2日間の記事 ([2020-03-23-1], [2020-03-24-1]) に引き続き,標題の疑問について議論します.ラテン語の文法用語 modus について調べてみると,おやと思うことがあります.OED の mode, n. の語源記事に次のような言及があります.
In grammar (see sense 2), classical Latin modus is used (by Quintilian, 1st cent. a.d.) for grammatical 'voice' (active or passive; Hellenistic Greek διάθεσις ), post-classical Latin modus (by 4th-5th-cent. grammarians) for 'mood' (Hellenistic Greek ἔγκλισις ). Compare Middle French, French mode grammatical 'mood' (feminine 1550, masculine 1611).
つまり,modus は古典時代後のラテン語でこそ現代的な「法」の意味で用いられていたものの,古典ラテン語ではむしろ別の動詞の文法カテゴリーである「態」 (voice) の意味で用いられていたということになります.文法カテゴリーを表わす用語群が混同しているかのように見えます.これはどう理解すればよいでしょうか.
実は voice という用語自体にも似たような事情がありました.「#1520. なぜ受動態の「態」が voice なのか」 ([2013-06-25-1]) で触れたように,英語において,voice は現代的な「態」の意味で用いられる以前に,別の動詞の文法カテゴリーである「人称」 (person) を表わすこともありましたし,名詞の文法カテゴリーである「格」 (case) を表わすこともありました.さらにラテン語の用語事情を見てみますと,「態」を表わした用語の1つに genus がありましたが,この語は後に gender に発展し,名詞の文法カテゴリーである「性」 (gender) を意味する語となっています.
以上から見えてくるのは,この辺りの用語群の混同は歴史的にはざらだったということです.考えてみれば,現在でも動詞や名詞の文法カテゴリーを表わす用語を列挙してみると,法 (mood),相 (aspect),態 (voice),性 (gender),格 (case) など,いずれも初見では意味が判然としませんし,なぜそのような用語(日本語でも英語でも)が割り当てられているのかも不明なものが多いことに気付きます.比較的分かりやすいのは時制 (tense),(number),人称 (person) くらいではないでしょうか.
英語の mood/mode, aspect, voice, gender, case や日本語の「法」「相」「態」「性」「格」などは,いずれも言葉(を発する際)の「方法」「側面」「種類」程度を意味する,意味的にはかなり空疎な形式名詞といってよく,kind, type, class,「種」「型」「類」などと言い換えてもよい代物です.ということは,これらはあくまで便宜的な分類名にすぎず,そこに何らかの積極的な意味が最初から読み込まれていたわけではなかったという可能性が示唆されます.
議論をまとめましょう.2日間の記事で「法」を「気分」あるいは「モード」とみる解釈を示してきました.しかし,この解釈は,用語の起源という観点からいえば必ずしも当を得ていません.mode は語源としては「方法」程度を意味する形式名詞にすぎず,当初はそこに積極的な意味はさほど含まれていなかったと考えられるからです.しかし,今述べたことはあくまで用語の起源という観点からの議論であって,後付けであるにせよ,私たちがそこに「気分」や「モード」という積極的な意味を読み込んで解釈しようとすること自体に問題があるわけではありません.実際のところ,共時的にいえば「法」=「気分」「モード」という解釈はかなり奏功しているのではないかと,私自身も思っています.
昨日の記事 ([2020-03-23-1]) に引き続き,言語の法 (mood) についてです.昨日の記事からは,mood と mode はいずれも「法」の意味で用いられ,法とは「気分」でも「モード」でもあるからそれも合点が行く,と考えられそうに思います.しかし,実際には,この両単語は語源が異なります.昨日「mood は mode にも通じ」るとは述べましたが,語源が同一とは言いませんでした.ここには少し事情があります.
mode から考えましょう.この単語はラテン語 modus に遡ります.ラテン語では "manner, mode, way, method; rule, rhythm, beat, measure, size; bound, limit" など様々な意味を表わしました.さらに遡れば印欧祖語 *med- (to take appropriate measures) にたどりつき,原義は「手段・方法(を講じる)」ほどだったようです.このラテン単語はその後フランス語で mode となり,それが後期中英語に mode として借用されてきました.英語では1400年頃に音楽用語として「メロディ,曲の一節」の意味で初出しますが,1450年頃には言語学の「法」の意味でも用いられ,術語として定着しました.その初例は OED によると以下の通りです.moode という綴字で用いられていることに注意してください.
mode, n.
. . . .
2.
a. Grammar. = mood n.2 1.
Now chiefly with reference to languages in which mood is not marked by the use of inflectional forms.
c1450 in D. Thomson Middle Eng. Grammatical Texts (1984) 38 A verbe..is declined wyth moode and tyme wtoute case, as 'I love the for I am loued of the' ... How many thyngys falleth to a verbe? Seuene, videlicet moode, coniugacion, gendyr, noumbre, figure, tyme, and person. How many moodes bu ther? V... Indicatyf, imperatyf, optatyf, coniunctyf, and infinityf.
次に mood の語源をひもといてみましょう.現在「気分,ムード」を意味するこの英単語は借用語ではなく古英語本来語です.古英語 mōd (心,精神,気分,ムード)は当時の頻出語といってよく,「#1148. 古英語の豊かな語形成力」 ([2012-06-18-1]) でみたように数々の複合語や派生語の構成要素として用いられていました.さらに遡れば印欧祖語 *mē- (certain qualities of mind) にたどりつき,先の mode とは起源を異にしていることが分かると思います.
さて,この mood が英語で「法」の意味で用いられたのは,OED によれば1450年頃のことで,以下の通りです.
mood, n.2
. . . .
1. Grammar.
a. A form or set of forms of a verb in an inflected language, serving to indicate whether the verb expresses fact, command, wish, conditionality, etc.; the quality of a verb as represented or distinguished by a particular mood. Cf. aspect n. 9b, tense n. 2a.
The principal moods are known as indicative (expressing fact), imperative (command), interrogative (question), optative (wish), and subjunctive (conditionality).
c1450 in D. Thomson Middle Eng. Grammatical Texts (1984) 38 A verbe..is declined wyth moode and tyme wtoute case.
気づいたでしょうか,c1450の初出の例文が,先に挙げた mode のものと同一です.つまり,ラテン語由来の mode と英語本来語の mood が,形態上の類似(引用中の綴字 moode が象徴的)によって,文法用語として英語で使われ出したこのタイミングで,ごちゃ混ぜになってしまったようなのです.OED は実のところ「心」の mood, n.1 と「法」の mood, n.2 を別見出しとして立てているのですが,後者の語源解説に "Originally a variant of mode n., perhaps reinforced by association with mood n.1." とあるように,結局はごちゃ混ぜと解釈しています.意味的には「気分」「モード」辺りを接点として,両単語が結びついたと考えられます.したがって,「法」を「気分」「モード」と解釈する見方は,ある種の語源的混同が関与しているものの,一応のところ1450年頃以来の歴史があるわけです.由緒が正しいともいえるし,正しくないともいえる微妙な事情ですね.昨日の記事で「法」を「気分」あるいは「モード」とみる解釈が「なかなかうまくできてはいるものの,実は取って付けたような解釈だ」と述べたのは,このような背景があったからです.
では,標題の疑問に対する本当の答えは何なのでしょうか.大本に戻って,ラテン語で文法用語としての modus がどのような意味合いで使われていたのかが分かれば,「法」 (mood, mode) の真の理解につながりそうです.それは明日の記事で.
印欧語言語学では「法」 (mood) と呼ばれる動詞の文法カテゴリー (category) が重要な話題となります.その他の動詞の文法カテゴリーとしては時制 (tense),相 (aspect),態 (voice) がありますし,統語的に関係するところでは名詞句の文法カテゴリーである数 (number) や人称 (person) もあります.これら種々のカテゴリーが協働して,動詞の形態が定まるというのが印欧諸語の特徴です.この作用は,動詞の活用 (conjugation),あるいはより一般的には動詞の屈折 (inflection) と呼ばれています.
印欧祖語の法としては,「#3331. 印欧祖語からゲルマン祖語への動詞の文法範疇の再編成」 ([2018-06-10-1]) でみたように直説法 (indicative mood),接続法 (subjunctive mood),命令法 (imperative mood),祈願法 (optative mood) の4種が区別されていました.しかし,ずっと後の北西ゲルマン語派では最初の3種に縮減し,さらに古英語までには最初の2種へと集約されていました(現代における命令法の扱いについては「#3620. 「命令法」を認めず「原形の命令用法」とすればよい? (1)」 ([2019-03-26-1]),「#3621. 「命令法」を認めず「原形の命令用法」とすればよい? (2)」 ([2019-03-27-1]) を参照).さらに,古英語以降,接続法は衰退の一途を辿り,現代までに非現実的な仮定を表わす特定の表現を除いてはあまり用いられなくなってきました.そのような事情から,現代の英文法では歴史的な「接続法」という呼び方を続けるよりも,「仮定法」と称するのが一般的となっています(あるいは「叙想法」という呼び名を好む文法家もいます).
