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history - hellog〜英語史ブログ

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2015-10-24 Sat

#2371. ポルトガル史年表 [history][timeline][portuguese][map][age_of_discovery]

 昨日の記事「#2370. ポルトガル語からの語彙借用」 ([2015-10-23-1]) で,ポルトガル語からの世界的な借用語をみた.この借用語彙の世界性は,15--16世紀にポルトガルが海洋国として世界へ展開した歴史に負っている.その背景を理解すべく,地図も添えつつ,ポルトガルの歴史年表を『ナショナルジオグラフィック 世界の国 ポルトガル』の巻末 (p. 60--61) より再現しよう.

Map of Portugal

紀元前4200ころ初期の組織的な社会によって,ポルトガルのポカ・デ・ガチエールやゴルジネスに巨石墓が建てられる.
紀元前500鉄器時代のケルト人が北部ポルトガルを支配する.
紀元前201ローマ帝国がポルトガルの南部海岸を支配下におく.
紀元前140ローマがケルト人の抵抗を制圧して支配を拡大する
紀元前27ローマ皇帝カエサル・アウグストゥスが,ポルトガル中部をふくむ属州ルシタニアをつくる.
567ゲルマン系の西ゴート人がイベリア半島に支配を拡大する.
711イスラム教徒の軍隊がイベリア半島に侵入する.その後7年のうちにイベリア半島のほぼ全体が,ムーア人のウマイア朝の支配下におかれる.
1096ブルゴーニュ家のエンリケがポルトゥカーレ伯となる.
1143アフォンソ・エンリケスが王となりイベリア半島の他の部分から分離独立したポルトガル王国が建国される.
1249アフォンソ3世がイベリア半島から最後のムーア人を追い出し,ポルトガル国境を確立する.
1416エンリケ航海王子がザグレスに海軍基地と航海学校をつくり,大航海時代がはじまる.
1488ポルトガル人航海士のバルトロメウ・ディアスが喜望峰をまわる航海に成功.のちにアジアへの航路を確立する.
1494スペインとポルトガルがトルデシリャス条約をむすび,新たに南北アメリカ大陸で発見した土地を両国で分割する.
1497ヴァスコ・ダ・ガマがインドへの2年間の航海に乗り出す.この後,ポルトガル人のゴアへの入植,インドとの貿易が始まる.
1500ペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルに到達し,ポルトガルとアメリカ大陸との貿易路を開く.
1572ルイス・ヴァス・デ・カモンイスがポルトガル人の永遠の象徴となる『ルジアダス』を著す.
1580スペイン王フェリペ2世がポルトガル王フィリペ1世として即位し,ポルトガルはスペインに併合される.
1609ポルトガル王フィリペ2世がすべてのモリスコ(キリスト教徒に改宗したムーア人)の追放を命じる.この決定により,ポルトガル経済は大きな痛手をうける.
1650ころアズレージョ(装飾スタイル)の主要生産国となる.
1755大地震がリスボンを襲い,6万人が死亡,多数の建物が倒壊する.リスボンはポンバル侯爵の指揮のもと再建される.
1807ナポレオン・ボナパルトがポルトガルに侵攻.国王ジョアン6世はブラジルに逃れ,1821年までブラジルにいる.
1822ジョアン6世の息子のペドロがブラジルの独立を宣言し,ブラジル皇帝となる.
1846民衆蜂起により,国内が自由主語と保守主義のふたつの勢力に分かれる.
1890イギリスの最後通牒をうけて,アフリカにおける植民地拡大計画を放棄する.
1908カルロス国王と長男がリスボンで暗殺される.次男がマヌエル2世として即位.
1910革命勢力がマヌエル2世を退位させ,第1共和制を樹立.
1911新憲法を採択.女性参政権が認められる.
1916リスボンでドイツ船が拿捕され,ドイツが宣戦布告.ポルトガルは連合国側として第1次世界大戦終結まで2年間戦う.
1926軍がクーデターで政権を奪い,48年間にわたる軍事政権がはじまる.
1928アントニオ・デ・オリヴェイラ・サラザールが財務大臣に就任する.
1932サラザールが首相となり,やがて独裁者となる.
1933「エスタド・ノヴォ(新国家)」憲法を採択し,言論の自由を制限し,ストライキおよび反政府運動を禁止する.
1936サラザールがスペイン内戦でフランシスコ・フランコ将軍率いる右派勢力を支持.
1939第2次世界大戦中の中立を宣言する.しかし戦争のあいだ,イギリスがアゾレス諸島の空軍基地を使用することを認める.
1947独裁制に反対するリスボンの港湾労働者と軍将校らによる氾濫を,政府が鎮圧.
1949北大西洋条約機構 (NATO) の創設メンバーとなる.
1955国際連合(国連)に加盟.
1961インドがポルトガルの植民地ゴアを併合する.アンゴラ,ギニア,モザンビークで反乱がおきる.
1968サラザールが発作で倒れた後,マルセロ・カエターノが首相に就任し,新国家憲法にもとづいて政治をおこなう.
1974カーネーション革命で,軍将校がヨーロッパ最長の独裁制を倒す.民衆の要求により,新政府は民主主義を採用.
1975植民地だったギニア・ビサウ,モザンビーク,カボベルデ,サントメ・プリンシペ,アンゴラの独立承認の手続きが完了する.
1982文民政権が復活する.
1986マリオ・ソアレスが60年ぶりの文民の大統領となる.アニバル・カバコ・シルバが首相に就任.ヨーロッパ連合 (EU) の前進であるヨーロッパ経済共同体に加盟.
1999最後に残っていた海外領土であるマカオが中華人民共和国に返還される.
2002通貨エスクードの使用をやめ,ユーロに移行する.


 15世紀前半,エンリケ航海王子により「大航海時代」が拓かれると,1世紀半の間,ポルトガルは世界を駆け巡り,隆盛をきわめた.この時期のポルトガルの活躍によって,英語や日本語にも世界的な語彙が流入したのである.
 しかし,その後,16世紀後半にスペイン王フェリペ2世によって併合されるに及び,ポルトガルの国力は相対的に減じていく.17世紀末にブラジルに金鉱が発見されると,ポルトガルは再び活力を取り戻すかと思われたが,その富の多くは貿易協定を通じてむしろイギリスに吸い取られていき,イギリスでの産業革命を支えることになった.イギリスとの関係でいえば,19世紀末にもポルトガルはイギリスの圧力により,アフリカでの植民地拡大計画を放棄せざるをえなくなった経緯がある.ポルトガルにとって,イギリスは,歴史上古い同盟国でありながらも,ときに目の上のたんこぶだったのである.
 しかし,ポルトガル建国以来の国語であるポルトガル語に注目すれば,現在も世界に名立たる大言語の1つである.「#397. 母語話者数による世界トップ25言語」 ([2010-05-29-1]) によれば,世界第7位の言語であり,その話者数は世界中に2億人近くいると見積もられている.

 ・ ザイラ・デッカー 『ナショナルジオグラフィック 世界の国 ポルトガル』 ほるぷ出版,2010年.

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2015-10-14 Wed

#2361. アイルランド歴史年表 [timeline][history][ireland][irish_english][map]

 アイルランド英語史について,「#1715. Ireland における英語の歴史」 ([2014-01-06-1]),「#762. エリザベス女王の歴史的なアイルランド訪問」 ([2011-05-29-1]) の記事を通じて略述してきた.背景にあるアイルランドの外面史も整理しておこうと思い,アンナ・マックィン,コルム・マックィン (60--61) を中心に,波多野も参照しつつ,略年表を用意した.アイルランドの地図も参考までに.

