現代英語の音韻では,1つの形態素の内部に同じ子音が重なる子音重複 (gemination) はない./pp/, /tt/, /kk/, /ss/, /mm/, /nn/ など,古英語には存在したのだが,初期中英語期にかけて非重子音化 (degemination) が生じ,単子音と重子音の対立が解消された (cf. 「#1284. 短母音+子音の場合には子音字を重ねた上で -ing を付加するという綴字規則」 ([2012-11-01-1]),「#3386. 英語史上の主要な子音変化」 ([2018-08-04-1])) .それ以来,綴字においてこそ諸事情で2重子音字は広く残ったが,発音上は子音重複は消滅したのである.したがって,channel, running の発音はあくまで /ˈʧænəl/, /ˈrʌnɪŋ/ のように /n/ 1つなので注意を要する.
これに関して,先日,読売新聞の「なぜなに日本語」のコーナー(第407回)に,外来語表記において「ン」をはさむか否かという話題が載っていた.東京オリンピック・パラリンピックに向けて導入の検討が話題となっている「サマータイム」は,一度1948年に採用されたときには,新聞で「サンマー・タイム」と表記された.原語の summer の最初の m に相当する部分を撥音「ン」で表記したわけだ.同じように野球の「イニング」 (inning) も,かつては「インニング」と書かれていた.ということは,現在にかけて,いずれも2重子音ではなく単子音を表わす方向へ仮名表記が変化してきたことになる.
しかし,すでに「ン」表記が馴染んでしまった外来語もある.例えば,「コンマ」 (comma),「ハンマー」 (hammer) などは「ン」抜きでは落ち着きの悪い感じがする.おもしろいのは,テレビの「チャンネル」 (channel) では「ン」が残ったが,「販売チャネル」や「交渉チャネル」など比較的新しい用法においては「ン」が脱落していることだ.これなどは,語源を同じくするものの,借用の経路や用法の違いにより,異なる2つの語形(発音・表記)として併存しているという点で,2重語 (doublet) の1例といえるだろう.
ほかに思いついた例を付け加えれば,犬小屋を指す「ケンネル」(kennel) にも「ン」が残っている.tannin 「タンニン」も然り.また,「ランニング」 (running) で「ン」が残っている一方で,*「スイミング」 (swimming) では「スインミング」のように「ン」付きとなっていないのは不思議である.外来語表記を一つひとつ検討していけば,ある程度の傾向は見えてくるに違いないが,外来語表記には個々の事情があるものだろう.
日本語の古典文法における推量の助動詞「む」の発音は「む」なのか「ん」なのか.[m(u)] と [n] は同じ鼻音であるとはいえ,音韻的には区別される音である.しかし,すでに平安時代において,音便が発達したことも関わって,[m] と [n] の混同は始まっていた.沖森 (165) によれば「十一世紀後半頃からは次第に n 音便も『む・ん』で書かれるようになった」ほどに混同が進んでいた.日本語の音韻においては,古今を通じて /m/ と /n/ の区別は堅持されてきたが,形態音韻的な音便という過程においては,その差異は中和されてきたのである.いわば,/m/ と /n/ は原則としては区別せよ,しかし形態音韻的に都合がよいならば中和も非としない,というほどの便法で運用してきた.
この日本語の事情がおもしろいのは,英語史でも似たような時期に似たようなことが起こっており,その後の言語変化に少なからぬ影響を与えていたからである.英語でも,古今を通じて /m/ と /n/ の音韻的な差異は常に堅持されてきた.しかし,屈折語尾(しかも典型的にはその末尾)の子音としての /m/ と /n/ は,古英語から中英語への過渡期にあたる12世紀か,それ以前に,すでに混同され,結果的には [n] へと収斂していった(Moore の論文を参照).これによって屈折語尾の音声的多様性が著しく減じたことは間違いなく,それは日本語史において音便という現象がもたらした効果に匹敵するものがある.例えば,古英語の男性弱変化名詞 nama は,格・数に応じて nama (nom.sg.), naman (acc.sg), naman (gen.sg), naman (dat.sg), naman (nom.pl), naman (acc.pl), namena (gen.pl), namum (dat.pl) と屈折したが,いまや [m] の [n] への混同・合一と語末母音の曖昧化により,結果として,主格単数の nama に対して,その他のすべての格・性で naman という形態に収斂した.ある環境における音韻的対立の無効化が,続けて形態的対立の無効化を引き起こし,それぞれの形態論に,そしてさらに波及して統語論にも,少なからぬ影響を及ぼしたのである.
両言語ともに,これが11--12世紀に生じた形態音韻論的変化であるというのは,もちろん偶然である.[m] と [n] の両鼻音の混同それ自体は,古今東西珍しくもなく,両言語のたまたまの時間的な一致に不思議を感じる必要もないだろう.おもしろみを感じるのは,[m] が [n] へ収斂したという些細な音声的現象の,その後の形態統語的な余波を比較したとき,日英語について案外似ている部分もあるかもしれないということだ.
・ 沖森 卓也 『日本語全史』 筑摩書房〈ちくま新書〉,2017年.
・ Moore, Samuel. "Earliest Morphological Changes in Middle English." Language 4 (1928): 238--66.
昨日の記事「#3409. 日本語における合拗音の消失」 ([2018-08-27-1]) で,合拗音「クヮ」「グヮ」音が直音化した経緯に注目した.合拗音の [kw], [gw] という「子音+半子音」の部分に着目すれば,話題としては,印欧語比較言語学でいうところの軟口蓋唇音 (labiovelar) ともつながってくる (cf. 「#1151. 多くの謎を解き明かす軟口蓋唇音」 ([2012-06-21-1])) .
英語では印欧祖語に遡るとされる [kw] や [gw] は比較的よく保存されており,この点では日本語の音韻傾向とは対照的である.綴字としては典型的に <qu>, <gu> で表わされ,queen, quick, liquid, language, sanguine などの如くである.さらにいえば,英語では [k], [g] が先行する音環境に限らず,一般に [w] はよく保存されている.
とはいうものの,そのような英語でも歴史的な [w] が失われているケースはある.「#383. 「ノルマン・コンケスト」でなく「ノルマン・コンクェスト」」 ([2010-05-15-1]) で見たように,フランス借用語のなかでも,Norman French から取り込まれたものは,その方言の音韻特徴を反映して /kw/ が保たれているが (e.g. conquest /ˈkɒŋkwɛst/) ,Central French からのものは,その方言の特徴を受け継いで /w/ が落ちている (e.g. conquer /ˈkɒŋkə/) .
