hellog〜英語史ブログ     ChangeLog 最新     カテゴリ最新     前ページ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 次ページ / page 5 (13)

history - hellog〜英語史ブログ

最終更新時間: 2019-08-23 07:45

2017-08-09 Wed

#3026. 歴史における How と Why [historiography][history][causation][language_change][methodology][prediction_of_language_change]

 歴史言語学は言語変化を扱う分野だが,なぜ言語は変化するのかという原因 (causation) を探究するという営みについては様々な立場がある.本ブログでも言語変化 (language_change) の「原因」「要因」「駆動力」を様々に論じてきたが,「なぜ」に対する答えはそもそも存在するのだろうかという疑念が常につきまとっている.仮に与えられた答えらしきものは,言語変化の「なぜ」 (Why?) に対する答えではなく,「どのように」 (How?) に対する答えにすぎないのではないか,と.言語変化の How と Why については,「#2123. 言語変化の切り口」 ([2015-02-18-1]) と「#2255. 言語変化の原因を追究する価値について」 ([2015-06-30-1]) で別々の問いであるかのように扱ってきたが,この2つの問いはどのような関係にあるのだろうか.
 連日参照している Harari (265--66) は,歴史学の立場からこの問題を論じており,Why に対する How の重要性を説いている.

What is the difference between describing 'how' and explaining 'why'? To describe 'how' means to reconstruct the series of specific events that led from one point to another. To explain 'why' means to find causal connections that account for the occurrence of this particular series of events to the exclusion of all others.
   Some scholars do indeed provide deterministic explanations of events such as the rise of Christianity. They attempt to reduce human history to the workings of biological, ecological or economic forces. They argue that there was something about the geography, genetics or economy of the Roman Mediterranean that made the rise of a monotheist religion inevitable. Yet most historians tend to be sceptical of such deterministic theories. This is one of the distinguishing marks of history as an academic discipline --- the better you know a particular historical period, the harder it becomes to explain why things happened one way and not another. Those who have only a superficial knowledge of a certain period tend to focus only on the possibility that was eventually realised. They offer a just-so story to explain with hindsight why that outcome was inevitable. Those more deeply informed about the period are much more cognisant of the roads not taken.


 では,歴史の Why ではなく How に踏みとどまざるを得ない歴史学とは何のためにあるのか.Harari (48) は解放感のある次のような言葉で言い切る.

So why study history? Unlike physics or economics, history is not a means for making accurate predictions. We study history not to know the future but to widen our horizons, to understand that our present situation is neither natural nor inevitable, and that we consequently have many more possibilities before us than we imagine. For example, studying how Europeans came to dominate Africans enables us to realise that there is nothing natural or inevitable about the racial hierarchy, and that the world might well be arranged differently.


 未来予測が歴史学の目的ではない.同じように,言語変化を扱う歴史言語学も,言語の未来予測を目的としていない.
 言語の予測可能性については,「#843. 言語変化の予言の根拠」 ([2011-08-18-1]),「#844. 言語変化を予想することは危険か否か」 ([2011-08-19-1]),「#1019. 言語変化の予測について再考」 ([2012-02-10-1]),「#2154. 言語変化の予測不可能性」 ([2015-03-21-1]),「#2273. 言語変化の予測可能性について再々考」 ([2015-07-18-1]) をはじめとする (prediction_of_language_change) の記事を参照されたい.

 ・ Harari, Yuval Noah. Sapiens: A Brief History of Humankind. 2011. London: Harvill Secker, 2014.

Referrer (Inside): [2017-12-13-1]

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-08-02 Wed

#3019. 18--19世紀の「たしなみ」としての手紙書き [lmode][prescriptivism][history][sociolinguistics]

 英文学史上,18--19世紀は "the Age of Prose", "the great age of the personal letter", "the golden age of letter writing" などと呼ばれることがある.人々がいそいそと手紙をしたため,交わした時代である.近年,英語史的において,この時代の手紙における言葉遣いや当時の規範的な文法観が手紙に反映されている様子などへの関心が高まってきている.とりわけ社会言語学や語用論の観点からのアプローチが盛んだ.
 18--19世紀に手紙を書くことが社会的なブームとなった背景について,Tieken-Boon van Ostade の解説を引こう (2--3) .

Letter writing became an important means of communication to all people alike, largely as a result of the developments of the postal system. With the establishment of the Penny Post throughout Britain in 1840, postage became cheaper and was now paid for by the writer instead of the receiver. The result was phenomenal: while according to Mugglestone (2006: 276) 'some 75 million letters were sent in 1839', they had increased to 347 million ten years later. Just before the widespread introduction of the Penny Post, the average person in England and Wales received about four letters a year (Bailey 1996: 17), which rose to about eight times as many in 1871, and doubled further at the end of the century. The effects on the language were significant: more people write than ever before, either themselves or, as with minimally schooled writers, through the hands of others who had had slightly more education. Letter-writing manuals, such as The Complete Letter Writer (Anon., 2nd edn 1756), had been appearing in increasing numbers since the mid-eighteenth century, and they gained in popularity during the nineteenth, both in England and in the United States.


 このブームは,後期近代英語期に新たな書き言葉のジャンルが本格的に開拓され伸張したことを意味するばかりではない.これまで書いていた人々がますます書くようになったこと,そしてさらに重要なことに,これまで書くことのなかった人々までが書くという行為の担い手となり始めたことをも意味する.さらに,手紙の書き方に関するマニュアルが出版されるようになり,それが社会的なたしなみとして規範化していった時期でもあることを意味する.
 この時代は,ドレスコードにせよ言葉遣いにせよ,何事につけても「たしなみ」の時代だった.手紙を書くという行為も,そのような時代の風潮のなかで社会に組み込まれていったもう1つのたしなみだったということになろう.
 16世紀から19世紀までの手紙の資料については,Tieken-Boon van Ostade による Correspondences のページを参照.

 ・ Tieken-Boon van Ostade, Ingrid. An Introduction to Late Modern English. Edinburgh: Edinburgh UP, 2009.

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-07-08 Sat

#2994. 後期近代英語期はいつからいつまでか? [lmode][periodisation][sociolinguistics][history]

 昨日の記事「#2993. 後期近代英語への関心の高まり」 ([2017-07-07-1]) で,近年の後期近代英語研究の興隆について紹介した.後期近代英語 (Late Modern English) とは,いつからいつまでを指すのかという問題は,英語史あるいは言語史一般における時代区分 (periodisation) という歴史哲学的な問題に直結しており,究極的な答えを与えることはできない(比較的最近では「#2640. 英語史の時代区分が招く誤解」 ([2016-07-19-1]),「#2774. 時代区分について議論してみた」 ([2016-11-30-1]),「#2960. 歴史研究における時代区分の意義」 ([2017-06-04-1]) で議論したので参照).
 ややこしい問題を抜きにすれば,後期近代英語期は1700--1900年の時期,すなわち18--19世紀を指すと考えてよい.もちろん,1700年や1900年という区切りのわかりやすさは,時代区分の恣意性を示しているものと解釈すべきである.ここに社会史に沿った観点から細かい修正を施せば,英国史における「長い18世紀」と「長い19世紀」を加味して,後期近代とは王政復古の1660年から第1次世界大戦終了の1918年までの期間を指すものと捉えるのも妥当かもしれない.特に社会史と言語史の密接な関係に注目する歴史社会言語学の立場からは,この「長い後期近代英語期」の解釈は,適切だろう.Beal (2) の説明を引く.

Of course, it would be foolish to suggest that any such period could be homogeneous or that the boundaries would not be fuzzy. The starting-point of 1700 is particularly arbitrary, especially since . . . the obvious political turning-point which might mark the Early/Later Modern English boundary is the restoration of the monarchy in 1660. This coincides with the view of historians that the 'long' eighteenth century extends roughly from the restoration of the English monarchy (1660) to the fall of Napoleon (1815). On the other hand, the 'long' nineteenth-century in European history is generally acknowledged as beginning with . . . 'the great bourgeois French Revolution' of 1789 . . . and concluding with the end of World War I in 1918 . . . .


 終点をさらに少しく延ばして第2次世界大戦の終了の1945年にまで押し下げて,「非常に長い後期近代英語期」を考えることもできるかもしれない.このように見てくると,この約3世紀に及ぶ期間が,いまや世界的な言語である英語の歴史を論じるにあたって,極めて重要な時代であることは自明のように思われる.しかし,この時期に本格的な焦点が当たり始めたのは,今世紀に入ってからなのである.

 ・ Beal, Joan C. English in Modern Times: 1700--1945. Arnold: OUP, 2004.

