偶然(及びその対立項としての必然)とは何か,という問いは哲学上の問題だが,言語変化の原因を探る際にも避けて通るわけにはいかない.統計学者・確率論者である竹内による「偶然」に関する新書を読んでみた.
竹内は,「偶然の必然的産物」 (139) という表現に要約されているように,偶然と必然は対立する概念というよりは,むしろ組み合わさって現象を生じさせる連続的な動因であると考えている.例えば,生物進化について「突然変異の起こり方には方向性はないが,自然選択の圧力のもとで,その積み重ねには方向性が生じ」ると述べている (138) .突然変異自体はあくまで「偶然」だが,その偶然を体現したものが何だったのかによって,次の一歩の選択肢が狭まり,ある特定の選択肢が選ばれる確率が高まる.そのように何歩か進んでいくうちに,最終的には選択肢が1つに絞られ,確率が1,すなわち「必然」となる.完全なる「偶然」から出発しながらも,徐々に「方向」が絞られ,ついには「必然」へと連なる,というわけだ.
ある壺に白玉と黒玉を入れる2つの試行を考えてみよう.まず,第1の試行.壺には同数の白玉と黒玉が入っているとする.そこから無作為に1つを取り出し,白玉か黒玉かを記録し,壺に戻す,ということを繰り返す.いずれかの玉が出る確率は,大数の法則により1/2となることは自明である.では次に第2の試行.ここでは,無作為に1つ取り出した後に,それと同じ色のもう1つの玉を加えて壺に戻すということを繰り返してみる.最初の取り出しでいずれの色が出るかの確率は1/2だが,例えばたまたま白玉が出たとして,それを壺に戻す際には,もう1つの白玉も加えた上で戻すので,次の取り出しに際しての確率の計算式は,少しく白玉が有利な式へと変わるだろう.その若干の有利さゆえに実際に次の回に白玉が出たとすると,その次の回にはさらに白玉が有利となるだろう.回を重ねるごとに白玉の有利さは増し,最終的には白玉を取り出す確率は限りなく1に近づいていくはずである.最初は偶然だったものが,最後にはほぼ必然となってしまう例である.
2つの試行から,偶然の蓄積される方法に2種類あることが分かる.1つ目ではいつまでたっても1/2という確率は変わらず,むしろ偶然が純化されていくかのようだ.言い換えれば,エントロピーの増大,あるいは情報量の減少である.一方,2つ目は,最初の偶然により徐々にある方向に偏っていき,最終的に必然に近づいていく.これは,エントロピーの減少,あるいは情報量の増大といえるだろう.竹内 (74) は,次のように述べている.
宇宙のいろいろな局面において,「エントロピー増大の法則」と「情報量増大の法則」がともに働いていると思う.つまり,宇宙には必然性の枠に入らない偶然性というものが存在し,そうして偶然性には大数の法則を成り立たせるような,極限において完全な一様性をもたらす性質のものと,累積することによって情報として働き,一定の環境の下で新たな秩序を作り出すようなものとの二種類がある.前者の偶然性はエントロピーの増大をもたらすが,後者は情報量の増大をもたらすのである.より詳しくいえば,偶然に作り出された新しい秩序が情報システムによって捉えられることによって,安定し維持されることになるのである.
ある現象が偶然でもあり必然でもあるというのは一見すると矛盾しているが,このように考えれば調和する.この見方は,言語変化論にも多くの示唆を与えてくれる.例えば,言語変化の方向性に関する議論に,unidirectionality の問題や invisible_hand や spaghetti_junction と呼ばれる仮説がある(「#2531. 言語変化の "spaghetti junction"」 ([2016-04-01-1]),「#2533. 言語変化の "spaghetti junction" (2)」 ([2016-04-03-1]),「#2539. 「見えざる手」による言語変化の説明」 ([2016-04-09-1]) などを参照).また,言語におけるエントロピーの問題については entropy の各記事で扱ってきたので,そちらも参照.
・ 竹内 啓 『偶然とは何か――その積極的意味』 岩波書店〈岩波新書〉,2010年.
