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最終更新時間: 2024-04-26 08:56

2017-10-30 Mon

#3108. ノルマン征服がなかったら,英語は・・・? [hel_education][history][loan_word][spelling][stress][rsr][gsr][rhyme][alliteration][gender][inflection][norman_conquest]

 「#119. 英語を世界語にしたのはクマネズミか!?」 ([2009-08-24-1]) や「#3097. ヤツメウナギがいなかったら英語の復権は遅くなっていたか,早くなっていたか」 ([2017-10-19-1]) に続き,歴史の if を語る妄想シリーズ.ノルマン征服がなかったら,英語はどうなっていただろうか.
 まず,語彙についていえば,フランス借用語(句)はずっと少なく,概ね現在のドイツ語のようにゲルマン系の語彙が多く残存していただろう.関連して,語形成もゲルマン語的な要素をもとにした複合や派生が主流であり続けたに違いない.フランス語ではなくとも諸言語からの語彙借用はそれなりになされたかもしれないが,現代英語の語彙が示すほどの多種多様な語種分布にはなっていなかった可能性が高い.
 綴字についていえば,古英語ばりの hus (house) などが存続していた可能性があるし,その他 cild (child), cwic (quick), lufu (love) などの綴字も保たれていたかもしれない.書き言葉における見栄えは,現在のものと大きく異なっていただろうと想像される.<þ, ð, ƿ> などの古英語の文字も,近現代まで廃れずに残っていたのではないか (cf. 「#1329. 英語史における eth, thorn, <th> の盛衰」 ([2012-12-16-1]) や「#1330. 初期中英語における eth, thorn, <th> の盛衰」 ([2012-12-17-1])) .
 発音については,音韻体系そのものが様変わりしたかどうかは疑わしいが,強勢パターンは現在と相当に異なっていたものになっていたろう.具体的にいえば,ゲルマン的な強勢パターン (Germanic Stress Rule; gsr) が幅広く保たれ,対するロマンス的な強勢パターン (Romance Stress Rule; rsr) はさほど展開しなかったろうと想像される.詩における脚韻 (rhyme) も一般化せず,古英語からの頭韻 (alliteration) が今なお幅を利かせていただろう.
 文法に関しては,ノルマン征服とそれに伴うフランス語の影響がなかったら,英語は屈折に依拠する総合的な言語の性格を今ほど失ってはいなかったろう.古英語のような複雑な屈折を純粋に保ち続けていたとは考えられないが,少なくとも屈折の衰退は,現実よりも緩やかなものとなっていた可能性が高い.古英語にあった文法性は,いずれにせよ消滅していた可能性は高いが,その進行具合はやはり現実よりも緩やかだったに違いない.また,強変化動詞を含めた古英語的な「不規則な語形変化」も,ずっと広範に生き残っていたろう.これらは,ノルマン征服後のイングランド社会においてフランス語が上位の言語となり,英語が下位の言語となったことで,英語に遠心力が働き,言語の変化と多様化がほとんど阻害されることなく進行したという事実を裏からとらえた際の想像である.ノルマン征服がなかったら,英語はさほど自由に既定の言語変化の路線をたどることができなかったのではないか.
 以上,「ノルマン征服がなかったら,英語は・・・?」を妄想してみた.実は,これは先週大学の演習において受講生みんなで行なった妄想である.遊び心から始めてみたのだが,歴史の因果関係を確認・整理するのに意外と有効な方法だとわかった.歴史の if は,むしろ思考を促してくれる.

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2017-10-29 Sun

#3107. 「ノルマン征服と英語」のまとめスライド [slide][norman_conquest][history][french][loan_word][link][hel_education][asacul]

 英語史におけるノルマン征服の意義について,スライド (HTML) にまとめてみました.こちらからどうぞ.
 これまでも「#2047. ノルマン征服の英語史上の意義」 ([2014-12-04-1]) を始め,norman_conquest の記事で同じ問題について考えてきましたが,当面の一般的な結論として,以下のようにまとめました.

 1. ノルマン征服は(英国史のみならず)英語史における一大事件.
 2. 以降,英語は語彙を中心にフランス語から多大な言語的影響を受け,
 3. フランス語のくびきの下にあって,かえって生き生きと変化し,多様化することができた

 詳細は各々のページをご覧ください.本ブログ内のリンクも豊富に張っていますので,適宜ジャンプしながら閲覧すると,全体としてちょっとした読み物になると思います.また,フランス語が英語に及ぼした(社会)言語学的影響の概観ともなっています.

 1. ノルマン征服と英語
 2. 要点
 3. (1) ノルマン征服 (Norman Conquest)
 4. ノルマン人の起源
 5. 1066年
 6. ノルマン人の流入とイングランドの言語状況
 7. (2) 英語への言語的影響
 8. 語彙への影響
 9. 英語語彙におけるフランス借用語の位置づけ (#1210)
 10. 語形成への影響 (#96)
 11. 綴字への影響
 12. 発音への影響
 13. 文法への影響
 14. (3) 英語への社会的影響 (#2047)
 15. 文法への影響について再考
 16. まとめ
 17. 参考文献
 18. 補遺1: 1300年頃の Robert of Gloucester による年代記 (ll. 7538--47) の記述 (#2148)
 19. 補遺2: フランス借用語(句)の例 (#1210)

 他の「まとめスライド」として,「#3058. 「英語史における黒死病の意義」のまとめスライド」 ([2017-09-10-1]),「#3068. 「宗教改革と英語史」のまとめスライド」 ([2017-09-20-1]),「#3089. 「アメリカ独立戦争と英語」のまとめスライド」 ([2017-10-11-1]),「#3102. 「キリスト教伝来と英語」のまとめスライド」 ([2017-10-24-1]) もご覧ください.

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2017-10-27 Fri

#3105. tithetenth [numeral][doublet][history][reformation]

 標題の2語は,いずれも「10分の1」が原義であり,「十分の一税」の語義を発展させた.語源的には密接な関係にある2重語 (doublet) である(「#1724. Skeat による2重語一覧」 ([2014-01-15-1]) の記事,および American Heritage Dictionary より tithe の蘊蓄を参照).
 昨日の記事「#3104. なぜ「ninth(ナインス)に e はないんす」かね?」 ([2017-10-26-1]) で,ninth に相当する古英語の語形が,2つ目の n の脱落した nigoða という形であると述べた.tenth に関しても同様であり,基数詞 tīen(e) (West-Saxon), tēn(e) (Anglian)に対して序数詞では n が落ちて tēoþa (West-Saxon), tēogoþa (Anglian) などと用いられた.後者 Anglia 方言の tēogoþa が後に音過程を経て tithe となり,近代英語以降に受け継がれた(MED より tīthe (n.(2)) を参照).
 一方,tenth は,初期中英語で基数詞の形態をもとに規則的に形成された新たな形態である(MED より tenth(e を参照).
 tithe は「十分の一税」を意味する名詞としては,1200年ころに初出する.中世ヨーロッパでは,5世紀以降,キリスト教会が信徒に収入の十分の一の納税を要求するようになっていたが,8世紀からはフランク王国で全キリスト教徒に課せられる税となった.教会が教区の農民から収穫物の十分の一を強制的に徴収するようになったのである.9世紀以降,その徴収権は教会からしばしば世俗領主へと渡り,18--19世紀に廃止されるまで続いた.
 ややこしいことに,イングランドでは,ローマ・カトリック教会の聖職者がローマ教皇に対する上納金も「十分の一税」(しかし今度は tenth)と呼ばれていたが,宗教改革の過程で,Henry VII は教皇にではなく国王に納めさせるように要求し,制度として定着した.さらに,都市部に課される議会課税も tenth (十分の一税)と呼ばれたので,一層ややこしい(水井,p. 16).
 我が国の消費税も10%になるということであれば,これは tithe と呼ぶべきか tenth と呼ぶべきか・・・.

