英語史において,英語アカデミー設立の提案と頓挫の繰り返しは特筆すべき出来事である.1582年にイタリアに設立された Accademia della Crusca,そして1635年にフランスに設立された Academie française を横目に,イギリスも16世紀後半より同様の組織の設立を目指していたが,17世紀の時代変化に振り回され,実現を阻まれていた.
最初に設立の気運が高まったのは,王政復古期である.1662年に Charles II の認許により Royal Society of London が設立され,1664年には英語を統制する組織が設置された.そこでは,「#3220. イングランド史上初の英語アカデミーもどきと Dryden の英語史上の評価」 ([2018-02-19-1]) でみたように,John Dryden (1631--1700) もさかんに発言した.
しかし,アカデミー設立の発想は,もう少し早く,共和制期の1650年代から,フランスの影響を受けてくすぶりだしていたようで,1660年には R. H. Squire なる人物が,New Atlantis . . . Continued と題する本のなかで具体的な提案を示している (Baugh and Cable 258--59) .Freeman によれば,R. H. Squire とは,グレゴリー式望遠鏡を初めて作った物理学者・化学者 Robert Hooke (1635--1703) のことだろうという.彼は,フランスのアカデミー設立の経緯もよく知っていたようだ.Freeman (296) よりその提案を引用しよう.
We have besides these in the Imperial City one Emminent Academy of selected wits: whose endeavours are to reform all errors in books, and then to licence them; to purifie our Native language from Barbarism or Solecism, to the height of Eloquence, by regulating the termes and phrases therof into constant use of the most significant words, proverbs, and phrases, and justly appropriating them either to the Lofty, mean, or Comic stile. These likewise translate the best Authors, and render them in their genuine sense to us very perspicuous: and make Dictionaries in all languages, wherein the proper terms of art for every notion and thing in every trade, manufacture and science is genuinely rendered and with its derivation very perspicuous.
We have also in each of the provinciall Cities (which have Universities) Free Schools for the attaining of the Languages, Singing, Dancing, Fencing, Riding, and writing, either by Brachugraphy, Hieroglyphic, or an Instrument we have made to write two copies at once, at one and the same motion, for dispatch. For all which we have public Governours and masters sit for each place respectively; chosen by the representative body of that Academie every three years. (pp. 42--44)
17世紀半ばに復活したアカデミー設立のアイディアの源流に,巨匠 Dryden を据え置きたい気持ちは分からないでもない.しかし,実際には Dryden に先立つ人物がいた,というのが Freeman 論文の主張である.Dryden が発言した1660年代までには,すでにアカデミーへ設立への関心は一般的なものとなっていたということだ.
英語アカデミー設立の歴史的話題としては,以下を含む academy の各記事を参照.
・ 「#2760. イタリアとフランスのアカデミーと,それに相当する Johnson の力」 ([2016-11-16-1])
・ 「#3220. イングランド史上初の英語アカデミーもどきと Dryden の英語史上の評価」 ([2018-02-19-1])
・ 「#2741. ascertaining, refining, fixing」 ([2016-10-28-1])
・ 「#2759. Swift によるアカデミー設立案が通らなかった理由」 ([2016-11-15-1])
・ 「#3086. アメリカの独立とアメリカ英語への思い」 ([2017-10-08-1])
・ 「#3395. 20世紀初頭に設立された英語アカデミーもどき」 ([2018-08-13-1])
・ Baugh, Albert C. and Thomas Cable. A History of the English Language. 6th ed. London: Routledge, 2013.
・ Freeman, Edmund. "A Proposal for an English Academy in 1660." The Modern Language Review (1924): 291--300.
『新日本文学史』に「文学の誕生」 (12) という文章がある.日本文学がいかにして誕生するに至ったかを説明する文脈ではあるが,おそらく日本文学に限らず一般に通用する説だろう.先にエッセンスを示しておくと,次のような流れで文学が誕生するという.
┌───────────────┐ │ 自然への畏怖 │ │ ↓ │ │ 神を祭る │ │ ↓ │ │ 神聖な詞章の発達 │ │ ↓ │ │ 詞章の自立・洗練 │ │ ↓ │ │ 歌謡・神話などの文学の誕生 │ └───────────────┘
日本列島にも,一万年以上前には先土器文化の時代があった.それから数千年を経て縄文時代に入ると,石器や土器などの生産用具を用いた採集生活が営まれるようになった.紀元前三から二世紀ころになると,弥生時代が始まり,水稲耕作の技術が伝来して,採集生活の時代に比べて生産力は一段と高められた.水稲耕作は,組織的な作業を必要とするので,定住化した集団生活がそこに営まれるようになった.共同体的社会が形成され,血縁関係によって結ばれる氏族集団がまとめ上げられていくのである.こうした氏族共同体は,独自の文化を生み出していったが,一方,生産力の上昇に伴ってしだいに統合され,やがていくつかの小国へと進展していった.
採集生活の時代から,人々は,外界の自然に対する畏怖の念をもち続けていた.その脅威からのがれ,生産の豊穣を祈念するため,そこにあらわれる超人間的な力を神として祭った.これが<祭り>の起源であり,共同体の安定は,こうした祭りによって維持されることとなった.祭りの場で語られる神聖な詞章(呪言や呪詞と呼ばれる)が,文学の原型である.これらの詞章は,日常の言語とは異なる,韻律やくり返しをもつ律文としての表現をもっていた.それはまた,祭りの場の音楽や舞踏とも一体化した,きわめて混沌とした表現であったと思われる.
しかし,共同体が統合され,小国からやがて統一国家が形成される過程の中で,祭りも統合され,その神聖な詞章もしだいに言語表現として自立・洗練されていった.それが文学の誕生であり,そこに生み出されたのがさまざまな歌謡や神話であった.
・ 秋山 虔,三好 行雄(編著) 『原色シグマ新日本文学史』 文英堂,2000年.
昨日の記事「#3593. アングロサクソンは本当にケルトを征服したのか?」 ([2019-02-27-1]) でみたように,Oppenheimer によると,紀元前のイングランド(とりわけ東部)に北西ヨーロッパ人の遺伝子を引き継ぐ人々が居住していた証拠があるという.一方,イングランド西部には南西ヨーロッパ人の遺伝子を引き継ぐ「ケルト系」住民がいたらしい.前者がゲルマン系の言語を話す人々だったかどうかの確証はないが,その可能性は否定できないというのが著者の立場だ.
もしその言語が英語(あるいは少なくとも英語に連なる言語)だったら,英語史はもとよりゲルマン語や印欧語の歴史記述も大きく書き換えられることになるだろう.また,ゲルマン語派の内部での英語の位置づけも,否応なしに変更を迫られるだろう.英語の起源と位置づけに関する Oppenheimer の仮説を聞いてみることにしよう (481--82) .
What about the possibility that English was spoken as some form closer to Norse or even a separate Germanic branch in one or both of these two Englands before the Anglo-Saxons arrived? I am sure this will be the most contentious aspect of my argument, but that does not deter me from suggesting it. The various academics I have quoted or cited on this issue are united on one aspect of the oldest recorded English, whether written in runes or Roman script. This is the strong, unexplained Norse influence, both culturally and linguistically, before the Vikings came on the scene. But the evidence against a Dark Ages root of English goes deeper than that. In terms of vocabulary, English is nowhere near any of the West Germanic languages it has traditionally been associated with. It actually roots closer to Scandinavian than to Beowulf, the earliest 'Old English' poem and probably written in the elite court of the Swedish Wuffing dynasty of East Anglia. One study suggests that, on this lexical evidence, English forms a fourth Germanic branch dating 'to before AD 350 and probably after 3600 BC'.
・ Oppenheimer, Stephen. The Origins of the British. 2006. London: Robinson, 2007.
昨日の記事「#3592. 文化の拡散を巡る migrationism と diffusionism」 ([2019-02-26-1]) の終わりで述べたように,アングロサクソンの文化や言語の定着は,伝統的にいわれるようにアングロサクソンによる移住・征服によるものだったのか (migrationism) ,あるいは大きな人口の置き換えを伴わない平和的な伝播によるものだったのか (diffusionism) という論争を取り上げよう.
伝統的な migrationism の仮説に対して,主として遺伝学の立場から異論を唱え,diffusionism を掲げた論客として Oppenheimer を紹介しよう.Oppenheimer は,5世紀のアングロサクソンの渡来によって先住のケルト人が一掃されたとする "wipe-out theory" を支持する遺伝学的な証拠はないという.むしろ,驚くべきことに,おそらく新石器時代から現代までの数千年間,ブリテン島の人口構成は,遺伝学的にみる限り,大きく変動していないという.
具体的にいえば,イングランド人の2/3は,最初に農業がもたらされるよりもずっと昔の段階で渡来した南西ヨーロッパ人の遺伝子を引き継いでいるという.一方,残りの1/3の大多数は,紀元前3000--1000年ほどの間に主にスカンディナヴィアからやってきた北西ヨーロッパ人に由来する.そして,おそらく前者がケルト系,後者がゲルマン系の文化と言語をもった人々に対応するだろうという.そして,この比率は,5世紀のアングロサクソン,8世紀のヴァイキング,11世紀のノルマンの渡来によって特に大きく変動することはなく,現代に連なっている(アングロサクソンの征服がイングランド人口にもたらした遺伝上の貢献は5%程度).
このことが意味するのは,アングロサクソンが渡来してきた5世紀はもとより,ローマ人が遠征してきた紀元前後よりも前に,場合にってはそこから3千年以上も遡った時代に,すでに「ケルトの素」と「ゲルマンの素」となる人々が,それぞれ大陸の南西部と北西部からブリテン(諸)島に入ってきていたのではないかということだ.そして,後者の話していた言語は,後の英語に発展するゲルマン系(とりわけ北ゲルマン系)の言語だったのではないかと.
この仮説を信じるならば,この島におけるケルトとゲルマンの共存の歴史は,5世紀のアングロサクソンの渡来に始まるのではなく,もっと古いということになる.5世紀のアングロサクソンの渡来は,すでに両者が共存生活に慣れていたところへ,新世代のアングロサクソンが加わった程度の出来事であり,そこに「征服」というような社会的な大変動があったわけではないということになる.
この仮説は,当然ながら英語史に関しても根本的な再考を促すことになろう.そもそも紀元前よりブリテン島の先住の言語の1つだったということになるからだ.
関連して「#2353. なぜアングロサクソン人はイングランドをかくも素早く征服し得たのか」 ([2015-10-06-1]),「#3094. 449年以前にもゲルマン人はイングランドに存在した」 ([2017-10-16-1]),「#3113. アングロサクソン人は本当にイングランドを素早く征服したのか?」 ([2017-11-04-1]) などの記事も参照.
・ Oppenheimer, Stephen. The Origins of the British. 2006. London: Robinson, 2007.
印欧祖語の故地と年代を巡る論争と,祖語から派生した諸言語がいかに東西南北へ拡散していったかという論争は,連動している.比較的広く受け入れられており,伝統的な説となっているの,Gimbutas によるクルガン文化仮説である(cf. 「#637. クルガン文化と印欧祖語」 ([2011-01-24-1])).大雑把にいえば,印欧祖語は紀元前4000年頃の南ロシアのステップ地帯に起源をもち,その後,各地への移住と征服により,先行する言語を次々と置き換えていったというシナリオである.
一方,Renfrew の仮説は,Gimbutas のものとは著しく異なる.印欧祖語は先の仮説よりも数千年ほど古く(分岐開始を紀元前6000--7500年とみている),故地はアナトリアであるという.そして,派生言語の拡散は,征服によるものというよりは,新しく開発された農業技術とともにあくまで文化的に伝播したと考えている(cf. 「#1117. 印欧祖語の故地は Anatolia か?」 ([2012-05-18-1]),「#1129. 印欧祖語の分岐は紀元前5800--7800年?」 ([2012-05-30-1])).
2つの仮説について派生言語の拡散様式の対立に注目すると,前者は migrationism,後者は diffusionism の立場をとっているとみなせる.これは,言語にかぎらず広く文化の拡散について考えられ得る2つの様式である.Oppenheimer (521, 15) より,それぞれの定義をみておこう.
migrationism
The view that major cultural changes in the past were caused by movements of people from one region to another carrying their culture with them. It has displaced the earlier and more warlike term invasionism, but is itself out of archaeological favour.
diffusionism
Cultural diffusion is the movement of cultural ideas and artefacts among societies . . . . The view that major cultural innovations in the past were initiated at a single time and place (e.g. Egypt), diffusing from one society to all others, is an extreme version of the general diffusionist view --- which is that, in general, diffusion of ideas such as farming is more likely than multiple independent innovations.
印欧諸語の拡散様式ついて上記の論争があるのと同様に,アングロサクソンのイングランド征服についても似たような論争がある.一般的にいわれる,アングロサクソンの征服によって先住民族ケルト人が(ほぼ完全に)征服されたという説を巡っての論争だ.これについては明日の記事で.
・ Oppenheimer, Stephen. The Origins of the British. 2006. London: Robinson, 2007.
現在,イギリスの通貨は十進法の pound (?)に基づいている.1 pound = 100 pence という関係になる.この貨幣制度になったのは比較的新しく,1971年のことである.それより前の時代には,ノルマン征服から続く 1 pound = 20 shillings = 240 pence という体系が用いられていた(さらに遡ったアングロサクソン時代の通貨単位は penny のみ).shilling(s) は s. として,penny/pence は古代ローマの銀貨 danarius/danarii に由来する d. として略記された.?4. 5 s. 6 d. (= four pounds five shillings six pence) の如くである.
