昨日の記事「#4130. 英語語彙の多様化と拡大の歴史を視覚化した "The OED in two minutes"」 ([2020-08-17-1]) で紹介した同じコンテンツを,異なる角度から改めて眺めてみたい.The OED in two minutes で公開されている英語語彙史地図のコンテンツである.
中英語の始まりとなる1150年から再生して1年ごとに時間を進めていくと,しばらくは動きがヨーロッパ内部に限られており,さしておもしろくもないのだが,15世紀後半になってくると中東や北アフリカなどに散発的に点が現われてくる.そして,16世紀後半になると新大陸やインド方面にも点がポツポツしてきて,日本も舞台に登場してくる.この状況は17,18世紀にかけて稀ではなくなってくる.次に注目すべき動きが出てくるのは,18世紀後半のオセアニア,太平洋,南アフリカといった南半球を中心とした海洋地域である.19世紀に入るとアフリカや東南アジアを含めた世界の広域に点が打たれるようになり,同世紀後半には南アメリカも加わる.20世紀はまさにグローバルである.
実におもしろい.同時に,実に恐ろしい.16世紀後半から19世紀終わりまでの時間枠に関するかぎり,そのままイギリスの世界帝国化の足跡を語彙史の観点からパラフレーズしたコンテンツに見えてきたからだ.直接・間接にイギリスの支配権の及ぶ領土を塗りつぶした世界史の地図は「軍事的な」地図として見慣れているし,ある意味で分かりやすい.しかし,今回のような「語彙史的な」地図がそれと多かれ少なかれ一致するというのは,何とも薄気味悪い.そして,後者の地図が,OED という英語文献学の粋というべき学術的な成果物を利用して作成されていること,またその辞書それ自身が大英帝国の最盛期である19世紀半ばの企画の産物であることを思い出すとき,薄気味悪さ以上に,得体のしれない恐ろしさを感じる.
OED は学術的(文献学的)偉業を体現するツールであり,その点で私も賞賛を抑えることができない.しかし,その事実を認めつつ,それ自体が,毀誉褒貶相半ばする近代世界史の産物であることは肝に銘じておきたい.関連して以下の記事も参照.
・ 「#3020. 帝国主義の申し子としての比較言語学 (1)」 ([2017-08-03-1])
・ 「#3021. 帝国主義の申し子としての比較言語学 (2)」 ([2017-08-04-1])
・ 「#3376. 帝国主義の申し子としての英語文献学」 ([2018-07-25-1])
・ 「#3603. 帝国主義,水族館,辞書」 ([2019-03-09-1])
・ 「#3767. 日本の帝国主義,アイヌ,拓殖博覧会」 ([2019-08-20-1])
アルフレッド大王 (King Alfred) は,イギリス歴代君主のなかで唯一「大王」 (the Great) を冠して呼ばれる名君である.イギリス史上での評価が高いことはよく分かるが,彼の「英語史上の意義」が何かあるとしたら,何だろうか.Mengden (26) の解説から3点ほど抜き出してみよう.
(1) ヴァイキングの侵攻を止めたことにより,イングランドの国語としての英語の地位を保った.
歴史の if ではあるが,もしアルフレッド大王がヴァイキングに負けていたら,イングランドの国語としての英語が失われ,必然的に近代以降の英語の世界展開もあり得なかったことになる.英語が完全に消えただろうとは想像せずとも,少なくとも威信ある安定的な言語としての地位を保ち続けることは難しかったろう.アルフレッド大王の勝利は,この点で英語史上きわめて重大な意義をもつ.
(2) 教育改革の推進により,多くの英語文献を生み出し,後世に残した.
これは,正確にいえばアルフレッド大王の英語史研究上の意義というべきかもしれない.彼は教育改革を進めることにより,本を大量に輸入し制作した.とりわけ彼自身が多かれ少なかれ関わったとされる古英語への翻訳ものが重要である(ex. Gregory the Great's Cura Pastoralis and Dialogi, Augustine of Hippo's Soliloquia, Boethius's De consolatione philosophiae, Paulus Orosius's Historiae adversus paganos, Bed's Historia ecclesiastica) .Anglo-Saxon Chronicle や Martyrology も彼のもとで制作が始まったとされる.
(3) 上の2点の結果として,後期古英語にかけて,英語史上初めて大量の英語散文が生み出され,書き言葉の標準化が進行した.
彼に続く時代の大量の英語散文の産出は,やはり英語史研究上の意義が大きいというべきである.また書き言葉の標準化については,その後の中英語期の脱標準化,さらに近代英語期の再標準化などの歴史的潮流を考えるとき,英語史上の意義があることは論を俟たない.
・ Mengden, Ferdinand von. "Periods: Old English." Chapter 2 of English Historical Linguistics: An International Handbook. 2 vols. Ed. Alexander Bergs and Laurel J. Brinton. Berlin: Mouton de Gruyter, 2012. 19--32.
標題について,過去2日間の記事 ([2020-04-18-1], [2020-04-19-1]) で449年説と600年説を取り上げてきたが,今回は最後に700年説について考察したい.この年代は,英語の文献が本格的に現われ出すのが700年前後とされることによる.現代の英語史研究者がアクセスできる最古の文献の年代に基づいた説であるから,さらに古い文献が発見されれば英語史の始まりもその分さかのぼるという点で,相対的,可変的,もっと言ってしまえば研究者の都合を優先した説ということになる.Mengden (20) はこの説を次のように評価している.
. . . one could approach the question of the starting point of Old English from a modern perspective. . . . Our direct evidence of any characteristic of (Old) English begins with the oldest surviving written sources containing Old English. Apart from onomastic material in Latin texts and short inscriptions, the earliest documents written in Old English date from the early 8th century. A distinction between a reconstructed "pre-Old English" before 700 and an attested "Old English" after 700 . . . therefore does not seem implausible.
しかし,Mengden (20) は,700年前後という設定は必ずしも研究者の都合を優先しただけのものではないとも考えている.