また,「#51. 「5W1H」ならぬ「6H」」 ([2009-06-18-1]),「#184. two の /w/ が発音されないのはなぜか」 ([2009-10-28-1]) で見たたように,後舌母音が後続する場合の [w] は脱落しやすいという調音的な事情があり,それにより how, who, sword, two などの発音(と綴字とのギャップ)が生じている.
[w] は半子音と呼ばれるだけに中途半端な音声的特質をもっており,日本語でも英語でもその挙動(の歴史)は複雑である.
合拗音とは古い日本語で「クヮ」「グヮ」などと表記された [kwa, gwa] 音のことである.もともと日本語には合拗音なる音はなかった.漢語とともに漢字音としての合拗音が導入され,中世前期に日本語の音韻へ取り込まれていったものである.しかし,近世後期になると,日本語の本来的な音韻へ回帰するかのごとく,再び合拗音が消滅するに至った.かつての合拗音「クヮ」「グヮ」は,直音「カ」「ガ」へ合一している.
沖森 (319--20) によれば,合拗音の直音化の時期については方言差があった.
合拗音のクヮ [kwa]・グヮ [gwa] は,「火事」をクヮジ,「因果」をイングヮというように漢字音において用いられてきたが,この時代において直音化してカ [ka]・ガ [ga] となった.上方語と江戸語ではその変化の時期は異なっているが,前掲の『浮世風呂』(二・上)に見える,上方と江戸の女性が言葉について言い争う場面で,上方の女性が,江戸ではグヮイをガイ,クヮンをカンと発音していることを非難している
お慮外(りょぐわい)も,おりよげへ.観音(くわんおん)さまも,かんのんさま.なんのこつちやろな.
すなわち,江戸語では十九世紀初めにはすでに直音化していたのに対して,上方語ではあまり直音化が進んでいなかったことを物語っている.江戸語では『音曲玉淵集』に「くわの字,かとまぎれぬやうにいふべきこと」と注記されるように,上方語よりもいち早く十八世紀初期には合拗音の直音化が生じていたことがわかる.これに対して,上方語では十九世紀に入っても遅い時期に変化したようである.
合拗音と直音の合一という音韻変化に関して,さらに複雑かつ興味深いのは,そこに社会語用論的な側面もあったらしいことだ.両者が区別されるか合一するかは,話者の教養の程度や,言葉遣いの丁寧さにも依存したという.上述のように合拗音は漢字音に基づくものであり,漢字や漢語の知識がない者にとって,その区別は容易ではなかった.実際,混同に基づく合一は早くも13世紀から例証されるようだ(沖森,pp. 320--21).
合拗音の消失が日本語の一般的な音韻傾向に沿うものであることは,様々に指摘されている.たとえば,[kwa, gwa] から半子音 [w] が落ちたということは,しばしば日本語のウラルアルタイ語的性格を表わすものと言われる2重子音の忌避の1例として説明することができる(『日本語百科大事典』 pp. 256--57) .一方,沖森 (318) は,次のように,日本語音韻史のより広い観点から「唇音退化」の一環として位置づけることができるという(cf. 「#1271. 日本語の唇音退化とその原因」 ([2012-10-19-1])).
ハ行子音の [ɸ] → [h] [çi],すなわち両唇摩擦音から声門摩擦音・喉頭〔ママ〕摩擦音へという変化は,調音する上で唇の関与をより軽減したものである.エが [e] に,オが [o] に,そして,ウが円唇母音から非円唇母音に変化したのも同一の傾向にある.さらにいえば,古くに,ヰ・ヱが [i]・[je] に変化したのも両唇音 w の喪失であり,後述する合拗音の直音化 [kwa] → [ka] も同じ流れである.こうした,唇の緊張を緩める方向で変化してきたことを歴史の大きな流れとして「唇音退化」ということがある.発音の負担を軽くしようという欲求に基づくものである.
なお,現代でも,東北北部,北陸,四国,九州,沖縄などで直音と合拗音の区別が存続している方言もある.
・ 『日本語百科大事典』 金田一 春彦ほか 編,大修館,1988年.
・ 沖森 卓也 『日本語全史』 筑摩書房〈ちくま新書〉,2017年.
昨日の記事「#3886. 英語史上の主要な子音変化」 ([2018-08-04-1]) で言及した別の記事「#1402. 英語が千年間,母音を強化し子音を弱化してきた理由」 ([2013-02-27-1]) と関連して,なぜ英語音韻史において母音変化は著しく,子音変化は目立たないのかという問題について考えてみたい.
Ritt (224) はこの傾向を "rhythmic isochrony" と "fixed lexical stress on major class lexical items" の2点に帰している.つまり,英語に内在するリズム構造,あるいは音律特性により,母音が強化し,子音が弱化するという方向付けがなされているという見解だ.
服部 (67) によれば,英語は各韻脚 (foot) がほぼ等しい時間で発音される韻脚拍リズム (foot-timed rhythm) の言語に属する(ちなみに日本語は音節泊 (syllable-timed rhythm) あるいはモーラ泊 (mora-timed rhythm) という相対するタイプの言語).一般に韻脚拍の言語は,母音推移,連鎖的推移,二重母音化,母音弱化など母音にまつわる推移が相対的にずっと多いことが知られている.各韻脚の等時性を保持するために,強勢音節はとりわけ強く,無強勢音節はとりわけ弱く発音されるという対照的な傾向が生じ,なかんずく母音が変化にさらされやすくなるという事情があるようだ.
より一般的な観点からいえば,言語のリズム構造は,その言語の音韻変化に思いのほか大きな影響を及ぼしており,ある程度まではその方向性を決定しているとすらいえるのかもしれない.服部 (48) は次のように論じている.
音変化の発端は実際の発話において生じる.もちろん,発話内で生じた音の変容がすべて音変化として確立するわけではないが,発端はあくまで実時間上の発話内で生じると考えられる.発話に際して,特定の形態・統語構造を持った語彙項目(の連鎖)が実際の発話において当該言語のリズム構造 (rhythmic structure) に写像される.リズム構造その他の音律 (prosody) 特性は幼児の言語獲得において分節音より早く獲得されることが知られており,部分的には胎児の段階から獲得が始まるとされている.この事実からも明らかなように,リズム(および,その他の音律)構造は,一般に考えられている以上に,分節音体系と深く結びついており,われわれが発話する際には,特定のリズム構造に合わせて分節音連鎖を配置していると想定される.その際,脚韻(foot,強勢音節から次の強勢音節の直前までを一まとめにした単位)や音節 (syllable) などのリズム上の単位の知覚しやすさや分節音連鎖の調音の容易さを高めるような形で各種音韻過程が働く.多くの規則的音変化の要因は言語音の調音と知覚の要請によって動機づけられているといってよい.
