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2019-11-23 Sat

#3862. 「アレクサンドロスの大征服」の意義の再評価 [history][writing][greek][koine][lingua_franca]

 昨日の記事「#3861. 「モンゴルの大征服」と「アラブの大征服」の文字史上の意義の違い」 ([2019-11-22-1]) に引き続き,文字史の観点から世界史を描いた鈴木 (73--75) より,今回は「アレクサンドロスの大征服」の意義について触れられている箇所を引用する.

 アレクサンドロスの遠征はしばしば「空前の大遠征」といわれ,その帝国も「空前の世界帝国」といわれる.
 確かにマケドニア,ギリシア側からみれば「空前の世界帝国」かもしれないが,ペルシア側からみれば,アケメネス朝ペルシア帝国の版図にわずかにマケドニアとギリシアが加わったに過ぎない.この「大征服」の眼目は,まさに「小が大を呑んだ」ことになるのである
....
〔中略〕
....
 さて,アレクサンドロスの東征の「成果」についても,この大遠征がヘレニズムの文明を生み出し,征服地でギリシア文明が普及し,その影響はさらに遥か東方まで及んだとされている.
 確かにアレクサンドロスの帝国内では,いくつものアレクサンドリアをはじめ,多くのギリシア風都市が建設され,ギリシア的要素をもつ文化が生まれ,少なくとも一時期はギリシア語も痕跡を残した.また東西が融合した文化が生まれ,とりわけ西方で一時代をなしたのも事実である.
 ここで我々の「文化」と「文明」の概念に照らしてみれば,「文化」のうえでは東方に確かに刻印を残した.しかしその影響が持続し,定着したとはいいがたいのではないか.
 「文明」についてみれば,後代のギリシア・ローマ世界の人間の目,また「ヘレニズム」の概念を創案した一九世紀西欧人の目をもってすると,ギリシアの「文明」が東方に大きな影響を与え,大きな発展に役立ったとみえたかもしれない.
 だがそれは,ギリシアの「文明」が東方の「文明」に対し遥かに高いものであるとの固定観念によるところが大であったように思える.実際には,希臘文明の「東漸」もさることながら,東方文明の「西漸」こそ,問題とされるべきではなかろうか.


 「アレクサンドロスの大征服」により東方でも一時的にギリシア語のコイネーがリンガ・フランカとして機能したことは事実だが,その後代への影響がどれだけ持続したかという観点からみると,その意義は言われているほど著しいものではない,という評価である.
 昨日の記事で取り上げた2つの征服と合わせて考えると,文字・言語史上の意義という点に関しては,「アラブの大征服」>「アレクサンドロスの大征服」>「モンゴルの大征服」ということになろうか.

 ・ 鈴木 董 『文字と組織の世界史 新しい「比較文明史」のスケッチ』 山川出版社,2018年.

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2019-11-22 Fri

#3861. 「モンゴルの大征服」と「アラブの大征服」の文字史上の意義の違い [history][writing][religion][arabic][mongolian]

 鈴木 (149) が標題の2つの世界史上の大征服を比較し,次のように評している.

 七世紀中葉から八世紀中葉の一世紀間に進行した「アラブの大征服」では,その征服地中,イベリアを除く殆どすべてが,一四〇〇年余をへた今日でもイスラム圏に属し,少なくとも一九〇〇年頃まではそのすべてが「アラビア文字圏」にとどまった.それに対してモンゴル帝国の場合は,モンゴル語も,またモンゴル文字も定着せず,モンゴル文化も,極めて断片的にしか痕跡が認められない.このこともまた,念頭におく必要があろう.
 確かに「モンゴルの大征服」は,その覆った空間としては,まさに世界史上最大の征服活動であった.しかし,この活動はモンゴル人の機動力と瞬発力という軍事的「比較優位」により「津波」のように広がりはしたが,その支配は各地域の在地のシステムの上にのったものであり,定着化しうる「支配組織」を形成するには至らなかったし,また文化的側面においても,浸透し同化させていくだけの文化的核をつくり出せなかったのではあるまいか.