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-07-04 Tue

#2990. Black Death [etymology][loan_translation][history][black_death][epidemic]

 14世紀半ばにイングランド(のみならずヨーロッパ全域)を襲った Black Death (黒死病; black_death)の英語史上の意義については,「#119. 英語を世界語にしたのはクマネズミか!?」 ([2009-08-24-1]),「#138. 黒死病と英語復権の関係について再考」 ([2009-09-12-1]),「#139. 黒死病と英語復権の関係について再々考」 ([2009-09-13-1]) で論じてきた.
 この世界史上悪名高い疫病につけられた Black Death という名前は,実は後世の造語である.『英語語源辞典』によると,英語での初例は1758年と意外に遅く,ドイツ語のder schwarze Tod のなぞり (loan_translation) とされる.16世紀よりスウェーデン語で swarta dödhen が,デンマーク語で den sorte död がすでに用いられており,それがドイツ語でなぞられたものが,一般的な疫病の意味でヨーロッパ諸語に借用されたものらしい.14世紀半ばのイギリス史上の疫病を指す用語としての Black Death は,1823年に "Mrs Markham" (Mrs Penrose) が導入し,1833年には医学書で上述のようにドイツ語を参照して使われ出したとされ,それ以前には the pestilence, the plague, great pestilence, great death などと呼ばれていた.
 なぜ「黒」なのかという点については,この病気にかかると体が黒くなることに由来すると言われるが,詳細は必ずしも明らかではない.参考までに,Gooden (68) には次のように解説されている.

The term 'Black Death' came into use after the Middle Ages. It was so called either because of the black lumps or because in the Latin phrase atra mors, which means 'terrible death', atra can also carry the sense of 'black'.


・ Gooden, Philip. The Story of English: How the English Language Conquered the World. London: Quercus, 2009.

Referrer (Inside): [2017-09-06-1]

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-06-25 Sun

#2981. 英国史と日本史の視点の差異 [history][archaeology][celtic][geography][review]

 書店で平積みになっていた新書を買って読んでみた.松木武彦著『縄文とケルト』である.日英比較考古学の興味をそそる本である.端的にいえば,両地域,両民族ともに,紀元前に先進的な文明をもつ大陸の民族に大きな影響を受けたが,現在その歴史をとらえる視点は,おおいに異なっているということだ.「同じ動きを,英国史ではヨーロッパ史の一部とみているのに対し,日本史ではどこまでも日本史としてにらんでいる」(223) のだという.
 もう少し詳しく著者の結論を紹介するには,直接文章を引用するのが早いだろう.松木 (236) は,文明を「非文明のさまざまな知的試行や積み重ねの中から生み出されて広まった,人類第二次の知識体系」と定義づけた後に,次のように締めくくっている.

 大陸中央部の平原で芽生えて根を張った,この文明の知識体系やそれに沿った行動様式は,環境の悪化と資源の低落による危機を肥やしにして,その実利的な結実率の高さゆえに周辺の地域にも急速にはびこっていった.ケルトとは,ユーラシア大陸の中央部から主として西方へ進んだこの動きを,一つの人間集団の移動拡散というドラマになぞらえて,後世の人びとが自らのアイデンティティと重ねながらロマン豊かに叙述したものである.
 いっぽう,ユーラシア大陸中央部から東方にも同様の動きが進んだ.克明な一国史の叙述を大の得意とするわが国の歴史学や考古学では,この島国にしっかりと足をつけて西の海の向こうをにらむ姿勢をもとに,このような動きを,弥生時代に水田稲作をもたらした「渡来人」,古墳時代に先進的な技術と知識をもってやってきた「渡来人」(古くは「帰化人」)に集約して描こうとしてきた.後者は一時,東のケルトとでもいうべき「騎馬民族」に含めて描かれようとしたが,島国日本の伝統と孤立と純粋さを信じたい心根と,日本考古学一流の精緻な実証主義とがあいまったところから大きな反発を受け,その時点では不成功の試みに終わった.
 ともあれ,西と東のケルトは,ともにその最終の到達地であるブリテン島と日本列島とにそれぞれ歴史的な影響を及ぼし,環濠集落のような戦いと守りの記念物や,不平等や抑圧を正当化する働きをもった王や王族の豪華な墓をそこに作り出した.紀元前三〇〇〇年を過ぎたころから紀元前後くらいまでの動きである.
 しかし,東西ケルトの動きの最終的帰結ともいえる大陸の古代帝国――漢とローマ――が日本列島とブリテン島とに関わった程度と方向性は大きく異なり,そのことは,両地域がたどったその後の歴史の歩みの違いと,そこから来る相互の個性を作り出すに至る.大陸との間を隔てる海が狭かったがゆえにローマの支配にほぼ完全に呑み込まれたブリテン島では,文字や貨幣制度など,抽象的な記号を媒介とする知財や情報の交換システム――人類第三次の知識体系――に根ざした新しいヨーロッパ社会の一翼としてその後の歴史の歩みに入っていった.
 これに対し,もっと広い海で大陸から隔てられていた日本列島は,漢の直接支配下に入ることなく,王族たちが独自の政権を作り,前方後円墳という固有の記念物を生み出し,独自のアイデンティティを固める期間がイギリスよりもはるかに長かった.私たち現代日本人は,このような感性や世界観を受け継いでいる.「縄文時代」「弥生時代」「古墳時代」と,同じ島国のイギリスの歴史ではほとんど用いられない一国史的な時代区分を守り,東のケルト史観たる騎馬民族説に反発する日本人の歴史学者や考古学者の観念もまた,そこに由来するのかもしれない.(237--39)


 本書には,地政学的な指摘も多い.例えば,日英両島嶼地域と大陸との関係は,間に挟まる海峡の幅にも比例するという.ドーヴァー海峡の幅は34キロであり,人間でも頑張れば泳ぎ切れる距離だが,対馬海峡は約200キロもあり,さすがに泳いでは渡れない (233) .また,「東西のケルト」は,いずれもユーラシア中央部に近いところにルーツが想定されているという指摘も,ユーラシア大陸規模で歴史を考えさせる契機となり,意味深長である (224) .
 上の引用の最後にもあるように,紀元前後に,ブリテン島では帝国に取り込まれて固有のアイデンティティが育ち得なかったのという指摘もおもしろい.そのタイミングで育ち得なかったがゆえに,ずっと後の近代期に,国家的アイデンティティを作り出す手段として基層に広がるケルトが利用されたのではないかという考察も示唆に富む(231--32) .英国史および英語史に対して,1つの視点を与えてくれる本として読んだ.そして,もちろん日本(語)史に対しても.
 今回の話題と関連して,「#159. 島国であって島国でないイギリス」 ([2009-10-03-1]),「#2968. ローマ時代以前のブリテン島民」 ([2017-06-12-1]) も参照.

 ・ 松木 武彦 『縄文とケルト』 筑摩書房〈ちくま新書〉,2017年.

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-06-12 Mon

#2968. ローマ時代以前のブリテン島民 [history][archaeology][celtic]

 ブリテン島の先史時代にも人々の移動は頻繁にあったが,いつどのような民族がやってきて,いかにして先住民を征服したか,あるいは共存したかについて,詳細はわかっていない.アングロ・サクソン時代の直前のブリテン島民であった「ケルト人」についても,いつどのように渡来したのかについて諸説あり,論争の的となっている.以下では,君塚 (3--5),川北 (17--22),指 (7--9) に依拠して,教科書的な記述を施しておきたい.
 人類が現在のブリテン島に相当するユーラシア大陸西端に居住していた最古の痕跡は,81万年前のものとされている.紀元前1万年頃の旧石器時代末期には,前時代におけるネアンデルタール人の文化をもった旧人に代わり,新人が狩猟採集の生活を営みつつ住み着いていた.紀元前7000--6000年になると,この地は大陸と完全に切り離された.ブリテン島の誕生である.次いで紀元前4000年頃からは農耕や牧畜も始まり,新石器時代に入る.この頃には,イベリア半島あるいは北アフリカ沿岸より人々が渡来していたようだ.新石器時代の末期,紀元前22--20世紀には大陸からビーカー人(埋葬品として用いられた口広型の土器にちなむ)と呼ばれる戦士集団がやってきて,青銅器文化をもたらした.ビーカー人は,おそらく印欧語を話していたと考えられる.ストーンヘンジに代表される巨石文化は紀元前18世紀頃に栄えたが,この頃までには大小様々な集団が生まれていたようだ.
 ちょうどその頃,紀元前2千年紀には,大陸のアルプス山脈北部に,後にケルト人と呼ばれる冒険的戦士集団が生まれていた.彼らは千年ほどかけて北西ヨーロッパ,特に中欧,東欧にかけて拡張し,紀元前6世紀頃にはブリテン島にも渡来し,青銅器文化の担い手を追い出して,鉄器文化をもたらしつつ,この島に住み着くようになった.なお,ケルト人といっても均一の文化をもっていたわけではなく,彼らに征服された多様な先住民が征服者の文化と言語を共有する緩やかな文化的集合体をなしていたととらえるのが適切だろう(征服というよりは緩やかな同化だった可能性もある).さて,ブリテン島に次々に渡来してきたケルト人のなかでも中心的な役割を果たしたとされる最後の分派がベルガエ人であり,紀元前2世紀末までに高度な鉄器文化を発達させていた.数十の部族が分立していたが,このケルト人こそが,紀元前1世紀半ばよりローマ軍団に狙われることになるブリテン島民だった.

