英単語の綴字はしばしば不規則である,あるいは例外が多いなどと言われるが,この言い方には「規則」が存在するという前提がある.「規則」はあるが,そこから逸脱しているものが多いという理由で「不規則」なのだ,とそのような理屈だろう.
しかし,それだけ逸脱が多いとすれば,そもそも「規則」と呼んでいたものは,実は規則の名に値しなかったのではないか,という議論にもなり得る.不規則を語るためには規則が同定されなければならないのだが,これが難しい.論者によって立てる規則が異なり得るからだ.
この問題について Crystal (284) が興味深い解説を与えている.
Regularity implies the existence of a rule which can generate large numbers of words correctly. A rule which works for 500 words is plainly regular; one which works for 100 much less so; and for 50, or 20, or 10, or 5 it becomes progressively less plausible to call it a 'rule' at all. Clearly, there is no easy way of deciding when the regularity of a rule begins. It has been estimated that only about 3 per cent of everyday English words are so irregular that they would have to be learned completely by heart, and that over 80 per cent are spelled according to regular patterns. That leaves some 15 per cent of cases where we could argue the status of their regularity. But given such statistics, the chief conclusion must be that we should not exaggerate the size of the problem, as some supporters of reform are prone to do. Nor minimize it either, for a great deal of confusion is caused by that 3--15 per cent, and some 2 per cent of the literate population never manage to resolve it . . . .
綴字の問題に限らず,言語における「規則」はおおよそ理論上の構築物であり,その理論の数だけ(不)規則の数もあることになる.
・ Crystal, D. The Cambridge Encyclopedia of the English Language. 3rd ed. CUP, 2018.
先日の「#4905. 「愛知」は Aichi か Aiti か?」 ([2022-10-01-1]) と関連して,今朝の朝日新聞朝刊2面で「いちからわかる! ローマ字のつづり方複数あるの?」と題する2種類のローマ字の解説が掲載されていた.記事によると「小学校の国語では,内閣告示をふまえて訓令式を中心に学ぶ.でも,パスポートの表記や道路標識など社会生活では,英語に近いヘボン式が多く見られる.文化庁が9月末に発表した2021年度の国語に関する世論調査で,地名などをローマ字で書くならどれ?と聞くと,ヘボン式が浸透している言葉が多かった.ただ,訓令式が多く選ばれる言葉もあったんだ.」とある.
先々週のある授業で,この話題を取り上げて議論した.受講生にいくつかの日本地名のローマ字書きについて尋ねたところ,興味深いことに文化庁の世論調査と同様に,個人によって揺れがあるようだということが分かった.私自身は○○とつづるのが普通だと思っていたのに,△△とつづる人もけっこういるのだなと気づき,なかなかフレッシュな経験だった.
Aiti/Aichi, Gihu/Gifu, Uzi/Uji, Akasi/Akashi, Atugi/Atsugi, Gosyogawara/Goshogawara, Tanba/Tamba のような訓令式とヘボン式の差異について,自身のつづり方を振り返り,自己分析してもらった.おもしろい分析が出たのでいくつか紹介しよう.
・ 個人的には sho ではなく syo を使う.もしかしたらその原因は syo という文字列を英語で見ることがないので,ti と違って英語の発音が心の中で干渉してこないという事情があるのかもしれない.
・ 意識的にか無意識にかはわからないが,表記される語が使用される状況などを考慮してしまうのではないか.例えば,「抹茶」は観光客向けに用いられることが多いだろうから,ローマ字で書くとなった時に英語(=ヘボン式)をより意識する可能性があると思った.
・ 個人としては,Tamba (丹波)以外は書くときもキーボードを打つときもすべてヘボン式だったので,なぜなのだろうと考えてみた.おそらく chi や shi, sho などは,英単語の中でも目にする機会が多く,頭の中で英語風に自動変換しやすくなっているのだと感じる.一方で「たんば」や「てんぷら」の「ん」という音を m と自動変換できるほどには英語脳になっておらず,あくまで日本人の感覚の音基準でローマ字を書いていそうだ.
・ パソコンでの文字入力の際には,「ち」は英語的な「chi」と入力するのに対して,「しょ」は日本語的(?)な「syo」と打つのが多数派であった.この一音一音での違いはどのような原因によって生じるものなのかが非常に気になった.
・ 授業内でも話題に出ていたが,それを読まれることを意識して書くかということも大きく影響すると感じた.ローマ字をローマ字として表記する場合は日本語母語話者ではない人(主に英語話者)を想定するので,書く場合はヘボン式で書くことが多いように感じる.一方,パソコンで打つ場合など実際の表記が表に出ない場合はヘボン式と訓令式を混在して使っているように思う.
どうやらローマ字表記の揺れのには,個人の英語経験や習慣から社会的配慮に至るまで様々な要因が絡んでいそうである.とりわけ英語のスペリングへの慣れに基づく干渉という要因は注目に値する.
言語使用の variation を議論するのに良いお題だったので,ぜひ皆さんも議論を.
今日の朝日新聞朝刊(13版35面)に「Aichi それとも Aiti ローマ字つづり方混在 文化庁が整理検討」と題する記事が掲載されている.30日,文化庁より2021年度の「国語に関する世論調査」が発表された.「令和3年度「国語に関する世論調査」の結果について」 (PDF) より閲覧できる.
今回の調査結果のなかで目を引くのが,第3章の「ローマ字表記に関する意識」についてである.日本語のローマ字表記に関するいくつかの質問が立てられているのだが,「明石」「愛知」などをどのようにローマ字表記するかというアンケート結果がおもしろかった.
例えば「明石」の場合,Akashi が75.4%,Akasi が23.3%となっている.いわゆる「ヘボン式」と「訓令式」の違いだが,少数派である後者による表記はとりわけ70歳以上で41%と高い値を示しているという.「愛知」については Aichi が88.0%,Aiti が10.8%となり,ここでもヘボン式が優勢である.
ところが「五所川原」になると,訓令式の Gosyogawara が54.8%,ヘボン式 Goshogawara が43.9%となり,形勢が逆転しているのがおもしろい.さらに「抹茶」の混乱ぶりも興味深い.ヘボン式の matcha と maccha がそれぞれ32.4%,12.1%,訓令式 mattya が23.6%だという.ヘボン式は緩く「英語式」と捉えてよいが,英語における <tch> の綴字については「#4033. 3重字 <tch> の分布と歴史」 ([2020-05-12-1]),「#4034. 3重字 <tch> の綴字に貢献した Caxton」 ([2020-05-13-1]) で英語史の観点から論じたことがある.
「どのローマ字表記を使うか」という質問の回答結果を読み解くと,全体の趨勢としては訓令式よりもヘボン式が優勢であるといえそうだ.日本語母語話者が用いるローマ字表記としては,日本語の音韻体系に寄り添った訓令式のほうが規則的で例外が少なく馴染みやすいというのが理屈上の議論なのだが,実際のところは英語教育などを通じて英語の綴字に慣れ親しんでいる人が多いからだろうか,ヘボン式への傾斜が今回確認されたことになる.