さらに小さい単位として,farthing (= 1/4 penny) や half-farthing (= 1/8 penny) もあったが,1960年に廃止されている.
計算上の単位と実際の貨幣とは別物である.shilling は貨幣として鋳造されたのは Henry IV の治世下の1504年のことであり,それより前には計算上の単位にすぎなかった.計算上の単位といえば,中世・近世には mark もあった.1 mark = 2/3 pound = 13 s. 4. d という単位である.
このように歴史的には様々な貨幣単位があって複雑だったが,貨幣の種類そのものもヴァリエーションが豊富である.川北 (付録 68--67) より,主たるものを挙げてみよう.
グロート貨:13世紀以降用いられた4ペンス相当の貨幣.エリザベス1世時代には6ペンス貨に代えられた.のちにチャールズ2世が復活し,18世紀半ばまで流通した.19世紀前半にも一時復活した.
フロリン金貨:1337年に,エドワード3世によりフィレンツェの貨幣をモデルに造られた.価値は3シリング相当.フロリンの単位は,1849年に作られた2シリング相当の銀貨にも用いられた.
ノーブル金貨:1344年にエドワード3世がフロリン金貨に代えて作らせた.価値は6シリング8ペンス.のちには8シリング4ペンスの価値に変更.
エンジェル金貨:1465年に価値6シリング8ペンスの金貨として製造され,ノーブル貨に取って代わった.ステュアート朝初期まで製造され続けた.
ロイヤル金貨:14世紀にエドワード黒太子がアキテーヌで発行.イングランドでは1465年にエドワード4世が10シリングの価値の金貨として製造.1470年に製造が中止されたが,ヘンリ7世時代に一時復活した.
クラウン貨:価値5シリングの貨幣.初め1526年に金貨として登場.エドワード6世時代以降,金貨と銀貨の両方が造られた(のちには銀貨のみ).1902年以降は特別な記念の際にのみ製造される.ただし,半クラウン貨は1970年まで使用された.
ユナイト金貨:1604年,ジェイムズ1世によりイングランドとスコットランドの合同を記念して製造された.価値20シリング.
ギニー金貨:1663年に西アフリカのギニア産の金で製造され(価値20シリング),ユナイト金貨に取って代わった.その後すぐに価値21シリングに上がり,1694年には30シリングまで上昇したが,1717年に21シリングに固定.造幣は1813年に停止されたが,貨幣単位としてはその語も長く使用され続け,現在に至っている.とくに,不動産・車などの高額商品や月謝など儀礼的な意味をともなう時にまれに用いる.
ソヴリン金貨:1ポンドの価値.一般使用貨幣としては,1817年から1925年まで製造.同名の金貨は,1489年にヘンリ7世(価値20シリング)が鋳造しており,エドワード6世・メアリ1世・エリザベス1世時代にも価値30シリングの金貨として造られた.
・ 川北 稔(編) 『イギリス史』 山川出版社,1998年.
イギリス史の目次シリーズの一環として『コンプトン 英国史・英文学史』の「英国史」の部分に関する目次 (vii--ix) を掲げよう.『コンプトン』の英国史は,アメリカの百科全書 Compton's Encyclopedia (1987年版)所載の "England" 中の "History" の部分を翻訳したもので,短いながらもよく書かれたイギリス史の概説として勧められる.
もう1つのイギリス史の目次として「#3430. 『物語 イギリスの歴史(上下巻)』の目次」 ([2018-09-17-1]) も参照.
この数週間のうちに「#3478. 『図説イギリスの歴史』の年表」 ([2018-11-04-1]),「#3479. 『図説 イギリスの王室』の年表」 ([2018-11-05-1]),「#3487. 『物語 イギリスの歴史(上下巻)』の年表」 ([2018-11-13-1]) などイギリス史年表をいくつか掲げてきたが,ついでにもう1つ近藤和彦(著)『イギリス史10講』の年表を提示しよう(以下,pp. 2, 18, 42, 72, 114, 148, 176, 200, 248, 284 より).このイギリス史概説は,経済や文化にも目配りをし,日本史との関わりにも注意を払っている点で読み応えがある.年表中で [I] はアイルランド,[S] はスコットランド,[A] は北アメリカを指す.
今から10000年前(紀元前8000ころ) | このころまで氷期.ブリテン諸島はヨーロッパ大陸の大きな半島 |
紀元前6000 | このころまでに海水面が上昇し,現ブリテン諸島が出現 |
紀元前3000ころ | スカラ・ブレイなどオークニ島の遺跡群 |
紀元前2300ころ | ストーンヘンジの完成 |
紀元前1000ころ | ケルト系諸部族が広がる |
紀元前55 | カエサルのブリタニア侵攻 (--54) |
紀元後43 | クラウディウスのブリタニア征服 |
122 | ハドリアヌスの壁建設始まる;このころ「パクス・ローマーナ」 |
212 | ローマ帝国の全自由民に市民権 |
4世紀末 | ゲルマン諸部族の移住(--5世紀) |
461以前 | [I] 聖パトリックの布教 |
563 | [I, S] コルンバ,アイオナに修道院創設 |
570以前 | ギルダス『ブリタニアの破滅について』 |
597 | 聖アウグスティヌス,キャンタベリに教会建設 |
731 | ベーダ『イギリス人の教会史』,古英語に言及;このころアルクイン,フランク王国へ |
793 | ヴァイキングの襲撃,始まる |
871 | アルフレッド大王 (--899) |
959 | エドガ王 (--975) |
1016 | カヌート王 (--35) ,エマと再婚 |
1042 | エドワード証聖王 (--66) |
1066 | 1. ハロルド王.10. ヘイスティングズの戦いでギヨーム(ウィリアム)勝利;ウィリアム1世征服王 (--87),ノルマン建築,中期英語の始まり |
1069 | [S] マルカム3世,マーガレットと結婚 |
1135 | 王位を巡る内戦 (--54) |
1154 | ヘンリ2世 (-89),法と行政の整備,アイルランド遠征 |
1189 | リチャード1世獅子心王 (--99),第3回十字軍 |
1199 | ジョン欠地王 (--1216) |
1215 | マグナ・カルタ |
1216 | ヘンリ3世 (--72).尚書部,財務府が確立 |
1264 | シモン・ド・モンフォールの反乱 (--65) |
1272 | エドワード1世長脛王 (--1307) .この前後に「アーサ王と騎士の物語」写本 |
1276 | ウェールズ戦争 (--83) |
1296 | スコットランド独立戦争 (--1357) |
1327 | エドワード3世 (--77) |
1337 | フランスで百年戦争 (--1453) |
1348 | 黒死病猛威をふるう (--50) |
1381 | 人頭税,農民一揆(ウォト・タイラの乱) |
1400以前 | チョーサ『キャンタベリ物語』 |
1422 | ヘンリ6世 (--61, 70--71) |
1455 | バラ戦争 (--87) .このころフォーテスキュ『イングランドの統治』.このころイタリア・ルネサンス最盛期 |
1476 | キャクストン,ロンドンで活版印刷を開始.近世英語の始まり |
1485 | ヘンリ7世 (--1509),テューダ朝始まる |
1497 | カボット,ニューファンドランドへ |
1509 | ヘンリ8世 (--47) |
1517 | ルターの宗教改革始まる |
1519 | カール5世,神聖ローマ皇帝 (--56) |
1533 | 上訴禁止法にて主権国家宣言 |
1534 | 国王至上法にて国教会成立 |
1536 | ウェールズ合同法 (43にも) |
1538 | 教区登録法 |
1541 | アイルランド王位法 |
1542 | [S] メアリ・ステュアート (--67) |
1547 | エドワード6世 (--53) .まもなく共通祈祷書,信仰統一法 |
1533 | メアリ1世 (--58) 「血まみれメアリ」.まもなくフォックス『殉教者の書』 |
1558 | エリザベス1世 (--1603) .国教会の再確立.[S] このころノックスの宗教改革 |
1568 | ネーデルラント(オランダ)で独立戦争始まる |
1567 | [S] ジェイムズ6世 (--1625) |
1580 | ドレイクの世界周航 |
1588 | アルマダ海戦.ティルベリの演説 |
1594 | [I] アルスタの反乱 (--1603) |
1600 | ウィリアム・アダムズ九州に漂着,徳川家康に謁見.東インド会社設立.シェイクスピア『ハムレット』 |
1601 | 貧民対策法,チャリティ用益法 |
1603 | ジェイムズ1世 (--25),ステュアート朝始まる |
1607 | [I, A] プロテスタントのアルスタ植民,ヴァージニア植民 |
1611 | 『欽定訳聖書』完成し,全国の教会へ |
1613 | 東インド会社のセーリス,ぜめし帝王の親書をたずさえ家康に越権 |
1618 | 三十年戦争 (--48) |
1623 | アンボイナ事件,以後東・東南アジア貿易はオランダが独占 |
1625 | チャールズ1世 (--49) |
1638 | [S] 国民盟約.[I] ウェントワース総督「根こぎ」政策 |
1639 | 主教戦争(翌年,第2次主教戦争) |
1640 | 4. 短期議会.11. 長期議会 (--60) .「ピューリタン革命」開始 |
1641 | 5. ウェントワース(ストラフォード伯)処刑.10--. アイルランド「大虐殺」の報 |
1642 | 1. 王のクーデタ.8. 内戦始まる |
1643 | [S] 厳粛な同盟と盟約 |
1645 | ニューモデル軍編成 |
1647 | パトニ討論(軍の幹部と水平派の議論) |
1649 | 1. 特別法廷でチャールズ1世有罪,処刑.5. イングランド共和国.8. [I] クロムウェル,アイルランド出征 |
1651 | [S] エディンバラにて長老派,チャールズ2世の戴冠式.このころホッブズ『リヴァイアサン』 |
1652 | 対オランダ戦争 (74まで継続) |
1653 | 統治章典によりクロムウェルは護国卿,ブリテン諸島は単一の共和国に |
1660 | 王政復古(国教会,3王国も復活),チャールズ2世 (--85) |
1661 | フランスでルイ14世の親政 (--1715) |
1665 | ロンドンでペスト大流行.ロイアル・ソサエティ『学術紀要』創刊 |
1666 | ロンドン大火 |
1679 | このころから議会でトーリ・ホウィグが対立 |
1685 | ジェイムズ2世 (--88) .この年ルイ14世,ナント王令を廃し,ユグノ難民生じる |
1688 | 九年戦争(大同盟戦争,ファルツ継承戦争,--97).6. 王太子誕生,「名誉革命」はじまる.11. オラニエ公ウィレム上陸.12. ジェイムズ2世,亡命 |
1689 | 2. 権利の宣言,ウィリアム3世 (--1702) & メアリ2世 (--94) .寛容法.12. 権利の章典.ロック『統治二論』.[S] エディンバラにて権利の要求.名誉革命レジームの始まり.第二次百年戦争の開始 (1815まで継続) |
1690 | [I] ジェイムズ2世とウィリアム3世の会戦 |
1692 | [S] グレンコーの殺戮.最初の国債発行 |
1694 | イングランド銀行 |
1701 | 王位継承法.スペイン継承戦争 (--13) .キャラコ論争 |
1703 | メシュエン条約 |
1707 | イングランドとスコットランドの合同(グレートブリテン王国成立) |
1713 | ユトレヒト条約.このころから大西洋多角貿易の成長 |
1714 | ジョージ1世 (--27),ハノーヴァ朝始まる.ヴォルテールを援助 |
1715 | 騒擾法,老僭王とジャコバイトの反乱 |
1720 | 南海会社のバブル事件 |
1721 | ウォルポール首相 (--42) .このころデフォー,スウィフト,マンドヴィル,新聞雑誌,コーヒーハウスが活況を呈し,市民的公共圏が開花 |
1740 | オーストリア継承戦争 (--48) |
1745 | 若僭王とジャコバイトの反乱,翌年に惨敗 |
1754 | 工芸振興協会 |
1755 | ジョンソン『英語辞典』,近代英語の確定 |
1756 | 七年戦争 (--63) ,[A] 前年からフレンチ=インディアン戦争 |
1757 | インドでプラッシ会戦 |
1759 | ブリティシュ・ミュージアム開館.スミス『モラル感情論』 |
1760 | ジョージ3世 (--1820) |
1763 | パリ条約(北アメリカの領土を拡大).ロンドンでウィルクス事件 (--74) |
1765 | [A] 印紙税一揆 |
1771 | アークライトの水力紡績工場 |
1773 | [A] ボストン茶会事件.東インド会社規制法 |
1775 | [A] 13植民地の独立戦争 (--83) |
1776 | スミス『諸国民の富』,ギボン『ローマ帝国衰亡史』.ペイン『コモンセンス』 |
1778 | コールブルクデイルに鉄製の橋 |
1780 | このころGDP年成長率1%をこえる(産業革命の始動) |
