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writing - hellog〜英語史ブログ

最終更新時間: 2024-04-26 08:56

2016-01-18 Mon

#2457. 書写材料と書写道具 (2) [writing][history][medium]

 昨日の記事 ([2016-01-17-1]) に引き続き,標題のトピックを.
 書写材料と書写道具の問題について,ルネ・ポノによる『コミュニケーションと言語』から引用している文章(「銅と蝋と絹」という題名で矢島が和訳したもの)を,ジャン (148--50) に見つけた.以下,引用する.

銅と蝋と絹

何の上に?
 たとえば,パピルス(エジプト),亜麻布(エジプト),粘土板(メソポタミア),大理石(ギリシア),石(メソポタミア),銅(インド),羊の皮(死海沿岸),鹿の革(メキシコ),白樺の樹皮(インド),竜舌蘭(中央アメリカ),竹(ポリネシア),アガラック(沈香)の靱皮(インド),椰子の葉(インド),木(スカンディナビア),絹(中国,トルコ),象牙(オータン),蠟板(エジプト,西ヨーロッパ)…….
 何を使って?
 当然,どういう素材に書きつけるかによって,筆記具も異なってくる.葦ペン,筆(パピルスや動物の毛),鉄筆,へら,羽ペン…….
 素材と筆記具が変わると,各文字も変わる.たとえば,ここに二人の男がいて,文字の体系をつくりあげようとしているとする.その場合,パピルスに葦のペンで書いた男と,粘土板に鉄筆で書いた男とでは,文字もまったく異なったものになることは容易に推察できるだろう.
 それどころか,その二人が同じ手本を写した場合でさえ,結果は似ても似つかないものになるだろう.ある一定の時が経過すると,素材の性質に変化が起こり,筆記具の残した線もその影響を受ける.そうすると元の文字と筆写した文字はかけ離れたものになる.同一の人物が同一の写本を筆者した文字どうしでさえ,同じことが起こる.
 素材の種類は様々だ.ガラス,骨,鉛,羊皮紙,そしてもちろん紙.すべて,ある時期に重要な役割を果たした素材であることはまちがいない.それはなぜか.たしかに,記号の形態は初期の素材と筆記具によって決まることが多いが,その後の発展の過程もたいへん重要な要素だからだ.その中ですべてが見直されることもありうる.
 たとえば,紙が主流になったとき,あるいは羽ペンの持ち方が変わったとき,それは様式の変わり目ではあるが,新たな文字体系が出現したわけではない.しかし,慣れていない目にはまったく新しい文字に見えてしまうほど,書体が変化することもあるだろう.
 要するに,文字の側に立っていえば,どこからどこまでが素材にかかわる部分なのかはたいへん微妙な問題なのだ.その素材がまったく新たに発明されたものなのか,改良につぐ改良でまったく様変わりしたものなのか見極めることは難しい.
 輝かしい碑銘を残した民族は多い.しかし,現代まで残ったそれらの碑銘を見て,そのほかの書体が使われていなかったとは誰も言えない.碑銘に残された書体は,書記が普段使っていた書体を,たまたま石という素材に合わせて変化させたものなのではないか.そして日常的に使われていた書体は,朽ちやすい素材に書かれていたため,すべて失われたのではないかと考えることもできるからだ.
 文字についての考察は多々ある.しかし,「なぜ,ある言語と文字が跡形もなく消え去ったり,かろうじて小さな遺跡の中に残っているだけなのに,一方では,堅牢な素材に刻まれ,時と季節の繰り返しに耐え,現代まで手付かずのまま残っている言語と文字があるのか」と問うとき,新たに考案された素材であれ,改良された素材であれ,素材そのものについての知識を持つことは,必要かつ欠くべからざるものと言えるだろう.


 私はこれまで,書写材料や書写道具の変化や発展は,しばしば個々の字形,字体,書体の変化にはつながるかもしれないが,文字体系そのものの変化を引き起こすわけではないだろうと考えていた.しかし,上の議論にもあるように,非体系的な変化と体系的な変化の境目は,案外不明瞭なのかもしれないと思い直した.
 また,歴史言語学や考古学の観点からみた材料や道具の重要性は,それによって文字の現存可能性が半ば決まってくるという点にあるとの指摘は本質的であり,納得させられた.この点については,「#1834. 文字史年表」 ([2014-05-05-1]) と「#2389. 文字体系の起源と発達 (1)」([2015-11-11-1]) で引いたように,「文字が地上のどこに生まれたかなどと詮索するのはむなしいことである.ある社会が象徴的事物を描きつつ一連の物質的記号を残そうとし,媒体を選び,そこに表記する,こういった社会がある限り文字出現の地点はどこにもあるのである.いくつもの社会が原始的媒体(洞窟壁画)とか保存不能の媒体(粘土以外のもの)を選択したと思われる」という見解を思い起こさせる.
 現代の電子社会においても,書記言語(をデジタル化したデータ)の媒体が,フロッピーディスク,光磁気ディスク (MO),光ディスク (CD, DVD, BD) などへと変化してきた.媒体によって寿命年数が異なるという問題は,昔も今も変わっていないということだろう.

 ・ ジョルジュ・ジャン 著,矢島 文夫 監修,高橋 啓 訳 『文字の歴史』 創元社,1990年.

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2016-01-17 Sun

#2456. 書写材料と書写道具 (1) [writing][history][medium]

 書記言語とは,文字という視覚に訴えかける痕跡により,ことばを表すものである.そのためには,痕跡を残す材料と道具が必要となる.例えば,砂と指,石と鑿,紙とペン,ディスプレイとキーボードは,それぞれ書写材料と書写道具である.古今東西,書記言語のために様々な材料と道具が用いられてきた.阿辻 (40--42) を引用する.

 世界各地の古代文明で書写材料として使われたもののうち,よく知られているものには石や粘土板,木や竹を削った札(木簡・竹簡),それにパピルスなどがあり,他に特殊なものとして亀の甲羅や動物の骨,象牙,青銅器,あるいは蠟板(四角い木の枠内に蠟を流し固めたもの)などがあった.
 これらの最後に,紙が登場した.キリスト紀元前後に中国で発明された紙は,やがて長い年月をかけて世界中に伝播し,もっとも便利な書写材料として使われるようになった.紙はそれまでのあらゆる素材を淘汰し,世界を席巻した.近頃では紙に文字を書くかわりに,電子技術を使ってコンピュータにつながったブラウン管に文字を表示する方法がよく使われるようになった.しかしそれでも,大多数の人々が日常生活の中で接触する文字は,書籍や新聞・雑誌など紙の上に印刷されたものであり,現在もまだ基本的に紙の時代が続いているといえる.
 木簡や紙のような書写材料とは別に,これらの素材に文字を記録するために使われた道具も,古今東西まちまちであって,実にバラエティにとんでいる.たとえば現在の私たちの周囲を見まわしても,ペンやボールペン,鉛筆など日常的によく使われるおなじみのもののほかに,お習字の稽古や熨斗袋に文字を書く時には毛筆を使うし,看板にペンキで文字を書く時には刷毛を使う.最近ではとんと見かけなくなったが,かつての学校では試験問題の印刷などにガリ版がよく使われた.あれは鉄筆という尖った針状のペンで文字を書いていた.
 アルファベットで文章を綴る欧米では,タイプライターが文章表記での必需品であった.これはもともと日本人にはなじみの薄い道具だったが,しかし最近ではこれから発達したコンピュータのキーボードが,日本でもきわめて普遍的な文房具になりつつある.
 このコンピュータ(ないしはワープロ)を使っての文章表記をめぐっては,日本では賛否両論がいまだにかまびすしい.しかし欧米ではタイプライターを使って文章を書くのはきわめてありふれた行為であって,現在のワープロも,要するに伝統的なその方式にコンピュータによる編集機能を加えたものだといえる.文字を書く道具はこれまでにも各書写材料がもつ条件に合わせて次々と開発されてきており,コンピュータによる文章表記も,人類が太古の昔から繰り返してきた行為の一種にすぎないと考えるべきであろう.


 文字という痕跡を残す「書記」には,主として3種類が認められる.それは,(1) 刻みつける,(2) インクなど有色の液体を塗る,(3) コンピュータなどで画面上に映す,である.砂などに指で文字を記すというのは最も原始的な方法だったと思われるが,立体的にくぼみをつけるという点では「刻みつける」の仲間ととらえたい.ほかには,一般的ではないが,大文字焼,人文字,花火や飛行機雲による文字など,立体的な書記もある.(3) のような電子的な書記に関して,最近ではキーボードに限らずスマホやケータイの文字盤から入力するものも普及してきたし,マイクによる音声入力も可能となってきたので,これは新たな書写道具,あるいは書写方法と呼んでしかるべきだろう.
 いうまでもなく,これらの書写材料・道具は,人類の科学技術の発達とともに移り変わってきた.そのヴァリエーションの広さは,聴覚に訴えかける音声言語には比較するものがないのではないかと思われる.音声言語においては,機械的に合成した言語音の使用,人工喉頭の援用,口笛言語 ([2012-10-29-1]) のような "surrogate" などが考えられるが,ヴァリエーションは決して広くない.

(後記 2016/02/14(Sun):矢島 文夫 『文字学のたのしみ』 大修館,1977年.の「印刷術と文字」 (pp. 129--47) にて,矢島 (132) が「書く」とは別の動作として印章や後の印刷に連なる「押す」という動作について指摘している.)

 ・ 阿辻 哲次 『一語の辞典 文字』 三省堂,1998年.

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2016-01-15 Fri

#2454. 文字体系と表記体系 [grammatology][writing][japanese][orthography][terminology]

 「文字体系」「書記体系(書記法)」「表記体系(表記法)」という用語は,論者によって使い方が異なるが,私は以下のように考えたい.現代の日本語表記でいえば,そこでは平仮名,片仮名,漢字,ローマ字という独立した「文字体系」が区別される.それぞれの文字体系に関しては独自の「書記法」があり,例えば仮名では仮名遣いが,漢字では常用漢字の使用や熟字訓に関する規範がある.また,文字体系の使い分けや送り仮名の規則など,複数の文字体系の混用に関する標準的な決まりごとがあり,それは日本語の「表記体系」と呼びたい.
 この辺りの問題,特に「文字体系」と「表記法」という用語の問題について,河野・西田 (pp. 179--82) が対談している.以下は,西田の発言である.