これは「堅牢なリズム構造と,それに従属する柔軟な分節音」という斬新な音韻観に基づく音韻論である.
・ Ritt, Nikolaus. "How to Weaken one's Consonants, Strengthen one's Vowels and Remain English at the Same Time." Analysing Older English. Ed. David Denison, Ricardo Bermúdez-Otero, Chris McCully, and Emma Moore. Cambridge: CUP, 2012. 213--31.
・ 服部 義弘 「第3章 音変化」服部 義弘・児馬 修(編)『歴史言語学』朝倉日英対照言語学シリーズ[発展編]3 朝倉書店,2018年.47--70頁.
英語史では一般に,母音(特に長母音)の変化は数多く生じてきたものの,子音の変化は比較的まれだったといわれる(cf. 「#1402. 英語が千年間,母音を強化し子音を弱化してきた理由」 ([2013-02-27-1])).この母音と子音の傾向の対照性については,英語の韻律 (prosody) が大きく関わっているといわれる.確かに子音の変化には目立ったものが見当たらないが,その中でもあえてメジャーなものを挙げるとすれば,Minkova and Stockwell (36) に依拠して,以下の5点に注目したい.
・ Simplification of long consonants
・ Phonemicization of the voiced fricatives [v, ð, z]
・ Vocalization or loss of [ɣ], [x], [ç] and distributional restrictions on [h]
・ Loss of [-r] in some varieties of English
・ Simplification of the consonant clusters [kn-], [gn-], [wr-], [-mb], [-ng]
1点目の "Simplification of long consonants" とは degemination ともいわれる過程で,後期古英語から初期中英語にかけて生じた.これにより,古英語 gyldenne "golden" が 中英語 gyldene などとなった.これの現代英語への影響としては,「#1854. 無変化活用の動詞 set -- set -- set, etc.」 ([2014-05-25-1]) や「#1284. 短母音+子音の場合には子音字を重ねた上で -ing を付加するという綴字規則」 ([2012-11-01-1]) を参照されたい.
2点目の "Phonemicization of the voiced fricatives [v, ð, z]" は,fricative_voicing と呼ばれる過程である.「#1365. 古英語における自鳴音にはさまれた無声摩擦音の有声化」 ([2013-01-21-1]) でみたように,これらの無声・有声摩擦音のペアは単なる異音の関係だったが,フランス借用語などの影響により,両者が異なる音素として独立することになった./v/ の音素化の話題については,「#1222. フランス語が英語の音素に与えた小さな影響」 ([2012-08-31-1]),「#2219. vane, vat, vixen」 ([2015-05-25-1]),「#2230. 英語の摩擦音の有声・無声と文字の問題」 ([2015-06-05-1]) を参照.
3点目の "Vocalization or loss of [ɣ], [x], [ç] and distributional restrictions on [h]" は,これらの摩擦音が音韻環境により複雑な変化を遂げたことを指す.例えば,古英語 dragan, sagu; hlot, hræfn, hnecca; boh, heah, sohte; toh, ruh, hleahtor が,それぞれ中英語で draw(en), saw(e); lot, raven, neck; bow(e), hei(e), sout(e); tuf, ruff, lauhter などとなった事例を挙げておこう.heir, honest, honour, hour などの語頭の h の不安定さの話題も,これと関わる(「#214. 不安定な子音 /h/」 ([2009-11-27-1]) および h の各記事を参照).
4点目の "Loss of [-r] in some varieties of English" は,non-prevocali r を巡る問題である(「#452. イングランド英語の諸方言における r」 ([2010-07-23-1]) および の各記事を参照).
5点目の "Simplification of the consonant clusters [kn-], [gn-], [wr-], [-mb], [-ng]" は,各子音群の端の子音が脱落する音韻過程である.これらの子音に対応する文字が現在も綴字に残っているので,それと認識しやすい.「#122. /kn/ で始まる単語」 ([2009-08-27-1]),「#34. thumb の綴りと発音」 ([2009-06-01-1]), 「#724. thumb の綴りと発音 (2)」 ([2011-04-21-1]) のほか,より一般的に「#1290. 黙字と黙字をもたらした音韻消失等の一覧」 ([2012-11-07-1]),「#2518. 子音字の黙字」 ([2016-03-19-1]) を参照.
以上のように,母音に比べて種類は少ないとはいえ,子音の変化もこうみてみると現代英語の音韻・綴字の問題にそれなりの影響を及ぼしているものだと感じられる.
・ Minkova, Donka and Robert Stockwell. "Phonology: Segmental Histories." A Companion to the History of the English Language. Ed. Haruko Momma and Michael Matto. Chichester: Wiley-Blackwell, 2008. 29--42.
屈折の衰退は英語史上の大変化の1つだが,動詞は名詞に比べれば,現在に至るまで屈折をわりと多く保存している.現代の名詞の屈折(と呼べるならば)には複数形と所有格形ほどしかないが,動詞には3単現の -s,過去(分詞)形の -ed,現在分詞形の -ing が残っているほか,不規則動詞では主として母音変異に基づく屈折も残っている.あくまで相対的な話しではあるが,確かに動詞は名詞よりも屈折をよく保っているといえる.
その理由の1つとして,無強勢音節(とりわけ屈折を担う語末音節)の母音の弱化・消失という音韻的摩耗傾向に対して,動詞のほうが名詞や形容詞よりも頑強な抵抗力を有していたことが挙げられる.Wełna (415--16) は端的にこう述べている.
Verbs proved more resistant because, unlike nouns and adjectives, their inflectional markers contained obstruent consonants, i.e. sounds not subject to vocalization, as in PRES SG 2P -st, 3P -eþ (-eth) or PAST -ed, while the nasal sonorants -m (> -n) and -n, frequently found in the nominal endings, vocalized and were ultimately dropped.
「#291. 二人称代名詞 thou の消失の動詞語尾への影響」 ([2010-02-12-1]) で述べたように,近代英語期には,おそらく最も頑強な動詞屈折語尾であった2人称単数の -est も,(形態的な過程としてではなく)社会語用論的な理由により,対応する人称代名詞 thou もろともに消えていった.これにより,動詞屈折のヴァリエーションがいよいよ貧弱化したということは指摘しておいてよいだろう.
