makes pidgins and creoles valuable 'laboratories' for the observation of change.


 ・ Aitchison, Jean. Language Change: Progress or Decay. 3rd ed. Cambridge: CUP, 2001.

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2016-03-30 Wed

#2529. evolution の evolution (3) [evolution][history_of_linguistics][language_change][teleology][invisible_hand][causation][language_myth][drift][exaptation][terminology]

 2日間にわたる標題の記事 ([2016-03-28-1], [2016-03-29-1]) についての第3弾.今回は,evolution の第3の語義,現在の生物学で受け入れられている語義が,いかに言語変化論に応用されうるかについて考える.McMahon (334) より,改めて第3の語義を確認しておこう.

the development of a race, species or other group ...: the process by which through a series of changes or steps any living organism or group of organisms has acquired the morphological and physiological characters which distinguish it: the theory that the various types of animals and plants have their origin in other preexisting types, the distinguishable differences being due to modifications in successive generations.


 現在盛んになってきている言語における evolution の議論の最先端は,まさにこの語義での evolution を前提としている.これまでの2回の記事で見てきたように,19世紀から20世紀の後半にかけて,言語学における evolution という用語には手垢がついてしまった.言語学において,この用語はダーウィン以来の科学的な装いを示しながらも,特殊な価値観を帯びていることから否定的なレッテルを貼られてきた.しかし,それは生物(学)と言語(学)を安易に比較してきたがゆえであり,丁寧に両者の平行性と非平行性を整理すれば,有用な比喩であり続ける可能性は残る.その比較の際に拠って立つべき evolution とは,上記の語義の evolution である.定義には含まれていないが,生物進化の分野で広く受け入れられている mutation, variation, natural selection, adaptation などの用語・概念を,いかに言語変化に応用できるかが鍵である.
 McMahon (334--40) は,生物(学)と言語(学)の(非)平行性についての考察を要領よくまとめている.互いの異同をよく理解した上であれば,(歴史)言語学が(歴史)生物学から学ぶべきことは非常に多く,むしろ今後期待のもてる領域であると主張している.McMahon (340) の締めくくりは次の通りだ.

[T]he Darwinian theory of biological evolution, with its interplay of mutation, variation and natural selection, has clear parallels in historical linguistics, and may be used to provide enlightening accounts of linguistic change. Having borrowed the core elements of evolutionary theory, we may then also explore novel concepts from biology, such as exaptation, and assess their relevance for linguistic change. Indeed, the establishment of parallels with historical biology may provide one of the most profitable future directions for historical linguistics.


 生物(学)と言語(学)の(非)平行性の問題については「#807. 言語系統図と生物系統図の類似点と相違点」 ([2011-07-13-1]) も参照されたい.

Referrer (Inside): [2020-01-05-1] [2016-03-31-1]

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2016-03-29 Tue

#2528. evolution の evolution (2) [evolution][history_of_linguistics][language_change][teleology][invisible_hand][causation][language_myth][drift][terminology]

 昨日の記事 ([2016-03-28-1]) に引き続き,言語変化論における evolution の解釈について.今回は evolution の目的論 (teleology) 的な含意をもつ第2の語義,"A series of related changes in a certain direction" に注目したい.昨日扱った語義 (1) と今回の語義 (2) は言語変化の方向性を前提とする点において共通しているが,(1) が人類史レベルの壮大にして長期的な価値観を伴った方向性に関係するのに対して,(2) は価値観は廃するものの,言語変化には中期的には運命づけられた方向づけがあると主張する.
 端的にいえば,目的論とは "effects precede (in time) their final causes" という発想である (qtd. in McMahon 325 from p. 312 of Lass, Roger. "Linguistic Orthogenesis? Scots Vowel Length and the English Length Conspiracy." Historical Linguistics. Volume 1: Syntax, Morphology, Internal and Comparative Reconstruction. Ed. John M. Anderson and Charles Jones. Amsterdam: North Holland, 1974. 311--43.) .通常,時間的に先立つ X が生じたから続いて Y が生じた,という因果関係で物事の説明をするが,目的論においては,後に Y が生じることができるよう先に X が生じる,と論じる.この2種類の説明は向きこそ正反対だが,いずれも1つの言語変化に対する説明として使えてしまうという点が重要である.例えば,ある言語のある段階で [mb], [md], [mg], [nb], [nd], [ng], [ŋb], [ŋd], [ŋg] の子音連続が許容されていたものが,後の段階では [mb], [nd], [ŋg] の3種しか許容されなくなったとする.通常の音声学的説明によれば「同器官性同化 (homorganic assimilation) が生じた」となるが,目的論的な説明を採用すると,「調音しやすくするために同器官性の子音連続となった」となる.
 言語学史においては,様々な論者が目的論をとってきたし,それに反駁する論者も同じくらい現われてきた.例えば Jakobson は目的論者だったし,生成音韻論の言語観も目的論の色が濃い.一方,Bloomfield や Lass は,目的論の立場に公然と反対している.McMahon (330--31) も,目的論を「目的の目的論」 (teleology of purpose) と「機能の目的論」 (teleology of function) に分け,いずれにも問題点があることを論じ,目的論的な説明が施されてきた各々のケースについて非目的論的な説明も同時に可能であると反論した.McMahon の結論を引用して,この第2の意味の evolution の妥当性を再考する材料としたい.