 ・ 水井 万里子 『図説 テューダー朝の歴史』 河出書房,2011年.

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2017-10-24 Tue

#3102. 「キリスト教伝来と英語」のまとめスライド [slide][christianity][history][bible][runic][alphabet][latin][loan_word][link][hel_education][asacul]

 英語史におけるキリスト教伝来の意義について,まとめスライド (HTML) を作ったので公開する.こちらからどうぞ.大きな話題ですが,キリスト教伝来は英語に (1) ローマン・アルファベットによる本格的な文字文化を導入し,(2) ラテン語からの借用語を多くもたらし,(3) 聖書翻訳の伝統を開始した,という3つの点において,英語史上に計り知れない意義をもつと結論づけました.

 1. キリスト教伝来と英語
 2. 要点
 3. ブリテン諸島へのキリスト教伝来 (#2871)
 4. 1. ローマン・アルファベットの導入
 5. ルーン文字とは?
 6. 現存する最古の英文はルーン文字で書かれていた
 7. 古英語アルファベット
 8. 古英語の文学 (#2526)
 9. 2. ラテン語の英語語彙への影響
 10. 外来宗教が英語と日本語に与えた言語的影響の比較 (#206)
 11. 3. 聖書翻訳の伝統の開始
 12. 多数の慣用表現
 13. まとめ
 14. 参考文献
 15. 補遺1: Beowulf の冒頭の11行 (#2893)
 16. 補遺2:「主の祈り」の各時代のヴァージョン (#1803)

 他の「まとめスライド」として,「#3058. 「英語史における黒死病の意義」のまとめスライド」 ([2017-09-10-1]),「#3068. 「宗教改革と英語史」のまとめスライド」 ([2017-09-20-1]),「#3089. 「アメリカ独立戦争と英語」のまとめスライド」 ([2017-10-11-1]) もご覧ください.

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2017-10-19 Thu

#3097. ヤツメウナギがいなかったら英語の復権は遅くなっていたか,早くなっていたか [reestablishment_of_english][monarch][history][norman_conquest][hundred_years_war]

 昨日の記事「#3096. 中英語期,英語の復権は徐ろに」 ([2017-10-18-1]) に引き続き,英語の復権のスピードについての話題.
 William I が1066年のノルマン征服で開いたノルマン朝は,英語とフランス語の接触をもたらした.続いて,Henry I から Stephen の時代の政治的混乱を経た後に,1154年に Henry II が開いたプランタジネット朝は,イングランド全体とフランスの広大な部分からなるアンジュー帝国を出現させた.英仏海峡をまたいで両側に領土をもつという複雑な統治形態により,イングランドの言語を巡る状況も複雑化した.それ以降,英語は,フランス語と密接な関係を持ち続けずに存在することがもはやできなくなったといえるからだ.その後も14--15世紀の百年戦争に至るまで厄介な英仏関係が続いたが,関係の泥沼化がこのように進んでいなければ,英語とフランス語の関係も,そしてイングランドにおける英語の復権も,別のコースをたどっていた可能性が高い.
 このようなことを考えていたところに,Henry I と Stephen の息子 Eustace がヤツメウナギ (lamprey) を食して亡くなったという逸話を読んだ(石井,p. 41).歴史の if の妄想ということで,ツイッターで独りごちた.以下,ツイッター口調で(実際にツイートなので)再現してみたい.

同じ食用魚でもヤツメウナギ (lamprey) とウナギ (eel) は生物学的にはまったくの無関係.名前や姿形でだまされてはいけない.


ヤツメウナギ (lamprey) を食し,中毒でポックリ逝ったノルマン朝の King Henry I と,King Stephen の息子 Eustace の2人.ノルマン朝の王族って,そんなにヤツメウナギ好きだったの?


ヤツメウナギ (lamprey) で Eustace がやられなかったら,Henry II に王位が渡らず,プランタジネット朝が開かれなかったかも.すると,イングランドはフランスとさほど摩擦せず,国内の英語の復権はもっと早かったかも.その後の英語史はどうなっていたことか?


プランタジネット朝の開祖 Henry II のフランスの領土保有により,フランスとの泥沼の関係が持続したわけで,それで国内の英語の復権が遅くなった.後に,英語はその遅れの焦りによる「火事場の馬鹿力」的な瞬発力で国内での復権を一気になしとげ,さらに国外へ飛躍できたと考えられる.


結論として,ヤツメウナギがいなかったら,むしろ英語はもう少し長く停滞していたかも!? そして,後に世界語となる機会を逸していたかも!!?? 以上.


「ヤツメウナギが英語を世界語にした」張りの「ハッタリの英語史?歴史の if シリーズ(仮称)」より,「#119. 英語を世界語にしたのはクマネズミか!?」 ([2009-08-24-1]) もどうぞ.


 Henry II は医者の再三の注意を無視してヤツメウナギを大量に食べ続けたというから,相当の好物だったのだろう.歴史は,たやすく偶然に左右されるものかもしれない.
 こちらからツイッターもどうぞ.フォローは

 ・ 石井 美樹子 『図説 イギリスの王室』 河出書房,2007年.

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2017-10-18 Wed

#3096. 中英語期,英語の復権は徐ろに [reestablishment_of_english][history][toc][hundred_years_war]

 似たようなタイトルの記事「#706. 14世紀,英語の復権は徐ろに」 ([2011-04-03-1]) を以前に本ブログで書いているが,「14世紀」を今回のタイトルのように「中英語期」(1100--1500年)と入れ替えても,さして問題はない.「#131. 英語の復権」 ([2009-09-05-1]) で示した年表や,その他の reestablishment_of_english の記事で論じてきたように,イングランドにおける英語の地位の回復は,3世紀ほどのスパンでとらえるべき長々とした過程だった.
 Baugh and Cable の英語史概説書の第6章は "The Reestablishment of English, 1200--1500" と題されており,この長々とした過程を扱っているのだが,最初にこの箇所を初めて読んだときに,なんてダラダラとして読みにくい章かと思ったものである.1200--1500年のイングランドにおける英語とフランス語を巡る言語事情とその変化が説明されていくのだが,英語の復権がようやく2歩ほど進んだかと思えば,フランス語のしぶとい権威保持のもとで今度は1歩下がるといった,複雑な記述が続くのだ.英語の復権とフランス語の権威保持という2つの相反する流れが並行して走っており,実にわかりづらい.
 改めて Baugh and Cable の第6章を読みなおしたところ,結局のところ同章の冒頭に近い文章が,この時代の内容を最もよくとらえているということが分かった.