さて,現代英語の法としては,直説法 (indicative mood) と仮定法 (subjunctive mood) の2種の区別がみられることになりますが,この対立の本質は何でしょうか.一般には,機能的にデフォルトの直説法に対して,仮定法は話者の命題に対する何らかの心的態度がコード化されたものだといわれます.何らかの心的態度というのも曖昧な言い方ですが,先に触れた例でいうならば「非現実的な仮定」が典型です.If I were a bird, I would fly to you. における仮定法過去形の were は,話者が「私は鳥である」という非現実的な仮定の心的態度に入っていることを示します.言ってみれば,妄想ワールドに入っていることの標識です.
同様に,仮定法現在形 go を用いた I suggest that she go alone. という文においても,話者の頭のなかで希望として描いているにすぎない「彼女が一人でいく」という命題,まだ起こっていないし,これからも確実に起こるかどうかわからない命題であることが,その動詞形態によって示されています.先の例ほどインパクトは強くないものの,これも一種の妄想ワールドの標識です.
「法」という用語も「心的態度」という説明も何とも思わせぶりな表現ですが,英語としては mood ですから,話者の「気分」であるととらえるのもある程度は有効な解釈です.つまり,法とは話者がある命題をどのような「気分」で述べているのか(たいていは「妄想的な気分」)を標示するものである,という見方です.あるいは mood は mode 「モード,様態」にも通じ,実際に両単語とも言語学用語としての法の意味で用いられますので,話者の「モード」と言い換えてもよさそうです.仮定法は,妄想モードを標示するものということです.
法については上記のような「気分」あるいは「モード」という解釈で大きく間違いはないと思います.ただし,この解釈は,用語の歴史を振り返ってみると,なかなかうまくできてはいるものの,実は取って付けたような解釈だということも分かってきます.それについては明日の記事で.
標題は,英語史では古くから論じられている問題である.答えが知りたい,しかし本当のところはわかり得ない,というもどかしい問題でもある.
昨日の記事「#3980. 古英語と古ノルド語の接触の結果は koineisation か? (2)」 ([2020-03-20-1]) で取り上げた Warner は,両者がそこそこ理解できたという前提の上で議論を進めているが,もちろんこの前提自体が妥当かどうかという問題があることは十分に意識している.実際,これまで様々な意見が提出されてきたことに触れ,その典拠も挙げてくれている (375) .おもしろく便利なので,以下にその箇所を引用しておこう.
How mutually comprehensible were the two languages? There is a range of views on this. 'The Englishmen and Northmen could easily understand each other in their own languages." says Björkmann (1900--2: 8), and Jespersen agreed. Haugen (1976: 138) writes that the languages were 'closely related and probably mutually intelligible,' Tristram (2004: 94) that 'with a little effort' speakers of Anglian and Norse 'were very well able to communicate in their everyday dealings.' Poussa thinks that 'communication between speakers of the different languages [would have been] possible, but not easy.' (1982: 27). Kastovsky (1992: 328--9) and Hansen (1984) think that mutual intelligibility was not high and that bilingualism would have been required.
Warner (375--76) が支持しているのは主として Townend の見解だ.
This area has recently been carefully re-examined by Townend (2000, 2002) and his claim that the languages were 'adequately mutually comprehensible' is rather convincing. He reminds us that in the mid-to-late ninth century we are only 400 years from the common North-West Germanic attested in runic inscriptions in southern Scandinavia and Jutland; a dialect area whose language was 'largely uniform' (Nielsen 1989: 5), and in which 'the evidence of both dialect grouping and the runic language supports the notion of a North-West Germanic continuum which contained (in proximity) speakers of the antecedents of both Norse and English' (Townend 2002: 25). We should not think in terms of Late West Saxon and Icelandic, the common citation forms: the English dialect is Anglian, which is closer to Norse, and Icelandic is 400 years later. So, for example, the suggestion made by Kastovsky (1992: 329) and Milroy (1997: 319) that the suffixed definite article of Norse would have contributed to difficulty of communication is unlikely to be relevant, since this development is not recorded until the eleventh century (Townend 2002: 183 note 1; 198 note 15)
なお,私自身の立場は Townend や Warner に近く「簡単な内容の会話であればおよそ通じたにちがいない」である.
・ Warner, Anthony. "English-Norse Contact, Simplification, and Sociolinguistic Typology." Neuphilologische Mitteilungen 118 (2017): 317--404.
・ Björkmann, Eric. Scandinavian Loan-Words in Middle English. Halle: Niemeyer, 1900--02.
・ Jespersen, O. Growth and Structure of the English Language. 9th ed. Oxford: Blackwell, 1938.
・ Haugen, Einar. The Scandinavian Languages: An Introduction to their History. London: Faber, 1976.
・ Tristram, H. "Diglossia in Anglo-Saxon England or What was Spoken Old English Like?" Studia Anglica Posnaniensia 40 (2004): 87--110.
・ Poussa, P. "The Evolution of Early Standard English: The Creolization Hypothesis." Studia Anglica Posnaniensia 14 (1982): 69--85.
・ Kastovsky, Dieter. "Semantics and Vocabulary." The Cambridge History of the English Language. Vol. 1. Ed. Richard M. Hogg. Cambridge: CUP, 1992. 290--408.
・ Hansen, B. H. "The Historical Implications of the Scandinavian Linguistic Element in English: A Theoretical Evaluation." Nowele 4 (1984): 53--95.
・ Townend, M. "Viking Age England as a Bilingual Society." Cultures in Contact: Scandinavian Settlement in England in the Ninth and Tenth Centuries. Ed. Dawn Hadley and J. D. Richards. Turnhout: Brepols, 2000. 89--105
・ Townend, M. Language and History in Viking Age England. Turnhout: Brepols, 2002.
・ Nielsen, Hans Frede. Germanic Languages: Origins and Early Dialectal Interrelations. Tuscaloosa/London: U of Alabama P, 1989.
・ Milroy, James 1997. "Internal versus External Motivations of Linguistic Change." Multilingua 16 (1997): 311--23.
2月14日に,『英語教育』(大修館書店)の3月号が発売されました.英語史連載「英語指導の引き出しを増やす 英語史のツボ」としては今回が最終回となります.最後の話題は「なぜアメリカ英語はイギリス英語と異なっているのか」です.
アメリカ合衆国とイギリスを国として比較した場合,典型的なイメージとしては,アメリカは新しいもの好きの革新主義,イギリスは古いもの好きの保守主義といったところでしょう.しかし,アメリカ英語とイギリス英語を英語変種として比較した場合,上のステレオタイプはしばしば当てはまりません.むしろアメリカ英語のほうが古い語法をよく保持していたり,イギリス英語のほうが新しい言葉使いを発達させていたりということが,よくあります.もちろんステレオタイプ通りにアメリカ英語が革新的で,イギリス英語が保守的であるという事例も少なくないことは事実なので,全体としていえば,両英語変種は革新・保守という軸でことさらに対立させるよりも,単に様々な点で互いに異なっていると表現したほうが妥当のように思われます.英米変種の異なり方には,表面的に眺めるだけでは見えてこない,歴史的な様々なパターンがあったのです.
今回の連載記事では主に発音と綴字の英米差に焦点を当て,アメリカへの移民のタイミングやアメリカ人ノア・ウェブスターによる綴字改革といった社会的な要因が,いかにして変種間の差異をもたらしたかを紹介しました.なぜアメリカ英語では car, four, star などの r が独特の巻き舌で発音されるのに,イギリス英語では子音として発音されないのか.なぜ color (米)/colour (英),center/centre, traveling/travelling のような綴字の差が存在するのか.いずれの問題も,英語の歴史をたどることによって理由が明らかになります.
今回の記事で英語の英米差に関心をもった方は,本ブログからの以下の記事(および ame_bre の全記事)もお読みください.