. . . it is feasible that the shift from a heptarchy of more or less equally influential Anglo-Saxon kingdoms to the cultural dominance of Northumbria in the time after Christianization may be connected with the fact that texts are produced not exclusively in Latin, but also in the vernacular. In other words, we may speculate (but no more than that) that the emergence of the earliest Anglo-Saxon cultural and political centre in Northumbria in the 8th century may lead the Anglo-Saxons to view themselves as one people rather than as different Germanic tribes, and, accordingly to view their language as English (or, Anglo-Saxon) rather than as the Saxon, Anglian, Kentish, Jutish, etc. varieties of Germanic.
700年前後は,5世紀半ばにブリテン島に渡ってきた西ゲルマン集団が,アングロサクソン人としてのアイデンティティ,英語話者としてのアイデンティティを確立させ始めた時期であるという見方だ.これはこれで1つの洞察ではある.
さて,3日間で3つの説をみてきたわけだが,どれが最も妥当と考えられるだろうか.あるいは他にも説があり得るだろうか(私にはあると思われる).もっとも,この問いに正解があるわけではなく,視点の違いがあるにすぎない.だからこそ periodisation の問題はおもしろい.
・ Mengden, Ferdinand von. "Periods: Old English." Chapter 2 of English Historical Linguistics: An International Handbook. 2 vols. Ed. Alexander Bergs and Laurel J. Brinton. Berlin: Mouton de Gruyter, 2012. 19--32.
昨日の記事「#4009. 英語史の始まりはいつか? --- 449年説」 ([2020-04-18-1]) に引き続き,英語史の開始時期を巡る議論.今回は,実はあまり聞いたことのなかった(約)600年説について考えてみたい
597年に St. Augustine がキリスト教宣教のために教皇 Gregory I によってローマから Kent 王国へ派遣されたことは英国史上名高いが,この出来事がアングロサクソンの社会と文化を一変させたということは,象徴的な意味でよく分かる.社会と文化のみならず英語という言語にもその影響が及んだことは「#3102. 「キリスト教伝来と英語」のまとめスライド」 ([2017-10-24-1]),「#3845. 講座「英語の歴史と語源」の第5回「キリスト教の伝来」を終えました」 ([2019-11-06-1]),「#296. 外来宗教が英語と日本語に与えた言語的影響」 ([2010-02-17-1]) でたびたび注目してきた.確かに英語史上きわめて重大な事件が600年前後に起こったとはいえるだろう.Mengden の議論に耳を傾けてみよう.
. . . because the conversion is the first major change in the society and culture of the Anglo-Saxons that is not shared by the related tribes on the Continent, it is similarly significant for (the beginning of) an independent linguistic history of English as the settlement in Britain. Moreover, the immediate impact of the conversion on the language of the Anglo-Saxons is much more obvious than that of the migration: first, the Latin influence on English grows in intensity and, perhaps more crucially, enters new domains of social life; second, a new writing system, the Latin alphabet, is introduced, and third, a new medium of (linguistic) communication comes to be used --- the book.
600年説の要点は3つある.1つめは,主に語彙借用のことを述べているものと思われるが,ラテン語からキリスト教や学問を中心とした文明を体現する分野の借用語が流れ込んだこと.2つめはローマン・アルファベットの導入.3つめは本というメディアがもたらされたこと.
いずれも英語に直接・間接の影響を及ぼした重要なポイントであり,しかも各々の効果が非常に見えやすいというメリットもある.
・ Mengden, Ferdinand von. "Periods: Old English." Chapter 2 of English Historical Linguistics: An International Handbook. 2 vols. Ed. Alexander Bergs and Laurel J. Brinton. Berlin: Mouton de Gruyter, 2012. 19--32.
○○史の時代区分 (periodisation) というのは,その分野において最も根本的な問題である.英語史も例外ではなく,この問題について絶えず考察することなしには,そもそも研究が成り立たない.とりわけ英語史の始まりをどこに置くかという問題は,分野の存立に関わる大問題である.本ブログでも,periodisation とタグ付けした多数の記事で関連する話題を取り上げてきた.
最も伝統的かつポピュラーな説ということでいえば,アングロサクソン人がブリテン島に渡ってきたとされる449年をもって英語史の始まりとするのが一般的である.この年代自体が伝説的といえばそうなのだが,もう少し大雑把にみても5世紀前半から中葉にかけての時期であるという見解は広く受け入れられている.
一方,「歴史」とは厳密にいえば文字史料が確認されて初めて成立するという立場からみれば,英語の文字史料がまとまった形で現われるのは700年くらいであるから,その辺りをもって英語史の開始とする,という見解もあり得る.実際,こちらを採用する論者もいる.
上記の2つが英語史の始まりの時期に関する有力な説だが,Mengden (20) がもう1つの見方に言及している.600年頃のキリスト教化というタイミングだ.キリスト教化がアングロサクソン社会にもたらした文化的な影響は計り知れないが,そのインパクトこそが彼らの言語を初めて「英語」(他のゲルマン語派の姉妹言語と区別して)たらしめたという議論だ.かくして,古い方から並べて (1) (象徴的に)紀元449年,(2) およそ600年,(3) およそ700年,という英語史の開始時期に関する3つの候補が出たことになる.
各々のポイントについて考えて行こう.定説に近い (1) を重視する理由は,Mengden 曰く,次の通りである.
Although the differences between the varieties of the settlers and those on the continent cannot have been too great at the time of the migration it is the settlers' geographic and political independence as a consequence of the migration which constitutes the basis for the development of English as a variety distinct and independent from the continental varieties of the West Germanic speech community . . . . (20)
要するに,449年(付近)を英語史の始まりとみる最大のポイントは,言語学的視点というよりも社会(言語学)的視点を取っている点にある.もっといえば,空間的・物理的な視点である.大陸の西ゲルマン語の主要集団から分離して独自の集団となったのが「英語」社会だるという見方だ.実際 Mengden 自身も様々に議論した挙げ句,この説を最重要とみなしている.