言語進化論や言語起源論は,しばしば進化生物学の仮説を参照する.言語の分化を説明するモデルとして生物の種分化に関するモデルが参考とされるが,後者では2種類の対立する仮説が立てられている.断続平衡説 (punctuated_equilibrium) と系統漸進説 (phyletic gradualism) である.バーナード・ウッドの人類進化の概説書より,種分化に関する解説を引用する (60--61).
ある研究者は,新しい種の誕生は集団全体がゆっくり変化することと考える.この解釈は「系統漸進説 (phyletic gradualism)」とよばれ,種分化は「アナゲネシス,漸進進化 (anagenesis)」によって起こると見なされる.ほかの研究者は,新しい種の誕生は地理的に隔離された一部の集団が急速に変化することと考える.この解釈は「断続平衡説 (punctuated equilibrium)」とよばれ,急速な変化と変化の間の期間には,特定の方向への変化は起こらず,無方向的な散歩(ふらつき (random walk))しか起こらないと見なされる.断続平衡説における種形成は「分岐進化 (cladogenesis)」とよばれ,種形成と種形成との間の形態的に安定した期間は停滞期 (stasis) と考える.ほぼすべての研究者は,進化における形態変化は種分化のときに起こると認識している.
これを図示すると,以下のようになる(ウッド,p. 61 を参考に).
いずれのモデルにおいても,種の誕生や分化がとりわけ盛んな時期があると想定されている.これは適応放散 (adaptative radiation) と呼ばれ,新環境が生じたときに起こることが多いとされる.
生物進化の比喩がどこまで言語進化に通用するものなのか,議論の余地はあるが,比較対照すると興味深い.関連して,「#807. 言語系統図と生物系統図の類似点と相違点」 ([2011-07-13-1]) も参照.とりわけ,言語の起源,進化,変化速度に関する断続平衡説の応用については,「#1397. 断続平衡モデル」 ([2013-02-22-1]),「#1749. 初期言語の進化と伝播のスピード」 ([2014-02-09-1]),「#1755. 初期言語の進化と伝播のスピード (2)」 ([2014-02-15-1]),「#2641. 言語変化の速度について再考」 ([2016-07-20-1]) を参照されたい.
・ バーナード・ウッド(著),馬場 悠男(訳) 『人類の進化――拡散と絶滅の歴史を探る』 丸善出版,2014年.
2月6日の読売新聞朝刊のコーナー「翻訳語事情」に,generation の訳語としての「世代」について,解説があった.本来,「世代」という漢語は「年代」「時代」「代々」「世々代々」ほどの意味で使われていたが,明治後半の教科書などで生物学用語として遺伝的な意味での「世代」が広まっていったという.さらに,19--20世紀にドイツ人文学から「歴史的体験を共有する同年齢層の集団」を意味する用法が哲学,社会学,芸術,文学などにおいて広がった.とりわけカール・マンハイム (1893--1947) が社会学的見地から「世代」を考察したことで,その潮流を受けた日本においても,現代的な意味での「世代」が定着するようになった.
生物学的な「世代」と社会学的な「世代」とでは,形としては同じ単語であっても,大きな意味の差がある.前者は順に交替していくという意味での段階性を表わすのに対して,後者は同年齢層集団としての継続性が含意される.例えば「団塊の世代」の価値観は,時とともに構成員の年齢は上がっていくものの,それ自体は変化しないという点で継続性があるといえる.
しかし,解説者の斎藤希史氏によれば,両方の意味において共通しているのは,「世代という語には,世の中を輪切りにして,断絶を意識させる傾向がある」ということだ.だが,冒頭に述べた原義にたち帰れば,「世々代々」とは「世を重ねて未来へ続いていくイメージ」があった.つまり,「世代」と聞いて喚起するイメージは,「世代交替」よりは「世代間交流」のほうに近かった可能性がある.