・ 「#357. American English or British English?」 ([2010-04-19-1])
・ 「#359. American English or British English? の解答」 ([2010-04-21-1])
・ 「#1343. 英語の英米差を整理(主として発音と語彙)」 ([2012-12-30-1])
・ 「#244. 綴字の英米差のリスト」 ([2009-12-27-1])
・ 「#240. 綴字の英米差は大きいか小さいか?」 ([2009-12-23-1])
・ 「#312. 文法の英米差」 ([2010-03-05-1])
・ 「#315. イギリス英語はアメリカ英語に比べて保守的か」 ([2010-03-08-1])
・ 「#1304. アメリカ英語の「保守性」」 ([2012-11-21-1])
・ 「#1266. アメリカ英語に "colonial lag" はあるか (1)」 ([2012-10-14-1])
・ 「#1267. アメリカ英語に "colonial lag" はあるか (2)」 ([2012-10-15-1])
・ 「#1268. アメリカ英語に "colonial lag" はあるか (3)」 ([2012-10-16-1])
・ 「#468. アメリカ語を作ろうとした Webster」 ([2010-08-08-1])
・ 「#3089. 「アメリカ独立戦争と英語」のまとめスライド」 ([2017-10-11-1])
・ 「#2916. 連載第4回「イギリス英語の autumn とアメリカ英語の fall --- 複線的思考のすすめ」」 ([2017-04-21-1])
・ 「#2925. autumn vs fall, zed vs zee」 ([2017-04-30-1])
12回の連載を読んでいただいた読者の方々には,1年間お付き合いいただきましてありがとうございます.連載を通じて主張してきたことは,現在の英語は歴史的に英語が変化してきた結果の姿である,ということです.もっと正確にいえば,英語を使用する社会全体が歴史的に英語を変化させてきた結果の姿である,ということです.英語史を通じて新しい英語の見方のツボが伝わったでしょうか.「英語史のツボ」は,本ブログでも引き続き追求していく予定です.今後ともよろしくお願い致します.
・ 「英語指導の引き出しを増やす 英語史のツボ 第12回 なぜアメリカ英語はイギリス英語と異なっているのか」『英語教育』2020年3月号,大修館書店,2020年2月14日.62--63頁.
これは難問です.英語史の観点からも様々な議論がなされていますが,決定的な答えは出されていません.したがって,以下では解答を与えるのではなく,英語史的な背景を説明することに専念しています.あしからず.
現代英語で語頭に <h> と綴られているのに /h/ として発音されない単語は,少数の特定の語に限られます.標題の hour, honour, honest, heir をはじめ,その関連語である hourly, honourable, honesty, heiress などが挙げられます.しかし,/h/ で発音されることもあれば発音されないこともある herb, historical, humour のような例が少なからず存在するのも事実です(cf. 「#461. OANC から取り出した発音されない語頭の <h>」 ([2010-08-01-1]),「#462. BNC から取り出した発音されない語頭の <h>」 ([2010-08-02-1])).
問題となっている hour, honour, honest, heir は,いずれも中英語期にフランス語から借用された語です.フランス語を学んだことのある人であれば,綴られている <h> は一切発音されないということを知っているかと思います.したがって,英語のフランス借用語については,フランス語での慣例通り,<h> と綴られていても /h/ とは発音されないのだと思われるかもしれません.
しかし,それは満足な解答とはなり得ません.フランス借用語は英語に万単位で流入しており,そのなかには <h> で始まるものも(それがフランス語でいう「無音の h」か否かを問わず)多数含まれています.それらの語は,hour や honour を含む少数の語を除いて,現代標準英語ではすべて確かに /h/ で発音されているのです.habit, heritage, history, host, human など枚挙にいとまがありません.したがって,hour や honour が「フランス語の発音様式」を真似たがゆえに,/h/ として発音されないのだという説明は,必ずしも間違いとはいえないものの,不十分な説明にとどまります.
問題は,なぜ無数の h- 語のなかでこれらの少数の語だけがピンポイントで選ばれ,「フランス語の発音様式」に従っているのかということです.逆にいえば,なぜそれ以外のすべての h- 語が「フランス語の発音様式」に従っていないのかということが問題となります.しかし,この「なぜ」の問いには,いまだ満足のいく答えが与えられていません.
問題を深掘りしていくと,問題設定の仕方も変わってくるものです.いまや標題の素朴な疑問は「なぜ hour や honour 以外のほとんどの h- 語がフランス語の発音様式に影響されていないのか」という疑問にパラフレーズされることになります.しかし,この再設定された疑問自体も,さらに歴史の事実を知ると,改めてパラフレーズしなければならないことに気づきます.というのは,主に中英語期以降にフランス語(やラテン語やギリシア語)から借用された h- 語におけるすべての <h> は,かつての英語で実に発音されていなかった可能性があるからです.中英語や近代英語では,これらの h が軒並み発音されていなかった節があるのです.この問題については学界においても議論があり定説となっているわけではありませんが,「#1292. 中英語から近代英語にかけての h の位置づけ」 ([2012-11-09-1]),「#1675. 中英語から近代英語にかけての h の位置づけ (2)」 ([2013-11-27-1]),「#1899. 中英語から近代英語にかけての h の位置づけ (3)」 ([2014-07-09-1]),「#1677. 語頭の <h> の歴史についての諸説」 ([2013-11-29-1]) で見た通り,一定の根拠があります.
<h> で綴られていても /h/ で発音されなかったのが,かつて常態だったとすれば,現在それらのほとんどが /h/ で発音されるようになっているのはなぜでしょうか.それは,近代英語期における英語標準化以降の体系的な綴字発音 (spelling_pronunciation) の結果と考えられます(もしこれが本当であれば,英語史上もっとも体系的に実践された綴字発音の事例といえます).<h> で綴られているのだから /h/ で発音しようという近代的な書き言葉ベースの規範意識が見事なまでに広まった結果,歴史的な発音はどうであれ,とにかく軒並み /h/ で発音されることになったのだと考えられます.しかし,どういうわけか,標題に挙げた特定の少数の語群にまでは,その波が及ばなかったようなのです.
先に再定義した「なぜ hour や honour 以外のほとんどの h- 語がフランス語の発音様式に影響されていないのか」という問いは,いまや次のようにパラフレーズされることになります.「すべての h- 語がかつてはフランス語の発音様式を真似て無音だったのに,なぜそこから脱して /h/ で発音されることになったのか」,そして「なぜ hour や honour などの少数の語だけは,フランス語の発音様式の影響からいまだに脱せずにいるのか」です.
残念ながら,標題の疑問を一言で解決することはできません.素朴な疑問は二転,三転して,新たな次元の疑問にもちこされてしまいました.私自身ももどかしいのですが,このような問題を解くために英語史を研究している次第です.
関連して h に関する本ブログのいくつかの記事を参照ください.
今年度も,大学の通年の英語史概説の講義が終了しました.昨年度と同様,受講生に感想や意見を募ってみましたので,以下に目にとまったコメントを抜き書きしておきます.様々な形で英語史を受け止めてもらえたようで,担当者としては嬉しい限りです(リップサービスも多々あると思うのですが,単純なので素直に受け取って喜んでいます).来年度の講義にも活かしていきたいと思います.
ちなみに,過年度のコメントについては「#3566. 2018年度,英語史の授業を通じて何を学びましたか?」 ([2019-01-31-1]),「#2470. 2015年度,英語史の授業を通じて何を学びましたか?」 ([2016-01-31-1]) をご参照ください.
・ 英語を「正しく」覚えられるかどうかで選別され,文字通り人生を左右されてきた私たちにとって,その歴史を学ぶことによって,英語の,あるいは言語そのものの本質的な無根拠さ(?)について理解することは,確実にひとつの解放になると思う.〔中略〕一見絶対的に見える所与の条件を疑うという知的態度は,母語である日本語について考える際にも当然不可欠であるだろうし,また言語以外の文化を歴史的なパースペクティブのなかで批判的に検討するときの足場にもなるはずである.
・ 「現代,地球語として覇権を握る英語というポジションは全く偶然による産物であり,その歴史的経緯に見かけ上の因果以外のものは存在しない」という視点が自分にとって最も重要だった.〔中略〕歴史を知り,英語を公正な立場で眺めることができれば,盲目的な英語崇拝といったところからは一歩引いて視野を広げられると思う.
・ 英語に内在するものだけが英語を国際語にしたのではないというあたり前のことを再確認させられた.
・ 「当たり前のをきまりとして終わらせる」のでなく,「当たり前であることの背景を知ることの豊かさ」のようなものを,大好きな英語について学べ,今後の将来へ活かせると実感出来たことが,私にとって最も価値のあるものであった.
・ 「当たり前」を「当たり前」とせず,それに疑問を抱き,ある意味クリティカルな姿勢で向き合うことの重要性を知れたことである.
・ 当たり前を当たり前に考えず,その理由を探してみようとする習慣を身につけたことである.
・ 中学生の頃から英語を学んできて謎に感じていたり,不自然さを覚えていた規則や不規則が,英語史を学ぶことでこんなにも明快に説明できると知り感動した.
・ 春の最初の授業で,先生が「英語史は,名前はかたくつまらなそうに聞こえるけど,実は英語と歴史を組み合わせた,超面白い分野なんだ」とおっしゃった意味がこれで分かりました.
・ 今まで受験などではあるイミで別教科だった「英語」と「歴史」がこの授業により結びついた.