 別の箇所 (74) でも,同趣旨の主張がなされている.

「モンゴルの大征服」とちがうところは,「アラブの大征服」で征服された空間のうち,のちにキリスト教徒のレコンキスタで奪回されたイベリア半島を除けば,ほぼすべてがムスリム(イスラム教徒)の支配下に残ったことである.そこではイスラムが定着し,その聖典『コーラン』のことばであるアラビア語が共通の文化・文明語として受容され,その文字たるアラビア文字が,母語を異にする人々にも受容された.さらにモロッコからシリアにいたるローマ帝国の南半では,住民の大多数がアラビア語を母語として受けいれ,アラブ圏の中核地域になりさえしたのである.


 2つの大征服(およびその他の世界史上の大征服)は様々な観点から比較し得るが,文字史の観点からみると,確かに著しい違いがみられる.実際には文字のみならず言語,宗教,民族などの要素が絡み合わざるを得ない複合的な観点というべきだが,「文字」は2つの大征服を読み解くための鮮やかな補助線となっているように思われる.

 ・ 鈴木 董 『文字と組織の世界史 新しい「比較文明史」のスケッチ』 山川出版社,2018年.

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2019-11-12 Tue

#3851. 帝国主義,動物園,辞書 [history][linguistic_imperialism][lingua_franca][lexicography]

 出口治明の『「全世界史」講義 I 古代・中世編』を読んでいて,「#3603. 帝国主義,水族館,辞書」 ([2019-03-09-1]),「#3767. 日本の帝国主義,アイヌ,拓殖博覧会」 ([2019-08-20-1]) で取り上げた話題と同趣旨の言及をみつけた.帝国というものは,世界中の生き物の収集に凝るのと同様に,(過去の)言葉の収集にも凝るものだという内容だ.

世界最古のシュメールの都市国家群を滅ぼして,メソポタミア地方全域からアナトリア半島西部まで遠征したのが,アッカド王サルゴンでした.メソポタミアで初の統一国家,アッカド帝国が出現したのです.BC二三三四年のことでした.
 アッカドは史上初の帝国となりました.なお本書では,複数の異なる言語を話す民族を統合した政権を,慣用に従って帝国と呼びます.アッカドとシュメールは南北に隣同士ですが,言語も民族も異なっていました.
 帝国にとって何が必要かといえば,共通語です.これがないと国の統一ができません.ここでリンガ・フランカ(共通語)という概念が出てきます.こうしてアッカド語が,人類最初の共通語になりました.
 さて,サルゴンは,当時の最先進地域を統一しただけに,多くのエピソードを残しています.粘土板の記述によると,サルゴンは世界で初めて動物園をつくり,そこにはインダス川の水牛もいたそうです.なぜ動物園をつくったのかについては,次のように考えられています.
 言語が異なる民族を征服して,統一帝国をつくったということは,すべての人間を支配したことを意味します.すべての人間を支配すると,次はすべての生き物を支配しようと思い立ち,動物園をつくる.さらに進むと過去もすべて支配したいと思い,文物の収集へと至ります.アッシリア王は大図書館をつくり,中国・清の康煕帝は『康煕字典』という空前の大漢字辞書をつくる.ナポレオンのルーブルや大英帝国の大英博物館も,すべて同様の意志から生まれています.サルゴンは,まさにその先鞭をつけたのです.(32)


 収集は支配の証ということか.すると,収集癖は支配マニアということになる.その考え方によると,ある言語の単語を収集し,整理し,提示することを目的とする辞書学 (lexicography) は,言語(とそれを用いる人々)を支配する方法を追究する分野ということになる!?

 ・ 出口 治明 『「全世界史」講義 I 古代・中世編』 新潮社,2016年.

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2019-11-02 Sat

#3841. Whitby の宗教会議(664年)の英語史上の意義 [history][christianity][norman_conquest]

 英語史関連の年表を眺めていると,たいてい標記の Whitby の宗教会議 (Synod of Whitby) が項目として挙げられている(以下の記事の年表を参照).

