『クロニック世界全史』 (246--47) に「無文字文化と文字文化」と題する興味深いコラムがあった.文化人類学では一般に,言語社会を文字社会と無文字社会に分類することが行なわれているが,この分類は単純にすぎるのではないかという.もう1つの軸として「歴史を必要とする」か否か,歴史叙述の意志をもつか否かというパラメータがあるのではないかと.以下,p. 247より長めに引用する.
歴史との関連でいえば,文字記録は歴史資料としてきわめて重要なものだが,人類史全体での文字使用の範囲からいっても,文字記録がのこっている度合いからいっても,文字記録のみによって探索できる歴史は限られている.考古学や民族〔原文ノママ〕学(物質文化・慣習・伝説や地名をはじめとする口頭伝承などの比較や民族植物学的研究)などの非文字資料にもとづく研究が求められる.文字を発明しあるいは採り入れて,出来事を文字によって記録することを必要とした,あるいはその意志をもった社会と,そうでなかった社会とは,歴史の相においてどのような違いを示すかが考えられなければならない.
出来事を文字を用いて記録する行為は,直接の経験をことばと文字をとおして意識化し,固定して,のちの時代に伝える意志をもつことを意味する.文字記録が,口頭伝承をはじめ生きた人間によって世代から世代へ受けつがれていく伝承と著しく異なるのは,出来事を外在化し固定する行為においてであるといえる.文字が図像のなかでも特別の意味をもっているのは,言語をとおして高度に分節化されたメッセージを「しるす」ことができるからである.
出来事を文字に「しるす」社会が,時の流れのなかに変化を刻み,変化がもたらすものを蓄積していこうとする意志をもっているのにたいし,伝承的社会,つまり集合的な仕来りを重んじる社会は,新しく起こった出来事も仕来りのなかに包みこみ,変化を極小化する傾向をもつといえる.このような伝承的社会は,日本をはじめいわゆる文字社会のなかでも無も時的な層としてひろく存在しており,これまで民俗学者の研究対象となってきた.
従来,多くの歴史学者が出来事の文字記録の誕生に歴史の発生を結びあわせ,アフリカ,オセアニアなど文字記録を生まなかった社会を「歴史のない」社会とみなしてきたのも,経験を意識化し,過去を対象化する意志に歴史意識の発生をみたからだろう.しかしこのような見方は,正しさを含んではいるが,あまりに一面的である.文字記録のない社会でも,王制をもつ社会のように,口頭伝承や太鼓による王朝史などの歴史語りを生んできた社会は,それなりに「歴史を必要とした」社会である.そして,そのような権力者が現在との関係で過去を意識化し,正当化して広報する必要のある社会では,王宮付きの伝承者や太鼓ことばを打つ楽師によって,文字記録に比べられる長い歴史語りの「テキスト」が作られ,伝えられてきた.
そのような過去との緊張ある対話を必要としない社会,つまり熱帯アフリカのピグミー(ムブティなど)や極北のエスキモー(イヌイットなど)のように,平等な小集団で狩猟・採集の遊動的な生活を営んできた社会は,無文字社会のなかでもまた「歴史を必要としなかった」社会ということができる.
このようにみてくると,文字社会,無文字社会という区別は絶対的なものではないことがわかる.いわゆる文字社会のなかにも無文字的な層があるのと同時に,無文字社会にも「歴史を必要とする」という限りで,文字社会と共通する部分があるのだから.このような二つの層,ないし部分は,時代とともに,すべてが文字性の側に吸収されていくのが望ましいとはいえない.人間のうちで,歴史とのつながりでいえば出来事を意識化して変化を生むことを志向する,文字性に発する部分と,「今までやってきたこと」のくりかえしに安定した価値を見いだす,無文字性に根ざす部分とは,あい補う関係で人類の社会をかたちづくってきたし,これからもかたちづくっていくだろう.
ここで述べられている,文字社会・無文字社会の区別と,歴史叙述の意志の有無という区別をかけ合わせると,次のような図式になるだろう.
「歴史を必要とする」社会 | 「歴史を必要としない」社会 | |
---|---|---|
文字社会 | (1) 従来の「文字社会」 | (2) 歴史を記さない文字社会 |
無文字社会 | (3) 口頭のみの歴史伝承をもつ社会 | (4) 従来の「無文字社会」 |
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