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最終更新時間: 2019-08-19 18:50

2017-03-30 Thu

#2894. 793年,ヴァイキングによるリンディスファーン島襲撃 [anglo-saxon_chronicle][popular_passage][oe][history][literature][oe_text]

 Anglo-Saxon Chronicle は,アルフレッド大王の命により890年頃に編纂が開始された年代記である.古英語で書かれており,9写本が現存している.最も長く続いたものは通称 Peterborough Chronicle と呼ばれもので,1154年までの記録が残っている.以下の抜粋は,Worcester Chronicle と呼ばれるバージョンの793年の記録である(Crystal 19 より現代英語訳も合わせて引用).数年前からイングランドに出没し始めたヴァイキングが,この年に,ノーサンブリアのリンディスファーン島を襲った.イングランド人の怯える様が,印象的に記されている.最後に言及されている Sicga なる人物は,788年にノーサンブリア王 Ǣlfwald を殺した悪名高い貴族である.

Ann. dccxciii. Her ƿæron reðe forebecna cumene ofer noðhymbra land . 7 þæt folc earmlic breȝdon þæt ƿæron ormete þodenas 7 liȜrescas . 7 fyrenne dracan ƿæron ȝeseƿene on þam lifte fleoȝende. þam tacnum sona fyliȝde mycel hunȝer . 7 litel æfter þam þæs ilcan ȝeares . on . vi. id. ianr . earmlice hæþenra manna herȝunc adileȝode ȝodes cyrican in lindisfarna ee . þurh hreaflac 7 mansliht . 7 Sicȝa forðferde . on . viii . kl. martius.


Year 793. Here were dreadful forewarnings come over the land of Northumbria, and woefully terrified the people: these were amazing sheets of lightning and whirlwinds, and fiery dragons were seen flying in the sky. A great famine soon followed these signs, and shortly after in the same year, on the sixth day before the ides of January, the woeful inroads of heathen men destroyed god's church in Lindisfarne island by fierce robbery and slaughter. And Sicga died on the eighth day before the calends of March.


 歴史上,この793年の事件は,イングランドにおける本格的なヴァイキングの侵攻の開始を告げる画期的な出来事である.

 ・ Crystal, David. Evolving English: One Language, Many Voices. London: The British Library, 2010.

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2017-03-25 Sat

#2889. ヴァイキングの移動の原動力 [old_norse][hel_education][history][map]

 3月号の『National Geographic 日本版』「バイキング 大会の覇者の素顔」と題する特集を組んでいる.特製付録として,ヴァイキング (Vikings) の足跡と行動範囲を示した地図が付いていた.説明書きには,「古くは8世紀末にブリテン諸島を荒らし回った記録が残るバイキング.11世紀までには,北半球の広い範囲で襲撃や交易,探検を行うようになった」とある.  *  *
 対応サイトからはフォトギャラリーも閲覧可能で,現在もシェトランド諸島やポーランドで行なわれているヴァイキングの歴史にちなんだ祭りの様子や,ヴァイキングの武具や装身具などの遺物,オスロの文化史博物館に所蔵の有名な Viking ship,そしてスウェーデン南部の墳墓のルーン文字石碑などを見ることができる.英語史で古ノルド語の影響などを紹介する際ののビジュアル資料として重宝しそうである.
 ヴァイキングの移動の原動力は何だったのか,という歴史上の問いには様々な回答がありうる.「#2854. 紀元前3000年以降の寒冷化と民族移動」 ([2017-02-18-1]) で少し触れたように,気候変動との関係も,ヴァイキングの大移動の1要因と考えられるかもしれない.「バイキング 大会の覇者の素顔」の記事で挙げられている要因としては,以下のようなものがある (46--47) .

 ・ 536年の彗星か隕石の落下と,その結果としての日照不足に起因する飢饉(スカンディナヴィアは農耕の北限であることに注意)
 ・ 放棄された土地を巡っての,勇猛さや攻撃性に特徴づけられた軍事的社会の形成
 ・ 7世紀の帆走技術や造船技術の発展
 ・ 独身の若い戦士が大勢いたとおぼしき状況

 なお,6世紀半ばの大災害の結果として,陰鬱たる北欧神話「ラグナロク」が生まれたとされる.それは,「世界の創造が終わり,最終戦争が起きて,すべての神々,人間,生き物が死に絶える」死の季節で始まる神話である.このような暗さのなかで育まれた精神が,8世紀半ばに外へ向かって爆発した,と考えることができるのではないか.
 ヴァイキングのブリテン島への侵攻については,「#1611. 入り江から内海,そして大海原へ」 ([2013-09-24-1]) の記事も要参照.

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2017-03-23 Thu

#2887. 連載第3回「なぜ英語は母音を表記するのが苦手なのか?」 [notice][link][vowel][diphthong][consonant][alphabet][writing][grapheme][history][spelling_pronunciation_gap][grammatology][rensai][sobokunagimon]

 3月21日付で,英語史連載企画「現代英語を英語史の視点から考える」の第3回の記事「なぜ英語は母音を表記するのが苦手なのか?」が公開されました.今回は,拙著『英語の「なぜ?」に答える はじめての英語史』の第2章「発音と綴字に関する素朴な疑問」で取り上げた話題と関連して,特に「母音の表記の仕方」に注目し,掘り下げて考えています.現代英語の母音(音声)と母音字(綴字)の関係が複雑であることに関して,音韻論や文字史の観点から論じています.この問題の背景には,実に3千年を優に超える歴史物語があるという驚愕の事実を味わってもらえればと思います.
 以下に,第3回の記事と関連する本ブログ内の話題へのリンクを張っておきます.合わせてご参照ください.

 ・ 「#503. 現代英語の綴字は規則的か不規則的か」 ([2010-09-12-1])
 ・ 「#1024. 現代英語の綴字の不規則性あれこれ」 ([2012-02-15-1])
 ・ 「#2405. 綴字と発音の乖離 --- 英語綴字の不規則性の種類と歴史的要因の整理」 ([2015-11-27-1])
 ・ 「#1021. 英語と日本語の音素の種類と数」 ([2012-02-12-1])
 ・ 「#2515. 母音音素と母音文字素の対応表」 ([2016-03-16-1])
 ・ 「#1826. ローマ字は母音の長短を直接示すことができない」 ([2014-04-27-1])
 ・ 「#2092. アルファベットは母音を直接表わすのが苦手」 ([2015-01-18-1])
 ・ 「#1837. ローマ字とギリシア文字の字形の差異」 ([2014-05-08-1])
 ・ 「#423. アルファベットの歴史」 ([2010-06-24-1])
 ・ 「#1849. アルファベットの系統図」 ([2014-05-20-1])

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2017-02-15 Wed

#2851. almond [recipe][history][pronunciation]

 「#2849. macadamia nut」 ([2017-02-13-1]),「#2850. walnut」 ([2017-02-14-1]) に引き続き,もう1つの人気あるナッツである almond (アーモンド)について.almond の語源はギリシア語にまで遡ることができるが,それ以前については不詳である.英語へは1300年頃にフランス語経由で入った.MEDalma(u)nde (n.) に挙げられているように,alma(u)ndealmo(u)nde などの綴字で現われている.
 MED の例文を眺めていると分かるように,使用例は料理のレシピに多い.実際,アーモンドは中世とルネサンス期を通じて,レシピに最もよく現われたナッツの1つである.レシピでは特にアーモンドミルクやアーモンドバターとしての使用が目立ち,1399年頃の料理本とされる The Form of Cury には,多くの例が確認される.MED でも引用されている4例を挙げると,

 ・ (a1399) Form Cury (Add 5016) 32: Make gode thik Almaund mylke as tofore.
 ・ (a1399) Form Cury (Add 5016) 44: Creme of Almandes: Take Almandes blanched, grynde hem and drawe hem up thykke..boile hem..spryng hem with Vynegar, cast hem abrode uppon a cloth and cast uppon hem sugar.
 ・ (a1399) Form Cury (Add 5016) 45: Grewel of Almandes: Take Almandes blanched, bray hem with oot meel, and draw hem up with water.
 ・ (a1399) Form Cury (Add 5016) 56: Take the secunde mylk of Almandes.