 ・ 「#1419. 橋本版,英語史略年表」 ([2013-03-16-1])
 ・ 「#2526. 古英語と中英語の文学史年表」 ([2016-03-27-1])
 ・ 「#2562. Mugglestone (編)の英語史年表」 ([2016-05-02-1])
 ・ 「#2871. 古英語期のスライド年表」 ([2017-03-07-1])
 ・ 「#3193. 古英語期の主要な出来事の年表」 ([2018-01-23-1])
 ・ 「#3624. 安藤貞雄『英語史入門』の英語史年表」 ([2019-03-30-1])

 この宗教会議は,どのような会議だったのか.『英米史辞典』 によると次の通りである.

Whitby, Synod of 〔英〕 ホイットビー教会会議 663/664年,ノーサンブリア (Northumbria) 王オズウィ (Oswy) により,領内のホイットビー(現在はノース・ヨークシャーの沿岸都市)で,宗教問題解決のために開かれた会議.ノーサンブリアではケルト教会 (Celtic Church) 系のキリスト教会が先に広まり,遅れてローマ教会系のキリスト教が伝わったが,それとともに,両者の軋轢が強まった.特に,復活祭 (Easter) の日取りそのほかをめぐって対立が目立つようになり,ノーサンブリア教会としてはどちらの教会のしきたりを採用するべきかを決定する必要に迫られた.その結果,この会議が招集され,ケルト教会側はリンディスファーン (Lindisfarne) 司教コールマン (Coleman),ローマ教会側はウィルフリッド (Wilfrid) が代表となって論戦を展開したが,結局,オズウィの支持により,ローマ教会方式の採用が決定した.これを機に,ケルト教会が有力であったアングロ・サクソン諸国もノーサンブリアの例にならい,8世紀中にはウェールズ・スコットランド・アイルランドの教会もローマ教会を受け入れた.この会議は,ブリテン島やアイルランドのキリスト教がローマ教会により統一され,ヨーロッパ大陸の教会と一体化する契機を作った.


 Whitby の宗教会議の歴史的な意義は,引用の最後にも述べられているとおり,ブリテン諸島を大陸側へグイッと引きつけた点にある.これを契機に,北方の海・島の文化圏が南方の大陸の文化圏へ接近することになった.664年とは,ブリテン諸島がある意味で北から南へと旋回した象徴的な年なのである.それからほぼ400年後,1066年のノルマン征服により,その北から南への旋回はスピードを増すことになった.
 英語史の観点から考えてみよう.ノルマン征服の英語史上の意義は,つとに知られている (cf. 「#2047. ノルマン征服の英語史上の意義」 ([2014-12-04-1]),「#3107. 「ノルマン征服と英語」のまとめスライド」 ([2017-10-29-1])) .端的にいえば,フランス語(およびラテン語)からの影響が強まったということだ.これは言語学的な意味での「北から南への旋回」である.しかし,その旋回の下準備として4世紀前の Whitby の宗教会議があったと解釈すると,俄然この会議の存在が重くみえてくる.あくまで間接的な意義というべきものだが,英語史的にも象徴的な会議だったといえそうだ.

 ・ 松村 赳・富田 虎男 『英米史辞典』 研究社,2000年.

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2019-10-31 Thu

#3839. 文字を統一した漢字世界と,文字を多様化させた梵字世界 [writing][history]

 連日,鈴木董(著)『文字と組織の世界史』を参照している.鈴木 (52)は,5つの文字世界のうちの2つ,中国を中心とする漢字世界とインドを中心とする梵字世界が,対照的な歴史をたどってきたことを指摘している.漢字世界では秦の始皇帝により書体の統一がなされ,後代にも大きな影響があったが,梵字世界ではむしろ地域ごとに書体が多様化していったという事実だ.