1782 | [I] グラタン議会 |
1783 | パリ条約(合衆国独立の承認).ピット首相 (--1801, 04--06) |
1784 | ウォット,複動回転蒸気機関の特許 |
1786 | 英仏通商条約(イーデン条約) |
1789 | マンチェスタに蒸気力紡績工場.フランス革命 (-99) .ワシントン大統領 |
1791 | [I] ユナイテッド・アイリッシュメン |
1793 | 対フランス大同盟による戦争(1815まで断続) |
1799 | ネイサン・ロスチャイルド,マンチェスタに居住(1804にロンドンへ) |
1800 | アイルランド合同法により,翌年に連合王国成立 |
1802/03 | 綿製品がイギリス輸出品の第1位に |
1808 | 長崎でフェートン号事件(13より日本は「本国サラサ」を輸入) |
1814 | ウィーン会議 (--15) でナポレオン戦争処理.第二次百年戦争終結 |
1825 | 空前の好況,鉄道開通,年末に最初の恐慌.日本で「異国船打払令」 |
1826 | ロンドン大学 (UCL) 創立 |
1828 | 審査法・自治体法の廃止 |
1829 | カトリック解放法 |
1830 | 9. リヴァプール・マンチェスタ鉄道開通.11. グレイ首相 (--34) |
1832 | 選挙法改正 |
1834 | 貧民対策法改正(新救貧法).12. ピール首相 (--35, 41--46) |
1837 | ヴィクトリア女王 (--1901) |
1838 | 8. 人民憲章,チャーティスト運動.9. 穀物法反対教会(翌年,穀物法反対同盟) |
1840 | アヘン戦争 (--42) ,グラッドストンの反対演説 |
1845 | ディズレーリ『シビル――または2つの国民』 |
1846 | 穀物法撤廃,トーリ党分裂 |
1851 | 大博覧会(最初の万博).ロイター通信社設立.全国信教調査 |
1854 | クリミア戦争に参戦 (--56) |
1857 | インド大反乱 (--58) ,インド直接支配へ |
1860 | 英仏通商条約(コブデン条約).ナイティンゲールの看護婦養成学校 |
1862 | 文久の遣欧使節(福沢諭吉も随行)が渡英 |
1863 | サッカー規約.翌年にクリケット規約 |
1867 | 第2次選挙法改正.バジョット『イングランドの国政』.カナダ連邦 |
1868 | 2. ディズレーリ保守党首相 (--68, 74--80) .12. グラッドストン自由党首相 (--74, 80--85, 86, 92--94) |
1869 | スエズ運河開通 |
1870 | 初等教育法(80に就学義務化).国家公務員採用試験始まる |
1871 | 労働組合法 |
1872 | 岩倉使節団(久米邦武も随行)が渡英 |
1876 | 女王,インド皇帝を称する |
1884 | 第3次選挙法改正.フェビアン協会.セツルメント始まる |
1885 | インド国民会議結成 |
1886 | アイルランド自治法案,チェインバレンが自由党から分裂 |
1887 | 第1回植民地会議.「シャーロック・ホームズ」始まる |
1889 | キプリング East is East . . . |
1892 | ビアトリス・ポッタ,シドニ・ウェブと結婚 |
1899 | 南アフリカ戦争 (--1902) |
1900 | 夏目漱石,渡英 (--02) .チャーチル政界入り |
1901 | オーストラリア連邦.エドワード7世 (--10) .タフヴェイル裁判 |
1902 | 日英同盟 (--23) |
1903 | 「田園都市」の建設始まる |
1906 | 労働党,総選挙で29名当選 |
1907 | ニュージーランド自治国に |
1908 | アスクィス首相 (--16) .老齢年金法 |
1910 | ロイド=ジョージ財務相の人民予算.南アフリカ連邦 |
1912 | タイタニック号,処女航海で沈没 |
1914 | 第一次世界大戦 (--18) .アイルランド自治法成立,棚上げ |
1916 | イースタ蜂起.徴兵法.ロイド=ジョージ首相 (--22) |
1917 | ロシア革命.バルフォア宣言 |
1918 | 30歳以上の女性参政権 |
1919 | パリ講和会議.ヴェルサイユ条約.アムリトサル虐殺.インド統治法 |
1921 | 「グレートブリテンおよびアイルランド連合王国」から「アイルランド自由国」成立 |
1922 | アイルランド内戦 (--23) .BBCラジオ放送始まる |
1924 | 労働党政権,マクドナルド首相 (--24, 29--35) .フォースタ『インドへの道』 |
1928 | 男女平等の選挙権 |
1929 | 筝?????????? |
1936 | 王位継承危機,ジョージ6世 (--52) .ケインズ『一般理論』.ペンギン・ブックス |
1939 | 対ドイツ宣戦布告.第二次世界大戦 (--45) |
1940 | チャーチル首相 (--45, 51--55) |
1942 | 「ベヴァリッジ報告」の社会保障構想,終戦まで棚上げ |
1945 | 終戦.総選挙で労働党圧勝(翌年から社会保障,国有化など実現) |
1947 | インド,パキスタン,分裂独立 |
1948 | 「国籍法」で帝国臣民,コモンウエルス市民の入国権を再確認.南アフリカでアパルトヘイト政策始まる |
1949 | アイルランド共和国,コモンウェルスから離脱 |
1952 | エリザベス2世(--今日).原爆実験 |
1956 | スターリン批判.スエズ危機.『怒りをこめて振りかえれ』.原発操業開始 |
1957 | E. H. ノーマンの死.マクミラン首相 (--63) .「絶好調」発言.ガーナ独立に続きアフリカ諸国独立 |
1960 | ビートルズ (--70) |
1961 | EEC に加盟申請(63にフランスが拒否権発動) |
1964 | ウィルスン首相 (--70, 74--76) |
1965 | ヴェトナム戦争 (--73) ,反戦運動たかまる |
1968 | 北アイルランド紛争 (--94) .パウエルの人種差別発言続く |
1971 | メートル法,通貨百進法へ切り替え.入国管理法で入国制限はじまる |
1973 | 連合王国,アイルランド共和国とともにヨーロッパ共同体 (EC) に加盟.石油危機 |
1978 | 「われらが不満の冬」 (--79) |
1979 | サッチャ首相 (--90) ,二〇世紀のコンセンサス政治との戦い |
1981 | 4. ブリクストン騒擾.7. チャールズ王太子結婚式 |
1982 | フォークランド戦争 |
1986 | 金融自由化(ビッグバン),ロンドン市場の活性化 |
1989 | ベルリンの壁崩壊 |
1990 | ユーロ・トンネル開通.南アフリカでアパルトヘイト撤廃.メイジャ首相 (--97) |
1991 | ソ連邦解体 |
1993 | マーストリヒト条約を批准して EU に加盟.このころアイルランドは好況で「ケルトの虎」と評される |
1994 | IRA テロ活動停止宣言.マンデラ,南アフリカ大統領に |
1997 | 総選挙で労働党圧勝,ブレア首相 (--2007) .権限委譲進む |
2001 | 9.11 アメリカで同時多発テロ |
2003 | イギリス,イラクへ進軍 |
2010 | 保守党・自由民主党の連立政権,キャメロン首相 |
スコットランド高地や島嶼部では,ケルト系の言語である Scottish Gaelic が現在も行なわれている(系統については「#774. ケルト語の分布」 ([2011-06-10-1]) を参照).Ethnologue の Scottish Gaelic によると,2011年の統計で57,400人ほどの話者がいるという.話者人口がわずかなのは Irish や Breton などの他のケルト系諸語とも比較され,絶対数としていえば「赤信号」であることは間違いない.スコットランドでは教育や言語景観について当該言語の振興も進められているが,予断を許さない状況である.
「#1719. Scotland における英語の歴史」 ([2014-01-10-1]) で見たとおり,スコットランドの低地では,11世紀という歴史の早い段階から英語が浸透していたが,高地では近代に至るまで Scottish Gaelic が日常的に行なわれていた.この地域が強い英語化の波に洗われるのは,18世紀の2度にわたるジャコバイトの反乱(1715年と1745年)の後に,この地に徹底的な弾圧が加えられた Highland Clearances (ハイランド放逐)ゆえである.これは「スコットランド高地地方の一定の地域から人々を立ち退かせ牧羊地とした囲い込み運動」であり,多くのスコットランド人が立ち退きを余儀なくされ,アメリカへ渡っていった.
1745年の反乱 "the Forty-five" により,イギリス政府は,現地の人々にゲール語使用を禁止させる強行策に出た.指 (103) の解説を引用する.
一六八八年の名誉革命の際に大陸へ亡命したブリテン王ジェイムズ七世(二世)の支持者たちは,王の名のラテン語に由来してジャコバイトと呼ばれるようになった.彼らは,一七一五年,一七四五年(以下,フォーティファイヴと呼ぶ)に,ジェイムズの子孫を正統なスコットランド王として擁立して,グレートブリテン政府と戦った.二度のジャコバイトの反乱では,反乱が生じた背景やそれを支持した者たちの動機は異なっていたが,当時,ハイランドの人びと全体がグレートブリテン政府に抵抗しているように見なされた.フォーティファイヴの後,政府は反乱に加担したハイランドの氏族長たちの財産を没収し,私兵をもつ権利や世襲的な司法権を剥奪した.そして,ハイランド人の衣装とされていたタータン柄のキルトなどを身につけることを禁止し,彼らの文化であるバグパイプやゲール語の使用も禁じた.違反者は保釈なしの六か月の投獄,再犯者は七年間の流刑という処罰となった.
同じ18世紀の後半には,これらは解禁されたものの,以降,ハイランドにおける Scottish Gaelic の衰退は免れなかった.指 (105) 曰く,
一八世紀に一時使用禁止となっていたゲール語ではあるが,二〇〇一年時点でのスコットランドでは,約六万人の人びとがゲール語を話すといわれており,同語は「ヨーロッパ地域少数言語憲章」にも含まれている.島嶼地域のスカイ島にはゲール語を学ぶコレッジが設立され,スコットランド本当でもゲール語のラジオ放送やテレビ番組も放映されており,今日,日常的にゲール語に触れる環境が整いつつある.
確かに Scottish Gaelic は,近年少しずつ「復活」しつつあるようだが,依然として危機的状況にあることは間違いない.決して楽観視はできないだろう.「#2006. 近現代ヨーロッパで自律化してきた言語」 ([2014-10-24-1]) を参照.
・ 指 昭博(編著) 『はじめて学ぶイギリスの歴史と文化』 ミネルヴァ書房,2012年.
近藤 (279--80) は,英語が知的なグローバル言語に成長した現代的な背景として,第二次世界大戦の結果,人的・知的リソースが英語圏へ流入したことがあるとしている.
人材と科学技術について,アメリカ・イギリス(とソ連)は旧ドイツ・オーストリア(中欧)の資産をむさぼり領有した.S・ヒューズ『大変貌――社会思想の大移動』が描くとおり,中欧から英語圏への知識人の脱出・移動によって一九三〇――四〇年代のイギリス・アメリカが獲得したものは大きい.スケールにおいて一六八五年以後のフランスから逃げたユグノ,オランダからイギリスに軟着陸した人材に数倍する.
イギリスに渡来した人文社会系の学者だけをみても,I・バーリン,S・フロイト,F・ハイエク,ポラニー兄弟,K・ポパー,L・ウィトゲンシュタイン.歴史家に限ると(ネイミア)は早々と一九〇八年に来英),G・エルトン,M・フィンリ,E・ボブズボーム,N・ペヴズナ,M・ポスタン,A・ヴァールブルク…….二〇世紀の学問の革新者は,ほとんど追われて,あるいは自主的に渡来した人びとである.英語が真に知的なグローバル言語になったのは,このときからであろう.
著者 (303) は,イギリス史を貫くのキーワードの1つとして「横領」を挙げているが,まさにイギリスやアメリカは外部からの知的横領によって,英語(文化)を磨き上げてきたといえるだろう.
引用中に触れられているユグノの渡英に関して,その英語史上の意義について「#594. 近代英語以降のフランス借用語の特徴」 ([2010-12-12-1]),「#678. 汎ヨーロッパ的な18世紀のフランス借用語」 ([2011-03-06-1]) などで触れているので,そちらも参照されたい.近代初期のオランダからの移民による言語的影響については「#3436. 英語と低地諸語との接触の歴史」 ([2018-09-23-1]) の (4) を参照.
・ 近藤 和彦 『イギリス史10講』 岩波書店〈岩波新書〉,2013年.
イギリス年表シリーズとして,君塚直隆(著)『物語 イギリスの歴史(上下巻)』の巻末の年表を掲げる(上巻 pp. 216--20,下巻 pp. 245--52 より).この読みやすい通史は,基本的にはイングランド王朝・王室史および議会政治史の記述といってよい.当然ながら,個別言語史の背景的知識として政治史,社会史,経済史などの知見は非常に重要である.