日本語のローマ字表記については,日本語音韻体系あるいは英語綴字体系との親和性という音韻論・綴字論の観点から,訓令式とヘボン式(とその他)のいずれが好ましいかという議論がなされてきた.しかし,より重要な論点は,どのような機会に日本語がローマ字表記されるのか,という社会語用論的な文脈にあると私は考えている.
日本語を理解しないインバウンド訪問者を念頭に日本語をローマ字表記するという場面であれば,国際語である英語に寄り添ったヘボン式を用いるほうが伝わりやすいことが多いだろう.しかし,日本語母語話者が日本語をタイピングする際にローマ字を用いるという場面であれば,打数の観点からも日本語に寄り添った訓令式のほうが合理的である.
では,道路標識などで漢字書きされた難語地名の振り仮名としてローマ字が用いられる場合には,どちらがベターだろうか.日本語母語話者にとっては漢字を読み解くヒントの役割を果たすかもしれないが,漢字を読めない日本語非母語話者にとっては,ローマ字表記はヒントどころかアンサーそのものとなる.
複数のローマ字表記があると混乱を招くので整理するのがよいという意見は理解できる.とりわけ公的な色彩の強い文書ではその通りだろう.一方,上述のようにローマ字を使う場面(社会語用論的なレジスター)は公式文書以外にもあり,多様である.整理するにせよ,何をどこまで整理するのがよいのか,というところから議論を始める必要がある.
ローマ字を巡る話題は hellog でも romaji の記事群で取り上げてきたので,そちらも参照.
Sampson による書記体系に関する著書の最後の2ページで,同著で繰り返し議論されてきた一般的なテーマとして5点が挙げられている.書記体系を広く見渡した上での結論らしきものといってよいだろう.それぞれを抜粋して紹介する.
First, scripts are diverse. . . . A logographic script really is a different kind of thing from an alphabetic script, and syllabic scripts are different again. (265)
1点目は,様々な種類の書記体系があるという基本的な事実である.背後には,いずれの種類の書記体系が本質的に優れている,劣っているという話しではないという著者の主張がある.そして,この多様性が何によるものかというと,次にみるように,部分的には対応する話し言葉の性質だろうと著者は考えている.
Second, spoken languages are diverse, and sometimes scripts differ because different kinds of writing suit different kinds of language. Logographic writing works well for Chinese, where morphemes are clearly separate in the spoken language. It would be much harder to adapt to a "synthetic" language such as the European classical languages, where it is difficult to decide just what morphemes an inflected word includes. Syllabic writing is a natural approach for a language whose syllables are mainly of the CV type, but the Linear B example shows that it is not easy to make it work for a language with a more complicated phonological structure. Vowel-less writing works for Semitic languages, but would work less well for European languages. (265)
言語の形態音韻論的な特徴に応じて,いずれの種類の書記体系がよりふさわしいかという議論はできるだろうという.ただし,これが必ずしも強力な議論にはならないことを,次のように付け加えている.
This second point should not be pressed too far. I do not suggest that differences between script types are always explainable in terms of difference between the spoken languages they record. . . . Many properties of scripts result from external historical causes unrelated to language structure. (265--66)
言語的特徴よりも言語外的要因のほうがアッパーハンドを握っているというわけだ.そして最後に,表音的な書記体系が最も理想的であるというのは,歴史を見れば分かるとおり,一種の幻想であると次の通りに喝破する.
Finally, contrary to what is often supposed, the history of writing systems does not support the assumption that the ideal script for a language is one that records speech sounds with perfect fidelity. (266)
最後の最後に,英語のスペリングはどうかといえば,英語社会にはそれなりに適合していると締めくくられる.
And, as one implication, English spelling may suit English-speaking societies better than is often supposed. (266)
5点,いずれの結論にも納得した.
・ Sampson, Geoffrey. Writing Systems. 2nd ed. Sheffield: Equinox, 2015.
中英語のテキストには多種多様なスペリングが混在している.まさに変異の時代だ.現代英語の話し言葉の変異を調査したければインフォーマントに尋ねるなど社会言語学上の手法を用いることができるが,相手が中英語の書き言葉であれば,なすべきことは変わってくる.インフォーマントをつかまえられないばかりか,発音にたどり着くことすら難しいのだ.そこで,中英語のスペリングの変異について調べようと思えば,独自の方法論を開発し実現しなければならない.それを成し遂げたのが,A Linguistic Atlas of Late Mediaeval English (= LALME) を編纂した Angus McIntosh と Michael L. Samuels である
McIntosh and Samuels による LALME の General Introduction (§3.1.2) によると,中英語のスペリングの変異が生み出された背景として,5種類が区別されるという.
(i) Normal dialect variation, e.g. as in border areas . . . .
(ii) Variation of textual or codicological origin, e.g. layers of variants resulting from successive copyings.
(iii) Sociolinguistic variation, especially in writers affected by the spread of Standard English.
(iv) The combination of two separate dialects in a writer of mixed upbringing.
(v) Especially in the fifteenth century, an unusually wide range or eclectic combination of spellings in a single writer.
言語の変異 (variation) とは何かという問題を,現代(英)語の話し言葉という観点ではなく,中英語の書き言葉という観点から眺めなおすだけで,同じ問題がどれだけ豊かな様相を帯びることか.(i), (iii), (iv) は話し言葉にも相当するものがあるが,(ii), (v) については書き言葉に特有の事情に由来する言語変異と考えられる.
近代言語学においては書き言葉に対する話し言葉の優勢というのが常識的な発想である.しかし,こと文献学を専攻している私のような者にとっては,この常識的な前提が何とももどかしい.書き言葉の自立性というものを信じているからである.これについては過去の記事でも様々に議論してきた.例えば以下の記事をどうぞ.
・ 「#1829. 書き言葉テクストの3つの機能」 ([2014-04-30-1])
・ 「#2339. 書き言葉の自立性に関する Vachek の議論 (1)」 ([2015-09-22-1])
・ 「#2340. 書き言葉の自立性に関する Vachek の議論 (2)」 ([2015-09-23-1])
・ 「#2431. 書き言葉の自立性に関する Bolinger の議論」 ([2015-12-23-1])
・ 「#2508. 書き言葉の自立性に関する Samuels の議論」 ([2016-03-09-1])
・ 「#2819. 話し言葉中心主義から脱しつつある言語学」 ([2017-01-14-1])
・ 「#3886. 話しことばと書きことば (6)」 ([2019-12-17-1])
・ McIntosh, Angus, M. L. Samuels, and M. Benskin. A Linguistic Atlas of Late Mediaeval English. 4 vols. Aberdeen: Aberdeen UP, 1986.