 日本語の文字体系という問題に入りますけれども,まず,文字体系と表記法というのは別の問題だと思うのですね。表記法というのは,どういうふうに日本語を書き表わしているかということです。一方,文字体系というのは,たとえば仮名は仮名で一つの文字体系をもっている。漢字は漢字で一つの文字体系をなしている。ローマ字はローマ字で別の一つの文字体系をもってる。ですから,日本の場合だと,そういう文字体系を混用しているところに特徴があるわけですね。その混用していることをどう考えるかという問題だと思います。
 表記法の問題であれば,たとえば今の仮名遣いがそれでいいのか,どういうふうに改良したらいいのかという問題になってきて,これは面倒なことになりますから,あまり個人的な意見をいうのはちょっとむずかしいと思いますので,文字体系が混用されていることをどう考えるかという問題として取り上げたいと思います。
 そうすると,日本語の表記には少なくとも三つの文字体系を覚えなければいけない。三つというのは,漢字と仮名――片仮名・平仮名ですね――それからそれに付随してローマ字です。三つの文字体系を覚えなければいけないというのは,記憶に対して非常に負担になるということは一応あるわけですが,それを除いて,三つでも四つでも誰でも記憶できるのだということで考えた場合には,非常に便利ではないかと思うのですね。
 文字体系の混用といっても,どの場面にどの文字を使うかが,習慣的にかなりの程度に決まっている。たとえば漢語からきたものは漢字で書く。それから日本的な文法的要素は仮名で書く,欧米からきた借用語は片仮名で書く。そういう,だいたいの配分のようなものが決まっていて,その上で混用されているということになると思います。
 たとえば漢字がわからなければ仮名で書いておけばいいわけで,これは非常に便利なことだろうと思います。ほかの言語では,おそらくこのように混用している言語というのは非常に少ない,あるいはほとんどないのではないか。必ずしもそうとはいえないかもしれませんが,そのことはあとでまたちょっと触れたいと思います。
 文字の混用はどういう意味があるかといいますと,日本語を書くときに,漢字を使うか,仮名を使うかという選択があった場合に,どちらの文字を使えばより効果的かの一つの判断に立って使っているわけだと思います。漢字の中でも,どの漢字を使うか,たとえばヨロコブには「喜」を使うか,あるいは「慶」を使うか,はたまた「悦」を使うか,これは一つの判断によって決めているわけなんで,そういう文字の選び方は,その文字がもっている本来の価値と付加価値というんですか,その言葉を表記するためにいろいろな人が使っているうちに,自然に付加された価値によっている。それは単に言葉を表記している,意味を表記しているとか,発音を表記しているとか,そういうものだけじゃなくて,歴史の流れの中でそれにプラスされてきた別な価値が生きてくる。その付加価値をどう判断しているかということになると思うのですね。
 ですから,字形のもつ価値以外のものは,別に研究していく必要があると思います。
 また片仮名を挿入することがどういう意味をもつかということですね。付加価値についての調査はあまりされていないと思うのです。それから複数の文字体系の使用の問題ですが,例えば中国の場合,普通みな漢字だけを使っていると思うわけですけれども,実はそうじゃなくて,拼音文字といわれるローマ字表記が併用されている。もう少し遡った段階では,注音符号という文字が使われていた。ですから,必ずしも文字体系がすべて漢字だけであるとはいえないと思いますね。


 このように,とりわけ日本語の表記法の特徴は,ことばを書き記す際に,使用する文字体系やその混用の様式を,書き手がある程度主体的に決められるという点にある.
 関連して「#2391. 表記行動」 ([2015-11-13-1]),「#2392. 厳しい正書法の英語と緩い正書法の日本語」 ([2015-11-14-1]),「#2409. 漢字平仮名交じり文の自由さと複雑さ」 ([2015-12-01-1]) を参照されたい.

 ・ 河野 六郎・西田 龍雄 『文字贔屓』 三省堂,1995年.

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2016-01-13 Wed

#2452. 書き手の主体性が機械に乗っ取られる感覚 [writing]

 コンピュータを用いた文字の表記は,英語でも日本語でも,今では当たり前である.しかし,コンピュータが現在ほど普及する前には,我が国ではコンピュータによる日本語表記について,喧々囂々の議論がなされていた.その議論の一部はいまだ有効のように思われる.阿辻 (105--07) は,1998年当時,書き手の主体性という問題へ注意を喚起している.

文章とは自分で書くものであり,機械が書いてくれるものではない,という当たり前の事実だけは,絶対に忘れてはならない。日本語の表記に関して今もっとも要求されているのは,文字を書く人間の主体性の確立なのであって,そのためにも文章を書く人間の自覚の重要さを強調する必要がある。
 これからの二一世紀にむけて,日本語を平仮名や片仮名(あるいはローマ字書き)中心で書こうとする主張が唱えられることはおそらくありえない。現在すでに六三〇〇字あまりの漢字がコンピュータで処理でき,しかもこれからの日本の発展の中枢に,コンピュータが位置することは確実である。つまりこれからの漢字は,コンピュータの進化と離れては,みずからの存在を主張できないのである。
 もちろん二一世紀になっても,手で書かれた文字は頻繁に使われるだろうし,書道の作品も大量に制作されつづけるだろう。それらはおそらく人類の歴史と共に,永遠に存在しつづけるにちがいない。しかし少なくとも論文や研究報告,あるいはビジネス文書,それに書籍や雑誌などでの日本語は,執筆の段階でコンピュータとの付き合いを離れてはありえない。そしてもっとも大事な問題は,コンピュータが出してくる日本語をそのまま二一世紀の日本語とするのではなく,日本人自身が二一世紀の日本語を作っていかなければならない,ということなのである。
 そのためにはどうしたらいいのか。それは決して難しいことではない。単に,文章を書くのはほかでもなく私たち自身であり,コンピュータではないのだという,きわめて当然の事実を,各人がしっかりと自覚すればいいのだ。コンピュータが処理する日本語に関する種々の機能はまことに日進月歩であって,どんどん高機能化している。最近では文法的な解析ができると標榜するものまであって,「仮名漢字変換」という機能は,たしかに非常に便利なものである。しかしコンピュータが画面上に出してくる文章に対して,なんの吟味も検討も加えず,それに安易に引きずられてしまうと,人間ではなくコンピュータが書いた文章ができあがる。筆やペンを使って手書きで文章を書いていた時に,言葉を丁寧に一つずつ選んでいた状況が,機械を前にしてキーボードを使って書いても,同じように実現されなければならないのである。日本語に対する各人の感性が,今ほど重要視される時代はない。


 これは,「#2391. 表記行動」 ([2015-11-13-1]) で示した図で考えれば,「表記主体」たる書き手が「表記手段」たるコンピュータの上位にあるのが当然であり,前者が後者に従属することがあってはならないということである.現在,コンピュータによる仮名漢字変換や語法チェックなどの機能は実に便利であり,私たちも日々お世話になっていることは疑い得ないが,書き手はその利便性を享受しながらも,最終的には校正者であり編集者であり決定者であるという自覚をもっていなければならない,ということだ.
 英語をコンピュータで書くときも同様である.スペルチェックや文法チェックはありがたいが,ときに余計なお世話だと思うことはある.余計なお世話,との感覚がまるでなくなるとしたら,そのときこそ,書く主体としての人間がコンピュータに乗っ取られる瞬間だろう.

 ・ 阿辻 哲次 『一語の辞典 文字』 三省堂,1998年.

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2016-01-10 Sun

#2449. 書字方向 (2) [writing][grammatology][medium][typology][direction_of_writing]

 昨日の記事 ([2016-01-09-1]) に引き続いて,書字方向について.世界の主たる書字方向を整理すると,次のようになる.これは西田 (242) の図を参照したものであり,書字方向の各タイプについては私が便宜上適当な呼称をあてがった.

                   I. 横書き型                                          II. 縦書き型
                         │                                                   │
     ┌─────┬───┴───┬──────┐                   ┌────┴────┐
     │          │              │            │                   │                  │

    (a)          (b)            (c)            (d)                  (a)                 (b)
  左横書き     右横書き      右左横書き     左右横書き            右縦書き            左縦書き
                             (牛耕式)     (牛耕式)
                                                                 4  3  2  1          1  2  3  4
1 ───→    ←─── 1     ←─── 1    1 ───→            │ │ │ │         │ │ │ │
2 ───→    ←─── 2    2 ───→      ←─── 2           │ │ │ │         │ │ │ │
3 ───→    ←─── 3     ←─── 3    3 ───→            │ │ │ │         │ │ │ │
4 ───→    ←─── 4    4 ───→      ←─── 4           ↓ ↓ ↓ ↓         ↓ ↓ ↓ ↓

 以下,西田 (242) に従って,各々の型の代表的な文字を列挙する.

 ・ I(a) の左横書きは,英語をはじめとするローマン・アルファベット系の文字やインド系の文字(ナーガリー文字,チベット文字)が含まれる.
 ・ I(b) の右横書きは,シリア・アラビア系の文字(アラビア文字,ヘブライ文字,ソグド文字)や突厥文字に採用されている.
 ・ I(c) の右左横書き(牛耕式)には,紀元前2500年頃の未解読のインダス文字や初期のシリア・アラビア系文字などが属する.
 ・ I(d) の左右横書き(牛耕式)は,紀元前1500年頃のヒッタイト象形文字がこの統字法をもっていたと考えられている.
 ・ II(a) の右縦書きは,漢字系文字(漢字,西夏文字,女真文字)や日本語の文字において行なわれている.
 ・ II(b) の左縦書きは,ウイグル系文字(蒙古文字,満州文字)やパスパ文字が代表でなる.