・ 英語史とは外面上は歴史に過ぎないかもしれないが,内面は,初学時に感ずる,いや初学者のときにしか感じることのできない疑問をひもといてくれるものであった.自分の英語のこれまでの苦労を思い出させてくれると同時に,初学時に感じた疑問を歴史的に紐といてくれる授業は楽しかった
・ 英語史という面を通すことによって,今まで世界史の面でしかみてこなかった歴史上のできごとが,違った風に見えてきた.そのことによって物事を多面的に見ることの大切さを学ぶことができた.〔中略〕多くのものさしを持つことで,物事を多面的に見ることができ,そのためにはあらゆる分野のことを学び続けなければいけないと分かった.このことを大学2年生で知れたことは,価値のあることで,また,その価値を無駄にしないよう,あらゆる物事,人,文化などから学ぶ姿勢をとり続けたいと思った.
・ 例外にもそうなった経緯があること,今まであたり前に覚えさせられてきたことも当たり前ではなくてきちんと背景や歴史があることを学べたことで今まで何とも思っていなかった事柄にも,何層にもなった深みがあることに気付けた.英語だけでなくこれはあらゆることに共通している大切なことだと思うので,学生のうちに気が付けて良かった.
・ 文化→言語,歴史→言語の一方通行ではなく,堀田先生のような言語学者の方々が言語→文化,言語→歴史を明らかにしているから,私達は今色々なことを知ることが出来ると知れたことは私の学問に対して,言語学に関しての価値観が広がり,視野も広くなり,とても価値があることだと感じました.
・ 日本語で古典を勉強していた時も,新しい流行語を見るにつけてもその言葉の「変わりうる」という性質にかつてはわずらわしさを感じることもあったが,それが英語史を勉強した後の今となっては人間の営みらしさゆえのことであると思えるようになり,その変化が愛おしくすら感じるようになった.
・ 通年,英語史を学ばせていただいた後に,昨今のヒスパニック・アフリカ系移民による言語変化やSNSの登場による言語の「悪化」などと呼ばれている諸現象を見ると,英語の歴史において当然の事であり,そういった意味では大騒ぎするほどの大事件ではないと冷静に状況を観察している自分に気が付きます.
・ 学校での英語の授業では「こういうものです」と教えられがちな英語の実に様々なことについて疑問をもち,追求する姿勢が大切であると学んだ.
・ 現在考えられる疑問の原因を探ろうとする時,何か重要な法則や,決め手となる事柄があるだろうと思い,それによって解決できると考えてしまいがちであるが,そうでない時もあったり,または思いがけないほど小さな原因であったりするので,期待し過ぎたり,思い込みで解決した気,わかった気になってしまうのは,もったいない,馬鹿なこと,または無駄なことであると学ぶことができました.
・ 「英語の本質は,雑種性である」という先生の言葉です.おそらく,後期の初めの方に,先生がおっしゃったと思うのですが,非常に印象に残っています.確かにそうだと納得しました.この授業を受けていく中で,いままで,自分が英語に対して抱いていた,考え方だったり価値観というものが,良い意味で少しずつ壊されていきました.その上で,本質をもう一度考えるという体験をできたということが,最も価値のあるものだったと思っています.
・ 英語史を学んだことで,英語だけでなく日本語の歴史にも興味が沸き,増えたり減ったり,文字と音が離れたり,まるで生き物のように変化する言葉というものを,とても魅力的に感じました.
・ 全ての事柄について「なんとなく」で終わらせない先生の授業は,大変ためになりました.
・ 英語の歴史を知ることで英語を学ぶモチベーションが更に上がりました.
・ 先入観を持たずに,長い目でものごとを見ることって何事においても大切なのではないかなと言語,英語史を通じて学んだ.
一昨日 ([2020-01-18-1]) と昨日 ([2020-01-19-1]) の記事に引き続き,Chibanian という新語についての話題.この語の接尾辞 -ian について考えてきたが,Chiba と -ian の間にある n はいったい何ものなのだろうか.表面的には -nian 全体が接尾辞のようにみえるが,連日みてきたように,語源的にいえばあくまで -ian の部分が接尾辞である.
ネットを調べてみると,この n の問題を含めた Chibanian の名称についてコメントしている人々がいた.「『チバニアン』でよいのか?」のほか,Twitter でもこちらやこちらで疑問が表明されている.各々,興味深い議論がなされている.
ここはラテン語研究者に解説をお願いしたいところだが,お願いといっても半分は冗談である.私自身もこの2日間の記事でラテン語を含めて語源云々をひもといてきたが,いってしまえば Chibanian はあくまで現代的な Neo-Latin の造語である.現代の命名にあたってどこまで厳密に(古典)ラテン語の語形成を踏まえるべきなのか,あるいは近年の造語慣習になるべく従うべきなのかについては,明示的な規範があるわけではない.Chibanian でなくとも,Chiban, Chibian, Chibean など,それらしい命名であれば何でもよいのではないかと思っている.「#2979. Chibanian はラテン語?」 ([2017-06-23-1]) でも示唆したように,Chibanian には日本語の地名が含まれているもののラテン語の風貌をしており,全体としては英語風に綴られ発音されるという,まさにハイブリッドのたまものである.3言語が,狭い場所で互いに押しすぎず引きすぎず身を寄せ合って生活している寄合所帯みたいなものなのだ.いずれかの言語の語形成上の規範を押しつけたところで,平和には暮らせなさそうである.
ということで,挿入されている n についても自由に解釈してよいと思う.語形・音形を整えるだけの連結母音という見方もよいだろうし,Romanian や Iranian などにならって -nian で切り出した新たな接尾辞と見てもよいかもしれない(cf. 「#3488. 膠着と滲出」 ([2018-11-14-1]) の滲出).類例として Panama に対して Panamanian という例がある.OED によると,Panamanian の2つ目の n について,"English -n-" あるいは "-n-, connective element" とだけ記されている.要するに,理由は不明だが挿入されているということだ.Guam -- Guamanian, Honduras -- Honduranian も同様だろう.このような例があるといえばあるのである.
1月14日に,『英語教育』(大修館書店)の2月号が発売されました.英語史連載「英語指導の引き出しを増やす 英語史のツボ」の第11回となる今回は「なぜ英語には省略語が多いのか」という話題です.
今回の連載記事は,タイトルとしては省略語に焦点を当てているようにみえますが,実際には英語の語形成史の概観を目指しています.複合 (compounding) や派生 (derivation) などを多用した古英語.他言語から語を借用 (borrowing) することに目覚めた中英語.品詞転換 (conversion) あるいはゼロ派生 (zero-derivation) と呼ばれる玄人的な技を覚えた後期中英語.そして,近現代英語にかけて台頭してきた省略 (abbreviation) や短縮 (shortening) です.
英語史を通じて様々に発展してきたこれらの語形成 (word_formation) の流れを,四則計算になぞらえて大雑把にまとめると,(1) 足し算・掛け算の古英語,(2) ゼロの後期中英語,(3) 引き算・割り算の近現代英語となります.現代は省略や短縮が繁栄している引き算・割り算の時代ということになります.
英語の語形成史を上記のように四則計算になぞらえて大づかみして示したのは,今回の連載記事が初めてです.荒削りではありますが,少なくとも英語史の流れを頭に入れる方法の1つとしては有効だろうと思っています.ぜひ原文をお読みいただければと思います.
省略や短縮について,連載記事と関連するブログ記事へリンクを集めてみました.あわせてご一読ください.
・ 「#631. blending の拡大」 ([2011-01-18-1])
・ 「#876. 現代英語におけるかばん語の生産性は本当に高いか?」 ([2011-09-20-1])
・ 「#887. acronym の分類」 ([2011-10-01-1])
・ 「#889. acronym の20世紀」 ([2011-10-03-1])
・ 「#893. shortening の分類 (1)」 ([2011-10-07-1])
・ 「#894. shortening の分類 (2)」 ([2011-10-08-1])
・ 「#1946. 機能的な観点からみる短化」 ([2014-08-25-1])
・ 「#2624. Brexit, Breget, Regrexit」 ([2016-07-03-1])
・ 「#2982. 現代日本語に溢れるアルファベット頭字語」 ([2017-06-26-1])
・ 「#3075. 略語と暗号」 ([2017-09-27-1])
・ 「#3329. なぜ現代は省略(語)が多いのか?」 ([2018-06-08-1])
・ 「#3708. 省略・短縮は形態上のみならず機能上の問題解決法である」 ([2019-06-22-1])
・ 「英語指導の引き出しを増やす 英語史のツボ 第11回 なぜ英語には省略語が多いのか」『英語教育』2020年2月号,大修館書店,2020年1月14日.62--63頁.