I would therefore propose that, whatever happens to the language of the Anglo-Saxon settlers in Britain and for whatever reason it happens, any development after 450 should be taken as specifically English and before 450 should be taken as common (West) Germanic. That our knowledge of the underlying developments is necessarily based on a different method of access before and after around 700 is ultimately secondary to the relevant linguistic changes themselves and for any categorization of Old English. (21)
結局 Mengden も常識的な結論に舞い戻ったようにみえるが,一般的にいって,深く議論した後にぐるっと一周回って戻ってきた結論というものには価値がある.定説がなぜ定説なのかを理解することは,とても大事である.
他の2つの説については明日以降の記事で取り上げる.
・ Mengden, Ferdinand von. "Periods: Old English." Chapter 2 of English Historical Linguistics: An International Handbook. 2 vols. Ed. Alexander Bergs and Laurel J. Brinton. Berlin: Mouton de Gruyter, 2012. 19--32.
「#2047. ノルマン征服の英語史上の意義」 ([2014-12-04-1]) やその他の記事 (norman_conquest) で,この1066年の著名な事件のもつ英語史へのインパクトを様々に紹介してきたが,Mengden (29--30) は事件の意義をややトーンダウンした形で伝えようとしている.意義は確かに大きいが,少し強調されすぎなのではないかというスタンスだ.耳を傾けてみよう.
The events of the year 1066 seem to have been the consequence of a series of steps by the Norman nobility to gain political influence in England --- a development always accompanied by support from an influential pro-Norman party in the Anglo-Saxon aristocracy. It is therefore feasible to assume that the intensity of French influence, although traceable, is not considerably greater in the years immediately following the Norman Conquest than it is before. From this perspective, the Norman Conquest stabilizes, but by no means ignites or reinforces, the growing intensity of Anglo-Norman relations. As such, William's victory at Hastings may be seen as one of several important events that pave the way for the enormous influence that French exerts on English in the 13th and 14th centuries. The beginnings of this development are clearly part of the history of Old English rather than of Middle English.
ポイントは,ノルマン・フランス(語)の英語への影響は事件以前からあり,事件によってすぐに拡大したわけではないという点だ.その後,事件の効果がジワジワと効いてきたというのは確かだろうが,結果的には数世紀間続くことになるフランス語による影響の全体像のなかに位置づけるならば,1066年は前半の1コマにすぎない.全体像の開始こそが重要とみるのであれば,1066年ではなく,それより前の古英語末期を指摘しなければならない.このような議論だ.
やや冷めた目ではあるが,いくつかの事実を指摘しており,おもしろい見方だと思う.関連して「#2685. イングランドとノルマンディの関係はノルマン征服以前から」 ([2016-09-02-1]),「#302. 古英語のフランス借用語」 ([2010-02-23-1]) を参照.
・ Mengden, Ferdinand von. "Periods: Old English." Chapter 2 of English Historical Linguistics: An International Handbook. 2 vols. Ed. Alexander Bergs and Laurel J. Brinton. Berlin: Mouton de Gruyter, 2012. 19--32.
「#3977. 講座「英語の歴史と語源」の第6回「ヴァイキングの侵攻」のご案内」 ([2020-03-17-1]) でお知らせしたように,3月21日(土)の15:15?18:30に,朝日カルチャーセンター新宿教室にて「英語の歴史と語源・6 ヴァイキングの侵攻」と題する講演を行ないました.新型コロナウィルス禍のなかで何かと心配しましたが,お集まりの方々からは時間を超過するほどたくさんの質問をいただきました.ありがとうございました.
講座で用いたスライド資料をこちらに置いておきます.以下にスライドの各ページへのリンクも張っておきます.
1. 英語の歴史と語源・6 「ヴァイキングの侵攻」
2. 第6回 ヴァイキングの侵攻
3. 目次
4. 1. ヴァイキング時代
5. Viking の語源説
6. ヴァイキングのブリテン島襲来
7. 2. 英語と古ノルド語の関係
8. 3. 古ノルド語から借用された英単語
9. 古ノルド借用語の日常性
10. 古ノルド借用語の音韻的特徴
11. いくつかの日常的な古ノルド借用語について
12. イングランドの地名の古ノルド語要素
13. 英語人名の古ノルド語要素
14. 古ノルド語からの意味借用
15. 4. 古ノルド語の語彙以外への影響
16. なぜ英語の語順は「主語+動詞+目的語」なのか?
17. 5. 言語接触の濃密さ
18. 言語接触の種々のモデル
19. まとめ
20. 参考文献
次回は4月18日(土)の15:30?18:45を予定しています(新型コロナウィルスの影響がますます心配ですが).「ノルマン征服とノルマン王朝」と題して,かの1066年の事件の英語史上の意義を考えます.詳細はこちらよりどうぞ.
今週末の3月21日(土)の15:15?18:30に,朝日カルチャーセンター新宿教室にて「英語の歴史と語源・6 ヴァイキングの侵攻」と題する講演を行ないます.趣旨は以下の通りです.
8世紀後半,アングロサクソン人はヴァイキングの襲撃を受けました.現在の北欧諸語の祖先である古ノルド語を母語としていたヴァイキングは,その後イングランド東北部に定住しましたが,その地で古ノルド語と英語は激しく接触することになりました.こうして古ノルド語の影響下で揉まれた英語は語彙や文法において大きく変質し,その痕跡は現代英語にも深く刻まれています.ヴァイキングがいなかったら,現在の英語の姿はないのです.今回は,ヴァイキングの活動と古ノルド語について概観しつつ,言語接触一般の議論を経た上で,英語にみられる古ノルド語の語彙的な遺産に注目します.
ヴァイキングや古ノルド語 (old_norse) について,本ブログでも関連する話題を多く扱ってきました.以下,主要な記事にリンクを張っておきます.