 先の記事で触れたように,複数の型をとることが可能な文字は,古今東西,珍しい.エジプト聖刻文字は縦横両方が可能だったが,日本語は現行の I(a) と II(a) のほか,歴史的には I(b) や II(b) もあった,世界の文字のなかでは特異である.日本語の書字方向の歴史については,屋名池による新書がすこぶる有益であるので,お薦めしたい.

 ・ 西田 龍雄(編) 『言語学を学ぶ人のために』 世界思想社,1986年.
 ・ 屋名池 誠 『横書き登場―日本語表記の近代』 岩波書店〈岩波新書〉,2003年.

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2016-01-09 Sat

#2448. 書字方向 (1) [writing][grammatology][medium][japanese][direction_of_writing][hebrew]

 書字方向とは,文字を書き進めてゆく向きである.英語では,左から右へと横書きで書き進めて行き,行末に来たら下に行移りして,再び左から右へと書き進める(=左横書き).日本語は英語と同様に横書きもできるが,伝統的には縦書きであり,その場合には上から下へと文字を書き連ね,行移りは右から左へと展開する(=右縦書き).このように普段使い慣れている文字体系については,その書字方向がいかにも自然なもの,必然的なものに感じられるが,これらは伝統的な習慣にすぎない.特定の書字方向が直感されるほど普遍的でないことは,古今東西の様々な例をみれば分かる.
 横書きから見てみよう.現在でもアラビア語,ヘブライ語,シリア語などは右から左へと書字を進める右横書きを採用している.ヨーロッパでも,古くは初期ギリシア語や初期ラテン語の碑文などに見られるように,右横書きが行われていた.おもしろいのは牛耕式 (boustrophedon) と呼ばれる書字方向で,これはある行を右から左へ書いたら,次行は左から右へというように交互に逆方向に書き進める方式だった.牛耕式はエジプト聖刻文字,初期ギリシア語,古代小アジアの象形文字などに見られ,鳥などをかたどった象形文字の字形は,典型的に行の向きに応じて左右反転するという特徴があった.ギリシア語やラテン語における右横書きから左横書きへの転換の背景には,より古い段階の牛耕式において,いずれの方向も可能であったという事実が関係していたと思われる.
 次に,縦書きについて.縦書き文字の代表選手は,いうまでもなく漢字である.日本,韓国,モンゴル,ベトナムなど漢字に影響を受けた東アジアの文化圏でも,伝統的に縦書きの慣習が採用されてきた.殷墟から発見された漢字の祖型といえる3千数百年前の甲骨文字でも,すでに縦書きが採用されていたが,行移りに関しては,1枚の骨の上ですら,左方向と右方向の両者が確認される.なぜこのように異なる方向の行移りが行われていたのかは詳しく分かっていないが,阿辻 (34)によれば「ただ総じていえば,甲骨文字では骨や甲羅などの記録媒体の周辺部に書かれる文章は外側から内側に行が進み,逆に中心部に書かれる文章では行が内側から外側に進んでいく傾向があるようだ」.しかし,甲骨文字とほぼ同時代の金文では右縦書きが採用されており,これ以降,現在に至るまで漢字文献は右縦書きが基本となっている.この書字方向の定着について,阿辻 (36) は次のように解説している.

行が右から左に進むようになったのは,おそらく竹簡(ちっかん)や木簡(もっかん)のような幅の狭い素材に文字を書き,それを何本も並べて紐で綴じた原始的な書籍の形態に由来するのだろう。何枚もの札をならべて紐で綴じる場合,右利きの人間なら当然,最初の札が一番右端にくるように綴じるはずだ。木簡・竹簡からやがて紙の巻き物に変わっても,紙を右方向に繰り出すのだから,文字を書いた行も右から左に進むこととなった。


 とはいっても,漢字の影響を受けたウイグル文字,モンゴル文字,満州文字で,漢字とは逆の左縦書きが採用されている例があるし,屋名池 (49) によれば,幕末から明治にかけての左綴じ洋学書の序文や凡例では日本語でも左縦書きが実践された.
 縦書きについて,非常に珍しい事例として,下から上へ書かれる文字がある(阿辻,pp. 37--38).北アフリカで半遊牧生活を送るベルベル人の一部が用いるティフナグ文字というもので,今でも岩壁の碑文などにわずかに残っているという.書き手が下から上へ手を伸ばして刻んでいったものであり,届かない高さになると,行を変えて再び下から書き上げていくということらしい.書き手の背の高さまでおよそ計測できるのがおもしろい.上から下という方向性は重力の影響下に生きる人類にとってほぼ普遍的かと思われたが,それすらも反例があったということである.世界は広い.
 最後に,縦書きと横書きを併用できる日本語,中国語,ハングルなどは,古今東西,非常に珍しい文字体系であることに触れておきたい.ほかにもエジプト聖刻文字,梵字,彝文字では縦横両方の書字方向が可能だったが,現代世界で常用されているという点では,日本語のような書字方向の慣習は,きわめて珍しいと言わざるをえない.
 書字方向は,当然のことながら,時間軸に沿って1次元的にしか進み得ない線状性 (linearity) に縛られた口頭言語にとっては無縁の話題であり,空間上に展開される書記言語だからこそ論じられる問題である.書字方向は,文字論における「統字論」における重要なトピックであることを言い添えておきたい.関連して,「#1829. 書き言葉テクストの3つの機能」 ([2014-04-30-1]) の記事において触れた,エスカルピの指摘する書記言語の図像的機能も参照.

 ・ 阿辻 哲次 『一語の辞典 文字』 三省堂,1998年.
 ・ 屋名池 誠 『横書き登場―日本語表記の近代』 岩波書店〈岩波新書〉,2003年.

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2016-01-08 Fri

#2447. 言語の数と文字体系の数 [statistics][world_languages][grammatology][writing][medium]

 世界における言語の数について,あるいは言語の数を数えるという問題について,「#270. 世界の言語の数はなぜ正確に把握できないか」 ([2010-01-22-1]),「#274. 言語数と話者数」 ([2010-01-26-1]),「#1060. 世界の言語の数を数えるということ」 ([2012-03-22-1]),「#1949. 語族ごとの言語数と話者数」 ([2014-08-28-1]) で話題にしてきた.言語の数というときには,普通,口頭言語が念頭に置かれているが,書記言語ということでいえばどうだろうか.つまり,文字体系の種類は世界にいくつあるのだろうか.関連する話題は「#1277. 文字をもたない言語の数は?」 ([2012-10-25-1]) で扱ったが,今回,改めてこの問題について考えてみたい.
 明らかなことは,文字体系の数は(口頭)言語の数よりも圧倒的に少ないということである.具体的な言語の数については諸説あるが,現代世界で行われている言語に限って,とりあえず約7000あると想定しよう.文字体系の数についても,参考資料によって多少のばらつきはあるが,阿辻 (7--8) によれば,400種類くらいが認められるとされる.ただし,この数は,現代世界に行われている文字体系の種類というよりも,文字の発生から現在に至るまでの古今東西に行われてきた文字体系の総数と解釈すべきである.つまり,この数には,すでに廃用となったエジプト聖刻文字や楔形文字なども含まれるし,種々の未解読文字 (「#2427. 未解読文字」 ([2015-12-19-1])) も含まれる.
 では,なぜ文字体系の種類は口頭言語の種類よりも圧倒的に少ないのだろうか.最も簡単に答えるならば,すべての口頭言語が対応する書記言語をもっているわけではないから,ということになる.「#41. 言語と文字の歴史は浅い」 ([2009-06-08-1]),「#748. 話し言葉と書き言葉」 ([2011-05-15-1]) などで示したように,書記言語の発生は口頭言語の発生よりもずっと遅れている.歴史上,口頭言語を欠く人類社会はなかったが,書記言語を欠く社会は多く存在してきた.
 実際,比較的高度な文化をもっていながら,文字をもたなかった社会もある.南アメリカ大陸に栄えたインカは高度な文化を展開したが,少なくとも今のところは文字と呼べるような媒体は発見されていない.また,アイヌの人々も,長期にわたる素朴ながらも力強い文化を享受し,ユーカラのような長編叙事詩を育みながらも,それを表記する文字をもたなかった(阿辻,p. 8).
 ただし,対応する文字体系を欠く口頭言語の母語話者集団からなる社会が,必ずしも無文字社会とは限らないという点に注意したい.もしその社会が多言語社会であり,第2言語として文字体系をもつ言語を使いこなし,その言語による読み書き教育を受けていれば,それは明らかに有文字社会である (cf. 「#1494. multilingualism は世界の常態である」 ([2013-05-30-1]),「#1608. multilingualism は世界の常態である (2)」 ([2013-09-21-1])) .
 もう1つの理由は,書記言語は,言語の境界を越えて,さらに時空を越えて,拡散しやすいということがある.楔形文字,ローマン・アルファベット,キリル文字,漢字などの歴史的な拡散や分布を考えてみれば分かるとおり,それらの主要な文字体系は,たやすく異なる言語へ応用され,超域的に用いられてきた.つまり,1つの文字が複数の言語を表記するのに用いられるのが普通なのである.口頭言語も文化ではあるが,書記言語は一層のこと文化的な人類の発明であり,それほど重要な価値を帯びたものが,周辺地域へ広く伝播しないはずもない.
 本ブログでは,話し言葉と書き言葉の各々の特性について,「#2339. 書き言葉の自立性に関する Vachek の議論 (1)」 ([2015-09-22-1]) の下に張ったリンク先の記事などで,様々に議論してきた.書き言葉あるいは書記言語のもう1つの特徴として,その媒体たる文字体系が口頭言語の境界を越えて伝播しやすく,コピーされやすいという性質があることを,ここで指摘しておきたい.

 ・ 阿辻 哲次 『一語の辞典 文字』 三省堂,1998年.