B.C. 6世紀頃 | ケルト系の部族が現在のグレート・ブリテン島で定住開始 |
B.C. 55--54 | カエサルのブリタニア遠征 |
A.D. 122 | 「ハドリアヌスの長城」建設始まる (--132) |
5--7世紀 | アングロ・サクソン諸族のブリタニア侵入および征服 |
757 | マーシアでオファ王が即位 (--796) |
871 | ウェセックスルでアルフレッド大王が即位 (--899) |
924 | アゼルスタンが全イングランド王としてパースで戴冠式を挙行 |
973 | エドガーがイングランド王としてバースで戴冠式を挙行 |
1066 | ウィリアム1世即位(10月):ノルマン王朝開始 (--1154) |
1067 | ウィリアム1世により叛乱地域が制圧:「ノルマン征服」 (--1071) |
1085 | 『ドゥームズデイ・ブック(土地台帳)』の作成 (--1086) |
1087 | ウィリアム2世即位(9月).兄ロベールとの抗争始まる |
1107 | ウィリアム2世狩猟中に事故死.ヘンリ1世即位(8月) |
1106 | ヘンリ1世が兄ロベールとの抗争を制し,ノルマンディ公国も継承 |
1135 | スティーヴンが国王に即位(12月):内乱へ (1135--53) |
1154 | ヘンリ2世即位(10月):プランタジネット王朝開始 (--1399).「アンジュー帝国」の形成 |
1173 | ヘンリ若王らが父ヘンリ2世に叛乱(内紛の時代の始まり) |
1189 | リチャード1世即位(7月).第3回十字軍遠征に参加 (--1194) |
1192 | リチャードがウィーン近郊で虜囚に (--1194) |
1199 | ジョンが国王に即位(4月) |
1204 | ノルマンディ,アンジューがフランス国王により失陥 (--1205) |
1205 | ジョンとローマ教皇インノケンティウス3世とは叙任権闘争 (--1213) |
1215 | 諸侯がジョンに「マグナ・カルタ(大憲章)」提出(6月) |
1216 | ヘンリ3世即位(10月).諸侯との内乱も終息へ (--1217) |
1258 | 諸侯大会議が「オックスフォード条款」を作成(6月) |
1259 | パリ条約でヘンリ3世が北部フランスに有する領土の放棄を宣言(12月):「アンジュー帝国」の消滅 |
1265 | シモン・ド・モンフォールの議会(1月) |
1267 | モンゴメリー協定により,サウェリン・アプ・グリフィズが「ウェールズ大公」としてヘンリ3世から認可(9月) |
1272 | エドワード1世即位(11月) |
1283 | エドワード1世がウェールズ遠征.サウェリン・アプ・グリフィズが戦死し,ウェールズ大公が空位に (--1283) |
1284 | エドワード1世が皇太子エドワードをウェールズ大公に任命(正式な叙任は1301年2月).これ以降,イングランド(イギリス)の王位継承第1位の男子が「ウェールズ大公」を帯びることに |
1290 | スコットランド女王マーガレットが急死し,王位継承問題が浮上 |
1293 | エドワード1世の裁定により,ジョン・ベイリオルがスコットランド国王に即位 (--1296) |
1295 | エドワード1世が聖俗諸侯,州・都市代表,聖職者会議からなる「模範議会」を召集(11月),スコットランドとフランスが「古き同名」関係を締結へ (--1560) |
1296 | イングランド・スコットランド戦争.「スクーンの石」がイングランド軍により持ち去られる(1996年にスコットランドに返還). |
1297 | ウィリアム・ウォレスがスコットランドで反乱.スターリングの戦いでイングランド軍に勝利. |
1299 | エドワード1世がモンルイユ条約でフランス国王と講和:皇太子エドワードとフランス王女イサベルの婚約成立 |
1306 | ロバート・ブルースがスコットランド王位継承を宣言.エドワード1世がスコットランド遠征の途上で病死 (1307年7月) |
1307 | エドワード2世即位(7月) |
1314 | バノックバーンの戦いでブルースがイングランド軍を撃破し,ロバート1世としてスコットランド国王に即位(1328年にイングランドも承認) |
1327 | エドワード2世が議会で廃位.皇太子がエドワード3世に即位(1月).エドワード2世が密かに処刑される(9月) |
1330 | エドワード3世が親政開始(10月).この頃から議会が「貴族院」と「庶民院」の二院制に移行 |
1337 | 皇太子エドワード(黒太子)がコーンウォール公爵に叙される(イングランドで最初の公爵位).フランス国王フィリップ6世がエドワード3世の在仏全所領の没収を宣言:英仏百年戦争の開始 (--1453) |
1356 | ポワティエの戦いで黒太子が勝利(9月) |
1360 | プンティニ=カレー条約締結:エドワード3世がフランスの王位請求権を放棄する代わりに,アキテーヌ領有が承認(10月) |
1376 | エドワード3世が「善良議会」を開催(4--7月).黒太子急死(6月) |
1377 | リチャード2世即位(6月) |
1381 | 人頭税に反対するワット・タイラーの乱(5--6月) |
1382 | リチャード2世が親政開始.寵臣政治に議会が反発 |
1399 | リチャード2世廃位.ランカスター公爵ヘンリがヘンリ4世に即位(9月):ランカスター王朝成立 (--1471) |
1413 | ヘンリ5世即位(3月) |
1415 | ヘンリ5世がフランス遠征.アジンコートの戦いで大勝利(10月) |
1420 | トロワ条約締結(5月).ヘンリのフランス王位継承権が承認され,ヘンリとフランス王女カトリーヌの結婚が決まる.二人の間に皇太子ヘンリが誕生(1421年12月) |
1422 | ヘンリ6世即位(8月).フランス国王シャルル6世の死により,アンリ2世としてフランス王位も継承(10月) |
1429 | シャルル7世がジャンヌ・ダルクに導かれ,ランス大聖堂で戴冠(7月) |
1431 | ジャンヌ・ダルクの焚刑(5月).アンリ2世(ヘンリ6世)がパリのノートルダム大聖堂で戴冠(12月) |
1453 | ボルドーが陥落し(10月),イングランドが在仏所領の大半を失う(英仏百年戦争の終結).ヘンリ6世が精神疾患に陥る(8月) |
1454 | ヨーク公爵リチャードが護国卿に就任(3月) |
1455 | ランカスター派とヨーク派の抗争始まる:バラ戦争 (--1485) |
1460 | ヨーク公爵リチャードが戦死(12月):長男エドワードが継承 |
1461 | ヨーク派がロンドン制圧.ヘンリ6世を廃し,エドワード4世推戴(3月):第一次内乱の終結.ヨーク王朝開始 (--1485) |
1470 | エドワード4世がネヴィル派によって放逐され,ブルゴーニュ公領に亡命.ヘンリ6世が復位(10月) |
1471 | エドワード4世が帰国し,ランカスター=ネヴィル派を撃破:第二次内乱の終結.ヘンリ6世処刑(5月).エドワード4世復位 (--1483) |
1478 | 王弟クラレンス公爵ジョージがエドワード4世との不和で処刑(2月) |
1483 | エドワード5世即位(4月).叔父のグロウスター公爵リチャードが護国卿に就任.エドワード5世廃位.リチャード3世即位(6月).バッキンガム公爵が叛乱を起こし,処刑(11月) |
1485 | ボズワースの戦いでリッチモンド伯爵ヘンリがリチャード3世軍に勝利.リチャード3世戦死.ヘンリ7世が国王に即位(8月):テューダー王朝開始 (--1603) |
1486 | ヘンリ7世とヨーク王家のエリザベスが結婚(1月) |
1491 | パーキン・ウォーベックの叛乱 (--1499) |
1494 | ポイニングズ法制定:アイルランド議会の権限縮小化 |
1501 | 皇太子アーサーとスペイン王女キャサリン結婚(11月).5ヶ月後にアーサーが急死し,長弟ヘンリとキャサリンとの結婚が教皇庁から承認 |
1509 | ヘンリ8世即位(4月).キャサリンと結婚(6月) |
1517 | マルティン・ルターの宗教改革始まる(10月).ヘンリ8世はルター派を封じ込めるロンドン条約を王侯らと締結(1518年10月) |
1527 | ヘンリ8世がキャサリンとの離婚を教皇庁に申請(5月).神聖ローマ皇帝カール5世(キャサリンの甥)により阻止 |
1529 | ヘンリ8世が宗教改革議会を開催 (--1536) |
1533 | ヘンリ8世がアン・ブーリンと極秘結婚(1月).上訴禁止法制定(3月).キャサリンとの離婚成立(4月).アンとの間にエリザベス誕生(9月) |
1534 | 国王至上法制定(11月):イングランド国教会が成立 |
1536 | アン処刑(5月):ヘンリ8世がジェーン・シーモアと結婚.小修道院の解散.北部でカトリック教徒らが叛乱(「恩寵の巡礼」:10月) |
1537 | ヘンリ8世とジェーンとの間にエドワード誕生(10月) |
1539 | 大修道院解散 |
1541 | ヘンリ8世が「アイルランド国王」の称号をおびる |
1544 | ヘンリ8世がスコットランド侵攻(遠征は失敗へ) |
1547 | エドワード6世即位(1月).叔父のサマセット公爵が護国卿に就任.スコットランドに侵攻し,ピンキーの戦いで勝利(9月) |
1549 | フランス=スコットランド連合の前に敗北.西部の叛乱(6月).サマセット公爵失脚(10月).ウォーリック伯爵(1551年よりノーサンバランド公爵)が実権掌握へ |
1553 | エドワード6世死去.ノーサンバランド公爵によりジェーン・グレイが推戴されるが敗北(9日間の女王).メアリ1世即位(7月) |
1554 | メアリ1世がスペイン皇太子フェリーペと結婚(7月).イングランド国教会を廃し,カトリックを復活へ |
1556 | フェリーペがスペイン国王フェリーペ2世に:スペイン=フランス戦争が勃発し,メアリ1世も対仏宣戦布告(1557年6月) |
1558 | カレー喪失(大陸の土地を完全に失う:1月).メアリ1世死去.エリザベス1世即位(11月) |
1559 | 国王至上法と礼拝統一法が議会を通過(4月):イングランド国教会復活 |
1561 | スコットランド女王メアリ(ステュアート)がフランスより帰国 |
1567 | スコットランド女王メアリが貴族らと衝突し,廃位(7月).ジェームズ6世が即位 (--1625) .メアリは翌68年イングランドに亡命 |
1569 | カトリック貴族らにより北部叛乱開始(10月).叛乱は翌70年2月に鎮圧され,直後にエリザベス1世は教皇庁により破門を宣告 |
1587 | メアリ・ステュアート処刑(2月).フランシス・ドレイクがカディスを襲撃(4月) |
1588 | スペイン無敵艦隊が襲来(7月:アルマダの戦い):イングランド軍勝利 |
1600 | イングランド東インド会社設立 |
1601 | 救貧法制定 |
1603 | エリザベス1世死去(3月):テューダー王朝断絶.スコットランド国王ジェームズ6世がイングランド国王ジェームズ1世に即位(同君連合)(3月):ステュアート王朝開始 (--1714) |
1605 | ハンプトン・コート会議(1月):イングランド国教会とスコットランド教会がそれぞれの主流派として正式に承認(カトリックへの抑圧が続く) |
1605 | 火薬陰謀事件(11月) |
1610 | 「大契約」が議会の承認獲得に失敗(11月) |
1625 | チャールズ1世即位(3月).フランス王女アンリエッタ・マリアと結婚(5月) |
1628 | 「権利の請願」裁可(3月).国王の側近バッキンガム公爵暗殺(8月) |
1629 | チャールズ1世が議会を解散(3月):ロード=ウェントワース体制 (--1640) |
1638 | 宗教問題をめぐりスコットランドで叛乱勃発 (--1640) |
1640 | チャールズ1世が議会召集(4--5月:短期議会).スコットランドとの戦争が終結(9月).チャールズ1世が再度議会を召集(11月:長期議会) |
1642 | 五議員逮捕事件(1月).国王軍と議会軍の内乱(清教徒革命)勃発 (--1649) |
1645 | オリヴァー・クロムウェルにより議会側がニューモデル軍編成(2月).ネーズビーの戦いで議会軍が圧勝(6月) |
1648 | 国王軍が完全に敗北(8月).「プライドの追放(パージ)」(12月) |
1649 | チャールズ1世処刑(1月).王政と貴族院が廃止(3月).クロムウェル軍がアイルランド遠征(8月?1650年9月) |
1650 | クロムウェル軍がスコットランド遠征(8月--1651年9月) |
1651 | オランダによる中継貿易を禁じた航海法が制定(10月) |
1652 | 第一次イングランド・オランダ戦争 (--1654) |
1653 | クロムウェルが長期議会を解散(4月).「統治章典」が採択され,クロムウェルが護国卿に就任(12月):護国卿体制の開始 (--1659) |
1657 | 議会が「謙虚なる請願と勧告」を提出し,クロムウェルに王位を提示(3月).クロムウェルは国王即位を固辞(5月).二度目の護国卿就任式を挙行(6月) |
1658 | クロムウェル死去(9月).リチャード・クロムウェルが継承 |
1659 | リチャード・クロムウェルが護国卿辞任(5月) |
1660 | 長期議会が復活し,チャールズ1世の遺児による君主制を支持.ブレダ宣言・仮議会召集(4月).チャールズ2世即位(5月):王政復古 |
1661 | チャールズ2世戴冠式(4月),騎士議会開会(5月) |
1665 | 第二次イングランド・オランダ戦争 (--1667) .ロンドンでペスト流行 |
1666 | ロンドン大火(9月) |
1670 | ドーヴァー密約(5月:対オランダ戦争などめぐり英仏君主間に密約) |