単語を分かち書き (distinctiones) するか続け書き (scriptura continua) するかは,文字文化ごとに異なっているし,同じ文字文化でも時代や用途によって変わることがあった.英語では分かち書きするのが当然と思われているが,古英語や中英語では単語間にスペースがほとんど見られない文章がザラにあった(cf 「#3798. 古英語の緩い分かち書き」 ([2019-09-20-1])).逆に日本語では続け書きするのが当然と思われているが,幼児や初級学習者用に書かれた平仮名のみの文章では,読みやすくするために意図的に分かち書きされることもある(cf. 「#1112. 分かち書き (1)」 ([2012-05-13-1])).
一般的にいえば,漢字のような表語文字や仮名のような音節(モーラ)文字は続け書きされることが多いのに対し,単音文字(アルファベット)は分かち書きされることが多い.しかし,これはあくまで類型論上の傾向にすぎない.書き言葉において大事なことは,何らかの方法で語と語の境界が示されることである.単語間にスペースをおくというやり方は,それを実現する数々の方法の1つにすぎない.
語境界を明示するためであれば,何もスペースにこだわる必要はない.世界の文字文化を見渡すと,例えば北セム諸語の碑文においては中点や縦線などで語を区切るという方法が実践されていたし,エジプト象形文字で人名を枠で囲むカルトゥーシュ (cartouche) のような方法もあった(中点については「#3044. 古英語の中点による分かち書き」 ([2017-08-27-1]) も参照).
また,語末が常に(あるいはしばしば)特定の文字や字形で終わるという規則があれば,その文字や字形が語境界を示すことになり,分かち書きなどの他の方法は特に必要とならない.実際,ギリシア語では語末に少数の特定の文字しか現われないため,分かち書きは必須ではなかった.ヘブライ語やアラビア語などでは,同一文字素であっても語末に用いられるか,それ以外に用いられるかにより異なる字形をもつ文字体系もある.
日本語の漢字かな交じり文では,漢字で書かれることの多い自立語と平仮名で書かれることの多い付属語が交互に繰り返されるという特徴をもつ.そのために典型的には平仮名から漢字に切り替わるところが語境界と一致する.部分的にではあれ,語境界の見分け方が確かにあるということだ.
最後に「#1114. 草仮名の連綿と墨継ぎ」 ([2012-05-15-1]) で見たように,書き手が特定の言語単位(例えば語)を書き終えたところでいったん筆を上げるなどの慣習を発達させることがある.すると,その途切れの跡がそのまま語境界を示すことにもなる.
このように古今東西の文字文化を眺めてみると,語境界を表わす方法は多種多様である.英語で見慣れている分かち書きが唯一絶対の方法ではないことを銘記しておきたい.そもそも英語や西洋言語の書記における分かち書きの習慣自体が,歴史的には後の発展なのだから(cf . 「#1903. 分かち書きの歴史」 ([2014-07-13-1])).
・ Daniels, Peter T. "The History of Writing as a History of Linguistics." Chapter 2 of The Oxford Handbook of the History of Linguistics. Ed. Keith Allan. Oxford: OUP, 2013. 53--69.
文字論研究史を概説している Daniels (63) に,日本語の仮名(平仮名と片仮名)がモーラに基づく文字であることが言及されている.この事実そのものは日本語学では当然視されており目新しいことでも何でもないが,音節 (syllable) ではなくモーラ (mora) という音韻論的単位が言語学に持ち込まれた契機が,ほかならぬ日本語研究にあったということを初めて知った.日本語の仮名表記や音韻論を理解・説明するのにモーラという概念は是非とも必要だが,否,まさにそのために導入された概念だったのだ.
The term 'mora' was introduced into modern linguistics by McCawley (1968) to render a term (equivalent to 'letter') for the characters in the two Japanese 'syllabaries' ('kana'), hiragana and katakana, which denote not merely the (C)V syllables of the language but also a syllable-closing nasal or length.
モーラと音節が異なる単位であることは,以下の例からも分かる.要するに,長音,促音,撥音のような特殊音素は,独立した音節にはならないが独立したモーラにはなる.
・ 「ながさき」 (Nagasaki) は4モーラで4音節
・ 「おおさか」 (Ōsaka) は4モーラで3音節
・ 「ロケット」 (roketto) は4モーラで3音節
・ 「しんぶん」 (shimbun) は4モーラで2音節
音節とは異なるが,日本語母語話者にとっては明らかに独立した部品とみなされているもう1つの音韻論的単位,それが日本語のモーラである.仮名の各文字には,およそきれいに1つのモーラが対応している.
・ Daniels, Peter T. "The History of Writing as a History of Linguistics." Chapter 2 of The Oxford Handbook of the History of Linguistics. Ed. Keith Allan. Oxford: OUP, 2013. 53--69.
・ McCawley, James D. The Phonological Component of a Grammar of Japanese. The Hague: Mouton, 1968.
ローマン・アルファベットを用いる言語では,引用箇所や強調部分など,ある部分を特別に際立たせるためにしばしばイタリック体 (italics) が用いられる.通常のローマン体で書かれた文字列のなかで細身のイタリック体はよく目立つからである.書体の語用論的使用法といってよいだろう(cf. 「#574. punctuation の4つの機能」 ([2010-11-22-1])).
イタリック体は,1501年に当時の写本書体に基づく新書体としてベネチアで現われた.紙が高価だった当時,細身で経済的な書体として生み出されたのである.しかし,イタリック体は当初から際立ちを与えるために用いられたわけではない.際立ちのために使用は,16世紀後半のフランスでの新機軸という.それがイングランドにも伝わり,1611年の欽定訳聖書 (Authorised Version) において挿入文の書体として用いられるに及び,広く受け入れられるに至った.後期近代にはイタリック体の使いすぎに不満を漏らす者も現われたようで,それほどまでに使用が一般化していたということになる.
上記は Daniels (68--69) を読んで初めて知ったことである.欽定訳聖書が英語書記におけるイタリック体使用の慣習確立に一役買っていたいう事実には,特に驚かされた.同聖書の英語史上の意義の大きさを改めて確認した次第である.
・ Daniels, Peter T. "The History of Writing as a History of Linguistics." Chapter 2 of The Oxford Handbook of the History of Linguistics. Ed. Keith Allan. Oxford: OUP, 2013. 53--69.
自らが文字体系を生み出した言語でない限り,いずれの言語もすでに他言語で使われていた文字を借用することによって文字の運用を始めたはずである.しかし,自言語と借用元の言語は当然ながら多かれ少なかれ異なる言語特徴(とりわけ音韻論)をもっているわけであり,文字の運用にあたっても借用元言語での運用が100%そのまま持ち越されるわけではない.言語間で文字体系が借用されるときには,何らかの変化が生じることは避けられない.これは,6世紀にローマ字が英語に借用されたときも然り,同世紀に漢字が日本語に借用されたときも然りである.
Görlach (35) は,文字体系の借用に際して何が起こりうるか,6点を箇条書きで挙げている.主に表音文字であるアルファベットの借用を念頭に置いての箇条書きと思われるが,以下に引用したい.