 始皇帝は集権的支配組織の祖型を創出しただけでなく,貨幣と度量衡のみならず,甲骨文字から金文をへて篆書へと発展してきたが,長い政治的分裂のなかで多様化しつつあった漢字の書体をも統一し,そのうえでより書きやすい実務用の隷書が生まれた.
 始皇帝による漢字の統一は,その後さらなる書体の変化と文化を伴いながらも後代にまで保たれ,共通の諸書体の漢字が周辺諸社会へと普及し受容されていくなかで「漢字世界」が形成されていった.これはブラフミー文字を起源としながら,このような政治的統一の下での書体の統一をみなかったインドを中心とする「梵字世界」において,非常に異なる書体が地域ごとに分立したのとは好対照をなした.


 この中国とインドの文字のあり方に関する差異について,鈴木 (53--54) は,異文化世界をも視野に入れた世界秩序観の有無という点に帰しているようだ.これは,統一された文字の強力な政治的ポテンシャルに気付いていたか否かという違いにも近いように思われる.

〔前略〕中国においては,春秋戦国時代にみられた.同文化世界としての「華」のなかにおける「敵国(対等の政治単位)」間の「盟」を中心とする政治体間の関係のイメージは失われ,華と夷の非対等の関係に基礎をおく「華夷秩序観」が定着していった.これも,同文化世界内では分裂が常態化した「梵字世界」の中心をなすインドでは,同文化世界内での政治体間の関係に関心が集中し,異文化世界の政治体との関係についての体系的な世界秩序観が欠落しているかにみえるのとは,対照的であった.


 ・ 鈴木 董 『文字と組織の世界史 新しい「比較文明史」のスケッチ』 山川出版社,2018年.

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2019-10-30 Wed

#3838. 「文字を有さずとも,かなり高度な文明と文化をつくり上げることは可能」 [writing][history][medium]

 昨日も紹介した鈴木董(著)『文字と組織の世界史』より,標記の話題について.通常,文字と文明とは切っても切れない関係にあると認識されており,「有文字社会はすなわち文明社会」という等式が広く受け入れられているように思われる.しかし,その裏返しとしての「無文字社会はすなわち非文明社会」という等式は常に成り立つのだろうか.
 鈴木 (27) は,無文字社会に対する有文字社会の比較優位は疑いえないとしつつも,無文字社会が常に非文明的なわけではないことを主張している.

 言語の発展は,これを可視的に定着する媒体としての文字をもったとき,まったく異なる段階に入ることとなる.
 ただし文字を有さずとも,かなり高度な文明と文化をつくり上げることは可能である.その格好な一例は「新世界」のインカ帝国である.
 ペルーを中心にチリからエクアドルにまで拡がる大帝国を建設し,壮麗なクスコやマチュピチュのような大都市をも造営したインカの人々は,数字を表わすキープ,すなわち「結縄文字」は有していたが,言語を可視的に定着する媒体としての体系的文字をもつことはついになかったようである.
 「旧世界」で顕著な例をとれば,ユーラシア中央部で活躍し,しばしば大帝国を建設した遊牧民たちである.文字を持つ周辺の諸文化世界を長らく脅かした遊牧民たちも,トルコ系の突厥帝国で八世紀に入り突厥文字が考案されるまで,文字をもたなかった.
 また広大なモンゴル帝国を築いたモンゴル人たちも,その帝国形成期には文字をもたず,一三世紀も後半に入ってからようやく,チベット文字をベースとするパスパ文字と,ウイグル文字をベースとするという二種の文字をもつようになったのである.ともすれば文字をもたずとも,インカ帝国,匈奴帝国,突厥帝国そしてモンゴル帝国のような,巨大な政治体を形成し維持することができたのは確かである.
 ....
 〔中略〕
 ....
 しかし,文字を媒体として膨大な情報量を蓄積しうるようになった社会が,次第に文明の諸分野において「比較優位」を占めるようになっていったことも疑いないであろう.ユーラシアの東西における定住的農耕民と移動的遊牧民の力関係が,最終的には前者の優位に帰結した一因もまた,ここにあったとみてよいであろう.