 ・ 君塚 直隆 『物語 イギリスの歴史(上)』 中央公論新社〈中公新書〉,2015年.
 ・ 川北 稔(編) 『イギリス史』 山川出版社,1998年.
 ・ 指 昭博 『図説イギリスの歴史』 河出書房新社,2002年.

Referrer (Inside): [2017-06-25-1]

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-06-07 Wed

#2963. Palmerston English [esl][world_englishes][map][variety][history]

 ニュージーランドの北東約3000kmに浮かぶクック諸島 (Cook Islands) は,ニュージーランドと自由連合を組む自治国である.国名は,Captain Cook が1773年にこの諸島に上陸したことにちなむ.1888年にイギリスの属領となった後,1901年にはニュージーランドの属領へ移行し,1965年に内政自治権を獲得した.1万7千人程度の人口があり,その8割程度がポリネシア系のクック諸島マオリ族である.クック諸島マオリ語と英語がともに公用語となっている.以下,地図を掲載(広域図は「#2215. Niue,英語を公用語としてもつ最小の国(最新版)」 ([2015-05-21-1]) を参照).

Map of Cook Islands

 首都 Avarua のある Rarotonga 島の北西400kmほどのところに,Palmerston Island という島が浮かんでいる.ここでは,成立過程のよく知られている Palmerston English と呼ばれる英語変種が話されている.Trudgill (100) の記述を借りよう.

Palmerston English is spoken on Palmerston Island (Polynesian Avarau), a coral atoll in the Cook Islands about 250 miles northwest of Rarotonga, by descendants of Cook Island Maori and English speakers. William Marsters, a ship's carpenter and cooper from Gloucestershire, England, came to uninhabited Palmerston Atoll in 1962. He had three wives, all from Penrhyn/Tongareva in the Northern Cook Islands. He forced his wives, seventeen children and numerous children to use English all the time. Virtually the entire population of the island today descends from the patriarch. Palmerston English has some admixture from Polynesian but is probably best regarded as a dialectal variety of English rather than a contact language.


 その他,クック諸島の基本情報は,CIA: The World Factbook による Cook Islands外務省のクック諸島基礎データを参照.

 ・ Trudgill, Peter. A Glossary of Sociolinguistics. Oxford: Oxford University Press, 2003.

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-06-02 Fri

#2958. ジャガイモ,アイルランド,英語史 [ireland][irish_english][ame][history]

 「#2954. ジャガイモの呼び名いろいろ」 ([2017-05-29-1]) で触れたように,ジャガイモは16世紀中に新大陸から旧大陸へ持ち込まれ,ヨーロッパでは17--18世紀の間に常食される穀物として定着していった.17世紀には,ヨーロッパで戦争がなかったのは4年だけといわれるほどの戦乱期であり,なおかつ気候の寒冷化にも見舞われた時期だったため,耕地の荒廃が進み,飢饉が頻発した.根菜に慣れていなかった当時のヨーロッパ人は,最初はジャガイモも気味悪がって受け付けなかったが,飢えをしのぐのに仕方なしと,徐々にこの新しい穀物を受容していった.
 ヨーロッパ諸国の中で最も早くジャガイモを受け入れたのは,アイルランドだった.アイルランド人に勇気があったというよりは,同地ではそれだけ飢饉が厳しかったということだろう.小麦の育つ肥沃なアイルランド東部の耕地は,17世紀半ばのクロムウェルによる収奪以来,イギリス人が牛耳っており,アイルランド人は狭隘で岩のごつごつした西部へ追いやられていた.ジャガイモはそのような土地でも育つ穀物として,すなわち最後の頼みの綱として,植えられ,食されたのである.
 アイルランドにおけるジャガイモ導入の効果は甚大だった.1780年に約400万人だった人口は,1841年には倍増していた.しかし,その直後の1845--48年にジャガイモ疫病がヨーロッパ中に広まり,アイルランドは最大の打撃を受けた.ジャガイモ単作(モノカルチャー)が仇となったのである.このジャガイモ飢饉 (The Great Famine; An Gorta Mór) は,アイルランドに100万人ともいわれる餓死者を出すとともに,多数の人口がアメリカへ移民する契機ともなった.
 アイルランドのジャガイモ飢饉は,疫病という天災とモノカルチャーが主要因とされるが,伊藤 (64) は「社会構造が生んだ飢饉」であり「英国によってつくられた飢饉」であるという.「アイルランドのジャガイモ単作(モノカルチャー)のゆえに起こったのだといわれる.しかし,英国による土地と作物の厳しい収奪のもと,残された石と岩盤だらけの狭隘な土地でアイルランド国民が生き残るには,ジャガイモ単作という選択しかなかったのだ」.
 では,新穀物の導入から飢饉に至る一連のアイルランド・ジャガイモ史は,英語の歴史とどのような関係にあるだろうか.飢饉を生き延びたアイルランド人は,この後,独立の道を歩み出し,言語的にはアイルランド英語 (irish_english) という独特な英語変種を確立していった.また,飢饉に押し出されるようにアメリカへ移住して生き延びたアイルランド人たちは,著しい民族集団としてアメリカ社会に根を張り,言語的にはアメリカ英語の形成にもおそらく一定の貢献をなした.イギリス人によるアイルランド支配は,皮肉にも,イギリス変種と並んで世界的に知られる2つの母語英語変種の発達を間接的に推進したことになる.
 アイルランド(英語)の歴史については,以下の記事も参照されたい.

 ・ 「#328. 菌がもたらした(かもしれない) will / shall の誤用論争」 ([2010-03-21-1])
 ・ 「#327. Irish English が American English に与えた影響」 ([2010-03-20-1])
 ・ 「#762. エリザベス女王の歴史的なアイルランド訪問」 ([2011-05-29-1])
 ・ 「#2361. アイルランド歴史年表」 ([2015-10-14-1])

 ・ 伊藤 章治 『ジャガイモの世界史』 中央公論新社〈中公新書〉,2008年.

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-05-31 Wed

#2956. タカラガイと英語史 [history]

 インド洋北部海域の浅いサンゴ礁に生息する「タカラガイ」という貝と,英語の歴史とは,まるで接点がないように思われるが,想像力をたくましくすると,細い糸で結びつけられるかもしれない.スケールズ(著)『貝と文明』の第3章「貝殻と交易」を読んで,ふと思い当たったことである.
 その3センチほどの大きさの貝殻は,今から千年以上も前に,モルディブの島民によって採集され始めた.タカラガイは,貨幣,装飾品,魔除け,純潔の印などとして価値があった.交易のためにモルディブを旅立ったタカラガイの最初の寄港地はインドである.そこから陸路でサハラ砂漠を横断してアラビア世界に入り,さらにアフリカ大陸を横断して西アフリカにまで運ばれた (スケールズ,pp. 110--11).
 この東西の広範囲にわたるタカラガイを用いた交易に最初に気づいたヨーロッパ人は,ポルトガル人である.ポルトガル商人は16世紀まで海の交易を独占していたが,17世紀以降はイギリスとオランダが介入し,両国の東インド会社がタカラガイの流通を支配することになった.ヨーロッパの商人がタカラガイを重視したのは,「アフリカの王や商人との取引には貝殻を使うと具合がよいことを知っていた」からだ(スケールズ,p. 113).この貝殻貨幣によりヨーロッパの商人は奴隷を買うことができたのであり,その奴隷たちこそが,大西洋を横断してカリブ海の大農園の労働力となったのである(1680年代には奴隷1人は貝殻1万個で交換され,1770年代には成人男性の奴隷1人の価値は貝殻15万個にもなった).こうして,「モルディブのタカラガイとともに積荷として運ばれた茶葉はイギリスで紅茶になり,その紅茶に,同じタカラガイで買われた男女が栽培した砂糖を入れて飲んでいたことになる」(スケールズ,p. 113).
 タカラガイを推進力の1つとしたこの奴隷貿易により大もうけしたイギリスは,その富をもって産業革命の下準備をしたのであり,大英帝国の経済的基盤を作ったともいえる.そして,帝国の世界展開とともに,英語もまた世界へ拡散した.
 1807年,イギリスは奴隷の売買を禁止する法律を成立させ,それに伴って貨幣としてのタカラガイの役割も下火となっていった.西アフリカではタカラガイ交易の多少の復活はあったものの,19世紀を越えてかつての繁栄を回復することができず,貨幣としての歴史に幕を下ろした.モルディブのタカラガイは総計300億個以上が貨幣として用いられてきたという.このうちの何パーセントが,現代世界におけるリンガ・フランカたる英語の誕生に寄与したのだろうかと夢想してみる.

 ・ ヘレン・スケールズ(著),林 裕美子(訳) 『貝と文明』 築地書館,2016年.