Since no two languages have the same phonemic inventory, any transfer of an alphabet creates problems. The following solutions, especially to render 'new' phonemes, appear to be the most common:
1. New uses for unnecessary letters (Greek vowels).
2. Combinations (E. <th>) and fusions (Gk <ω>, OE <æ>, Fr <œ>, Ge <ß>).
3. Mixture of different alphabets (Runic additions in OE; <ȝ>: <g> in ME).
4. Freely invented new symbols (Gk <φ, ψ, χ, ξ>).
5. Modification of existing letters (Lat <G>, OE <ð>, Polish <ł>).
6. Use of diacritics (dieresis in Ge Bär, Fr Noël; tilde in Sp mañana; cedilla in Fr ça; various accents and so on).
なるほど,既存の文字の用法が変わるということもあれば,新しい文字が作り出されるということもあるというように様々なパターンがありそうだ.ただし,これらの多くは確かに言語間での文字体系の借用に際して起こることは多いかもしれないが,そうでなくても自発的に起こり得る項目もあるのではないか.
例えば上記1については,同一言語内であっても通時的に起こることがある.古英語の <y> ≡ /y/ について,中英語にかけて同音素が非円唇化するに伴って,同文字素はある意味で「不要」となったわけだが,中英語期には子音 /j/ を表わすようになったし,語中位置によって /i/ の異綴りという役割も獲得した.ここでは,言語接触は直接的に関わっていないように思われる (cf. 「#3069. 連載第9回「なぜ try が tried となり,die が dying となるのか?」」 ([2017-09-21-1])) .
・ Görlach, Manfred. The Linguistic History of English. Basingstoke: Macmillan, 1997.
書き言葉は話し言葉を写すものであるという理解が広く行き渡っている.確かにこれは書き言葉の1つの重要な機能であり,それ自体は間違いではない.しかし私は,話し言葉と書き言葉は,言語を表わす2つの独立した媒体と認識している.確かに両者の関係は深いが,原則として互いに独立している.訴えかける感覚も話し言葉は聴覚,書き言葉は視覚と異なっているし,機能においても完全に一致することはあり得ないと考えている.
話し言葉と書き言葉は原則として互いに独立した媒体であり,ピタッと一致することはあり得ないことを前提としつつ,では英語史では両者はどのくらいかけ離れていたのか,あるいは歩み寄っていたのか,ということを問題としたい.日本語史でいうところの「言文(不)一致」の問題である.
日本語史と比べればという条件つきの意見だが,英語史においては,英語が書き言葉に付されたとき,それが同時代の話し言葉をどのくらいよく反映していたかと問われれば,「比較的よく」と答えられるように思われる.日本語では変体漢文,漢文訓読文,和漢混淆文など,話し言葉から大きく逸脱した書き言葉が広く用いられてきたが,英語ではそれほどの大きな逸脱はみられなかった.
英語史の時代でいえば,書き言葉が話し言葉に最も接近していたのは中英語期だったかもしれない.発音がそのまま綴字に乗ったという点でも,書き言葉に威信を与える標準語が存在しなかったという点でも,両媒体は接近していたといえそうだ.
一方,先立つ古英語期や,後続する近代英語期にかけては,両媒体の距離は相対的に大きかったように思われる.古英語の韻文は「口承文学」とはいえ,同時代の話し言葉を表わしたものとは考えられないし,後期にかけては「ウェストサクソン標準語」も現われ,中英語最初期まである程度の影響力を保った.後期中英語から近代英語期にかけてはラテン語やフランス語などの威信をもった語彙が大量に流入し,書き言葉では同時代の話し言葉よりも水準の高い語彙選択がなされた.このような点について,Schaefer (1285--86) は次のように述べている.
[M]ost of what has come down to us in writing should be considered as influenced by the very medium that allows us to look into these historical linguistic data. However, if we compare the poetic evidence from the early 8th century to the prose evidence from the 12th, it is probably the latter that brings us closest to what may be considered to mirror the spoken language of the respective period. Albeit that the former must have been heavily informed by the pre-Christian oral culture, its form most certainly does not reflect conceptually 'spoken' language. Moreover, English was only firmly reestablished in writing in the 14th and 15th centuries. In that period English in writing obviously profited very much from the literate languages Latin and French . . . . The influence of Latin continued well into the Modern period and hence made the disparity between prose writing in the then establishing standard and the actual spoken language even wider.
英語史では,むしろ現代にかけて話し言葉と書き言葉の距離が狭まってきているとも考えられる.ラジオ,テレビ,インターネットなどの技術に支えられて,各媒体によるコミュニケーションが劇的に増え,両媒体間の境目も従来ほど明確ではなくなってきていることも関係しているだろう.
同じ問題意識からの記事として「#3210. 時代が下るにつれ,書き言葉の記録から当時の日常的な話し言葉を取り出すことは難しくなるか否か」 ([2018-02-09-1]) も参照.
・ Schaefer, Ursula. "Interdisciplinarity and Historiography: Spoken and Written English --- Orality and Literacy." Chapter 81 of English Historical Linguistics: An International Handbook. 2 vols. Ed. Alexander Bergs and Laurel J. Brinton. Berlin: Mouton de Gruyter, 2012. 1274--88.
年度初めのこの時期,児童・生徒たちにローマ字なり英語アルファベットなりの読み書きを教え始める学校の先生も多いと思います.平仮名や片仮名と同じで,何度も読んで書いて練習し慣れていくというスタイルが普通かと思います.
学習者にとってはこのように基礎的な作業となるわけですが,教える先生の側にあっては,是非ともアルファベットの成立や発展などの背景的な知識を持っておくことをお薦めします.学習者からの鋭い質問にも答えられるようになりますし,実際にそのような知識を学習者に教える機会はないとしても,アルファベット1文字1文字に歴史的な深みがあることを知っておくことは大事だと思うからです.そこで,本ブログより関係する記事を集め,以下の記事セットとして整理してみました.
・ 「英語の先生がこれだけ知っておくと安心というアルファベット関連の話し」の記事セット(2021年度版)
同趣旨で,およそ1年前,2020年度の開始期に合わせて「#4038. 年度初めに「英語の先生がこれだけ知っておくと安心というアルファベット関連の話し」の記事セット」 ([2020-05-17-1]) を公開していました.今回のものは,その改訂版ということになります.昨年度中は「hellog ラジオ版」と称して音声コンテンツを多く作ってきたので,今回の改訂版には,アルファベットに関する音声ファイルへのリンクなども加えてあります.
もちろんアルファベットに関する背景知識は,英語の先生に限らず,一般の英語学習者にも持っていてもらいたい知識です.そして,目下「英語史導入企画2021」のキャンペーン中でもありますし,英語史に関心のあるすべての人々に持っていてもらいたい知識でもあります.