・ Wełna, Jerzy. "Middle English: Morphology." Chapter 27 of English Historical Linguistics: An International Handbook. 2 vols. Ed. Alexander Bergs and Laurel J. Brinton. Berlin: Mouton de Gruyter, 2012. 415--34.
接頭辞 in- は,原則として後続する基体がどのような音で始まるかによって,デフォルトの in- だけでなく, im (b, m, p の前), il- (l の前), ir- (r の前), i- (g の前)などの異形態をとる.意味としては,接頭辞 in- には「否定」と「中に」の2つが区別されるが,異形態の選択については両方とも同様に振る舞う.それぞれ例を挙げれば,inactive, inconclusive, inspirit; imbalance, immature, immoral, imperil, implode, impossible; illegal, illicit, illogical; irreducible, irregular, irruptive; ignoble, ignominy, ignorant などである.
in- の末尾の子音が接続する音によって調音点や調音様式を若干変異させる現象は,子音の同化 (assimilation) として説明されるが,子音の同化という過程が生じたのは,ほとんどの場合,借用元のラテン語(やフランス語)においてであり,英語に入ってくる際には,すでにそのような異形態をとっていたというのが事実である.むしろ,英語側の立場からは,それらの借用語を後から分析して,接頭辞 in- を切り出したとみるのが妥当である.ただし,いったんそのような分析がなされて定着すると,以降 in- はあたかも英語固有の接頭辞であるかのように振る舞い出し,異形態の取り方もオリジナルのラテン語などと同様に規則的なものととらえられるようになった.
ラテン語由来の「否定」と「中に」を意味する接頭辞 in- は上記のように振る舞うが,注意すべきは英語本来語にも「中に」を意味する同形態の in が存在することだ.前置詞・副詞としての英語の in が接頭辞として用いられる場合には,上記のラテン語の接頭辞 in- のように異形態をとることはない.つまり,in- は不変化である.標題の単語 input の in- は,反対語の output の out- と比べれば分かるとおり,あくまで本来語の接頭辞 in- である.したがって,*imput とはならない(ちなみにラテン語で out- に対応するのは ex- である).この観点から in-between, in-place, inmate なども同様に説明できる.
ただし,発音上は実際のところ子音の同化を起こしていることも多く,input と綴られていても,/ˈɪnpʊt/ に加えて /ˈɪmpʊt/ も行なわれている.
3日間にわたり標題の話題を発展させてきた ([2018-05-08-1], [2018-05-09-1], [2018-05-10-1]) .今回は第4弾(最終回)として,この問題にもう一ひねりを加えたい.
wolves (および間接的に wives)の背景には,古英語の男性強変化名詞の屈折パターンにおいて,複数主格(・対格)形として -as が付加されるという事情があった.これにより古英語 wulf が wulfas となり,f は有声音に挟まれるために有声化するのだと説明してきた.wīf についても,本来は中性強変化という別のグループに属しており,自然には wives へと発達しえないが,後に wulf/wulfas タイプに影響され,類推作用 (analogy) により wives へと帰着したと説明すれば,それなりに納得がいく.
このように,-ves の複数形については説得力のある歴史的な説明が可能だが,今回は視点を変えて単数属格形に注目してみたい.機能的には現代英語の所有格の -'s に連なる屈折である.以下,単数属格形を強調しながら,古英語 wulf と wīf の屈折表をあらためて掲げよう.
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2日間の記事 ([2018-05-08-1], [2018-05-09-1]) で,標記の素朴な疑問を題材に,英語史の奥深さに迫ってきた.今回は第3弾.
古英語の wulf (nom.acc.sg.)/wulfas (nom.acc.pl) を原型とする wolf (sg.)/wolves (pl.) という単複ペアのモデルが,類推作用 (analogy) によって,歴史的には wulf と異なる屈折クラスに属する,語尾に -f をもつ他の名詞にも拡がったことを見た.leaf/leaves や life/lives はそれにより説明される.
しかし,現代英語の現実を眺めると,語尾に -f をもつ名詞のすべてが複数形において -ves を示すわけではない.例えば,roof/roofs, belief/beliefs などが思い浮かぶが,これらは完全に「規則的」な複数形を作っている.とりわけ roof などは,古英語では hrōf という形態で,まさに wulf と同じ男性強変化グループに属していたのであり,正統には古英語で実際に用いられていた hrōfas が継承され,現在は *rooves となっていて然るべきなのである.ところが,そうなっていない(しかし,rooves については以下の表も参照).
ここで起こったことは,先に挙げたのとは別種の類推作用である.wife などの場合には,類推のモデルとなったのは wolf/wolves のタイプだったのだが,今回の roof を巻き込んだ類推のモデルは,もっと一般的な,例えば stone/stones, king/kings といったタイプであり,語尾に -s をつければ済むというという至極単純なタイプだったのである.同様にフランス借用語の grief, proof なども,もともとのフランス語での複数形の形成法が単純な -s 付加だったこともあり,後者のモデルを後押し,かつ後押しされたことにより,現在その複数形は griefs, proofs となっていると理解できる.
語尾に -f をもつ名詞群が,類推モデルとして wolf/wolves タイプを採用したか,あるいは stone/stones タイプを採用したかを決める絶対的な基準はない.個々の名詞によって,振る舞いはまちまちである.歴史的に両タイプの間で揺れを示してきた名詞も少なくないし,現在でも -fs と -ves の両複数形がありうるという例もある.類推作用とは,それくらいに個々別々に作用するものであり,その意味でとらえどころのないものである.
一昨日の記事 ([2018-05-08-1]) では,wolf の複数形が wolves となる理由を聞いてスッキリしたかもしれないが,ここにきて,さほど単純な問題ではなさそうだという感覚が生じてきたのではないだろうか.現代英語の現象を英語史的に考えていくと,往々にして問題がこのように深まっていく.
以下,主として Jespersen (Modern, §§16.21--16.25 (pp. 258--621)) に基づき,語尾に -f を示すいくつかの語の,近現代における複数形を挙げ,必要に応じてコメントしよう(さらに多くの例,そしてより詳しくは,Jespersen (Linguistic, 374--75) を参照).明日は,懲りずに第4弾.