 この料理本は,政治的にはぱっとしないが,その宮廷と厨房の壮麗さではよく知られている Richard II のお抱え料理人が編纂したもので,後に Elizabeth I にも献呈されたというから,一流のレシピである.40もの異なる版が現存しており,1780年に出版された版がオンラインの The Form of Cury で閲覧できるので,参照してみた.例えば,その p. 44 には,上の MED からの引用の2つめにも挙げた "Creme of Almānd" と題するレシピが掲載されている.

Take Almānd blan~ched, grynde hem and drawe hem up thykke, set hem oūe the fyre & boile hem. set hem adoū and spryng hem with Vyneg~, cast hem abrode uppon a cloth and cast uppon hem sug. whan it is colde gadre it togydre and leshe it in dyssh.


 一度,味わってみたい気がする.
 「#1967. 料理に関するフランス借用語」 ([2014-09-15-1]) の記事で引用した15世紀のレシピにも,almondes が現われている.アーモンドは,14世紀半ばの黒死病の猛威と関連して,外来の香辛料とナッツの需要が拡大したなかで,とりわけ愛された食材だったのである.
 なお,LPD によると,almond の現在の発音は,イギリス英語では原則として /ˈɑːmənd/ と <l> を発音しないが,アメリカ英語では75%の割合で <l> を発音し,/ˈɑːlmənd/ となるという.この発音については,「#2099. faultl」 ([2015-01-25-1]) も参照.

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2017-01-22 Sun

#2827. PC の歴史 [political_correctness][sociolinguistics][politeness][history]

 歴史的な視点を交えた Hughes による Political Correctness の研究書を読んだ.一口に political_correctness といっても,はてしなく広い領域を覆う社会言語学上の問題であることが理解できた.現代的な意味での PC の歴史はまだ数十年しかないが,その淵源はおそらくずっと古い時代にまで遡ることができそうだ.というのは,PC は別の社会言語学的な問題である taboo, euphemism, politeness とも関係が深く,これらはいつの時代でも,どこの文化にもあったと考えられるからだ.
 しかし,20世紀半ばから始まった現代的な PC も,それほど長くない歴史のなかで,その在り方を少なからず変えてきた.Hughes (3--4) は,著書のイントロで,PC を巡る過去数十年間の変遷と PC の効果について,次のように要約している.

Linguistically it started as a basically idealistic, decent-minded, but slightly Puritanical intervention to sanitize the language by suppressing some of its uglier prejudicial features, thereby undoing some past injustices or "leveling of the playing fields" with the hope of improving social relations. It is now increasingly evident in two opposing ways. The first is the expanding currency of various key words . . . , some of a programmatic nature, such as diversity, organic, and multiculturalism. Contrariwise, it has also manifested itself in speech codes which suppress prejudicial language, disguising or avoiding certain old and new taboo topics. Most recently it has appeared in behavioral prohibitions concerning the environment and violations of animal rights. As a result of these transitions it has become a misnomer, being concerned with neither politics nor correctness as those terms are generally understood. / Political correctness inculcates a sense of obligation or conformity in areas which should be (or are) matters of choice. Nevertheless, it has had a major influence on what is regarded as "acceptable" or "appropriate" in language, ideas, behavioral norms, and values. But "doing the right thing" is, of course, an oversimplification. There is an antithesis at the core of political correctness, since it is liberal in its aims but often illiberal in its practices: hence it generates contradictions like positive discrimination and liberal orthodoxy.


 PC はもともとは純粋な差別撤廃の理想主義から出発した運動だった.Hughes は,その結果として,(1) diversity その他の価値を著わすキーワードが世の中に広まったこと,(2) タブーとそれに代わる婉曲表現が様々な領域に拡大していったこと,を挙げている.後者に関しては,あまりに領域が拡大しすぎて,もはや当初の意味での「政治」にも「公正さ」にも直接関係しないものまでもが,PC という包括的な用語のもとに含められるようになってしまったほどである.
 引用の後半の指摘も意味深長である.本来の出発点だった純粋な差別撤廃の思想が,PC 変遷の過程で歪められて,"positive discrimination" (or "affirmative action") や "liberal orthodoxy" に到達してしまったという矛盾のことだ.理想としての自由が,現実としての束縛に至ってしまったことになる.
 これは確かに皮肉であり,PC がしばしば皮肉られる理由もここにあるのだろうと思うが,そのように冷笑的な評価を加えるだけでは不十分だろう.おそらく PC という運動そのものが,自由と束縛の両側面を最初から内包しているのである.数十年間の PC を巡る議論や行動を通じて,この事実が顕著に浮き彫りになってきた,と解釈したい.
 いずれにせよ,PC は20世紀後半から21世紀初頭に至るまで展開してきた,社会言語学上の一大ムーブメントである.

 ・ Hughes, Geoffrey. Political Correctness: A History of Semantics and Culture. Malden, ML: Wiley Blackwell, 2010.

Referrer (Inside): [2017-01-28-1] [2017-01-27-1]

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2017-01-07 Sat

#2812. バラ戦争の英語史上の意義 [history][standardisation][lme][monarch][sociolinguistics]

 イングランド史において中世の終焉を告げる1大事件といえば,バラ戦争 (the Wars of the Roses; 1455--85) だろう(この名付けは,後世の Sir Walter Scott (1829) のもの).国内の貴族が,赤バラの紋章をもつ Lancaster 家と白バラの York 家の2派に分かれて,王位継承を争った内乱である.30年にわたる戦いで両派閥ともに力尽き,結局は漁父の利を得るがごとく Lancaster 家の Henry Tudor が Henry VII として王位に就くことになった.この戦いでは貴族が軒並み没落したため,王権は強化されることになり,さらに商人階級が社会的に台頭する契機ともなった.
 バラ戦争は,イングランドが中世の封建制から脱皮して近代へと歩みを進めていく過渡期として,政治・経済・社会史上の意義を付されているが,英語史の観点からはどのように評価できるだろうか.Gramley (98--99) は次のように評価している.

. . . the series of wars that go under this name [= The Wars of the Roses] sped up the weakening of feudal power and strengthened the merchant classes since the wars further thinned the ranks of the feudal nobility and facilitated in this way the easier rise of ambitious and able people from the middle ranks of society. When the conflict was settled under Henry VII, a Lancastrian and a Tudor, power was essentially centralized. From the point of view of the language, this meant that the standard which had begun to emerge in the early fourteenth century would continue with a firm base in the usage which had been crystallizing in the London area at least since Henry IV (reign 1399--1413), the first king since the OE period who was a native speaker of English.


 この評によると,14世紀の前半に始まっていた英語の標準化 (standardisation) が,バラ戦争の結果として王権が強化され,中産階級が台頭したことにより,15世紀後半以降もロンドンを基盤としていっそう推し進められることになった,という.もとより英語の標準化は非常にゆっくりとしたプロセスであり,引用にあるとおりその開始は "the early fourteenth century" のロンドンにあったと考えることができる(「#1275. 標準英語の発生と社会・経済」 ([2012-10-23-1]) を参照).その後,バラ戦争までの1世紀半の間にも標準化は進んでいたが,あくまで緩慢な過程だった.そのように標準化が穏やかに進んでいたところに,バラ戦争という社会的な大騒動が起こり,標準化を利とみる王権と中産階級が大きな影響力をもつに及んで,その動きが促進された,ということだろう.
 その他の歴史的大事件の英語史上の意義については,以下の記事を参照.

 ・ 「#119. 英語を世界語にしたのはクマネズミか!?」 ([2009-08-24-1])
 ・ 「#208. 産業革命・農業革命と英語史」 ([2009-11-21-1])
 ・ 「#254. スペイン無敵艦隊の敗北と英語史」 ([2010-01-06-1])
 ・ 「#255. 米西戦争と英語史」 ([2010-01-07-1])

 ・ Gramley, Stephan. The History of English: An Introduction. Abingdon: Routledge, 2012.