ここ数年の間,May the force be with you! のような祈願の may の発達について,主に統語的な立場から関心を寄せてきた.本ブログでも may あるいは optative の各記事で扱ってきた通りだし,1年ほど前の2018年12月15には,東京大学駒場キャンパスで開催された日本歴史言語学会のシンポジウム「認知と歴史言語学 --- 文法化・構文化と認知の関係性 ---」において,「英語における祈願の may の発達」という題目で少しく話しをさせていただいた.
しかし,「祈願」,あるいは平たくいって「祈り」とは何ぞやという最重要の問題には,これまで手をつけずにきた.発話行為 (speech_act) の1種であるという理解でやってきたが,それはいったいどのような行為なのか.本質の理解が大事だとは知りながらも,きちんと整理せずに研究していたきらいがある.
しかし,たいていの発話行為の研究は,もしかしたら似たような状況なのかもしれない.言語の問題をはるかに超えたところにある問題だからだ.いや,まさにこの点にこそ,語用論研究の発展の可能性が開けているといえるのかもしれない.
とまれ「祈り」とは何か.『世界百科事典』第2版より,最も近いと思われる「祈禱」の項を参照してみた.
逾?禱
きとう
祈禱は広義に解すれば,すべての宗教的祈願,祈念,祈りを意味する.この意味の祈禱は普遍的にみられる宗教現象である.この場合,祈禱とは,神や仏といった超自然的存在と信者との交流の一形態であると考えられる.祈禱はまず大別して,会話型と黙禱型の2類型に分けて考えることができよう.会話型とは声を用いて祈り言葉などを誦する祈禱であり,黙禱型とは心のなかで念じて祈る型である.もちろん両者とも付随的に,閉眼,合掌などさまざまな動作が並行的になされることもおおい.さらに祈禱を個人的タイプと集団的タイプに類別することも可能である.信者が聖像や宗教的シンボルの前で,あるいは心中にそれを思い浮かべて個人的に行うものが前者である.ところがそれが定型化され集団的になされるのが後者である.この場合,祈禱が宗教儀礼化されているといえよう.
祈禱はあくまでも祈る対象があって成立する.そのため神や超自然的存在を立てない宗教には祈禱や祈りは存在しないという考え方もある.原始仏教や禅仏教がその例とされる.しかし座禅やヨーガといった修行のなかには,全人格をあげ宇宙の真理の体得をめざすといった広い意味での祈りの要素を見てとることもできる.研究者によっては,このような祈禱を神秘主義的祈禱とし,それに対して神をおき,それとの交流に中心をおく祈禱を預言者宗教的ないし対話的祈禱と名づけている.
祈禱の内容には請願,感謝,懺悔,賛美などがある.この場合,神や仏に対して具体的な効果やなんらかの直接的働きを期待するのは,純粋な意味での祈禱や祈りではないとする立場もある.神学者や宗教家の見解にもよくみられるし,またかつては未開宗教の研究者にも同様の見解が有力だった.そこでは,具体的効果を期待するものは,呪術ないし呪文であるとされる.そして呪文から祈禱および祈りへという進化が論じられた.しかしその後の研究の結果,呪文に満ちているといわれた未開宗教にも,高等宗教にみられるような祈りが存在することが判明した.また高等宗教の祈禱も呪文的性格を持ちうることも指摘されるようになった.キリスト教の主の祈りにせよ仏教の念仏にせよ,それが形式化され機械的に繰り返されることによって呪文的に用いられていることも現実に存在する.それゆえ最近では,呪文から祈禱へという図式はあまり論ぜられない.
日本語の祈禱の語は,とくにそれが〈御祈禱〉とされると,その意味がかなり限定されてくる.これは具体的な目的の成就達成を願って神仏に祈願する宗教行動をさす.家内安全,交通安全,病気平癒,五穀豊穣などいわゆる現世利益(げんぜりやく)を求めるものである.密教系寺院を中心に禅宗系や日蓮系寺院あるいは神社などで行われる.密教における護摩儀礼などがその代表例である.⇒加持祈禱 星野 英紀
うーむ,呪文か.祈願の may に関する統語問題などと呑気に構えてきたが,どうやら抜き差しならない話しになってきた.発話行為の問題は,言語学の領域にとどまってはいられない果てしなく射程の広いテーマのようだ.形式ではなく機能から迫る傾向のある語用論の研究は,容易に cross-disciplinary となり得る.エキサイティングだが,正直にいって扱いにくいトピックではある.
明けましておめでとうございます.本年も英語史ブログを続けていく予定です.どうぞよろしくお願い申し上げます.
この1年間でどのような記事がよく読まれてきたか,ざっと調べてみました.12月30日付のアクセス・ランキング (access ranking) のトップ500記事をご覧ください.
なぜかトップは「#2227. なぜ <u> で終わる単語がないのか」 ([2015-06-02-1]) という記事でした.その他の最上位の記事は,順位の入れ替えはあるにせよ,いつみてもおよそ固定している感じです.英語史ブログなのに,3位が「#1525. 日本語史の時代区分」 ([2013-06-30-1]) というのは,いつみてもコケそうになります(ただし,私自身は英語史と日本語史の比較対照に,並々ならぬ関心を寄せています).ぜひ専門の方に日本語史ブログを始めていただきたいところです.なお,「#1524. 英語史の時代区分」 ([2013-06-29-1]) は107位です.
昨年より,雑誌『英語教育』(大修館書店)にて英語の素朴な疑問を話題にする連載記事「英語指導の引き出しを増やす 英語史のツボ」を執筆する機会をいただいていることもあり,2019年は本ブログでも意識して素朴な疑問を取り上げてきました.先のトップ500記事のなかから昨年中に執筆したものを集めると,以下のとおりです.素朴な疑問に関する記事がよく読まれたことが分かります.
ということで,今年も素朴な疑問をなるべく多く取り上げていきたいと思います.関連して英語に関する素朴な疑問集もどうぞ.
12月13日に,『英語教育』(大修館書店)の1月号が発売されました.英語史連載「英語指導の引き出しを増やす 英語史のツボ」の第10回となる今回は「なぜ英語には類義語が多いのか」という話題を扱っています.
英語には「上がる」を意味する動詞として rise,mount,ascend などの類義語があります.「活発な」を表わす形容詞にも lively, vivacious, animated などがあります.名詞「人々」についても folk, people, population などが挙がります.これらは「英語語彙の3層構造」の典型例であり,英語がたどってきた言語接触の歴史の遺産というべきものです.本連載記事では,英語語彙に特徴的な豊かな類義語の存在が,1066年のノルマン征服と16世紀のルネサンスのたまものであり,さらに驚くことに,日本語にもちょうど似たような歴史的事情があることを指摘しています.
「英語語彙の3層構造」については,本ブログでも関連する話題を多く取り上げてきました.以下をご覧ください.
・ 「#334. 英語語彙の三層構造」 ([2010-03-27-1])
・ 「#1296. 三層構造の例を追加」 ([2012-11-13-1])
・ 「#1960. 英語語彙のピラミッド構造」 ([2014-09-08-1])
・ 「#2072. 英語語彙の三層構造の是非」 ([2014-12-29-1])
・ 「#2279. 英語語彙の逆転二層構造」 ([2015-07-24-1])
・ 「#2643. 英語語彙の三層構造の神話?」 ([2016-07-22-1])
・ 「#387. trisociation と triset」 ([2010-05-19-1])
・ 「#2977. 連載第6回「なぜ英語語彙に3層構造があるのか? --- ルネサンス期のラテン語かぶれとインク壺語論争」」 ([2017-06-21-1])
・ 「#3374. 「示相語彙」」 ([2018-07-23-1])
・ 「#335. 日本語語彙の三層構造」 ([2010-03-28-1])
・ 「#3357. 日本語語彙の三層構造 (2)」 ([2018-07-06-1])
・ 「#1630. インク壺語,カタカナ語,チンプン漢語」 ([2013-10-13-1])
・ 「#1526. 英語と日本語の語彙史対照表」 ([2013-07-01-1])
・ 堀田 隆一 「なぜ英語には類義語が多いのか」『英語教育』2020年1月号,大修館書店,2019年12月13日.62--63頁.
英語史や英語学の講義でリアクション・ペーパーを書いてもらうと「なぜ英語には○○のような不規則な現象が多いのですか」という疑問が多く寄せられます.確かに英語学習においては,不規則な動詞活用,不規則な名詞の複数形,不規則なスペリングなどが立て続けに現われ,そのたびに暗記を強いられます.すべてが規則的であればいいのにと思うのも無理からぬことです.英語を第2言語として学ぶ際にそのような不満を感じることは,まったくもって普通の感覚でしょう.
しかし,すでに第1言語として苦労なく習得してしまっている日本語を考えても,やはり不規則性に満ちています.日本語母語話者は,五段活用,上一段活用,下一段活用,ラ行変格活用,サ行変格活用を何の苦労もなく使いこなしていますが,外国語として日本語を学んでいる学習者にとっては,なぜすべての動詞が五段活用であってくれないのかと不満かもしれません.ラ変やサ変は「変格」すなわち「不規則」なわけですから,学習者にとっては迷惑でしょう.英語学習者にとっての thing -- thought -- thought や go -- went -- gone と大差ありません.