As long as England held its continental territory and the nobility of England were united to the continent by ties of property and kindred, a real reason existed for the continued use of French among the governing class in the island. If the English had permanently retained control over the two-thirds of France that they once held, French might have remained permanently in use in England. But shortly after 1200, conditions changed. England lost an important part of its possessions abroad. The nobility gradually relinquished their continental estates. A feeling of rivalry developed between the two countries, accompanied by an antiforeign movement in England and culminating in the Hundred Years' War. During the century and a half following the Norman Conquest, French had been not only natural but also more or less necessary to the English upper class; in the thirteenth and fourteenth centuries, its maintenance became increasingly artificial. For a time, certain new factors helped it to hold its ground, socially and officially. Meanwhile, however, social and economic changes affecting the English-speaking part of the population were taking place, and in the end numbers told. In the fourteenth century, English won its way back into universal use, and in the fifteenth century, French all but disappeared. (122)


 先に,この時代の英語の復権は2歩進んで1歩下がるかのようだと表現したが,Baugh and Cable の第6章を構成する第93--110節のいくつかのタイトルを「英語の復権を後押しした要因」と「フランス語の権威を保持した要因」とに粗く,緩く2分すると,次のようになる.



[ 英語の復権を後押しした要因 ]

 94. The Loss of Normandy
 95. Separation of the French and English Nobility
 97. The Reaction against Foreigners and the Growth of National Feeling
 101. Provincial Character of French in England
 102. The Hundred Years' War
 103. The Rise of the Middle Class
 104. General Adoption of English in the Fourteenth Century
 105. English in the Law Courts
 106. English in the Schools
 107. Increasing Ignorance of French in the Fifteenth Century
 109. The Use of English in Writing

[ フランス語の権威を保持した要因 ]

 96. French Reinforcements
 98. French Cultural Ascendancy in Europe
 100. Attempts to Arrest the Decline of French
 108. French as a Language of Culture and Fashion



 節の数の比からいえば,英語の復権は3歩進んで1歩下がるほどのスピードで推移したことになろうか.
 Baugh and Cable の目次については,「#2089. Baugh and Cable の英語史概説書の目次」 ([2015-01-15-1]),「#3091. Baugh and Cable の英語史概説書の目次よりランダムにクイズを作成」 ([2017-10-13-1]) を参照.

 ・ Baugh, Albert C. and Thomas Cable. A History of the English Language. 6th ed. London: Routledge, 2013.

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2017-10-16 Mon

#3094. 449年以前にもゲルマン人はイングランドに存在した [anglo-saxon][history][archaeology][map]

 標題について,「#2493. アングル人は押し入って,サクソン人は引き寄せられた?」 ([2016-02-23-1]) で, Gramley (16) の "Pre-Conquest Germanic cemeteries" と題する地図を示した(以下に再掲).

Pre-Conquest Germanic Cemeteries

 5世紀初め,そしておそらくもっと古くから,ゲルマン人がイングランドにいたことが考古学的な証拠から示唆されるが,この辺りの事情について,Gramley (16--17) の説明を引用しておきたい.

The earliest evidence we have of Germanic settlement in Britain consists of the Anglo-Saxon cemeteries and settlements in the region between the Lower Thames and Norfolk. Others possibly lay in Lincolnshire and Kent. In Caister-by-Norwich there was a large cremation cemetery outside the town dating from about 400. Similar settlements were found near Leicester, Ancaster, and Great Chesterford. One of the most likely explanations for these settlements, virtually always outside the city walls, was that the Germanic invaders were invited there to protect the British settlements, especially after the Romans withdrew. Much as in other western provinces, the Empire relied on barbarian troops and officers from the late third century on.
  The formal end of Roman rule by 410 did not mean the end of all efforts to protect Britain from external attacks, the most serious of which came from the Scots and the Picts . . . to the north and the sea-borne Saxons among others. It may well have been that the British leaders continued to use Germanic troops after 410 and perhaps even to increase their numbers. For the Germanic newcomers it was probably of no importance who recruited them. They were simply doing what their fathers before them had done. However, without any central power to coordinate defenses the Germanic forces would soon have realized they had a free hand to do as they wished. Soon more would be coming from the Continental coast near the Elbe and Weser estuaries (the Saxons), from Schleswig-Holstein, especially the region of Angeln (the Angels (sic)), from northern Holland (the Frisians), and probably from Jutland (the Jutes).


 伝説によれば,449年に Hengist と Horsa というジュート人の兄弟が,ブリトン人に呼ばれる形でイングランドに足を踏み入れたとされるが,実際にはすでにゲルマン人はその数十年も前からイングランドに存在しており,5世紀半ばには,大陸から仲間を呼び寄せるのに,ある意味で準備万端であったとも言えるのである.ゲルマン人のイングランドへの侵攻は,伝説が示すほど電撃的なものではなかったと考えられる.
 関連して,「#33. ジュート人の名誉のために」 ([2009-05-31-1]),「#389. Angles, Saxons, and Jutes の故地と移住先」 ([2010-05-21-1]),「#1013. アングロサクソン人はどこからブリテン島へ渡ったか」 ([2012-02-04-1]),「#2353. なぜアングロサクソン人はイングランドをかくも素早く征服し得たのか」 ([2015-10-06-1]) の記事も参照されたい.

 ・ Gramley, Stephan. The History of English: An Introduction. Abingdon: Routledge, 2012.

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2017-10-11 Wed

#3089. 「アメリカ独立戦争と英語」のまとめスライド [slide][ame][ame_bre][history][link][hel_education][asacul]

 (アメリカ)英語史におけるアメリカ独立戦争の意義について,まとめスライド (HTML) を作ったので公開する.こちらからどうぞ.

 1. アメリカ独立戦争と英語
 2. 要点
 3. アメリカ英語の言語学的特徴
 4. アメリカ英語の社会言語学的特徴
 5. アメリカの歴史(猿谷の目次より)
 6. 「アメリカ革命」 (American Revolution)
 7. アメリカ英語の時代区分 (#158)
 8. 独立戦争とアメリカ英語
 9. ノア・ウェブスター(肖像画; #3087)
 10. ウェブスター語録
 11. ウェブスターの綴字改革
 12. まとめ
 13. 参考文献

 他の「まとめスライド」として,「#3058. 「英語史における黒死病の意義」のまとめスライド」 ([2017-09-10-1]),「#3068. 「宗教改革と英語史」のまとめスライド」 ([2017-09-20-1]) もご覧ください.

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2017-10-09 Mon

#3087. Noah Webster [biography][webster][ame][spelling_reform][american_revolution][history][lexicography][dictionary]

