日本では新型インフルエンザが早くも猛威をふるっており,今年度の後期は注意を要する学期になりそうである.
流行病は世界中でいつの時代でも脅威であったが,14世紀中葉にヨーロッパを席巻したペスト被害である黒死病 ( Black Death ) は,当時のヨーロッパ社会にとって一大事件であった.様々な推計があるが,ヨーロッパの全人口の三分の一が死んだというからすさまじい.イングランドだけでも200万人が死んだとされ,1300年と1400年の時点での人口を比べると半減しているという.それ以前の西洋史において,黒死病ほど多くの人命を奪った出来事は,戦争や他の疫病を含めてためしがない.
このペストは,1347年に中央アジア方面からコンスタンティノープルに侵入してきたのち,地中海貿易経路をたどり,翌1348年にはイタリア,フランス,イングランドの南部に到達.続く1349年,1350年とかけて,ヨーロッパの内陸部や島嶼部の奥へも広がっていった(地図参照).
わずか数年という短期間でこれだけの人口が死んだわけであるから,人々の話す言語にも相応のインパクトがあった.イングランドでは,1066年のノルマン人の征服 ( Norman Conquest ) 以来,支配者の言語としてフランス語が優位にあった.農民を含めて庶民はみな英語話者であり,人口こそ多かったものの,英語の社会的地位はまだ低かった.ところが,14世紀に入ると,1337年に英仏百年戦争 ( Hundred Years' War ) が始まり,フランス語が敵対語になったこともあり,イングランドにおける英語の復権が徐々に始まっていた.そのタイミングで,黒死病が勃発したのである.
英語史における黒死病の意義は小さくない.疫病は襲う人を選ばないとはいうものの,劣悪な生活環境にある社会の底辺の人々や,逃げ場のない閉ざされた空間たる修道院などで特に猛威をふるった.労働者が激減したことによって,労働力の需要が高まり,それに応じて労働者の社会的地位も高まった.
もともと人口過密状態だったところでは,人口が減ることで庶民の生活条件が改善されたということもあった.だが,その恩恵にあずからない不満分子の農民たちが1381年に農民一揆 ( Peasants' Revolt ) を起こし,一般庶民の地位の向上をさらに訴えた.それに応じて,彼らの言語である英語の地位も着々と向上していった.
一方,当時,都市に集まって社会集団を形成していた職人たちの社会的地位も向上し,農民でも貴族でもない実力をもった中産階級が台頭することになった.このことも,英語の地位の向上に結びついた.1356年に地方裁判所の記録が初めて英語でとられ,続いて1362年に議会の開会宣言が初めて英語でなされたことは,英語の地位の向上を如実に物語っている.
さて,そもそも黒死病を引き起こしたペストのヨーロッパ上陸は,13世紀にシルクロードを通じて東西の交流が盛んになったことと関係する.ペストを保菌していたインド産のクマネズミ ( Rattus rattus ) が,おそらくは気候変動による食物連鎖の不順が原因で,インドを出て西進し,その菌がシルクロードを運ばれたという.
以下は戯れの if に過ぎないが,もしクマネズミが西進しなければ,ヨーロッパで黒死病は起こらなかったかもしれない.もし黒死病が起こらなければ,イングランドでの英語の復権はもっと遅れていたかもしれない.もし遅れていれば,場合によっては,英語は書き言葉として定着する機会を永遠に得られず,イングランド社会はフランス語優勢のまま進んだかもしれない.そうすると,後に英語はアメリカへ渡ることもなかったろうし,現在,世界語としての地位を確立していることもないだろう.そうすると,われわれ日本人が義務教育として英語を学ぶこともなかったろうし,このブログ自体も存在していないかもしれない・・・.
英語史を動かした(かもしれない)インドのクマネズミ,恐るべし.
下の絵を見てもらいたい.何に見えるだろうか?
ひまわり? 古代エジプト遺跡? ロケット?
答えはタコクラゲ・・・ではなく,英語史を揺るがした(と考えられなくもない)ハレー彗星 ( Halley's Comet ) である.昨日の日食の記事[2009-07-23-1]に引き続き,英語史にまつわる天体の話しをしてみたい.
上のハレー彗星の絵は,西洋美術史上,西洋史上,そして英語史上,非常に名高いバイユーのタペストリー ( Bayeux tapestry ) からとったものである.
このタペストリー(つづれ織り)は,49.5cm × 70m の非常に横に長い絵巻で,11世紀の歴史を活写する70コマ漫画とでもいうべきものである.英国史と英語史にとって前代未聞の大事件であるノルマン人の征服 ( Norman Conquest ) の経緯を詳細に描いた一級の史料である.
さて,ハレー彗星の現れる問題のコマ.
.