 この文章の力点は有文字社会の文明的優位性の主張にあるが,私はむしろ無文字社会が必ずしも非文明的であるわけではないという裏の主張のほうに関心があった.無文字社会と一言でくくっても,実はいろいろなケースがありそうである.この問題に関しては,以下の記事でも触れてきたのでご参照を.

 ・ 「#1277. 文字をもたない言語の数は?」 ([2012-10-25-1])
 ・ 「#2618. 文字をもたない言語の数は? (2)」 ([2016-06-27-1])
 ・ 「#2447. 言語の数と文字体系の数」 ([2016-01-08-1])
 ・ 「#3118. (無)文字社会と歴史叙述」 ([2017-11-09-1])
 ・ 「#3486. 固有の文字を発明しなかったとしても……」 ([2018-11-12-1])

 ・ 鈴木 董 『文字と組織の世界史 新しい「比較文明史」のスケッチ』 山川出版社,2018年.

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2019-10-29 Tue

#3837. 鈴木董(著)『文字と組織の世界史』 --- 5つの文字世界の発展から描く新しい世界史 [writing][grammatology][religion][review][history]

 昨年出版された鈴木董(著)『文字と組織の世界史 新しい「比較文明史」のスケッチ』は,文字の観点からみた世界史の通史である.一本の強力な筋の通った壮大な世界史である.文字,言語,宗教,そして統治組織という点にこだわって書かれており,言語史の立場からも刺激に富む好著である.
 本書の世界史記述は,5つの文字世界の歴史的発展を基軸に秩序づけられている.その5つの文字世界とは何か.第1章より,重要な部分を抜き出そう (19--20) .

〔前略〕唯一のグローバル・システムが全世界を包摂する直前というべき一八〇〇年に立ち戻ってみると,「旧世界」のアジア・アフリカ・ヨーロッパの「三大陸」の中核部には,五つの大文字圏,文字世界としての文化世界が並存していた.
 すなわち,西から東へ「ラテン文字世界」,「ギリシア・キリル文字世界」,「梵字世界」,「漢字世界」,そして上述の四つの文字世界の全てに接しつつ,アジア・アフリカ・ヨーロッパの三大陸にまたがって広がる「アラビア文字世界」の五つである.「新世界」の南北アメリカの両大陸,そして六つ目の人の住む大陸というべきオーストラリア大陸は,その頃までには,いずれも西欧人の植民地となりラテン文字世界の一部と化していた.
 ここで「旧世界」の「三大陸」中核部を占める文字世界は,文化世界としてとらえなおせば,ラテン文字世界は西欧キリスト教世界,ギリシア・キリル文字世界は東欧正教世界,梵字世界は南アジア・東南アジア・ヒンドゥー・仏教世界,漢字世界は東アジア儒教・仏教世界,そしてアラビア文字世界はイスラム世界としてとらええよう.そして,各々の文字世界の成立,各々の文化世界内における共通の古典語,そして文明と文化を語るときに強要される文明語・文化語の言語に用いられる文字が基礎を提供した.
 すなわち西欧キリスト教世界ではラテン語,東欧正教世界ではギリシア語と教会スラヴ語,南アジア・東南アジア・ヒンドゥー・仏教世界では,ヒンドゥー圏におけるサンスクリットと仏教圏におけるパーリ語,東アジア儒教・仏教世界では漢文,そしてイスラム世界においてはアラビア語が,各々の文化世界で共有された古典語,文明語・文化語であった.


 5つの文字世界の各々と地域・文化・宗教・言語の関係は密接である.改めてこれらの相互関係に気付かせてくれた点で,本書はすばらしい.  *
 本ブログでも,文字の歴史,拡大,系統などについて多くの記事で論じてきた.とりわけ以下の記事を参照されたい.