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2016-12-06 Tue

#2780. 海戦の歴史と近現代英語史 [history][timeline]

 古来,海戦は大きく歴史を動かしてきた.というのは,海戦はその時々の技術の粋を結集したものであり,文明どうしの衝突でもあるからだ.第二次世界大戦以後,空軍が戦いの主役となる以前は,強い海軍を保有し,交易路たる海を支配できることが,権力と富を手に入れるための条件だった.『海のひみつ』 (89) より,世界史に名の残る海戦をいくつか年表形式で示そう.

紀元前480年サラミスの海戦380せきのギリシャ艦隊が1200せきのペルシャ艦隊と戦って勝ちました。
紀元前31年アクティウムの海戦合わせて550せき以上のエジプトとローマの艦船がイオニア海で戦いました。ローマが勝利し,その結果帝政ローマが生まれました。
1279年崖山の戦いフビライ・ハンひきいる元が1000せき以上の南宋の艦船をはかいし,東アジアの南宋支配を終わらせました。
1571年レパントの海戦カトリック教国の同盟軍が,オスマン帝国の大艦隊を打ちやぶりました。
1588年アルマダの海戦130せきからなるスペイン艦隊が,イングランド艦隊との戦いで損害をこうむって北に逃げ,そこで強風によりかいめつじょうたいとなりました。
1776年ロングアイランドの戦いアメリカ独立戦争で最初の大規模な海戦は,経験不足のアメリカ軍がイギリス軍に敗北しました。
1805年トラファルガーの海戦ホレーショ・ネルソン提督にひきいられたイギリス艦隊が,ナポレオン戦争中にスペインのトラファルガー岬の沖でフランスとスペインの連合艦隊をやぶりました。
1916年ユトランド沖海戦第一次世界大戦中に,イギリス海軍とドイツ海軍がデンマーク沖で戦ったユトランド沖海戦は,艦船の大きさと数とで史上最大の海戦でした。
1942年ミッドウェー海戦第二次世界大戦の太平洋の戦いで最も重要とされる海戦で,アメリカと日本の海軍が戦いました。
1944年レイテ沖海戦第二次世界大戦における最後の大規模な海戦で,フィリピン沖でアメリカ軍と日本軍が戦いました。しずんだ艦船の数は史上最多です。
1950年仁川上陸作戦朝鮮戦争での海戦で,この戦いにおいて国連軍が勝利したことにより,大韓民国は首都ソウルをふたたび取りもどすことができました。


 1588年のアルマダの海戦以降,世界史的な意義をもつ重要な海戦のほとんどに,イギリスやアメリカが関わっていることがわかる.このことは,技術,文明,権力,富が,近代以降,英米両国に集結してきたこと,言語史としてみれば英語の重要性が高まってきたことと無縁ではない.世界のたどってきた社会的な歴史と言語の歴史は,水も漏らさぬほどの密接な関係とはいえないにせよ,少なくとも疎からざる関係にあったことは論を俟たない.
 とりわけ英語史に関わる海戦の話題としては,「#254. スペイン無敵艦隊の敗北と英語史」 ([2010-01-06-1]) と「#255. 米西戦争と英語史」 ([2010-01-07-1]) を参照.

 ・ スティーブ・パーカー(著),白山 義久(日本語版監修) 『海のひみつ』 小学館の図鑑 たんけん! NEO,小学館,2013年.

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2016-12-02 Fri

#2776. マリー・アントワネットの用いた暗号 (2) [cryptology][history]

 昨日の記事 ([2016-12-01-1]) に引き続き,マリー・アントワネットと情夫フェルセンの間に交わされた暗号通信について.用いられた暗号システムは,多表換字式暗号の一種であり,大文字と小文字の一覧表および鍵から成るものだった.『暗号解読事典』 (p. 177--78) によれば,例えば,次のような一覧表が2人の間で共有されていたと考えられる.

. . .
M     kn or sv wz ad eh il mp qt ux yb cf gj
N     ab cd ef gh ij kl mn op qr st uv wx yz
O     pr su vx ya bd eg hj km np qs tu wy zb
. . .

 もし鍵が "M" だとすると,例えば "ami" という単語は,それぞれのペアの相方の文字を取って "dpl" と暗号化される.もし鍵が "N" だとすると,同じ単語は "bnj" となる,等々.この鍵の共有の仕方は様々だったが,ある出版された書物を鍵とする方法も取られていたようだ.
 多表換字式が,それ以前の単一字換字式より優れているのは,同じ文字の反復の頻度が格段に減るために,文字の出現頻度に基づく統計的分析による暗号解読の試みをくじくことができる点にある.鍵さえしっかり秘匿されていれば,解読者にとって解読不可能とはいわずとも,相当な時間を費やさせることにはなるだろう.種明かしをされれば,何だそんなものかと反応したくなる程度の代物だが,この種の多表換字式暗号とその諸変種は,15世後半から20世紀に至るまで,暗号のスタンダードであり続けたのである.

 ・ フレッド・B・リクソン(著),松田 和也(訳) 『暗号解読事典』 創元社,2013年.

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2016-12-01 Thu

#2775. マリー・アントワネットの用いた暗号 (1) [cryptology][history]

 先日,六本木ヒルズの森アーツセンターギャラリーで開催中のヴェルサイユ宮殿《監修》マリー・アントワネット展に行ってきた.革命のヒロインとしての人気はすさまじく,美術館も大入りだった.特に目を引いたのは,マリー・アントワネットが家族とともに革命派に捕らわれていたときに,逃亡をもくろんでスウェーデン人の伯爵で情夫たるアクセル・フェルセンと交わした暗号通信のための暗号表の展示である.混雑していて,ショーケースに収められたその文書をゆっくりと眺めることはできなかったが,多表換字式暗号のようだった.近代に入ってから開発されたヴィジュネル暗号の変種といえる.1790年頃のものだという.
 帰宅してから『暗号解読事典』 (pp. 23--25) で少し調べてみた.マリーは,母マリア・テレジアが暗号通信に執心していたことから,もともと暗合に馴染みがあったものと思われる.マリーは,とらわれの身となってからも,暗号通信を用いて,フェルセンを仲立ちとして王党派との接触を図り,打開策を講じようとしていた.フェルセンの暗号システムは多表換字式暗号であり,比較的単純なものではあったが,統制の取れない混乱の革命派をだますには,十分に機能した.
 この暗号の効果もあって,逃亡の計画は秘密裏に実行に移された.王族が召使いに化け,フェルセンが馭者役となり,馬車でフランス東部への脱出を図ったのである.ところが,目的が達せられる寸前に,ヴァレンヌの村で正体が露見し,パリに送還された.
 その後も,マリーはより強力な暗号通信により神聖ローマ皇帝レオポルド2世や諸国の王室に働きかけ,革命派の裏をかく共謀を企てた.しかし,すでにマリーの暗号は敵の手により解読されており,共謀は見破られていた.その後,ルイ16世とマリーが有罪判決を申し渡され,断頭台のつゆと消えたことは,周知の事実である.ちなみに,フェルセンはパリから脱出したものの,後にスウェーデン皇太子の毒殺の偽りの嫌疑をかけられ,1810年にストックホルムで民衆に殺されている.
 フランス革命の背後にも,このように,暗号が活躍(暗躍?)していたのである.暗号が歴史に果たした役割は大きいと言えよう.
 マリー・アントワネット展のサイトより,フェルセン伯爵との恋 新たな証拠では,1792年1月4日付のマリーからフェルセンへの手紙の画像が公開されている.黒塗りで隠されていた部分の文字が今年1月に解読され,2人の関係の深さが明らかになったというニュースである.  *

 ・ フレッド・B・リクソン(著),松田 和也(訳) 『暗号解読事典』 創元社,2013年.