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-05-29 Mon

#2954. ジャガイモの呼び名いろいろ [loan_word][spanish][japanese][homonymic_clash][taboo][dissimilation][dutch][history]

 英語で「ジャガイモ」は potato である.「サツマイモ」 (sweet potato, batata) と区別すべく,Irish potatowhite potato と呼ぶこともある.ジャガイモが南米原産(ペルーとボリビアにまたがるティティカカ湖周辺が原産地といわれる)であることはよく知られているが,1570年頃にスペイン人によってヨーロッパへ持ち込まれ,さらに17世紀にかけて世界へ展開していくにあたって,その呼び名は様々であった.
 伊藤(著)『ジャガイモの世界史』 (44--45) によると,中南米の現地での呼称は papa であり,最初はそのままスペイン語に入ったという.しかし,ローマ法王を意味する papà と同音であることから恐れ多いとの理由で避けられ,音形を少しく変更して patata あるいは batata とした.この音形変化の動機づけが正しいとすれば,ここで起こったことは (1) 同音異義衝突 (homonymic_clash) の回避と,(2) ある種のタブー (taboo) 忌避の心理に駆動された,(3) 2つめの pt で置き換える異化 (dissimilation) の作用(「#90. taperpaper」 ([2009-07-26-1]) を参照)と,(4) 音節 ta の繰り返しという重複 (reduplication) という過程,が関与していることになる.借用に関わる音韻形態的な過程としては,すこぶるおもしろい.
 スペイン語 patata は,ときに若干の音形の変化はあるにせよ,英語 (potato) にも16世紀後半に伝わったし,イタリア語 (patata) やスウェーデン語 (potatis) にも入った(cf. 「#1411. 初期近代英語に入った "oversea language"」 ([2013-03-08-1]),「#1966. 段々おいしくなってきた英語の飲食物メニュー」 ([2014-09-14-1])).
 一方,栄養価の高い食物という評価をこめて,「大地のリンゴ」あるいは「大地のナシ」という呼称も発達した.フランス語 pomme de terre,オランダ語 aardappel などが代表だが,スウェーデン語で jordpäron とも称するし,ドイツ語で Erdapfel, Erdbirne の呼称もある.
 さらに別系統では,ドイツ語 Kartoffel がある.これはトリュフを指すイタリア語 tartufo に由来するが,初めてジャガイモに接したスペイン人がトリュフと勘違いしたという逸話に基づく.ロシア語 kartofel は,ドイツ語形を借用したものだろう.
 日本語「ジャガイモ」は,ジャガイモが16世紀末の日本に,オランダ人の手によりジャワ島のジャカトラ(現ジャカルタの古名)から持ち込まれたことに端を発する呼び名である.日本の方言の訛語としては様々な呼称が行なわれているが,おもしろいところでは,徳川(編)の方言地図によると,北関東から南東北の太平洋側でアップラ,アンプラ,カンプラという語形が聞かれる.これは,前述のオランダ語 aardappel に基づくものと考えられる(伊藤,p. 167).

 ・ 伊藤 章治 『ジャガイモの世界史』 中央公論新社〈中公新書〉,2008年.
 ・ 徳川 宗賢(編) 『日本の方言地図』33版,中央公論新社〈中公新書〉,2013年.  *

Referrer (Inside): [2017-06-02-1]

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-05-12 Fri

#2937. 宗教改革,印刷術,英語の地位の向上 (2) [reformation][printing][medium][history][religion][latin][german]

 [2017-05-02-1]の記事に引き続いての話題.この英語史上の問題に迫るには,先行するドイツ語史における情況を見ておくのが早い.というのは,宗教改革も印刷術もドイツにおいて始まったからだ.宗教改革者ルター (Martin Luther; 1483--1546) と,少々先立つ時代の活版印刷術の発明者グーテンベルク (Johannes Gutenberg; 1400?--68) の時代である.
 ルターのドイツ語訳聖書 (1521) が俗語ドイツ語の地位を高めた事実について,野々瀬 (35--36) の解説を引く.

ルター訳聖書は,ドイツ語史の中でも重要な位置を占めている.当時ドイツ語には,多様な方言が存在し,統一的な共通語はまだ形成されていなかった.ルターは,この翻訳に際して,技巧をこらした複雑な表現ではなく,話し言葉を多く採用した.〔中略〕彼は,官房で使われていた法律家風の言葉だけでなく,民衆の言い回しの中にある豊かな表現を選抜して,それを多用した.ルターの言葉は,突然生み出された新しいものではなく,当時生きていたドイツのすべての言語的な伝統の系譜を集約したような貯水槽であった.ルターは,誰にでもわかる言語形式で聖書の翻訳を試みたのである.このような翻訳に従事することによってルターは,聖書全体を民衆に役立たせようと格闘した.ルター訳聖書は,商品として市場で普通に売買され,一般家庭で読まれるための書物となった.以降ルターのドイツ語訳聖書は,ドイツ語を学ぶための民衆の教材として扱われ,近代ドイツ文学の源泉の一つとなり,国語としてのドイツ語の成立に寄与したことは間違いない.宗教改革運動が聖書の翻訳に加えて教会の典礼での俗語の使用を促進したので,結果としてそのことが,中世では支配的であったラテン語の使用範囲を著しく狭め,俗語の地位を高めることに繋がった.またルター訳聖書は,ティンダル訳や欽定訳などの英訳聖書にも重大な影響を与えたのである.


 ルター訳聖書は,俗語ドイツ語で書かれることによって,不動と思われていたラテン語の権威を脅かしたという点において,ドイツ語史上に大きな意義を有している.これを契機に,何世紀ものあいだカトリック教会の権威と結びつけられ,絶対的な地位を守り続けたラテン語の権威が,相対的に陰りはじめたのである.この影響はすぐに近隣国へも広がり,イングランドにおいても俗語たる英語への聖書翻訳が次々に企画され,実践されていくことになった.おりしも活版印刷はグーテンベルクの発明から半世紀を経て,軌道に乗り始め,宗教改革を支える強力な推進力となった.ドイツ語と同様,英語もラテン語に対抗しうるひとかどの言語として認識されるようになっていく.
 以上を野々瀬 (41) の言葉でまとめよう.

宗教改革運動が,万人司祭主義と聖書中心主義を掲げて,原典に依拠した俗語訳聖書を出版したことによって,民衆にとって聖書は直接触れることのできる身近な存在へと変貌した.聖書の解釈権も俗人に開放された.聖書は,すべての社会層の日常生活の中に浸透し,熱心に読まれ始めたのである.その結果宗教改革は,ヨーロッパの教会におけるラテン語の権威を低下させ,書き言葉としての俗語の地位を高め,標準語の形成に寄与した.グーテンベルクの活版印刷術の発明が,そのような動きを後押しした.


 ・ 野々瀬 浩司 「ドイツ宗教改革期における聖書と共同体」『聖書テクストと共同体』 慶應義塾大学文学部編,2017年,29--42頁.

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-05-09 Tue

#2934. tea とイギリス [history][loan_word][pepys]

 tea とイギリスは,私たちのイメージのなかで分かち難く結びついている.茶はヨーロッパの近代において熱烈に流行した輸入品であり,その語源や語誌もよく知られている.『英語語源辞典』によると次のようにある.

1599年ポルトガル人によってヨーロッパにはじめて導入された名称は cha.この Port. cha は英語では16C末の文献に,chaa (1598) として,フランス語では1607年に chia, tcha として借入されたが,フランス語ではまもなく英語と同様 Malay 経由の thé を用いるようになった.また Russ. chaĭ は直接中国標準語から借入したものである.ヨーロッパ諸語に多い厦門方言形は,最初その貿易をほとんど一手に引き受けていた東インド会社などのオランダ人を通じたものと考えられる.17--18Cの英語に見られる , thé, tay /téi/ などは F thé の影響を示している.


 つまり,cha 系統の形態は1598年にすでに見られるが,tea 系統での初例は17世紀も半ばの1655年になってからのことである.17世紀半ばには,茶はすでにイギリスでも人気を博しつつあったことが,Samuel Pepys (1633--1703) の日記 The Diary of Samuel Pepys の記載からわかる(日記の該当箇所はこちら).
 しかし,17世紀半ばにイングランドで群を抜いて好評を博していた流行の飲み物といえば,むしろコーヒーだった.コーヒーハウスの流行によりコーヒーはその後も1世紀の間,時代を時めく社交ドリンクであり続けた.ところが,18世紀半ばには,コーヒーに代わって茶が習慣的に愛飲されるようになった.このコーヒーから茶への変わり身は何故か.これまで様々な説が提案されてきた.竹田 (176--78) は次のように諸説を提示し,評価している.