単数形 | 複数形 | コメント |
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beef | beefs/beeves | |
belief | beliefs | 古くは believe (sg.)/believes (pl.) .この名詞は,OE ġelēafa と関連するが,語尾の母音が脱落して,f が無声化した.16世紀頃には believe (v.) と belief (n.) が形態上区別されるようになり,名詞 -f が確立したが,これは grieve (v.)/grief (n.), prove (v.)/proof (n.) などの類推もあったかもしれない. |
bluff | bluffs | |
brief | briefs | |
calf | calves | |
chief | chiefs | |
cliff | cliffs | 古くは cleves (pl.) も. |
cuff | cuffs | |
delf | delves | 方言として delfs (pl.) も.また,標準英語で delve (sg.) も. |
elf | elves | まれに elfs (pl.) や elve (sg.) も. |
fief | fiefs | |
fife | fifes | |
gulf | gulfs | |
half | halves | 「半期(学期)」の意味では halfs (pl.) も. |
hoof | hoofs | 古くは hooves (pl.) . |
knife | knives | |
leaf | leaves | ただし,ash-leafs (pl.) "ash-leaf potatoes". |
life | lives | 古くは lyffes (pl.) など. |
loaf | loaves | |
loof | looves/loofs | loove (sg.) も. |
mastiff | mastiffs | 古くは mastives (pl.) も. |
mischief | mischiefs | 古くは mischieves (pl.) も. |
oaf | oaves/oafs | |
rebuff | rebuffs | |
reef | reefs | |
roof | roofs | イングランドやアメリカで rooves (pl.) も. |
safe | safes | |
scarf | scarfs | 18世紀始めからは scarves (pl.) も. |
self | selves | 哲学用語「自己」の意味では selfs (pl.) も. |
sheaf | sheaves | |
shelf | shelves | |
sheriff | sheriffs | 古くは sherives (pl.) も. |
staff | staves/staffs | 「棒きれ」の意味では staves (pl.) .「人々」の意味では staffs (pl.) .stave (sg.) も. |
strife | strifes | |
thief | thieves | |
turf | turfs | 古くは turves (pl.) も. |
waif | waifs | 古くは waives (pl.) も. |
wharf | warfs | 古くは wharves (pl.) も |
wife | wives | 古くは wyffes (pl.) など.housewife "hussy" でも housewifes (pl.) だが,Austen ではこの意味で huswifes も. |
wolf | wolves |
昨日の記事 ([2018-05-08-1]) で,wolf (sg.) に対して wolves (pl.) となる理由を古英語の音韻規則に照らして説明した.これにより,関連する他の -f (sg.)/ -ves (pl.) の例,すなわち calf/calves, elf/elves, half/halves, leaf/leaves, life/lives, loaf/loaves, knife/knives, self/selves, sheaf/sheaves, shelf/shelves, thief/thieves, wife/wives などもきれいに説明できると思うかもしれない.しかし,英語史はそれほどストレートで美しいものではない.言語という複雑なシステムがたどる歴史は,一癖も二癖もあるのが常である.
例えば,wife (sg.)/wives (pl.) の事例を取り上げよう.この名詞は,古英語では wīf という単数主格(見出し語)形を取っていた(当時の語義は「妻」というよりも「女性」だった).f は,左側に有声母音こそあれ右側には何もないので,「有声音に挟まれている」わけではなく,デフォルトの /f/ で発音される.そして,次に来る説明として予想されるのは,「ところが,複数主格(・対格)形では wīf に -as の屈折語尾が付くはずであり,f は有声音に挟まれることになるから,/v/ と有声音化するのだろう」ということだ.
しかし,そうは簡単にいかない.というのは,wulf の場合はたまたま男性強変化というグループに属しており,昨日の記事で掲げた屈折表に従うことになっているのだが,wīf は中性強変化というグループに属する名詞であり,古英語では異なる屈折パターンを示していたからだ.以下に,その屈折表を掲げよう.
(中性強変化名詞) | 単数 | 複数 |
---|---|---|
主格 | wīf | wīf |
対格 | wīf | wīf |
属格 | wīfes | wīfa |
与格 | wīfe | wīfum |
標題は,「#1365. 古英語における自鳴音にはさまれた無声摩擦音の有声化」 ([2013-01-21-1]) で取り上げ,「#1080. なぜ five の序数詞は fifth なのか?」 ([2012-04-11-1]) や「#2948. 連載第5回「alive の歴史言語学」」 ([2017-05-23-1]) でも具体的な例を挙げて説明した問題の,もう1つの応用例である.wolf の複数形が wolves となるなど,単数形 /-f/ が複数形 /-vz/ へと一見不規則に変化する例が,いくつかの名詞に見られる.例えば,calf/calves, elf/elves, half/halves, leaf/leaves, life/lives, loaf/loaves, knife/knives, self/selves, sheaf/sheaves, shelf/shelves, thief/thieves, wife/wives などである.これはどういった理由だろうか.
古英語では,無声摩擦音 /f, θ, s/ は,両側を有声音に挟まれると自らも有声化して [v, ð, z] となる音韻規則が確立していた.この規則は,適用される音環境の条件が変化することもあれば,方言によってもまちまちだが,中英語以降でもしばしばお目にかかるルールである.必ずしも一貫性を保って適用されてきたわけではないものの,ある意味で英語史を通じて現役活動を続けてきた根強い規則といえる.摩擦音の有声化 (fricative_voicing) などという名前も与えられている.
今回の標題に照らし,以下では /f/ の場合に説明を絞ろう.wolf (狼)は古英語では wulf という形態だった.この名詞は男性強変化というグループに属する名詞で,格と数に応じて以下のように屈折した.
(男性強変化名詞) | 単数 | 複数 |
---|---|---|
主格 | wulf | wulfas |
対格 | wulf | wulfas |
属格 | wulfes | wulfa |
与格 | wulfe | wulfum |
「#3285. chivalry の語頭子音」 ([2018-04-25-1]) への補足.古いフランス借用語でありながら chivalry においては,<ch> が /ʧ/ ではなく /ʃ/ に対応するのはなぜかという問題だが,Jespersen (§14.74; pp. 407--08) がこの点について次のように説明している.
Though chivalry is an old loan (Chaucer, etc.), it is now generally pronounced [ʃivəlri] instead of [ʧ]: when the institution itself became obsolete, the word disappeared from actual speech, and when revived, was made to conform with chevalier.
chivalry という語自体は,中世から近代にかけても書き言葉において死に絶えることはなかったが,指示対象である騎士制度そのものが衰退することによって,日常的な語の地位からは脱落したというのはもっともな見解だろう.近代後期になってから,「近代化」した発音とイメージを伴って,事実上復活した語だったということができる.
<ch> = /ʃ/ を示す近代フランス語からの借用語の例をいくつか挙げておこう.chagrin, chaise (早くに借用された chair と同根), chamade, champagne, chandelier, chaperon, charade, charlatan, Charlemagne, Charlotte (より早い Charles と比較; cf. 「#2201. 誕生おめでとう! Princess Charlotte」 ([2015-05-07-1])), chamois, château, chauvinism, chef (より早い chief と比較), chemise, chmisette, chenille, chevalier, chic, chicane, chiffon, machine, marchioness, moustache, douche, cartouche などがある.