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2015-12-24 Thu

#2432. Bolinger の視覚的形態素 [writing][morpheme][grapheme][grammatology][homophony][polysemy][spelling][orthography][phonaesthesia][suffix][punctuation][agentive_suffix]

 昨日の記事「#2431. 書き言葉の自立性に関する Bolinger の議論」 ([2015-12-23-1]) で,Bolinger の視覚的形態素 (visual morpheme) という用語を出した.それによると,書記言語の一部には,音声言語を媒介しない直接的な表形態素性を示す事例があるという.Bolinger (335--38) は現代英語の正書法の綴字を題材として,いくつかの種類に分けて事例を紹介している.説明や例を,他からも補いながら解説しよう.

 (1) 同音異綴語 (homonyms) .例えば,"Sea is an ocean and si is a tone, as you can readily see." という言葉遊びに見られるような例だ.ここでは文脈のヒントが与えられているが,3語が単体で発音されれば区別がつかない.しかし,書記言語においては3者は明確に区別される.したがって,これらは目に見える形で区別される形態素と呼んでよい.おもしろいところでは,"The big clock tolled (told) the hour." や "The danger is safely passed (past)." のように,単語対の使い分けがほとんど意味の違いに結びつかないような例もある.

 (2) 綴字の意味発達 (semantic evolution of spellings) .本来的には同一の単語だが,綴字を異ならせることにより,意味・機能を若干違えるケースがある.let uslet'sgood andgood などがその例である.graygrey では,前者が She has lovely gray eyes. などのように肯定的に用いられる傾向があるのに対して,後者は It was a grey, gloomy day. などのように否定的に用いられるとも言われる.check/cheque, controller/comptroller, compliment/complement なども類例ととらえられるかもしれない.なお,Hall (17) は,この (2) の種類を綴字の "semantic representation" と呼んでおり,文学ジャンルとしての fantasy と幻想としての phantasy の違いや,Ye Olde Gifte Shoppe などにおける余剰的な final_e の効果に注目している (cf. 「#13. 英国のパブから ye が消えていくゆゆしき問題」 ([2009-05-11-2]),「#1428. ye = the」 ([2013-03-25-1])) .(1) と (2) の違いは,前者が homonymy で,後者が polysemy に対応すると考えればよいだろうか.

 (3) 群集 (constellations) .ある一定の綴字をもつ語群が,偶然に共有する意味をもつとき,その綴字と意味が結びつけられるような場合に生じる.例えば,行為者接尾辞 (agentive suffix, subject suffix) の -or は,adjustor, auditor, chancellor, editor, mortgagor, sailor, settlor, tailor などに示唆されるように,-er に比べて専門性や威信の高さを含意するようである (see 「#1748. -er or -or」 ([2014-02-08-1])) .また,接尾辞 -y と -ie では,後者のほうが指小辞 (diminutive) としての性格が強いように感じられる.このような事例から,音声言語における phonaesthesia の書記言語版として "graphaesthesia" なる術語を作ってもよいのではないか.

 (4) 視覚的な掛詞 (visual paronomasia) .視覚的な地口として,収税吏に宛てた手紙で City Haul であるとか,意図的な誤綴字として古めかしさを醸す The Compleat Military Expert など.「海賊複数の <z>」 ([2011-07-05-1]) や「#825. "pronunciation spelling"」 ([2011-07-31-1]) の例も参照.

 (5) 綴字ではなく句読点 (punctuation) を利用するものもある.the dog's mastersthe dogs' masters は互いに異なる意味を表わすし,the longest undiscovered veinthe longest-undiscovered vein も異なる.「#1772. greengrocer's apostrophe」 ([2014-03-04-1]) も,この種類に数えられるだろう.

 以上の "visual morpheme" は,いずれも書記言語にのみ与えられている機能である.

 ・ Bolinger. "Visual Morphemes." Language 22 (1946): 333--40.
 ・ Hall, Robert A., Jr. "A Theory of Graphemics." Acta Linguistica 8 (1960): 13--20.

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2015-12-23 Wed

#2431. 書き言葉の自立性に関する Bolinger の議論 [writing][medium][grammatology][morpheme][history_of_linguistics]

 書き言葉の自立性について,直接的には「#2339. 書き言葉の自立性に関する Vachek の議論 (1)」 ([2015-09-22-1]) とそこに張ったリンク先の記事や「#2340. 書き言葉の自立性に関する Vachek の議論 (2)」 ([2015-09-23-1]) で取り上げてきた.今回は,書き言葉が話し言葉という媒体 (medium) から十分に独立しているということについて,Bolinger (333) の視覚的形態素 (visual morpheme) に関する論文からの引用を通じて,主張したい.

The fact that most writing is the graphic representation of vocal-auditory processes tends to obscure the fact that writing can exist as a series of morphemes at its own level, independent of or interacting with the more fundamental (or at least more primitive) vocal-auditory morphemes. Recognition of visual morphemes is also hampered by the controversy, not yet subsided, over the primacy of the spoken versus the written; the victory of those who sensibly insist upon language as fundamentally a vocal-auditory process has been so hard won that any concession to writing savors of retreat. Yet, so long as a point-to-point correspondence is maintained, it is theoretically possible to transform any series of morphemes from any sensory field into any other sensory field, and keep them comprehensible; the only condition is that contact with the nervous system be maintained at some point. More than theoretically: it is actually done for the congenitally deaf-and-dumb reader of Braille, who 'reads' and 'comprehends' with his finger-tips. Just as here is a system of tactile morphemes existing with no connexion (other than historical) with the vocal-auditory field, so there is nothing unscientific in the assumption that a similarly independent visual series may be found.


 とりわけ "the victory of those who sensibly insist upon language as fundamentally a vocal-auditory process has been so hard won that any concession to writing savors of retreat" と述べているところは,何ともうまい言い回しだ.世間一般では,書き言葉は,その威信や信頼ゆえに,話し言葉よりも上位に位置づけられることが多い.一方,近代言語学では,その一般の見方に対して,むしろ言語の基本は音声であるという主張が辛抱強くなされてきたのであり,その結果,言語学者にとっては悲願だった話し言葉の優位性の言説が,アカデミックな世界では確立されてきた.ところが,世間一般と言語学者の考え方がこのように鋭く対立しているところに,まさに言語学者サークルの限られた一部からではあるが,書き言葉の自立性という,ある意味では世間一般の通念に歩み寄るかのような見解が提示されているというのだから,話しは厄介だ.
 すべからく,話し言葉と書き言葉の役割を,過不足なく,どちらにとっても不利のないように,ありのままに評価し,それを言語学者にも非言語学者にも提示すべきだと考える.学界の現状としては,いまだ書き言葉の扱いは不当である.
 Bolinger の論文の結論は以下の通りである (340) .熟読玩味したい.

   1. Visual morphemes exist at their own level, independently of vocal-auditory morphemes. Even a perfect phonemic transcription would, if used for communication, immediately become a system of visual morphemes. In modern English, education has made the visual system part of the public domain, so that it exhibits some evolutionary tendencies unsecured to vocal-auditory morphemes.
   2. In the implicit reactions of literate people, eye movements combine with other implicit movements. There is as good reason to posit eye movements as the physiological correlate of 'thinking' and 'understanding' as there is to posit laryngeal movements as such a correlate.
   3. In view of the close integration of the 'language organization', it is probably necessary to revise the dictum that 'language must always be studied without reference to writing'. This in no way detracts from the value of that dictum as applied to all languages at some stage of their development and to largely literate speech communities today; it is merely a recognition of a shift that has taken place in the communicative behavior of some highly literate societies.
   4. If it is true that the residue of language after the vocal-auditory is subtracted has provided a redoubt from which attacks could be made on linguistic science, then an appreciation of visual morphemes by both parties to the controversy may prove a step in the direction of reconciliation.


 ・ Bolinger, Dwight L. "Visual Morphemes." Language 22 (1946): 333--40.

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2015-12-22 Tue

#2430. 日本語の表記体系の保守性 [writing][grammatology][japanese][alphabet][romaji]

 「#2408. エジプト聖刻文字にみられる字形の変異と字体の不変化」 ([2015-11-30-1]),「#2412. 文字の魔力,印の魔力」 ([2015-12-04-1]),「#2417. 文字の保守性と秘匿性」 ([2015-12-09-1]) の記事で,文字体系の保守性について議論した.しかし,身近なところで考えてみれば,日本語の表記体系こそ保守的ではないだろうか.確かに,「#2386. 日本語の文字史(古代編)」 ([2015-11-08-1]) や「#2387. 日本語の文字史(近代編)」 ([2015-11-09-1]) で歴史を振り返ったように,日本語の表記体系は様々な変化を経てきたことは事実であり,その意味では「保守的」といえないかもしれない.しかし,やや特殊な位置づけにあるローマ字は別としても,漢字,平仮名,片仮名という3つの文字体系を混合させた表記体系の歴史は,その費用対効果の悪さにもかかわらず,約千年間続いている (cf. "[The writing system of Japanese is] too expensive a cultural luxury for any people in the present age" (qtd. Gardner 349 from Boodberg 20)) .明治以降,ローマ字化 (romanisation) の機運も生じたが,結果的に改革はなされずに混合的な表記体系のまま現在に至っているのである.
 この日本語表記体系の保守性は,特にアルファベット文化圏の目線から眺めると異様に映るのかもしれない.日本語(の漢語)のローマ字による翻字 (transliteration) 方法を提案した書籍に対する書評を読んでみた.著者も評者もアルファベット文化圏で育った人物のようであり,その目線からの日本語表記体系の評価は,それを常用し当然視している者にとっては,むしろ新鮮である.
 例えば,評者 Gardner は明治期にローマ字化の改革が失敗したことを,英語における綴字改革の成功した試しがないことと比較している.これは,文字体系の保守性という一般的な議論に通じるだろう.". . . societies formed to advocate the use of romanization for Japanese . . . fared little better than societies for the reformation of English spelling" (349).
 しかし,とりわけ日本語ローマ字化の失敗の理由を挙げているくだりがおもしろい.Gardner は,(1) 漢字を芸術の対象とみる傾向,(2) 漢字を使いこなす能力を規律,勤勉,権威の象徴とみる傾向,(3) 漢字の表語性の価値を認める傾向,(4) 大量の同音異義語の弁別手段としての漢字の利用,を理由として挙げている.(1) と (2) は文字をめぐる社会文化的な要因,(3) と (4) は言語学的・文字論的な要因といえるだろう.それぞれを説明している部分を Gardner (349) より引用したい.

