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old_slavic - hellog〜英語史ブログ

最終更新時間: 2024-04-23 15:39

2021-01-22 Fri

#4288. グラゴール文字とキリル文字 [alphabet][writing][greek][old_slavic][slavic]

 昨日の記事「#4287. 古代スラヴ語の運命」 ([2021-01-21-1]) で触れたように,古代スラヴ語は最初にグラゴール文字 (Glagolitic) で,後にキリル文字 (Cyrillic) でも書き記された.後者は現代でもロシア語を中心に東方および南方のスラヴ語圏で用いられており,世界に少なからぬ影響力をもつ文字である.グラゴール文字とキリル文字の成り立ちや相互関係について,またそれらとギリシア文字の関係について,服部 (82--87) に詳しい.以下に要約しよう.
 グラゴール文字は,昨日の記事でも述べたように,9世紀後半,ギリシア人のコンスタンティノスとその兄メトディオスが,モラヴィア国へのキリスト教布教を目的にスラヴ文章語(=古代スラヴ語)を作り出したときに同時に生み出された新しい文字である.コンスタンティノスの考案だったとされる.各々の字形は独特だが,9世紀のミヌスクラ体のギリシア文字が基盤となっている旨,指摘されている.ギリシア語にはなくスラヴ語には存在する音素に対応する文字が加えられ,スラヴ語表記に特化した文字体系といえる.  *
 885年のメトディオスの死後,古代スラヴ語の伝統は弟子たちによってブルガリアへ持ち越され,発展することになった.その際,既存のグラゴール文字に飽き足りず,スラヴ語表記に便利な機能性は保持しつつも,字形としては使い慣れたギリシア文字に似せた新たな文字体系を考案した.これがキリル文字である.具体的には,9世紀のウンキリアス書体のギリシア文字がほぼそのまま採用されており,そこへスラヴ語音を表わすためにグラゴール文字から数文字を取って加えたという文字体系である.  *
 なお,「キリル」の名は,コンスタンティノスの修道士名キュリロスに由来する.ただし,キリル文字はメトディオスの弟子たちが考案したものであり,コンスタンティノス(=キュリロス)が考案したのは先のグラゴール文字である,という分かりにくい事情があるので注意.
 その後,キリル文字は広く展開していったが,一方でグラゴール文字は衰退していった.しかし,後者も一部の地域ではずっと後にまで受け継がれた.アドリア海沿岸部ダルマチア地方(現在のクロアチア領)では,実に20世紀に至るまで,一部の教会においてグラゴール文字で書かれた典礼書が細々と用いられていたという.

 ・ 服部 文昭 『古代スラヴ語の世界史』 白水社,2020年.

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2021-01-21 Thu

#4287. 古代スラヴ語の運命 [slavic][old_slavic][balto-slavic][review][alphabet][history]

 昨年出版された服部著『古代スラヴ語の世界史』を読んだ.学生時代にロシア語を少しかじった程度でスラヴ系の言語(史)には疎いので,本ブログでもスラヴ語派 (slavic) に関してはあまり記事を書いてきていない.そのような者にとって,たいへん読みやすく学ぶことの多い著書だった.
 そもそも古代スラヴ語 (Old Slavic [Slavonic]) とは何か.服部 (114--16) を参照しつつ要約しよう.時代は9世紀半ばに遡る.当時のスラヴ世界には,多少の方言差はあったにせよ共通スラヴ語と呼べる口語が行なわれていたと考えられる.しかし,それは書き言葉に付されることはなかった.862年,ギリシア出身のコンスタンティノスとその兄メドティオスが,モラヴィア国(現在のチェコ東部)にスラヴ語でキリスト教を布教すべく,経典類のためのスラヴ文章語と,それを書き記すためのグラゴール文字を考案した(後者について「#1834. 文字史年表」 ([2014-05-05-1]) を参照).この新生スラヴ文章語こそが「古代スラヴ語」の正体である.
 この文章語による布教は当初は順調に進んだが,国内外の政治情勢ゆえに,885年のメトディオスの死後,無に帰した.しかし,弟子たちがブルガリアへ避難し,そこで首長ボリスの庇護を受けるに及んで,古代スラヴ語の伝統は新天地にて延命,いな発展を遂げる.先のグラゴール文字の機能的な長所を保ちつつ,人々が使い慣れていたギリシア文字の字形を導入し,あらたにキリル文字が作られた.ところがブルガリアもやがて滅亡し,古代スラヴ語は再び衰退の危機にさらされた.危機に陥った古代スラヴ語は,しかし,3度目の滞在地を見つけた.キエフ・ルーシである.989年にキエフ公ウラジーミルがキリスト教を国教化すると,この地にて古代スラヴ語が受け継がれることになった.
 しかし,10世紀末のこの段階までに,話し言葉としてのスラヴ語は相当の方言化を経ていた.キエフ・ルーシでも,人々の母方言と,共通文章語としての役割を果たしてきた古代スラヴ語との差が目立ってきていたのである.古代スラヴ語の経典類は,書写されていくにつれて母方言的な要素が多く混入し,いつしか純粋な古代スラヴ語と呼び得ないほどまでになった.この段階をもって,古代スラヴ語は「ロシア教会スラヴ語」や「古代ロシア文語」と呼ぶべきものに変化したと考えられている.古代スラヴ語は消滅したにはちがいないが,より正確には「ロシア教会スラヴ語」へ同化・吸収されていったといえる.
 古代スラヴ語は,このように9世紀後半から1100年ほどまでスラヴ人が用いた文章語であった.言語史の1コマといえばそうだが,歴史的な意義として服部 (5) は2点を挙げている.

このような歴史の中で見ると,古代スラヴ語とはどのような重要性を持つのであろうか.まず古代スラヴ語によってスラヴ人は初めて文字を手に入れ,文章を書き記すことを始めた.つまり,スラヴ人自身の言葉によって文献を書き残せるようになった歴史的意味は無視し難いであろう.次に,スラヴ人は,自分たちの言葉を通してキリスト教世界と関わりを持つことにより,その存在感を徐々に高めてゆくことになる.とりわけ,東方教会の圏内において,今日に繋がるような大きな存在となってゆくことは重要である.


 たいへん勉強になった.スラヴ語派,あるいはより広くバルト=スラヴ語派については,「#1469. バルト=スラブ語派(印欧語族)」 ([2013-05-05-1]) を参照.

 ・ 服部 文昭 『古代スラヴ語の世界史』 白水社,2020年.

Referrer (Inside): [2021-01-22-1]

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