There is a useful verdict of Not Proven in the Scottish courts, and this seems the best judgement on teleology. We cannot prove teleological explanations wrong (although this in itself may be an indictment, in a discipline where many regard potentially falsifiable hypotheses as the only valid ones), but nor can we prove them right; they rest on faith in predestination and the omniscient guiding hand. More pragmatically, alleged cases of teleology tend to have equally plausible alternative explanations, and there are valid arguments against the teleological position. Even the weaker teleology of function is flawed because of the numerous cases where it simply does not seem to be applicable. However, this rejection does not make the concept of conspiracy, synchronic or diachronic, any less intriguing, or the perception of directionality . . . any less real.


 ・ McMahon, April M. S. Understanding Language Change. Cambridge: CUP, 1994.

Referrer (Inside): [2016-03-31-1] [2016-03-30-1]

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2015-08-12 Wed

#2298. Language changes, speaker innovates. [language_change][sociolinguistics][causation][invisible_hand][methodology][contact]

 本ブログでは,英語史に関する記事と同じくらい言語変化 (language_change) に関する記事を書いてきた.言語変化という用語や概念を当然の前提としてきたが,この前提の背景において理解しておかなければならないことがある.それは,言語変化 (linguistic change) と話者刷新 (speaker-innovation) の区別である (Milroy 77) .言語が変化するのは,話者が言葉遣いを刷新するからである.
 話者が言葉遣いを刷新したからといって,それが言語変化に直結するとは限らない.一度きりの繰り返されることのない刷新にすぎないかもしれないし,個人的な変異にとどまるかもしれない.それが言語体系のなかに定着し,言語共同体内に拡がってはじめて,言語変化が生じたといえる.時間順でいえば,話者刷新は言語変化に先行する.また,話者不在の言語変化はありえないということでもある.このことは考えてみれば自明ではあるが,私たちは「言語変化」を論じる際に,しばしば言語体系を自律したものとして扱い,話者を脇に追いやる.意識的にそのような方法論を採っているのであれば問題は少ないと思われるが,言葉遣いの刷新の主体が話者であるという事実は,常に念頭においておく必要がある.
 刷新や変化の主体が話者と言語のあいだで容易にすり替わり得るのは,刷新から変化への移行に関するメカニズムがよく解明されていないからでもある.そのメカニズムの1つとして見えざる手 (invisible_hand) が提案されているが,それも含めて,今後の研究課題といってよいだろう.
 似たような用語上の懸念として,話者(集団)どうしが接触しているにもかかわらず,しばしば「言語接触」 (language contact) が語られるということがある.言語接触という見方そのものに問題があるわけではないが,それに先だって常に話者接触があるという認識が肝心である.
 言語変化と話者刷新の区別や話者不在の言語(変化)論については,以下の記事で話題にしてきたので,参照されたい.
 
 「#546. 言語変化は個人の希望通りに進まない」 ([2010-10-25-1])
 「#835. 機能主義的な言語変化観への批判」 ([2011-08-10-1])
 「#837. 言語変化における therapy or pathogeny」 ([2011-08-12-1])
 「#1168. 言語接触とは話者接触である」 ([2012-07-08-1])
 「#1549. Why does language change? or Why do speakers change their language?」 ([2013-07-24-1])
 「#1979. 言語変化の目的論について再考」 ([2014-09-27-1])
 「#1992. Milroy による言語外的要因への擁護」 ([2014-10-10-1])
 「#2005. 話者不在の言語(変化)論への警鐘」 ([2014-10-23-1])

 ・ Milroy, James. "A Social Model for the Interpretation of Language Change." History of Englishes. Ed. Matti Rissanen et al. Berlin: Mouton de Gruyter, 1992. 72--91.