1672 | チャールズ2世が「信仰自由宣言」公布.第三次イングランド・オランダ戦争 (--1674) |
1673 | 審査法制定(3月):ヨーク公爵ジェームズが海軍総司令官職を辞任 |
1677 | ヨーク公爵の長女メアリとオランダ総督ウィレムが結婚(11月) |
1679 | 王位継承排除法案の審議が開始(5月):これにより1680年代前半から,議会内にトーリとホイッグという二つの党派が登場 |
1685 | ジェームズ2世即位(2月).モンマス公の叛乱(6月) |
1687--88 | ジェームズ2世が二度にわたり「信仰自由宣言」公布:審査法に違反し,重要官職をカトリック教徒で固め始める |
1688 | 皇太子ジェームズ誕生(6月).イングランド主要政治家と提携したオランダ総督ウィレムがイングランドに上陸(11月).ジェームズ2世亡命 |
1689 | 仮議会により「権利宣言」が提出され,ウィリアム3世・メアリ2世の共同統治が決定(2月).「権利章典」の制定(12月):名誉革命.この間に,ウィリアム3世の主導により,イングランドもオランダ側につき,対仏宣戦布告(5月:九年戦争への参戦) |
1690 | ボイン川の戦いでウィリアム3世がアイルランドのカトリック住民虐殺(7月):ジェームズ2世がアイルランド上陸を断念 |
1694 | イングランド銀行設立(7月).メアリ2世死去(12月) |
1697 | レイスウェイク条約でルイ14世がウィリアム3世の王位承認(9月) |
1701 | 王位継承法制定(6月):カトリック教徒による王位継承,王族のカトリック教徒との結婚が禁止される (--2013) .ウィリアム3世により,ハーグ同盟結成(9月):スペイン王位継承戦争への参戦 |
1702 | アン女王即位(3月).対フランス戦争は継続へ |
1704 | ブレンハイムの戦いでイングランド軍がフランス軍に大勝利(8月) |
1713 | ユトレヒト条約(4月):イギリスがジブラルタル,ミノルカなど領有 |
1714 | アン女王死去:ステュアート王朝終結.ハノーファー選帝侯ゲオルクがジョージ1世に即位(8月):ハノーヴァー王朝開始 (--1901) |
1715 | 第一次ジャコバイトの叛乱(9月) |
1716 | 七年議会法制定(5月) |
1720 | 南海泡沫事件 |
1721 | サー・ロバート・ウォルポールが第一大蔵卿に就任(4月).南海泡沫事件を巧みに処理し,ジョージ1世から信任を得る |
1727 | ジョージ2世即位(6月) |
1739 | 「ジェンキンズの耳戦争」勃発(10月).翌年のオーストリア王位継承戦争(1740--48年)に糾合され,ヨーロッパ大戦争へ |
1742 | ウォルポール退陣(2月):第一大蔵卿を「首相」とする責任内閣制(議院内閣制)がイギリス政治に定着へ |
1745 | 第二次ジャコバイトの叛乱 (--1746) .二重内閣危機 (--1746) |
1754 | アメリカでフレンチ・アンド・インディアン戦争勃発 (--1763) |
1756 | イギリス・プロイセン間でウェストミンスター協定締結:七年戦争(1756--63年)に発展 |
1759 | 「奇跡の年」(イギリス陸海軍が世界各地で大勝利) |
1760 | ジョージ3世即位(10月) |
1761--62 | 国王と主要閣僚(ニューカースル公爵・大ピット)間で対立激化 |
1764--65 | 北アメリカ植民地に対して「砂糖税」「印紙税」を課税.本国と植民地間の対立が深刻化:ボストン虐殺事件(1770年),ボストン茶会事件(1773年)などに発展 |
1775 | 英米開戦(4月):アメリカ独立戦争 (--1783) |
1776 | 13植民地が「独立宣言」を公表(7月):その後,フランス,スペイン,オランダがアメリカ側につき,イギリス軍が各地で敗戦 |
1783 | パリ条約でアメリカ合衆国が独立(9月).小ピットが首相に就任(12月) |
1788 | ジョージ3世が発病(10月):ピット派とフォックス派の間で「摂政制危機」に(--1789年2月) |
1793 | 小ピットの提唱で列強間に第一次対仏大同盟結成(2月):イギリスがフランス革命戦争 (--1799) に参戦 |
1799 | 第二次対仏大同盟結成(6月).フランスでナポレオン・ボナパルトが全権掌握(11月) |
1800 | アイルランド合邦化が制定(3月).ナポレオン戦争開始 (--1815) |
1804 | 小ピットが首相復帰.ナポレオン1世が皇帝に即位(5月) |
1805 | 第三次対仏大同盟結成(8月).トラファルガー海戦(10月).アウステルリッツの戦い(12月) |
1806 | 小ピット急死(1月).フォックス急死(9月):イギリス政治混迷へ |
1807 | イギリスが奴隷貿易の禁止を決定 |
1810 | ジョージ3世が発病(10月).皇太子ジョージを摂政とする法案が可決(1811年2月):摂政時代へ (--1820) |
1812 | パーシヴァル首相が庶民院ロビーで暗殺(5月).リヴァプール伯爵首班の長期政権形成へ (--1827) .ナポレオンのロシア遠征失敗(6--12月) |
1814 | ナポレオン戦争がいったん終結(4月).ロンドンで連合国の大祝賀会開催(6月).ウィーン会議開幕(11月--1815年6月) |
1815 | ナポレオンの「百日天下」(3--6月):ワーテルローの戦いで終息(6月).穀物法制定(3月) |
1819 | 「ピータールーの虐殺」事件(8月).治安六法制定(11月) |
1820 | ジョージ4世即位(1月).キャロライン王妃との離婚騒動 (--1821) |
1822 | ジョージ・カニング外相,ロバート・ピール内相など改革派が登用され,「自由トーリ主義」の時代が始まる |
1828--29 | ウェリントン保守党政権により,審査法・地方自治体法が廃止,カトリック教徒解放案が制定:トーリの分裂進む |
1830 | ウィリアム4世即位(6月)マンチェスターとリヴァプール間に鉄道開通(9月).グレイ伯爵を首班とするホイッグ・旧カニング派・超トーリ連立政権成立(11月).ベルギー独立戦争を調停するロンドン会議がパーマストン外相を議長に進められる (--1832) |
1832 | 第一次選挙法改正成立(下層中産階級の戸主に選挙権拡大) |
1833 | 工場法制定.イギリス帝国内における奴隷制度の全面廃止 |
1834 | 改正救貧法制定.ウィリアム4世によりメルバーン首相が更迭(11月).ピールにより「タムワース選挙綱領」が発表され,トーリが「保守党」と改名(12月) |
1837 | ヴィクトリア女王即位(6月) |
1838 | 「人民憲章」が発表される:チャーティスト運動の高揚 |
1839 | ロンドンに反穀物法同盟結成 |
1840 | 清国とイギリス東インド会社の間でアヘン戦争勃発 (--1842) .ヴィクトリア女王がアルバート公と結婚(2月):4男5女に恵まれる |
1842 | ピール保守党政権により,所得税再導入,各種関税廃止,減税 |
1845 | アイルランドでジャガイモ飢饉発生(8月) |
1846 | ピール保守党政権による穀物法廃止(6月):保守党分裂 |
1849 | 航海法廃止(6月):自由貿易の黄金時代に突入 |
1851 | 第一回ロンドン万国博覧会開催(5--10月) |
1854 | 英仏がトルコ側についてクリミア戦争に参戦(3月--1856年3月) |
1856 | 清国との間にアロー号戦争(第二次アヘン戦争)勃発 (--1860) |
1857 | インド大叛乱発生(5月).東インド会社は解散し,イギリスによるインド直轄支配が開始(1858年8月より) |
1859 | ホイッグ・ピール派・急進派により「自由党」結成(6月) |
1867 | ダービー保守党政権により第二次選挙法改正成立(都市の労働者階級の戸主に選挙権拡大).カナダがイギリス帝国で初の自治領に(7月) |
1868 | 総選挙で自由党が勝利し,ウィリアム・グラッドストンが政権獲得(総選挙の結果が直接的に政権交代につながった最初の事例:12月) |
1869 | アイルランド国教会廃止 |
1870 | アイルランド土地法制定.初等教育法制定(小学校の義務教育化) |
1871 | 大学審査法制定.労働組合法制定.陸軍売官制廃止 |
1872 | 秘密投票制度の導入(7月) |
1875 | ディズレーリ保守党政権によりスエズ運河会社株買収(11月) |
1876 | 王室称号法によりヴィクトリア女王が「インド皇帝」に即位へ |
1877 | インド帝国成立 (--1947) |
1878 | ロシア・トルコ戦争を調停するベルリン会議でキプロスの支配権獲得 |
1879 | グラッドストンによるミドロージアン・キャンペーン(11--12月) |
1882 | イギリス軍によるエジプト侵略(エジプトが事実上の保護国化) |
1883 | 腐敗及び違法行為防止法制定(8月):選挙違反の取り締まり強化 |
1884 | 第三次選挙法改正成立(地方の労働者階級の戸主に選挙権拡大) |
1885 | 議席再配分法制定:小選挙区制の本格的導入へ |
1886 | グラッドストン自由党政権によりアイルランド自治法案が提出されるが敗北:自由党の分裂(6月) |
1887 | ヴィクトリア女王の在位50周年記念式典(第1回植民地会議も開催) |
1889 | 海軍国防法制定(フランスとロシアを想定した二国標準主義へ) |
1893 | 二度目のアイルランド自治法案が庶民院を通過するも貴族院で否決(9月).ケア・ハーディが独立労働党結成 |
1897 | ヴィクトリア女王の在位60周年記念式典(第2回植民地会議も開催) |
1899 | 第二次ボーア戦争(南アフリカ戦争)勃発 (--1902) |
1901 | エドワード7世即位(1月):サックス・コーバーグ・ゴータ王朝開始 (--1917) |
1902 | 日英同盟締結(1月) |
1903 | エドワード7世がパリ公式訪問(5月):これを契機に英仏関係緊密化 |
1904 | 英仏協商締結(4月).日露戦争勃発 (--1905) |
1906 | 英独建艦競争の激化 (--1912) .「労働党」結成(1月) |
1907 | 英露協商締結(8月) |
1909 | 自由党政権により「人民予算」提出されるが,貴族院で否決(11月) |
1910 | ジョージ5世即位(5月).史上初の年内に二度の総選挙実施(1月・12月).「人民予算」成立へ |
1911 | 貴族院(保守党)と庶民院(自由党)の激しい抗争の後に議会法制定(8月):貴族院の権限が大幅縮小へ.ジョージ5世がインド皇帝戴冠式をデリーで挙行(12月) |
1912 | 三度目のアイルランド自治法案が提出(1914年に成立へ) |
1914 | 第一次世界大戦の勃発(7月).イギリスの参戦(8月) |
1915 | アスキス挙国一致内閣成立(5月) |
1916 | 徴兵制度の導入(1月):国家総動員体制が本格化.アスキス首相辞任.デイヴィッド・ロイド=ジョージが政権を継承(12月) |
1917 | ウィンザー王朝に改名(7月).革命によりロシアが事実上の戦線離脱(3月).アメリカが英仏側について参戦(4月) |
1918 | 第四次選挙法改正成立(男子普通選挙と30歳以上の女子選挙権実現).第一次世界大戦の終結(11月) |
1919 | パリ講和会議.インド統治法が制定されるも,これを不服としたガンディーの不服従運動がインド全土で拡大へ(1920年--) |
1921 | アイルランド自由国成立(12月).ワシントン海軍軍縮会議:日英同盟消滅へ(11月--1922年2月) |
1922 | カールトン・クラブで保守党議員がロイド=ジョージとの連立解消を決定:ロイド=ジョージ首相辞任(10月) |
1924 | ラムゼイ・マクロナルドを首班とする初の労働党単独政権樹立(1月) |
1925 | ヨーロッパにおける安全保障を規定したロカルノ条約締結(12月) |
1926 | 全国的なゼネラル・ストライキ(5月).帝国会議により自治領と本国の地位平等が確認(11月) |
1928 | 第五次選挙法改正成立(女子普通選挙権も実現) |
1929 | 米国初の「世界恐慌」の発生(10月) |
1930 | ロンドン海軍軍縮会議(1--4月) |
1931 | 国王の調整によりマクドナルドを首班とする挙国一致内閣成立(8月) |
1932 | ジョージ5世により帝国臣民向けの「クリスマス・メッセージ」が BBC (英国放送協会)のラジオを通じて開始(12月) |
1936 | エドワード8世即位(1月).ウォリス・シンプソンとの「王冠を賭けた恋」により退位.ジョージ6世即位(12月) |
1937 | ネヴィル・チェンバレンが首相に就任(5月):宥和政策が本格化 |
1938 | ミュンヘン会談でドイツにズデーテン地方(チェコ)割譲が決定(9月) |
1939 | 第二次世界大戦勃発(9月).ウィンストン・チャーチルが海相に復帰 |
1940 | 「奇妙な戦争(1939年9月--40年3月)」を経て,ドイツ軍が北部・西部ヨーロッパ各国に侵攻(4--5月).チェンバレンに代わりチャーチルが首相就任(5月).フランスがドイツに降伏し(6月),「ブリテンの戦い」開始(7月) |
1941 | 独ソ戦の開始(6月).チャーチルと F. D. ローズヴェルトの大西洋上会談(7月).日英米開戦 |
1942 | シンガポールが日本軍により陥落(2月).後半からは連合国(米英ソ)側が徐々に形勢を逆転(北アフリカ・太平洋・ソ連で) |
1943 | カイロ会談(米英中:11月).テヘラン会議(米英ソ:11--12月) |
1944 | ノルマンディ上陸作戦(6月).パリ解放(8月) |