イギリスが“紅茶の国”になった理由には諸説ある.(1) 飲料水の性質(カルシウムなどを多量に含んだ硬水),(2) 紅茶に対する高い関税が引き下げられた,(3) 女王メアリー二世や妹のアン女王が紅茶を好んだ,(4) 富裕層を中心にアフタヌーン・ティーの習慣が広まった,(5) コーヒーが男性の飲み物であったのに対して,紅茶は女性に浸透して家庭の飲み物になった,などである.しかしオランダ東インド会社の台頭を前に,価格面におけるモカ・コーヒー貿易の比較優位性が失われ,イギリスは新たな利益の追求対象として中国茶貿易の独占を思い描くようになったという実利性に基づく政策転換が,その一番の理由であると考える.


 さらに竹田 (177--78) は,イギリスにおける喫茶習慣の定着について,次のように述べている.

 イギリス人が紅茶を飲む習慣を身につけたのは,一七世紀後半という説が一般的だ.イギリス国王チャールズ二世が一六六二年,ポルトガル王室から迎え入れた王女キャサリン・オブ・ブラガンザと結婚したことがきっかけで,紅茶文化が誕生したという.
 父親のチャールズ一世が処刑された後,王政復古を経て息子のチャールズ二世がイギリス国王として復活し,ヨーロッパ王室で屈指のポルトガルから王家の血を導入したのである.イギリス王妃となったキャサリンは,宮廷の生活で高価な紅茶を楽しみ,さらにポルトガルから持参金の一部として自ら持ち込んだ希少価値の砂糖を混ぜるなど,紅茶と砂糖を嗜む宮廷文化を創造し,イギリス王室に新風を吹き込む立役者となった.
 紅茶を飲む作法がこれを機会に,貴族階級において瞬く間に広がったと伝えられている.紅茶が持つ高級感は,こうした貴族文化に起因する.キャサリンというブランド名を考案し,日本国内で販売された紅茶は,キャサリン王妃の名前に由来する.


 このように喫茶のきっかけは貴族文化にあったようだが,東インド会社の貿易商たちは,これに乗じてイギリス全体を「紅茶の国」として演出する作戦に乗り出したというわけである.
 tea という語にまつわる英語史のこぼれ話は,オックスフォード大学の英語史学者 Simon Horobin による A history of English . . . in five words を参照.tea の母音部の発音と脚韻の歴史については,こちらのコラムも参照.

 ・ 竹田 いさみ 『世界史をつくった海賊』 筑摩書房,2011年.

Referrer (Inside): [2017-09-12-1]

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-05-08 Mon

#2933. 紙の歴史年表 [timeline][history][medium][writing]

 カーランスキーの著わした『紙の世界史』は,書写材料としての紙の歴史をたどりながら,結果として文字と文字文化の歴史を同時に記述している.書写材料については,「#2465. 書写材料としての紙の歴史と特性」 ([2016-01-26-1]),「#2456. 書写材料と書写道具 (1)」 ([2016-01-17-1]),「#2457. 書写材料と書写道具 (2)」 ([2016-01-18-1]) などで扱ってきたが,今回はカーランスキーの巻末より紙の歴史年表 (466--74) を掲げたい.一覧するとテクノロジーが社会を動かしてきたことがよく分かるが,カーランスキーの言葉を借りれば「社会がテクノロジーを生み出してきた」というべきなのだろう.

紀元前38000年北スペインのエル・カスティリョ洞窟に残る赤い点が人間による最古の描画とされている
紀元前3500年メソポタミアの石灰岩に最古の文字が刻まれる
紀元前3300年バビロニア南部(現イラク)のウルクで粘土板に文字が刻まれる.楔形文字の始まり
紀元前3000年年代が特定されている最古のパピルス.文字跡のない巻物がカイロ近郊サッカラの墳墓から発掘
紀元前3000年エジプトのヒエログリフ象形文字(神聖文字)の始まり
紀元前2500年インダス川流域ではじめて文字が書かれる
紀元前2400年現存する最古のエジプト語の文書
紀元前2200年インダス川流域で銅片や陶片に文字が彫られる
紀元前2100年年代が特定されている最古のタパ.断片がペルーで出土
紀元前1850年年代が特定されている最古の文献.獣皮に書かれたエジプト語の巻物
紀元前18世紀クレタで書記体系が生まれる
紀元前1400年中国で獣骨に文字が書かれる
紀元前1300年中国で青銅,翡翠,亀甲に文字が書かれる
紀元前1200年漢字が発達する
紀元前1100年エジプト人がフェニキア人にパピルスを輸出しはじめる
紀元前1000年フェニキア語のアルファベットが生まれる
紀元前600年メキシコでサポテク/ミステク文字が生まれる
紀元前600年中国とギリシアで木板に帳簿が書かれる
紀元前5世紀中国人が帛を書写に使う
紀元前400年イオニア式アルファベットがギリシアでの標準語となる
紀元前400年中国で油煙から墨が発明される
紀元前3世紀アレクサンドリアに図書館が建造される
紀元前255年中国で封印に関するはじめての記述がなされる.ただし墨を用いずに粘土に押印された
紀元前252年中国の楼蘭で発見された年代のあきらかな最古の紙
紀元前250年マヤ文字が使用される
紀元前220年中国で蒙恬が発明した駱駝の毛筆が書道に使われる
紀元前206年中国の王朝,前漢の幕開け.中国では漢代に紙が開発される
紀元前63年ギリシアの地理学者ストラボンが,黒海沿岸を統治するポントス王国のミトリダテス6世の王宮に水車設備があることへの驚きを記述
紀元前31年現存する最初のオルメカ文字
紀元前30年ローマ帝国がエジプトを征服,パピルスが地中海世界に広まる
紀元後1世紀ローマで一時的な書写に蝋板が使用される
75年楔形文字で最後の日文が書かれる
105年通説では語感の宮廷に使えた宦官の蔡倫が紙を発明したとされている
2世紀スカンディナビアでルーン文字のアルファベットが生まれる
250年--300年年代がほぼ特定されている紙がトルキスタンで出土
256年中国で最初の紙に書かれた本『譬喩経』が作られる
297年最初のマヤ暦が石に彫られる
394年エジプトのヒエログリフ象形文字で最後の日文が書かれる
5世紀日本語の独自の文字体系が開発される
450年年代が特定されている棕櫚の葉に書かれた最初の手稿.中国の北西部で葉写本の断片が発掘された
476年西ローマ帝国最後の皇帝ロムルス・アウグストゥルスの廃位により古代世界が正式に幕を閉じる
500年マヤ人がアマテに文字を書きはじめる
500年--600年マヤ人が樹皮紙を発達させる
538年朝鮮半島の百済の王が紙で作られた経典と仏像を日本へ送る
610年高句麗の僧の曇徴が製紙法を日本に伝える
630年ムハンマドがメッカを征服
673年川原寺の僧侶が仏典を写しはじめ,ほどなく日本で写経が活発になる
8世紀中国で印刷が始まる
706年アラブ人が紙をメッカに持ちこむ
711年アラブ人率いるベルベル人軍がモロッコからジブラルタル海峡を越えてスペインを侵攻
712年日本文学の最古の作品『古事記』が漢文で書かれる
720年仏教の浸透とともに日本での紙の使用が大々的に広まる
751年サマルカンドで製紙が始まる
762年--66年バグダードの建設
770年日本の称徳女帝が紙を使った初の印刷物,病気平癒を願う祈祷書の百万部の作成
794年布くずを材料とする製紙場がバグダードに設けられる
800年エジプトで紙がはじめて使われる
832年イスラム教徒がシチリアを征服
848年アラビア語で紙に書かれた完全な形の本が作られる.年代が特定された書籍では最古とされている
850年『千夜一夜物語』がはじめて書き起こされたと推定される
868年現存する最古の書籍『金剛般若経』が印刷された
889年マヤ人がすべての記録に石ではなく紙を使用しはじめる
9世紀後半バグダードが製紙業の重要拠点となる
900年エジプトで製紙が開始
969年中国で遊戯用カード(紙牌)がはじめて使われた
1041年--48年鉄の版に組まれる初の陶活字が中国で作られる.年代が特定される最古の可動活字
900年--1100年マヤ人が『ドレスデン・コデックス』を作成
1140年イスラム教徒支配下のスペインのハティバで製紙が始まる
1143年『コーラン』がラテン語に翻訳される
1164年イタリアのファブリアーノで初の製紙の記録
1308年ダンテが『神曲』の執筆を開始
1309年イングランドで紙がはじめて使用される
1332年オランダで紙がはじめて使用される
1353年ボッカチオが『デカメロン』を執筆
1387年チョーサーが『カンタベリー物語』の執筆を開始
1390年ドイツの製紙がニュルンベルクで始まる
1403年朝鮮王の太宗が銅活字を製造させる
1411年スイスで製紙が始まる
1423年ヨーロッパで木版印刷が始まったとされる
1440年--50年ヨーロッパで最初の版本(ブロック・ブック)が作られる
1456年グーテンベルクが可動活字で初の『聖書』の印刷を完成
1462年マインツが破壊され,印刷者が離散
1463年ウルリッヒ・ツェルがケルンで印刷所を興す
1464年ローマ近郊のスビアコ修道院がイタリアで最初の印刷所となる
1469年キケロの『家族への書簡集』が,ヴェネツィアで印刷された最初の書籍となる
1473年ルーカス・ブランディスがリューベックで印刷所を興す
1475年または1476年『東方見聞録』がフランス語で印刷された最初の書籍となる
1476年ウィリアム・キャクストンがイギリスで最初の印刷所を開く
1494年アルドゥス・マヌティウスがヴェネツィアにアルド印刷工房を開く
1495年ジョン・テイトがハートフォードシャーにイングランドで最初の製糸場を造る
1502年--20年アステカ人の貢ぎ物の記録に四十二ヵ所の製紙拠点が掲載されている.年間五十万枚の紙を作っていた村もある
1515年アルブレヒト・デューラーがエッチングを始める
1519年エルナン・コルテスが現ベラクルス付近に上陸し,アステカ文化の破壊を開始する
1520年マルティン・ルターの『キリスト教界の改善に関してドイツのキリスト諸貴族に宛てて』が印刷され,二年間で五万部が配布される
1528年ファン・デ・スマラガ神父が先住民の庇護者としてメキシコに到着し,本を燃やす
1539年スペイン人が先住民向けの本を作るためにメキシコ初の印刷所を開く
1549年マヤ人の図書館がスペイン人に焼かれる
1575年スペイン人がメキシコに最初の製紙場を建てる
1576年ロシア人が製紙を開始
1586年製紙許可の政令がドルトレヒトで発布される.オランダの製紙史上最古の記録
1605年セルバンテスの『ドン・キホーテ』が出版される
1609年世界初の週刊新聞がシュトラスブルクで創刊
1627年フランスのラ・ロシェルがカトリック勢力に包囲され,ユグノーの製紙業者はイングランドへ逃れる
1635年デンマークで製紙が開始
1638年英字印刷機はじめてアメリカへもたらされる
1672年オランダ式叩解機の発明によりオランダは良質な白い紙の輸入国から純輸出国に転じる
1690年ウィリアム・リッテンハウスがアメリカで最初の製紙場を設立
1690年アメリカで最初の新聞『パブリック・オカレンシズ・ボース・フォーリン・アンド・ドメスティック』がボストンで創刊
1690年アメリカ大陸の植民地で最初の紙幣がマサチューセッツで発行される
1698年トマス・セイヴェリが鉱山の排水目的で最初の蒸気機関を設計する
1702年ロンドンで日刊紙『デイリー・クーラント』が創刊
1719年ルネ・アントワーヌ・フェルショー・ド・レオミュールが木材から紙を作るスズメバチの手法を解説
1728年マサチューセッツで製紙が始まる
1744年はじめての児童向け絵本『小さなかわいいポケットブック』がイングランドで出版される
1744年ヴァージニアで製紙が始まる
1767年コネチカットで製紙が始まる
1768年アベル・ビュエルがアメリカ大陸植民地ではじめて活字を製造
1769年ニューヘイヴンのアイザック・ドゥーリトルが,イギリスのアメリカ大陸植民地ではじめて印刷機を製造
1773年ニューヨークで製紙が始まる
1774年スウェーデンの薬剤師カール・シェーレによる塩素の発見が漂白への道を開く
1785年ロンドンの独立系新聞『デイリー・ユニヴァーサル・レジスター』が創刊.三年後,『ザ・タイムズ』に紙名を変更
1790年トマス・ビュイックがイギリスでもっとも人気の挿絵画家となる
1798年ニコラ-ルイ・ロベールが連続式抄紙機の特許を申請
1798年画家J・M・W・ターナーが水彩画で実験を始める
1799年アロイス・ゼネフェルダーがリトグラフを考案
1800年スタンホープ卿が総鉄製の印刷機を発明
1801年ジョセフ-マリー・ジャカールがパンチカードによる自動織機を開発
1804年ブライアン・ドンキンが長網抄紙機の第一号を製造
1809年ジョン・ディキンソンが円網抄紙機の特許を取得
1811年フリードリヒ・ケーニヒが蒸気動力の印刷機を発明
1814年ロンドンの『ザ・タイムズ』がケーニヒの蒸気印刷機を使用
1818年ジョシュア・ギルピンがアメリカではじめて連続式抄紙機を製造
1820年この年イギリスで二千九百万部以上の新聞が売れる
1825年ジョセフ・ニセフォール・ニエプスがはじめて写真撮影する
1830年新しい漂白法により色つきのぼろ布から白い紙の製作が可能となる
1833年木材を原料とする製紙の特許がイギリスで登録される
1840年ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボットが紙に定着する写真をはじめて作成
1841年エビニーザ・ランデルズがロンドンの風刺雑誌『パンチ』を創刊
1843年アメリカのリチャード・M・ホーが蒸気動力の輪転機を発明
1863年アメリカの製紙業者が木材パルプの使用を始める
1867年イギリスの砕木機がパリ万国博覧会で展示される
1867年マサチューセッツ州のストックブリッジで合衆国初の製紙用の木材パルプが作られる
1867年タイプライターの発明
1872年アメリカ合衆国がイギリスとドイツを抜いて世界最大の紙の生産国になる
1874年東京の有恒社が機械漉き紙の製造を開始.大阪,京都,神戸の六社があとに続く
1890年合衆国の国勢調査にパンチカード式の集計機が使用される
1899年スウェーデンの探検家スヴェン・ヘディンが,古代都市,楼蘭の遺跡発掘作業中,紀元前252年の紙を発.紙の歴史を完全に塗り変える
1931年ヴァネヴァー・ブッシュがアナログ・コンピュータを開発
1945年ジョン・フォン・ノイマンが電子メモリをプログラミングするための二進数の採用を論文で発表
1947年トランジスタがベル研究所で発明される
1951年レミントン・ランドが,記憶装置と出力装置に磁気テープを登載したUNIVAC1を四十七台製造
1959年マイクロチップの特許出願