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2015-03-13 Fri

#2146. 英語史の統語変化は,語彙投射構造の機能投射構造への外適応である [exaptation][grammaticalisation][syntax][generative_grammar][unidirectionality][drift][reanalysis][evolution][systemic_regulation][teleology][language_change][invisible_hand][functionalism]

 「#2144. 冠詞の発達と機能範疇の創発」 ([2015-03-11-1]) でみたように,英語史で生じてきた主要な統語変化はいずれも「機能範疇の創発」として捉えることができるが,これは「機能投射構造の外適応」と換言することもできる.古英語以来,屈折語尾の衰退に伴って語彙投射構造 (Lexical Projection) が機能投射構造 (Functional Projection) へと再分析されるにしたがい,語彙範疇を中心とする構造が機能範疇を中心とする構造へと外適応されていった,というものだ.
 文法化の議論では,生物進化の分野で専門的に用いられる外適応 (exaptation) という概念が応用されるようになってきた.保坂 (151) のわかりやすい説明を引こう.

外適応とは,たとえば,生物進化の側面では,もともと体温保持のために存在していた羽毛が滑空の役に立ち,それが生存の適応価を上げる効果となり,鳥類への進化につながったという考え方です〔中略〕.Lass (1990) はこの概念を言語変化に応用し,助動詞 DO の発達も一種の外適応(もともと使役の動詞だったものが,意味を無くした存在となり,別の用途に活用された)と説明しています.本書では,その考えを一歩進め,構造もまた外適応したと主張したいと思います.〔中略〕機能範疇はもともと一つの FP (Functional Projection) と考えられ,外適応の結果,さまざまな構造として具現化するというわけです.英語はその通時的変化の過程の中で,名詞や動詞の屈折形態の消失と共に,語彙範疇中心の構造から機能範疇中心の構造へと移行してきたと考えられ,その結果,冠詞,助動詞,受動態,完了形,進行形等の多様な分布を獲得したと言えるわけです.


 このような言語変化観は,畢竟,言語の進化という考え方につながる.ヒトに特有の言語の発生と進化を「言語の大進化」と呼ぶとすれば,上記のような言語の変化は「言語の小進化」とみることができ,ともに歩調を合わせながら「進化」の枠組みで研究がなされている.
 保坂 (158) は,言語の自己組織化の作用に触れながら,著書の最後を次のように締めくくっている.

こうした言語自体が生き残る道を探る姿は,いわゆる自己組織化(自発的秩序形成とも言われます)と見なすことが可能です.自己組織化とは雪の結晶やシマウマのゼブラ模様等が有名ですが,物理的および生物的側面ばかりでなく,たとえば,渡り鳥が作り出す飛行形態(一定の間隔で飛ぶ姿),気象現象,経済システムや社会秩序の成立などにも及びます.言語の小進化もまさにこの一例として考えられ,言語を常に動的に適応変化するメカニズムを内在する存在として説明でき,それこそ,ことばの進化を導く「見えざる手」と言えるのではないでしょうか.英語における文法化の現象はまさにその好例であり,言語変化の研究がそうした複雑な体系を科学する一つの手段になり得ることを示してくれているのです.


 言語変化の大きな1つの仮説である.

 ・ 保坂 道雄 『文法化する英語』 開拓社,2014年.

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2014-09-27 Sat

#1979. 言語変化の目的論について再考 [language_change][causation][teleology][unidirectionality][invisible_hand][drift][functionalism]

 昨日の記事で引用した Luraghi が,同じ論文で言語変化の目的論 (teleology) について論じている.teleology については本ブログでもたびたび話題にしてきたが,論じるに当たって関連する諸概念について整理しておく必要がある.
 まず,言語変化は therapy (治療)か prophylaxis (予防)かという議論がある.「#835. 機能主義的な言語変化観への批判」 ([2011-08-10-1]) や「言語変化における therapy or pathogeny」 ([2011-08-12-1]) で取り上げた問題だが,いずれにしても前提として機能主義的な言語変化観 (functionalism) がある.Kiparsky は "language practices therapy rather than prophylaxis" (Luraghi 364) との謂いを残しているが,Lass などはどちらでもないとしている.
 では,functionalism と teleology は同じものなのか,異なるものなのか.これについても,諸家の間で意見は一致していない.Lass は同一視しているようだが,Croft などの論客は前者は "functional proper",後者は "systemic functional" として区別している."systemic functional" は言語の teleology を示すが,"functional proper" は話者の意図にかかわるメカニズムを指す.あくまで話者の意図にかかわるメカニズムとしての "functional" という表現が,変異や変化を示す言語項についても応用される限りにおいて,(話者のではなく)言語の "functionalism" を語ってもよいかもしれないが,それが言語の属性を指すのか話者の属性を指すのかを区別しておくことが重要だろう.