Map of Ireland

紀元前7000ごろスコットランドから最初の人々が陸地をつたわってアイルランドに来て住む.
紀元前3200ごろボイン川流域に羨道墳がつくられる.
紀元前2000ごろアイルランドで金属細工がはじまる.
紀元前700ごろケルト人がアイルランドにやってくる.
432ごろ聖パトリックがアイルランドに来て,この国の大半をキリスト教に改宗させる.
795最初のバイキングがダブリン近くの島ランベイに上陸し,入植地を作る.
800ごろおそらくアイオナ島のアイルランド人の修道院で,きわめて緻密な装飾をほどこしたアイルランドの代表的写本『ケルズの書』がつくられる.
1014アイルランドの王ブライアン・ボルーがアイルランド全土を統一し,クロンターフの戦いでバイキングを破る.しかし戦いの直後,王は死亡.
1170「ストロングボウ」ことペンブローク泊がアイルランドに侵攻し,ノルマン人のアイルランド侵略が始まる.1年後,ストロングボウがレンスターの王になる.
1171イングランド国王ヘンリー2世がアイルランドの大部分を支配下におさめる.
1366アイルランドに入植したノルマン人の勢力をおさえるため,イングランドが「キルケニー法」を制定する.
1494イングランド国王ヘンリー7世がアイルランド議会をイングランド枢密院の支配下におき,アイルランド支配を強める.
1601イングランド女王エリザベス1世がアイルランドに軍を送り,ティロン伯ヒュー・オニールおよび同盟軍をキンセールの戦いで破る.
1603イングランドがアイルランド全土を征服.
1641カトリックのアイルランド人が,プロテスタントのイングランド人入植者に奪われた土地を取りもどすために立ち上がり,数百人のプロテスタントを殺害.
1649イングランドの護国卿オリバー・クロムウェル率いる軍がアイルランドのドローエダとウェクスフォードで数千人を虐殺.カトリックのアイルランド人の土地をプロテスタントの入植者にあたえる.
1690オレンジ公ウィリアムがボイン川の戦いでジェイムズ2世の軍を破り,北部アイルランドのプロテスタント居住地を守る.
1782アイルランド議会が独自の法律を制定する権利を得る.
1798アイルランドの独立を求め,統一アイルランド人協会などの勢力が反乱をおこすが,失敗に終わり,数万人が死亡.
1801連合法により,グレートブリテンおよびアイルランド連合王国が成立.
1845ジャガイモに疫病が発生し,4年におよぶ飢饉となる.膨大な数のアイルランド人が移民となってアメリカなどに渡る.
1870ウィリアム・グラッドストーン首相がアイルランド人の小作農の法的権利を強め,最終的には土地所有を認める新しい法を成立させる.
1913アイルランド自治法案がイギリス上院で3度目の否決にあう.
1914第1次世界大戦の勃発により,アイルランド議会の復活と,アイルランドの権利拡大に関する法の制定が遅れる.
1916イースター蜂起でアイルランドの民族主義勢力が主要な建物を占拠し,アイルランド共和国の独立を宣言.しかし氾濫はイギリス軍によって鎮圧される.
1916ジェイムズ・ジョイスが『若き芸術家の肖像』を出版し,同時代の主要な作家として活躍しはじめる.
1919前年の選挙に勝ったシン・フェイン党がアイルランド国民議会(ドイル)をつくり,ふたたびイギリスからの独立を宣言.(シン・フェインとは「われわれ自身で」という意味.)イギリスと国民議会支持勢力とのあいだで戦闘がおきる.
1920イギリス議会でアイルランド統治法が成立.北アイルランドの6州にひとつの議会,それ以外のアイルランドにひとつの議会が,それぞれつくられる.
1921イギリス自治領としてのアイルランド自由国を成立させる.イギリス・アイルランド条約が結ばれる.北アイルランド6州はイギリス統治下にとどまる.
1922イギリスからの完全独立をもとめる民族主義勢力の反対を押し切り,国民議会がイギリス・アイルランド条約を承認.条約支持派と反対派との1年におよぶ内戦が勃発.
1937アイルランド自由国を廃止して独立民主国家エールの樹立を宣言する新憲法が,国民の投票により承認される.
1949イースター蜂起(1916年)を記念して,4月,エールが共和制国家アイルランドとなり,イギリス連邦を脱退する.
1955国際連合に加盟.
1959エーモン・デ・ヴァレラが大統領に就任.
1973ヨーロッパ経済共同体 (EEC) に加盟.アイルランド共和軍 (IRA) が北アイルランドでの攻撃を再開.
1985イギリスとのあいだに,イギリス・アイルランド協定がむすばれる.これによりアイルランドは,北アイルランド統治に関して提言する役割をあたえられる.
1991ヨーロッパ連合 (EU) に加盟.
1993イギリス・アイルランド両首相が,テロ行為が集結すれば北アイルランド和平交渉を提案するという共同宣言(ダウニング街宣言)に署名.
1998アイルランドと北アイルランドでの投票により,ベルファスト合意(聖金曜日協定)のしめす北アイルランド問題の政治的解決が承認される.
2004EUの議長国となる.
2004ヨーロッパ最大の経済成長を達成する.
2005IRAが武力闘争の終結を宣言する.
2007バーティ・アハーンが3期目の首相に選出される.


 ・ アンナ・マックィン,コルム・マックィン 『ナショナルジオグラフィック 世界の国 アイルランド』 ほるぷ出版,2011年.
 ・ 波多野 裕造 『物語アイルランドの歴史』 中央公論新社〈中公新書〉,1994年.

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2015-10-12 Mon

#2359. 英語が非民主的な言語と呼ばれる理由 (3) [history][loan_word][lexicology][borrowing][linguistic_imperialism][language_myth][purism]

 標題と関連して,「#134. 英語が民主的な言語と呼ばれる理由」 ([2009-09-08-1]),「#1366. 英語が非民主的な言語と呼ばれる理由」 ([2013-01-22-1]),「#1845. 英語が非民主的な言語と呼ばれる理由 (2)」 ([2014-05-16-1]) で様々な見解を紹介してきた.今回は,主として英語が歴史的に他言語から多くの語彙を借用してきた事実に照らして,英語の民主性・非民主性について考えてみたい.
 英語が多くの言語からおびただしい語彙を借用してきたことは,言語的純粋主義 (purism) の立場からの批判が皆無ではないにせよ,普通は好意的に語られる.英語の語彙借用好きは,ほとんどすべての英語史記述でも強調される特徴であり,これを指して "cosmopolitan vocabulary" などと持ち上げられることが多い.続けて,英語,そして英語国民は,柔軟にして鷹揚,外に対して開かれており,多様性を重んじる伝統を有すると解釈されることが多い.歴史的に英語国では言語を統制するアカデミーが設立されにくかったこともこの肯定的な議論に一役買っているだろう.また,もう1つの国際語であるフランス語が上記の点で英語と反対の特徴を示すことからも,相対的に英語の「民主性」が浮き彫りになる.
 しかし,英語の民主性に関する肯定的なイメージはそれ自体が作られたイメージであり,語彙借用のある側面を反映していないという.Bailey (91) によれば,植民地帝国主義時代の英国人は,その人種的優越感ゆえに,諸言語からの語彙をやみくもに受け入れたわけではなく,むしろすでに他のヨーロッパ人が受け入れていた語彙についてのみ自らの言語へ受け入れることを許したという.これが事実だとすれば,英語(国民)はむしろ非民主的であると言えるかもしれない.

Far from its conventional image as a language congenial to borrowing from remote languages, English displays a tendency to accept exotic loanwords mainly when they have first been adopted by other European languages or when presented with marginal social practices or trivial objects. Anglophones who have ventured abroad have done so confident of the superiority of their culture and persuaded of their capacity for adaptation, usually without accepting the obligations of adapting. Extensive linguistic borrowing and language mixing arise only when there is some degree of equality between or among languages (and their speakers) in a multilingual setting. For the English abroad, this sense of equality was rare. Whether it is a language more "friendly to change than other languages" has hardly been questioned; those who embrace the language are convinced that English is a capacious, cosmopolitan language superior to all others.


 Bailey によれば,「開かれた民主的な英語」のイメージは,それ自体が植民地主義の産物であり,植民地主義時代の語彙借用の事実に反するということになる.
 ただし,Bailey の植民地主義と語彙借用の議論は,主として近代以降の歴史に関する議論であり,英語が同じくらい頻繁に語彙借用を行ってきたそれ以前の時代の議論には直接触れていないことに注意すべきだろう.中英語以前は,英語はラテン語やフランス語から多くの語彙を借り入れなければならない,社会的に下位の言語だったのであり,民主的も非民主的も論ずるまでもない言語だったのだから.

 ・ Bailey, R. Images of English. Ann Arbor: U of Michigan P, 1991.

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2015-10-06 Tue

#2353. なぜアングロサクソン人はイングランドをかくも素早く征服し得たのか [history][anglo-saxon][celtic]

 4世紀間にわたってブリテン島の大域を治めていたローマ人は,410年,ローマ自身を守るべく,軍をブリテン島から引きあげた.この撤退によって生まれた政治的空白状況により,ブリテン島はケルト諸民族の内乱時代へと突入する.ある民族が,軍事的支援を得るべく大陸に蟠踞していたアングル人,サクソン人など西ゲルマン諸民族をブリテン島に呼び寄せると,むしろ西ゲルマン軍はケルト軍の弱みを見てとり,一気に征服し,島の新しい覇者となった.
 これは,アングロサクソン人によるブリテン島征服の,伝統的,教科書的な記述である.ここでは,アングロサクソン人の完全勝利,ケルト人の完全敗北という実にわかりやすい構図が描かれている.人口構成がほぼ180度転換したといってよく,それに伴って,この島の主たる使用言語も,ケルト系諸語から西ゲルマン諸語(すなわち,ひっくるめて英語)へ交替した.アングロサクソン人は,ケルト人を完膚なきまでに叩きのめすか,あるいは島の北方や西方など周辺部へと徹底的に追いやったことになる.
 しかし,これほどまでの完全征服というのは,アングロサクソン人にとって,話しがうまくできすぎてやいないか.そのような観点から,実際にはかなりの程度アングロサクソン人とケルト人の融合があったのではないか,などの議論がなされてもいる.
 そのような修正的な見方が出てきているとはいえ,アングロサクソン人によるイングランド征服が著しく素早く,かつ効率的になされたことは事実のようだ.標題は歴史学の問題ではあるが,当然ながら英語史においても重要な問題である.Denison and Hogg (10) は,上記の教科書的な記述を一通り説明した後で,次のように述べている.