・ 「#59. 英語史における古ノルド語の意義を教わった!」 ([2009-06-26-1])
・ 「#111. 英語史における古ノルド語と古フランス語の影響を比較する」 ([2009-08-16-1])
・ 「#169. get と give はなぜ /g/ 音をもっているのか」 ([2009-10-13-1])
・ 「#170. guest と host」 ([2009-10-14-1])
・ 「#340. 古ノルド語が英語に与えた影響の Jespersen 評」 ([2010-04-02-1])
・ 「#818. イングランドに残る古ノルド語地名」 ([2011-07-24-1])
・ 「#827. she の語源説」 ([2011-08-02-1])
・ 「#881. 古ノルド語要素を南下させた人々」 ([2011-09-25-1])
・ 「#931. 古英語と古ノルド語の屈折語尾の差異」 ([2011-11-14-1])
・ 「#1146. インドヨーロッパ語族の系統図(Fortson版)」 ([2012-06-16-1])
・ 「#1167. 言語接触は平時ではなく戦時にこそ激しい」 ([2012-07-07-1])
・ 「#1170. 古ノルド語との言語接触と屈折の衰退」 ([2012-07-10-1])
・ 「#1179. 古ノルド語との接触と「弱い絆」」 ([2012-07-19-1])
・ 「#1182. 古ノルド語との言語接触はたいした事件ではない?」 ([2012-07-22-1])
・ 「#1183. 古ノルド語の影響の正当な評価を目指して」 ([2012-07-23-1])
・ 「#1253. 古ノルド語の影響があり得る言語項目」 ([2012-10-01-1])
・ 「#1611. 入り江から内海,そして大海原へ」 ([2013-09-24-1])
・ 「#1937. 連結形 -son による父称は古ノルド語由来」 ([2014-08-16-1])
・ 「#1938. 連結形 -by による地名形成は古ノルド語のものか?」 ([2014-08-17-1])
・ 「#2354. 古ノルド語の影響は地理的,フランス語の影響は文体的」 ([2015-10-07-1])
・ 「#2591. 古ノルド語はいつまでイングランドで使われていたか」 ([2016-05-31-1])
・ 「#2625. 古ノルド語からの借用語の日常性」 ([2016-07-04-1])
・ 「#2692. 古ノルド語借用語に関する Gersum Project」 ([2016-09-09-1])
・ 「#2693. 古ノルド語借用語の統計」 ([2016-09-10-1])
・ 「#2869. 古ノルド語からの借用は古英語期であっても,その文証は中英語期」 ([2017-03-05-1])
・ 「#2889. ヴァイキングの移動の原動力」 ([2017-03-25-1])
・ 「#3001. なぜ古英語は古ノルド語に置換されなかったのか?」 ([2017-07-15-1])
・ 「#3263. なぜ古ノルド語からの借用語の多くが中英語期に初出するのか?」 ([2018-04-03-1])
・ 「#3969. ラテン語,古ノルド語,ケルト語,フランス語が英語に及ぼした影響を比較する」 ([2020-03-09-1])
・ 「#3972. 古英語と古ノルド語の接触の結果は koineisation か?」 ([2020-03-12-1])
・ 「#3606. 講座「北欧ヴァイキングと英語」」 ([2019-03-12-1])
昨日の記事「#3974. 『もういちど読む山川世界史』の目次」 ([2020-03-14-1]) を踏まえ,日本史バージョンもお届けする.もちろん典拠は『もういちど読む山川日本史』だ.日本語史に関しては「#3389. 沖森卓也『日本語史大全』の目次」 ([2018-08-07-1]) を参照.ノードを開閉できるバージョンはこちらからどうぞ.
これまで英語史に隣接する○○史の分野に関して,教科書的な図書の目次をいくつか掲げてきた.「#3430. 『物語 イギリスの歴史(上下巻)』の目次」 ([2018-09-17-1]),「#3555. 『コンプトン 英国史・英文学史』の「英国史」の目次」 ([2019-01-20-1]),「#3556. 『コンプトン 英国史・英文学史』の「英文学史」の目次」 ([2019-01-21-1]),「#3567. 『イギリス文学史入門』の目次」 ([2019-02-01-1]),「#3828. 『図説フランスの歴史』の目次」 ([2019-10-20-1]) などである.
より大きな視点から世界史の目次も挙げておきたいと思ったので『もういちど読む山川世界史』を手に取った.歴史をわしづかみするには,よくできた教科書の目次が最適.ノードを開閉できるバージョンはこちらからどうぞ.
4年ほど前に「#2505. 日本でも弥生時代に漢字が知られていた」 ([2016-03-06-1]) という記事を書いたが,つい先日,ネットニュースと新聞から関連する新情報が入ってきた.2月3日の朝日新聞朝刊3面の「弥生時代の石製品に最古の文字?」という記事の冒頭を紹介しよう.
松江市の田和山遺跡でみつかった弥生時代中期後半(紀元前後)ごろの石製品に,文字(漢字)が墨で書かれていた可能性があると,福岡市の研究者が明らかにした.国内で書かれた文字とすれば国内最古の例となる.一方,赤外線撮影では墨書を確認できなかったことなどから慎重な意見もあり,議論を呼んでいる.
先のブログ記事に書いた4年前の状況は,あくまで硯という書記用の道具が発見されたにとどまり,日本における主体的な文字使用の強い証拠とまでは認められなかった.一方,今回の発見は,硯らしき道具に文字が書かれていた可能性を示唆する点で,日本の主体的な文字使用の開始年代に関する議論に一石を投じるものとなった.証明されれば,弥生時代の中期後半(紀元前後)に日本における漢字使用があったということになる.
問題の硯らしきものに書かれている文字は「子」とも「戊」とも「戌」とも読み得るもののようだが,公開されている画像からは明確なことはほとんど確認できない.識者のあいだで慎重論も強いようである.
日本語話者の誇りとして,少しでも早い時期に日本に文字使用の実践があったことが証明されれば,それは嬉しい.しかし,何よりも事実そのものを解明することが重要である.もし今回の発見が文字使用の年代を早めることになっても,ならなくても,事実が明らかになればよいと思う.
関連して「#3486. 固有の文字を発明しなかったとしても……」 ([2018-11-12-1]) を参照.加えて「#3138. 漢字の伝来と使用の年代」 ([2017-11-29-1]) や「#3545. 文化の受容の3条件と文字の受容」 ([2019-01-10-1]) も一読を.
この2日間の記事 ([2019-12-26-1], [2019-12-27-1]) で「歴史の if」について考えてみた.反実仮想に基づいた歴史の呼び方の1つとして alternative history があるが,この表現を聞いて思い出すのは,著名な社会言語学者たちによって書かれた英語史の本 Alternative Histories of English である.