言語には不規則は付きものです.不規則性は古今東西の諸言語に普遍的な現象なのです.さらに外国語学習者にとって気の滅入る事実を明言すれば,基本的,日常的,高頻度の項目であればあるほど不規則性が高いのです.つまり,あらゆる外国語学習において初級レベルほど暗記すべき不規則性が多く,中級・上級レベルに近づいてくると規則性が現われてきます.絶望的ともいえる事実ですが,これが言語というものです.
問題は,なぜ不規則性があるかということです.ある程度の不規則性が古今東西の諸言語を通じて普遍的であるとすれば,言語においては,すべてが規則的だとむしろ都合の悪いことがあるのだと想定せざるをえません.ある程度の不規則性があったほうが,便利な何かがあるということです.では,それは何なのでしょうか.
この問題について考えを巡らせながら「作業机と文房具」の比喩に思い至りました.今,この文章を書いている自宅の机付近には様々な文房具があります.すぐに手を伸ばしたところにある机上のペン立ての中には,各種のペンのほか,はさみ,カッター,定規,ホッチキスの芯外しがあります.同じく手近なところには,ポストイットとメモパッドがあります.一方,目の前には様々な文房具を収納できる引き出し棚があり,そこには糊,セロテープ,消しゴム,クリップ類,ホッチキス,画鋲などが入っています.机に備え付けの引き出しは,どうも使いにくいためにあまり利用していませんが,開けてみると万年筆用のインク,大型ホッチキス,穴あけパンチ,長い定規などが入っています.
振り返ってみると,最初から上のような配置で文房具を整理したわけではありませんでした.長い時間をかけて,私にとって事務作業上都合のよい配置になってきたものと思われます.はさみやホッチキスの芯外しは,私にとって使用頻度が高いので手近にあったほうが便利だということで,常に至近のペン立てに定住するに至ったのでしょう.一方,穴あけパンチはほとんど使わないので,机に付属の引き出しの最も奥に眠っているのでしょう.使用頻度の高い文房具は,とにかくすぐに手に届く場所にないと役に立ちません.一方,ほとんど使用しない文房具は,むしろ引き出しの奥深くであってもきちんと整理・収納されているほうが精神衛生上気持ちよいですし,たまに使うくらいであればむしろ便利なのです.
使用頻度の低い文房具であれば「あそこの引き出し」の「奥の方」という2段構えの検索方法でも十分用を足します.たまの使用ですから,探すのに少々の時間と工程数がかかっても我慢できます.しかし,使用頻度の高い文房具はそうもいきません.きれいに収納されていなくとも,ペンやポストイットは,やはりすぐ手元になければ役に立たないのです.無造作でかまわない,とにかくアクセスするのに時間と工程数が少ないほうがよいのです.
言語使用における単語も,この文房具と同じことです.現代英語社会において一般に go (行く)と locomote (自力で動く)とでは頻度が明らかに異なります.たまにしか使わない動詞については,規則的に活用させる,すなわち locomote + ed のように計算させるという面倒にも耐えられますが,高頻度の動詞について,同じようにいちいち工程数をかけて計算させるのは,明らかに効率が悪いでしょう.go といえば went というように,かけ算九九のようにすぐに答えが出るほうが便利です.確かに最初に暗記するコストは高くつきますが,いったんそれをクリアしてしまえば,その後の毎回の使用に際して効率のよいパフォーマンスを得られます.また,語形が大きく異なることにより,言い間違いや聞き間違いの可能性が低くなるという利点もあります.不規則だからこそ便利ということもあるのです.
すべての単語が同頻度で用いられるような言語はありませんし,そのような言語が用いられる人間社会も想像できません.よく使わない単語とほとんど使わない単語が同居しているのが言語というものです.もし上に述べた仮説の通り,単語による頻度の差と不規則性が関係しているのだとすれば,なぜ古今東西の言語において不規則な現象がみられるのかが理解できます.
11月14日に,『英語教育』(大修館書店)の12月号が発売されました.英語史連載「英語指導の引き出しを増やす 英語史のツボ」の第9回となる今回の話題は「なぜ英語のスペリングには黙字が多いのか」です.
黙字 (silent_letter) というのは,climb, night, doubt, listen, psychology, autumn などのように,スペリング上は書かれているのに,対応する発音がないものをいいます.英単語のスペリングをくまなく探すと,実に a から z までのすべての文字について黙字として用いられている例が挙げられるともいわれ,英語学習者にとっては実に身近な問題なのです.
今回の記事では,黙字というものが最初から存在したわけではなく,あくまで歴史のなかで生じてきた現象であること,しかも個々の黙字の事例は異なる時代に異なる要因で生じてきたものであることを易しく紹介しました.
連載記事を読んで黙字の歴史的背景の概観をつかんでおくと,本ブログで書いてきた次のような話題を,英語史のなかに正確に位置づけながら理解することができるはずです.
・ 「#2518. 子音字の黙字」 ([2016-03-19-1])
・ 「#1290. 黙字と黙字をもたらした音韻消失等の一覧」 ([2012-11-07-1])
・ 「#34. thumb の綴りと発音」 ([2009-06-01-1])
・ 「#724. thumb の綴りと発音 (2)」 ([2011-04-21-1])
・ 「#1902. 綴字の標準化における時間上,空間上の皮肉」 ([2014-07-12-1])
・ 「#1195. <gh> = /f/ の対応」 ([2012-08-04-1])
・ 「#2590. <gh> を含む単語についての統計」 ([2016-05-30-1])
・ 「#3333. なぜ doubt の綴字には発音しない b があるのか?」 ([2018-06-12-1])
・ 「#116. 語源かぶれの綴り字 --- etymological respelling」 ([2009-08-21-1])
・ 「#1187. etymological respelling の具体例」 ([2012-07-27-1])
・ 「#579. aisle --- なぜこの綴字と発音か」 ([2010-11-27-1])
・ 「#580. island --- なぜこの綴字と発音か」 ([2010-11-28-1])
・ 「#1156. admiral の <d>」 ([2012-06-26-1])
・ 「#3492. address の <dd> について (1)」 ([2018-11-18-1])
・ 「#3493. address の <dd> について (2)」 ([2018-11-19-1])
・ 堀田 隆一 「なぜ英語のスペリングには黙字が多いのか」『英語教育』2019年12月号,大修館書店,2019年11月14日.62--63頁.
標題は,すでに「素朴な疑問」の領域を超えており,むしろ誰も問わない疑問でしょう.昨日までの3つの記事 ([2019-11-13-1], [2019-11-14-1], [2019-11-15-1]) で,なぜ「新橋」(しんばし)のローマ字表記 Shimbashi には n ではなく m が用いられるかという疑問について議論してきましたが,それを裏返しにしたような疑問となっています(なので,先の記事を是非ご一読ください).
[ŋ] の発音を ng の文字(2文字1組の綴字)で表わすことは現代英語では一般的であり,これは音韻論的に /ŋ/ が一人前の音素として独立している事実に対応していると考えられます.同じ鼻子音であっても [n] や [m] と明確に区別されるべきものとして [ŋ] が存在し,だからこそ n や m と綴られるのではなく,ng という独自の綴り方をもつのだと理解できます.とすれば,新小岩の発音は [ɕiŋkoiwa] ですから,英語(あるいはヘボン式ローマ字)で音声的に厳密な表記を目指すのであれば *Shingkoiwa がふさわしいところでしょう.同様の理由で,英語の ink, monk, sync, thank も *ingk, *mongk, *syngc, *thangk などと綴られてしかるべきところです.しかし,いずれもそうなっていません.
その理由は,/ŋ/ については /n/ や /m/ と異なり,自立した音素としての基盤が弱い点にありそうです.歴史的にいえば,/ŋ/ が自立した音素となったのは後期中英語から初期近代英語にかけての時期にすぎません(cf. 「#1508. 英語における軟口蓋鼻音の音素化」 ([2013-06-13-1]))./n/ や /m/ が印欧祖語以来の数千年の歴史を誇る大人の音素だとすれば,/ŋ/ は赤ん坊の音素ということになります./ŋ/ は中英語期まではあくまで音素 /n/ の条件異音という位置づけであり,音韻体系上さして重要ではなく,それゆえに綴字上も特に n と区別すべきとはみなされていなかったのです.言い換えれば,[k] や [g] の前位置における [ŋ] は条件異音として古来当たり前のように実現されてきましたが,音素 /ŋ/ としては存在しなかったため,書き言葉上は単に n で綴られてきたということです.