But that is not quite enough to explain the rapidity of the Germanic settlement, which was far more a conquest of Britain, linguistically speaking, than the Norman Conquest 500 years later would be. What its speed suggests is that there must have been considerable population pressure in northwestern Europe at the time, perhaps partly because in the fifth century the average temperature was lower than it had been earlier and would again be later. Whatever the case may have been, this conquest saw an overwhelmingly rapid replacement or absorption of the existing Celtic linguistic community by the newly arrived Germanic speakers. There is now some genetic evidence for mass immigration to central English . . . , consistent with displacement of the male Celtic population by Anglo-Saxons but saying nothing about females. Before long Celtic speakers had been confined to the lands west of Offa's Dyke, to Cornwall, the northwest, and north of the Borders of Scotland. The gradual elimination of Celtic has continued remorselessly, albeit slowly, ever since. It may only have been with the coming of Christianity and the establishment of churches and abbeys that Anglo-Saxon England started to achieve the beginning of the types of political and social structure which we associate with later centuries.


 近年,英語史においてケルト語の言語的影響がしばしば話題にされるようになってきたが,この「電撃的な」アングロサクソン人の侵攻は,そのような仮説の前提にも関わる大きな問題である.事実のいっそうの解明が待たれる.

 ・ Denison, David and Richard Hogg. "Overview." Chapter 1 of A History of the English Language. Ed. Richard Hogg and David Denison. Cambridge: CUP, 2006. 1--42.

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2015-09-18 Fri

#2335. parliament [parliament][etymology][etymological_respelling][history][med][spelling]

 英国は,議会の国である.イングランド政治史は,国王と議会の勢力争いの歴史という見方が可能であり,parliament という単語のもつ意義は大きい.英語史においてもイングランド議会史は重要であり,このことは昨日の記事「#2334. 英語の復権と議会の発展」 ([2015-09-17-1]) で触れた通りである.また,「#880. いかにもイギリス英語,いかにもアメリカ英語の単語」 ([2011-09-24-1]) でみたように,parliament は,アメリカ英語に対してイギリス英語を特徴づけるキーワードの1つともなっている.
 parliament という語は,Anglo-Norman の parlement, parliment, parliament や Old French, Middle French の parlement が,13世紀に英語へ借用されたものであり,原義は「話し合い,会議」である (cf. ModF parler (to speak); PDE parley) .これらの源となるラテン語では parlamentum という形が用いられたが,イギリスの文献のラテン語においては,しばしば parliamentum の綴字が行われていた.ただし,英語では借用当初は -e- などの綴字が一般的であり,-ia- の綴字が用いられるようになるのは15世紀である.MEDparlement(e (n.) により,多様な綴字を確認されたい.
 -ia- 形の発展については,確かなことはわかっていないが,ラテン語の動詞語尾 -iare や,それに対応するフランス語の -ier の影響があったともされる (cf. post-classical L maniamentum (manyment), merciamentum (merciament)) .現代英語では,-ia- は発音上 /ə/ に対応することに注意.
 parliament という語とその指示対象が歴史的役割を担い始めたのは,Henry III (在位 1216--72) の治世においてである.OALD8parliament の項の文化欄に以下の記述があった.この1語に,いかに英国史のエッセンスが詰まっていることか.

The word 'parliament' was first used in the 13th century, when Henry III held meetings with his noblemen to raise money from them for government and wars. Several kings found that they did not have enough money, and so they called together representatives from counties and towns in England to ask them to approve taxes. Over time, the noblemen became the House of Lords and the representatives became the House of Commons. The rise of political parties in the 18th century led to less control and involvement of the sovereign, leaving government in the hands of the cabinet led by the prime minister. Although the UK is still officially governed by Her Majesty's Government, the Queen does not have any real control over what happens in Parliament. Both the House of Lords and the House of Commons meet in the Palace of Westminster, also called the Houses of Parliament, in chambers with several rows of seats facing each other where members of the government sit on one side and members of the Opposition sit on the other. Each period of government, also called a parliament, lasts a maximum of five years and is divided into one-year periods called sessions.

Referrer (Inside): [2018-09-19-1]

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2015-09-17 Thu

#2334. 英語の復権と議会の発展 [law_french][register][french][bilingualism][latin][reestablishment_of_english][history][parliament][hundred_years_war]

 ノルマン征服 (norman_conquest) でいったん地位の下落した英語が,中英語期半ばからフランス語やラテン語に抗して徐々に復権していく過程について,本ブログでは reestablishment_of_english の各記事で取り上げてきた.英語の復権は数世紀にわたる緩慢な過程であるため,途中の各段階での共時的な状況がとらえにくい.この点で,同じく緩慢に進行した「#2321. 綴字標準化の緩慢な潮流」 ([2015-09-04-1]) とも類似する.この種の歴史的状況をよく理解するためには,同じ問題を様々な角度から眺め,立体的な像を作り上げていくしかない.
 関連した問題として,先日「#2330. 13--14世紀イングランドの法律まわりの使用言語」 ([2015-09-13-1]) を取り上げた.今回は,出版されたばかりの,読みやすい君塚直隆氏によるイギリス史概説書より,同じく法律まわりの使用言語という観点から,英語の復権について触れられている箇所があるので,引用したい.

「ノルマン征服」以後,イングランド貴族の日常言語はフランス語であり,公式の文書などにはラテン語が用いられてきた.これがジョンによる「ノルマン喪失」以降,貴族の間でも英語が日常的に使われ,エドワード3世治世下の一三六三年からは議会での日常語は正式に英語と定められた.庶民院にはフランス語ができない層が数多くいたこととも関わっていた.
 議会の公式文書のほうは,一五世紀前半まではラテン語とともにフランス語が使われていたが,一四八九年からは法令の草稿も英語となった(議会制定法自体はラテン語のまま).最終的に法として認められる「国王による裁可」(ロイヤル・アセント)も,一七世紀前半まではフランス語が使われていたが,共和制の到来(一六四九年)とともに英語に直され,以後今日まで続いている. (134--35)


 引用でも示唆されているとおり,英語の復権は,議会の発展と少なからず並行している.13世紀以降,イングランドの歴代の王は,John の失った大陸の領地を奪還すべく対仏戦争をしかけてゆく.しかし,戦争は費用がかかる.特に14世紀の百年戦争に際して,Edward III は戦費調達のために国民に対する課税を要求したが,すでにその時代までには,国王であれ非課税者の代表が集まる議会の承認なくしては実現しにくい案件となっていた.国政における議会の役割が大きくなり,構成員,審議内容,手続きなどが洗練されてきたのが,Edward III の治世 (1327--77) だった.この時代に,英語が公的な使用を認められてゆくようになるというのは,偶然ではない.
 話し言葉の世界では上記のように英語の復権が着々と進んだが,書き言葉の世界ではまだまだ伝統と惰性が物を言い,フランス語とラテン語がしばらく公用語としての地位を守り続けることになった.それでも,数世紀単位でみれば,やはり公的な英語の復権の潮流は,中英語半ばにはすでに生まれていたとみてよいだろう.

 ・ 君塚 直隆 『物語 イギリスの歴史(上)』 中央公論新社〈中公新書〉,2015年.

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2015-07-15 Wed

#2270. イギリスからアメリカへの移民の出身地 (3) [history][ame][bre][ame_bre][geography][map][demography][rhotic]

 「#2261. イギリスからアメリカへの移民の出身地 (1)」 ([2015-07-06-1]),「#2262. イギリスからアメリカへの移民の出身地 (2)」 ([2015-07-07-1]) に引き続いての話題.[2015-07-07-1]では,Fisher を参照した Gramley による具体的な数字も示しながら,初期移民の人口統計を簡単に確認したが,この Fisher 自身は David Hackett Fischer による Albion's Seed (1989年) に拠っているようだ.さらに,この D. H. Fischer という学者は,アメリカ英語史研究者の先達である Hans Kurath, George Philip Krapp, Allen Walker Read, Albert Marckwardt, Raven McDavid, Cleanth Brooks 等に依拠しつつ,具体的な人口統計の数字を提示しながら,イギリス英語とアメリカ英語の連続性を主張しているのである.
 Fischer の記述を信頼して Fisher がまとめた(←名前の綴りが似ていて混乱するので注意!)初期移民史について,以下に引用しよう (Fisher 60) .初期植民地への移民の95%以上がイギリスからであり,それは4波にわかれて行われたという.

1. 20,000 Puritans largely from East Anglia to to New England, 1629--41, to escape the tyranny of the crown and the established church that led to the Puritan revolution;
2. 40,000 Cavaliers and their servants largely from the southwestern counties of England to the Chesapeake Bay area and Virginia, 1642--75, to escape the Long Parliament and Puritan rule;
3. 23,000 Quakers from the North Midlands and many like-minded evangelicals from Wales, Germany, Holland, and France, to the Delaware Valley and Pennsylvania, 1675--1725, to escape the Act of Uniformity in England and the Thirty Years War in Europe;
4. 275,000 from the North Border regions of England, Scotland, and Ulster to the backcountry of New England, western Pennsylvania, and the Appalachians, 1717--75, to escape the endemic conflict and poverty of the Border regions, and especially the 1706--7 Act of Union between England and Scotland, which brought about the "pacification" of the border, transforming it from a combative society in need of many warriors to a commercial and industrial society in need of no warriors, with the consequent large-scale displacement of the rural population.