この本は,実際のところ,反実仮想に基づいたフィクションの英語史書というわけではない.むしろ,事実の記述に基づいた堅実な英語史記述である.ただし,現在広く流通している,いわゆる標準英語のメイキングに注目する「正統派」の英語史に対して,各種の非標準英語,すなわち "Englishes" の歴史に光を当てるという趣旨での「もう1つの歴史」というわけである.
しかし,本書は(過去ではないが)未来に関するある空想に支えられているという点で,反実仮想と近接する部分が確かにある.このことは,2人の編者 Watts and Trudgill が執筆した "In the year 2525" と題する序論にて確認できる.以下に引用しよう.
If the whole point of a history of English were, as it sometimes appears, to glorify the achievement of (standard) English in the present, then what will speakers in the year 2525 have to say about our current textbooks? We would like to suggest that orthodox histories of English have presented a kind of tunnel vision version of how and why the language achieved its present form with no consideration of the rich diversity and variety of the language or any appreciation of what might happen in the future. Just as we look back at the multivariate nature of Old English, which also included a written, somewhat standardised form, so too might the observer 525 years hence look back and see twentieth century Standard English English as being a variety of peculiarly little importance, just as we can now see that the English of King Alfred was a standard form that was in no way the forerunner of what we choose to call Standard English today.
There is no reason why we should not, in writing histories of English, begin to take this perspective now rather than wait until 2525. Indeed, we argue that most histories of English have not added at all to the sum of our knowledge about the history of non-standard varieties of English --- i.e. the majority --- since the late Middle English period. It is one of our intentions that this book should help to begin to put that balance right. (1--2)
正統派に属する伝統的な英語史の偏狭な見方を批判した,傾聴に値する文章である."alternative history" は,この2日間で論じてきたように,原因探求に効果を発揮するだけでなく,広く流通している歴史(観)を相対化するという点でも重要な役割を果たしてくれるだろう.
本書の出版は2002年だが,それ以降,英語の非標準的な変種や側面に注目する視点は着実に育ってきている.関連して「#1991. 歴史語用論の発展の背景にある言語学の "paradigm shift"」 ([2014-10-09-1]) の記事も参照されたい.なお,このような視点を英語史に適用する試みは,いまだ多くないのが現状である.
・ Watts, Richard and Peter Trudgill, eds. Alternative Histories of English. Abingdon: Routledge, 2002.
昨日の記事 ([2019-12-26-1]) に引き続いての話題.赤上 (64) によれば,「もしもあの時――」という反実仮想の思考法は,英語では様々な呼び方があるという.'what if?' history, alternative history, counterfactual history, allohistory などである(一方 alternate history は一般的にはフィクションを指す).
「歴史の if」は学術的方法論としても提案されている.その分野の第一人者がイギリスの歴史学者 Niall Ferguson である.Ferguson は1997年の編著 Virtual History の序章において,次のように述べている(赤上,p. 165 の訳より).
われわれは,妥当性を持つと判断する「ありえたかもしれない歴史」を絞り込むことによって――つまり,「可能性 (chance)」という得体の知れないものを,蓋然性 (probabilities) の判断へと発想を転換させることによって――,「唯一の決定論的な過去」と「扱いづらいほどに無数に存在する反実仮想」という究極の選択を回避できる.つまり,反実仮想のシナリオは,単なるファンタジィではなく,シミュレーションでなければならない.複雑化する世界においてわれわれは,実際には起こらなかったが,起こってもおかしくなかった出来事の相対的確率を算出しようと試みる(「仮想歴史 (virtual history)」と命名した所以である).
「もうひとつの歴史」の相対的確率を算出するのに Ferguson の提案した手法が,「もしも○○がなかったら」 ('but for' questions) という問いかけである.これにより「もうひとつの歴史」の因果関係や論理的必然性が確保されているかを判断しようとした(赤上,p. 166).「もしも○○がなかったら」という問いは,あくまで手段であり目的ではないことに注意したい.目的は「もうひとつの歴史」の相対的確率を得ることである.
もちろんこの手法によって因果関係を探るにあたっては,難しい問題が立ちはだかる.1つには「説明すべき結果の範囲をどう設定するかによって,原因の重要度が変わってしまう」という問題がある(赤上,p. 28).2つめに「説明すべき結果の範囲が広くなるほど,学術的な根拠が乏しくなる」という問題がある(赤上,p. 29).端的にいえば「もしもあの時○○がなかったら,その翌日/1世紀後にはどんな世の中になっていただろうか」という問いに対して,翌日の場合か1世紀後の場合かで,○○の原因としての重要度も信用度も異なるにちがいない,ということだ
このような方法論上の問題にも注意しつつ,これからは授業などに「歴史の if」をもっと持ち込んでみようか,などと思案する年の瀬である.
・ 赤上 裕幸 『「もしもあの時」の社会学』 筑摩書房〈ちくま選書〉,2018年.
昨日の記事「#3894. 「英語復権にプラス・マイナスに貢献した要因」の議論がおもしろかった」 ([2019-12-25-1]) で,(英語の)歴史の理解を深めるのに「歴史の if」を議論することが有益であると指摘した.
従来,歴史学では「歴史の if」は禁物とされてきた.実際に起こったことを根拠として記述するというのが歴史学の大前提であり,妄想は控えなければならないというのが原則だからだ.「もしあのとき○○だったら今頃××になっていたかもしれない」などという「未練学派」 ('might-have-been' school of thought) に居場所はないという態度だ.
しかし,歴史学からも「歴史の if」の重要性を指摘する声が上がってきている.2018年に『「もしもあの時」の社会学』を著わした赤上 (27) は,序章「歴史に if は禁物と言われるけれど」のなかで,次のように述べている.
しばしば「歴史の if」は歴史の原因を探求する時に用いられる.歴史上の出来事は一度しか起こらないので,反実仮想は因果関係の推定を可能にしてくれる有効な方法なのだ.カーが『歴史とは何か』で指摘したように,「歴史の研究は原因の研究」であるならば,歴史家も無意識のうちに反実仮想の思考を行なっていることになる.たとえば,「Aが原因でBが起きた」と考える場合,それは「もしAが起こらなかったら,Bは起こらなかったであろう(あるいは,違った形で起こったであろう)」ということを意味する.そこでは「もしAが起こらなかったら,Bは起こったであろう」とか「Aが起こったのに,Bは起こらなかった」という状態は否定される.