The passive resistance to romanization draws much of its strength from the high regard for writing as an art. The point is difficult for a westerner to grasp, but good calligraphy is considered as much an index to a man's character as his appearance.

The acquisition of reading and calligraphy represents an investment of long hours of exacting discipline and endless memory work. Why should a statesman, a businessman, or an ordinary citizen---much less a scholar---accept easily the idea of throwing away this proud achievement in order to learn a foreign system that he will read haltingly at first and in which his handwriting will scarcely be distinguishable from a schoolboy's?

[The pronouncement is frequently heard] that the character cannot be separated from the word, or even that the character is the word. The Japanese feel that the understanding of a literary passage would somehow be impaired if the complex reaction to the characters were not brought into play.

Strongest of all is the firm conviction on the part of many Japanese that because of the enormous number of homonyms that exist in the technical and semi-learned language, this would be confusing or unintelligible if reduced to romanization.


 日本語の表記体系を外側から,とりわけアルファベットに慣れ親しんでいる者の視点から眺めると,その非常な保守性に気づくことができる.

 ・ Gardner, Elizabeth F. "Review of UCJ: An Orthographic System of Notation and Transcription for Sino-Japanese. By Peter A. Boodberg. (University of California Publications in East Asiatic Philology, Vol. 1, No. 2, pp. 17--102.) Pp. iii, [86]. Berkeley and Los Angeles: University of California Press, 1947." Language 26 (1950): 346--55.

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2015-12-21 Mon

#2429. アルファベットの卓越性という言説 [language_myth][writing][alphabet][grammatology][sociolinguistics][linguistic_imperialism][grapheme]

 アルファベット (alphabet) あるいは単音文字の文字体系としての卓越性について,多くの言説がなされてきた.数十年前まで,特に西洋ではアルファベットは文字の発展の頂点にあるという認識が一般的だったし,現在でもそのように信じている者は少なくないだろう (cf. 「#1838. 文字帝国主義」 ([2014-05-09-1])) .
 合理性,経済性,分析性という観点からいえば,アルファベットは確かに音節文字よりも,表語文字よりもすぐれているとはいえるだろう.しかし,そのような性質が文字の果たす機能のすべてであるわけではない.むしろ,「#2344. 表意文字,表語文字,表音文字」 ([2015-09-27-1]),「#2389. 文字体系の起源と発達 (1)」 ([2015-11-11-1]),「#2401. 音素と文字素」 ([2015-11-23-1]) の記事などで繰り返してきたように,私は,文字の本質は表語機能 (logographic function) にあると考えている.それでも,アルファベット卓越論は根強い.
 文字体系としてのアルファベット卓越論は,優位に西洋文化優勢論に発展しうる.西洋社会は,アルファベットを採用し推進したがゆえに,民主主義や科学をも発展させることができたのだ,という言説だ.しかし,これは神話であるにすぎない.この問題について,ロビンソン (226--27) は次のように議論している.

 アルファベットは民主主義の発展に不可欠だったとよくいわれる。識字率を大いに高めたからだと。また、現代社会に於ける西洋の勝利、とくに科学分野での成功は、いわゆる「アルファベット効果」に負うところが大きいともいわれる。なぜなら西洋と中国を比較すると、科学はどちらでも発達したが、西洋では分析的な思考が発達し、例えばニュートンやアインシュタインのような人物が輩出して中国をはるかに引き離す結果となった。そういう分析的な思考は、単語が1字1字に分解されるアルファベットの原理によって育まれたというのだ。簡単にいえば、アルファベットは還元主義的な思考を育て、漢字は全体論的な思考を育てるということになる。
 初めに述べた民主主義とアルファベットについての意見には、一片の真実がありそうだ。だがアルファベットが民主主義の発展を助けたのだろうか、それとも、人々に芽生えた民主主義を求める気持ちがアルファベットを誕生させたのだろうか?〔中略〕古代エジプト人は早くも紀元前第3千年紀、母音記号のないアルファベットを知っていた。しかしそれを使おうとはせずに、たくさんの記号を使ってヒエログリフを書くことを選んだ。これは彼らが自分たちの政治体制に、民主主義の必要性を感じていなかったということなのか?
 科学の発展をめぐる二つめの意見は、おもしろいが誤りだ。中国の文字がそのあまりの複雑さのために、読み書き普及の妨げになったというなら話はわかる。しかし分析的な思考が得意かどうかといった深い文化的傾向を、漢字が表語的な文字だということに結びつけるのはばかげている。インド?ヨーロッパ語族の人々が叙事詩を書くということと、牛乳を飲むという事実を結びつけるようなものだろう。中国人は牛乳を飲まないから叙事詩を書かないのだと。ある優れた中国研究者は、皮肉をこめてこれを「牛乳食効果」と読んでいる。文化的な深い違いを論じるには、その文化全体を見なければならない。それがどんなに重要そうでも、文字がどうかといったほんの一面だけを見ても仕方がない。結局のところ重力や相対性理論を理解したニュートンやアインシュタインなら、たとえ漢字で教育を受けていても、いやエジプトのヒエログリフやバビロニアの楔形文字であったとしても、学ぶべきものは学んだに違いないのである。


 また,ロビンソンは別の箇所 (265)で民主主義の問題について次のようにも述べている.

アルファベットと識字能力と民主主義の同時代的な関係も、一見もっともらしいけれど、評価するのは難しい。確かに文字が覚えやすければ、多くの人が習得でき、その人々が社会的な問題に明るくなれば、それに関与したり、何らかの役割を求めるようになるかもしれない。だから確かに今日の民主主義国家の教育政策は、読み書きの能力向上に重点をおき、非識字は進歩の遅れだというのが常識になっている。とはいえ識字の問題には、読み書きのたやすさ以外にも、ひじょうに多くのことが関係している。経済、政治、社会や文化の状況なども、識字能力と民主主義が根付き成長していくには、それに好都合でなければならない。古代エジプトに根本的な社会構造の変化が起きなかったこと、あるいは古代ギリシアにそれが起きたことを、たんにヒエログリフとアルファベットの違いから説明することはできないだろう。それは今日の日本の識字率の高さを、その世界一複雑な文字のせいにはできないのと同じくらい明白なことである。


 文字論という分野がもっと認知され,理解されない限り,標題の言説は今後も繰り返されるのかもしれない.

 ・ ロビンソン,アンドルー(著),片山 陽子(訳) 『文字の起源と歴史 ヒエログリフ,アルファベット,漢字』 創元社,2006年.

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2015-12-20 Sun

#2428. チェロキー音節文字とクリー音節文字 [writing][grammatology][syllabary]

 19世紀前半にローマ字を参考に作られた2種類の表音文字がある.いずれもアメリカ先住民の言語を表記するのに考案された音節文字だ.
 1つめは,チェロキー・アルファベットと呼ばれる文字である.これは,チェロキー族 (Cherokee) のセコイヤ (Sequoyah; 1760--1843) が,母語であるイロクォイ語 (Iroquoian) を表記するために1821年に考案したもので,「アルファベット」と呼ばれこそするが,実際には音節文字 (syllabary) である.85の記号により,6つの母音,22の子音,200ほどの音素群や音節を表わす.セコイヤは英語を知らなかったが,英語話者の開拓者と接触するなかで,母語を表記する文字体系を作ろうと思い立った.当初は表語文字の考案を目指していたが,数千の記号が必要となることを知って諦めざるをえず,音節文字の考案へと転向した.はじめ文字の種類は200近くあったが,最終的には85文字へ絞った.字形はギリシア文字やヘブライ文字の影響も受けつつラテン文字を基礎としているが,与えられている音価はラテン語や英語などとはまったく異なる.
 チェロキー文字が提案されると,それは数年のうちに多くのチェロキー族の人々によって習得された.まずは発祥地 North Carolina で,さらに1830年以降はチェロキー族の多くが移住した Oklahoma でも用いられることになった.1827年には,チェロキー文字はボストンでデザインされた活字により印刷・出版されもした.やがてチェロキー族の90%がこの文字を読めるようになったというから,民族の識字率向上に相当の効果があったことになる.チェロキー文字は後に衰退したが,私信,聖書翻訳,インディアンの医学的記述などには残ったものがある.また,近年,復活の試みもなされているようだ.以下にその文字表を示そう(Comrie et al. 206; ロビンソン 224--25 も参照).

Cherokee Syllabary

 一方,19世紀半ばに James Evans なる宣教師が,カナダ西部で行われていたアルゴンキン語群 (Algonquin) に属するクリー語 (Cree) を表記する文字を考案した.基本的には12組の音節文字だが,語尾に現われる短子音を綴ることもできた.1833年までに,この言語と文字により聖書翻訳がなされた.また,同じ文字は Choctaw, Chippewa, Slave などのアメリカ先住民の言語を表記するのにも用いられた.クリー文字もチェロキー文字と同様に,民族の識字率の向上に訳だったようだ.以下に,Comrie et al. (205, 207) より文字表を示そう.

Cree Syllabary

 両文字体系については,Omniglot: Writing Systems & Language of the World より Cherokee language, writing system and pronunciation および Cree syllabary, pronunciation and language も要参照.

 ・ ロビンソン,アンドルー(著),片山 陽子(訳) 『文字の起源と歴史 ヒエログリフ,アルファベット,漢字』 創元社,2006年.
 ・ Comrie, Bernard, Stephen Matthews, and Maria Polinsky, eds. The Atlas of Languages. Rev. ed. New York: Facts on File, 2003.