 Fischer は伝統的なアメリカへの初期移民史の記述を人口統計によって補強したということだが,これは英語変種の連続性を考える上では非常に重要な情報である.
 イギリス変種からアメリカ変種への連続性を論じる際に必ず話題になるのは,non-prevocalic /r/ である.この話題については「#452. イングランド英語の諸方言における r」 ([2010-07-23-1]) と「#453. アメリカ英語の諸方言における r」 ([2010-07-24-1]) で合わせて導入し,「#1267. アメリカ英語に "colonial lag" はあるか (2)」 ([2012-10-15-1]) で問題の複雑さに言及したとおりだが,Fisher (75--77) も慎重な立場からこの問題に対している.確かに,250年ほど前に non-prevocalic /r/ の消失がロンドン近辺で始まったということと,アメリカへの移民が17世紀前半に始まったということは,アナクロな関係ではあるのだ.それでも,歴史言語学的な連続性に関する軽々な主張は慎むべきであるものの,一方で英語史研究において連続性の可能性に注意を払っておくことは常に必要だとも感じている.

 ・ Gramley, Stephan. The History of English: An Introduction. Abingdon: Routledge, 2012.
 ・ Fisher, J. H. "British and American, Continuity and Divergence." The Cambridge History of the English Language. Vol. 6. English in North America. Ed. J. Algeo. Cambridge: CUP, 2001. 59--85.

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2015-07-07 Tue

#2262. イギリスからアメリカへの移民の出身地 (2) [history][ame][bre][ame_bre][geography][map][demography]

 昨日の記事「#2261. イギリスからアメリカへの移民の出身地 (1)」 ([2015-07-06-1]) に引き続いての話題.「#1301. Gramley の英語史概説書のコンパニオンサイト」 ([2012-11-18-1]) と「#2007. Gramley の英語史概説書の目次」 ([2014-10-25-1]) で紹介した Gramley の英語史書は,地図や図表が多く,学習や参照に便利である.イギリスからアメリカへの初期の移民のパターンについても,"Major sources and goals of immigration" (248) と題する有用なアメリカ東海岸の地図が掲載されている.Gramley の地図では,ブリテン諸島からの移民のルートのほか,ドイツ,カリブ諸島,ドイツからの移民の流入の経路なども示されている.

Map of Major Sources and Goals of Immigration from Britain to America (Gramley 248)

 いずれの移民もアメリカ英語の方言形成に何らかの貢献をしていると考えられるが,昨日の記事 ([2015-07-06-1]) および「#1700. イギリス発の英語の拡散の年表」 ([2013-12-22-1]) を参照してわかるとおり,ブリテン諸島からの移民がとりわけ重要な役割を果たしたことはいうまでもない.ブリテン諸島からの移民について,人口統計を含めた要約的な文章が Gramley (246) にあるので,引用しよう.

The English language which the settlers carried along with them was, of course, that of England. The colonists surely brought various regional forms, but it is generally accepted that the largest number of those who arrived came from southern England. Baugh (1957) concludes --- on the limited evidence of 1281 settlers in New England and 637 in Virginia for whom records exist for the time before 1700 --- that New England was predominantly settled from the southeastern and southern counties of England (about 60%) as was Virginia (over 50%). Fisher's figures indicate that 20,000 Puritans came between 1629 and 1641, the largest part from Essex, Suffolk, Cambridgeshire, and East Anglia with fewer than 10% from London, and that 40,000 "Cavaliers" fled especially from London and Bristol during the Civil War and went to the Chesapeake area and Virginia (Fisher 2001: 60). The Middle Colonies of Pennsylvania, new Jersey, and Delaware probably had a much larger proportion from northern England, including 23,000 Quakers and Evangelicals from England, Wales, Germany, Holland, and France. Over 250,000 from northern England, the Scottish Lowlands, and especially Ulster settled in the back country . . . . In each of the areas settled the nature of the language was set by speech patterns established by the first several generations.


 アメリカの New England や南部への移民には,イングランド南部の出身者が多く関与し,アメリカの中部諸州そしてさらに奥地へは,イングランド北部,ウェールズ,スコットランド,アイルランドからの移民が多かったことが改めて確認できるだろう.

 ・ Gramley, Stephan. The History of English: An Introduction. Abingdon: Routledge, 2012.
 ・ Baugh, A. C. A History of the English Language. 2nd ed. New York: Appleton-Century-Crofts, 1957.
 ・ Fisher, J. H. "British and American, Continuity and Divergence." The Cambridge History of the English Language. Vol. 6. English in North America. Ed. J. Algeo. Cambridge: CUP, 2001. 59--85.

Referrer (Inside): [2015-07-15-1]

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2015-07-06 Mon

#2261. イギリスからアメリカへの移民の出身地 (1) [history][ame][bre][ame_bre][rhotic][geography][map][demography]

 標題は「#1701. アメリカへの移民の出身地」 ([2013-12-23-1]) で取り上げた話題だが,今回は地図を示しつつ解説する.
 アメリカ英語の方言形成過程を理解するには,17世紀に始まるイギリス諸島からの初期の移民と,その後のアメリカ内での移住の歴史が大きく関わってくる.イギリス人によるアメリカへの植民は,1607年の Jamestown の建設に始まるが,この植民に携わったのは主としてイングランド南部出身者だった.最初の入植者として彼らの言語的な役割は大きく,イングランド南部方言が Jamestown にもたらされ,後にアメリカ南部に拡がる契機が作られた.
 1620年に Plymouth にたどり着いた "Pilgrim fathers" にも,イングランド南部(および東部)出身者が多かった.彼らは,先の入植者と同様に,およそイングランド南部の方言特徴を携えて新大陸に渡ったのであり,New England を中心とした北東部海岸地域にその方言特徴を定着させた.
 一方,1680年代からはイングランド中部・北部やウェールズからのクエーカー教徒 (Quakers) が大挙して Pennsylvania へ入植した.Pennsylvania などの中部へは,さらに18世紀の半ばにスコットランド系アイルランド人 (Scots-Irish) が数多く流入し,後の西部開拓の原動力となった.また,19世紀半ばにも多くのアイルランド人が押し寄せた.中部諸州に入り,西部へと展開したこれらイングランド南部以外の地域からやってきた移民たちは,いわば非標準的といえるイギリス諸方言を携えて新大陸にやってきたのだが,この諸方言こそが,後のアメリカにおける主たる方言となる中部方言 (Midland dialect) の種だったのである.
 イギリス諸島からの移民の出身地と方言を念頭に,上記をまとめると次のようになる.標準的なイングランド南部方言を携えたイングランド南部出身者は,その標準変種をアメリカの New England や南部諸州へと伝えた.一方,非標準的なイングランド中部・北部,ウェールズ,スコットランド,アイルランドの諸方源を携えた地方出身者は,その非標準変種をアメリカの Pennsylvania や中部諸州,そして西部へと広く伝えた.大雑把に図式化すると,以下の地図の通りである.

Map of Major Sources and Goals of Immigration from Britain to America

 このようなアメリカ英語形成期 (1607--1790) における初期移民の効果は,現代アメリカ英語の non-prevocalic /r/ の分布によく反映されていると言われる.「#453. アメリカ英語の諸方言における r」 ([2010-07-24-1]) の地図に示した通り,大雑把にいってアメリカ中部・西部の広い地域では car, four などの語末の /r/ は発音される,すなわち rhotic である.これは,「#452. イングランド英語の諸方言における r」 ([2010-07-23-1]) で見たように,現代のイングランド周辺地域の方言が non-rhotic であることに対応する.一方,アメリカの New England と南部諸州では,およそ non-rhotic である.これは,イングランドの中心部がおよそ rhotic であることと符合する.[2010-07-24-1]で触れたとおり,この分布は偶然ということではなく,歴史的な連続性を疑うべきだろう.
 移民先の方言の形成や分布を論じるにあたっては,移民の出身地と携えてきた方言に注目することが肝要である.関連して,以下の記事も参照.

 ・ 「#1698. アメリカからの英語の拡散とその一般的なパターン」 ([2013-12-20-1])
 ・ 「#1699. アメリカ発の英語の拡散の年表」 ([2013-12-21-1])
 ・ 「#1700. イギリス発の英語の拡散の年表」 ([2013-12-22-1])
 ・ 「#1702. カリブ海地域への移民の出身地」 ([2013-12-24-1])
 ・ 「#1711. カリブ海地域の英語の拡散」 ([2014-01-02-1])

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2015-07-02 Thu

#2257. 英語変種の多様性とフランス語変種の一様性 [french][variety][history][lingua_franca]

 近代に発達した国際語の代表として,英語とフランス語がある.いずれも植民地主義の過程で世界各地に広がった媒介言語 (cf. 「#1521. 媒介言語と群生言語」 ([2013-06-26-1])) であり,lingua_franca である.しかし,両言語の世界における社会言語学的なあり方,そして多様性・一様性の度合いは顕著に異なる.Bailey and Görlach (3) の序章における以下の文章が目を引いた.