厳密に言えば,原因の判定とは「必要原因(必要条件)」を明らかにし,その重要度を決めることだ.「必要原因」とは,それがなかったならば,ある特定の結果が起こりえなかった原因のことを指す.ある一つの原因に関し,ありえたかもしれない複数の結果と,実際に起こった結果を比べたときに,違いが大きければ大きいほど,その原因の重要度は高いと言える.このようにして,複数の原因を俎上に載せて検討することで,どれが「必要原因」かを特定できると考えられる.
さらに次のようにも主張している.
「歴史の if」というと,「クレオパトラの鼻」のような,風が吹けば桶屋が儲かる式の発想を思い浮かべる人が多いかもしれないが,それは誤解である.〔中略〕実際に起こった出来事の原因や因果関係を明らかにする作業は重要だが,それが全てではない.「歴史の if」に着目することは,当時の人々が想像した「未来」 (= imagined futures) にわれわれの関心を導くという点で重要なのだ.本書では,反実仮想の定義を,一般的に用いられているよりも少し広く捉え,歴史の当事者たちが思い描いた未来像,すなわち「歴史のなかの未来」を検討対象に加えることを提唱したい.こうした視点こそ,二〇世紀末から二一世紀にかけて登場してきた反実仮想研究が取り組もうとしている新機軸なのだ. (32--33)
史実以外にもありえた可能性に思いを巡らせる反実仮想は,想像力を触発して,歴史のなかの「敗者」を救済する唯一の方法である.歴史上には,偶然の要素によって結果が大きく左右された出来事,つまり,もう一度歴史をやり直すことができたとしたら結果が入れ替わってしまうような出来事も少なくない.当時の人々の期待や不安,満たされなかった願望,実現しなかった数々の計画なども,それらが後世に引き継がれていない場合は,歴史のなかの「敗者」と言えるだろう. (50)
「歴史の if」は,過去の出来事をアクチュアル化してとらえることを促してくれる.もっと重視してもよい視点だと思う.
・ 赤上 裕幸 『「もしもあの時」の社会学』 筑摩書房〈ちくま選書〉,2018年.
今学期の英語学演習の授業では,英語史の古典的名著の1つ Baugh and Cable を読みつつ,グループでの議論を繰り広げてきた.とりわけ議論として盛り上がって楽しかったのは,ノルマン征服によって地下に潜った英語が13世紀以降徐々に復権していく過程にあって,英語の復権に最も貢献したのは具体的にどの事件・出来事・潮流だったと考えるかというディスカッションである.
Baugh and Cable の6章 "The Reestablishment of English, 1200--1500" を読んでいたところで,以下の節のタイトルを「英語復権にプラス・マイナスに貢献した要因」として掲げ,みなで各要因の効き具合を議論した上で,最強の要因を決定するという趣旨だった.様々な意見が出て,なかなかおもしろかった.
94. The Loss of Normandy
95. Separation of the French and English Nobility
96. French Reinforcements
97. The Reaction against Foreigners and the Growth of National Feeling
98. French Cultural Ascendancy in Europe
100. Attempts to Arrest the Decline of French
101. Provincial Character of French in England
102. The Hundred Years' War
103. The Rise of the Middle Class
英語の復権にプラスに作用した要因としては 94, 95, 97, 101, 102, 103 が挙げられ,議論の対象となった.一方,英語の復権にマイナスに働いた要因(あるいは相対的にフランス語の威信の高揚に作用した要因)としては 96, 98, 100 が指摘された.「#3096. 中英語期,英語の復権は徐ろに」 ([2017-10-18-1]) でも取り上げたようにこの評価はもっともなのだが,そこに様々な意見が飛び交うのがおもしろい.
たとえば,「96. French Reinforcements」では,Henry III がフランス人とフランス語を重用し,相対的に英語を軽視したという記述がみられるが,「#2567. 13世紀のイングランド人と英語の結びつき」 ([2016-05-07-1]) でも述べたように,むしろその後の反動「98. French Cultural Ascendancy in Europe」を考えれば,英語復権のための呼び水になったともいえ,間接的には英語復権にとってプラスに作用したと穿った解釈をすることもできる.
また,2歩進んで1歩下がるかのような数世紀にわたる緩慢な英語復権の歩みに関して,一連の要因の皮切りである「94. The Loss of Normandy」が起こらなかったなら,そもそも英語の復権が緒に就くことはなかったという点で,これこそが最重要という見方が出た一方で,むしろ一連の要因の締めくくりである「102. The Hundred Years' War」が最重要という意見も飛び出した.さらに,地味ではあるが「103. The Rise of the Middle Class」が決定的ではないかという見解も出た.参加者それぞれが一家言もっているようで,実に実りある議論となった.
各要因の効き具合を検討するということは,その要因がなかったら英語の復権はならなかった(あるいは遅れた)のではないかという可能性を考察するということであり,すなわち「歴史の if」のシミュレーションでもある.しばしば妄想が入り込むにせよ,英語史においても「歴史の if」の思考実験は必要であると実感した.
「歴史の if」については「#3097. ヤツメウナギがいなかったら英語の復権は遅くなっていたか,早くなっていたか」 ([2017-10-19-1]),「#3108. ノルマン征服がなかったら,英語は・・・?」 ([2017-10-30-1]) の記事も参照.
・ Baugh, Albert C. and Thomas Cable. A History of the English Language. 6th ed. London: Routledge, 2013.
昨日の記事「#3861. 「モンゴルの大征服」と「アラブの大征服」の文字史上の意義の違い」 ([2019-11-22-1]) に引き続き,文字史の観点から世界史を描いた鈴木 (73--75) より,今回は「アレクサンドロスの大征服」の意義について触れられている箇所を引用する.
アレクサンドロスの遠征はしばしば「空前の大遠征」といわれ,その帝国も「空前の世界帝国」といわれる.