 ・ 「#41. 言語と文字の歴史は浅い」 ([2009-06-08-1])
 ・ 「#422. 文字の種類」 ([2010-06-23-1])
 ・ 「#423. アルファベットの歴史」 ([2010-06-24-1])
 ・ 「#1849. アルファベットの系統図」 ([2014-05-20-1])
 ・ 「#1822. 文字の系統」 ([2014-04-23-1])
 ・ 「#1853. 文字の系統 (2)」 ([2014-05-24-1])
 ・ 「#2398. 文字の系統 (3)」 ([2015-11-20-1])
 ・ 「#2416. 文字の系統 (4)」 ([2015-12-08-1])
 ・ 「#2399. 象形文字の年表」 ([2015-11-21-1])
 ・ 「#1834. 文字史年表」 ([2014-05-05-1])
 ・ 「#2414. 文字史年表(ロビンソン版)」 ([2015-12-06-1])
 ・ 「#2344. 表意文字,表語文字,表音文字」 ([2015-09-27-1])
 ・ 「#2386. 日本語の文字史(古代編)」 ([2015-11-08-1])
 ・ 「#2387. 日本語の文字史(近代編)」 ([2015-11-09-1])
 ・ 「#2389. 文字体系の起源と発達 (1)」 ([2015-11-11-1])
 ・ 「#2390. 文字体系の起源と発達 (2)」 ([2015-11-12-1])
 ・ 「#2577. 文字体系の盛衰に関わる社会的要因」 ([2016-05-17-1])
 ・ 「#2494. 漢字とオリエント文字のつながりはあるか?」 ([2016-02-24-1])

 ・ 鈴木 董 『文字と組織の世界史 新しい「比較文明史」のスケッチ』 山川出版社,2018年.

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2019-10-26 Sat

#3834. 『図説フランスの歴史』の年表 [timeline][history]

 先日の「#3828. 『図説フランスの歴史』の目次」 ([2019-10-20-1]) に引き続き,同書の巻末 (177--79) にある「フランス史略年表」を掲げたい.イギリス史の年表については,「#3478. 『図説イギリスの歴史』の年表」 ([2018-11-04-1]),「#3479. 『図説 イギリスの王室』の年表」 ([2018-11-05-1]),「#3487. 『物語 イギリスの歴史(上下巻)』の年表」 ([2018-11-13-1]),「#3497. 『イギリス史10講』の年表」 ([2018-11-23-1]) を参照.