The social meanings attached to French and to English in the colonies where they were used differed markedly. Ali A. Mazrui, a Ugandan scholar, has summarized this difference by pointing to the "militant linguistic cosmopolitanism among French-speaking African leaders," a factor that inhibited national liberation movements in countries where French served as the sole common national language. "The English language, by the very fact of being emotionally more neutral than French," he writes, "was less of a hindrance to the emergence of national consciousness in British Africa" (1973, p. 67). This view is confirmed by President Leopold S. Senghor of Senegal, himself a noted poet who writes in French. English, in Senghor's opinion, provides "an instrument which, with its plasticity, its rhythm and its melody, corresponds to the profound, volcanic affectivity of the Black peoples" (1975, p. 97); writers and speakers of English are less inclined to let respect for the language interfere with their desire to use it. One consequence of this difference in attitudes is that French is generally more uniform across the world (See Valdman 1979), while English has developed a series of distinct national standards.


 ここでは英語の開放的な性格とフランス語の規範的な性格が対比されており,その違いが相対的な意味において英語変種の多様性とフランス語変種の一様性をそれぞれもたらしていることが述べられている.英語にも規範主義的な傾向はないわけではないし,フランス語にも変種は少なからず存在する.しかし,比較していえば,英仏語の社会言語学的な振る舞い,すなわち諸変種の多寡は,確かに上記のとおり対照的だろう.
 英仏(語)は歴史的にも,社会言語学的にも対比して見られることが多い.植民地統治の様式も違うし,その後の言語の国際的な展開の仕方も異なれば,言語規範主義に対する態度も隔たっている.これらの差異は,それぞれの国が取ってきた政治政策,言語政策の帰結であり,それ自体が歴史的所産である.対比の裏に類似性も少なからず存在するのは確かだが,対立項に着目することによって,それぞれの特徴が鮮やかに浮き彫りになる.
 英仏語の社会言語学的振る舞いに関する差異については,以下の記事で扱ってきたので,ご参照を.

 ・ 「#141. 18世紀の規範は理性か慣用か」 ([2009-09-15-1])
 ・ 「#626. 「フランス語は論理的な言語である」という神話」 ([2011-01-13-1])
 ・ 「#1821. フランス語の復権と英語の復権」 ([2014-04-22-1])
 ・ 「#2194. フランス語規範主義,英語敵視,国民的フランス語」 ([2015-04-30-1])

 ・ Bailey, Richard W. and Manfred Görlach, eds. English as a World Language. Ann Arbor: U of Michigan P, 1983.

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2015-06-30 Tue

#2255. 言語変化の原因を追究する価値について [causation][language_change][methodology][history]

 言語変化研究に限らず,研究対象に関する5W1Hの質問のなかで最も難物なのが Why であることは論を俟たないだろう.一般に,学問研究において,最終的に知りたいのは Why の答えである.しかし,一昨日の記事「#2253. 意味変化の原因を論じるのがなぜ難しいか」 ([2015-06-28-1]) でも話題にしたように,意味変化はもとより言語変化の諸事例の原因を探り,論じるというのは想像以上の困難を伴う.論者によって,「言語変化の原因は原則として multiple causation である」とか,「言語変化に原因などない」いなど様々な立場がある (cf. 「#1986. 言語変化の multiple causation あるいは "synergy"」 ([2014-10-04-1]),「#2143. 言語変化に「原因」はない」 ([2015-03-10-1])).
 言語変化の原因の追究に慎重な立場を取る者もいることは了解しているが,いかに難しい問いであろうとも,歴史言語学や言語史において Why という問いかけをやめてしまうことを弁護することはできないと私は考えている.基本的には「#1123. 言語変化の原因と歴史言語学」 ([2012-05-24-1]) で引用した Smith の態度を支持したい.Smith は,音変化に関する著書の前書き (ix--x) でも,Why を問うことの妥当性と必要性を力説している.

Some levels of language, of course, are easier to discuss in 'why?' terms than others. With regard to the lexicon, for instance, it seems fairly undeniable that the presence of French-derived vocabulary in English relates to the geographical proximity of the two languages and to historical events (the Norman Conquest, for instance), while most scholars---not of course all---hold that inflectional loss during the transition from Old to Middle English relates in some way to contact developments such as the interaction between English and Norse. Sound change, as has been acknowledged by many scholars, is perhaps a trickier phenomenon to discuss in 'why?' terms. However, this book argues that it is nevertheless possible to develop historically plausible and worthwhile accounts of the changes which have taken place in the history of English sounds, bearing in mind all necessary caveats about the status of such explanations. After all, historians of politics, economics, religion, etc., have all felt able to ask 'why?' questions: Why did the Roman Empire collapse? Why did the Reformation happen? Why did the Jacobites fail? Why did the French Revolution or the First World War take place? Why did the Russian Revolution happen when it did? Why did the Industrial Revolution take place when and where it did? All these questions are considered entirely legitimate in historiography, even if no final, unequivocal, answers are forthcoming. If historical linguistics is a branch of history---and it is an argument of this book that it is---then it seems rather perverse not to allow historical linguists to address 'why?' questions as well.


 まったく同じ趣旨で,私自身も Hotta (2) で,次のように述べたことがあるので,引用しておきたい.

In historical linguistics, the importance of asking not only the "how" but also the "why" of development must be stressed. In my view the question "why" should be a natural step that follows the question of "how," but linguists have long refrained from asking "why" through academic modesty. I believe, however, that it is allowable to speak less ambitiously of conditioning factors, rather than absolute causes, of language change.


 おそらく言語変化に "the cause(s)" を求めることはできない."conditioning factors" を求めようとするのが精一杯だろう.後者の追究のことを指して,私は "Why?" や「原因」という表現を用いてきたし,今後も用いていくつもりである.

 ・ Smith, Jeremy J. Sound Change and the History of English. Oxford: OUP, 2007.
 ・ Hotta, Ryuichi. "The Development of the Nominal Plural Forms in Early Middle English." PhD thesis, University of Glasgow. Glasgow, November 2005.

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2015-06-18 Thu

#2243. カナダ英語とは何か? [variety][canadian_english][bilingualism][language_planning][sociolinguistics][history][sobokunagimon]

 昨日の記事「#2242. カナダ英語の音韻的特徴」 ([2015-06-17-1]) でカナダ英語の特徴の一端に触れた.カナダ英語とは何かという問題は,変種 (variety) を巡る本質的な問題を含んでいる (cf. 「#415. All linguistic varieties are fictions」 ([2010-06-16-1]),「#1373. variety とは何か」 ([2013-01-29-1]),「#2116. 「英語」の虚構性と曖昧性」 ([2015-02-11-1]),「#2241. Dictionary of Canadianisms on Historical Principles」 ([2015-06-16-1])) .Brinton and Fee (439) は,カナダ英語の概説を施した章の最後で,カナダ英語とは何かという問いについて,次のような回答を与えている.

Canadian English is the outcome of a number of factors. Canadian English was initially determined in large part by Canada's settlement by immigrants from the northern United States. Because of the geographical proximity of the two countries and the intertwining of their histories, economic systems, international policies, and print and especially television media, Canadian English continues to be shaped by American English. However, because of the colonial and postcolonial history of the British Empire, Canadian English is also strongly marked by British English. The presence of a long-standing and large French-speaking minority has also had an effect on Canadian English. Finally, social conditions, such as governmental policies of bilingualism, immigration, and multiculturalism and the politics of Quebec nationalism, have also played an important part in shaping this national variety of English.


 ここでのカナダ英語の定義は,言語学的特徴に基づくものではなく,カナダの置かれている社会言語学的環境や歴史的経緯を踏まえたものである.カナダ英語の未来を占うのであれば,アメリカ英語の影響力の増大は確実だろう.一方で,社会的多言語使用という寛容な言語政策とその意識の浸透により,カナダ英語は他の主要な英語変種に比べて柔軟に変化してゆく可能性が高い.
 これまでにゼミで指導してきた卒業論文をみても,日本人英語学習者のなかには,カナダ英語(そして,オーストラリア英語,ニュージーランド英語)に関心をもつ者が少なくない.英米の2大変種に飽き足りないということもあるかもしれないが,日本人はこれらの国が基本的に好きなのだろうと思う.そのわりには,国内ではこれらの英語変種の研究が少ない.Canadian English は,社会言語学的にもっともっと注目されてよい英語変種である.

 ・ Brinton, Laurel J. and Margery Fee. "Canadian English." The Cambridge History of the English Language. Vol. 6. Cambridge: CUP, 2001. 422--40 .

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2015-06-04 Thu

#2229. マルタの英語事情 (2) [esl][new_englishes][diglossia][bilingualism][sociolinguistics][history]

 昨日の記事 ([2015-06-03-1]) に引き続き,マルタの英語事情について.マルタは ESL国であるといっても,インドやナイジェリアのような典型的な ESL国とは異なり,いくつかの特異性をもっている.ヨーロッパに位置する珍しいESL国であること,ヨーロッパで唯一の土着変種の英語をもつことは昨日の記事で触れた通りだが,Mazzon (593) はそれらに加えて3点,マルタの言語事情の特異性を指摘している.とりわけイタリア語との diglossia の長い前史とマルタ語の成立史の解説が重要である.