Teleological explanations of language change are sometimes considered the same as functional explanations . . . . Croft . . . distinguishes between 'systemic functional,' that is teleological, explanations, and 'functional proper,' which refer to intentional mechanisms. Keller . . . argues that 'functional' must not be confused with 'teleological,' and should be used in reference to speakers, rather than to language: '[t]he claim that speakers have goals is correct, while the claim that language has a goal is wrong' . . . . Thus, to the extent that individual variants may be said to be functional to the achievement of certain goals, they are more likely to generate language change through invisible hand processes: in this sense, explanations of language change may also be said to be functional. (Luraghi 365--66)


 上の引用にもあるように,重要なことは「言語が変化する」と「話者が言語を刷新する」とを概念上区別しておくことである.「#1549. Why does language change? or Why do speakers change their language?」 ([2013-07-24-1]) で述べたように,この区別自体にもある種の問題が含まれているが,あくまで話者(集団)あっての言語であり,言語変化である.話者主体の言語変化論においては teleology の占める位置はないといえるだろう.Luraghi (365) 曰く,

Croft . . . warns against the 'reification or hypostatization of languages . . . Languages don't change; people change language through their actions.' Indeed, it seems better to avoid assuming any immanent principles inherent in language, which seem to imply that language has an existence outside the speech community. This does not necessarily mean that language change does not proceed in a certain direction. Croft rejects the idea that 'drift,' as defined by Sapir . . ., may exist at all. Similarly, Lass . . . wonders how one can positively demonstrate that the unconscious selection assumed by Sapir on the side of speakers actually exists. From an opposite angle, Andersen . . . writes: 'One of the most remarkable facts about linguistic change is its determinate direction. Changes that we can observe in real time---for instance, as they are attested in the textual record---typically progress consistently in a single direction, sometimes over long periods of time.' Keller . . . suggests that, while no drift in the Sapirian sense can be assumed as 'the reason why a certain event happens,' i.e., it cannot be considered innate in language, invisible hand processes may result in a drift. In other words, the perspective is reversed in Keller's understanding of drift: a drift is not the pre-existing reason which leads the directionality of change, but rather the a posteriori observation of a change brought about by the unconsciously converging activity of speakers who conform to certain principles, such as the principle of economy and so on . . . .


 関連して drift, functionalism, invisible_hand, unidirectionality の各記事も参考にされたい.

 ・ Luraghi, Silvia. "Causes of Language Change." Chapter 20 of Continuum Companion to Historical Linguistics. Ed. Silvia Luraghi and Vit Bubenik. London: Continuum, 2010. 358--70.

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2014-09-25 Thu

#1977. 言語変化における言語接触の重要性 (1) [contact][language_change][causation][linguistic_area][invisible_hand]

 歴史言語学のハンドブックより,Drinka による言語接触論を読んだ.接触言語学を紹介しその意義を主張するという目的で書かれた文章であり,予想通り言語変化における外的要因の重要性が強調されているの.要点をよく突いているという印象を受けた.
 Drinka は,接触言語学の分野で甚大な影響力をもつ Thomason and Kaufman の主張におよそ沿いながら,言語接触の条件や効果を考察するにあたって最重要のパラメータは,言語どうしの言語学的な類似性や相違性ではなく,言語接触の質と量であると論じる.また,Milroy や Mufwene の主張に沿って,言語変化は話者個人間の接触に端を発し,それが共同体へ広まってゆくものであるという立場をとる.さらに,通常の言語変化も,言語圏 (linguistic_area) の誕生も,ピジン語やクレオール語の生成過程にみられる激しい言語変化も,いずれもメカニズムは同じであると見ており,言語変化における言語接触の役割は一般に信じられているよりも大きく,かつありふれたものであると主張する.このような立場は,他書より Normalfall や "[contact . . . viewed as] potentially present in some way in virtually every given case of language change" と引用していることからも分かる.
 Drinka の論考の結論部を引用しよう.