確かにマケドニア,ギリシア側からみれば「空前の世界帝国」かもしれないが,ペルシア側からみれば,アケメネス朝ペルシア帝国の版図にわずかにマケドニアとギリシアが加わったに過ぎない.この「大征服」の眼目は,まさに「小が大を呑んだ」ことになるのである
....
〔中略〕
....
さて,アレクサンドロスの東征の「成果」についても,この大遠征がヘレニズムの文明を生み出し,征服地でギリシア文明が普及し,その影響はさらに遥か東方まで及んだとされている.
確かにアレクサンドロスの帝国内では,いくつものアレクサンドリアをはじめ,多くのギリシア風都市が建設され,ギリシア的要素をもつ文化が生まれ,少なくとも一時期はギリシア語も痕跡を残した.また東西が融合した文化が生まれ,とりわけ西方で一時代をなしたのも事実である.
ここで我々の「文化」と「文明」の概念に照らしてみれば,「文化」のうえでは東方に確かに刻印を残した.しかしその影響が持続し,定着したとはいいがたいのではないか.
「文明」についてみれば,後代のギリシア・ローマ世界の人間の目,また「ヘレニズム」の概念を創案した一九世紀西欧人の目をもってすると,ギリシアの「文明」が東方に大きな影響を与え,大きな発展に役立ったとみえたかもしれない.
だがそれは,ギリシアの「文明」が東方の「文明」に対し遥かに高いものであるとの固定観念によるところが大であったように思える.実際には,希臘文明の「東漸」もさることながら,東方文明の「西漸」こそ,問題とされるべきではなかろうか.
「アレクサンドロスの大征服」により東方でも一時的にギリシア語のコイネーがリンガ・フランカとして機能したことは事実だが,その後代への影響がどれだけ持続したかという観点からみると,その意義は言われているほど著しいものではない,という評価である.
昨日の記事で取り上げた2つの征服と合わせて考えると,文字・言語史上の意義という点に関しては,「アラブの大征服」>「アレクサンドロスの大征服」>「モンゴルの大征服」ということになろうか.
・ 鈴木 董 『文字と組織の世界史 新しい「比較文明史」のスケッチ』 山川出版社,2018年.
鈴木 (149) が標題の2つの世界史上の大征服を比較し,次のように評している.
七世紀中葉から八世紀中葉の一世紀間に進行した「アラブの大征服」では,その征服地中,イベリアを除く殆どすべてが,一四〇〇年余をへた今日でもイスラム圏に属し,少なくとも一九〇〇年頃まではそのすべてが「アラビア文字圏」にとどまった.それに対してモンゴル帝国の場合は,モンゴル語も,またモンゴル文字も定着せず,モンゴル文化も,極めて断片的にしか痕跡が認められない.このこともまた,念頭におく必要があろう.
確かに「モンゴルの大征服」は,その覆った空間としては,まさに世界史上最大の征服活動であった.しかし,この活動はモンゴル人の機動力と瞬発力という軍事的「比較優位」により「津波」のように広がりはしたが,その支配は各地域の在地のシステムの上にのったものであり,定着化しうる「支配組織」を形成するには至らなかったし,また文化的側面においても,浸透し同化させていくだけの文化的核をつくり出せなかったのではあるまいか.
別の箇所 (74) でも,同趣旨の主張がなされている.
「モンゴルの大征服」とちがうところは,「アラブの大征服」で征服された空間のうち,のちにキリスト教徒のレコンキスタで奪回されたイベリア半島を除けば,ほぼすべてがムスリム(イスラム教徒)の支配下に残ったことである.そこではイスラムが定着し,その聖典『コーラン』のことばであるアラビア語が共通の文化・文明語として受容され,その文字たるアラビア文字が,母語を異にする人々にも受容された.さらにモロッコからシリアにいたるローマ帝国の南半では,住民の大多数がアラビア語を母語として受けいれ,アラブ圏の中核地域になりさえしたのである.
2つの大征服(およびその他の世界史上の大征服)は様々な観点から比較し得るが,文字史の観点からみると,確かに著しい違いがみられる.実際には文字のみならず言語,宗教,民族などの要素が絡み合わざるを得ない複合的な観点というべきだが,「文字」は2つの大征服を読み解くための鮮やかな補助線となっているように思われる.
・ 鈴木 董 『文字と組織の世界史 新しい「比較文明史」のスケッチ』 山川出版社,2018年.
出口治明の『「全世界史」講義 I 古代・中世編』を読んでいて,「#3603. 帝国主義,水族館,辞書」 ([2019-03-09-1]),「#3767. 日本の帝国主義,アイヌ,拓殖博覧会」 ([2019-08-20-1]) で取り上げた話題と同趣旨の言及をみつけた.帝国というものは,世界中の生き物の収集に凝るのと同様に,(過去の)言葉の収集にも凝るものだという内容だ.
世界最古のシュメールの都市国家群を滅ぼして,メソポタミア地方全域からアナトリア半島西部まで遠征したのが,アッカド王サルゴンでした.メソポタミアで初の統一国家,アッカド帝国が出現したのです.BC二三三四年のことでした.
アッカドは史上初の帝国となりました.なお本書では,複数の異なる言語を話す民族を統合した政権を,慣用に従って帝国と呼びます.アッカドとシュメールは南北に隣同士ですが,言語も民族も異なっていました.
帝国にとって何が必要かといえば,共通語です.これがないと国の統一ができません.ここでリンガ・フランカ(共通語)という概念が出てきます.こうしてアッカド語が,人類最初の共通語になりました.
さて,サルゴンは,当時の最先進地域を統一しただけに,多くのエピソードを残しています.粘土板の記述によると,サルゴンは世界で初めて動物園をつくり,そこにはインダス川の水牛もいたそうです.なぜ動物園をつくったのかについては,次のように考えられています.