There are various reasons for the peculiarity of the Maltese linguistic situation: 1) the size of the country, a small archipelago in the centre of the Mediterranean; 2) the composition of the population, which is ethnically and linguistically quite homogeneous; 3) its history previous to the British domination; throughout the centuries, Malta had undergone various invasions, its political history being intimately connected with that of Southern Italy. This link, together with the geographical vicinity to Italy, encouraged the adoption of Italian as a language of culture and, more generally, as an H variety in a well-established situation of diglossia. Italian has been for centuries a very prestigious language throughout Europe, since Italy has one of the best known literary traditions and some of the oldest European universities. Maltese is a language of uncertain origin; it was deeply "restructured" or "refounded" on Semitic lines during the Arab domination, between 870 and 1090 A.D. It has since then followed the same path as other spoken varieties of Arabic, losing almost all its inflections and moving towards analytical types; the close contact with Italian helped in this process, also contributing large numbers of vocabulary items.


 現在のマルタ語と英語の2言語使用状況の背景には,シックな言語としての英語への親近感がある.世界の多くのESL地域において,英語に対する見方は必ずしも好意的とは限らないが,マルタでは状況が異なっている.ここには,国民の "integrative motivation" が関与しているという.

The role of this integrative motivation must always be kept in mind in the case of Malta, since the relative cultural vicinity and the process through which Malta became part of the Empire made this case somehow anomalous; many Maltese today simply deny they ever were just a "colony"; young people seem to partake in this feeling and often stress the point that the British never "invaded" Malta: they were invited. There is a widespread feeling that the British never really colonialized the country, they just "came to help"; the connection of the Maltese people with Britain is still quite strong, not only through the British tourists: in many shops and some private houses, alongside the symbols of Catholicism, portraits of the British Royal Family are proudly displayed on the walls. (Mazzon 597)


 確かに,マルタはESL地域のなかでは特異な存在のようである.マルタの言語(英語)事情は,社会歴史言語学的に興味深い事例である.

 ・ Mazzon, Gabriella. "A Chapter in the Worldwide Spread of English: Malta." History of Englishes: New Methods and Interpretations in Historical Linguistics. Ed. Matti Rissanen, Ossi Ihalainen, Terttu Nevalainen, and Irma Taavitsainen. Berlin: Mouton de Gruyter, 1992. 592--601.

Referrer (Inside): [2021-12-06-1]

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2015-06-03 Wed

#2228. マルタの英語事情 (1) [esl][new_englishes][bilingualism][diglossia][language_planning][sociolinguistics][history]

 マルタ共和国 (Republic of Malta) は,「#177. ENL, ESL, EFL の地域のリスト」 ([2009-10-21-1]),「#215. ENS, ESL 地域の英語化した年代」 ([2009-11-28-1]) で触れたように,ヨーロッパ内では珍しい ESL (English as a Second Language) の国である.同じく,ヨーロッパでは珍しく英連邦に所属している国でもあり (cf. 「#1676. The Commonwealth of Nations」 ([2013-11-28-1])),さらにヨーロッパで唯一といってよいが,土着変種の英語が話されている国でもある.マルタと英語との緊密な関わりには,1814年に大英帝国に併合されたという歴史的背景がある (cf. 「#777. 英語史略年表」 ([2011-06-13-1])).地理的にも歴史的にも,世界の他の ESL 地域とは異なる性質をもっている国として注目に値するが,マルタの英語事情についての詳しい報告はあまり見当たらない.関連する論文を1つ読む機会があったので,それに基づいてマルタの英語事情を略述したい.

Map of the Mediterranean Map of Malta

 マルタは地中海に浮かぶ島嶼国で,幾多の文明の通り道であり,地政学的にも要衝であった.EthnologueMalta によると,国民42万人のほとんどが母語としてマルタ語 (Maltese) を話し,かつもう1つの公用語である英語も使いこなす2言語使用者である.マルタ語は,アラビア語のモロッコ口語変種を基盤とするが,イタリア語や英語との接触の歴史を通じて,語彙の借用や音韻論・統語論の被ってきた著しい変化に特徴づけられる.この島国にとって,異なる複数の言語の並存は歴史を通じて通常のことであり,現在のマルタ語と英語との広い2言語使用状況もそのような歴史的文脈のなかに位置づける必要がある.
 1814年にイギリスに割譲される以前は,この国において社会的に威信ある言語は,数世紀にわたりイタリア語だった.法律や政治など公的な状況で用いられる「高位の」言語 (H[igh Variety]) はイタリア語であり,それ以外の日常的な用途で用いられる「低位の」言語 (L[ow Variety]) としてのマルタ語に対立していた.社会言語学的には,固定的な diglossia が敷かれていたといえる.19世紀に高位の言語がイタリア語から英語へと徐々に切り替わるなかで,一時は triglossia の状況を呈したが,その後,英語とマルタ語の diglossia の構造へと移行した.しかし,20世紀にかけてマルタ語が社会的機能を増し,現在までに diglossia は解消された.現在の2言語使用は,固定的な diglossia ではなく,社会的に条件付けられた bilingualism へと移行したといえるだろう(diglossia の解消に関する一般的な問題については,「#1487. diglossia に対する批判」 ([2013-05-23-1]) を参照).
 現在,マルタからの移民は,英語への親近感を武器に,カナダやオーストラリアなどへ向かうものが多い.新しい中流階級のエリート層は,上流階級のエリート層が文化語としてイタリア語への愛着を示すのに対して,英語の使用を好む.マルタ語自体の価値の相対的上昇とクールな言語としての英語の位置づけにより,マルタの言語史は新たな段階に入ったといえる.Mazzon (598) は,次のように現代のマルタの言語状況を総括する.

[S]ince the year 1950, the most important steps in language policy have been in the direction of the promotion of Maltese and of the extension of its use to a number of domains, while English has been more and more widely learnt and used for its importance and prestige as an international language, but also as a "fashionable, chic" language used in social gatherings and as a status symbol . . . .


 ・ Mazzon, Gabriella. "A Chapter in the Worldwide Spread of English: Malta." History of Englishes: New Methods and Interpretations in Historical Linguistics. Ed. Matti Rissanen, Ossi Ihalainen, Terttu Nevalainen, and Irma Taavitsainen. Berlin: Mouton de Gruyter, 1992. 592--601.

Referrer (Inside): [2021-12-06-1] [2015-06-04-1]

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2015-04-28 Tue

#2192. La Francophonie (1) [french][history][linguistic_imperialism][francophonie][hfl]

 「#1676. The Commonwealth of Nations」 ([2013-11-28-1]) のフランス(語)版と呼んでよいものに,La Francophonie (フランス語圏連邦)がある.雑誌「ふらんす」の4月号に,「世界に拡がるフランコフォニー Le Monde de la Francophonie」と題する記事をみかけた.その30頁に次のように説明がある.  *

「フランス語の振興と文化的・言語的多様性の振興」「平和,民主主義,人権の推進」「教育と研究の支援」「持続的発展に繋がる協力の開発」を使命とする国際フランコニー機構 (OIF: Organisation internationale de la Francophonie) .世界80に及ぶ構成国と地域は5大陸すべてに分布するが,そのすべてがフランス語を公用語とする「フランス語圏」というわけではない.「フランコフォニー」とは,フランス語を共通の価値観として上記使命のもと2年ごとにサミットを行ない,さまざまな活動に取り組む国際的組織である.


 言葉尻をとらえるようだが,上の引用内で「フランス語を共通の価値観として」というくだりが理解できない.個別言語に何らかの価値があるとか,個別言語にある価値観が付随しているとかいうことは理解できる.フランス語は素晴らしい言語である,論理的な言語である,平和の言語である等々の価値づけのことだ.フランス語に対するこれらの価値づけが妥当かどうかということではなく,個別言語には往々にしてこのような価値づけがなされるものだという意味で,言語に価値観が付随していることは理解できる.しかし,上の引用では,フランス語に価値観が付随していると述べているのではなく,フランス語という個別言語を「価値観とし」とある.しかも,「共通の価値観とし」とまで述べている.これは一体何を意味するのだろうか.個別言語を価値観とするという言い方は,その表現の奥で何かをすりかえているような気がして,うさんくささを感じざるを得ない.The Commonwealth of Nations も La Francophonie も,言語の求心力を利用して緩やかな国際クラブを作ろうという趣旨だと思われるが,そこに政治性が強く付与されるようになると,イギリスやフランスによる新植民地主義であるとの懸念が生じる.La Francophonie には反英語帝国主義の旗手という側面もあるが,一歩誤れば,それ自身が言語帝国主義 (linguistic_imperialism) の信奉者・実践者となる危うさも帯びているように思う.
 国際政治体としての La Francophonie の淵源は1960年代にあるが,その後,いくつかの段階を経て発展してきた.最初の国際サミットは,1986年にミッテラン大統領の呼びかけによりヴェルサイユで開催された.以後,およそ2年に1度のペースでサミットが開かれている.La Francophonie と OIF の沿革について,Perret のフランス語史のコラム (71) を引用しよう.