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2015-12-17 Thu

#2425. 書き言葉における母音長短の区別の手段あれこれ [writing][digraph][grapheme][orthography][phoneme][ipa][katakana][hiragana][diacritical_mark][punctuation][final_e]

 昨日の記事「#2424. digraph の問題 (2)」 ([2015-12-16-1]) では,二重字 (digraph) あるいは複合文字素 (compound grapheme) としての <th> を題材として取り上げ,第2文字素 <h> が発音区別符(号) (diacritical mark; cf. 「#870. diacritical mark」 ([2011-09-14-1]) として用いられているという見方を紹介した.また,それと対比的に,日本語の濁点やフランス語のアクサンを取り上げた.その上で,濁点やアクサンがあくまで見栄えも補助的であるのに対して,英語の <h> はそれ自体で単独文字素としても用いられるという差異を指摘した.もちろん,いずれかの方法を称揚しているわけでも非難しているわけでもない.書記言語によって,似たような発音区別機能を果たすべく,異なる手段が用意されているものだということを主張したかっただけである.
 この点について例を挙げながら改めて考えてみたい.短母音 /e/ と長母音 /eː/ を区別したい場合に,書記上どのような方法があるかを例に取ろう.まず,そもそも書記上の区別をしないという選択肢があり得る.ラテン語で短母音をもつ edo (I eat) と長母音をもつ edo (I give out) がその例である.初級ラテン語などでは,初学者に判りやすいように前者を edō,後者を ēdō と表記することはあるが,現実の古典ラテン語テキストにおいてはそのような長音記号 (macron) は現われない.母音の長短,そしていずれの単語であるかは,文脈で判断させるのがラテン語流だった.同様に,日本語の「衛門」(えもん)と「衛兵」(えいへい)における「衛」においても,問題の母音の長短は明示的に示されていない.
 次に,発音区別符号や補助記号を用いて,長音であることを示すという方法がある.上述のラテン語初学者用の長音記号がまさにその例だし,中英語などでも母音の上にアクサンを付すことで,長音を示すという慣習が一部行われていた.また,初期近代英語期の Richard Hodges による教育的綴字にもウムラウト記号が導入されていた (see 「#2002. Richard Hodges の綴字改革ならぬ綴字教育」 ([2014-10-20-1])) .これらと似たような例として,片仮名における「エ」に対する「エー」に見られる長音符(音引き)も挙げられる.しかし,「ー」は「エ」と同様にしっかり1文字分のスペースを取るという点で,少なくとも見栄えはラテン語長音記号やアクサンほど補助的ではない.この点では,IPA (International Phonetic Alphabet; 国際音標文字)の長音記号 /ː/ も「ー」に似ているといえる.ここで挙げた各種の符号は,それ単独では意味をなさず,必ず機能的にメインの文字に従属するかたちで用いられていることに注意したい.
 続いて,平仮名の「ええ」のように,同じ文字を繰り返すという方法がある.英語でも中英語では met /met/ に対して meet /meːt/ などと文字を繰り返すことは普通に見られた.
 また,「#2423. digraph の問題 (1)」 ([2015-12-15-1]) でも取り上げたような,不連続複合文字素 (discontinuous compound grapheme) の使用がある.中英語から初期近代英語にかけて行われたが,red /red/ と rede /reːd/ のような書記上の対立である.rede の2つ目の <e> が1つ目の <e> の長さを遠隔操作にて決定している.
 最後に,ギリシア語ではまったく異なる文字を用い,短母音を ε で,長母音を η で表わす.
 このように,書記言語によって手段こそ異なれ,ほぼ同じ機能が何らかの方法で実装されている(あるいは,いない)のである.

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2015-12-16 Wed

#2424. digraph の問題 (2) [alphabet][grammatology][writing][digraph][spelling][grapheme][orthography][phoneme][diacritical_mark][punctuation]

 昨日の記事 ([2015-12-15-1]) に引き続いての話題.現代英語の二重字 (digraph) あるいは複合文字素 (compound grapheme) のうち,<ch>, <gh>, <ph>, <sh>, <th>, <wh> のように2つめの文字素が <h> であるものは少なくない.すべてにあてはまるわけではないが,共時的にいって,この <h> の機能は,第1文字素が表わす典型的な子音音素のもつ何らかの弁別特徴 (distinctive feature) を変化させるというものだ.前舌化・破擦音化したり,摩擦音化したり,口蓋化したり,歯音化したり,無声化したり等々.その変化のさせかたは一定していないが,第1文字素に対応する音素を緩く「いじる」機能をもっているとみることができる.音素より下のレベルの弁別特徴に働きかける機能をもっているという意味においては,<h> は機能的には独立した文字というよりは発音区別符(号) (diacritical mark; cf. 「#870. diacritical mark」 ([2011-09-14-1]) に近い.このように機能としては補助的でありながら,体裁としては独立した文字素 <h> を騙っているという点が,あなどれない.
 日本語の仮名に付す発音区別符号である濁点を考えよう.メインの文字素「か」の右肩に,さほど目立たないように濁点を加えると「が」となる.この濁点は,濁音性(有声性)という弁別特徴に働きかけており,機能としては上述の <h> と類似している.同様に,フランス語の正書法における <é>, <è>, <ê> などのアクサンも,メインとなる文字素 <e> に補助的に付加して,やや閉じた調音,やや開いた調音,やや長い調音などを標示することがある.つまり,メインの音価の質量にちょっとした改変を加えるという補助的な機能を果たしている.日本語の濁点やフランス語のアクサンは,このように,機能が補助的であるのと同様に,見栄えにおいてもあくまで補助的で,慎ましいのである.
 ところが,複合文字素 <th> における <h> は事情が異なる.<h> は,単独でも文字素として機能しうる.<h> はメインもサブも務められるのに対し,濁点やアクサンは単独でメインを務めることはできない.換言すれば,日本語やフランス語では,サブの役目に徹する発音区別符号というレベルの単位が存在するが,英語ではそれが存在せず,あくまで視覚的に卓立した <h> という1文字が機能的にはメインのみならずサブにも用いられるということである.昨日に引き続き改めて強調するが,このように英語の正書法では,機能的にレベルの異なるものが,形式上区別なしに用いられているという点が顕著なのである.
 なお,2つの異なるレベルを分ける方策として,合字 (ligature) がある.<ae>, <oe> は2つの単独文字素の並びだが,合字 <æ>, <œ> は1つの複合文字素に対応する.いや,この場合,合字はすでに複合文字素であることをやめて,新しい単独文字素になっていると見るべきだろう (see 「#2418. ギリシア・ラテン借用語における <oe>」 ([2015-12-10-1]),「#2419. ギリシア・ラテン借用語における <ae>」 ([2015-12-11-1])) .

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2015-12-15 Tue

#2423. digraph の問題 (1) [alphabet][grammatology][writing][digraph][spelling][grapheme][terminology][orthography][final_e][vowel][consonant][diphthong][phoneme][diacritical_mark][punctuation]

 現代英語には <ai>, <ea>, <ie>, <oo>, <ou>, <ch>, <gh>, <ph>, <qu>, <sh>, <th>, <wh> 等々,2文字素で1単位となって特定の音素を表わす二重字 (digraph) が存在する.「#2049. <sh> とその異綴字の歴史」 ([2014-12-06-1]),「#2418. ギリシア・ラテン借用語における <oe>」 ([2015-12-10-1]),「#2419. ギリシア・ラテン借用語における <ae>」 ([2015-12-11-1]) ほかの記事で取り上げてきたが,今回はこのような digraph の問題について論じたい.beautiful における <eau> などの三重字 (trigraph) やそれ以上の組み合わせもあり得るが,ここで述べる digraph の議論は trigraph などにも当てはまるはずである.
 そもそも,ラテン語のために,さらに遡ればギリシア語やセム系の言語のために発達してきた alphabet が,それらとは音韻的にも大きく異なる言語である英語に,そのままうまく適用されるということは,ありようもない.ローマン・アルファベットを初めて受け入れた古英語時代より,音素の数と文字の数は一致しなかったのである.音素のほうが多かったので,それを区別して文字で表記しようとすれば,どうしても複数文字を組み合わせて1つの音素に対応させるというような便法も必要となる.例えば /æːa/, /ʤ/, /ʃ/ は各々 <ea>, <cg>, <sc> と digraph で表記された (see 「#17. 注意すべき古英語の綴りと発音」 ([2009-05-15-1])) .つまり,英語がローマン・アルファベットで書き表されることになった最初の段階から,digraph のような文字の組み合わせが生じることは,半ば不可避だったと考えられる.英語アルファベットは,この当初からの問題を引き継ぎつつ,多様な改変を加えられながら中英語,近代英語,現代英語へと発展していった.
 次に "digraph" という用語についてである.この呼称はどちらかといえば文字素が2つ組み合わさったという形式的な側面に焦点が当てられているが,2つで1つの音素に対応するという機能的な側面を強調する場合,"compound grapheme" (Robert 14) という用語が適切だろう.Robert (14) の説明に耳を傾けよう.

We term ai in French faire or th in English thither, compound graphemes, because they function as units in representing single phonemes, but are further divisible into units (a, i, t, h) which are significant within their respective graphemic systems.


 compound grapheme (複合文字素)は連続した2文字である必要もなく,"[d]iscontinuous compound grapheme" (不連続複合文字素)もありうる.現代英語の「#1289. magic <e>」 ([2012-11-06-1]) がその例であり,<name> や <site> において,<a .. e> と <i .. e> の不連続な組み合わせにより2重母音音素 /eɪ/ と /aɪ/ が表わされている.
 複合文字素の正書法上の問題は,次の点にある.Robert も上の引用で示唆しているように,<th> という複合文字素は,単一文字素 <t> と <h> の組み合わさった体裁をしていながら,単一文字素に相当する機能を果たしているという事実がある.<t> も <h> も単体で文字素として特定の1音素を表わす機能を有するが,それと同時に,合体した場合には,予想される2音素ではなく新しい別の1音素にも対応するのだ.この指摘は,複合文字素の問題というよりは,それの定義そのもののように聞こえるかもしれない.しかし,ここで強調したいのは,文字列が横一列にフラットに表記される現行の英語書記においては,<th> という文字列を見たときに,(1) 2つの単一文字素 <t>, <h> が個別の資格でこの順に並んだものなのか,あるいは (2) 1つの複合文字素 <th> が現われているのか,すぐに判断できないということだ.(1) と (2) は文字素論上のレベルが異なっており,何らかの書き分けがあってもよさそうなものだが,いずれもフラットに th と表記される.例えば,<catham> と <catholic> において,同じ見栄えの <th> でも前者は (1),後者は (2) として機能している.(*)<cat-ham>, *<ca(th)olic> などと,丁寧に区別する正書法があってもよさそうだが,一般的には行われていない.これを難なく読み分けられる読み手は,文字素論的な判断を下す前に,形態素の区切りがどこであるかという判断,あるいは語としての認知を先に済ませているのである.言い換えれば,英語式の複合文字素の使用は,部分的であれ,綴字に表形態素性が備わっていることの証左である.
 この「複合文字素の問題」はそれほど頻繁に生じるわけでもなく,現実的にはたいして大きな問題ではないかもしれない.しかし,体裁は同じ <th> に見えながらも,2つの異なるレベルで機能している可能性があるということは,文字素論上留意すべき点であることは認めなければならない.機能的にレベルの異なるものが,形式上区別なしにフラットに並べられ得るという点が重要である.