[sic]
<table border=0 cellspacing=0 cellpadding=5>
<tr><td>前9世紀頃</td><td>ケルト人,ガリアへ移住</td></tr>
<tr><td>BC121</td><td>ローマ軍,ガリア南部を征服</td></tr>
<tr><td>BC52</td><td>カエサル,ガリア全土を征服</td></tr>
<tr><td>372</td><td>トゥールのマルティヌス,マルムティエ修道院を設立</td></tr>
<tr><td>418</td><td>西ゴート族,アキテーヌ地方に定住</td></tr>
<tr><td>476</td><td>西ローマ帝国滅亡</td></tr>
<tr><td>486</td><td>ソワソンの戦い.クローヴィス,メロヴィング朝を開く</td></tr>
<tr><td>496</td><td>トルビアックの戦い.クローヴィス,カトリックに改宗</td></tr>
<tr><td>575頃</td><td>トゥール司教グレゴリウス『フランク人の歴史』</td></tr>
<tr><td>732</td><td>トゥール・ポワティエ間の戦い.カール・マルテル,イスラム勢力を撃破</td></tr>
<tr><td>751</td><td>ピピン3世(小ピピン),カロリング朝を開く</td></tr>
<tr><td>800</td><td>教皇レオ3世,シャルルマーニュを西ローマ皇帝に戴冠</td></tr>
<tr><td>843</td><td>ヴェルダン条約,帝国の三分割</td></tr>
<tr><td>987</td><td>パリ伯ユーグ・カペー,フランス王に即位.カペー朝始まる (--1328)</td></tr>
<tr><td>1154</td><td>アンリ・プランタジネット,イングランド王に即位(ヘンリ2世).アンジュー帝国成立</td></tr>
<tr><td>1190</td><td>フィリップ2世,第3回十字軍に出発</td></tr>
<tr><td>1202</td><td>フィリップ2世,英王ジョンの大陸所領没収を宣言</td></tr>
<tr><td>1209</td><td>教皇イノケンティウス3世,南仏のカタリ派を攻撃,アルビジョワ十字軍始まる</td></tr>
<tr><td>1214</td><td>ブーヴィーヌの戦い</td></tr>
<tr><td>1226</td><td>ルイ9世即位,母后ブランシュ・ド・カスティーユ摂政 (--34)</td></tr>
<tr><td>1229</td><td>トゥルーズ伯降伏,アルビジョワ十字軍終わる</td></tr>
<tr><td>1248</td><td>ルイ9世,第6回十字軍に参加</td></tr>
<tr><td>1270</td><td>ルイ9世,第7回十字軍に出発.テュニスで病死</td></tr>
<tr><td>1302</td><td>フィリップ4世,最初の全国三部会をパリにて招集</td></tr>
<tr><td>1303</td><td>アナーニ事件,教皇ボニファティウス8世憤死</td></tr>
<tr><td>1305</td><td>フィリップ4世,ボルドー大司教を教皇に擁立(クレメンス5世)</td></tr>
<tr><td>1307</td><td>フィリップ4世,テンプル騎士団員を一斉逮捕</td></tr>
<tr><td>1309</td><td>教皇クレメンス5世,教皇庁をアヴィニョンに移す</td></tr>
<tr><td>1328</td><td>シャルル4世没,カペー朝断絶.フィリップ6世即位,ヴァロア朝の開始 (--1589)</td></tr>
<tr><td>1337</td><td>百年戦争始まる</td></tr>
<tr><td>1348</td><td>黒死病がフランス全土で流行</td></tr>
<tr><td>1358</td><td>エティエンヌ・マルセルのパリ革命</td></tr>
<tr><td>1415</td><td>英王ヘンリ5世,ノルマンディに上陸 (8.12) .アザンクールの戦い (10.25)</td></tr>
<tr><td>1420</td><td>トロワの和約</td></tr>
<tr><td>1429</td><td>ジャンヌ・ダルク,オルレアンを解放.シャルル7世ランスで戴冠</td></tr>
<tr><td>1431</td><td>ジャンヌ・ダルク火刑</td></tr>
<tr><td>1453</td><td>カスティヨンの戦い,百年戦争終了</td></tr>
<tr><td>1477</td><td>ブルゴーニュ公シャルル突進公戦死,ブルゴーニュ公国解体へ</td></tr>
<tr><td>1494</td><td>シャルル8世,イタリアへ侵入.イタリア戦争始まる (--1559)</td></tr>
<tr><td>1516</td><td>ボローニャの政教協約</td></tr>
<tr><td>1525</td><td>パヴィアの戦い,フランソワ1世捕虜に</td></tr>
<tr><td>1530</td><td>フランソワ1世,王立教授団を創設</td></tr>
<tr><td>1534</td><td>檄文事件.プロテスタントへの弾圧開始</td></tr>
<tr><td>1539</td><td>ヴィレル・コトレ王令.公文書におけるフランス語使用,小教区帳簿の作成を義務づける</td></tr>