なお,Charlie はペット名としては,雄の場合は /ʧ/ で,雌の場合は /ʃ/ で発音されるという.また,champaign, champignon, debauch では両方の子音発音があり得るようだ.
<ch> にまつわる話題としては,「#3251. <chi> は「チ」か「シ」か「キ」か「ヒ」か?」 ([2018-03-22-1]), 「#1893. ヘボン式ローマ字の <sh>, <ch>, <j> はどのくらい英語風か」 ([2014-07-03-1]),「#2049. <sh> とその異綴字の歴史」 ([2014-12-06-1]) の記事を参照.
・ Jespersen, Otto. A Modern English Grammar on Historical Principles. Part 1. Sounds and Spellings. 1954. London: Routledge, 2007.
「騎士道」を意味する chivalry は /ˈʃɪvəlri/ のように語頭に無声歯茎硬口蓋摩擦音 /ʃ/ をもって発音される.しかし,これは一見すると理解しがたい発音である.というのは,この単語はフランス語からの借用語であり,1300年頃の Kyng Alysaunder に "He schipeth into Libie, With al his faire chivalrie." (l. 1495) のように現われることから考えて,当時のフランス語の原音に忠実な破擦音 /ʧ/ をもって発音されていたはずだからだ.
確かに現代英語の <ch> は最も典型的には破擦音 /ʧ/ に対応するといいつつも,摩擦音 /ʃ/ への対応も決して珍しくない.しかし,「#2201. 誕生おめでとう! Princess Charlotte」 ([2015-05-07-1]) の記事で触れたように,フランス借用語に関する限り,<ch> がいずれの子音を表わすかは,およそ借用の時期によって決まる.先の記事で,次のように述べた通りである.
現代英語におけるフランス借用語で <ch> と綴られるものが,破擦音 [ʧ] を示すか摩擦音 [ʃ] を示すかという基準は,しばしば借用時期を見極めるのに用いられる.例えば chance, charge, chief, check, chair, charm, chase, cheer, chant はいずれも中英語期に借用されたものであり,champagne, chef, chic, chute, chaise, chicanery, charade, chasseur, chassis はいずれも近代英語期に入ったものである.
つまり,問題は何かといえば,現代英語の chivalry は中英語期に借用された語であるから,当時から現在まで破擦音 /ʧ/ を持ち続けたはずであると予想されるにもかからず,むしろ近代英語期の借用語であるかのような摩擦音 /ʃ/ を示すのが妙だということだ.OED でも,現代で /ʧɪvəlri/ の発音もあり得ると示唆しながらも,"As a Middle English word the proper historical pronunciation is with /ʧ-/; but the more frequent pronunciation at present is with /ʃ-/, as if the word had been received from modern French." と述べられている.
『英語語源辞典』によると次のような事情があったようだ.
この語派1600年以前に一度すたれたが,やがて18C後半のロマンス作家たちがよみがえらせた.〔中略〕ME では OF 同様 /ʧ-/ と発音されたが,今では ModF の影響による /ʃ-/ がふつう(ちなみに OF では ch- は13Cの間に /ʧ/ から /ʃ/ に変化している).
ここで「一度すたれた」とあるが,OED の用例を見渡す限り,完全に途絶えたというわけではなさそうだ.だが,中世の騎士道への懐古的な関心をもちながら近代の語として蘇らせた,あるいは再借用されたという筋書きを想定すれば,現在ふつうである破擦音の謎が解ける.そうだとすれば,chivalry という語は,/ʃ/ を示すがゆえに,近現代的な中世観を体現する語として,現代人にとってロマンチックなほどに中世的な語と言えるのかもしれない.
2重字 <ch> については,「#3251. <chi> は「チ」か「シ」か「キ」か「ヒ」か?」 ([2018-03-22-1]), 「#1893. ヘボン式ローマ字の <sh>, <ch>, <j> はどのくらい英語風か」 ([2014-07-03-1]) の記事も参照.関連して「#2049. <sh> とその異綴字の歴史」 ([2014-12-06-1]) もどうぞ.
イタリアの辛口赤ワイン CHIANTI (キャンティ)を飲みつつ,イタリア語の <chi> = /ki/ に思いを馳せた.<ch> という2重字 (digraph) に関して,ヨーロッパの諸言語を見渡しても,典型的に対応する音価はまちまちである.前舌母音字 <i> を付して <chi> について考えてみよう.主要な言語で代表させれば,英語では chill, chin のように /ʧi/,フランス語では Chine, chique のように /ʃi/,イタリア語では chianti, chimera のように /ki/,ドイツ語では China, Chinin のように /çi/ である.同じ <ch> という2重字を使っていながら,対応する音価がバラバラなのはいったいなぜだろうか.
この謎を解くには,文字記号の恣意性 (arbitrariness) と,各言語の音韻体系とその歴史の独立性について理解する必要がある.まず,文字記号の恣意性から.アルファベットを例にとると,<a> という文字が /a/ という音と結びつくはずと考えるのは,長い伝統と習慣によるものにすぎず,実際には両者の間に必然的な関係はない.この対応関係がアルファベットを使用する多くの言語で見られるのは,当該のアルファベット体系を借用するにあたって,借用元言語に見られたその結び付きの関係を引き継いだからにすぎない.特別な事情がないかぎりいちいち関係を改変するのも面倒ということもあろうが,確かに文字と音との関係は代々引き継がれることは多い.しかし,何らかの特別な事情があれば――たとえば,対応する音が自分の言語には存在しないのでその文字が使われずに余ってしまう場合――,<a> を廃用にすることもできるし,まったく異なる他の音にあてがうことだってできる.たとえば,言語共同体が <a> = /t/ と決定し,同意しさえすれば,その言語においてはそれでよいのである.文字記号は元来恣意的なものであるから,自分たちが合意しさえすれば,他人に干渉される筋合いはないのである.<ch> は単字ではなく2重字であるという特殊事情はあるが,この2文字の結合を1つの文字記号とみなせば,この文字記号を各言語は事情に応じて好きなように利用してよい.その言語に存在するどんな子音に割り当ててもよいし,極端なことをいえば母音に割り当てても,無音に割り当ててもよい.つまり,<ch(i)> の読みは,まずもって絶対的,必然的に決まっているわけではないと理解することが肝心である.