La Francophonie et la francophonie

La Francophonie (avec une majuscule), organisation plus politique que linguistique, est née au debut des années 1960 de la volonté de quelques dirigeants de nations francophones devenues indépendeantes, comme Hamani Diori, Habib Bourguiba, Norodom Shihanouk et Leopold Sédar Senghor, malgré les réticences de la France, alor peu désireuse de s'impliquer dans un «Commonwealth français». De Conférence des états francophones (1969) en Organisation commune africaine et malgache (1966) et en Agence de coopération culturelle et technique (1970), l'idée prit corps et le gouvernement canadien finit par accepter que le Québec et le Nouveau-Brunswick soient inclus dans l'organisation naissante. Les sommets francophones ont commencé à se réunir à partir de 1986; ils ne regroupent pas seulement des États dont l'une des langues officielle est le français, mais aussi des régions, des «États associés» et des «États observateur», si bien que cette Organisation internationale de la francophonie compte en son sein des pays non francophones comme l'Albanie, la Bulgarie, La Guinée-Bissau, la Guinée-Équatoriale, la Macédoine, la Moldavie, le Mozambique, la Pologne, la Roumanie, Saint-Thomas-et-Prince, la Serbie et l'Ukraine, pays qui ont choisi le français comme langue d'enseignement, première ou seconde, et/ou comme langue internationale. Aussi ne parle-t-on plus d'États francophones mais d'États ayant le français en partage.


 より詳しい歴史については,La Francophonie の公式サイトより Une histoire de la francophonie - Organisation internationale de la Francophonie に詳しい.

 ・ Perret, Michèle. Introduction à l'histoire de la langue française. 3rd ed. Paris: Colin, 2008.

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2014-11-17 Mon

#2030. イギリスの方言差別と方言コンプレックスの歴史 [dialect][standardisation][history][popular_passage][language_myth]

 昨日の記事「#2029. 日本の方言差別と方言コンプレックスの歴史」 ([2014-11-16-1]) に引き続き,今日はイギリス版を.昨日も述べたように,方言の抑圧はおよそ国語の標準化と軌を一にしている.標準化の圧力が強くなればなるほど,方言の弾圧も強くなるという構図だ.イギリスでは,英語標準化の動きは初期近代英語期に始まり,およそ連動して方言を蔑視する風潮が1600年頃までに生じていた.George Puttenham (1530?--90) によるものとされる The Arte of English Poesie (1589) は,ロンドンの宮廷で話される英語を標準語として推奨し,それ以外の方言は避けるべきであるとしている.

neither shall he take termes of Northernmen, such as they vse in dayly talke, whether they be noble men or gentlemen, or of their best clerkes all is a matter: nor in effect any speach vsed beyond the river of Trent, though no man can deny but that theirs is the purer English Saxon at this day, yet it is not so Courtly nor yet so currant as our Southerne English is, no more is the far Westerne mans speach: ye shall therfore take the vsuall speach of the Court, and that of London and the shires lying about London within lx myles, and not much above. (cited in Upton and Widdowson 6)


 17世紀後半の王政復古時代には方言使用は嘲笑の的となり,18世紀には Swift, Dryden, Johnson などの標準化推進派の文人が精力的に活動するに及んで,方言使用は嫌悪の対象にすらなった.18世紀後半から19世紀にかけては規範主義の名のもとに,方言の地位はますます下落した.そして,1881年の教育法,1921年の BBC の設立により標準語教育がさらに推し進められ,方言使用は恥ずべきものという負のイメージが固定化した.
 初期近代英語期は,近代国家として生まれ変わったイギリスが対外的な緊張のなかで,国内的な規範を強く求めた時代だった.実際の標準語の制定にはその前後を含めて3--4世紀ほどの時間が費やされ,その普及にはさらなる時間を要したが,標準語を追求するその長い過程のなかで,方言は嘲笑,嫌悪,抑圧の対象とされ,差別意識とコンプレックスを生み出してきた.その歴史の傷跡は,21世紀の現在も癒えることなく人々の心に残っている.昨日の記事と合わせて,日本とイギリスの方言差別と方言コンプレックスの歴史を比較されたい.
 なお,上で引用したのは Upton and Widdowson の序章の "A Language of Dialect" と題する節 (2--7) からだが,この節は英語の方言史を簡潔に記述したものとして,たいへんすぐれていると思う.

 ・ Upton, Clive and J. D. A. Widdowson. An Atlas of English Dialects. 2nd ed. Abingdon: Routledge, 2006.

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2014-11-16 Sun

#2029. 日本の方言差別と方言コンプレックスの歴史 [dialect][japanese][standardisation][history][glaswegian]

 地方方言の話し手が共通語や標準語に対して抱く方言コンプレックスは,個人の問題ではなく社会の問題である.というのは,その背景には方言差別という問題があるからだ.イギリスでは少しずつ緩和してきている徴候はあるとはいえ,方言差別は根強く残っている.私の留学していたスコットランドのグラスゴーは Glaswegian という悪名高い訛りを伴う英語方言が話されており,それを母方言としてもつグラスゴー市民のなかには相当な方言コンプレックスをもつ者もいる.イギリスに比べれば,現代の日本の状況は劣悪ではない.しかし,日本でも2--3世代前のごく最近まで方言差別は現実問題だったし,現在でも,表だって話題にされることは少なくなったとはいえ,その余韻は強く残っている.方言話者個人の性格や出身地によるところも大きいが,方言コンプレックスを何らかの形で抱えている個人は少なくないように思われる.
 母語と同じように母方言も自ら選ぶことができない.事実上,生まれたときに決まってしまうものである.言語そのものは後天的に獲得されるとはいえ,母語や母方言は自ら選ぶことができないという点で,肌の色や髪質などの形質的な特徴と同じように「もって生まれたもの」である.それで差別が生じるということは,本来あってはならない.だが,形質的な特徴とは異なり,方言は努力次第で「矯正できる」という議論が可能かもしれない.だが,ここで何へ「矯正」すべきなのかが問題である.想定されているのは,通常当該言語の共通語や標準語といわれる威信のある方言だろう.とすると,共通語や標準語が制定されていなければ,「矯正」という概念もありえないだろうし,方言差別も方言コンプレックスもないだろう.方言差別と方言コンプレックスの根源には,標準語に付された強い威信と,それに準拠すべしという大きな社会の圧力がある.話者個人の問題ではなく,社会の問題と考えざるをえない.
 日本における方言差別と方言コンプレックスの起源は,明治以降の標準語の制定とそれを推進する教育政策に求められる.明治前期はまだ方言に対して鷹揚な雰囲気があり,目に見える標準語の押しつけは行われなかったが,日清戦争辺りから民族意識の高まりとともに国家統一の手段として標準語への準拠が叫ばれるようになった.対外的な緊張を受けて国内に規範が強く求められるようになるというのは,歴史の定型パターンである.このように明治中期から標準語教育が強力に推進され,その裏返しとして方言撲滅も推し進められた(cf. 「#1741. 言語政策としての罰札制度 (1)」 ([2014-02-01-1]),「#1784. 沖縄の方言札」 ([2014-03-16-1])).この過程で方言は恥ずかしいもの,悪いものという印象が国民の意識に深く刻み込まれ,戦後,現在に至るまでその傷痕は癒えることなく残っている(以上,柴田,pp. 110--18 を参照).
 イギリスにおける状況は,上述のとおり,日本のものよりも苛烈である.それは,近代的な方言差別と方言コンプレックスの歴史が日本ではたかだか100年ほどであるのに対し,イギリスでは300--400年ほどもあるからだ.これについては,明日の記事で.

 ・ 柴田 武 『日本の方言』 岩波書店〈岩波新書〉,1958年.

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2014-11-12 Wed

#2025. イングランドは常に多言語国だった [history][bilingualism][sign_language]

 「#1494. multilingualism は世界の常態である」 ([2013-05-30-1]),「#1608. multilingualism は世界の常態である (2)」 ([2013-09-21-1]),「#1374. ヨーロッパ各国は多言語使用国である」 ([2013-01-30-1]) で見てきたように,現代世界のほぼすべての地域で複数の言語が使用されている.このことは多かれ少なかれ歴史的にも当てはまる.
 英国でも英語のほかケルト諸語が話されてきたし,とりわけ近現代では世界各地からの移民集団がそれぞれの言語を用いて生活してきた.さらに地域を絞ってイングランドに限っても,5世紀以来英語が優勢であることは疑いないとはいえ,やはり歴史的には多くの他の言語が行われてきたし,今も行われている.例えば,現在ロンドンのみならず様々な町で,Panjabi, Gujerati, Bengali, Italian, Greek, Maltese, Chinese, Turkish を含む多数の言語が広く話されている.また,British Sign Language のような手話言語もイングランドの言語多様性に貢献している.
 現代にとどまらず古代から中世を経て近代に至るまでのイングランドの言語史を振り返ってみると,この国がいかに多言語使用国であったかがわかる.ケルト諸語が話されていたイングランドの地に言語多様性を歴史上初めて本格的に導入したのは,ローマ人だった.彼らはイングランドにラテン語をもたらし,そこに2言語使用状況が生まれた.次に,5世紀半ば,英語がもたらされた.8世紀半ばからはヴァイキングにより古ノルド語が持ち込まれ,11世紀半ばにはノルマン征服を受けて,イングランドでは当初はノルマン・フランス語が,継いで中央フランス語が話されるようになる.
 しかし,中世や近代には,このような歴史の表舞台に顔を出すような主流派の言語にとどまらず,中小の言語もまたイングランド領内で用いられていた.例えば12世紀の Norwich には,相当の規模の外国人社会が確立しており,英語と並んでフランス語,デンマーク語,オランダ語,また Ladino と呼ばれるユダヤ人の用いたスペイン語変種が行われていた.特に16世紀の Norwich では人口の1/3がオランダ語話者であり,その状況が200年以上も持続したという.
 また,中世後期にはロマニー語 (Romany) を話すいわゆるジプシー (the Gypsies) が流入した.現在,イングランドにおけるその影響は Anglo-Romany と呼ばれる英語変種に見られるにすぎないが,ウェールズやヨーロッパ諸国や北米では Romany はいまだ生き残っている.
 近代に入ると,宗教的難民としてオランダ語話者やフランス語話者がイングランドに大量に流入し,後に言語的に徐々に同化していったものの,しばらくの間は多くの町に住み込んだ.Cornwall ではケルト系の Cornish が古来話されていたが,16世紀以来,英語の浸透により衰微し,18世紀後半には消滅した.20世紀初めのロンドンの East End には非常に多くのユダヤ系 Yiddish 話者が集住していたが,この言語は現在でもイングランドで健在である.
 以上,Trudgill (18--19) を参考に記述した.現代イギリスの多言語状況については,Britain 編の論文集が本格的である.