中英語で kingk (king), dringke (drink), thingke (think) などの綴字が散発的にみられたことも確かですが,圧倒的に普通だったのは king, drink, think タイプのほうです.近代以降,音韻論的には /ŋ/ の音素化が進行したとはいえ,綴字的には前時代からの惰性で ng, nk のまま標準化が進行することになり,現代に至ります.
標題の疑問に戻りましょう.「新小岩」の「ん」は音声的には条件異音 [ŋ] として実現されますが,英語では条件異音 [ŋ] を綴字上 ng として表記する習慣を育んでこなかった歴史的経緯があります.そのため,英語表記,およびそれに基づいたヘボン式ローマ字では,*Shingkoiwa とならず,n を代用して Shinkoiwa で満足しているのです.
この2日間の記事 ([2019-11-13-1], [2019-11-14-1]) で標題の素朴な疑問について考えてきました.表面的にみると,日本語では「しんじゅく」「しんばし」という表記で「ん」を書き分けない一方,英語(あるいはヘボン式ローマ字)では Shinjuku と Shimbashi を書き分けているのですから,英語の表記は発音の違いに実に敏感に反応する厳密な表記なのだな,と思われるかもしれません.しかし,n と m の書き分けのみを取り上げて,英語表記が音声的に厳密であると断言するのは尚早です.他の例も考察しておく必要があります.
n と m という子音の違いが重要であるのは,両言語ともに一緒です.英語で nap と map の違いが重要なのと同様に,日本語で「な(名)」 na と「ま(間)」 ma の違いは重要です.ですから,日本語単語のローマ字表記において na と ma のように書き分けること自体は不思議でも何でもありません.ただし,問題の鼻子音が次に母音が来ない環境,つまり単独で立つ場合には日本語では鼻子音の違いが中和されるという点が,そうでない英語と比べて大きく異なるのです.
「さん(三)」は通常は [saɴ] と発音されますが,個人によって,あるいは場合によって [san], [saɲ], [saŋ], [sam], [sã] などと実現されることもあります.いずれの発音でも,日本語の文脈では十分に「さん」として解釈されます.ところが,英語では sun [sʌn], some [sʌm], sung [sʌŋ] のように,いくつかの鼻子音は単独で立つ環境ですら明確に区別しなければなりません.英語はこのように日本語に比べて鼻子音の区別が相対的に厳しく,その厳しさが正書法にも反映されているために,Shinjuku と Shimbashi の書き分けが生じていると考えられます.
しかし,話しはここで終わりません.上に挙げた sung [sʌŋ] のように,ng という綴字をもち [ŋ] で発音される単語を考えてみましょう. sing, sang, song はもちろん king, long, ring, thing, young などたくさんありますね.英語では [ŋ] を [n] や [m] と明確に区別しなければならないので,このように ng という 独自の文字(2文字1組の綴字)が用意されているわけです.とすれば,n と m が常に書き分けられるのと同列に,それらと ng も常に書き分けられているかといえば,違います.例えば ink, monk, sync, thank は各々 [ɪŋk], [mʌŋk], [sɪŋk], [θæŋk] と発音され,紛れもなく [ŋ] の鼻子音をもっています.それなのに,*ingk, *mongk, *syngc, *thangk のようには綴られません.n と m の場合とは事情が異なるのです.
英語は [n], [m], [ŋ] を明確に区別すべき発音とみなしていますが,綴字上それらの違いを常に反映させているわけではありません.n と m を書き分けることについては常に敏感ですが,それらと ng の違いを常に書き分けるほど敏感なわけではないのです.日本語の観点から見ると,英語表記はあるところでは確かに音声的により厳密といえますが,別のところでは必ずしも厳密ではなく,日本語表記の「ん」に近い状況といえます.もしすべての場合に厳密だったとしたら,「新小岩」(しんこいわ) [ɕiŋkoiwa] の英語表記(あるいはヘボン式ローマ字表記)は,現行の Shinkoiwa ではなく *Shingkoiwa となるはずです.
標題の疑問に戻りましょう.なぜ「新橋」(しんばし)のローマ字表記 Shimbashi には n ではなく m が用いられるのでしょうか.この疑問に対して「英語は日本語よりも音声学的に厳密な表記を採用しているから」と単純に答えるだけでは不十分です.「新橋」の「ん」では両唇が閉じており,だからこそ m と表記するのですと調音音声学の理屈を説明するだけでは足りません.その理屈は,完全に間違っているとはいいませんが,Shinkoiwa を説明しようとする段になって破綻します.ですので,標題の疑問に対するより正確な説明は,昨日も述べたように「英語正書法が要求する程度にのみ厳密な音声表記で表わしたもの,それが Shimbashi だ」となります.もっと露骨にいってしまえば「Shimbashi と綴るのは,英語ではそう綴ることになっているから」ということになります.素朴な疑問に対する答えとしては身もふたもないように思われるかもしれませんが,共時的な観点からいろいろと考察した結果,私がぐるっと一周してたどりついた当面の結論です(通時的な観点からはまた別に議論できます).
昨日の記事 ([2019-11-13-1]) で,日本語の「ん」が音声環境に応じて数種類の異なる発音で実現されることに触れました.この事実について,もう少し具体的に考えてみましょう.
佐藤 (49) によると,撥音「ん」の様々な音声的実現について,次のように説明があります.
後続子音と同じ調音点の鼻音を一定時間引き延ばすことで生じる音である.後続子音が破裂音や鼻音のときは,[p] [b] [m] の前で [m], [t] [ts] [d] [dz] [n] の前で [n], [tɕ] [dʑ], [ɲ] の前で [ɲ], [k] [ɡ] [ŋ] の前で [ŋ] になる.
ンでの言いきり,つまり休止の直前では,口蓋垂鼻音 [paɴ] となる.個人または場面により,[m] や [n] や [ŋ],または鼻母音になることもある.「しんい(真意)」「しんや(深夜)」のような,母音や接近音の前のンも,口蓋垂鼻音 [paɴ] となると説明されることがあるが,実際はよほど丁寧に調音しない限り閉鎖は生じず,[ɕiĩi] のように [i] の鼻母音 [ĩ] となることが多い.
後続子音がサ行やハ行などの摩擦音のときも,破裂音と同じ原理で,同じ調音点の有声摩擦音が鼻音化したものとなるが,前母音の影響も受けるため記号化が難しい.簡略表記では概略,[h] [s] [ɸ] の前で [ɯ̃], [ɕ] [ç] の前で [ĩ] のような鼻母音となると考えておけばよい.
日本語の「ん」はなかなか複雑なやり方で様々に発音されていることが分かるでしょう.仮名に比べれば音声的に厳密といってよい英語表記(あるいはそれに近いヘボン式ローマ字表記)でこの「ん」を書こうとするならば,1種類の書き方に収まらないのは道理です.結果として,Shinjuku だけでなく Shimbashi のような綴字が出てくるわけです.
しかし,仮名と比較すればより厳密な音声表記ということにすぎず,英語(やローマ字表記)にしても,せいぜい n と m を書き分けるくらいで,実は「厳密」などではありません.英語正書法が要求する程度にのみ厳密な音声表記で表わしたもの,それが Shimbashi だと考えておく必要があります.
なお,言いきりの口蓋垂鼻音 [ɴ] について『日本語百科大事典』 (247) から補足すると,「これは積極的な鼻子音であるというよりは,口蓋帆が下がり,口が若干閉じられることによって生じる音」ということです.
・ 佐藤 武義(編著) 『展望 現代の日本語』 白帝社,1996年.
・ 『日本語百科大事典』 金田一 春彦ほか 編,大修館,1988年.
(後記 2021/04/29(Thu):本記事は「素朴な疑問」を扱った記事のなかでもとりわけ多く参照されているようです.これ自体はとても嬉しいことです.ただ,本記事の説明は「教科書的な回答」ではあるものの,筆者としては不十分な回答にとどまると考えています.むしろ,この回答の問題点を指摘し,続編で本格的に議論してゆくつもりで本記事を書いたという経緯があります.ですので,ぜひ続編の3記事も合わせて読んでいただければと思います.誤解を恐れずに言えば,本記事の「教科書的な回答」では不十分です.)
取り上げる例が「新橋」かどうかは別にしても,「ん」がローマ字で m と綴られる問題はよく話題にのぼります.
JR山手線の新橋駅の駅名表記は確かに Shimbashi となっています.日本語の表記としては「しんばし」のように「ん」であっても,英語表記(正確にいえば,JRが採用しているとおぼしきヘボン式ローマ字表記に近い表記)においては n ではなく m となります.これはいったいなぜでしょうか.この問題は,実は英語史の観点からも迫ることのできる非常にディープな話題なのですが,今回は教科書的な回答を施しておきましょう.