 ・ マーク・カーランスキー(著),川副 智子(訳)『紙の世界史 歴史に突き動かされた技術』 徳間書店,2016年.

Referrer (Inside): [2017-11-07-1] [2017-10-14-1]

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-05-07 Sun

#2932. salacious [etymology][history][folk_etymology]

 salacious という語は「好色な;卑猥な;催淫性の」を意味する.語源を探ると,ラテン語 salāc, salāx (飛び跳ねるのが好きな)に遡り,さらに語根 salīre (飛び跳ねる)に行き着く.これは,salient, saltant, assail, assault 等をも生み出した語根動詞である.英語の salacious はラテン語から借用され,1647年に初出が確認されている.
 語源的には以上の通りだが,古くはむしろ salt (ラテン語 sāl) と結びつけられて理解されていたようだ.『塩の世界史』の著者カーランスキー(上巻,pp. 13--14)は,心理学者アーネスト・ジョーンズの1912年の論考を紹介しながら,次のように述べている.

 塩は,ジョーンズに言わせれば生殖に関連付けられることが多い.これは塩辛い海に生息する魚が,陸上の動物よりはるかに多くの子を持つことから来たのだろう.塩を運ぶ舟にはネズミがはびこりやすく,ネズミは交尾することなしに塩につかえるだけで出産できる,と何世紀にもわたって信じられていた.
 ジョーンズは,ローマ人は恋する人間を「サラックス」すなわち「塩漬けの状態」と呼んだと指摘する.これは「好色な (salacious)」という単語の語源だ.ピレネー山脈ではインポテンツを避けるために,新郎新婦が左のポケットに塩を入れて教会に行く習慣があった.フランスでは地方により,新郎だけが塩を持っていくところと,新婦だけが持っていくところがあった.ドイツでは新婦の靴に塩をふりかける習慣があった.


 同著の p. 14 には,『夫を塩漬けにする女たち』と題する1157年のパリの版画が掲載されている.数人の妻とおぼしき女性が男たちを塩樽に押し込んでいる絵で,ほとんどリンチである.版画には詩が添えてあり,「体の前と後ろに塩をすりこむことで,やっと男は強くなる」とある.塩サウナくらいなら喜んで,と言いたくなるが,この塩樽漬けは勘弁してもらいたい.
 ジョーンズの salacious の語源解釈は,実際にあった風俗や習慣によって支えられた一種の民間語源 (folk_etymology) ということができる.比較言語学に基づくより厳密な語源論(「学者語源」)の立場からは一蹴されるものなのかもしれないが,民間語源とは共時態に属する生きた解釈であり,その後の意味変化などの出発点となり得る力を秘めていることに思いを馳せたい(関連して「#2174. 民間語源と意味変化」 ([2015-04-10-1]) を参照).

 ・ マーク・カーランスキー(著),山本 光伸(訳) 『塩の世界史』上下巻 中央公論新社,2014年.

Referrer (Inside): [2018-06-07-1]

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-05-02 Tue

#2927. 宗教改革,印刷術,英語の地位の向上 [reformation][printing][medium][history][religion][latin]

 カーランスキー (230) は,著書『紙の世界史』の第10章「印刷と宗教改革」において,印刷術という最新テクノロジーが宗教改革を駆動したことについて,次のように述べている.