昨日の記事「#4287. 古代スラヴ語の運命」 ([2021-01-21-1]) で触れたように,古代スラヴ語は最初にグラゴール文字 (Glagolitic) で,後にキリル文字 (Cyrillic) でも書き記された.後者は現代でもロシア語を中心に東方および南方のスラヴ語圏で用いられており,世界に少なからぬ影響力をもつ文字である.グラゴール文字とキリル文字の成り立ちや相互関係について,またそれらとギリシア文字の関係について,服部 (82--87) に詳しい.以下に要約しよう.
グラゴール文字は,昨日の記事でも述べたように,9世紀後半,ギリシア人のコンスタンティノスとその兄メトディオスが,モラヴィア国へのキリスト教布教を目的にスラヴ文章語(=古代スラヴ語)を作り出したときに同時に生み出された新しい文字である.コンスタンティノスの考案だったとされる.各々の字形は独特だが,9世紀のミヌスクラ体のギリシア文字が基盤となっている旨,指摘されている.ギリシア語にはなくスラヴ語には存在する音素に対応する文字が加えられ,スラヴ語表記に特化した文字体系といえる. *
885年のメトディオスの死後,古代スラヴ語の伝統は弟子たちによってブルガリアへ持ち越され,発展することになった.その際,既存のグラゴール文字に飽き足りず,スラヴ語表記に便利な機能性は保持しつつも,字形としては使い慣れたギリシア文字に似せた新たな文字体系を考案した.これがキリル文字である.具体的には,9世紀のウンキリアス書体のギリシア文字がほぼそのまま採用されており,そこへスラヴ語音を表わすためにグラゴール文字から数文字を取って加えたという文字体系である. *
なお,「キリル」の名は,コンスタンティノスの修道士名キュリロスに由来する.ただし,キリル文字はメトディオスの弟子たちが考案したものであり,コンスタンティノス(=キュリロス)が考案したのは先のグラゴール文字である,という分かりにくい事情があるので注意.
その後,キリル文字は広く展開していったが,一方でグラゴール文字は衰退していった.しかし,後者も一部の地域ではずっと後にまで受け継がれた.アドリア海沿岸部ダルマチア地方(現在のクロアチア領)では,実に20世紀に至るまで,一部の教会においてグラゴール文字で書かれた典礼書が細々と用いられていたという.
・ 服部 文昭 『古代スラヴ語の世界史』 白水社,2020年.
漫然と『丸善エンサイクロペディア大百科』をペラペラめくっていたところ,通信媒体の発達と累積性に関する記事が目にとまった (1772--73) .「#2931. 新しきは古きを排除するのではなく選択肢を増やす」 ([2017-05-06-1]) で取り上げた議論だが,とりわけ「通信媒体の累積性」では本質的なところをズバッと突いていて感心した.言語コミュニケーションの媒体の発展を論じる上で,非常に大事な洞察である.以下,長いがすべて引用する.
通信の発達,情報・マスコミの歴史
通信の発達
通信を遠くにあるものとの意思伝達とすれば,その発達は,主たる媒体によって,大まかに口頭,筆記,印刷,電気通信,相互作用的通信の時代に分類される.文字がない時代における通信の手段は,口頭によるか,視覚・聴覚を通じての信号・合図(のろし,太鼓など)によるしかない.文字をもつようになると紙の発明とともに手書き筆記が通信媒体の主要な手段となった.
印刷術の発明まで,重要な書物はカトリック修道院の書写室で書写されていた.平均的な個人が入手可能な書物の数は限定されており,識字率も非常に低かった.図書館は知識を流布する場所というより知識を蓄積する場所という傾向があった.
印刷術の発明は,書物を一般に開放した.ヨーロッパでは1455年に J. グーテンベルク (1397--1468) によって金属活字による活字活版印刷が発明された.この新たな技術は書物の広範な流布を意味し,16世紀後半の宗教改革運動や17世紀イギリス・ピューリタン革命期のイデオロギーの教化の必要によるパンフレット,新聞などの各種印刷物の出現をみた.ただし,識字率はなお低く,この発明の影響力は非常に緩慢なものであり,今日のように印刷物が大衆媒体といえるものになったのはグーテンベルクの発明から,380年も経過した1830年代のアメリカ(最初の大衆廉価新聞の創刊)においてであった.
1844年に S. F. B. モース (1791--1872) が実用化した電信は新聞の取材と伝達速度を瞬時のものとし始め,通信の歴史の新たな画期を形成した.電信網は,迅速で確実情報収集に死活をかけていた帝国主義者や商人によって,19世紀中葉からまたたく〔ママ〕に世界中に張りめぐらされ,世界を縮小した.
マスコミから双方向通信へ
新聞社が英米で先端技術を駆使して,発行部数100万を超える大量生産を可能とする大企業となった1890年代から電波を媒体とするラジオの登場する1920年までがマス・コミュニケーションの形成・定着期である.これに第二次世界大戦後に世界的にかつ決定的に普及したテレビが加わり,電気通信系マスメディアが通信の主流を占める.
この間,帝国主義,ファシズム,共産主義,世界大戦の戦時宣伝などのその都度の支配的イデオロギーの伝播を背景として,国内的には国内民衆の文化的統合,および対外的には帝国主義国の支配文化の世界的な流布とその正当化のために新しい媒体だけでなく,古い媒体も動員された.これらの支配的イデオロギーの伝達はすべて,ひとりから多数への情報伝達に付きまとう情報がもつ政治的な意味を浮かび上がらせる.
情報化時代といわれる今日におけるソ連の崩壊はひとりから多数への情報の統制のありようの限界と変化を暗示する.1980年代に本格化した新たな通信の形態の特徴は,通信衛星を利用した国際電話,ファックス,パソコン通信にみられるひとりからひとりへの通信の相互作用性,双方向性である.集団間の通信においても,テレビ会議がもっとも双方向性があり,文字放送,ケーブルテレビ,有線放送にしても他ジャンル,多チャンネルの情報から個々人の需要に応じて提供される点で,従来の一方方向型の伝達ではない.この通信の双方向性は,長らく情報を分断してきた国境を難なく越境し,情報の集中する中央と情報の遅れた地方という構図を突き崩し,情報を独占・管理してきた権力を動揺させている.
通信媒体の累積性
通信の歴史は,口頭,筆記,印刷,電気通信,相互作用的通信の時代に一応分類されるが,口頭による伝達は,文字と印刷術の発明の後も,口コミとして使用された.それどころか宗教的政治的な激動期にしばしば肉声として重要な役割を演じたし,ラジオ・テレビの登場後も電波を通じて意味を失っていない.手書きも印刷文書の時代になっても衰退することなく併存し,印刷時代の手書き文書の解読は今日の歴史家が尊敬されるための重要な仕事である.今日ワープロが文書作成の主流となっても肉筆の手紙がかえって尊重されることがしばしば報告されるように,口頭からコンピューターまでの歴史は身体性を隠蔽する方向に進んだようにみえても実際は身体性は消滅することはない.