1945 | ヤルタ会談(米英ソ:2月).ドイツ降伏(5月).ポツダム会談(米英ソ:7--8月).10年ぶりの総選挙で労働党が大勝し,チャーチルが辞任.クレメント・アトリーが労働党単独政権を樹立(7月).日本降伏(8月):第二次世界大戦の終結(9月) |
1946 | イングランド銀行が国有化.チャーチルの「鉄のカーテン」演説(3月).国民保険法制定(8月).国民保険サーヴィス法制定(11月) |
1947 | 石炭,電信・電話国有化(1月).インドと東西パキスタン独立(8月) |
1948 | 鉄道・電力国有化(1--4月).チャーチルの「三つの輪」演説(10月) |
1951 | 総選挙で保守党が勝利し,チャーチル保守党政権成立(10月) |
1952 | エリザベス2世即位(2月).戴冠式は53年6月に挙行 |
1955 | チャーチル首相引退.サー・アンソニー・イーデンが後任に(4月) |
1956 | スエズ戦争(10--11月) |
1957 | ハロルド・マクミランが保守党政権の首相に就任(1月) |
1958 | 一代貴族法制定(4月) |
1960 | 「アフリカの年」:アフリカ諸国がヨーロッパ各国から独立 |
1963 | イギリスが EEC (欧州経済共同体)加盟に失敗(1月).貴族法成立(7月).マクミラン首相辞任:ヒューム政権に(10月) |
1964 | 総選挙で労働党が勝利し,ハロルド・ウィルソンが首相に(10月) |
1967 | ポンド切り下げ.EC (欧州共同体)加盟に失敗(11月) |
1968 | ウィルソン首相がスエズ以東からの英軍撤退表明(1月) |
1973 | エドワード・ヒース保守党政権により,イギリスが EC 加盟(1月).石油危機(10月) |
1975 | ウィルソン労働党政権の下で EC 残留問題に関わる国民投票(6月) |
1977 | イギリス政府が IMF (国際通貨基金)から借款へ(1月) |
1979 | 総選挙で保守党が勝利し,マーガレット・サッチャー政権成立(5月) |
1982 | フォークランド戦争(4--6月):イギリスが勝利 |
1984 | 史上最大の炭鉱ストライキ(3月--1985年3月).労働組合方制定(7月).IRA (アイルランド共和国軍)によるサッチャー暗殺未遂事件(10月) |
1984--87 | 電信・電話・自動車・ガス・航空機など国有企業が民営化へ |
1985--89 | ソ連にゴルバチョフ書記長が登場し,サッチャーの仲介で米ソ首脳会談が実現.ヨーロッパにおける米ソ冷戦が終結へ |
1988 | サッチャーのブルージュ演説(9月):EC 統合推進を非難 |
1990 | 地方自治体税(人頭税)導入(4月).保守党内で造反が起こり,サッチャー退陣:ジョン・メイジャーが首相に(11月) |
1991 | 湾岸戦争(1--3月):イギリスも参戦 |
1992 | ポンドが急落(「暗黒の水曜日」)し,ERM (為替相場メカニズム制度)からイギリスが離脱(9月).王子らの離婚・別居,ウィンザー城火災でエリザベス2世が「今年はひどい年」と演説(12月) |
1993 | EC 統合に向けてのマーストリヒト条約批准(7月):イギリスは通貨統合や社会憲章を適用除外して参加へ.EU (欧州連合)発足(11月) |
1997 | 総選挙で労働党が大勝し,トニー・ブレア政権成立(5月).ダイアナ元皇太子妃がパリで事故死(8月).スコットランド,ウェールズ議会設置が住民投票で決定(9月) |
1998 | イギリス・アイルランド間で北アイルランド問題に関わる「聖金曜日の合意」成立(4月) |
1999 | スコットランド,ウェールズで議会選挙(5月).貴族院で世襲貴族の議席大幅削減が決定(10月).新生の北アイルランド議会開設(11月) |
2001 | アメリカで同時多発テロ(9月).アフガン戦争(10--11月):イギリスもアメリカに全面協力へ |
2002 | エリザベス2世在位50周年記念式典(6月) |
2003 | イラク戦争(3--5月):イギリスもアメリカに全面協力へ |
2005 | ロンドンで同時多発テロ(7月) |
2007 | ブレア首相退陣.ゴードン・ブラウンが首相に |
2008 | 米国初の金融危機(リーマン・ショック:9月) |
2010 | 総選挙で保守党が勝利し,自由民主党との連立によりデイヴィッド・キャメロンが政権樹立(5月) |
2012 | エリザベス2世在位60周年記念式典(6月).ロンドンでオリンピックとパラリンピックが開催(7--8月) |
2014 | スコットランドで「独立」をかけた住民投票が行われ,連合王国に残留する結果に(9月) |
昨日の記事「#3478. 『図説イギリスの歴史』の年表」 ([2018-11-04-1]) に続いて,イギリス王室に特化したイギリス史年表を掲げる.著者の関心を反映し,君主の「配偶者」にも格別の関心が払われている年表である.「#3394. 歴代イングランド君主と配偶者の一覧」 ([2018-08-12-1]) も参照.
1050 | ウィリアム1世,マティルダ・オブ・エノーと結婚 |
1066 | エドワード懺悔王没 |
1066 | ハロルド1世即位;ノルマンディー公ウィリアムのイギリス征服;ウィリアム1世即位;ノルマン朝始まる |
1085 | ドゥームズデイ・ブック作成 |
1087 | ウィリアム2世即位 |
1100 | ヘンリー1世即位,マティルダ・オブ・スコットランドと結婚 |
1118 | マティルダ王妃没(1121年ヘンリー1世,アデライザ・オブ・ルーヴァンと再婚) |
1135 | スティーヴン王即位(1115年,マティルダ・オブ・ブオーローニュと結婚) |
1139 | スティーヴン王とマティルダ(ヘンリー1世娘)の戦い始まる |
1154 | ヘンリー2世即位(1152年,エレアノール・オブ・アキテーヌと結婚);プランタジネット朝始まる |
1170 | カンタベルー大司教ベケット暗殺 |
1189 | リチャード獅子心王即位 |
1191 | リチャード獅子心王,ベランガリア・オブ・ナヴァールと結婚;リチャード獅子心王十字軍遠征,アッカーを占領.帰途にオーストリア公の捕虜となる |
1199 | ジョン王即位(1189年,イザベラ・オブ・グロスターと結婚) |
1200 | ジョン王,イザベラ・オブ・アングレームと再婚 |
1204 | ジョン王,フランス国内の英領喪失 |
1215 | ジョン王,「マグナ・カルタ」に署名 |
1216 | ヘンリー3世即位 |
1236 | エレアノール・オブ・プロヴァンスと結婚 |
1265 | シモン・ド・モンフォール,議会設立(下院の起源) |
1272 | エドワード1世即位(1254年,エレアノール・オブ・カスティーリャと結婚) |
1277?95 | ウェールズ侵攻始まる |
1290 | スコットランドとの戦争始まる |
1295 | エドワード1世,模範議会召集 |
1299 | エドワード1世,マーガレット・オブ・フランスと再婚 |
1307 | エドワード2世即位 |
1308 | エドワード2世,イザベラ・オブ・フランスと結婚 |
1327 | エドワード3世即位,フランス王位継承を主張 |
1328 | エドワード3世,フィリッパ・オブ・エノーと結婚 |
1337?1453 | 英仏百年戦争 |
1346 | クレシーの戦いで勝利 |
1347 | カレー占領 |
1356 | ポワティエの戦い(黒太子の活躍) |
1377 | リチャード2世即位 |
1381 | ワット・タイラーの乱 |
1382 | リチャード2世,アン・オブ・ホヘミアと結婚 |
1384 | ヘンリー4世,メアリー・ド・ブーンと結婚 |
1394 | リチャード2世,イザベラ・オブ・ヴァロアと再婚 |
1399 | ヘンリー4世即位,ランカスター王朝始まる |
1402 | ヘンリー4世,ジョアン・オブ・ナヴァールと再婚 |
1413 | ヘンリー5世即位 |
1415 | アザンクールの戦いでフランスに勝利 |
1420 | ヘンリー5世,キャサリン・オブ・ヴァロアと結婚;トロワ条約締結.フランスの王位継承権を得る |
1422 | ヘンリー6世即位 |
1429 | オルレアンの戦いでフランスに敗北 |
1444 | ヘンリー6世,マーガレット・オブ・アンジューと結婚 |
1453 | 百年戦争終結 |
1455?85 | 薔薇戦争 |
1461 | エドワード4世即位 |
1464 | エドワード4世,エリザベス・オブ・ウッドヴィルと結婚 |
1483 | リチャード3世即位(1473年,アン・オブ・ウォリックと結婚) |
1485 | ボズワースの戦い;リチャード3世破れ,薔薇戦争終結;ヘンリー7世即位;チューダー朝始まる |
1486 | ヘンリー7世,エリザベス・オブ・ヨークと結婚 |
1509 | ヘンリー8世即位,キャサリン・オブ・アラゴンと結婚 |
1533 | ヘンリー8世,アン・ブーリンと結婚 |
1534 | 首長令発布;英国国教会確立 |
1535 | トマス・モア処刑 |
1547 | エドワード6世即位 |
1553 | メアリー1世即位 |
1554 | ワイアットの乱;ジェーン・グレイ処刑 |
1554 | メアリー1世,スペインのフィリペ王子と結婚 |
1557 | スペイン王位継承戦争に参戦 |
1558 | スペイン対フランス戦争に参戦.カレーを奪われる |
1558 | エリザベス1世即位 |
1588 | スペイン無敵艦隊破る |
1593 | 新教徒の非国教派閥,弾圧される |
1600 | 東インド会社設立 |
1603 | スコットランド王ジェームズ6世,イギリス王ジェームズ1世として即位(1589年,アン・オブ・デンマークと結婚).スチュアート王朝始まる |
1605 | 「火薬陰謀事件」発覚 |
1607 | 北米ヴァージニアに英植民地建設 |
1608 | 清教徒約100人,アムステルダムに移住 |
1610 | ジェームズ1世,王権神授説を唱え,議会と衝突 |
1616 | シェークスピア没 |
1620 | 清教徒102人,メイフラワー号でアメリカに移住 |
125 | チャールズ1世即位.ヘンリエッタ・マリアと結婚 |
1628 | チャールズ1世,議会を解散 |
1642 | 国王軍と議会軍の内戦勃発 |
1645 | ネズビーの戦いで国王軍敗れる |
1649 | チャールズ1世処刑 |
1649?60 | クロムウェル親子による共和制 |
1652 | 第1次英蘭戦争 |
1660 | チャールズ2世即位 |
1662 | チャールズ2世,キャサリン・オブ・ブラガンザと結婚 |
1665 | 第2次英蘭戦争 |
1666 | ロンドン大火 |
1673 | ジェームズ2世,メアリー・オブ・モデナと結婚 |
1685 | ジェームズ2世即位 |
1688 | 名誉革命始まる |
1689 | 「権利の章典」制定;ウィリアム3世,メアリー2世即位 |
1690 | ジョン・ロックの『人間悟性論』 |
1694 | イングランド銀行設立 |
1702 | アン女王即位(1683年,デンマーク王子ジョージと結婚);スペイン王位継承戦争に参戦(1701?14年) |
1713 | ユトレヒト和約.スペイン王位継承戦争終結. |
1714 | ジョージ1世即位(1688年,ゾフィア・ドロテアと結婚).ハノーヴァー朝始まる |
1720 | 南海泡沫事件 |
1727 | ジョージ2世即位(1705年,キャロライン・オブ・アーンズバックと結婚) |
1753 | 大英博物館設立 |
1756 | 7年戦争勃発(イギリス・プロイセン同盟対オーストリア,フランス) |
1760 | ジョージ3世即位 |
1761 | ジョージ3世,シャーロット・オブ・メックレンブルク・シュトゥレリッツと結婚;産業革命始まる |
1780 | ヨーロッパ諸国の中立同盟国との戦争勃発 |
1805 | ネルソン提督,トラファルガー海戦でナポレオンを破る |
1820 | ジョージ4世即位(1795年,ヤロライン・オブ・ブラウンシュヴィックと結婚) |
1830 | ウィリアム4世即位(1818年アデレイド・オブ・サクス・マイニンゲンと結婚) |
1837 | ヴィクトリア女王即位 |
1839 | ヴィクトリア女王,サクス・コバーク・ゴータ公;王子アルバートと結婚 |
1840 | ニュージーランドの領有権宣言 |
1840?42 | アヘン戦争 |
1851 | ロンドンで世界博覧会が開催される |
1897 | ヴィクトリア女王在位60年記念式典 |
1901 | エドワード7世即位(1863年,デンマーク王女アレグザンドラと結婚);サクス・ゴバーグ・ゴータ王朝始まる |
1902 | 日英同盟の締結 |
1904 | 英仏協商の締結 |
1910 | ジョー所5世即位(1893年,メアリー・オブ・テックと結婚) |
1926 | 空前のゼネスト起こる |
1935 | インド統治法制定 |
1936 | エドワード8世即位;エドワード8世退位,翌年ウォーリス・シンプソンと結婚;ジョージ6世即位(1923年,エリザベス・バウズ・ライアンと結婚);ウィンザー王朝と改名 |
1938 | ミュンヘン会談 |
1952 | エリザベス2世即位(1947年,フィリップ・マウントバッテンと結婚) |
1956 | スエズ動乱 |
1968 | 北アイルランド紛争勃発 |
1982 | フォークランド紛争 |
1981 | チャールズ皇太子とダイアナ結婚 |
1996 | チャールズ皇太子とダイアナ妃離婚 |
1997 | ダイアナ妃交通事故死 |
ヴィジュアル資料が豊富でよくできたイギリス史の本.その pp. 154--56 の「イギリス史略年表」を掲げよう.