Referrer (Inside): [2016-12-02-1]

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2016-11-26 Sat

#2770. 『金・銀・銅の日本史』と英語史 [periodisation][history]

 村上隆(著)『金・銀・銅の日本史』を読んだ.ある特定の切り口による○○史というものは,一般の政治史とは異なる発想が得られることが多く,英語史や言語史を再考する上で参考になる.日本における金属の歴史は,村上 (v--vi) によれば,端的に次のように要約される.

日本において,本格的に金属が登場するのは,弥生時代までさかのぼる。日本では,長く見積もっても金属はたかだが二五〇〇年程度の歴史しか持たない。しかも,自らの文化的な発達過程で自然発生的に生み出されたものではないから,その変遷は他国とは異なり個性的である。〔中略〕当初は中国大陸や朝鮮半島から渡ってきた人たちの世話になりながら,技術の移転と定着を実現し,長い年月をかけて独り立ちに至る。そして,やがて近世を迎える頃には,汎世界的に見ても,人類が獲得した技術の最高峰にまで登り詰めるとともに,一時期には世界有数の金属産出国となり,さらには輸出国にもなるのである。


 その上で,村上 (vii) は「金・銀・銅」を中心とした金属の日本史を7つの時代に区分している(以下では,原文の漢数字はアラビア数字に変えてある).

草創期  弥生時代〜仏教伝来(538)
定着期  仏教伝来(538)〜東大寺大仏開眼供養(752)
模索期  東大寺大仏開眼供養(752)〜石見銀山の開発(1526)
発展期  石見銀山の開発(1526)〜小判座(金座の前身)の設置(1595)
熟成期  小判座(金座の前身)の設置(1595)〜元文の貨幣改鋳(1736)
爛熟期  元文の貨幣改鋳(1736)〜ペリーの来航(1853)
再生期  ペリーの来航(1853)〜


 この時代区分が非常におもしろい.「模索期」が約800年間続くのが,一見すると不均衡に長すぎるようにも思われるものの,金属という切り口から見れば,これはこれで理に適っているようだ.村上 (114) によれば,

そして,いよいよ約八〇〇年にわたる長い模索期の静けさを破るときが到来する。歴史とは不思議なものである。いくつかの出来事が,一斉に動き出すような瞬間がある。一六世紀の初めの頃も,ちょうどそんなときだったのだろう。「金・銀・銅」をめぐるダイナミズムの口火が切られるのである。一端,動き出すと急激に複合作用が生じて一〇〇年にも満たない間に,日本は当時の世界の中で,屈指の鉱山国にまで急成長した。長い模索期に十分な活性化エネルギーが蓄積されたから,一瞬で急激な反応が生じたのである。


 英語史では,11--12世紀という比較的短い期間に,文法体系を揺るがす大変化が生じている.ここでも,それ以前の「長い模索期に十分な活性化エネルギーが蓄積されたから,一瞬で急激な反応が生じた」と考えることができるかもしれない.「ダイナミズムの口火が切られ」,屈折語尾の水平化,格の衰退,文法性の消失,語順の台頭,前置詞の反映などの「いくつかの出来事が,一斉に動き出」したと見ることができそうだ.
 金属に焦点を当てた日本の歴史と英語の歴史との間の共通点は,それぞれ「金属」や「英語」という対象の歴史を扱っているように見えるものの,実際には人間社会が「金属」や「英語」をどのように用いてきたかという歴史であり,あくまで主体は人間であることだ.つまり,○○史の時代区分は,○○それ自体の有り様の通時的変化に対応しているわけではなく,人々が○○をどのように使いこなしてきたかという通時的変化に対応している.一方,両者の異なるのは,金属は本来「自然」のものであり,その自然史も記述可能だが,言語は金属のような意味において「自然」ではないことだ.しかし,言語もある意味では「自然」と言えなくもない,という議論も可能ではあろう.これについては,「#10. 言語は人工か自然か?」 ([2009-05-09-1]) の "phenomena of the third kind"(第三の現象)を参照.

 ・ 村上 隆 『金・銀・銅の日本史』 岩波書店〈岩波新書〉,2007年.

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2016-11-25 Fri

#2769. Dreadnought [etymology][history]

 日本語で「超弩級の台風」などというときの「弩」とは,1906年にイギリス海軍が完成した巨砲を備えた新型戦艦につけた名前 Dreadnought の頭文字をとり,それに「おおゆみ,いしゆみ,力強い弓」を意味する漢字を当てたものである.Dreadnought は文字通り dread + nought (= nothing) で「こわいもの知らず」の戦艦である.イギリスは,当時の主要海軍国に対して圧倒的な差をつけるべく,既出艦よりも並外れて大きな戦艦 Dreadnought を作り出した.建造に関わる情報は隠されていたため,他の列強は Dreadnought の出現に慌てたが,すぐに追随し,各種の「弩級戦艦」が現われた.American Heritage Dictionary の定義によると,"a battleship armed with six or more guns having calibers of 12 inches or more" である.
 しかし,dreadnought という単語の初出は実は20世紀初頭ではない.すでにエリザベス朝の1573年にやはり戦艦の名前として使われているのである.OED によると,"Acct. Treasurer Marine Causes (P.R.O.: E 351/2209) m. 8d, In newe beildinge and erectinge fower newe shipes called the Swifte sewer, the Dreadnoughte, the Achates & the handmayd." が初例となっている.
 軍事史を塗り替えた20世紀初頭の「ドレッドノート」の例は,先に述べたように1906年のことで,"Outlook 20 Oct. 495/2 The Atlantic Fleet will consist of three Dreadnoughts and five of the Canopus class." として出ている.ドレッドノートの出現がいかに世界史的なインパクトがあり画期的だったかは,早くも1908年に the pre-Dreadnought period という表現が初出していることからも分かるだろう.
 dreadnought はその他の語義でも近代英語期から用いられている.「こわいもの知らず《人》」の語義で17世紀から例が見られるし,18世紀末には「荒天用の厚手のラシャ(製外套)」の語義でも用いられている.この厚手の生地の意味としては,類義語に fearnought (or fearnaught) という語もあり,やはり18世紀後半に現われている.
 さて,軍事史上の画期をなした Dreadnought の出現の背景には,日本の開発した下瀬火薬が日露戦争の日本海海戦で大活躍したという事実が関与していたという.下瀬火薬は炸裂威力が強く,バルチック艦隊はその砲弾の前になすすべがなかった.渡部 (191--94)曰く,

 下瀬火薬の前に敗れさったロシア海軍の姿を見て,世界中の海軍関係者は大きなショックを受けた.「装甲による防御」という考えが,下瀬火薬によってまったく否定されてしまったからである.
 この日本海海戦以降,世界中の戦艦は一変した.一九〇六年にイギリス海軍が建造したドレッドノート号という戦艦が,その最初の例になった.ドレッドノート号では,それまで舷側に並べられていた副砲を全廃し,厚い鉄板の砲塔に守られた主砲のみを据えつけるようになったのである.
 従来の副砲は,いわば剥き出しの状態なので,下瀬火薬のような爆風が来ればたちまち使用不能になる.「ならば,いっそのこと副砲は全廃して,砲塔に守られて安全な主砲だけにしよう」というのが,イギリス海軍の発想であった.
 もちろん,副砲を廃止するわけだから,その分,主砲の数は増えている.それまでの戦艦では主砲は前後に一基二門ずつの計四門であったのだが,ドレッドノート号は一二インチ砲十門を備える,化物のような戦艦になった.
 これ以来,世界の海軍は“大艦巨砲時代”に突入する.
 ドレッドノートの出現は,既存の戦艦をすべて旧式艦にしてしまったから,列強は争って「ド級戦艦」あるいは「超ド級戦艦」を建造することになった(ド級とは,ドレッドノート級の略).その結果,建艦競争があまりにも過熱したため,とうとうワシントン会議(一九二一〜二二)を開いて,列強の間で戦艦保有数を制限しなければならなかったほどであった.


 ドレッドノート,恐るべし (Dread it!) .

 ・ 渡部 昇一 『世界史に躍り出た日本』「日本の歴史」第5巻 明治篇,ワック,2016年.