 象徴的な意味でアメリカ英語を作った Noah Webster (1758--1843) について,主として『英語学人名辞典』 (376--77) に拠り,伝記的に紹介する.  *
 Noah Webster は,1758年,Connecticut 州は West Hartford で生まれた.学校時代に学業で頭角を表わし,1778年,Yale 大学へ進学する.在学中に独立戦争が勃発し,新生国家への愛国精神を育んだ.
 大学卒業後,教員そして弁護士となったが,教員として務めていたときに,従来の Dilworth による英語綴字教本に物足りなさを感じ,自ら教本を執筆するに至った.A Grammatical Institute of the English Language と題された教本は,第1部が綴字,第2部が文法,第3部が読本からなるもので,この種の教材としては合衆国初のものだった.全体として愛国的な内容となっており,国内のほぼすべての学校で採用された.第1部の綴字教本は,後に The American Spelling Book として独立し,100年間で8000万部売れたというから大ベストセラーである.表紙が青かったので "Blue-Backed Speller" と俗称された.この本からの収入だけで,Webster は一生の生計を支えられたという.
 Webster は,言論を通じて政治にも関与した.1793年,New York で日刊新聞 American Minerva (後の Commercial Advertiser)および半週刊誌 Herald (後の New York Spectator)を発刊し,Washington 大統領の政策を支えた.後半生は,Connecticut 州の New Haven と Massachusetts 州の Amherst で過ごした.
 言語方面では,1806年に A Compendious Dictionary of the English Language を著わし,1807年に A Philosophical and Practical Grammar of the English Language を著わした.Compendious Dictionary では,すでに綴字の簡易化が実践されており,favor, honor, savior; logic, music, physic; cat-cal, etiquet, farewel, foretel; ax, disciplin, examin, libertin; benum, crum, thum (v.) / ake, checker, kalender, skreen; croop, soop, troop; fether, lether, wether; cloke, mold, wo; spunge, tun, tung などが見出しとして立てられている.
 1807年からは大辞典の編纂に着手し,途中,作業のはかどらない時期はあったものの,1828年についに約7万項目からなる2巻ものの大辞典 An American Dictionary of the English Language が出版された.これは,Johnson の辞書の1818年の改訂版よりも約1万2千項目も多いものだった.Compendious Dictionary に採用されていた簡易化綴字の多くは,今回は不採用となったが,いくつかは残っており,それらは現代にまで続くアメリカ綴字となった.語源記述に関しては,Webster は当時ヨーロッパで勃興していた比較言語学にインスピレーションを受け,多くの単語に独自の語源説を与えたが,実際には比較言語学をよく理解しておらず,同辞典を無価値な記述で満たすことになった.
 性格としては傲岸不遜な一面があり,人々に慕われる人物ではなかったようだが,アメリカ合衆国の独立を支えるべく「アメリカ語」の独立に一生を捧げた人生であった.
 以下,Webster の主要な英語関係の著作を挙げておく.

 ・ A Grammatical Institute of the English Language: Part I (1783) [and its later editions: The American Spelling Book (1788) aka "Blue-Backed Speller"; The Elementary Spelling Book (1843)]: 綴字教本
 ・ A Grammatical Institute of the English Language: Part II (1784): 文法教本
 ・ A Grammatical Institute of the English Language: Part III (1785): 読本
 ・ Dissertations on the English Language, with Notes Historical and Critical (1789): 綴字改革の実行可能性と必要性を説く
 ・ A Collection of Essays and Fugitive Writings (1790): 独自の新綴字法で書かれた
 ・ A Compendious Dictionary of the English Language (1806): 独自の新綴字法で書かれた
 ・ A Philosophical and Practical Grammar of the English Language (1807)
 ・ An American Dictionary of the English Language, 2 vols. (1828)
 ・ An Improved Grammar of the English Language (1831)
 ・ Mistakes and Corrections (1837)

 その他,Webster については webster の各記事,とりわけ「#468. アメリカ語を作ろうとした Webster」 ([2010-08-08-1]) と「#3086. アメリカの独立とアメリカ英語への思い」 ([2017-10-08-1]) を参照されたい.

 ・ 佐々木 達,木原 研三 編 『英語学人名辞典』 研究社,1995年.
 ・ Kendall, Joshua. The Forgotten Founding Father. New York: Berkeley, 2012.

Referrer (Inside): [2022-04-14-1] [2019-06-19-1]

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2017-10-08 Sun

#3086. アメリカの独立とアメリカ英語への思い [ame][witherspoon][academy][webster][american_revolution][history]

 アメリカの独立前後から,アメリカ人による「アメリカ語」の国語意識が現われてきた.自分たちの英語はイギリスの英語とは異なるものであり,独自の標準をもつべき理由がある,という多分に愛国的な意見である.昨日の記事でも引用した John Witherspoon は,アメリカ独立期に次のように述べている.

Being entirely separated from Britain, we shall find some centre or standard of our own, and not be subject to the inhabitants of that island, either in receiving new ways of speaking or rejecting the old. (qtd. in Baugh and Cable 354)


 次の例として,1774年1月の Royal American Magazine に掲載された,匿名の「アメリカ人」によるアメリカ英語アカデミー設立の提案を取り挙げよう.

   I beg leave to propose a plan for perfecting the English language in America, thro' every future period of its existence; viz. That a society, for this purpose should be formed, consisting of members in each university and seminary, who shall be stiled, Fellows of the American Society of Language: That the society, when established, from time to time elect new members, & thereby be made perpetual. And that the society annually publish some observations upon the language and from year to year, correct, enrich and refine it, until perfection stops their progress and ends their labour.
   I conceive that such a society might easily be established, and that great advantages would thereby accrue to science, and consequently America would make swifter advances to the summit of learning. It is perhaps impossible for us to form an idea of the perfection, the beauty, the grandeur, & sublimity, to which our language may arrive in the progress of time, passing through the improving tongues of our rising posterity; whose aspiring minds, fired by our example, and ardour for glory, may far surpass all the sons of science who have shone in past ages, & may light up the world with new ideas bright as the sun. (qtd. in Baugh and Cable 354)


 「#2791. John Adams のアメリカ英語にかけた並々ならぬ期待」 ([2016-12-17-1]) でみたように,後のアメリカ第2代大統領 John Adams が1780年にアカデミー設立を提案していることから,上の文章も Adams のものではないかと疑われる.
 そして,愛国意識といえば Noah Webster を挙げないわけにはいかない.「#468. アメリカ語を作ろうとした Webster」 ([2010-08-08-1]) で有名な1節を引いたが,今回は別の箇所をいくつか引用しよう.

The author wishes to promote the honour and prosperity of the confederated republics of America; and cheerfully throws his mite into the common treasure of patriotic exertions. This country must in some future time, be as distinguished by the superiority of her literary improvements, as she is already by the liberality of her civil and ecclesiastical constitutions. Europe is grown old in folly, corruption and tyranny....For America in her infancy to adopt the present maxims of the old world, would be to stamp the wrinkles of decrepid age upon the bloom of youth and to plant the seeds of decay in a vigorous constitution. (Webster, Preface to A Grammatical Institute of the English Language: Part I (1783) as qtd. in Baugh and Cable 357)


As an independent nation, our honor requires us to have a system of our own, in language as well as government. Great Britain, whose children we are, should no longer be our standard; for the taste of her writers is already corrupted, and her language on the decline. But if it were not so, she is at too great a distance to be our model, and to instruct us in the principles of our own tongue. (Webster, Dissertations on the English Language, with Notes Historical and Critical (1789) as qtd. in Baugh and Cable 357)


It is not only important, but, in a degree necessary, that the people of this country, should have an American Dictionary of the English Language; for, although the body of the language is the same as in England, and it is desirable to perpetuate that sameness, yet some difference must exist. Language is the expression of ideas; and if the people of our country cannot preserve an identity of ideas, they cannot retain an identity of language. Now an identity of ideas depends materially upon a sameness of things or objects with which the people of the two countries are conversant. But in no two portions of the earth, remote from each other, can such identity be found. Even physical objects must be different. But the principal differences between the people of this country and of all others, arise from different forms of government, different laws, institutions and customs...the institutions in this country which are new and peculiar, give rise to new terms, unknown to the people of England...No person in this country will be satisfied with the English definitions of the words congress, senate and assembly, court, &c. for although these are words used in England, yet they are applied in this country to express ideas which they do not express in that country. (Webster, Preface to An American Dictionary of the English Language (1828) as qtd. in Baugh and Cable 358)


 ・ Baugh, Albert C. and Thomas Cable. A History of the English Language. 6th ed. London: Routledge, 2013.