通信の媒体は累積的な性質をもち,新しい媒体の出現はその都度,先行の媒体の機能を変えるが,先行媒体の完全な代替物とはならず,手書き筆記,印刷,電気通信ともいずれも現代まで続行している.これは,通信の歴史が媒体の変化とともに,情報の量の多さを追求してきた歴史であることを示す.
人類は,言語コミュニケーションにおいて情報の量を追求し続け,その過程で種々の媒体を発明してきたということになる.一方,情報の質についてはどうなのだろう,と考え込んでしまった.質の問題は,媒体に半ば依存するが,半ば独立したものでもあろう.
今回の話題と関連して書写材料の話題について,「#2465. 書写材料としての紙の歴史と特性」 ([2016-01-26-1]),「#2456. 書写材料と書写道具 (1)」 ([2016-01-17-1]),「#2457. 書写材料と書写道具 (2)」 ([2016-01-18-1]),「#2933. 紙の歴史年表」 ([2017-05-08-1]),「#3116. 巻物から冊子へ,パピルスから羊皮紙へ」 ([2017-11-07-1]) も参照.
・ 『丸善エンサイクロペディア大百科』 丸善,1995年.
hellog ラジオ版の第8回目として,英語(史)の専門家にも意外と知られていない事実を紹介します.前回の第7回 ([2020-07-15-1]) でも実は少し触れたのですが,今回は詳しく取り上げます.
現在,世界の約20億人によって話されるともいわれる lingua franca たる英語.現代における威信が注目されるあまり,その最古の姿がいかなるものだったかについては関心をもたれません.しかし,調べてみるとメチャクチャおもしろいのです.英語の現存する最古の証拠の1つに "Undley bracteate" があります.これは1982年に Suffolk の Undley で発見された直径2.3cmの金のメダルに付けられた名前で,年代は紀元450--80年のものとされます.メダルの円周に沿って,ルーン文字で反時計回りに,つまり「右から左に」書かれています.まさにロマンを掻きたてるメダルです.
実におもしろいでしょう."gægogæ mægæ medu" とは何なのか? 呪文? 祈祷? 無味乾燥な散文? 今を時めく英語という言語が,いわば少数民族の言語だった最初期の時代の証拠です.
関連する記事を挙げておきましょう.ぜひ##572,1435,1453の記事セットをじっくりご覧ください.
本年度より英語の教員となったゼミの卒業生から,標記の素朴な疑問をもらっていました.中学1年生にアルファベットの書き方を教えるに当たって,第1文字から早速ハテナが飛ぶ敏感な生徒もいるのではないか,という問題意識からだと思います.私も深く考えたことはありませんでしたが,以下のような書き方練習のドリルを見てみると,確かに,とうなずける問いです.上段が(印刷用の)活字体,下段が(手書き用の)ブロック体です.
小文字 <a> の字形について,活字体では上部に左向きの閉じていない半ループがみえる <<a>> ("open a") が,ブロック体では円の形に近い <<ɑ>> ("closed a") がそれぞれ用いられます.
ついでにいえば,右端にみえる小文字 <g> についても2つの異なる字形が確認されます.活字体では下のループが閉じた <<g>> ("closed g") となり,ブロック体では下のループの開いている <<ɡ>> ("open g") となります.
他の24文字の小文字については活字体とブロック体の字形にさほど大きな違いはありませんが,この <a> と <g> に関しては看過できない差がみられます.なぜこの2文字には妙な差異が観察されるのでしょうか.
端的に答えれば,それはもととなった書体が異なるからです.活字体の <<a>> は,Roman uncial と呼ばれる書体に端を発し,8世紀のシャルルマーニュの教育改革に際して生み出された Carolingian minuscule と呼ばれる書体を経由して現代に受け継がれた字体です.一方,ブロック体の <<ɑ>> は italic と呼ばれる,中世から近代にかけて生じた別の書体における字形に由来します.
では,活字体はすべて Carolingian minuscule の流れを,ブロック体はすべて italic の流れを汲んでいるかといえば,そうでもありません.<g> についていえば,今度は活字体の <<g>> のほうがむしろ italic の系列に連なり,ブロック体の <<ɡ>> のほうが Carolingian minuscule の字形に近いのです.
活字体,ブロック体,筆記体やコンピュータ上のフォントなど,現代のアルファベットには様々な書体があります.それぞれの書体のたどってきた歴史は非常に複雑で,複数の書体が混じったものや,複数の書体の中間的なものなど,その系譜をまとめようとするとなかなか家系図のように綺麗にはいきません.本格的に作図しようとすれば,ある文字の字形はこっちから,別の文字の字形はあっちから,というような複雑なネットワーク図になるでしょう.活字体やブロック体についても,全体としておおまかな系統はたどれるにせよ,英語アルファベットを構成する26文字の個々の字形については,ときに個別に系統を探る必要が生じるのです.
上記は「#3668. なぜ大文字と小文字の字形で異なるものがあるのですか?」 ([2019-05-13-1]) で展開した議論とほとんど同じです.大文字と小文字で字形の異なる文字がいくつかありますが,これももととなった書体の差異に由来します.歴史的にみれば <<A>>, <<a>> , <<ɑ>> は3つの異なる書体に由来し,<<G>>, <<g>>, <<ɡ>> も同様に3つの異なる書体に由来するということになります(特に <g> のたどった歴史は複雑です.g の記事を参照).
漢字に喩えると分かりやすいでしょうか.「令和」の最初の文字「令」は,楷書体などの主として活字用の書体では最終画が真下に伸びますが,国語の授業で習う手書き用の書体では最終画は斜めとなり,片仮名の「マ」のようになります.属する書体が異なり,辿ってきた歴史が異なるからこそ,字形が多少なりとも異なっているということです.
だとすれば,当初の発問を逆転させて,「なぜ他の24文字については活字体とブロック体の字形が似ているのか」と問い直すほうが,もしかしたらベターなのかもしれません.漢字などに比べればローマ字は単純な幾何学的な字形を示すため,歴史上数々の書体が生み出されてきた過程において字形に何らかの「ひねり」や「変形」が加えられたとしても,認識できないほど異なる字形に変化してしまうことは少なかったのでしょう.異なる書体でも結果としておよそ似ている文字が多いのは,このような事情があったためではないでしょうか.
関連して次の記事もご参照ください.
・ 「#1309. 大文字と小文字」 ([2012-11-26-1])
・ 「#3714. 活字体(ブロック体)と筆記体」 ([2019-06-28-1])
・ 「#3674. Harris のカリグラフィ本の目次」 ([2019-05-19-1])
・ 「#1824. <C> と <G> の分化」 ([2014-04-25-1])
・ 「#1914. <g> の仲間たち」 ([2014-07-24-1])
・ 「#2498. yogh の文字」 ([2016-02-28-1])
本ブログでは,英語のアルファベット (alphabet) に関する記事を多く書きためてきました.今年度はようやく年度が始まっているという学校が多いはずですので,先生方も児童・生徒たちに英語のアルファベットを教え始めている頃かと思います.算数のかけ算九九と同じで,アルファベットの学習も基礎の基礎としてドリルのように練習させるのが普通かと思います.しかし,先生方には,ぜひとも英語アルファベットの成立や発展について背景知識をもっておいてもらえればと思います.その知識を直接子供たちに教えはせずとも,1文字1文字に歴史的な深みがあることを知っているだけで,教えるに当たって気持ちの余裕が得られるのではないでしょうか.以下に,そのための記事セットをまとめました.