次に,各言語の音韻体系とその歴史の独立性について.言うまでもないことだが,同系統の言語であろうがなかろうが,それぞれ独自の音韻体系をもっている.英語には /f, l, θ, ð, v/ などの音素があるが,日本語にはないといったように,言語ごとに特有の音素セットがあるのは当然である.各言語の音韻体系の発展の歴史も,原則として独立的である.音韻の借用などがあった場合でも,その影響は限定的だ.したがって,異なる言語には異なる音素セットがあり,音素セット間で互いに対応させようとしても数も種類も違っているのだから,きれいに揃うということは望めないはずである.表音文字たるアルファベットは原則として音素を写すものだから,音素セット間でうまく対応しないものを文字セット間において対応させようとしたところで,やはり必ずしもきれいには揃わないはずである.
上で挙げた西ヨーロッパの主要な言語は,歴史の経緯からともにローマン・アルファベットを受容したし,範となるラテン語において <ch> という2重字が活用されていることも知っていた.また,原則としての恣意性や独立性は前提としつつも,互いの言語を横目で見てきたのも事実である.そこで,2重字 <ch> を活用しようというアイディア自体は,いずれの言語も自然に抱いていたのだろう.ただし,<ch> をどの音にあてがうかについては,各言語に委ねられていた.そこで,各言語では <c> で典型的に表わされる音と共時的・通時的に関係の深い別の音に対応する文字として <ch> をあてがうことにした,というわけだ.つまり,英語では /ʧi/,フランス語では /ʃi/,イタリア語では /ki/,ドイツ語では /çi/ である.たいていの場合,各言語の歴史において,もともとの /k/ が歯擦音化した音を表わすのに <ch> が用いられている.
まとめれば,いずれの言語も,歴史的に <ch> という2重字を使い続けることについては共通していた.しかし,各言語で歴史的に異なる音変化が生じてきたために,<ch> で表わされる音は,互いに異なっているのである.
英語における <ch> = /ʧ/ に関する話題については,以下の記事も参照.
・ 「#1893. ヘボン式ローマ字の <sh>, <ch>, <j> はどのくらい英語風か」 ([2014-07-03-1])
・ 「#2367. 古英語の <c> から中英語の <k> へ」 ([2015-10-20-1])
・ 「#2393. <Crist> → <Christ>」 ([2015-11-15-1])
・ 「#2423. digraph の問題 (1)」 ([2015-12-15-1])
昨日付けで,英語史連載企画「現代英語を英語史の視点から考える」の第8回の記事「なぜ「グリムの法則」が英語史上重要なのか」が公開されました.グリムの法則 (grimms_law) について,本ブログでも繰り返し取り上げてきましたが,今回の連載記事では初心者にもなるべくわかりやすくグリムの法則の音変化を説明し,その知識がいかに英語学習に役立つかを解説しました.
連載記事を読んだ後に,「#103. グリムの法則とは何か」 ([2009-08-08-1]) および「#102. hundred とグリムの法則」 ([2009-08-07-1]) を読んでいただくと,復習になると思います.
連載記事では,グリムの法則の「なぜ」については,専門性が高いため触れていませんが,関心がある方は音声学や歴史言語学の観点から論じた「#650. アルメニア語とグリムの法則」 ([2011-02-06-1]) ,「#794. グリムの法則と歯の隙間」 ([2011-06-30-1]),「#1121. Grimm's Law はなぜ生じたか?」 ([2012-05-22-1]) をご参照ください.
グリムの法則を補完するヴェルネルの法則 (verners_law) については,「#104. hundred とヴェルネルの法則」 ([2009-08-09-1]),「#480. father とヴェルネルの法則」 ([2010-08-20-1]),「#858. Verner's Law と子音の有声化」 ([2011-09-02-1]) をご覧ください.また,両法則を合わせて「第1次ゲルマン子音推移」 (First Germanic Consonant Shift) と呼ぶことは連載記事で触れましたが,では「第2次ゲルマン子音推移」があるのだろうかと気になる方は「#405. Second Germanic Consonant Shift」 ([2010-06-06-1]) と「#416. Second Germanic Consonant Shift はなぜ起こったか」 ([2010-06-17-1]) のをお読みください.英語とドイツ語の子音対応について洞察を得ることができます.
「#1511. 古英語期の sc の口蓋化・歯擦化」 ([2013-06-16-1]) でみたように,ゲルマン語の [sk] は後期古英語期に口蓋化と歯擦化を経て [ʃ] へと変化した.後者は,古英語では scip (ship) のように <sc> という二重字 (digraph) で綴られたが,「#2049. <sh> とその異綴字の歴史」 ([2014-12-06-1]) で説明したとおり,中英語期には新しい二重字 <sh> で綴られるようになった.
ゲルマン諸語の同根語においては [sk] を保っていることが多いので,これらが英語に借用されると,英語本来語とともに二重語 (doublet) を形成することになる.英語本来語の shirt と古ノルド語からの skirt の関係がよく知られているが,標題に挙げた ship, skiff, skip(per) のような三重語ともいうべき関係すら見つけることができる.
「船」を意味する古高地ドイツ語の単語は scif,現代ドイツ語では Schiff である.語末子音 [f] は,第2次ゲルマン子音推移 (sgcs) の結果だ.古高地ドイツ語 sciff は古イタリア語へ schifo として借用され,さらに古フランス語 esquif を経て中英語へ skif として小型軽装帆船を意味する語として入った.これが,現代英語の skiff である.フランス語の equip (艤装する)も関連語だ.
一方,語頭の [sk] を保った中オランダ語の schip に接尾辞が付加した skipper は,小型船の船長を意味する語として中英語に入り,現在に至る.この語形の接尾辞部分が短縮され,結局は skip ともなり得るので,ここでみごとに三重語が完成である.skipper については,「#2645. オランダ語から借用された馴染みのある英単語」 ([2016-07-24-1]) も参照.
なお,語根はギリシア語 skaptein (くり抜く)と共通しており,木をくりぬいて作った丸木船のイメージにつながる.
3月21日付で,英語史連載企画「現代英語を英語史の視点から考える」の第3回の記事「なぜ英語は母音を表記するのが苦手なのか?」が公開されました.今回は,拙著『英語の「なぜ?」に答える はじめての英語史』の第2章「発音と綴字に関する素朴な疑問」で取り上げた話題と関連して,特に「母音の表記の仕方」に注目し,掘り下げて考えています.現代英語の母音(音声)と母音字(綴字)の関係が複雑であることに関して,音韻論や文字史の観点から論じています.この問題の背景には,実に3千年を優に超える歴史物語があるという驚愕の事実を味わってもらえればと思います.