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2017-10-04 Wed

#3082. "spelling bee" の起源と発達 [spelling][ame][history][webster][word_play][spelling_bee]

 Simon Horobin 著 Does Spelling Matter? (堀田による邦訳『スペリングの英語史』も参照)で,いろいろな形で取り上げられているが,アメリカでは伝統的にスペリング競技会 "spelling bee" が人気である.
 スペリング競技会の起こりはエリザベス朝のイングランドにあるが,注目される行事へと発展したのは,独立後のアメリカにおいてであった.Webster のスペリング教本 "Blue-Backed Speller" のヒットに支えられ,アメリカの国民的イベントへと成長した.Webster の伝記を著した Kendall (106--07) が,スペリング競技会の歴史について次のように述べている.

   Webster's speller also gave rise to America's first national pastime, the spelling bee. Before there was baseball or college football or even horse racing, there was the spectator sport that Webster put on the map. Though "the spelling match" first became a popular community event shortly after Webster's textbook became a runaway best seller, its origins date back to the classroom in Elizabethan England. In his speller, The English Schoole-Maister, published in 1596, the British pedagogue Edmund Coote described a method of "how the teacher shall direct his schollers to oppose one another" in spelling competitions. A century and a half later, in his essay, "Idea of the English School," Benjamin Franklin wrote of putting "two of those [scholars] nearest equal in their spelling" and "let[ting] these strive for victory each propounding ten words every day to the other to be spelt." Webster's speller transformed these "wars of words" from classroom skirmishes into community events. By 1800, evening "spelldowns" in New England were common. As one early twentieth-century historian has observed:

The spelling-bee was not a mere drill to impress certain facts upon the plastic memory of youth. It was also one of the recreations of adult life, if recreation be the right word for what was taken so seriously by every one. [We had t]he spectacle of a school trustee standing with a blue-backed Webster open in his hand while gray-haired men and women, one row being captained by the schoolmaster and the other team by the minister, spelled each other down.


 綴字と発音の乖離がみられる英単語のスペリング競技会で勝つためには,並外れた暗記力と語源的な知識が試される.ある意味で,英語らしいイベントといえるだろう.

 ・ Kendall, Joshua. The Forgotten Founding Father. New York: Berkeley, 2012.
 ・ Horobin, Simon. Does Spelling Matter? Oxford: OUP, 2013.
 ・ サイモン・ホロビン(著),堀田 隆一(訳) 『スペリングの英語史』 早川書房,2017年.

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2017-10-01 Sun

#3079. 拙訳『スペリングの英語史』が出版されました [notice][spelling][spelling_pronunciation_gap][history][hel_education][toc][link]

 9月20日付で,拙訳『スペリングの英語史』が早川書房より出版されました.原著は本ブログで何度も参照・引用している Horobin, Simon. Does Spelling Matter? Oxford: OUP, 2013. です.本ブログを読まれている方,そして英語スペリングの諸問題に関心をもっているすべての方に,おもしろく読んでもらえる内容です.

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サイモン・ホロビン(著),堀田隆一(訳) 『スペリングの英語史』 早川書房,2017年.302頁.ISBN: 978-4152097040.定価2700円(税別).



 「本書をただのスペリングの本だと思ったら大間違いである.ここには,英語史,英文学をはじめ,英語の教養がぎっしりと詰まっている」との推薦文を,東大の斎藤兆史先生より寄せていただきました.また,本書の帯に「オックスフォード大学英語学教授による,スペリングの謎に切り込む名解説」という売り文句がありますが,訳者も英語のスペリングに関する読ませる本としては最高のものであると確信しています(もう1冊の読ませるスペリング本として,Crystal, David. Spell It Out: The Singular Story of English Spelling. London: Profile Books, 2012. も薦めます).
 本書には,このスペリングやあのスペリングの背景にこんな歴史的な事件が関与していたのか,と驚くエピソードが満載です.例えば・・・

 ・ 合衆国副大統領の政治生命の懸かった,potato のスペリングをめぐる醜聞
 ・ 『指輪物語』のトールキンは,独自のアルファベット体系を考案し,それで日記をつけていた
 ・ 最古の英文はローマ字ではなくルーン文字で書かれていた
 ・ 中英語期には such の異なるスペリングが500種類もあった
 ・ ルネサンス期のラテン語かぶれの知識人が,doubt の <b> のような妙なスペリングの癖を生み出した
 ・ シェイクスピア『リア王』で語られる,英語における <z> の文字の冷遇
 ・ Smith さんか,Smythe さんか,はたまた Psmith さんか --- 名前のスペリングへのこだわり
 ・ みずからの遺産を理想的なアルファベット考案の賞金にあてた劇作家バーナード・ショー
 ・ ウェブスターがアメリカ式スペリングの改革に成功したのは,独立の愛国心とベストセラー『スペリング教本』の商業的成功ゆえ
 ・ 電子メールに溢れる省略スペリングは,英語の堕落の現われか,言語的創造力のたまものか

 本書の目次は,以下の通りとなっています.



 日本版への序文
 図一覧
 発音記号
 1 序章
 2 種々の書記体系
 3 起源
 4 侵略と改正
 5 ルネサンスと改革
 6 スペリングの固定化
 7 アメリカ式スペリング
 8 スペリングの現在と未来
 読書案内
 参考文献
 訳者あとがき
 語句索引



 原著の著者ついて,簡単に紹介しておきます.サイモン・ホロビン氏はオックスフォード大学モードリン・カレッジ・フェローの英語学教授です.英語史・中世英語英文学を専門としており,以下のような主要著書を世に送り出してきました.まさに気鋭の英語史研究者です.

 ・ Horobin, Simon and Jeremy Smith. An Introduction to Middle English. Edinburgh: Edinburgh UP, 2002.
 ・ Horobin, Simon. The Language of the Chaucer Tradition. Cambridge: Brewer, 2003.
 ・ Horobin, Simon. Chaucer's Language. 1st ed. Basingstoke: Palgrave Macmillan, 2006. 2nd ed. 2012.
 ・ Horobin, Simon. Studying the History of Early English. Basingstoke: Palgrave Macmillan, 2009.
 ・ Horobin, Simon. How English Became English: A Short History of a Global Language. Oxford: OUP, 2016.

 また,最近はあまり更新されていないようですが,著者は2012年から Spelling Trouble という英語のスペリングの話題を提供するブログで,いくつかの記事を書いています.
 ちなみに個人的なことをいえば,訳者はグラスゴー大学に留学し2005年に博士号を取得しましたが,当時,著者はグラスゴー大学で教鞭を執っており,訳者の学位審査官の1人でもありました.あのときもお世話になり,このたびもお世話になり,という経緯です.さらに,2年前の2014年12月には,本書にインスピレーションを受けて開催したシンポジウムに著者を招き,英語のスペリングについて一緒に議論する機会をもつことができました(cf. 「#2053. 日本中世英語英文学会第30回大会のシンポジウム "Does Spelling Matter in Pre-Standardised Middle English?" を終えて」 ([2014-12-10-1])).
 間違いなく英語のスペリングがよく分かるようになります.『スペリングの英語史』を是非ご一読ください.

 ・ Horobin, Simon. Does Spelling Matter? Oxford: OUP, 2013.
 ・ サイモン・ホロビン(著),堀田 隆一(訳) 『スペリングの英語史』 早川書房,2017年.