 ・ Hall, Robert A., Jr. "A Theory of Graphemics." Acta Linguistica 8 (1960): 13--20.

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2015-12-12 Sat

#2420. 文字(もどき)における言語性と絵画性 [grammatology][writing][terminology]

 文字の起源について語るときに問題となるのは,絵のような図のような「文字もどき」というべき文字の前段階のものが,いつから純然たる文字となるのかという疑問である.「#2389. 文字体系の起源と発達 (1)」 ([2015-11-11-1]),「#2390. 文字体系の起源と発達 (2)」 ([2015-11-12-1]),「#2399. 象形文字の年表」 ([2015-11-21-1]),「#2416. 文字の系統 (4)」 ([2015-12-08-1]) 等の記事では,この「先段階」のものを「絵」「絵文字」「始原文字」などと様々に呼んできた.
 文字と文字もどきの区別を明確につけることは難しい.一般的な理解によれば,文字とは,慣習的に特定の言語的単位と結びついた書記記号であり,そのような単位と関連づけられていないような記号は,せいぜいシンボルと呼ぶべきものだろう.しかし,考古学的な遺物に残されている痕跡が,いつから,どの瞬間から,この定義における純然たる文字に相当するようになるのかを決定することは難しい.1つの目安として,文字らしき痕跡が,いかに写実的な絵画から逸脱して,より非絵画的に,あるいは幾何学的に変形しているかという基準がある.というのは,描きやすい幾何学的へ簡略化しているということは,その痕跡が慣習化して,おそらく特定の言語的単位と結びつけられていることを示唆するからだ.
 しかし,純然たる文字としての確立(すなわち言語的単位との密な関係)と,その痕跡の絵画風たる度合いとは,必ずしも一致するわけではない.言語性と非絵画性とは,確かにしばしば連動するが,原則として独立した2つの軸と捉える必要がある.この2つを同一視してしまうと,いまだ文字にならざるその前段階のものを絵「文字」と呼称しつつ,純然たる文字であるエジプト聖刻文字も「絵」文字と呼ぶというように,用語上の混乱が生じる (cf. 「#2399. 象形文字の年表」 ([2015-11-21-1])).
 そこで,言語性を縦軸に,絵画性を横軸にとったマトリックスを作成してみた.種々の痕跡なり,シンボルなり,(絵)文字なりは,このマトリックスの適当な位置に配置されるはずである.粗っぽい図ではあるが,これを掲げよう.

          絵画的  ←──────────────────────→  非絵画的(幾何学的)

非言語的

  ↑    「絵文字」          甲骨卜辞                      地図記号
  │                    印章                              天気記号
  │            ピクトグラム
  │                                                      数字
  │
  │        聖刻文字            漢字          仮名        アルファベット
  ↓                象形文字

言語的

 文字の先段階のプロトタイプは「絵文字」であり,文字のプロトタイプは例えばアルファベットだろう.しかし,絵画的でありながらも言語的であるエジプト聖刻文字もあれば,非絵画的(幾何学的)な方向に発展していながらも厳密には言語的単位と結びついていない地図記号や天気記号などのシンボルもある.それらの中間段階に位置づけられるシンボル・文字体系も存在する.文字論上,最も重要な差異は,マトリックスの上半分と下半分の違いである.下半分に位置づけられるのが,純然たる文字である.

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2015-12-09 Wed

#2417. 文字の保守性と秘匿性 [writing][grammatology][alphabet][hieroglyph][religion]

 文字を利用する書き言葉という媒体は,話し言葉に対して保守的である.このことは,これまでの文字や書き言葉に関する記事において前提としてきた.これについては,例えば「#15. Bernard Shaw が言ったかどうかは "ghotiy" ?」 ([2009-05-13-1]),「#753. なぜ宗教の言語は古めかしいか」 ([2011-05-20-1]),「#2292. 綴字と発音はロープでつながれた2艘のボート」 ([2015-08-06-1]),「#2405. 綴字と発音の乖離 --- 英語綴字の不規則性の種類と歴史的要因の整理」 ([2015-11-27-1]) を参照されたい.
 文字には,保守性に加えて,特に古代においては秘匿性があった.文字の読み書き能力は,特権階級にのみ習得の認められた秘密の技能であり,それは権力や威信の保持にもあずかって大きかった.また,世俗的な権力と宗教的な威信も分かち難いものであったから,それらと強く結びつく文字もまた「守り」に入る傾向が顕著だった.秘匿するくらい大事に守る文字であるから,権力者や宗教人がやすやすとそれを変化させるはずもない.文字の保守性と秘匿性は密接に関係している.
 文字のこの性質を示す歴史的な事例は豊富にある.「#2408. エジプト聖刻文字にみられる字形の変異と字体の不変化」 ([2015-11-30-1]) でも触れたように,王=神が字形の変化を許さなかったと考えられる聖刻文字(ヒエログリフ)の事例があるし,同じようなケースが中国の漢字(篆書)にもみられる.加藤 (172) は,アルファベットを発明したフェニキア人の秘匿性について,次のように述べている.

 これほどアルファベットの発明と普及に貢献したフェニキア人であったが、かれら自身は自分たちのもとめた文字の「実用性」ということを活用しただけで、この新しい文字をもちいて実用以上のもの、つまり文学とか哲学を記すということはあまりしなかったようである。そればかりでなく、かれらはこの文字でしるした商業上・行政上の文書もあまりのこしていない。その理由は、かれらの都市国家内では、特権階級を構成していた大商人たちが寡頭政治をしき、なにごとにも秘密主義をモットーにしていたからと考えられている。


 なお,この引用の次の段落で,加藤 (172) は「それゆえ,ギリシア人がアルファベットによせた貢献は,単に母音の記号を加え,左ヨコ書きをはじめたという形式的なものよりも,この実用の文字ですぐれた学芸の文書をしるしたこと,つまりはじめてアルファベットに学芸の魂を吹きこんだことであったといってよいであろう」とも述べており,興味深い.ギリシア文字は,それほど秘密主義に陥らなかったということか.
 文字の保守性に関わるもう1つの要因として,文字体系は言語以上に特定の言語社会を越えて広く伝播しうるという事情があるかもしれない.広く種が蒔かれて,別の言語にも適用されやすいことになるから,どこかしらで生き延びる確率も高い.場所は移れども長く生き残り得るから,その分「保守的」に見えるという要因があるかもしれない.例えば,中国語で漢字が滅びたとしても,日本語で残りさえすれば,漢字という文字体系は存続することになり,長生きで「保守的」と見えるだろう.ロビンソン (77) は,言語の滅びやすさに対する文字の生存率の高さについて,次のように表現している.

いつの時代にも、言語の数は文字の数をはるかに上回る。しかし言語は文字よりもずっと簡単に消滅してしまう。一方、文字のほうは、新しい言語に応用されたおかげで、より広く使われるようになることがめずらしくない。文字によってはそうしたことが一度ならず起きる。楔形文字や漢字、ギリシアのアルファベットがそうだった。ところがエジプトやマヤのヒエログリフは、そうはいかなかった。文字がなぜ生き残ったり消滅したりするのか、その理由は定かではない。記号の単純さや、音声をうまく表記できるかどうかだけが、生き残りの決め手になるのでないことは確かだろう。もしそうだったら、中国から漢字は消え、アルファベットに取って代わられただろうし、日本人が漢字を借用することもなかったにちがいない。政治や経済の力、宗教や文化の威信、そして重要な文献の存在。そうしたことのすべてが文字の歴史的な運命を担うのだ。


 ・ 加藤 一郎 『象形文字入門』 講談社〈講談社学術文庫〉,2012年.
 ・ ロビンソン,アンドルー(著),片山 陽子(訳) 『文字の起源と歴史 ヒエログリフ,アルファベット,漢字』 創元社,2006年.

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2015-12-04 Fri

#2412. 文字の魔力,印の魔力 [grammatology][writing][kotodama][taboo]

 近代科学としての言語学では,言葉の魔力という問題について真っ向から取り組むことはない.しかし,「#1876. 言霊信仰」 ([2014-06-16-1]) でみたように,言葉の魔力は現代にも確かに存在する.「#1455. gematria」 ([2013-04-21-1]) などの言葉占いしかり,呪文や神仏の名を書いた護符の携帯しかり,タブー語の忌避とその代わりとしての婉曲表現の使用しかり,日常的な「記号=指示対象」の同一視しかり (「#1770. semiotic triangle の底辺が直接につながっているとの誤解」 ([2014-03-02-1])) .言葉への畏れは,決して前近代的なものとして退けることはできない.
 ましてや古代においては,言葉は真に現実的な畏怖の対象だったろう.とりわけ書き言葉は畏れられた.これは書記言語の超時間性や超空間性という特徴にも関連すると思われるが,書き手の権力や威信という要因もあったろう.文字を読み書きできる者は特権階級に限られており,人々からは超自然的な能力を有する者と信じられていたにちがいない.文字は,それが表わす語句の指示対象を想起させるがゆえに(すなわち,言霊機能ゆえに)畏れられたと同時に,それを書き記す者の絶大な力を想起させるがゆえにも,畏れられたのではないか.
 意図的に刻みつけられた痕跡が刻んだ者を想起させるということであれば,それは文字に限らず,絵や記号でもよい.実際,文字が現われるずっと前から,個人,部族,職業などを標示する印は出土している.印はものの所有権を示したり,威信を誇示するのに用いられたと考えられ,その印を所有する権力者を想起させる役割を,すでにもっていたと想像される.文字の魔力は,その前段階にあった印の魔力を引き継いだものと見ることができそうだ.印に関する藤枝 (101) の見解が示唆的である.