前7世紀頃 | ケルト人の渡来が始まる |
前55--54 | カエサルの2次にわたるブリタニア遠征 |
61 | ボウディッカの反乱 |
122 | ハドリアヌスの城壁建造始まる |
140頃 | アンントニヌスの城壁建造始まる |
2世紀頃 | キリスト教の伝来 |
5?6世紀 | アングロ・サクソン人の渡来,いくつかの王国を形成 |
597 | アウグスティヌスによるローマ・カトリックの伝道 |
664 | ウィットビの教会会議 |
757 | マーシア王オッファ即位(?796) |
779頃 | オッファの防塁建造 |
8世紀末 | デーン人の来襲始まる(?9世紀) |
843 | アルバ王国(スコットランド)の成立 |
871 | ウェセックス王アルフレッド即位(?899) |
10世紀 | シャイア(州)制度の導入 |
1015 | カヌートの侵入,1016年イングランド王に(?1035) |
1042 | エドワード証聖者王即位(?66) |
1066 | ヘイスティングズの戦いでウィリアム征服王の勝利(ノルマン征服) |
1085 | ドゥームズデイ・ブック左右生 |
1135 | ヘンリ1世の没後,スティーヴンとマティルダの戦い始まる(?53) |
1154 | ヘンリ2世の即位(プランタジネット朝の始まり) |
1170 | カンタベリ大司教ベケット暗殺 |
1209 | ジョン王,教皇インノケンティウス3世に破門される |
1215 | ジョン王,マグナ・カルタを承認 |
1264 | シモン・ド・モンフォールの乱(?65) |
1276 | エドワード1世によるウェールズ侵攻始まる(以後95年まで,4次に渡って継続);同時期スコットランドへの介入を強化 |
1295 | 模範議会が開かれる |
1296 | イングランドとスコットランドの戦争始まる.スクーンの石が持ち去られる. |
1314 | バノックバーンの戦いで,ロバート・ブルースがエドワード2世を破る |
1327 | エドワード2世の廃位,エドワード3世即位 |
1337 | 百年戦争が始まる |
1346 | クレシーの戦い |
1348 | 黒死病の流行(?49)このご,1374年にも大流行 |
1356 | ポアティエの戦い |
1376 | 善良議会 |
1381 | ワット・タイラーの乱 |
1399 | リチャード2世廃位,ヘンリ4世の即位(ランカスタ朝の始まり) |
1415 | ヘンリ5世による対仏戦争再開,アザンクールの戦い |
1420 | トロア条約によりヘンリ5世のフランス王位継承権が認められる |
1429 | ジャンヌ・ダルクの活躍によるオルレアン解法,シャルル7世の戴冠 |
1453 | 百年戦争終結 |
1455 | バラ戦争始まる |
1461 | エドワード4世即位(ヨーク朝の始まり) |
1476 | カクストンがイギリス最初の活版印刷所をウェスト民スタに開く |
1483 | リチャード3世,エドワード5世を廃し,即位 |
1485 | ボズワースの戦いでリチャード3世敗死.ヘンリ7世即位(テューダー朝の始まり) |
1501 | 皇太子アーサーとアラゴンのキャサリンの結婚,翌年アーサー死去 |
1509 | ヘンリ8世即位,アラゴンのキャサリンとの結婚 |
1529 | 宗教改革議会の始まり(?36) |
1534 | 国王至上法により国教会の確立 |
1536 | 小修道院解散,ウェールズの合同 |
1539 | 大修道院解散 |
1541 | ヘンリ8世,アイルランド王を称する |
1542 | スコットランド,イングランド侵攻に失敗し,国王ジェイムズ5世敗死;メアリ・ステュアートの即位 |
1547 | エドワード6世即位,プロテスタント化の進展 |
1559 | 国王至上法・礼拝統一法により国教会の再確立 |
1567 | スコットランド女王メアリ・ステュアート廃位,イングランドへ亡命 |
1569 | 北部反乱,翌年に鎮圧 |
1587 | メアリ・ステュアートの処刑 |
1588 | スペイン無敵艦隊の襲来 |
1600 | 東インド会社設立 |
1603 | エリザベス1世死去,ジェイムス1世即位(ステュアート朝の始まり) |
1605 | 火薬陰謀事件 |
1628 | 権利の請願 |
1639 | 主教戦争始まる |
1640 | 長期議会開会 |
1642 | 国王軍と議会軍の内戦勃発 |
1648 | 議会からの長老派の追放 |
1649 | チャールズ1世の処刑,王政・貴族院を廃し,共和制が成立;クロムウェルのアイルランド征服 |
1652 | 第1次英蘭戦争(?54) |
1653 | クロムウェル護国卿となる(?56) |
1660 | 王政復古 |
1665 | 第2次英蘭戦争;ロンドンでベスト流行 |
1666 | ロンドン大火 |
1685 | ジェイムズ2世即位,モンマス公の反乱 |
1688 | 名誉革命 |
1689 | ウィリアム3世・メアリ2世の即位;権利の章典制定 |
1694 | イングランド吟嚢設立;メアリ2世死去 |
1702 | アン女王即位,スペイン継承戦争への参戦 |
1707 | スコットランドとの合同 |
1714 | ジョージ1世即位(ハノーヴァ朝の始まり) |
1720 | 南海泡沫事件,混乱収拾のため翌年ウォルポール大蔵卿に就任 |
1739 | 対スペイン戦争開始,翌年オーストリア継承戦争に |
1745 | ジャコバイトの反乱(?46) |
1757 | プラッシーの戦い |
1774 | アメリカ独立戦争始まる(?83);この頃,産業革命が本格的に進行 |
1789 | フランス革命の勃発 |
1793 | 第1回対仏大同盟 |
1799 | 第2回対仏大同盟 |
1802 | アミアンの和約 |
1805 | 第3回対仏同盟;ネルソン,トラファルガー沖海戦でフランス・スペイン艦隊を撃破 |
1807 | 奴隷貿易の禁止 |
1815 | 穀物法制定;ウィーン議定書;ワーテルローの戦い |
1819 | ピータールーの虐殺 |
1829 | カトリック解放法の成立 |
1830 | マンチェスター・リヴァプール間の鉄道開通 |
1832 | 第1次選挙法改正 |
1833 | 帝国内での奴隷制廃止決定;工場法制定 |
1838 | 人民憲章の講評,以後40年代末までチャーティスト運動の盛上り |
1840 | アヘン戦争(?42) |
1846 | 穀物法廃止 |
1851 | ロンドンで初めての万国博覧会 |
1854 | クリミア戦争(?56) |
1857 | インドでセポイの反乱 |
1858 | 東インド会社解散,インドは直轄統治領となる |
1867 | 第2次選挙法改正 |
1875 | スエズ運河株の購入 |
1877 | ヴィクトリア叙法,「インド皇帝」を称する |
1880 | 今日一区法により,就学の義務化 |
1881 | スーダンでマフディーの乱 |
1882 | イギリスによるエジプトの単独占領 |
1884 | フェビアン協会の結成;第3次選挙法改正 |
1887 | ヴィクトリア女王即位50周年記念式典;第1回植民地会議 |
1893 | 独立労働党の結成 |
1897 | ヴィクトリア女王即位60周年記念式典 |
1899 | 南アフリカ戦争始まる(?1902) |
1901 | ヴィクトリア女王死去,エドワード7世即位 |
1902 | 日英同盟の締結 |
1904 | 英仏協商の締結 |
1907 | 英露協商締結により,三国協商の成立 |
1908 | 老齢年金法制定 |
1910 | ロイド=ジョージ人民予算案 |
1911 | 国民保険法制定 |
1914 | アイルランド自治法の成立(実施は第1次世界大戦のため延期);第1次世界大戦勃発(?18年) |
1916 | アイルランドで即時独立を求めるイースター蜂起 |
1918 | 第4次選挙法改正,30歳以上の女性に参政権が認められる |
1919 | パリ平和会議(?20) |
1920 | アイルランド島地方 |
1922 | アイルランド自由国成立 |
1924 | マクドナルド首相による初の労働党内閣成立 |
1931 | ウェストミンスタ憲章によりコモンウェルス(英連邦)の発足 |
1932 | オタワの帝国経済会議,帝国のブロック経済圏化 |
1935 | インド統治法 |
1936 | エドワード8世,結婚問題で退位 |
1938 | ミュンヘン会談 |
1939 | 第2次世界大戦勃発(?45) |
1940 | チャーチルによる戦時挙国一致内閣(?45) |
1941 | チャーチルとルーズベルト大統領,大西洋憲章を発表 |
1942 | ベヴァリッジ報告書発表 |
1945 | アトリー首相の労働党内閣発足,主要産業の国有化を進める |
1947 | インド・パキスタンの独立 |
1951 | 英国祭の開催 |
1952 | エリザベス2世即位 |
1956 | スエズ戦争;1950年代後半から60年代にかけて,アフリカの植民地の独立相次ぐ |
1962 | ビートルズのレコード・デビュー |
1968 | 北アイルランド紛争始まる |
1971 | 通貨の |
1972 | 北アイルランドの自治停止 |
1973 | EC(ヨーロッパ共同体)加盟の発行 |
1973 | 地方行政区画の大幅な改変 |
1979 | サッチャー保守党政権の発足 |
1982 | フォークランド戦争 |
1984 | 中国との要諦により1997年の香港返還を決定 |
1986 | 狂牛病の発症を初めて確認 |
1990 | 「人頭税」への反対運動が盛り上がる;サッチャー退陣 |
1992 | 欧州通貨制度(ERM)を離脱 |
1997 | ブレア労働党内閣の成立;ダイアナ本皇太子妃事故死;スコットランド・ウェールズの地域議会設置を問う住民投票により,設置が決定 |
1999 | 貴族院の改革により,世襲貴族の議員資格を大幅に制限 |
2000 | 各地が洪水の被害に見舞われる |
2001 | 家畜に口蹄疫が大流行;総選挙でブレア率いる労働党の圧勝 |
一昨日,昨日と「#3464. 大阪慶友会で講演します --- 「歴史上の大事件と英語」と「英語のスペリングの不思議」」 ([2018-10-21-1]) で案内した大阪慶友会での講演が終了しました.参加者のみなさん,そして何よりも運営関係者の方々に御礼申し上げます.懇親会も含めて,とても楽しい会でした.
1つめの講演「歴史上の大事件と英語」では「キリスト教伝来と英語」「ノルマン征服と英語」「アメリカ独立戦争と英語」の3点に注目し「英語は,それを話す人々とその社会によって形作られてきた歴史的な産物である」ことを主張しました.休憩を挟んで180分にわたる長丁場でしたが,熱心に聞いていただきました.通時的な視点からみることで,英語が立体的に立ち上がり,今までとは異なった見え方になったのではないかと思います.
この講演で用いたスライドを,以下にページごとに挙げておきます.
1. 「歴史上の大事件と英語」
2. はじめに
3. 英語史の魅力
4. 取り上げる話題
5. I. キリスト教伝来と英語
6. 「キリスト教伝来と英語」の要点
7. ブリテン諸島へのキリスト教伝来
8. 1. ローマン・アルファベットの導入
9. ルーン文字とは?
10. ルーン文字の起源
11. 知られざる真実 現存する最古の英文はルーン文字で書かれていた!
12. 古英語アルファベットは27文字
13. 2. ラテン語の英語語彙への影響
14. ラテン語からの借用語の種類と謎
15. 外来宗教が英語と日本語に与えた言語的影響の比較
16. 3. 聖書翻訳の伝統の開始
17. 各時代の英語での「主の祈り」の冒頭
18. 聖書に由来する表現
19. 「キリスト教伝来と英語」のまとめ
20. II. ノルマン征服と英語
21. 「ノルマン征服と英語」の要点
22. 1. ノルマン征服とは?
23. ノルマン人の起源
24. ノルマン人の流入とイングランドの言語状況
25. 2. 英語への言語的影響は?
26. 語彙への影響
27. 英語語彙におけるフランス借用語の位置づけ
28. 語形成への影響
29. 綴字への影響
30. 3. 英語への社会的影響は?
31. 堀田,『英語史』 p. 74 より
32. 「ノルマン征服と英語」のまとめ
33. III. アメリカ独立戦争と英語
34. 「アメリカ独立戦争と英語」の要点
35. 1. アメリカ英語の特徴
36. 綴字発音 (spelling pronunciation)
37. アメリカ綴字
38. アメリカ英語の社会言語学的特徴
39. 2. アメリカ独立戦争(あるいは「アメリカ革命」 "American Revolution")
40. アメリカ英語の時代区分
41. 独立戦争とアメリカ英語
42. 3. ノア・ウェブスターの綴字改革
43. ウェブスター語録 (1)
44. ウェブスター語録 (2)
45. ウェブスターの綴字改革の本当の動機
46. 「アメリカ独立戦争と英語」のまとめ
47. おわりに
48. 参考文献
イングランドで14世紀半ばに完成した「5つの爵位」の第1位について,「#3446. 5つの爵位の筆頭 duke」 ([2018-10-03-1]) で紹介した.爵位の第2位は marquess /ˈmɑːkwəs/ (侯爵)である.単語としては,ラテン語の marchio に遡り,これはフランク王国や神聖ローマ帝国において,「蛮族」との国境地帯(辺境区= march)を守護する最高司令官に起源をもつ.帝国にとって辺境区とは国境を定める最重要地帯であり,ここに有能な司令官を置くことは統治の要諦である.「辺境伯」は田舎の貴族などではなく,帝国拡張の最前線で奉仕する一級の貴族だったのである.marquess とは,上位の duke 位を射程に収めた,相当な身分だったとみてよい.イングランドでの初めての授爵は1385年であり,単語としての初出も多少前後するにせよ14世紀中のようだ.