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2017-09-22 Fri

#3070. 暗号として用いられた普通語 [cryptology][history]

 「#2699. 暗号学と言語学」 ([2016-09-16-1]),「#2729. あらゆる言語は暗号として用いられる」 ([2016-10-16-1]) でみたように,通常の言語であっても使用者の少ない言語であれば,そのまま暗号として用いられうる.第2次世界大戦のナヴァホ族のコード・トーカーがよく知られているが,長田(著)『暗号大全』によると,ほかにも歴史上の「普通語」使用の事例はある (33--35) .
 例えば,中世ヨーロッパでは一般的だったように,ラテン語は聖職者を初めとする知識人しか使いこなすことができなかった.それゆえ,聖職者どうしが意識的に庶民に知られたくないコミュニケーションを取ろうと思えば,ラテン語でやりとりすればよいのだった.
 紀元前まで遡ると,シーザーがガリア遠征(紀元前54年)の軍事暗号として,ギリシア語を用いたことが知られている.ガリアの種族はギリシア語を解さなかったので,普通語であるギリシア語を用いるだけで,そのまま事実上の暗号となったのである.
 19世紀末に話しは飛ぶが,南アフリカで繰り広げられたボーア戦争において,イギリス軍の将校は,ボーア人の知らないラテン語で命令や報告の伝達を行なっていた.
 1960年,ベルギー軍がコンゴ共和国の首都レオポルドビルに侵入したとき,これに対して派遣された国連軍のなかにアイルランド兵がいた.彼らは無線電話で母語のゲール語を用いて伝達情報を秘匿した.当時の国連軍司令官は「これこそ,最良の暗号だ」と激賛したという.
 最後に,我が国で,昭和46年の新聞に「朝鮮語,非行少女の間で流行」という記事があったもという.
 長田 (35) は,この種の「暗号」は上記のように有効性を示した局面もあったが,「第三者のコトバに関する無知に依存しているわけだから」本質的には消極的な暗号であるとしている.考えてみれば,自分ともう1人以外には日本語を解する人がいないと思われる国際的な会話の場面で,あえて2人の間で日本語を符丁として用いるという状況はあるが,実は周囲の誰かが日本語を解するという可能性はゼロではない.確実に情報を秘匿したいときに使えるワザではない,というのは確かだろう.

 ・ 長田 順行 『暗号大全 原理とその世界』 講談社,2017年.

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2017-09-20 Wed

#3068. 「宗教改革と英語史」のまとめスライド [reformation][renaissance][bible][emode][lexicology][slide][history][link][map][hel_education][asacul]

 英語史における宗教改革の意義について,reformation の各記事で考えてきた.現時点での総括として,「宗教改革と英語史」のまとめスライド (HTML) を公開したい.こちらからどうぞ.  *  *
 15枚からなるスライドで,目次は以下の通り.

 1. 宗教改革と英語史
 2. 要点
 3. 宗教改革とは?
 4. 歴史的背景
 5. イングランドの宗教改革とその特異性
 6. ルネサンスとは?
 7. イングランドにおける宗教改革とルネサンスの共存
 8. 英語文化へのインパクト
 9. プロテスタンティズムの拡大と定着
 10. 古英語研究の開始
 11. 語彙をめぐる問題
 12. 一連の聖書翻訳
 13. まとめ
 14. 参考文献
 15. 補遺:「創世記」11:1--9 (「バベルの塔」)の近現代8ヴァージョン+新共同訳

 別の「まとめスライド」として,「#3058. 「英語史における黒死病の意義」のまとめスライド」 ([2017-09-10-1]) もご覧ください.

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2017-09-19 Tue

#3067. 宗教改革略年表 [timeline][reformation][history]

 今年は宗教改革500周年に当たる.1517年10月31日,ルターがヴィッテンベルクの城教会の北入口の扉に「95箇条の提題」を貼りだし,宗教改革が始まったとされる.以下に,森田 (122--25) による「宗教改革略年表」を再現したい.西ヨーロッパ全体に関わる年表だが,イングランドやスコットランドの主要な事件も含まれている(黄字で示した).宗教改革と英語(史)の関係を考慮する際のおともにどうぞ.

148311.10マルティン・ルター誕生(?1546.2.18.)
14841.1ウルリヒ・ツヴィングリ誕生(?1531.10.11.)
14884.21ウルリヒ・フォン・フッテン誕生(?1523.8.29?)
15097.10ジャン・カルヴァン誕生(?1564.5.27)
15162.エラスムス『校訂新約聖書』
15164.16ツヴィングリ,アインジーデルン修道院の司牧司祭となる
151710.31ルター「95箇条の提題」を発表
15191.1ツヴィングリ,チューリヒの司牧司祭となる
1519 エラスムス『パラクレーシス キリスト教哲学研究の勧め』単行本として出版
15196.27--7.17ライプツィヒ討論会
15206.15ルターに対する波紋威嚇勅書「主よ,立ちて」が出される
15208.ルター「キリスト教界の改善について,ドイツ国民のキリスト教貴族に与える」
15209.28フッテン『ドイツ国民の諸身分に与える訴状』
152010.ルター「教会のバビロン捕囚について」
152011.ルター「キリスト者の自由」
152011.ドイツ各地でルターの書物焼かれる
152012.10ルター,破門脅迫勅書,教会法などの書籍を焼却
15211.3教皇勅書「ローマ教皇にふさわしく」によりルター正式に破門さる
1521「神の水車」(パンフレット)
1521 ルフェーヴル・デターブル,モーで改革運動
15214.17ルター,ヴォルムス帝国議会に召喚
15215.26ルター,ヴォルムス勅令により帝国追放刑
1521 クラーナハ『キリストの受難とアンチ・キリストの受難』
15229.フッテン,ジッキンゲンら帝国騎士とともに,トリーア大司教を攻撃し,失敗する(騎士戦争)
15231.29チューリヒの第一回公開討論会
15236.ツヴィングリ『67箇条の提題の講解と論証』
152310.26チューリヒの第二回公開討論会
1523/24 カールシュタット,オルラミュンデにおいて急進的改革を実施
1524/25 ドイツ農民戦争
15251.チューリヒ郊外のツォリコーン村で,再洗礼派運動誕生
15261.マドリード条約
15265.21--6.8バーデン宗教討論会(スイス版ヴォルムス帝国議会)
15265.22フランソワ一世,教皇とコニャック同名を結ぶ
15268.モハーチの戦い
15268.第一回シュパイエル帝国議会,宗教改革に自由を与える
15271.フェーリクス・マンツ,リマト川にて溺殺刑
1527 ザクセン選帝侯ヨーハン「巡察者のための訓令」を発布
15275.皇帝軍,ローマ掠奪
152712.チューリヒ,コンスタンツと「キリスト教都市同盟」締結
15281.ベルン公開討論会,ベルン宗教改革を導入して,「キリスト教都市同盟」へ加入
15282.「パック事件」が起きる
15294.22第二回シュパイエル帝国議会,ヴォルムス勅令の再施行
15294.オーストリア,スイスのカトリック諸邦と「キリスト教連合」(ヴァルツフート同盟)
1529 ルーカス・クラーナハ「律法と福音」
15295.第一次カペル戦争
15298.3カンブレ和約
15299.26--10.15第一次ウィーン包囲
152910.1--3マールブルク宗教会談,ルター派とツヴィングリ派,正餐論争で一致せず
152911.4--1536.4イングランドで「宗教改革議会」召集
15301.「キリスト教都市同盟」にシュトラースブルク加入
15306.アウクスブルク帝国議会,「アウクスブルク信仰告白」の朗読
15308.エックら「カトリックの論駁書」
153011.ウルジー,大逆罪の容疑で逮捕され,ロンドンへ護送される途中で病死
15312.27シュマルカルデン同盟結成
153110.第二次カペル戦争,ツヴィングリ戦死
15348.イグナティウス・デ・ロヨラ,イエズス会を設立
153410.17--18「檄文事件」
153411.イングランド議会「国王至上法」制定
1535 『カヴァデイル訳聖書』刊行
15357.6トマス・モア処刑
15362.7ジュネーヴ,ベルンと同盟
15362.26「第一スイス信仰告白」
15363カルヴァン『キリスト教綱要』
15365.21ジュネーヴ,宗教改革導入を決定
15365西南ドイツの福音派とルター派のあいだに「ヴィッテンベルク一致信条」成立
15367カルヴァン,ジュネーヴで宗教改革運動に参加
15371.カルヴァン「教会組織に関する諸条項」
15384.23カルヴァン,市民総会の決定により都市外追放
15396.「六箇条法」制定,『大聖書(グレート・バイブル)』刊行
15399.カルヴァン「サドレート枢機卿への返答」
15419.13カルヴァン,ジュネーヴへ帰還
154111.「ジュネーヴ教会規則」を制定
1545 カステリョ,ジュネーヴより追放
1546/47 シュマルカルデン戦争
15471.28英王ヘンリ8世没
15474.24ミュールベルクの戦い,ザクセン選帝侯ヨーハン・フリードリヒ捕虜になる
15473.31仏王フランソワ一世没
15486.「よろいを着た」アウクスブルク帝国議会,「仮信条協定」制定
1551 カルヴァン,ジェローム・ボルセックと二重予定説問題の論争
1552 諸侯戦争 皇帝カール5世敗退
155310.27ミカエル・セルヴェトゥス焚刑
1558 ノックス『女たちの奇怪な統治に反対するラッパの最初の高鳴り』
15559.アウクスブルク宗教平和
1559 ジュネーヴ・アカデミーの創設
15594.イタリア戦争の終結,カトー・カンブレジの和議
15595.「フランス信仰告白」
15603.15--16アンボワーズの陰謀
15608.「スコットランド信仰告白」
15623.ヴァシー事件,ユグノー戦争始まる
1566 「飢餓の年」
15711.イングランド「三九箇条」法制化
15728.23サン・バルテルミの虐殺
15737.「ブーローニュの王令」改革派はラ・ロシェルなどの都市で礼拝式を認められる
15787.「規律(第二)の書」
15791.23ユトレヒト同盟締結
15885.「バリケードの日」パリ市民の蜂起
15888.スペイン無敵艦隊イングランドに敗退
15898.アンリ3世暗殺され,アンリ・ド・ブルボンがアンリ4世として即位
1593 「国教忌避者処罰例」「ピューリタン処罰法」
15984.13ナントの王令
16094.9オランダ独立戦争,オランダとスペインがアントウェルペンで,十二年休戦条約を結ぶ
161811.ドルトレヒト会議,ホマルス派の全面的勝利
164810.ウェストファリア条約