1066年4月24日にハレー彗星が現れたとされており,絵の左側の人々が右上の謎の天体を見上げてざわついている.不吉なことが起こるかもしれないと案じているのである.実際に,この約半年後,運命のヘイスティングズの戦い ( Battle of Hastings ) により,絵の右の王座についている Harold 2世がノルマンディー公 William に破れ,アングロサクソン王朝が終焉することとなった.William がイングランド王 William 1世として戴冠したのが,同年のクリスマス.これ以降数百年の間,ゲルマン系の言語である英語が,ロマンス系の言語であるフランス語の影響下に置かれることとなった.
英語がロマンス語色を強めてゆく方向が確定したのはどの時点だと考えるべきだろうか.王政史的には William が戴冠した1066年のクリスマスということになるのかもしれない.しかし,中世の人々と同様に占星術や予言に重きをおくのであれば,1066年4月24日とするのも一案かもしれない.来るべき擾乱を予告するハレー彗星が空に現れたまさにその日に英語史という物語の筋が決まった,と想像すると,「空飛ぶタコクラゲ」の存在感は意外と大きいのかもしれない.
以上,ハレー彗星に英語史上の意義を強引に見いだしてみたが,歴史は見方一つで面白くもなるし,詰まらなくもなると思う.あくまで参考までに.
ちなみに,このハレー彗星の描かれているコマは,Bayeux tapestry 中,私の一番好きなコマである.タコクラゲにしか見えない.
・ Martin K. Foys. The Bayeux Tapestry Digital Edition. Leicester: Scholarly Digital Editions 2003, 2003. CD-ROM.
・ おんどり刺しゅう研究グループによる,
バイユーのタペストリーの複製作品と解説が見られるサイト: http://www.asahi-net.or.jp/~CN2K-OOSG/tapestry.html
・ その他,Googleからbayeux tapestryで無数のオンラインコンテンツを取得可能
・ アングロサクソン時代の天文学については,一昨日公開されたこちらの記事(Podcastもあり)が興味深い: http://365daysofastronomy.org/2009/07/22/july-22nd-astronomy-in-anglo-saxon-england/
(後記 2013/03/10(Sat) Reading Museum による,Britain's Bayeux Tapestry at the Museum of Reading のページ: 詳しい解説のほか,スライド形式でタペストリーを鑑賞できる)
北海道・大雪山系のトムラウシ山での遭難事件が紙面を賑わしているが,記事の中でしきりに「ビバーク」という語が出てくる.寡聞にして初耳の単語だったが,登山用語で,予定外の露営・野宿を意味するという.英語では聞いたことがないし,何語だろうかと思ったが,すぐにドイツ語だろうと見当をつけた.ドイツ語風の音素配列 ( phonotactics ) だと直感したこともあるが,それ以上に,日本語の登山用語にはやたらとドイツ語が多いことを知っていたからである.ザイル,シュラフザック,ハーケン,ツェルトザック,ヒュッテ等々.
ところが,「ビバーク」はフランス語 bivouac から来ていると聞いた.予想外だなと思い,ここで初めて語源辞典を繰ってみると,このフランス単語自体がドイツ語スイス方言から借用されたものらしい.それで納得した.ドイツ語の対応する形態は Beiwache ( bei "by" + Wache "watch, guard" ) であり,そのスイス方言形がフランス語に取り込まれて bivouac へ変化したということのようだ.
30年戦争の頃に Zürich などで町役人の夜警を助ける市民の夜警を指して,"extra guard" ほどの意味で使われたらしいが,これが後にフランス語に入り,さらに後の18世紀初頭に英語へもそのまま bivouac として借用された(発音は /ˈbi:vuˌæk/ ).その後,「夜警」から「野営・露営」へと意味が発展し,現在の登山用語として定着した.
上記の通り,bivouac はゲルマン系たるドイツ語の一方言に起源があるわけだが,それがイタリック系のフランス語に借用され,さらにそこから英語へ借用された.この流れは,比較言語学的にはゲルマン系を標榜している英語にとって,皮肉とも言える流れである.というのは,本来のゲルマン系単語が,イタリック系言語を経由して,イタリック化した形態で英語に入ってきたということは,英語のゲルマン系言語としての性質が薄いことを示唆するからである.さらに皮肉なのは,英語には本来語の watch が歴として存在することだ.だが,いかにも借用語風の bivouac をみて watch と関連づけられる人はまずいないだろう.bivouac は「イタリック化されたゲルマン」を象徴する単語とみることができるのではないか.
もともと英語にあってもおかしくない語が,フランス語経由で英語の中に見いだされることになったという経緯は,歴史の偶然としても奥が深い.
ちなみに,watch 「夜警」に対応する動詞が wake 「目覚めている」であることは,[2009-06-16-1]の記事でも触れたので,復習しておきたい.
英語史における古ノルド語の意義は,およそ固まっているように思う.古くは Bradley 以来,無数の英語史の通史で語られてきたことである.要約すると次のようなことになるだろうか.