印刷機は宗教改革の申し子だといったほうがよほど真実に近いだろう.宗教改革は宣伝戦略として印刷を利用したはじめての運動だった.宗教改革があったからこそ,印刷はあの時代に,あの場所で発明されたのだ.つまるところ,ヨーロッパ人は印刷機の製造法も,金属の彫り方も,鉛の鋳造も,彫られた像にインクをつけて刷る方法も,ずいぶんまえから知っていて,その気になれば,いつでも可動活字で印刷を始められた.世情の混乱や新しい思想や変化への欲求が沸き返っているドイツで印刷が発明されたのは偶然ではない.プロテスタントの宗教改革運動には,この新しいテクノロジーの可能性を直観的に理解する力があったのだろう.プロテスタントは巧みに印刷機を使いこなした.以来,インターネットの隆盛を迎えるまで,印刷機はあらゆる運動を組織化する一種の手本としての機能を果たした.


 それ以前は,思想を広める手段といえば,口頭の説教くらいのものだった.しかし,人々の識字率が上がってくると,文字広告がより効果的な手段として台頭してくる.宗教改革に内在していた,ある思想を広めたいという強い要求と人々の識字率の向上,そして印刷術というテクノロジーの誕生が,時代的にぴたっと符合したのである.こうして,宗教改革と印刷術はいわば二人三脚で進むことになった.
 16世紀初頭のドイツで始まったこの二人三脚は,すぐにイングランドにも伝わった.ローマ・カトリック教会と断絶してイングランド国教会を設立したヘンリー8世は,イングランド国民の支持を取り付けるために,文字広告を,つまり印刷術を利用したのである.カーランスキー (258) は,これについて次のように説明している(原文の傍点は下線に替えてある).

イングランド国教会には大衆の支持が必要であり,イングランドの出来事をローマが指示することは許されるべきではないという主張なら大衆の教会を得られるかもしれない.だが,それを売って広めなければならない.王の腹心,トマス・クロムウェルはこの戦略を議会と協議する一方,ドイツのプロテスタントのように印刷業者を利用して大衆の支持を集めさせた.クロムウェルは,反教皇の大義を日常の英語で論じる一連の小論文を出版した.そうしたパンフレットもそのなかで論じられている考え方も大衆に充分に受け入れられるものだった.物事を進める際の新しい形はこんな背景で十六世紀に定着したのだ.


 クロムウェルが,印刷術を利用して小論文という形の文字広告によりヘンリー8世の大義を民衆に受け入れさせようとした点が,重要である.そして,その媒介言語が,ローマ・カトリック教会と結びついたラテン語ではなく,皆が理解できる土着語たる英語であったことが,さらに重要である.ここにおいて,宗教改革,印刷術,土着の英語の3つが結びつくことになった.宗教改革が進めば,ますます多くの英語が印刷に付されてその地位が向上するし,英語の地位が向上して印刷される機会が増えれば,それだけ宗教改革の路線も強化された.一見結びつかないような様々な現象が,16世紀のイングランド社会を大きく動かしていたのである.

 ・ マーク・カーランスキー(著),川副 智子(訳)『紙の世界史 歴史に突き動かされた技術』 徳間書店,2016年.

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-04-25 Tue

#2920. Gibraltar English [world_englishes][variety][history][spanish][hebrew]

 Gibraltar は,スペインの南西岸,地中海と大西洋が出会うジブラルタル海峡 (the Strait of Gibraltar) を臨む半島である.イギリスの海外領であり,軍事基地となっている.芦ノ湖とほぼ同じ6.8平方キロメートルの面積に約3万人がほど住んでおり,その3分の1がイギリス人(主として軍事関係者),3分の2が南ヨーロッパ,北アフリカ,イギリスの混合ルーツをもつ人々である.住民の大多数が英語を母語としており,「#177. ENL, ESL, EFL の地域のリスト」 ([2009-10-21-1]) でも示したように,ENL (English as a Native Language) 地域に数えられる.ただし,英語を公用語としているものの,スペイン語も広く話され,ほとんどの人々がバイリンガルである.

Map of Gibraltar

 ジブラルタルの領土は,1713年,スペイン継承戦争の戦後処理を通じてスペインからイギリスへ割譲され,1830年に英植民地とされた.スペインはジブラルタルの領有権を主張し続けてきたが,ジブラルタル人は一般に自らをイギリス人とみなしている.
 ジブラルタル英語は,RP の発音をもつ標準イギリス英語であり,non-rhotic である.しかし,労働者の話す変種はスペイン語の影響を受けており,例えば語頭の /s/ の前に母音が挿入されて espoon (for spoon), estreet (for street) のように発音される (McArthur 440--41) .スペイン語のほか,イタリア語ジェノバ方言やヘブライ語からの影響も混じっており,その英語変種は Yanito (Llanito) と呼ばれることもある.
 目下,イギリスのEU離脱に関連してEUが発表している指針の草案について,ジブラルタルが猛反発を示しているという.草案ではイギリス離脱後のジブラルタルの地位について「スペインと英国の合意」が必要である旨が明記されており,その草案作成の背後にスペインの要望と圧力があったと考えられているからだ.
 イギリスがジブラルタルを獲得することになった1713年のユトレヒト条約は,旧大国スペインの退潮と新大国イギリスの飛躍を決定づけた.イギリスが地中海と大西洋に睨みを利かせられるようになり,世界の海を股に掛ける大英帝国への本格的展開の端緒ともなった.英語の世界的拡大におおいに貢献することになった点で,英語史上にも意義の深い年である.

 ・ McArthur, Tom, ed. The Oxford Companion to the English Language. Oxford: OUP, 1992.

Referrer (Inside): [2019-03-08-1]

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-04-23 Sun

#2918. 「未知のもの」を表わす x [x][grapheme][arabic][spanish][abbreviation][history]

 「#2280. <x> の話」 ([2015-07-25-1]) の最後に触れたが,x には「未知数;未知の人(もの)」という意味がある.代数でお馴染みの未知数 x は,英語としての初出は1660年だが,大陸では Descartes が Géométrie (1637) の中で,すでに用いている.一説によれば,既知数を表わす a, b, c に対して,未知数はアルファベットの後ろから x, y, z を取ったものではないかとも言われる.「未知の人(もの)」の意味では,1797年に初出している.
 別の由来説によれば,アラビア語で「何か,あるもの」を表わす šay がスペイン語に xei として受け入れられたものとされる.中世ヨーロッパでは,イスラーム学者から高度な数学が伝わったが,とりわけ影響力の大きかったのはフワーリズミー (Muhammad ibn Musa al-Khwarizmi; c. 780--c. 850) によって著わされた『代数学』 (Kitab al-Jabr wal Muqabala) である.この書名の一部から algebra (代数)という語が後に借用されているし,著者名の一部から algorism なる語も出ている.この代数学書においては未知数を導き出す方程式の解法が解説されており,アラビア語で未知数を表わした前述の šay が,本書のスペイン語訳に際して xay と表記されたものらしい.それが1文字の x に短縮されたという.
 代数においては x は未知数を表わす記号として用いられるが,x にはその他の記号としての用法もある.ローマ数字で X は「10」を表わす(「#1823. ローマ数字」 ([2014-04-24-1]) を参照).手紙の最後などで Love from Kathy XXX. と記せば,キスマークとなる.チェックボックスに記入するチェックマークとしても用いられるし,マルバツのバツをも表わす.地図上に印を付けるにも,x が用いられる.リストからある項目を除外するときに x out sth と動詞として用いられるのは,記号用法から派生したものである.

Referrer (Inside): [2019-04-29-1]

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-04-21 Fri

#2916. 連載第4回「イギリス英語の autumn とアメリカ英語の fall --- 複線的思考のすすめ」 [notice][link][ame_bre][history][calendar][z][rensai][sobokunagimon]

 4月20日付で,英語史連載企画「現代英語を英語史の視点から考える」の第4回の記事「イギリス英語の autumn とアメリカ英語の fall --- 複線的思考のすすめ」が公開されました.
 今回は,拙著『英語の「なぜ?」に答える はじめての英語史』の6.1節「なぜアメリカ英語では r をそり舌で発音するのか?」および6.2節「アメリカ英語はイギリス英語よりも「新しい」のか?」で扱った英語の英米差について,具体的な単語のペア autumn vs fall を取り上げて,歴史的に深く解説しました.言語を単線的思考ではなく複線的思考で見直そう,というのが主旨です.
 英語の英米差は,英語史のなかでもとりわけ人気のある話題なので,本ブログでも ame_bre の多く取り上げてきました.今回の連載記事で取り上げた内容やツールに関わる本ブログ内記事としては,以下をご参照ください.