イギリス以外では marquis /ˈmɑːkwəs, mɑːˈkiː/という綴字・発音が用いられる.ちなみに侯爵夫人はイギリスでは marchioness /mˈɑːʃənəs/, イギリス以外では marquise /mɑːˈkwiːz/ である.念のために述べておくが,marquess の -ess を女性接尾辞と間違えてはいけない.
ただし,上に記した綴字や発音の区別には伝統に基づく微妙な基準があるようで,1905年の NED (後の OED)には次のような記述があったという.
N.E.D. (1905) notes s.v. 'The prevailing spelling in literary use appears to be marquis. Some newspapers, however, use marquess, and several English nobles bearing the title always write it in this way.' The official spelling used in the Roll of the House of Lords is marquess, which is the usual spelling for the title in the British and Irish peerage; marquis is reserved for the foreign title (in Scotland, however, marquis is sometimes preferred for pre-Union creations, apparently in memory of the 'Auld Alliance' with France). The spelling marquess is sometimes extended to non-French foreign titles.
プライド,伝統,国際関係,綴字と発音の関係などの諸要因が加味された上で,「侯爵」の形態が決まってくるというのがおもしろい.
昨日の記事「#3460. 紅茶ブランド Earl Grey」 ([2018-10-17-1]) で,イギリス首相に由来する(といわれる)紅茶の名前について触れた.同じくイギリス首相に由来する,もう1つの表現を紹介しよう.イギリスで警官のことを俗語で bobby と呼ぶが,これは首都警察の編成に尽力した首相・内務大臣を歴任した Sir Robert Peel (1788--1850) の愛称,Bobby に由来するといわれる.
Peel は,19世紀前半,四半世紀にわたってイギリス政治を牽引した政界の重鎮である.初期の業績としては,Metropolitan Police Act を1828年に通過させ,翌1829年,首都警察を設置したことが挙げられる.その後,bobby が警官の意の俗語となっていった.いつ頃からの用法かは正確にはわからないが,OED の初例は1844年のものである.
1844 Sessions' Paper June 341 I heard her say..'a bobby'..it was a signal to let them know a policeman was coming.
首都警察の設置と同じ1829年には「カトリック教徒解放法案」も成立させており,著しい敏腕振りを発揮している.Peel は党利党略ではなく国家の利益を第一に考えた(この点では,昨日取り上げた Earl Grey も同じだった).Peel はもともと地主貴族階級の砦であった「穀物法」を切り崩すことを目論んでいたが,1845年のアイルランドのジャガイモ飢饉を機に,穀物法廃止に踏み切る決断を下した.そして,翌年に廃止を実現した.19世紀の大改革を次々と成し遂げた首相だった.
なお,同じく俗語の「警官」として実に peeler という単語もあるので付け加えておきたい.
一般には Earl Grey といえば,紅茶の高級ブランドが想起されるかもしれない.Twinings にも同名の製品があるが,もともとは Jackson's 社製である.柑橘類の一種ベルガモット (bergamot) で香りづけをした癖のある風味で知られる.名前の由来は,しばしば 2nd Earl Grey こと Charles Grey (1764--1845) が,中国から帰任したときに持ち帰った中国茶のブレンド法にあるとされるが,この説の真偽のほどは定かではない.何しろ Earl Grey's mixture として現われる初例は,Grey が亡くなってから数十年も経った1884年のことなのだ.OED によるレポート Early Grey: The results of the OED Appeal on Earl Grey tea では,問題の紅茶ブランドの名前の由来について突っ込んだ記述があるので必読.
Earl Grey は,1830--34年に首相を務めたホイッグの政治家である.Eton と Cambridge で教育を受けた典型的な貴族で,22歳のときに国会議員となり,若いときから浮き名を流していた.しかし,Grey は George IV が王妃キャロラインを離縁させようと画策した際に王妃をかばい続けたことから,その後も王に嫌われ続け,おりしも自由トーリ主義の潮流にあって,政治的には長らく干されることになった.しかし,George IV が1830年に亡くなると,Grey に復活の機会が訪れた.新しく即位した William IV は Grey の古くからの親友だったからだ.ホイッグが政権を取り戻し,首相となった Grey (任期1830--34年)は,悲願だった選挙法改正を実現すべく邁進した.1831年,Grey の提示した改正法案は貴族院で否決されてしまったが,それを受けて民衆暴動が勃発.翌1832年,再び法案が議会にかけられ,紆余曲折を経ながらも結果として通過した.世にいう the First Reform Bill である.これによって年価値10ポンド以上の家屋・店舗・事務所などを所有する者や借家人にも選挙権が与えられることになり,有権者の数はイギリス全体で50万人から81万人にまで増えた.特にスコットランドでは4500人から5万5000人へと急増したという.
19世紀の大衆民主政治の立役者と香り豊かなミルクティーとの間に,実際のところどのような関係があるのか,真実を知りたいところである.
イギリスの爵位として,公侯伯子男の5つが知られている.duke (公爵), marquess (侯爵), earl (伯爵), viscount (子爵), baron (男爵)である.14世紀半ばまでは,議会に参加する世俗諸侯は,大雑把に earl か baron かに分類される程度だったが,この時期から5つの爵位が定着していく.爵位名はそれぞれ独自の由来をもち,ここに合流して初めてセットとして捉えられるようになった.
筆頭の duke (公爵,大公)に注目しよう.この語は,ラテン語 dux, duc- (軍勢の指導者)に起源をもつ.対応する動詞は ducere (導く)である.dux はフランス語 duc を経て,初期中英語に duk, duc などとして入ってきたが,当初は「小国の君主」「指導者」ほどの意味であり,爵位の筆頭としての「公爵」の意に用いられるのは14世紀前半のことである.
dux はローマ帝国の拡大に貢献した軍団の長を指す語だったが,帝国崩壊の後,フランク王国などで最上位の称号となった.ノルマン征服以降のイングランド王はノルマンディ公爵でもあったために,自身と同じ格付けを軽々に与えるのをよしとせず,公爵位の授爵をためらってきたが,14世紀になるとそれも解禁されるようになった.イングランドで最初に「公爵」の地位を与えられたのは Edward III の子の Edward (後に黒太子 "Black Prince" と呼ばれる)であり,彼は1337年に Duke of Cornwall に叙せられた.その後,彼の弟たちにも公爵位が与えられ,Duke of Clarence, Duke of Lancaster, Duke of York, Duke of Gloucester などが誕生した.
女性形 duchess (公爵夫人)も同じ時期に英語に入ってきており,duchy (公国,公国領)もしかりである.これらの派生語で第2子音が /ʧ/ と破擦音化しているのはフランス語での発音を反映したものである.前者は,16--19世紀には発音に引かれて dutchess の綴字で用いられることが多かった.
昨日の記事「#3436. 英語と低地諸語との接触の歴史」 ([2018-09-23-1]) の (2) で,ノルマン征服に付き従った外国軍のなかにフランドル人がおり,征服後もブリテン島に残ったらしいと述べた.これに関して,1338年頃に詩人 Robert Mannyng of Brunne が訳した Chronicle のなかに,次のような言及がある.Baugh and Cable (108) に引かれているものを現代語訳とともに再掲する.
To Frankis & Normanz, for þar grete laboure,
To Flemmynges & Pikardes, þat were with him in stoure,
He gaf londes bityme, of whilk þer successoure
Hold ȝit þe seysyne, with fulle grete honoure.
To French and Normans, for their great labor,
To Flemings and Picards, that were with him in battle,
He gave lands betimes, of which their successors
Hold yet the seizin, with full great honor.
Chamson (285) は,この記述を受けて次のように述べている.
The last two lines, referring to lands held by the successors of the foreign troops, indicate that the Flemings remained in Britain. Other non-Norman foreigners, e.g. the Bretons, are known to have left Britain after their service to William. During the conquest and its aftermath, large numbers of traders and mercenaries from the Low Countries came to Britain.
フランドル人は,ノルマン征服の最中とその後に,その立ち位置から,ノルマン人とイングランド人を結びつける役割を演じたと考えることができるかもしれない.軍事・経済的にそうだったとすれば,言語的にもそうだったのではないかと,確かに考えてみたくなる.
・ Baugh, Albert C. and Thomas Cable. A History of the English Language. 6th ed. London: Routledge, 2013.
・ Chamson, Emil. "Revisiting a Millennium of Migrations: Contextualizing Dutch/Low-German Influence on English Dialect Lexis." Contact, Variation, and Change in the History of English. Ed. Simone E. Pfenninger, Olga Timofeeva, Anne-Christine Gardner, Alpo Honkapohja, Marianne Hundt and Daniel Schreier. Amsterdam/Philadelphia: Benjamins, 2014. 281--303.
昨日の記事「#3435. 英語史において低地諸語からの影響は過小評価されてきた」 ([2018-09-22-1]) を受けて,Chamson の論文に拠り,英語と低地諸語の話者たちが歴史上いかなる機会に接触してきた(はず)か,略述したい.
両者の接触の歴史は,時間幅でいえば,5世紀のアングロサクソンのブリテン島への移動の前後の時期から,オランダが超大国として覇権を握った17世紀まで,千年以上に及ぶ.このなかで注目に値するのは,(1) アングロサクソンの渡来の前後,(2) ノルマン征服とその後,(3) 両地域間に毛織物貿易の発達した14--15世紀,(4) オランダの繁栄期である16--17世紀の4つの時期だろう.それぞれについて述べていく.
(1) アングロサクソンの渡来の前後
5世紀のアングル人,サクソン人,ジュート人のブリテン島への移動の前後から,他の低地ゲルマン語派の諸部族も同じくブリテン島へ渡っていたことが分かっている.しかし,このように時代が古ければ古いほど,互いの言語の類似性も大きく,借用の決定的な証拠は得にくい.しかし,イングランドの地名のなかに "Frisians" や "Flemings" の存在を示すものが少なくないことに注意すべきである.例えば,Dunfries, Freseley, Freswick, Frisby, Friesden, Friesthorpe, Frieston, Friezland, Frisby, Frisdon, Frizenham, Frizinghall, Frizingon, Fryston; Flemingtuna, Flameresham, Flemdich, Flemingby など.人名でも,Flandrensis, Fleemeng, Flammeng, Flameng, Flemang, Fleamang, Flemmyng, Flamenc, Flemanc などの "Flemings" の異形が,現代でもイギリス人に多く残っている.
(2) ノルマン征服とその後
ノルマン征服の折に William に付き従った外国軍のなかには,多くのフランドル人がいた.また,William の妻 Matilda はフランドル伯 Baldwin V の娘だったこともあり,フランドル人の貢献は際立っていた.征服後もこれらのフランドル人はブリテン島にとどまったらしい.
1107年頃にフランドルで洪水があった際に,Henry I は,被災したフランドル人がイングランド北部に移住することを許可した.それに伴って大量のフランドル人が押し寄せ,世紀半ばには彼らを Wales の南西端 Pembrokeshire に再移住させるなどの事態にも発展している (see 「#3292. 史上最初の英語植民地 Pembroke」 ([2018-05-02-1])) .結果として,Pembrokeshire 南部ではウェールズ人を押しのけてフランドル人が定住するようになり,その人口状況は16世紀の記述にもみられるほどである.
ほかに,12世紀後半には,Henry II とその子供たちの争いにおいてフランドル人の軍隊が利用されたこともあった.さらに,12世紀以降には,Norwich や Norfolk などのイングランド東部の町は,低地帯からの入植者で満たされ,フランドルとの羊毛貿易でおおいに栄えた(特に Norwich は London に次ぐ人口の町となった).彼らは,征服者アングロノルマン人とイングランド人のつなぎの役目を果たした可能性もある.
(3) 両地域間に毛織物貿易の発達した14--15世紀
上記のように征服後間もない頃から,羊毛・織物産業を基盤とする両地域の貿易は大いに栄えてきたが,必ずしも常に仲むつまじい関係だったわけではない.14世紀からは貿易摩擦に由来する敵対心が芽生えたこともあった.イングランド東部やスコットランドに多数のフランドル人が移住し,イングランドの労働者の間に不満が生じるほどになった.国王は,貿易による利益獲得とイングランド国民の経済的保護とのあいだで難しい舵取りを迫られていたのである.しかし逆にいえば,この時代,両者が日常的に密に接触していた証左でもある.
(4) オランダの繁栄期である16--17世紀
16--17世紀には,低地帯はヨーロッパ全体に巨大な影響力を及ぼす地域へと成長しており,アントワープやブリュージュはヨーロッパを代表する都市となっていた.16世紀後半,低地帯はスペイン支配からの独立を巡る争いのなかで,プロテスタントの北部とスペイン支配が続く南部とに分裂した.この争いを受けて,南部からの移民が大量にイングランドに渡ってきた.その後も宗教・政治的争いに起因する万単位の移民の波が17世紀半ばまで数十年間も続き,低地帯とイングランドの人々の間に,歴史上最も大規模で親密な関係が築かれることとなった.
以上,具体的な言語接触の過程や結果には触れなかったが,歴史上,両者の接触が間断なく続いていたことを,Chamson の論文に拠って示した.これは,語彙借用を含む言語的な影響を相互に容易たらしめた社会言語学的条件と見ることができるだろう.
・ Chamson, Emil. "Revisiting a Millennium of Migrations: Contextualizing Dutch/Low-German Influence on English Dialect Lexis." Contact, Variation, and Change in the History of English. Ed. Simone E. Pfenninger, Olga Timofeeva, Anne-Christine Gardner, Alpo Honkapohja, Marianne Hundt and Daniel Schreier. Amsterdam/Philadelphia: Benjamins, 2014. 281--303.
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