・ 「英語の先生がこれだけ知っておくと安心というアルファベット関連の話し」の記事セット
この記事セットは,実際には何年も英語を学び続けてきた上級者に対しても十分に楽しめる読み物となっていると思います.アルファベットに関するネタ集としてもどうぞ.
後期古英語のウェストサクソン方言に基づく書き言葉(主にスペリング)が比較的一様であることを根拠に,しばしば「古英語の標準語」 ("Standard Old English") という表現が聞かれる."(Late) West-Saxon Standard", "(Late) West-Saxon Schriftsprache" など様々な呼び方があるが,緩く「古英語の標準語」と言われることが多い.
しかし,実際のところ「古英語の標準語」とは非常に誤解を招きやすい呼び名である.現代の社会言語学の観点からすれば,それはほとんど「標準語」と呼べる要件を満たしていないからだ(cf. 「#3260. 古英語における標準化」 ([2018-03-31-1])).標準語を巡る尺度は様々あり,"standard", "standardised", "fixed", "focused", "focusing", "diffuse" など術語が林立しているが,そのような一連の尺度のなかで「古英語の標準語」がどの辺りに位置づけられるのかといえば,現代人の私たちが典型的に思い浮かべる「標準語」の位置からは相当離れていたに違いない(様々な術語については「#3207. 標準英語と言語の標準化に関するいくつかの術語」 ([2018-02-06-1]) を参照).
Mengden (28) は「古英語の標準語」が誘う誤解に関して,次のように注意喚起している.
If a standard is understood as an institutionalized variety that, among other things, serves as a means of communication bridging several local and social differences in the usage of a language, the hypothesis of a Late West Saxon standard involves two problems. First, it is not falsifiable, because we have no clues as to how widely a deliberately regulated variety may have made its way outside the scriptoria. And second, the idea is implausible because it is not clear how a variety attested in a number of specialized scholarly texts should have spread into other areas of society given that literacy was limited to a rather small elite. What is plausible, though, and for this we do have evidence, is that there is an influential intellectual elite which has an enormous impact on the literary productivity in late Anglo-Saxon England, and who seem to have used the language of their works in a deliberate and comparatively uniform way.
この議論は的確である.さらに,別の箇所 (27) で次のようにも議論している.
. . . we are dealing with a set of texts covering a limited range of scholarly fields. It would be problematic to deduce the existence of a genuine standard language from the relative homogeneity of the Winchester texts alone. Indeed, the very fact that the documents representing "Standard Old English" all derive from a tight network of authors and instigators in a predominantly monastic context --- all in all a rather small, albeit influential, group of people --- speaks against rather than in favor of the wider use of their linguistic features outside these circles. It is therefore justified to speak of orthographic conventions characteristic of the Winchester school, perhaps of a West Saxon Schriftsprache, but it is difficult, if not impossible to make judgments about the scope and influence of the Winchester conventions.
「古英語の標準語」が招く誤解について,次のようにまとめておこう.後期ウェストサクソンの比較的均一な書き言葉の伝統は,それ自体が古英語の標準化に貢献したとはいえない.それは現存する(後期)古英語の文字資料の大半に反映されているという事実があるだけだ.それ以上でも以下でもない.
・ Mengden, Ferdinand von. "Periods: Old English." Chapter 2 of English Historical Linguistics: An International Handbook. 2 vols. Ed. Alexander Bergs and Laurel J. Brinton. Berlin: Mouton de Gruyter, 2012. 19--32.
昨日の記事 ([2020-01-29-1]) に引き続き,なぜギリシアとローマが,それ以前の地中海世界で普通に行なわれていた分かち書き (distinctiones) を捨て,代わりに続け書き (scriptura continua) を作用したかという問題について.
Saenger によれば,この問題に迫るには,読むという行為に対する現代的な発想を脇に置き,古代の読書習慣とその社会的文脈を理解する必要があるという.端的にいえば,現代人はみな黙読や速読に慣れており,何よりも「読みやすさ」を重視するが,古代ギリシアやローマの限られた人口の読み手にとって,読む行為とは口頭の音読のことであり,現代的な「読みやすさ」を追求する姿勢はなかったのだという.以下,Saenger の解説を聞いてみよう (11--12) .
. . . the ancient world did not possess the desire, characteristic of the modern age, to make reading easier and swifter because the advantages that modern readers perceive as accruing from ease of reading were seldom viewed as advantages by the ancients. These include the effective retrieval of information in reference consultation, the ability to read with minimum difficulty a great many technical logical, and scientific texts, and the greater diffusion of literacy throughout all social strata of the population. We know that the reading habits of the ancient world, which were profoundly oral and rhetorical by physiological necessity as well as by taste, were focused on a limited and intensely scrutinized canon of literature. Because those who read relished the mellifluous metrical and accentual patterns of pronounced text and were not interested in the swift intrusive consultation of books, the absence of interword space in Greek and Latin was not perceived to be an impediment to effective reading, as it would be to the modern reader, who strives to read swiftly. Moreover, oralization, which the ancients savored aesthetically, provided mnemonic compensation (through enhanced short-term aural recall) for the difficulty in gaining access to the meaning of unseparated text. Long-term memory of texts frequently read aloud also compensated for the inherent graphic and grammatical ambiguities of the languages of late antiquity.
Finally, the notion that the greater portion of the population should be autonomous and self-motivated readers was entirely foreign to the elitist literate mentality of the ancient world. For the literate, the reaction to the difficulties of lexical access arising from scriptura continua did not spark the desire to make script easier to decipher, but resulted instead in the delegation of much of the labor of reading and writing to skilled slaves, who acted as professional readers and scribes. It is in the context of a society with an abundant supply of cheap, intellectually skilled labor that ancient attitudes toward reading must be comprehended and the ready and pervasive acceptance of the suppression of word separation throughout the Roman Empire understood.
引用の最後に示唆されているように,古代人は続け書きにシフトすることで,読みにくさをあえて高めようとした,という言い方さえできるのかもしれない.この観点は,中世後期に再び分かち書きへと回帰していく過程を理解する上でも示唆的である.関連して「#1903. 分かち書きの歴史」 ([2014-07-13-1]) も参照.
・ Saenger, P. Space Between Words: The Origins of Silent Reading. Stanford, CA: Stanford UP, 1997.
アルファベットの分かち書き (distinctiones) と続け書き (scriptura continua) の問題については,最近では「#3926. 分かち書き,表語性,黙読習慣」 ([2020-01-26-1]) で,それ以前にも distinctiones の各記事で取り上げてきた.
