hellog〜英語史ブログ

#2931. 新しきは古きを排除するのではなく選択肢を増やす[language_change][register][semantic_change][printing]

2017-05-06

 カーランスキー(著)『紙の世界史』を読んだ.紙の歴史については「#2465. 書写材料としての紙の歴史と特性」 ([2016-01-26-1]) でも扱ったが,密接に関連する印刷術のテクノロジーと合わせて,紙が人類の文明に偉大な貢献をなしたことは疑いようがない.
 カーランスキーの紙の歴史の叙述は一級品だが,テクノロジーの歴史に関する一般的な原理の指摘も示唆に富んでいる (11) .

テクノロジーの歴史から学ぶべき重要なこと,一般に誤った推論がなされていることはほかにもある.新しいテクノロジーは古いテクノロジーを排除するというのがそのひとつだ.これはめったには起こらない.パピルスは紙が導入されてからも地中海沿岸を中心とする地域で何世紀も使われつづけた.羊皮紙はいまだに使われている.ガスや電気ストーブが発明されても暖炉がなくなることはなかった.印刷ができるようになっても人はペンで書くことをやめなかった.テレビはラジオを駆逐しなかった.映画は劇場をなくせなかった.ホームビデオも映画館をなくせなかった.が,今挙げたものはどれも誤った予測をたてられた.電卓がそろばんの使用を終わらせることさえできなかったのに.そして,商業的成功を約束された電球の特許がトーマス・エジソンに与えられた一八七九年から一世紀以上経った現在でも,アメリカ合衆国だけで四百社の蝋燭製造業者が存在し,およそ七千人の従業員を雇い,年間で二十億ドル以上を売り上げている.二十一世紀の最初の十年には蝋燭の売り上げが伸びたほどだ.むろん蝋燭の使い途は大きく変わったけれども.同様のことは羊皮紙の製造法や用途についても起こった.新たなテクノロジーは古いテクノロジーを排除するというより選択肢を増やすのだ.コンピュータはまちがいなく紙の役割を変えるだろうが,紙が消えることはけっしてない.


 確かに,紙に印刷された書籍が現われたあとも長らく羊皮紙はとりわけ正式な文書にふさわしい素材だとみなされ続け,18世紀末のアメリカ独立宣言においても羊皮紙で書かれるべきことが説かれたほどである.
 昨今,紙の書籍と電子書籍の競合についての議論が盛んだが,カーランスキー (461--62) は上記のテクノロジー観をさらに押し進めて,次のように述べる.

デジタル時代に消えてゆくであろうものを予測するまえに,口承文化が今も生き残っているということを思い出してみるのもいいだろう.新刊本の販売促進で最初におこなわれるイベントが著者による朗読会であったりするのは,人には耳で聞いたものを読みたくなる傾向があるからだろう.オーディオブックも人気となっている.


 なるほど,古いテクノロジーは新しいテクノロジーにより置き換えられるというよりは,独特な機能を保持・獲得しつつ,存続してゆくことが多いものかもしれない.これは,ちょうど古い語が新しい語に置き換えられるのではなく,語義,用法,使用域を特化させてしぶとく生き残っていく様にも似ている.古きものは社会の一線からは退くかもしれないが,完全に廃棄されてしまうわけではなく,むしろ選択肢の一つとして積み重ねられていき,生活や表現のヴァリエーションを豊かにしていくものなのだろう.

 ・ マーク・カーランスキー(著),川副 智子(訳)『紙の世界史 歴史に突き動かされた技術』 徳間書店,2016年.

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