以下に,第3回の記事と関連する本ブログ内の話題へのリンクを張っておきます.合わせてご参照ください.
・ 「#503. 現代英語の綴字は規則的か不規則的か」 ([2010-09-12-1])
・ 「#1024. 現代英語の綴字の不規則性あれこれ」 ([2012-02-15-1])
・ 「#2405. 綴字と発音の乖離 --- 英語綴字の不規則性の種類と歴史的要因の整理」 ([2015-11-27-1])
・ 「#1021. 英語と日本語の音素の種類と数」 ([2012-02-12-1])
・ 「#2515. 母音音素と母音文字素の対応表」 ([2016-03-16-1])
・ 「#1826. ローマ字は母音の長短を直接示すことができない」 ([2014-04-27-1])
・ 「#2092. アルファベットは母音を直接表わすのが苦手」 ([2015-01-18-1])
・ 「#1837. ローマ字とギリシア文字の字形の差異」 ([2014-05-08-1])
・ 「#423. アルファベットの歴史」 ([2010-06-24-1])
・ 「#1849. アルファベットの系統図」 ([2014-05-20-1])
英語は一般に母音連続 (hiatus) を嫌うといわれる.母音連続が起こりそうな場合,それを避けるべく何らかの(半)子音が挿入されることが多い.例えば,前舌高母音が関与するときには [j] が,後舌高母音が関与するときには [w] が渡り音 (glide) として挿入され,seeing [ˈsiːɪŋ] が [ˈsiːjɪŋ] として発音されたり,door [dɔə] が [ˈdɔwə] となったりする.the apple のような場合でも,[ði ˈæpl] に渡り音 [j] が挿入され [ðiˈjæpl] と発音されることが多い(「#906. the の異なる発音」 ([2011-10-20-1]),「#2236. 母音の前の the の発音について再考」 ([2015-06-11-1]) を参照).これらは,調音上自然に現われる渡り音の例である(「#739. glide, prosthesis, epenthesis, paragoge」 ([2011-05-06-1]) を参照).
これ以外にも,純粋に調音的な理由によるものとは考えられず,多少なりとも形態音韻論的な要因も関与しているものとして,an apple のような母音の前位置の不定冠詞にみられる n の挿入(歴史的には n の保持というべき)の例や,the idea(r) is . . . のような r の挿入の例も,英語の母音連続回避策の一環とみることができる(「#831. Why "an apple"?」 ([2011-08-06-1]),「#500. intrusive r」 ([2010-09-09-1]) を参照).
もう1つおもしろい例は,声門閉鎖音 (glottal_stop) [ʔ] の挿入である.声門閉鎖音はともすれば無音と片付けられてしまいそうだが,歴とした子音である.しかし,無音として聞き取られやすいということは,母音間に挿入されて,音の切れ目を標示するのに役立ち得るということでもある.渡り音が流ちょうな発音において母音連続を回避すべく挿入されるのに対して,声門閉鎖音はむしろ丁寧な発音において2つの母音を明確に響かせたい場合に挿入されることが多い.以下の語句は,丁寧な発音における声門閉鎖音の挿入の例である(藤原,p. 35).
・ co-operate [cəʊˈʔɒpəreɪt]
・ geometry [ðɪˈʔɒmətrɪ]
・ reaction [rɪˈʔækʃn]
・ day after day [ˈdeɪ ʔɑːftə ˈdeɪ]
・ law and order [ˈlɔː ʔənd ˈɔːdə]
・ better off [ˌbetə ˈʔɒf]
一見,母音のあいだに「間」を置く戦略のように思えるが,これも [j], [w], [n], [r] の挿入と同じ,立派な「子音」の挿入である.
母音連続回避の問題と関連して,「#830. sandhi」 ([2011-08-05-1]) も参照.
・ 藤原 保明 『言葉をさかのぼる 歴史に閉ざされた英語と日本語の世界』 開拓社,2010年.
昨日の記事「#2809. 英語の音位転換は直接隣り合う2音に限られる」 ([2017-01-04-1]) の後半で,日本語の音位転換 (metathesis) では,母音を挟んで2つの子音が交替することに言及した.実は,これは驚くべき事実である.日本語では,仮名書きすると「ぶんぶくちゃがま」と「ぶんぶくちゃまが」のように,「が」と「ま」がひっくり返っているように見えるので,仮名単位あるいはモーラ単位での交替と記述すればスマートのように思われる.「あらた」と「あたら」,「つごもり」と「つもごり」,「したづつみ」と「したつづみ」でも,2モーラの位置が入れ替わっているとみなすのが単純である.
しかし,幼児の言い間違えの例として「てがみ」と「てまぎ」,「めがね」と「めなげ」,「たまご」と「たがも」,「おまけ」と「おかめ」などの例を考えると,文字やモーラの入れ替えとして説明することはできない.ローマ字書きすれば明らかだが,karada と kadara,tegami と temagi,megane と menage,tamago と tagamo,omake と okame のように,問題の2モーラについて母音は据え置かれるが,子音が入れ替わっていると考えられる.前段落に挙げた「あらた」と「あたら」などの例では,たまたま2モーラの母音が同一なので,生じている音位転換はモーラ単位での入れ替えと見えるが,実際にはここでも子音が入れ替わっているものと考えておくほうが,理論的一貫性が保てる.「さざんか」 (sazaNka) と「さんざか」 (saNzaka) のように,モーラ単位で考える必要がある例も見受けられるものの,概ね上記の記述は有効だろう.
その他,様々な例を勘案すると,日本語の音位転換は「3音節以上の語で,2音節以降の隣接する音節間で生じる」ものであり,かつ原則として「子音だけが入れ替わる」ものであることが分かる(藤原,p. 6--7, 9).以上のことは,藤原 (9) が論じたことであり,驚きをもって次のように評している.
日本語はモーラ言語であり,仮名は音節文字である.それゆえ,子音+母音は緊密に結合した単位として,音位転換の場合にも両音が分離することはないと思われるが,実際にはこの結束は破られ,子音だけが入れ替わる.この事実は分析を行った筆者にとっても大きな驚きであった.
英語と日本語以外のさまざまな言語の音位転換の例を分析して,個々の言語における原則を引き出し,音節構造と音位転換との関係を調べると,興味深い事実が発掘できそうである.
・ 藤原 保明 『言葉をさかのぼる 歴史に閉ざされた英語と日本語の世界』 開拓社,2010年.
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