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2016-10-25 Tue

#2738. Book of Common Prayer (1549) と King James Bible (1611) の画像 [bible][book_of_common_prayer][popular_passage][hel_education][bl][history][literature][link][emode][printing]

 表題の2つの書は,英語史上大きな影響力をもった,初期近代英語で書かれた文献である.いつぞやか大英図書館で購入した絵はがきを見つけたので,各々より1葉のイメージを与えておきたい(画像をクリックすると文字も読める拡大版).

Book of Common Prayer (Of Matrimonie)King James Bible (Title-page)
Book of Common Prayer (Of Matrimonie)King James Bible (Title-page)


 Book of Common Prayer および King James Bible については,各々以下の記事やリンク先を参照.

 ・ 「#2597. Book of Common Prayer (1549)」 ([2016-06-06-1])
 ・ 「#745. 結婚の誓いと wedlock」 ([2011-05-12-1])
 ・ 「#1803. Lord's Prayer」 ([2014-04-04-1])

 ・ BL より Sacred Texts: King James Bible
 ・ The King James Bible - The History of English (4/10)

Referrer (Inside): [2018-11-27-1]

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2016-10-23 Sun

#2736. 点字の普及の歴史 [writing][braille][sign_language][hiragana][direction_of_writing][medium][history][japanese]

 「#2717. 暗号から始まった点字」 ([2016-10-04-1]) の記事で見たように,ブライユ点字は,シャルル・バルビエの考案した「夜間文字」の応用である12点点字を,ブライユが6点点字に改良したことに端を発する.19世紀始めには,目の不自由な人々にとっての読み書きは,紙に文字を浮き出させた「凸文字」によるものだった.しかし,指で触って理解するには難しく,広く習得されることはなかった.そのような時代に,ブライユが読みやすく理解しやすい点字を考案したことは,画期的な出来事だった.音楽の得意だったブライユは,さらに点字音符表を作成し,点字による楽譜表記をも可能にした.
 その後,19世紀後半から20世紀にかけて,ブライユ点字は諸言語に応用され,世界に広がっていく.1854年にフランス政府から公式に認められた後,イギリスでは英国王立盲人協会を設立したトーマス・アーミテージがブライユ点字を採用し,改良しつつ広めた.アメリカでは,ニューヨーク盲学校のウィリアム・ウエイトらがやはりブライユ点字に基づく点字を採用した.1915年に標準米国点字が合意されると,1932年には英米の合議により英語共通の点字も定まった(この点では,アメリカとイギリスで異なる体系を用いている手話の置かれている状況とは一線を画する;see 「#1662. 手話は言語である (1)」 ([2013-11-14-1])).
 我が国でも,1887年に東京の盲学校に勤めていた小西信八がブライユ点字を持ち込み,日本語への応用の道を探った.そして,1890年(明治23年)11月1日に石川倉次(=日本点字の父)の案が採用されるに至った.この日は,日本点字制定記念日とされている.
 点字を書くための道具に,板,定規,点筆がセットになった「点字盤」がある.板の上に紙をのせた状態で,穴の空いた定規を用いて点筆で右から左へを点を打っていくものである.通常の文字と異なり,点字は紙の裏側から打っていく必要があり,したがって,発信者の書きと受信者の読みの方向が逆となる.これは点字の読み書きに関する顕著な特徴といってよいだろう.また,日本語点字はかな書きで書かれるため,分かち書きをする必要がある点でも,通常の日本語書記と異なる (see 「#1112. 分かち書き (1)」 ([2012-05-13-1])) .現代では,伝統的な点字盤のほか,点字タイプライターやコンピュータにより,簡便に点字を書くことができるようになっている.
 日本でも身近なところで点字に出会う機会は増えてきている.電化製品,缶飲料,食品の瓶や容器など,多くの場所で点字が見られるようになった.

 ・ 高橋 昌巳 『調べる学習百科 ルイ・ブライユと点字をつくった人びと』 岩崎書店,2016年.

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2016-10-03 Mon

#2716. 原始・古代の暗号のあけぼの [cryptology][history][hieroglyph][grammatology][bible][hebrew]

 「#2701. 暗号としての文字」 ([2016-09-18-1]) で考察したように,文字の発明は,それ自体が暗号の誕生と密接に関係する出来事だが,秘匿することを主目的とした暗号コミュニケーションが本格的に発展するまでには,多少なりとも時間がかかったようである.今回は,『暗号解読事典』の pp. 2--6 を参照して,原始・古代の暗号のあけぼのを概略する.
 暗号そのものではないが,文字の変形と秘匿性という特性をもった暗号の原型といえるものは,紀元前2000年ほど古代エジプト聖刻文字の使用にすでに見られる.例えば,王族を表わす文字には,権威と神秘性を付すために,そして俗人に容易に読めないように,変形が施された.しかし,このような文字の変形が軍事・外交的に体系的に使われた証拠はなく,これをもって本格的な暗号の登場とすることはできない.しかし,その走りではあったと思われる.
 一方,紀元前1500年頃のメソポタミアには,明確に秘匿の意図が読み取れる真の暗号が用いられていたようだ.釉薬の製法が記された楔形文字の書字板において,正しい材料を表わす文字列が意図的に乱されているのだ.これは,人類最古の暗号の1つといってよい.
 紀元前500年頃では,インドでも書法秘匿の証拠が見つかる.その手法もすでに多様化しており,換字式暗号から,文字反転,配置の攪乱に至るまで様々だ.これは,当時のインドで暗号コミュニケーションがある程度広く認知されていた状況を物語っている.人間の悦楽についての書『カーマ・スートラ』では,書法秘匿は女性が習得すべき技術の1つであると述べられている.
 聖書にも,暗号の原型を垣間見ることができる.旧約聖書では,「アタシュ」と呼ばれるヘブライ語アルファベットに基づく換字式暗号の原初の事例がみられる.アタシュでは,最初の文字と最後の文字を入れ替え,次に2番目の文字と最後から2番目の文字を入れ替えるといったように,すべてのアルファベットを入れ替えるものである.これにより,『エレミヤ書』25章26節と51章41節で BabelSheshach と換字されている.しかし,ここには特別な秘匿の意図は感じられず,あくまで後の時代の本格的な暗号に連なることになる暗号の原型という程度のものだった.
 古代ギリシアでは,ペルシアとの戦争に関わる軍事的な目的で,すでに単純ではあるが体系的な暗号技術が発達していた.紀元前5世紀,ギリシアの歴史家トゥキュイディデスは,スパルタ人がスキュタレーという暗号器具を発明したことに言及している.これは特定の大きさの棒で,そこに紙を巻き付けて棒の上から下へ文字を書いていった後で紙を解くと,無意味な文字列が並んでいるというものである.また,紀元前2世紀には暗号学者ポリュビオスが「ポリュビオスのチェッカー盤」と呼ばれる5×5のアルファベット表に基づく暗号技術を確立し,後の暗号発展の基礎となった.
 ローマ帝国においては,「#2704. カエサル暗号」 ([2016-09-21-1]) で触れた換字式暗号が考案され,後に改良されながらも中世を通じて広く使われることになった.
 このように,暗号史は世界史と連動して発達してきたのである.

 ・ フレッド・B・リクソン(著),松田 和也(訳) 『暗号解読事典』 創元社,2013年.