<tr><td>1559</td><td>カトー・カンブレジ条約,イタリア戦争終了.アンリ2世没</td></tr>
<tr><td>1562</td><td>ヴァシーでプロテスタントを虐殺,宗教戦争始まる (--98)</td></tr>
<tr><td>1572</td><td>サン・バルテルミの虐殺</td></tr>
<tr><td>1576</td><td>ギーズ公アンリ,カトリック同盟(リーグ)を結成</td></tr>
<tr><td>1589</td><td>アンリ3世暗殺,ヴァロア朝断絶.アンリ4世即位,ブルボン朝始まる (--1792)</td></tr>
<tr><td>1593</td><td>アンリ4戦,サン・ドニでカトリックに改宗</td></tr>
<tr><td>1594</td><td>アンリ4世,シャルトルで成聖式.国王,巴里に入城</td></tr>
<tr><td>1598</td><td>ナント王令</td></tr>
<tr><td>1604</td><td>ポーレット法,官職の世襲・売買を年税の支払いを条件に公認</td></tr>
<tr><td>1624</td><td>リシュリュー,宰相に就任</td></tr>
<tr><td>1629</td><td>アレス王令,プロテスタントの武装権を剥奪</td></tr>
<tr><td>1630</td><td>「欺かれた者たちの日」,マリ・ド・メディシス失脚</td></tr>
<tr><td>1635</td><td>フランス,三十年戦争に参戦</td></tr>
<tr><td>1639</td><td>ノルマンディで反税蜂起「ニュ・ピエ(裸足党)の乱」</td></tr>
<tr><td>1648</td><td>フロンドの乱勃発 (--53)</td></tr>
<tr><td>1659</td><td>ピレネー条約</td></tr>
<tr><td>1661</td><td>マザラン没.ルイ14世,親政を開始</td></tr>
<tr><td>1665</td><td>コルベール,財務総監に就任</td></tr>
<tr><td>1667</td><td>パリに警視総監職を設置.フランドル戦争始まる (--68)</td></tr>
<tr><td>1672</td><td>オランダ戦争始まる (--78)</td></tr>
<tr><td>1685</td><td>ナント王令の廃止</td></tr>
<tr><td>1688</td><td>アウクスブルク同盟戦争始まる (--97) .国王民兵制導入</td></tr>
<tr><td>1695</td><td>カピタシオン(人頭税)導入</td></tr>
<tr><td>1701</td><td>スペイン継承戦争始まる (--13)</td></tr>
<tr><td>1710</td><td>ディジエーム(十分の一税)導入</td></tr>
<tr><td>1715</td><td>ルイ14世没.ルイ15世即位,オルレアン公摂政</td></tr>
<tr><td>1720</td><td>「ローのシステム」破綻</td></tr>
<tr><td>1733</td><td>ポーランド継承戦争始まる (--35)</td></tr>
<tr><td>1740</td><td>オーストリア継承戦争始まる (--48)</td></tr>
<tr><td>1756</td><td>七年戦争始まる (--63)</td></tr>
<tr><td>1771</td><td>大法官モプーによる司法改革</td></tr>
<tr><td>1775</td><td>小麦粉戦争</td></tr>
<tr><td>1786</td><td>カロンヌ,全身分を対象とする新たな税を提唱</td></tr>
<tr><td>1789</td><td>国民議会成立 (6.17),封建制の廃止 (8.4),人権宣言 (8.26),ヴェルサイユ行進 (10.5)</td></tr>
<tr><td>1790</td><td>聖職者民事基本法</td></tr>
<tr><td>1791</td><td>ヴァレンヌ事件 (6.20),「1791年憲法制定」 (9.3)</td></tr>
<tr><td>1792</td><td>オーストリアに宣戦布告 (4.20),8月10日事件(王権の停止),ヴァルミの戦い (9.20),共和制の開始 (9.21)</td></tr>
<tr><td>1793</td><td>ルイ16世処刑 (1.21),山岳派独裁,恐怖政治,総最高価格法 (9.29)</td></tr>
<tr><td>1794</td><td>テルミドールの反動 (7.27),山岳派失脚</td></tr>
<tr><td>1796</td><td>ナポレオン,イタリア遠征</td></tr>
<tr><td>1799</td><td>ブリュメール18日のクーデタ.ナポレオン,政権を掌握</td></tr>
<tr><td>1800</td><td>フランス銀行設立</td></tr>
<tr><td>1804</td><td>ナポレオン法典(民法典).ナポレオン,皇帝に即位</td></tr>
<tr><td>1806</td><td>ベルリン勅令(大陸封鎖令)</td></tr>
<tr><td>1814</td><td>ナポレオン,皇帝を退位.エルバ島へ.ルイ18世パリに帰還</td></tr>
<tr><td>1815</td><td>ナポレオン「百日天下」</td></tr>

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