まず,基本的な点ですが,ヘボン式ローマ字表記では「ん」の発音(撥音と呼ばれる音)は,b, m, p の前位置においては n ではなく m と表記することになっています.したがって,「難波」(なんば)は Namba,「本間」(ほんま)は Homma,「三瓶」(さんぺい)は Sampei となり,それと同様に新橋(しんばし)も Shimbashi となるわけです.もちろん,問題はなぜそうなのかということです.
b, m, p の前位置において m と表記される理由を理解するためには,音声学の知識が必要です.日本語の撥音「ん」は特殊音素と呼ばれ,日本語音韻論では /ɴ/ と表記されます.理論上1つの音であり,日本語母語話者にとって紛れもなく1つの音として認識されていますが,実際上は数種類の異なる発音で実現されます.「ん」はどのような音声環境に現われるかによって,異なる発音として実現されるのです.
「難波」「本間」「三瓶」の3単語を発音してみると,「ん」の部分はいずれも両唇を閉じた発音となっていることが分かるかと思います.これはマ行子音 m の口構えにほかなりません.日本語母語話者にとっては「ん」として n を発音しているつもりでも,上の場合には実は m を発音しているのです.これは後続する m, b, p 音がいずれも同じ両唇音であるために,その直前に来る「ん」も歯茎音 n ではなく両唇音 m に近づけておくほうが,全体としてスムーズに発音できるからです.発音しやすいように前もって口構えを準備した結果,デフォルトの n から,発音上よりスムーズな m へと調整されているというわけです.
微妙な変化といえば確かにそうですので,日本語表記では,特に発音の調整と連動させずに「ん」の表記のままでやりすごしています(連動させるならば,候補としては「む」辺りの表記となるでしょうか).しかし,このような発音の違いに無頓着ではいられない英語の表記(および,それに近いヘボン式ローマ字表記)にあっては,上記の音声環境においては,n に代えて,より厳密な音声表記である m を用いるわけです.
日本語母語話者にとっては「新宿」(しんじゅく)も「新橋」(しんばし)も同じ「ん」音を含むのだから,同じ「ん」 = n の表記を用いればよいではないかという理屈ですが,英語(やヘボン式ローマ字)では2つの「ん」が実は同じ発音でないという事実を重視して,前者には n の文字を,後者には m の文字を当て,区別して表記するならわしだということです.
ローマ字で書くとはいえ,読者として日本語母語話者を念頭におくのであれば n と表記するほうが分かりやすいのはいうまでもありません.これを実現しているのが訓令式ローマ字です.それによると「新橋」は Sinbasi となります.おそらくJR(を含む鉄道各社)は,想定読者として非日本母語話者(おそらく英語表記であれば理解できるだろうと思われる多くの外国人)を設定し,訓令式ではなくヘボン式(に類似した)ローマ字表記を採用しているのではないかと考えられます.Shimbashi 問題は,日本語と英語にまつわる音声学・音韻論・綴字の問題にとどまらず,国際化を視野に入れた日本の言語政策とも関わりのある問題なのです.
「#3835. 形容詞などの「比較」や「級」という範疇について」 ([2019-10-27-1]) で,形容詞・副詞にみられる比較 (comparison) という範疇 (category) について考えた.一般に英語の比較においては,3つの級 (grade) が区別される.原級 (positive degree),比較級 (comparative degree),最上級 (superlative degree) である.ここで英語の用語に関して comparative と superlative はよく分かるのだが,positive というのがイマイチ理解しにくい.何がどう positive だというのだろうか.
OED で positive, adj. and n. を引いてみると,この文法用語としての意味は,語義12に挙げられている.
12. Grammar. Designating the primary degree of an adjective or adverb, which expresses simple quality without qualification; not comparative or superlative. . . .
この positive は negative の反対というわけではない.それは特に何も修正や小細工が施されていない形容詞・副詞そのもののあり方をいう.換言すれば absolute (絶対的), intrinsic (本質的), independent (独立的)といってもよいほどの意味だろう.比較的・相対的な級である comparative や superlative に対して,比較しない絶対的な級だから positive というわけだ.ある意味で,否定的に定義されている用語・概念といえる.
文法用語としての初例は1434年頃となっている.用語の理解に資する歴史的な例文をいくつか引こう.
・ c1434 J. Drury Eng. Writings in Speculum (1934) 9 79 Þe positif degre..be-tokenyth qualite or quantite with outyn makyng more or lesse & settyth þe grownd of alle oþere degreis of Comparison.
・ 1704 J. Harris Lexicon Technicum I Positive Degree of Comparison in Grammar, is that which signifies the Thing simply and absolutely, without comparing it with others; it belongs only to Adjectives.
・ 1930 Frederick (Maryland) Post 15 Jan. 4/2 The Positive degree is used when no comparison is made with any other noun or pronoun, except as to their class; it is expressed by the simple unchanged form of the adjective; it expresses a certain idea to an ordinary extent.
上記を考えると,日本語の「原級」という訳語も決して悪くない.
英語史の授業にて尋ねられた質問.まさに直球.答えるのが難しい.
まず英語史的にいえることは,古英語や中英語では,現代的な使い方での「冠詞」 (article) は未発達だったということです.the や a(n) という素材そのものは古英語からあったのですが,それぞれ現代風の定冠詞や不定冠詞としては用いられていませんでした.つまり,古英語にも the や a(n) という単語のご先祖様は確かにいたけれども,当時はまだ名詞に添えるべき必須の項目というステータスは獲得していなかったということです.
ということは,日々私たちが使い分けに苦労している現代英語の「冠詞」という項目は,英語の歴史の歩みのなかで,徐々に獲得されてきたものということになります.冠詞は英語の歴史の最初からあったわけではない.まず,この事実を押さえておく必要があります.
冠詞なるものが歴史のなかで獲得されてきたというのは,なにも英語に限りません.そもそも英語を含めたヨーロッパからインドに及ぶ多くの言語のルーツである印欧祖語には冠詞はありませんでした.しかし,印欧語族に属する古典ギリシア語,アルメニア語,アイルランド語という個別の言語をはじめ,ロマンス語派,ゲルマン語派,ケルト語派の諸言語やバルカン言語連合でも冠詞がみられることから,いずれも歴史の過程で冠詞を発達させてきたことがわかります(「#2855. 世界の諸言語における冠詞の分布 (1)」 ([2017-02-19-1]) を参照).
また,印欧語族から離れて世界の諸言語に目を向けてみても,冠詞という言語項目は世界各地に確認されます(全体としては少数派ではありますが).ただし,地理的にはヨーロッパ,アフリカ,南西太平洋などにある程度偏在しているようで,類型論や地理言語学の立場からは興味深い話題となっています.
さて,英語に話しを戻しましょう.古英語にも冠詞の種となるものはあったにせよ,なぜその後それが現代風の冠詞的な機能を発達させることになったのでしょうか.1つには,英語が中英語以降に語順を固定化させてきたという事実が関係しているように思われます.「#2856. 世界の諸言語における冠詞の分布 (2)」 ([2017-02-20-1]) でも述べたように「語順が厳しく定まっている言語では一般的に名詞的要素の置き場所を利用して定・不定を標示するのが難しいために,冠詞という手段が採用されやすいという事情がある」のではないかと考えられます.
定・不定とは,その表現の指しているものが文脈上話し手や聞き手にとって既知か未知か,特定されるかされないかといった区別のことです.談話の典型的なパターンは,定の要素をアンカーとし,それに不定の要素を引っかけながら新情報を導入していくというものですが,このような情報の流れは情報構造 (information_structure) と呼ばれます.言語は情報構造を標示するための手段をもっていると考えられますが,語順や冠詞もそのような手段の候補となります.語順が自由であれば,定の要素を先頭にもってきたり,不定の要素を後置するなどの方法を利用できるでしょう(cf. 「#3211. 統語と談話構造」 ([2018-02-10-1])).しかし,語順の自由度が低くなると別の手段に訴える必要が生じてきます.英語は中英語期にかけて語順の自由度を失っていった結果,情報構造を標示するための新たな道具として,素材として手近にあった the や a(n) などを利用したのではないかと考えられます.
ただし,これも1つの仮説にすぎません.標題の質問にズバリ答えているわけではなく,我ながらもどかしいところです.
冠詞の発生に関する統語理論上の扱いは,「#2144. 冠詞の発達と機能範疇の創発」 ([2015-03-11-1]) を参照してください.関連して,英語史における語順の固定化について「#3131. 連載第11回「なぜ英語はSVOの語順なのか?(前編)」」 ([2017-11-22-1]),「#3160. 連載第12回「なぜ英語はSVOの語順なのか?(後編)」」 ([2017-12-21-1]),「#3733.『英語教育』の連載第5回「なぜ英語は語順が厳格に決まっているのか」」 ([2019-07-17-1]) をご覧ください.
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