Referrer (Inside): [2016-10-14-1]

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2016-09-05 Mon

#2688. 戦中と右横書き [writing][grammatology][direction_of_writing][history][sociolinguistics][language_myth]

 8月15日の読売新聞朝刊に,83歳の女性からの投書が掲載されていた.先の戦争中に学校で右横書きを習ったという世代の方である.「学校では横書きをする場合,右から書くよう指導された.敵国の英語のまねにならないよう,とのことだった.今でも,右から書かれた言葉を見ると,当時を思い出して悲しい気持ちになる」とあった.
 文字を書く書字方向 (direction_of_writing) の話題については ##2448,2449,2482,2483 で扱ってきた.文字論,特に統字論の問題として見れば,近代日本語の右横書きか左横書きか,あるいは右縦書きかという書字方向の変異や変化は,世界の書記体系の取り得る類型の枠内で論じられるものの,実際にその選択に際して作用していた力は,極めて社会的なものだった.戦中は欧米イメージのまとわりついた左横書きが忌避され,日本古来のイメージと重ね合わされた右横書きがよしとされた.戦後は右横書きは消えたが,くだんのイメージの対立は戦中の書字方向の記憶とともに現在でも語り継がれている.
 しかし,これは語り継がれた記憶という以上に,神話に近いものであるという.屋名池 (169--70) は,戦前・戦中・戦後の日本語書字方向の変化について,次のようにまとめている.

 右横書きは,左横書きと同じく,本来欧米語の影響によって生まれたものであるにもかかわらず,早くから縦書きと併用されてきたこともあって,大正末・昭和初期までには「右横書き=日本固有・伝統的」,「左横書き=欧米模倣・モダン」というイメージが成立・定着していたことはすでにたびたびふれた.このイメージはその語の社会の有為転変にかかわらず,戦後まで一貫して変わらなかった.一方,このイメージに対する評価・価値付けは激動の時代を反映して激しく変転し,横書きはそれに大きく翻弄されたのである.
 西欧化イコール近代化・進歩として高い評価を与える明治以来の傾向は,日中戦争下にも続き,一九四〇(昭和一五)年になっても,レコードや洋菓子のような洋風・モダンなイメージの商品では,従来右横書きだった表示が新たに左横書き化していることは先に述べた.
 しかし,欧米列強を的にまわして太平洋戦争が勃発するや,価値付けは大きく逆転し,日本在来の伝統的なものが国粋主義の立場から強力に支持されるようになる.それに支えられて左横書きの右横書き化という動きがあらわれ,これまでの左横書き化の流れと対立することになった.
 太平洋戦争が敗戦に終わり,「鬼畜米兵」から「四等国」自認へと,価値が三転すると,国粋主義の支えを失って右横書き化の動きは失速し,一方,ふたたび芽生えた欧米のモダンで豊かな生活文化への憧れに押されて,左横書きの評価は急上昇する.左横書き化が一挙に進み,右横書きは駆逐されて,ついに横書きは左横書きへ統一されることになるのである.


 実際,1946--48年の新聞広告の調査によれば,この3年間という短期間のあいだに,なだれを打って右横書きから左横書きへと移行したことが分かっている(屋名池,p. 171).ただし,注意すべきは,上の引用内でも述べられている通り,左横書きは戦前から一般的な趨勢だったことである.確かに従来戦前から右横書きも並存していたし,終戦直前には特に右横書きが目立ってきたという状況はあったが,それ以前から左横書きの傾向は既定路線だった.戦後になって,その既定路線が改めて日本人に自然に確認され,受け入れられたということだろう.屋名池 (177) 曰く,「左横書きへの統一は戦後の日本語表記の変革のうち,唯一,草の根が生み出し成就させたものなのだ」.つまり,戦前・戦中=右横書き,戦後=左横書きという構図は広く流布しているものの,一種の神話というべきものである.
 だが,人々がその神話を生み出すに至ったのも,終戦前後のほんの数年間で左右転換を遂げたという強烈な印象と記憶があったからだろう.この神話は,当事者たちが自ら作り上げた神話といえるのではないか.

 ・ 屋名池 誠 『横書き登場―日本語表記の近代』 岩波書店〈岩波新書〉,2003年.

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2016-09-02 Fri

#2685. イングランドとノルマンディの関係はノルマン征服以前から [norman_conquest][french][oe][monarch][history][family_tree]

 「#302. 古英語のフランス借用語」 ([2010-02-23-1]) で触れたように,イングランドとノルマンディの接触は,ノルマン人の征服 (norman_conquest) 以前にも存在したことはあまり知られていない.このことは,英語とフランス語の接触もそれ以前から少ないながらも存在したということであり,英語史上の意味がある.
 エゼルレッド無策王 (Ethelred the Unready) の妻はノルマンディ人のエマ (Emma) であり,彼女はヴァイキング系の初代ノルマンディ公ロロ (Rollo) の血を引く.エゼルレッドの義兄弟の孫が,実にギヨーム2世 (Guillaume II),後のウィリアム征服王 (William the Conqueror) その人である.別の観点からいうと,ウィリアム征服王は,エゼルレッドとエマから生まれた後のエドワード聖証王 (Edward the Confessor) にとって,従兄弟の息子という立場である.
 今一度ロロの時代にまで遡ろう.ロロ (860?--932?) は,後にノルマン人と呼ばれるようになったデーン人の首領であり,一族ともに9世紀末までに北フランスのセーヌ川河口付近に定住し,911年にはキリスト教化した.このときに,ロロは初代ノルマンディ公として西フランク王シャルル3世 (Charles III) に臣下として受けいれられた.それ以降,歴代ノルマンディ公は婚姻を通じてフランス,イングランドの王家と結びつき,一大勢力として台頭した.
 さて,その3代目リシャール1世 (Richard I) の娘エマは「ノルマンの宝石」と呼ばれるほどの美女であり,エゼルレッド無策王 (968--1016) と結婚することになった.2人から生まれたエドワードは,母エマの後の再婚相手カヌート (Canute) を嫌って母の郷里ノルマンディに引き下がり,そこで教育を受けたために,すっかりノルマン好みになっていた.そして,イングランドでデーン王朝が崩壊すると,このエドワードがノルマンディから戻ってきてエドワード聖証王として即位したのである.
 このような背景により,イングランドとノルマンディのつながりは,案外早く1000年前後から見られたのである.
 ロロに端を発するノルマン人の系統を中心に家系図を描いておこう.関連して,アングロサクソン王朝の系図については「#2620. アングロサクソン王朝の系図」 ([2016-06-29-1]) と「#2547. 歴代イングランド君主と統治年代の一覧」 ([2016-04-17-1]) で確認できる.

                                   ロロ
                                    │
                                    │
                              ギヨームI世(長剣公)               
                                    │
                                    │
                            リシャールI世(豪胆公)
                                    │
                                    │
                ┌─────────┴──────────┐
                │                                        │
                │                                        │
 クヌート===エマ===エゼルレッド無策王          リシャールII世
                    │                                    │
                    │                                    │
          ┌────┴────┐                          │
          │                  │                          │
          │                  │                          │
  エドワード聖証王       アルフレッド                     │
                                                          │
                    ┌──────────────────┘
                    │
          ┌────┴────┐
          │                  │
          │                  │
    リシャールIII世     ロベールI世(悪魔公)===アルレヴァ
                                               │
                                               │
                                  ギヨームII世(ウィリアム征服王)

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2016-08-04 Thu

#2656. 歴代アメリカ大統領と任期の一覧 [timeline][history][language_planning]

 「#2547. 歴代イングランド君主と統治年代の一覧」 ([2016-04-17-1]),「#2649. 歴代イギリス総理大臣と任期の一覧」 ([2016-07-28-1]) に引き続き,米大統領の一覧を示す.とりわけ最初期の大統領たちは,独立前後の知識人にしばしば見られたように,American English の British English からの独り立ちや,関連する言語改革に関心を寄せていた.したがって,英語史においても話題にのぼる名前がいくつかある.
 歴代アメリカ大統領について,より詳しくは TheUSAonline.com --- All Presidents of the United States, whitehouse.gov --- The PresidentsPresidents of the United States (POTUS) を参照.