言語が異なる民族を征服して,統一帝国をつくったということは,すべての人間を支配したことを意味します.すべての人間を支配すると,次はすべての生き物を支配しようと思い立ち,動物園をつくる.さらに進むと過去もすべて支配したいと思い,文物の収集へと至ります.アッシリア王は大図書館をつくり,中国・清の康煕帝は『康煕字典』という空前の大漢字辞書をつくる.ナポレオンのルーブルや大英帝国の大英博物館も,すべて同様の意志から生まれています.サルゴンは,まさにその先鞭をつけたのです.(32)
収集は支配の証ということか.すると,収集癖は支配マニアということになる.その考え方によると,ある言語の単語を収集し,整理し,提示することを目的とする辞書学 (lexicography) は,言語(とそれを用いる人々)を支配する方法を追究する分野ということになる!?
・ 出口 治明 『「全世界史」講義 I 古代・中世編』 新潮社,2016年.
英語史関連の年表を眺めていると,たいてい標記の Whitby の宗教会議 (Synod of Whitby) が項目として挙げられている(以下の記事の年表を参照).
・ 「#1419. 橋本版,英語史略年表」 ([2013-03-16-1])
・ 「#2526. 古英語と中英語の文学史年表」 ([2016-03-27-1])
・ 「#2562. Mugglestone (編)の英語史年表」 ([2016-05-02-1])
・ 「#2871. 古英語期のスライド年表」 ([2017-03-07-1])
・ 「#3193. 古英語期の主要な出来事の年表」 ([2018-01-23-1])
・ 「#3624. 安藤貞雄『英語史入門』の英語史年表」 ([2019-03-30-1])
この宗教会議は,どのような会議だったのか.『英米史辞典』 によると次の通りである.
Whitby, Synod of 〔英〕 ホイットビー教会会議 663/664年,ノーサンブリア (Northumbria) 王オズウィ (Oswy) により,領内のホイットビー(現在はノース・ヨークシャーの沿岸都市)で,宗教問題解決のために開かれた会議.ノーサンブリアではケルト教会 (Celtic Church) 系のキリスト教会が先に広まり,遅れてローマ教会系のキリスト教が伝わったが,それとともに,両者の軋轢が強まった.特に,復活祭 (Easter) の日取りそのほかをめぐって対立が目立つようになり,ノーサンブリア教会としてはどちらの教会のしきたりを採用するべきかを決定する必要に迫られた.その結果,この会議が招集され,ケルト教会側はリンディスファーン (Lindisfarne) 司教コールマン (Coleman),ローマ教会側はウィルフリッド (Wilfrid) が代表となって論戦を展開したが,結局,オズウィの支持により,ローマ教会方式の採用が決定した.これを機に,ケルト教会が有力であったアングロ・サクソン諸国もノーサンブリアの例にならい,8世紀中にはウェールズ・スコットランド・アイルランドの教会もローマ教会を受け入れた.この会議は,ブリテン島やアイルランドのキリスト教がローマ教会により統一され,ヨーロッパ大陸の教会と一体化する契機を作った.
Whitby の宗教会議の歴史的な意義は,引用の最後にも述べられているとおり,ブリテン諸島を大陸側へグイッと引きつけた点にある.これを契機に,北方の海・島の文化圏が南方の大陸の文化圏へ接近することになった.664年とは,ブリテン諸島がある意味で北から南へと旋回した象徴的な年なのである.それからほぼ400年後,1066年のノルマン征服により,その北から南への旋回はスピードを増すことになった.
英語史の観点から考えてみよう.ノルマン征服の英語史上の意義は,つとに知られている (cf. 「#2047. ノルマン征服の英語史上の意義」 ([2014-12-04-1]),「#3107. 「ノルマン征服と英語」のまとめスライド」 ([2017-10-29-1])) .端的にいえば,フランス語(およびラテン語)からの影響が強まったということだ.これは言語学的な意味での「北から南への旋回」である.しかし,その旋回の下準備として4世紀前の Whitby の宗教会議があったと解釈すると,俄然この会議の存在が重くみえてくる.あくまで間接的な意義というべきものだが,英語史的にも象徴的な会議だったといえそうだ.
・ 松村 赳・富田 虎男 『英米史辞典』 研究社,2000年.
連日,鈴木董(著)『文字と組織の世界史』を参照している.鈴木 (52)は,5つの文字世界のうちの2つ,中国を中心とする漢字世界とインドを中心とする梵字世界が,対照的な歴史をたどってきたことを指摘している.漢字世界では秦の始皇帝により書体の統一がなされ,後代にも大きな影響があったが,梵字世界ではむしろ地域ごとに書体が多様化していったという事実だ.
始皇帝は集権的支配組織の祖型を創出しただけでなく,貨幣と度量衡のみならず,甲骨文字から金文をへて篆書へと発展してきたが,長い政治的分裂のなかで多様化しつつあった漢字の書体をも統一し,そのうえでより書きやすい実務用の隷書が生まれた.
始皇帝による漢字の統一は,その後さらなる書体の変化と文化を伴いながらも後代にまで保たれ,共通の諸書体の漢字が周辺諸社会へと普及し受容されていくなかで「漢字世界」が形成されていった.これはブラフミー文字を起源としながら,このような政治的統一の下での書体の統一をみなかったインドを中心とする「梵字世界」において,非常に異なる書体が地域ごとに分立したのとは好対照をなした.
この中国とインドの文字のあり方に関する差異について,鈴木 (53--54) は,異文化世界をも視野に入れた世界秩序観の有無という点に帰しているようだ.これは,統一された文字の強力な政治的ポテンシャルに気付いていたか否かという違いにも近いように思われる.
〔前略〕中国においては,春秋戦国時代にみられた.同文化世界としての「華」のなかにおける「敵国(対等の政治単位)」間の「盟」を中心とする政治体間の関係のイメージは失われ,華と夷の非対等の関係に基礎をおく「華夷秩序観」が定着していった.これも,同文化世界内では分裂が常態化した「梵字世界」の中心をなすインドでは,同文化世界内での政治体間の関係に関心が集中し,異文化世界の政治体との関係についての体系的な世界秩序観が欠落しているかにみえるのとは,対照的であった.
・ 鈴木 董 『文字と組織の世界史 新しい「比較文明史」のスケッチ』 山川出版社,2018年.
Powered by WinChalow1.0rc4 based on chalow