古ノルド語と古英語のあいだでは単語の語幹はほぼ共通だが,屈折語尾は大きく異なっていた.屈折語尾こそが両言語間のコミュニケーションの阻害要因だったのであり,それを簡略化することは,互いにとって利があった.古英語後期にすでに言語内的に始まっていた屈折語尾の消失傾向が中英語初期にかけて加速化したのは,他ならぬ古ノルド語との言語接触とそこで生じたコミュニケーション上の必要性ゆえである.英語史を総合的な言語から分析的な言語への移行の歴史と捉えるのであれば,英語史上に古ノルド語が果たした役割の大きさは計りしれない.
私もこの認識でいる.
英語史上の意義ということでもう一つ付け加えるのであれば,古ノルド語から1,000語近くの単語を借用したすぐ後の中英語の時代に,フランス語から10,000語近くの単語を借用したという事実を考えれば,古ノルド語との接触は,借用語から構成されているといっても過言ではない現代英語の語彙の特質が,後に顕著になっていくその前段階おいて,借用の「練習台」を提供したともいえる.もちろん「練習台」とは比喩的な言い方であり,後の歴史を予言しているかのような teleological なその響きは誤解を招くおそれがあることは承知している.しかし,英語史は歴史記述である以上,このような読み込みも一方では重要だし必要だと思っている.
英語史における古ノルド語といえば,上記の二点を常に想起していた.
ところが,先日,古ノルド語の英語への影響について授業で話しをしたときに,ある学生からこんな趣旨の反応があり,考えさせられた.
現代英語の学習者にとって学習を非常に容易にしてくれる「屈折の少なさ」が,古英語話者と古ノルド語話者のコミュニケーション上の要求の結果として,つまり共通語を確立しようとする営みの結果として生まれたことは,後に世界の共通語になってゆく英語の未来を暗示しているかのようだ.実際に,現代英語の「屈折の少なさ」はリンガ・フランカとしての英語の地位をかなり優位にしており,古ノルド語との接触に運命的なものを感じざるをえない.
現在,世界共通語の地位へ接近している英語と,約千年前に古ノルド語と融合し,両言語話者の共通語として簡略化しつつあった英語.千年の時をまたいで,英語の簡略化傾向という平行関係を指摘し,それを「運命的な」共通点であると見抜いた洞察に感銘を受けた.
この意見に問題点があることは確かだ.例えば,現代英語の「屈折の少なさ」が本当に英語のリンガ・フランカとしての地位を優位にしているのかどうかは,検証無しには受け入れられない.また,英語の言語変化を科学的に記述・説明する立場からすれば,「運命」という表現はあまりに teleological である.
しかし,先ほども述べたように,英語史という物語の語りにおいては,そこに通底する何らかのテーマを読み込むことは重要だし必要だと思う.そのテーマの一つの可能性として「異言語間コミュニケーションを可能にすべく発展してきた言語」という英語史観がありうるかもしれないなと思った.その立場を積極的に取るかどうかは別として,この学生の意見は,英語の未来が議論され始めてきた昨今にふさわしい非常に現代的な洞察だなと思った.
刺激的な意見をありがとう!
・Bradley, Henry. The Making of English. New York: Dover, 2006. New York: Macmillan, 1904.
5世紀,ブリトン人(ケルトの一派)が北方のピクト人・スコット人に対抗するために,大陸のゲルマン人に援助を求めた.そこで,アングル人 (Angles),サクソン人 (Saxons),ジュート人 (Jutes) が後に英語と呼ばれる言語を携えてブリテン島へやってきた.彼らは招待主であるブリトン人を排除し,自らの王国をブリテン島に樹立した.以上が,英語の始まりを告げる出来事である.
アングル人とサクソン人は "Anglo-Saxon" という語を通じ広く知られている.特にアングル人などは "England" や "English" という語そのものに貢献している.それに比べて,ジュート人は非常に影が薄い.彼らは,現在のデンマークのユトランドからやってきたとされる.ユトランドは,英語では "Jutland" 「ジュート人の地」と表記する(地図参照).
ジュート人は,ブリテン島では Kent,the Isle of Wight, そして一部 Hampshire に住み着いたようだ.
さて,比較的かげの薄いジュート人の名誉のために,彼らの果たした歴史的役割を紹介しておこう.古英語期に活躍した歴史家・神学者の Bede によれば,ブリトン人の王 Vortigern が援助を求めて大陸から呼び寄せたゲルマン人を統括していたのは Hengist と Horsa という名の兄弟であった.彼らの子孫が後にケント王国を治める王となったことから,この家系はジュート人だった可能性が高い.つまり,ブリテン島に英語が根付く最初の契機に関わったのは,ジュート人の首領だったというわけである.彼らがブリテン島への定住の先鞭をつけ,その後で,大陸に残っていたアングル人やサクソン人を含む親戚を,追加的にブリテン島へ呼び寄せたのである.
ジュート人の英語史上の意義,つまりブリテン島で英語を開始したという功績,は念頭に置いておきたい.
Powered by WinChalow1.0rc4 based on chalow