 ・ 森田 安一 『図説 宗教改革』 河出書房,2010年.

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2017-09-14 Thu

#3062. 1665年のペストに関する Samuel Pepys の記録 [black_death][pepys][literature][history][demography][statistics]

 17世紀のイングランドの海軍大臣 Samuel Pepys (1633--1703) は,1660--69年ロンドンでの出来事を記録した日記 The Diary of Samuel Pepys で知られる.1665--66年にロンドンを襲った腺ペスト (The Great Plague) についても,不安をもって記録している.関連する箇所をいくつか抜き出そう.

Sunday 30 April 1665 . . . . Great fears of the sickenesse here in the City, it being said that two or three houses are already shut up. God preserve as all!


Sunday 7 June 1665 . . . . This day, much against my will, I did in Drury Lane see two or three houses marked with a red cross upon the doors, and "Lord have mercy upon us" writ there; which was a sad sight to me, being the first of the kind that, to my remembrance, I ever saw. It put me into an ill conception of myself and my smell, so that I was forced to buy some roll-tobacco to smell to and chaw, which took away the apprehension.


Sunday 10 June 1665 . . . . In the evening home to supper; and there, to my great trouble, hear that the plague is come into the City (though it hath these three or four weeks since its beginning been wholly out of the City) . . . .


Saturday 16 September 1665 . . . . At noon to dinner to my Lord Bruncker, where Sir W. Batten and his Lady come, by invitation, and very merry we were, only that the discourse of the likelihood of the increase of the plague this weeke makes us a little sad, but then again the thoughts of the late prizes make us glad.


 上の3つめの引用にあるとおり,ペストがシティに入ってきたのは6月10日頃である.6月下旬には,ロンドン市長と市参事会の連名でペスト条例が公布されている.当時のロンドンの人口は25万人ほどという説があるが,その1/5ほどがわずか1年のあいだに腺ペストに倒れたというから,その勢いは凄まじい(蔵持,pp. 219--226).ペストは翌1666年には下火になっていたものの,くすぶってはいた.ペストが完全に制圧されたのは,皮肉にも9月2日のロンドン大火によってだった.その日の Pepys の日記 (Sunday 2 September 1666) も参照されたい.

 ・ 蔵持 不三也 『ペストの文化誌 ヨーロッパの民衆文化と疫病』 朝日新聞社〈朝日選書〉,1995年.

Referrer (Inside): [2020-03-16-1]

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2017-09-12 Tue

#3060. 17世紀後半からの tea 用語 [pepys][compound][history]

 昨日の記事「#3059. ベンガル語の必修化を巡るダージリンのストライキ」 ([2017-09-11-1]) で Darjeeling について取り上げたので,関連して tea の話題を.「#2934. tea とイギリス」 ([2017-05-09-1]) で見たように,英語における tea の初出は1655年である.The Diary of Samuel Pepys より1660年9月25日の記録を引こう.tea が舶来の飲み物としてはやり始めた頃だったとわかる.

Tuesday 25 September 1660 . . . . To the office, where Sir W. Batten, Colonel Slingsby, and I sat awhile, and Sir R. Ford coming to us about some business, we talked together of the interest of this kingdom to have a peace with Spain and a war with France and Holland; where Sir R. Ford talked like a man of great reason and experience. And afterwards I did send for a cup of tee (a China drink) of which I never had drank before, and went away.


 17世紀後半から18世紀にかけて,tea は洗練された嗜みとして庶民にも拡がっていき,コーヒーを追い抜いていくことなる.tea の人気振りは,関連する食器や家具などを表わす複合語が次々と現われた事実からも見て取ることができるだろう.Crystal (370) から,例を初出年とともに拾ってみよう.

tea-pot (1662), tea-spoon (1666), tea-table (1688), tea-house (1689), tea-water (1693), tea-cup (1700), tea-room (1702), tea-equipage (1702), tea-dish (1711), tea-canister (1726), tea-tongs (1738), tea-time (1741), tea-shop (1745), tea-things (1747), tea-treats (1748), tea-box (1758), tea-saucer (1761), tea-visit (1765), teaware (1766), tea-cloth (1770), tea-tray (1773), tea-set (1786), tea-urn (1786)


 ・ Crystal, David. The Stories of English. London: Penguin, 2005.

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2017-09-10 Sun

#3058. 「英語史における黒死病の意義」のまとめスライド [black_death][reestablishment_of_english][history][sociolinguistics][slide][link][map][hel_education][asacul]

 ここ数日,集中的に英語史における黒死病の意義を考えてきた.これまで書きためてきた black_death の記事を総括する意味で「英語史における黒死病の意義」のまとめスライド (HTML) を作ってみたので,こちらよりご覧ください.
 13枚からなるスライドで,目次は以下の通り.