Saenger (9) によると,アルファベットに母音表記の慣習が持ち込まれる以前の地中海世界では,スペースによるか点によるかの違いこそあれ,分かち書きが普通に行なわれていた.ところが,ギリシア語において母音表記が可能となるに及び,続け書きが生まれたという.これを時系列で整理すると次のようになる.
まず,アルファベット使用の初期から分かち書きは普通にあった.ところが,ギリシア・ローマ時代にそれが廃用となり,代わって続け書きが一般化した.ローマ帝国が崩壊し,中世後期の8世紀頃になると分かち書きが改めて導入され,その後徐々に一般化して現代に至る.
分かち書きは現在では当然視されているが,母音表記を享受し始めた古典時代の間に,その慣習が一度廃れた経緯があるということだ.では,なぜ母音表記の導入により,私たちにとって明らかに便利に思われる分かち書きが廃用となり,むしろ読みにくいと思われる続け書きが発達したのだろうか.Saenger (9--10) によれば,母音表記と続け書きの間には密接な関係があるという.
The uninterrupted writing of ancient scriptura continua was possible only in the context of a writing system that had a complete set of signs for the unambiguous transcription of pronounced speech. This occurred for the first time in Indo-European languages when the Greeks adapted the Phoenician alphabet by adding symbols for vowels. The Greco-Latin alphabetical scripts, which employed vowels with varying degrees of modification, were used for the transcription of the old forms of the Romance, Germanic, Slavic, and Hindu tongues, all members of the Indo-European language group, in which words were polysyllabic and inflected. For an oral reading of these Indo-European languages, the reader's immediate identification of words was not essential, but a reasonably swift identification and parsing of syllables was fundamental. Vowels as necessary and sufficient codes for sounds permitted the reader to identify syllables swiftly within rows of uninterrupted letters. Before the introduction of vowels to the Phoenician alphabet, all the ancient languages of the Mediterranean world---syllabic or alphabetical, Semitic or Indo-European---were written with word separation by either space, points, or both in conjunction. After the introduction of vowels, word separation was no longer necessary to eliminate an unacceptable level of ambiguity.
Throughout the antique Mediterranean world, the adoption of vowels and of scriptura continua went hand in hand. The ancient writings of Mesopotamia, Phoenicia, and Israel did not employ vowels, so separation between words was retained. Had the space between words been deleted and the signs been written in scriptura continua, the resulting visual presentation of the text would have been analogous to a modern lexogrammatic puzzle. Such written languages might have been decipherable, given their clearly defined conventions for word order and contextual clues, but only after protracted cognitive activity that would have made fluent reading as we know it impractical. While the very earliest Greek inscriptions were written with separation by interpuncts, points placed at midlevel between words, Greece soon thereafter became the first ancient civilization to employ scriptura continua. The Romans, who borrowed their letter forms and vowels from the Greeks, maintained the earlier Mediterranean tradition of separating words by points far longer than the Greeks, but they, too, after a scantily documented period of six centuries, discarded word separation as superfluous and substituted scriptura continua for interpunct-separated script in the second century A.D.
ここで展開されている議論について,私はよく理解できていない.母音表記の導入の結果,音節が同定しやすくなったという理屈がよくわからない.また,仮にそれが本当だったとして,文字の読み手が従来の分かち書きではなく続け書きにシフトしたとしても何とか解読できる,という点までは理解できるが,なぜ続け書きに積極的にシフトしたのかは不明である.上の議論は,消極的な説明づけにすぎないように思われる.
母音文字を発明してアルファベットを便利にしたギリシア人が,読みにくい続け書きにシフトしたというのは,何か矛盾しているように感じられる.実際,この問題は多くの論者を悩ませ続けてきたようだ (Saenger 10)
ギリシア人による母音文字の導入という文字史上の画期的な出来事については,「#423. アルファベットの歴史」 ([2010-06-24-1]) や「#2092. アルファベットは母音を直接表わすのが苦手」 ([2015-01-18-1]) を参照.
・ Saenger, P. Space Between Words: The Origins of Silent Reading. Stanford, CA: Stanford UP, 1997.
西洋中世の読み書きに関する標記の3つのキーワードは,互いに関連している.語と語の間に空白を入れる分かち書き (distinctiones) の発達により,読者はアルファベットのつながりを表音的 (phonographic) に読み解くのではなく,より表語的 (logographic) に読み解く習慣を育むことができるようになった.結果として,声に出して理解する音読ではなく,頭のなかで語の意味を取る黙読および速読の文化が芽生え,私的に思考したり,大量の情報を処理することが可能になったのである.「#3881. 文字読解の「2経路モデル」」 ([2019-12-12-1]),「#3884. 文字解読の「2経路」の対比」 ([2019-12-15-1]) で挙げた用語に従えば,読解に用いられる神経回路の比重が「音韻ルート」から「語ルート」へとシフトしてきたといってもよいだろう.
西洋における黙読習慣の発達の時期については,権威あるラテン語に対して土着語 (vernacular) への気付きがきっかけとなったタイミングとして,8世紀頃を指摘する見解がある.この見解に基づいて,Cook (152--53) が上述の解説を次のようにうまくまとめている.
Punctuation marks started as an aid for reading Latin aloud, in the form of various dots and other marks. These were necessary because Latin was written without word spaces, making texts difficult to read aloud on sight. Around the eighth century AD, it became usual to put a space between words. According to Saenger (1997), this transformed reading from reading aloud to reading in silence. Without spaces, the reader had to test out loud what the text meant; with spaces, the reader could interpret the text without saying it aloud and they could read and write with greater privacy since their activity was not audible to other people; indeed Galileo saw the advantages of 'communicating one's most secret thoughts to any other person' (cited in Chomsky 2002: 45). Hence, once the lexical route became possible for reading European languages, authors became more daring individuals; and the speed of reading could be increased beyond the speed of articulation. As Harris (1986) put it, 'One is tempted to compare the introduction of the space as a word boundary to the invention of the zero in mathematics . . .'.
それにしても「分かち書きの発見は数学におけるゼロの発見に比較できる」というのは並一通りではない評価だ.
本記事と関連して,ぜひ以下の記事にも目を通していただきたい.
・ 「#2058. 語源的綴字,表語文字,黙読習慣 (1)」 ([2014-12-15-1])
・ 「#2059. 語源的綴字,表語文字,黙読習慣 (2)」 ([2014-12-16-1])
・ 「#2696. 分かち書き,黙読習慣,キリスト教のテキスト解釈へのこだわり」 ([2016-09-13-1])
・ 「#1903. 分かち書きの歴史」 ([2014-07-13-1])
・ Cook, Vivian. The English Writing System. London: Hodder Education, 2004.
・ Saenger, P. Space Between Words: The Origins of Silent Reading. Stanford, CA: Stanford UP.
・ Chomsky, N. On Nature and Language. Cambridge: CUP, 2002.
・ Harris, R. The Origin of Writing. London: Duckworth, 1986.
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