 ・ Trudgill, Peter. The Dialects of England. 2nd ed. Oxford: Blackwell, 2000.
 ・ Britain, David, ed. Language in the British Isles. Cambridge: CUP, 2007.

Referrer (Inside): [2015-09-11-1] [2015-05-25-1]

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2014-09-14 Sun

#1966. 段々おいしくなってきた英語の飲食物メニュー [loan_word][french][history][lexicology]

 Hughes (119) に,眺めているだけでおいしくなってくる英語の "A historical menu" が掲載されている.古英語期から現代英語期までに次々と英語へ入ってきた飲食物を表わす借用語が,時代順に並んでいる.Hughes は現代から古英語へと遡るように一覧を提示しており,昔の食べ物は素朴だったなあという感慨を得るにはよいのだが,下から読んだほうが圧倒的に食欲が増すので,そのように読むことをお勧めしたい.

 FoodDrink
 pesto, salsa, sushi 
 tacos, quiche, schwarma 
 pizza, osso buccoChardonnay
1900paella, tuna, goulash 
 hamburger, mousse, borschtCoca Cola
 grapefruit, éclair, chipssoda water
 bouillabaisse, mayonnaise 
 ravioli, crêpes, consommériesling
1800spaghetti, soufflé, bechameltequila
 ice cream 
 kipper, chowder 
 sandwich, jamseltzer
 meringue, hors d'oeuvre, welsh rabbitwhisky
1700avocado, pâtégin
 muffinport
 vanilla, mincemeat, pastachampagne
 salmagundibrandy
 yoghurt, kedgereesherbet
1600omelette, litchi, tomato, curry, chocolatetea, sherry
 banana, macaroni, caviar, pilavcoffee
 anchovy, maize 
 potato, turkey 
 artichoke, sconesillabub
1500marchpane (marzipan) 
 whiting, offal, melon 
 pineapple, mushroom 
 salmon, partridge 
Middle Englishvenison, pheasantmuscatel
 crisp, cream, baconrhenish (rhine wine)
 biscuit, oysterclaret
 toast, pastry, jelly 
 ham, veal, mustard 
 beef, mutton, brawn 
 sauce, potage 
 broth, herring 
 meat, cheeseale
Old Englishcucumber, musselbeer
 butter, fishwine
 breadwater


 予想通りフランス借用語が多いものの,全体的にはバラエティ豊かで多国籍風である.
 料理の分野におけるフランス語については,ほかにも「#61. porridge は愛情をこめて煮込むべし」 ([2009-06-28-1]),「#331. 動物とその肉を表す英単語」 ([2010-03-24-1]),「#332. 「動物とその肉を表す英単語」の神話」 ([2010-03-25-1]),「#1583. swine vs pork の社会言語学的意義」 ([2013-08-27-1]),「#1603. 「動物とその肉を表す英単語」を最初に指摘した人」 ([2013-09-16-1]),「#678. 汎ヨーロッパ的な18世紀のフランス借用語」 ([2011-03-06-1]),「#1792. 18--20世紀のフランス借用語」 ([2014-03-24-1]),「#1667. フランス語の影響による形容詞の後置修飾 (1)」 ([2013-11-19-1]),「#1210. 中英語のフランス借用語の一覧」 ([2012-08-19-1]) を参照.

 ・ Hughes, G. A History of English Words. Oxford: Blackwell, 2000.

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2014-07-29 Tue

#1919. 英語の拡散に関わる4つの crossings [history][irish][ireland][standardisation][linguistic_imperialism][ame][new_englishes][bilingualism][historiography][model_of_englishes][esl][efl][elf]

 Mesthrie and Rakesh (12--17) に,"INTEGRATING NEW ENGLISHES INTO THE HISTORY OF THE ENGLISH LANGUAGE COMPLEX" と題する章があり,World Englishes あるいは New Englishes という現代的な視点からの英語史のとらえ方が示されており,感心した.
 英語の拡散は,有史以前から現在まで,4つの crossings により進行してきたという.第1の crossing は,5世紀半ばに北西ゲルマン民族がブリテン島に渡ってきた,かの移住・侵略を指す.この段階から,ポストコロニアルあるいはポストモダンを想起させるような複数の英語変種,多言語状態,言語接触がすでに存在していた.複数の英語変種としては,アングル族,サクソン族,ジュート族などの間に民族変種の区別が移住の当初からあったろうし,移住後も地域変種や社会変種の発達がみられたろう.多言語状態および言語接触としては,基層言語としてのケルト語の影響,上層言語としてのラテン語との接触,傍層言語としての古ノルド語との混交などが指摘される.後期ウェストサクソン方言にあっては,1000年頃に英語史上初めて書き言葉の標準が発展したが,これは続くノルマン征服により衰退した.この衰退は,英語標準変種の "the first decline" と呼べるだろう (13) .
 第2の crossing は,中英語期の1164年に Henry II がアイルランドを征服した際の,英語の拡散を指す.このとき英語がアイルランドへ移植されかけたが,結果としては定着することはなかった.むしろ,イングランドからの植民者はアイルランドへ同化してゆき,英語も失われた.詳しくは「#1715. Ireland における英語の歴史」 ([2014-01-06-1]) を参照されたい.
 後期中英語から初期近代英語にかけて,英語史上2度目の書き言葉の標準化の動きが南イングランドにおいて生じた.この南イングランド発の標準変種は,それ以降,現在に至るまで,英語世界において特権的な地位を享受してきたが,20世紀に入ってからのアメリカ変種の発展により,また20世紀後半よりみられるようになったこれら標準変種から逸脱する傾向を示す世界変種の成長により,従来の特権的な地位は相対的に下がってきている.この地位の低下は,南イングランドの観点からみれば,英語標準変種の "a second decline" (16) と呼べるだろう.ただし,"a second decline" においては,"the first decline" のときのように標準変種そのものが死に絶えたわけではないことに注意したい.それはあくまで存在し続けており,アメリカ変種やその他の世界変種との間で相対的に地位が低下してきたというにすぎない.
 一方で,近代英語期以降は,西欧列強による世界各地の植民地支配が進展していた.英語の拡散については「#1700. イギリス発の英語の拡散の年表」 ([2013-12-22-1]) をはじめとして,本ブログでも多く取り上げてきたが,英語はこのイギリス(とアメリカ)の掲げる植民地主義および帝国主義のもとで,世界中へ離散することになった.この離散には,母語としての英語変種がその話者とともに移植された場合 ("colonies of settlement") もあれば,経済的搾取を目的とする植民地支配において英語が第2言語として習得された場合 ("colonies of exploitation") もあった.前者は the United States, Canada, Australia, New Zealand, South Africa, St. Helena, the Falklands などのいわゆる ENL 地域,後者はアフリカやアジアのいわゆる ESL 地域に対応する(「#177. ENL, ESL, EFL の地域のリスト」 ([2009-10-21-1]) および「#409. 植民地化の様式でみる World Englishes の分類」 ([2010-06-10-1]) を参照).英米の植民地支配は被っていないが保護領としての地位を経験した Botswana, Lesotho, Swaziland, Egypt, Saudi Arabia, Iraq などでは,ESL と EFL の中間的な英語変種がみられる.また,20世紀以降は英米の植民地支配の歴史を直接的には経験していなくとも,日本,中国,ロシアをはじめ世界各地で,EFL あるいは ELF としての英語変種が広く学ばれている.ここでは,英語母語話者の人口移動を必ずしも伴わない,英語の第4の crossing が起こっているとみることができる.つまり,英語史上初めて,英語という言語がその母語話者の大量の移動を伴わずに拡散しているのだ.
 英語史上の4つの crossings にはそれぞれ性質に違いがみられるが,とりわけポストモダンの第4の crossing を意識した上で,過去の crossings を振り返ると,英語史記述のための新たな洞察が得られるのではないか.この視座は,イギリス史の帝国主義史観とも相通じるところがある.

 ・ Mesthrie, Rajend and Rakesh M. Bhatt. World Englishes: The Study of New Linguistic Varieties. Cambridge: CUP, 2008.

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