In conclusion, contact has emerged in recent studies as a more essential element in triggering linguistic innovation than had previously been assumed. Contact provides the context for change, in making features of one variety accessible to speakers of another. Bilingual or bidialectal speakers with access to the social values of features in both systems serve as a link between the two, a conduit of innovation from one variety to another. When close cultural contact among speakers of different varieties persists over long periods, linguistic areas can result, reflecting the ebb and flow of influence of one culture upon another. When speakers of mutually unintelligible languages encounter one another in the context of social symmetry, such as for purposes of trade, contact varieties such as pidgins may result; in contexts of social asymmetry, such as slavery, on the other hand, creoles are a more frequent result, reflecting the adjustments which are made as the contact variety becomes the native language of its users. As Mufwene points out, however, the same principles of change appear to be in operation in contact varieties as in other varieties---it is in the transmission of language and linguistic features from one individual to another, through the impetus of sociolinguistic pressure, where change occurs, and these principles will operate whether the transmission is occurring within or across the boundaries of a variety, as long as sufficient social motivation exists. (342--43)


 実際のところ,私自身も言語変化を論じるにあたって言語接触の役割の重要性をしばしば主張してきたので,大筋において Drinka の意見には賛成である.特に Drinka が Keller の見えざる手 (invisible_hand) の理論への言及など,共感するところが多い.

. . . self-interested individuals incorporate new features into their repertoire in order to align themselves with other individuals and groups, with the unforeseen result that the innovation moves across the population, speaker by speaker. (341)


 関連して,言語変化における言語内的・外的な要因を巡る以下の議論も参考にされたい.

 ・ 「#443. 言語内的な要因と言語外的な要因はどちらが重要か?」 ([2010-07-14-1])
 ・ 「#1582. 言語内的な要因と言語外的な要因はどちらが重要か? (2)」 ([2013-08-26-1])
 ・ 「#1584. 言語内的な要因と言語外的な要因はどちらが重要か? (3)」 ([2013-08-28-1])

 影響力の大きい Thomason and Kaufman の言語接触論については,以下を参照.

 ・ 「#1779. 言語接触の程度と種類を予測する指標」 ([2014-03-11-1])
 ・ 「#1780. 言語接触と借用の尺度」 ([2014-03-12-1])
 ・ 「#1781. 言語接触の類型論」 ([2014-03-13-1])

 ・ Drinka, Bridget. "Language Contact." Chapter 18 of Continuum Companion to Historical Linguistics. Ed. Silvia Luraghi and Vit Bubenik. London: Continuum, 2010. 325--45.
 ・ Keller, Rudi. On Language Change: The Invisible Hand in Language. Trans. Brigitte Nerlich. London and New York: Routledge, 1994.

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2014-09-23 Tue

#1975. 文法化研究の発展と拡大 (2) [grammaticalisation][unidirectionality][pragmatics][subjectification][invisible_hand][teleology][drift][reanalysis][iconicity][exaptation][terminology][toc]

 昨日の記事「#1974. 文法化研究の発展と拡大 (1)」 ([2014-09-22-1]) を受けて,文法化 (grammaticalisation) 研究の守備範囲の広さについて補足する.Bussmann (196--97) によると,文法化がとりわけ関心をもつ疑問には次のようなものがある.

(a) Is the change of meaning that is inherent to grammaticalization a process of desemanticization, or is it rather a case (at least in the early stages of grammaticalization) of a semantic and pragmatic concentration?
(b) What productive parts do metaphors and metonyms play in grammaticalization?
(c) What role does pragmatics play in grammaticalization?
(d) Are there any universal principles for the direction of grammaticalization, and, if so, what are they? Suggestions for such 'directed' principles include: (i) increasing schematicization; (ii) increasing generalization; (iii) increasing speaker-related meaning; and (iv) increasing conceptual subjectivity.


 昨日記した守備範囲と合わせて,文法化研究の潜在的なカバレッジの広さと波及効果の大きさを感じることができる.また,秋元 (vii) の目次より文法化理論に関連する用語を拾い出すだけでも,この分野が言語研究の根幹に関わる諸問題を含む大項目であることがわかるだろう.