印がないと、文書は文書としての効力をもたない。このことは今も昔も変わりはない。それほど印というものは昔から大切であったので、文字の歴史からいっても、重要な意味をもっている。中国では漢の時代に文書の制度が十分に整ったのに応じて、印章の制度も整い、いわばその発達の一極点に達したといってよい。だから印章制度の歴史は、漢代を規準にすると話が判りよい。
 だからといって、漢代になって急に印の使用が盛んになったという訳ではない。印は実は悠久の昔から、オリエントでもインドでも中国でも使われていた。文字の歴史はせいぜい三、四千年にしかならないけれども、印章の方はその二倍程度は遡り得る。文字より遙かに古いのである。文字ができてないから、当時の印はただの文様や絵が刻ってあった〔中略〕。神聖な祭器や場所に、これで封印をした。文字が発明されて、やがて印には文字が刻られるようになるが、印といい、文字といい、当初は神聖な魔力をもつものであった。文字が下々にまで普及するに従って、印も次第に多くの人が使うようになったが、何千年も前からもっていた魔力はそう簡単には消滅しない。今日、銀行や役所などで、本人よりも印の方が幅をきかす場合にしばしばお眼にかかるが、これなどもその魔力の名残りに違いない。


 現代日本の印鑑文化も,言霊思想のもう1つの例ということになる.

 ・ 藤枝 晃 『文字の文化史』 岩波書店,1971年.1991年.

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2015-12-01 Tue

#2409. 漢字平仮名交じり文の自由さと複雑さ [grammatology][writing][orthography][japanese][kanji][hiragana][alphabet]

 「#2392. 厳しい正書法の英語と緩い正書法の日本語」 ([2015-11-14-1]) で話題にしたように,現代日本語の通常の表記法である漢字平仮名交じり文は,古今東西でまれにみる自由さを持ち合わせている.エジプト学者の加藤 (218) は,これに類する例は,エジプト聖刻文字くらいしかないのではないかと述べている.

日本語の文章を書くとき、漢字とカナとを適度に配合できる「自由さ」は、古代エジプト語において表意文字、表音文字、決定詞を配合したような場合を除けば、現在では他の国にほとんど例のない「自由さ」であろう。しかし、この自由さのために、私たちは、日本文を書く場合にも読む場合にも、無意識のうちに、無駄なエネルギーを費やしているのかもしれないし、またこの自由さが、知らず知らずのうちに「正確な文章」よりも「ムードによる文章」をつづらえる傾向を私たちのあいだにうえつけているかもしれない。ともかく、この種の自由さ、便利さは、児童や外国人が日本の文字を習得する場合に、かえって一つの障害となっているのではなかろうか。


 なるほど,漢字平仮名交じり文は積極的にとらえれば自由で便利となるが,消極的にとらえれば不正確で主観的ということになる.
 また,漢字平仮名交じり文は,日本語母語話者にとっても非母語話者にとっても,学習するうえで難解であることは間違いない.すでにこの慣習に慣れてしまっている者にとっては,その難解さを感じにくいのだが,表語文字体系である漢字と表音文字体系である平仮名を混在させているというのは,理屈の上でたいへん込み入っているということは了解できるだろう.しかも,表語文字体系である漢字のなかでも字音と字訓が区別されており,複雑さが倍増するということも,理屈の上で想像されるだろう.この辺りの事情について,日本語の文字体系の発達史と関連づけながら,藤枝 (217--18) が以下のように鋭く洞察している.

もともと漢字は表音文字であると同時に表意文字であるが、仮名は漢字の表意の方をすてて表音だけを採った。そうなると文章がやたらに長くなるので、日本語の文章の間に漢字をそのまま挟むという芸当をやるようになった。芸当と呼ぶのは、そこで漢字は時に本来の音が無視せられて、日本訓みせられるからである。つまり、表音をすてて表意だけを採る。また、本来の音と意味とをそのままに漢語も挟みこむ。全く融通無碍の芸当という外はない。その結果として、われわれが受けてきた学校教育では、極めて多くの時間、というより年月が、この芸当の習得に充てられることになった。


 ここでは,中国語の表語文字体系である漢字が日本において字音,字訓,仮名の3種類へと分化し,その3種がすべて用いられている事実が,驚きとともに述べられている.日本で発達した文字体系とその使用法について,藤枝の説明をもう少し補足しよう.中国語の漢字に形・音・義の3つの属性が備わっていることを前提とすると,日本語表記のために発達した字音,字訓,仮名の3種は,件の漢字の属性を次のように保持したり変化させたりした.

 
絖????篆????篆????篆????
字訓保持日本語化保持
仮名超草書体化保持/日本語化捨象


 この3種の異なる文字使用について,いずれも字体の起源は漢字にあるという点が重要である.
 さて,この複雑さを英語とローマン・アルファベットを用いた比喩で再現してみたい.古代日本人の接触したのが,中国語と漢字ではなく,英語とローマン・アルファベットであったと想像してみよう.彼らは,相手が英語で "he went to church yesterday." と話して書くのを,聞いて読んだ.英語を通じて初めてアルファベットに接した日本人は,数世紀の間,この言語と文字体系を学び,この文字体系によって自分たちの母語である日本語を表記する方法を探った.そして,試行錯誤の末についにそれを手に入れた.

hewayesterdayCHURCHnigotta.


 すべてはアルファベットと,その変異であるイタリック体と大文字で書かれている.通常字体の部分は字訓で,大文字体の部分は字音で,イタリック体の部分は日本語音として読むというのがルールである.したがって,この文は /karewakinoːʧaːʧiniitta/ (彼は昨日チャーチに行った)と音読できる.
 漢字平仮名交じり文を日常的に読んでいる者は,このようなことを当たり前に実践しているのである.(もっとも,表語文字である漢字を表音文字であるアルファベットに喩えているので,完全な比喩にはならない.あしからず.)

 ・ 加藤 一郎 『象形文字入門』 講談社〈講談社学術文庫〉,2012年.
 ・ 藤枝 晃 『文字の文化史』 岩波書店,1971年.1991年.

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2015-11-27 Fri

#2405. 綴字と発音の乖離 --- 英語綴字の不規則性の種類と歴史的要因の整理 [spelling_pronunciation_gap][spelling][pronunciation][writing][orthography][hel_education][alphabet][link][grahotactics]

 現代英語における綴字と発音の乖離の問題については,spelling_pronunciation_gap の多くの記事で取り上げてきた.とりわけその歴史的要因については,「#62. なぜ綴りと発音は乖離してゆくのか」 ([2009-06-28-2]) でまとめた.今回は英語綴字について言われる不規則性の種類と,それが生じた歴史的要因に注目し,改めて関連する事情を箇条書きで整理したい.各項の説明は,関連する記事のリンクにて代える.

[ 不規則性の不満の背後にある前提 ]

 (1) アルファベットは表音文字体系を標榜している以上「1文字=1音」を守るべし (see #1024)
 (2) 綴字規則に例外あるべからず (see #503)
 (3) 1つの単語に対して1つの決まった綴字があるべし,という正書法 (orthography)の発想 (see ##53,54,194)

[ 不規則性の種類 ]

 (1) 1つの文字(列)に対して複数の音: <o> で表わされる音は? <gh> で表わされる音は? (see ##210,1195)
 (2) 1つの音に対して複数の文字(列): /iː/ を表わす文字(列)は? /k/ を表わす文字(列)は? (see #2205)
 (3) 黙字 (silent_letter): climb, indict, doubt, imbroglio, high, hour, marijuana, know, half, autumn, receipt, island, listen, isthmus, liquor, answer, plateaux, randezvous
 (4) 形態音韻上の交替: city/cities, swim/swimming, die/dying (see #1284)
 (5) 綴字のヴァリエーション: color/colour, center/centre, realize/realise, jail/gaol (see #94)

[ 不規則性の歴史的要因 ]

 (1) 英語は,音素体系の異なるラテン語を表記するのに最適化されたローマン・アルファベットという文字体系を借りた (see ##423,1329,2092)
 (2) 英語は,諸言語から語彙とともに綴字体系まで借用した (see #2162)
 (3) 綴字の標準を欠く中英語期の綴字習慣の余波 (see ##562,1341,1812)
 (4) 各時代の書写の習慣,美意識,文字配列法 (graphotactics) (see ##91,223,446,1094,2227,2235)
 (5) 語源的綴字 (see etymological_respelling)
 (6) 表音主義から表語主義への流れ (see ##1332,1386,1760,2043,2058,2059,2097,2312,2344)
 (7) 音はひたすら変化するが,文字は保守的 (see ##15,2292)
 (8) 綴字標準化の間の悪さ (see ##1902,297,871,312)
 (9) 変種間,位相間の綴字ヴァリエーション (see #ame_bre spelling)
 (10) 綴字改革の難しさ (see spelling_reform)

[ 前提を疑う必要 ]

 (1) アルファベットは表音文字体系だが,単語を表記するためにそれを組み合わせた単位である綴字は表語的である
 (2) 1つの単語に対して1つの決まった綴字があるべしという正書法の発想は,多くの言語において近代以降に特徴的な考え方である (see #2392)
 (3) 綴字規則には例外が多いが,個々の例外の多くは歴史的に説明される

 ・ 大名 力 『英語の文字・綴り・発音のしくみ』 研究社,2014年.
 ・ Horobin, Simon. Does Spelling Matter? Oxford: OUP, 2013.

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