名前(生年--歿年)出身州所属党名任期
1George Washington (1732--99)VirginiaFederalist1789--97
2John Adams (1735--1826)MassachusettsFederalist1797--1801
3Thomas Jefferson (1743--1826)VirginiaRepublican1801--09
4James Madison (1751--1836)VirginiaRepublican1809--17
5James Monroe (1758--1831)VirginiaRepublican1817--25
6John Quincy Adams (1767--1848)MassachusettsRepublican1825--29
7Andrew Jackson (1767--1845)South CarolinaDemocrat1829--37
8Martin Van Buren (1782--1862)New YorkDemocrat1837--41
9William Henry Harrison (1773--1841) (在任中に死亡)VirginiaWhig1841
10John Tyler (1790--1862) (副大統領から昇格)VirginiaWhig1841--45
11James Knox Polk (1795--1849)North CarolinaDemocrat1845--49
12Zachary Taylor (1784--1850) (在任中に死亡)VirginiaWhig1849--50
13Millard Fillmore (1800--74) (副大統領から昇格)New YorkWhig1850--53
14Franklin Pierce (1804--69)New HampshireDemocrat1853--57
15James Buchanan (1791--1868)PennsylvaniaDemocrat1857--61
16Abraham Lincoln (1809--65) (在任中に死亡)KentuckyRepublican1861--65
17Andrew Johnson (1808--75) (副大統領から昇格;本来 Democrat であったが Republican から指名されて Lincoln の副大統領候補となった)North CarolinaRepublican1865--69
18Ulysses Simpson Grant (1822--85)OhioRepublican1869--77
19Rutherford Birchard Hayes (1822--93)OhioRepublican1877--81
20James Abram Garfield (1831--81) (在任中に暗殺)OhioRepublican1881
21Chester Alan Arthur (1830--86) (副大統領から昇格)VermontRepublican1881--85
22Grover Cleveland (1837--1908)New JerseyDemocrat1885--89
23Benjamin Harrison (1833--1901)OhioRepublican1889--93
24Grover Cleveland (1837--1908)New JerseyDemocrat1893--97
25William McKinley (1843--1901) (在任中に暗殺)OhioRepublican1897--1901
26Theodore Roosevelt (1858--1919) (副大統領から昇格)New YorkRepublican1901--09
27William Howard Taft (18S7-1930)OhioRepublican1909--13
28(Thomas) Woodrow Wilson (1856--1924) (在任中に死亡)VirginiaDemocrat1913--21
29Warren Gamaliel Harding (1865--1923) (副大統領から昇格)OhioRepublican1921--23
30Calvin Coolidge (1872--1933)VermontRepublican1923--29
31Herbert Clark Hoover (1874--1964)IowaRepublican1929--33
32Franklin Delano Roosevelt (1882--1945) (1940年11月5日と1944年11月7日に再選;在任中に死亡)New YorkDemocrat1933--45
33Harry S. Truman (1884--1972) (副大統領から昇格)MissouriDemocrat1945--53
34Dwight David Eisenhower (1890--1969)TexasRepublican1953--61
35John Fitzgerald Kennedy (1917--63) (在任中に暗殺)MassachusettsDemocrat1961--63
36Lyndon Barnes Johnson (1908--73) (副大統領から昇格)TexasDemocrat1963--69
37Richard Milhous Nixon (1913--94) (在任中に辞任)CaliforniaRepublican1969--74
38Gerald Rudolph Ford (1913--2006) (憲法修正第25条により副大統領から昇格)NebraskaRepublican1974--77
39James Earl Carter ("Jimmy") (1924--)GeorgiaDemocrat1977--81
40Ronald Wilson Reagan (1911--2004)IllinoisRepublican1981--89
41George Herbert Walker Bush (1924--)MassachusettsRepublican1989--93
42William Jefferson Clinton (1946--)ArkansasDemocrat1993--2001
43George Walker Bush (1946--)ConnecticutRepublican2001--09
44Barack Hussein Obama (1961--)HawaiiDemocrat2009--16

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2016-07-30 Sat

#2651. 英語を話せなかった George I と初代総理大臣 Sir Robert Walpole [history][monarch][prime_minister]

 George I について,「#2648. 17世紀後半からの言語的権威のブルジョワ化」 ([2016-07-27-1]),「#2649. 歴代イギリス総理大臣と任期の一覧」 ([2016-07-28-1]) で触れた.今回は,George I の振る舞いとその背景,そして歴史的なインパクトについて述べたい.
 Stuart 家の最後の君主となった Anne が1714年に他界すると,王位はドイツの Hanover 家 (House of Hanover) の George I (1660--1727) に移ることになった.イギリスにドイツ人の国王を迎えるというのは驚くべきことのように思われるが,血縁的にみれば特異なことではなかった.Hanover 朝の最初の国王となった George I の祖母は James II の長女であったし,その娘で,Hanover 選帝侯の妃であった Sophia は George I の母である.本来であれば,Anne の後は,Stuart 王家の血を引く唯一のプロテスタントであった Sophia が王位に就く予定だったが,Anne よりも早くに亡くなったため,長男の George I が王位を継ぐことになったのである.
 George I は王位継承が決まっても,すぐにはロンドンへへ行きたがらなかった.歓迎される王ではないことを自覚していたし,ジャコバイトによる暗殺計画も取りざたされていたからだ.それでも少し遅れて無事にロンドン入りすると,内閣改造を行ない,ホイッグより Charles Townshend (1674--1738), James Stanhope (1673--1721), Sir Robert Walpole (1676--1745) を登用した.とりわけ Walpole には全幅の信頼を寄せ,1717--21年の期間を除いて,政務を任せきりにした.「#2649. 歴代イギリス総理大臣と任期の一覧」 ([2016-07-28-1]) の記事で触れたとおり,これが Prime Minister 職の始まりである.
 George I がこのように政治的に無関心だったことは,イギリス国民が彼に対して反感を抱いていたことと関係するだろう.Stuart 家のもっていた知的な魅力とは対照的に,George I は詩的でなく,人付き合いも悪く,野戦向きというイメージを持たれていた.ドイツに生まれ育って,英語をまったく理解しなかったということも,やむを得ないことではあったが,イギリスでは不評だった.
 しかし,George I の政治的無関心に関する評価はおいておくとしても,イギリス人の反感に正面切って対抗することなく,むしろ自身はしばしば Hanover に引き下がって,イギリスの政務を有能な Walpole に任せきったことは,後のイギリスの内政と外交にとっては幸運な結果をもたらした.責任内閣制はいっそう強固となり,国王の「君臨すれども統治せず」の方針が顕著となっていったからだ.
 結果としてみれば,英語を話せなかった George I は,18世紀前半にイギリスの国力を増強させることになる一流の人事を仕切ったのである.後の大英帝国の発展と英語の世界的な普及との関係を考慮すると,George I が英語を話せなかった事実も,新たな角度から評価することができるように思われる.以上,森 (478--90) を参照して執筆した.

 ・ 森 護 『英国王室史話』16版 大修館,2000年.

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2016-07-28 Thu

#2649. 歴代イギリス総理大臣と任期の一覧 [timeline][history][prime_minister]

 昨日の記事「#2648. 17世紀後半からの言語的権威のブルジョワ化」 ([2016-07-27-1]) で触れたように,イギリスの総理大臣 (Prime Minister) は,英語を話すことのできない国王 George I (在位1714--27年)が国内政治に無関心で,大臣の会議に出席するのを辞めてしまったために,行政の最高責任職として置かれたポストである.初代総理大臣は Sir Robert Walpole であるとされる.
 先日,新たなイギリスの総理大臣として Theresa May が就任したこともあるので,ここで歴代イギリス総理大臣を一覧しておきたい.関連HPとして,Past Prime Ministers - GOV.UKList of Prime Ministers of Great Britain and the United Kingdom も参照.歴代君主一覧については,「#2547. 歴代イングランド君主と統治年代の一覧」 ([2016-04-17-1]) をどうぞ.