第1章 文法化
1.1 序
1.2 文法化とそのメカニズム
1.2.1 語用論的推論 (Pragmatic inferencing)
1.2.2 漂白化 (Bleaching)
1.3 一方向性 (Unidirectionality)
1.3.1 一般化 (Generalization)
1.3.2 脱範疇化 (Decategorialization)
1.3.3 重層化 (Layering)
1.3.4 保持化 (Persistence)
1.3.5 分岐化 (Divergence)
1.3.6 特殊化 (Specialization)
1.3.7 再新化 (Renewal)
1.4 主観化 (Subjectification)
1.5 再分析 (Reanalysis)
1.6 クラインと文法化連鎖 (Grammaticalization chains)
1.7 文法化とアイコン性 (Iconicity)
1.8 文法化と外適応 (Exaptation)
1.9 文法化と「見えざる手」 (Invisible hand) 理論
1.10 文法化と「偏流」 (Drift) 論


 文法化は,主として言語の通時態に焦点を当てているが,一方で主として共時的な認知文法 (cognitive grammar) や機能文法 (functional grammar) とも親和性があり,通時態と共時態の交差点に立っている.そこが,何よりも魅力である.

 ・ Bussmann, Hadumod. Routledge Dictionary of Language and Linguistics. Trans. and ed. Gregory Trauth and Kerstin Kazzizi. London: Routledge, 1996.
 ・ 秋元 実治 『増補 文法化とイディオム化』 ひつじ書房,2014年.

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2013-07-24 Wed

#1549. Why does language change? or Why do speakers change their language? [language_change][causation][invisible_hand][teleology][drift][functionalism]

 「なぜ言語は変化するのか」と「なぜ話者は言語を変化させるのか」とは,おおいに異なる問いである.発問に先立つ前提が異なっている.
 Why does language change? という問いでは,言語が主語(主体)となってあたかも生物のように自らが発展してゆくといった言語有機体説 (organicism) や言語発達説 (ontogenesis) の前提が示唆されている.言語の変化が必然で不可避 (necessity) であることをも前提としている.一方,Why do speakers change their language? という問いでは,話者が主語(主体)であり,話者が自由意志 (free will) によって言語を変化させるのだという機械主義 (mechanism) や技巧 (artisanship) の前提が示唆される.
 どちらが正しい発問かといえば,Keller (8--9) に語らせれば,どちらも言語変化を正しく問うていない.というのは,言語変化は集合的な現象 (collective phenomena) だからである.この集団的な現象を統御しているのは目的論 (teleology) ではなく,「見えざる手」 (invisible_hand) の原理である,と Keller は主張する.
 見えざる手については「#10. 言語は人工か自然か?」 ([2009-05-09-1]) で話題にしたが,この理論の源泉は Bernard de Mandeville (1670--1733) による The Fable of the Bees: Private Vices, Public Benefits (1714) に求めることができる.要点として,Keller から3点を引用しよう.

 ・ the insight that there are social phenomena which result from individuals' actions without being intended by them (35)
 ・ An invisible-hand explanation is a conjectural story of a phenomenon which is the result of human actions, but not the execution of any human design (38)
 ・ a language is the unintentional collective result of intentional actions by individuals (53)


 これを言語変化に当てはめると,個々の話者の言語活動における選択は意図的だが,その結果として起こる言語変化は最初から意図されていたものではないということになる.入力は意図的だが出力は非意図的となると,その間にどのようなブラックボックスがはさまっているのかが問題となるが,このブラックボックスのことを見えざる手と呼んでいるのである.個々の話者の意図的な言語行動が無数に集まって,見えざる手というブラックボックスに入ってゆくと,当初個々の話者には思いもよらなかった結果が出てくる.この結果が,言語変化ということになる.ここから,Keller (89) は言語変化の長期的な機能主義性を指摘している.

As an invisible-hand explanation of a linguistic phenomenon always starts with the motives of the speakers and 'projects' the phenomenon itself as the macro-structural effect of the choices made, it is necessarily functionalistic, although in a 'refracted' way.


 言語変化に至る過程のスタート地点では話者が主体となっているが,途中で見えざる手のトンネルをくぐり抜けると,いつのまにか主体が言語に切り替わっている.このような言語変化観をもつ者からみれば,Why does language change?Why do speakers change their language? も適切な質問でないことは明らかだろう.どちらも違っているともいえるし,どちらも当たっているともいえる.見えざる手の前提が欠落している,ということになろう.

 ・ Keller, Rudi. On Language Change: The Invisible Hand in Language. Trans. Brigitte Nerlich. London and New York: Routledge, 1994.

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