 ・ 「#315. イギリス英語はアメリカ英語に比べて保守的か」 ([2010-03-08-1])
 ・ 「#1343. 英語の英米差を整理(主として発音と語彙)」 ([2012-12-30-1])
 ・ 「#1730. AmE-BrE 2006 Frequency Comparer」 ([2014-01-21-1])
 ・ 「#1739. AmE-BrE Diachronic Frequency Comparer」 ([2014-01-30-1])
 ・ 「#428. The Brown family of corpora の利用上の注意」 ([2010-06-29-1])
 ・ 「#964 z の文字の発音 (1)」 ([2011-12-17-1])
 ・ 「#965. z の文字の発音 (2)」 ([2011-12-18-1])
 ・ 「#2186. 研究社Webマガジンの記事「コーパスで探る英語の英米差 ―― 基礎編 ――」」 ([2015-04-22-1])

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-04-06 Thu

#2901. Hinduism は意外と遅い19世紀の造語 [etymology][religion][history][persian]

 Hinduism (ヒンドゥー教)といえば,人口にして世界第3位の宗教である.2001年の国勢調査(井上,p. 165)によると,インド人口の80.5%がヒンドゥー教徒であり,絶対数でいえば数億人以上となるから,地域宗教といえども世界へのインパクトは大きい.実際,2010年のCIAの統計では,キリスト教徒の33.3%,イスラム教徒の21.0%に次いで,ヒンドゥー教徒13.3%は第3位である(井上,p. 11;ちなみに第4位は仏教徒の5.8%).これほどの大宗教でありながら,その呼称が意外と新しいことを最近知った.
 OEDHinduism を引くと,"The polytheistic religion of the Hindus, a development of the ancient Brahmanism with many later accretions." と定義がある.その初例を確認すると,割と最近といってよい1829年のことである.

1829 Bengalee 46 Almost a convert to their goodly habits and observances of Hindooism.


 さらに驚くのは,ヒンディー語などのインド諸語にも,ずばりヒンドゥー教を指す表現はないのだという.井上 (169) 曰く,

「ヒンドゥー教」とは,「ヒンドゥーイズム」という英語表現の訳です.実はこれにぴたりと対応するインドの語彙はありません.厳密に言えば,一つのまとまった宗教があるというより,ヴェーダ文献とその文明から発した多様な信仰や伝統を総称して「ヒンドゥーイズム」と呼んでいるのです.〔中略〕
 この「ヒンドゥー」に「ism」が付いて宗教を示す英語表現になったのは19世紀のことです.インド支配に乗り出したイギリス人がインドの宗教文化を理解しようとしたとき,これを総称する言葉がなかったため,「ヒンドゥーイズム」という表現を用いるようになり,それが次第に一般化したのでした.


 ちなみに,Hindu (ヒンドゥー)自体は,「インダス川」を指す語がペルシア語で Hindū となり,広く「インドの住人」を指し示すようになった言葉である.ペルシア語から英語へは,17世紀半ばに借用された.Hindi (ヒンディー語)も,英語での最初の使用は1801年と遅めである.
 さて,ヒンドゥー教をどの理解すべきか.上記 OED の定義にあるように,様々な歴史的発展を内包したインド土着の多神教の総体と捉えるよりほかないだろう.井上 (170) も次のように述べている.

つまり「ヒンドゥー教」とは,インドに自然に成り立って来た多様な宗教文化を総称する幅の広い言葉なのです.その内容は実に多様で,イエスやブッダのような創唱者もいませんし,大きな協会組織もなく,キリスト教やイスラムのような明確な枠組みがありません.しかし,聖典ヴェーダを重んじている点は共通しています.


 ヒンドゥー教の源である聖典ヴェーダ (Veda) とその言語については,「#1447. インド語派(印欧語族)」 ([2013-04-13-1]) を参照されたい.

 ・ 井上 順孝 『90分でわかる!ビジネスマンのための「世界の宗教」超入門』 東洋経済新報社,2013年.

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-04-05 Wed

#2900. 449年,アングロサクソン人によるブリテン島侵略 [bede][oe][literature][popular_passage][history][anglo-saxon][oe_text]

 Bede の古英語訳により,英語史上記念すべき449年の記述 ("The Coming of the English") を市川・松浪編の古英語テキスト(現代英語訳付き)で読んでみよう (pp. 89--94) .アングロサクソン人は,ブリトン人に誘われた機会に乗じて,いかにしてブリテン島に居座るに至ったのか.

   Ðā wæs ymb fēower hund wintra and nigon and fēowertiġ fram ūres Drihtnes menniscnysse þæt Martiānus cāsere rīċe onfēng and vii ġēar hæfde. Sē wæs syxta ēac fēowertigum fram Augusto þām cāsere. Ðā Angelþēod and Seaxna wæs ġelaðod fram þām foresprecenan cyninge, and on Breotone cōm on þrim miċlum scipum, and on ēastdæle þyses ēalondes eardungstōwe onfēng þurh ðæs ylcan cyninges bebode, þe hī hider ġelaðode, þæt hī sceoldan for heora ēðle compian and fohtan. And hī sōna compedon wið heora ġewinnan, þe hī oft ǣr norðan onherġedon; and Seaxan þā siġe e ġeslōgan. Þā sendan hī hām ǣrendracan and hēton secgan þysses landes wæstmbǣrnysse and Brytta yrgþo. And hī sōna hider sendon māran sciphere strengran wiġena; and wæs unoferswīðendliċ weorud,þā hī tōgædere ġeþēodde wǣron. And him Bryttas sealdan and ġēafan eardungstōwe betwih him, þæt hī for sibbe and for hǣlo heora ēðles campodon and wunnon wið heora fēondum, and hī him andlyfne and āre forġēafen for heora ġewinne.
   Cōmon hī of þrim folcum ðām strangestan Germānie, þæt is of Seaxum and of Angle and of Ġēatum. Of Ġēata fruman syndon Cantware and Wihtsǣtan; þæt is se þēod þe Wiht þæt ēalond oneardað. Of Seaxum, þæt is of ðām lande þe mon hāteð Ealdseaxan, cōmon Ēastseaxan and Sūðseaxan and Westseaxan. And of Engle cōman Ēastngle and Middelengle and Myrċe and eall Norðhembra cynn; is þæt land ðe Angulus is nemned, betwyh Ġēatum and Seaxum; and is sǣd of ðǣre tīde þe hī ðanon ġewiton oð tōdæġe þæt hit wēste wuniġe. Wǣron ǣrest heora lāttēowas and heretogan twēġen ġebrōðra, Henġest and Horsa. Hī wǣron Wihtgylses suna, þæs fæder wæs Witta hāten, þæs fæder wæs Wihta hāten, þæs fæder wæs Woden nemned, of ðæs strȳnde moniġra mǣġðra cyningcynn fruman lǣdde. Ne wæs ðā ylding tō þon þæt hī hēapmǣlum cōmon māran weorod of þām þēodum þe wǣ ǣr ġemynegodon. And þæt folc ðe hider cōm ongan weaxan and myċlian tō þan swīðe þæt hī wǣron on myclum eġe þām sylfan landbīġengan ðe hī ǣr hider laðedon and cȳġdon.


   It was 449 years after our Lord's incarnation that the emperor Martianus received the kingdom, and he had (it) seven years. He was the forty-sixth from the emperor Augustus. Then the Angles and Saxons were invited by the aforesaid king (Vortigern), and came to Britain on three great ships, and received a dwelling place in the east of this island by order of the same king, who invited them hither, that they should strive and fight for their country. And they soon fought with their enemies who had oft harassed them from the north before; and the Saxons won victory then. Then they sent home messengers and bade (them) tell the fertility of this land and the Britons' cowardice. And then they sent a larger fleet of the stronger friends soon; and (it) was an invincible troop when there were united together. And the Britons gave and alloted them habitation among themselves, on the condition that they should fight for the peace and safety of their country and resist their enemies, and they (the Britons) should give them sustenance and estates in return for their strife.
   They came of the three strongest races of Germany, that is, of Saxons and of Angles and of Jutes. Of Jutes' origin are the people of Kent and the 'Wihtsætan', that is, the people who inhabit the Isle of Wight. Of the Saxons, of the land (of the people) that is called Old Saxons, came the East Saxons, the South Saxons, and the West Saxons. And of Angles came the East Angles and the Middle Angles and Mercians and the whole race of Northumbria; it is the land that is called Angulus, between the Jutes and the Saxons; and it is said from the time when they departed thence till today that it remains waste. At first their leaders and commanders were two brothers, Hengest and Horsa. They were the sons of Wihtgyls, whose father was called Witta, whose father was named Wihta, whose father was named Woden, of whose stock the royal families of many tribes took their origin. There was no delay until they came in crowds, larger hosts from the tribes that we had mentioned before. And the people who came hither began to increase and multiply so much that they were a great terror to the inhabitants themselves who had invited and invoked them hither.


・ 市河 三喜,松浪 有 『古英語・中英語初歩』 研究社,1986年.

Referrer (Inside): [2018-05-27-1] [2017-11-04-1]

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

Powered by WinChalow1.0rc4 based on chalow