名前(生年--歿年)所属党名任期
Sir Robert Walpole (1676--1745)Whig1721--42
Earl of Wilmington (1673?--1743) 1742--43
Henry Pelham (1696--1754) 1743--54
Duke of Newcastle (1693--1768) 1754--56 (第1次)
Duke of Devonshire (1720--64) 1756--57
Duke of Newcastle (1693--1768) 1757--62 (第2次)
Earl of Bute (1713--92) 1762--63
George Grenville (1712--70) 1763--65
Marquess of Rockingham (1730--82) 1765--66 (第1次)
Earl of Chatham (1708--1778) 1766--68
Duke of Grafton (1735--1811) 1768--70
Lord North (1732--92)Tory1770--82
Marquess of Rockingham (1730--82)Whig1782 (第2次)
Earl of Shelburne (1737--1805)Whig1782--83
Duke of Portland (1738--1809)Coalition1783 (第1次)
William Pitt (1759--1806)Tory1783--1801 (第1次)
Henry Addington (1757--1844)Tory1801--04
William Pitt (1759--1806)Tory1804--06 (第2次)
Lord William Grenville (1759--1834)Whig1806--07
Duke of Portland (1738--1809)Tory1807--09 (第2次)
Spencer Perceval (1762--1812)Tory1809--12
Earl of Liverpool (1770--1828)Tory1812--27
George Canning (1770--1827)Tory1827
Viscount Goderich (1782--1859)Tory1827--28
Duke of Wellington (1769--1852)Tory1828--30 (第1次)
Earl Grey (1764--1845)Whig1830--34
Viscount Melbourne (1779--1848)Whig1834 (第1次)
Duke of Wellington (1769--1852) 1834 (第2次)
Sir Robert Peel (1788--1850)Tory1834--35 (第1次)
Viscount Melbourne (1779--1848)Whig1835--41 (第2次)
Sir Robert Peel (1788--1850)Tory1841--46 (第2次)
Lord John Russell (1792--1878)Whig1846--52 (第1次)
Earl of Derby (1799--1869)Tory1852 (第1次)
Earl of Aberdeen (1784--1860)Coalition1852--55
Viscount Palmerston (1784--1865)Liberal1855--58 (第1次)
Earl of Derby (1799--1869)Conservative1858--59 (第2次)
Viscount Palmerston (1784--1865)Liberal1859--65 (第2次)
Earl Russell (1792--1878)Liberal1865--66 (第2次)
Earl of Derby (1799--1869)Conservative1866--68 (第3次)
Benjamin Disraeli (1804--81)Conservative1868 (第1次)
William Ewart Gladstone (1809--98)Liberal1868--74 (第1次)
Benjamin Disraeli, Earl of Beaconsfield (1804--81)Conservative1874--80 (第2次)
William Ewart Gladstone (1809--98)Liberal1880--85 (第2次)
Marquess of Salisbury (1830--1903)Conservative1885--86 (第1次)
William Ewart Gladstone (1809--98)Liberal1886 (第3次)
Marquess of Salisbury (1830--1903)Conservative1886--92 (第2次)
William Ewart Gladstone (1809--98)Liberal1892--94 (第4次)
Earl of Rosebery (1847--1929)Liberal1894--95
Marquess of Salisbury (1830--1903)Conservative1895--1902 (第3次)
Arthur James Balfour (1848--1930) 1902--05
Sir Henry Campbell-Bannerman (1836--1908)Liberal1905--08
Herbert Henry Asquith (1852--1928)Liberal+Coalition1908--16
David Lloyd George (1863--1945)Coalition1916--22
Andrew Bonar Law (1858--1923)Conservative1922--23
Stanley Baldwin (1867--1947)Conservative1923--24 (第1次)
James Ramsay MacDonald (1866--1937)Labour1924 (第1次)
Stanley Baldwin (1867--1947)Conservative1924--29 (第2次)
James Ramsay MacDonald (1866--1937)Labour+Coalition1929--35 (第2次)
Stanley Baldwin (1867--1947)Coalition1935--37 (第3次)
Neville Chamberlain (1869--1940)Coalition1937--40
Winston Spencer Churchill (1874--1965)Coalition1940--45 (第1次)
Clement Richard Attlee (1883--1967)Labour1945--51
Sir Winston Spencer Churchill (1874--1965)Conservative1951--55 (第2次)
Sir Anthony Eden (1897--1977)Conservative1955--57
Harold Macmillan (1894--1986)Conservative1957--63
Sir Alec Frederick Douglas-Home (1903--95)Conservative1963--64
Harold Wilson (1916--95)Labour1964--70 (第1次)
Edward Heath (1916--2005)Conservative1970--74
Harold Wilson (1916--95)Labour1974--76 (第2次)
James Callaghan (1912--2005)Labour1976--79
Margaret Thatcher (1925--2013)Conservative1979--90
John Major (1943--)Conservative1990--97
Tony Blair (1953--)Labour1997--2007
Gordon Brown (1951--)Labour2007--10
David Cameron (1966--)Conservative2010--16
Theresa May (1956--)Conservative2016--19

Referrer (Inside): [2016-08-04-1] [2016-07-30-1]

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2016-07-27 Wed

#2648. 17世紀後半からの言語的権威のブルジョワ化 [sociolinguistics][history][monarch][dryden]

 近代英語において,言語的権威はどこにあると考えられていたか.この答えは,近代英語の初期とそれ以降の時代とで異なっていた.
 Knowles (120) によれば,Elizabeth 朝を含め,それ以降の1世紀のあいだ君主と結びつけられていた言語的権威が,17世紀後半から18世紀にかけて中産階級と結びつけられるようになり,現在にまで続くイギリスにおける階級と言語使用の密接な関係の歴史が始まったという.

In a hierarchical society, it must seem obvious that those at the top are in possession of the correct forms, while everybody else labours with the problems of corruption. The logical conclusion is that the highest authority is associated with the monarchy. In Elizabeth's time, the usage of the court was asserted as a model for the language as a whole. After the Restoration, Dryden gave credit for the improvement of English to Charles II and his court. It must be said that this became less and less credible after 1688. William III was a Dutchman. Queen Anne was not credited with any special relationship with the language, and Addison and Swift were rather less than explicit in defining the learned and polite persons, other than themselves, who had in their possession the perfect standard of English. Anne's successor was the German-speaking elector of Hanover, who became George I. After 1714, even the most skilled propagandist would have found it difficult to credit the king with any authority with regard to a language he did not speak. Nevertheless, the monarchy was once again associated with correct English when the popular image of the monarchy improved in the time of Victoria.
   After 1714 writers continued to appeal to the nobility for support and to act as patrons to their work on language. Some writers, such as Lord Chesterfield, were themselves of high social status. Robert Lowth became bishop of London. But ascertaining the standard language essentially became a middle-class activity. The social value of variation in language is that 'correct' forms can be used as social symbols, and distinguish middle class people from those they regard as common and vulgar. The long-term effect of this is the development of a close connection in England between language and social class.


 ここで説かれているのは,政治的権威と言語的権威の連動である.理想的な君主制においては,君主の指導者としての地位と,彼らが話す言語の地位とが連動しているはずである.絶対的な政治的権力をもっている国王の口から出る言葉が,その言語の典型であり,模範であり,理想であるはずである.しかし,18世紀末以降に君臨したイギリス君主は,オランダ人の William III だったり,ドイツ人の George I であったりと,ろくに英語を話せない外国人だったのである(関連して,「#141. 18世紀の規範は理性か慣用か」 ([2009-09-15-1]) も参照).そこから推測されるように,イギリス君主は実際にイギリスの政治にそれほど関心がなかったのであり,イギリス国民によって「典型」「模範」「理想」とみなされるわけもなかった.ここから,国王の代理として政治を運営する "Prime Minister" 職(初代は Sir Robert Walpole)が作り出され,その職の重要性が増して現在に至るのだから,皮肉なものである.こうして,政治的権威は,国王から有力国民の代表者,実質的には富裕なブルジョワの代表者へと移行した.
 当然ながら,それと連動して,言語的権威の所在も国王からブルジョワの代表者へと,とりわけ言語に対して意識の高い文人墨客へと移行した.こうして,国王ではなく,身分の高い教養のある階級の代表者が英語の正しさを定め,保つ伝統が始まった.21世紀の言葉遣いにもの申す "pundit" たちも,この伝統の後継者に他ならない.

 ・ Knowles, Gerry. A Cultural History of the English Language. London: Arnold, 1997.

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