 1. 英語史における黒死病の意義
 2. 要点
 3. 黒死病 (Black Death) とは?
 4. ノルマン征服による英語の地位の低下
 5. 英語の復権の歩み (#131)
 6. 黒死病の社会(言語学)的影響 (1)
 7. 黒死病と社会(言語学)的影響 (2)
 8. 英語による教育の始まり (#1206)
 9. 実は中英語は常に繁栄していた
 10. 黒死病は英語の復権に拍車をかけたにすぎない
 11. 村上,pp. 176--77
 12. まとめ
 13. 参考文献

 HTML スライドなので,そのまま hellog 記事にリンクを張ったり辿ったりでき,とても便利.英語史スライドシリーズとして,ほかにも作っていきたい.  *  *

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2017-09-08 Fri

#3056. 黒死病による人口減少と技術革新 [black_death][reestablishment_of_english][history][demography][sociolinguistics][printing]

 英語史における黒死病 (black_death) の意義は,黒死病→人口減少→英語母語話者の社会的台頭→英語の復権といった因果関係の連鎖に典型的にみることができる.しかし,もっと広い視野から歴史の因果関係を考察すると,黒死病→人口減少→賃金上昇→技術革新という連鎖も認められ,この技術革新が間接的に英語の復権をサポートしたという側面もありそうだ.
 ケリーが『黒死病 ペストの中世史』のなかの「必要が新しい技術を生む」という節で,次のように述べている (376--77) .

人口減少は技術革新にも大きな影響を及ぼした.労働力が急激に減少したことから,人手を省くための装置の開発が各分野で進み,書籍作りにもその動きが見られた.十三世紀と十四世紀には,商人や大学教育を受けた専門職や職人などの階級が成長したことから,書籍への需要が着実に伸びた.しかし,中世の造本はきわめて労働集約的な作業だった.まず,数人の写字生が手分けして一冊の本を一折りずつ書き写す.労働賃金が安かった黒死病以前の時代には,この方法でも儲けが出たが,黒死病以後の高賃金の時代になると,そうはいかなかった.そこでドイツのマインツに生まれた野心家の若者ヨハネス・グーテンベルクの登場である.大量死の時代からおよそ百年後の一四五三年,グーテンベルクは世界初の印刷機を世に送り出した.


 以上より,1世紀ほどの時間幅があるとはいえ,黒死病→人口減少→賃金上昇→技術革新→印刷術の発明,という連鎖が得られた.印刷術の発明の後に続く連鎖については,「#2927. 宗教改革,印刷術,英語の地位の向上」 ([2017-05-02-1]) と「#2937. 宗教改革,印刷術,英語の地位の向上 (2)」 ([2017-05-12-1]) を参照されたい.黒死病が,最終的には英語の社会的地位の向上につながる.
 ケリー (377--79) は,黒死病に起因する技術革新や制度変化が,造本のほか,鉱業,漁業,戦争形態,医療,公衆衛生,高等教育など多くの分野で生じたことを示しており,すでに近代的な科学の方法論を取り入れる素地ができあがりつつあったとも述べている.例えば,高等教育の変化について「ペスト流行後の学問の衰退と聖職者兼教育者の不足」に言及している(ケリー,p. 379).当時の大学の置かれていた状況については「#1206. 中世イングランドにおける英語による教育の始まり」 ([2012-08-15-1]) および「#3055. 黒死病による聖職者の大量死」 ([2017-09-07-1]) を参照.

 ・ ジョン・ケリー(著),野中 邦子(訳) 『黒死病 ペストの中世史』 中央公論新社,2008年.

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2017-09-07 Thu

#3055. 黒死病による聖職者の大量死 [black_death][reestablishment_of_english][history][demography][sociolinguistics]

 連日,黒死病 (black_death) の話題を取りあげている.昨日の記事「#3054. 黒死病による社会の流動化と諸方言の水平化」 ([2017-09-06-1]) では Gooden の英語史読本を参照したが,黒死病を手厚く扱っているもう1つのポピュラーな英語史読本として,Bragg (60--61) を挙げよう.黒死病の英語史における意義に関して特に目新しことを述べているわけではないが,さすがに読ませる書き方ではある.

In 1348 Rattus rattus, the Latin-named black rodent, was the devil in the bestiary. These black rats deserted a ship from the continent which had docked near Weymouth. They carried a deadly cargo, a term that modern science calls Pasteurella pestis, that the fourteenth century named the Great Pestilence and that we know as the Black Death.
   The worst plague arrived in these islands, and much, including the language, would be changed radically.

The infected rats scaled out east and then north. They sought out human habitations, building nests in the floors, climbing the wattle and daub walls, shedding the infected fleas that fed on their blood and transmitted bubonic plague. It has been estimated that up to one-third of England's population of four million died. Many others were debilitated for life. In some places entire communities were wiped out. In Ashwell in Hertfordshire, for instance, in the bell tower of the church, some despairing soul, perhaps the parish priest, scratched a short poignant chronicle on the wall in poor Latin. "The first pestilence was in 1350 minus one . . . 1350 was pitiless, wild, violent, only the dregs of the people live to tell the tale."
   The dregs are where our story of English moves on. These dregs were the English peasantry who had survived. Though the Black Death was a catastrophe, it set in train a series of social upheavals which would speed the English language along the road to full restoration as the recognised language of the natives. The dregs carried English through the openings made by the Black Death.
   The Black Death killed a disproportionate number of the clergy, thus reducing the grip of Latin all over the land. Where people lived communally as the clergy did in monasteries and other religious orders, the incidence of infection and death could be devastatingly high. At a local level, a number of parish priests caught the plague from tending their parishioners; a number ran away. As a result the Latin-speaking clergy was much reduced, in some parts of the country by almost a half. Many of their replacements were laymen, sometimes barely literate, whose only language was English.
   More importantly, the Black Death changed society at its roots --- the very place where English was most tenacious, where it was still evolving, where it roosted.
   In many parts of the country there was hardly anyone left to work the land or tend the livestock. The acute shortage of labour meant that for the first time those who did the basic work had a lever, had some power to break from their feudal past and demand better conditions and higher wages. The administration put out lengthy and severe notices forbidding labourers to try for wage increases, attempting to force them to keep to pre-plague wages and demands, determined to stifle these uneasy, unruly rumblings. They failed. Wages rose. The price of property fell. Many peasants, artisans, or what might be called working-class people discovered plague-emptied farms and superior houses, which they occupied.


 引用中に,聖職者が特にペストの餌食となったことにより,イングランド社会におけるラテン語の影響力が減じたとある.含意として,相対的に大多数の人々の母語である英語が影響力を増したと読める.しかし,聖職者がとりわけ被害を受けたというのが本当なのかどうかについては論争があり,真実は必ずしも明らかにされていない.とはいえ,「聖職者というのは,埋葬に立ち会い,終油の秘蹟をさずけ,あるいは救助活動に身を捧げたりで,患者や死者との接触度が一般人よりもはるかに大きく,それだけ危険度も高かった」(村上,p. 131)というのは,理に適っているように思われる.なお,聖職者は教育者でもあったことも付け加えておこう (cf. 「#1206. 中世イングランドにおける英語による教育の始まり」 ([2012-08-15-1])) .

 ・ Bragg, Melvyn. The Adventure of English. New York: Arcade, 2003.
 ・ 村上 陽一郎 『ペスト大流行 --- ヨーロッパ中世の崩壊 ---』 岩波書店〈岩波新書〉,1983年.

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