「世代」に対する2つのイメージの差は,言語変化を考察するに当たっても示唆的である,生成文法の立場からは,言語変化とは文法変化のことであり,そこでは「世代交代」の発想が原則である.しかし,社会言語学的な立場から見れば,言語変化のイメージは「世代間交流」のほうに近いだろう.年上話者層と年下話者層では,確かに言葉遣いの平均値は異なっているだろうが,個々の話者を見れば,年下の言葉遣いの影響を受ける年上の人もいれば,その逆のケースもある.両話者層は,生まれた年代は異なるものの,現在を含むある幅の期間,(言語)生活を共有しているのだから,その共有の程度に応じて,多少なりとも存在している言語上の格差は薄められるだろう.言語変化は,世代交替によりカクカクと進んでいく側面もあるかもしれないが,世代間交流によりあくまで緩やかに進んでいくという部分が大きいのではないか.
Bloomfield の言語変化における「世代」の認識も,「#1352. コミュニケーション密度と通時態」 ([2013-01-08-1]) で見たように,「世代間交流」の発想に近かったように思われる.
ヒトの発音器官が二次的な派生物であることについて,「#544. ヒトの発音器官の進化と前適応理論」 ([2010-10-23-1]) でみた.この結果としてヒトの言語は様々な特徴,あるいは制限をもつに至ったと思われるが,音声変化や,さらには言語変化の普遍性も,ヒトの発音器官の生理的な特質と関連しているという見方がある.三輪 (15) は,マルティネの見解を次のように紹介している.
言語は常に均整のとれた体系へと変化する.しかし,人間の発音器官は,発音を第一次機能としてもつのではない.口,歯,舌,唇は食べ物を摂取し,咀嚼し,飲み込むためにできており,発音器官は,消化機能の上に,いわば,副次的機能としてあるにすぎない.したがって,口の中の器官は,食べ物の消化には都合よくできていても,発音に必ずしも都合よくできていない.発音器官としてみると不均衡にできており,均衡のとれた体系を目指す言語体系,特に母音・子音の体系とそれを実現に移す発音器官とは整合していない.そのことが普遍的な言語変化の要因であり,実際にしばしば発音の変化,言語の変化の原因となる.
調音音声学や生理学の視点に立てば,例えば母音をみれば分かるように,前舌系列と後舌系列は非対称的で不均衡である.「#19. 母音四辺形」 ([2009-05-17-1]) や「#118. 母音四辺形ならぬ母音六面体」 ([2009-08-23-1]) の図をみれば,口腔を横からみたときに,正方形や長方形ではなく台形(それすらも理想的な図示)である.ところが,音韻論的にいえば,例えば日本語のような5母音体系において,/i, e, a, o, u/ の各音素は左右対称の優美な三角形(あるいはV字形)の辺の上に配置されるのが普通である.理想は対称的,しかし現実は非対称的,という構図がここにある.
上の引用で主張されていることは,この理想と現実のズレこそが現実を変化させる原動力である,という説だ.この「理想」には,言語は対立の体系であるとするソシュール以来の構造主義的な言語観が色濃く反映されている.
・ 三輪 伸春 『ソシュールとサピアの言語思想 現代言語学を理解するために』 開拓社,2014年.
アメリカ英語について古風な性質や保守性がしばしば指摘されるが,それはどこまで真実なのか.この問題について,「#1266. アメリカ英語に "colonial lag" はあるか (1)」 ([2012-10-14-1]),「#1267. アメリカ英語に "colonial lag" はあるか (2)」 ([2012-10-15-1]),「#1268. アメリカ英語に "colonial lag" はあるか (3)」 ([2012-10-16-1]),「#1304. アメリカ英語の「保守性」」 ([2012-11-21-1]),「#1738. 「アメリカ南部山中で話されるエリザベス朝の英語」の神話」 ([2014-01-29-1]) などの記事で考えてきた.
英語史の古典的名著を著わした Baugh and Cable (350) も,colonial_lag という用語こそ用いていないが,アメリカ英語に見られるこの特徴について論じている.「接ぎ木」の比喩がおもしろい.
. . . it has often been maintained that transplanting a language results in a sort of arrested development. The process has been compared to the transplanting of a tree. A certain time is required for the tree to take root, and growth is temporarily retarded. In language, this slower development is often regarded as a form of conservatism, and it is assumed as a general principle that the language of a new country is more conservative than the same language when it remains in the old habitat. In this theory there is doubtless an element of truth. . . . And it is a well-recognized fact in cultural history that isolated communities tend to preserve old customs and beliefs. To the extent, then, that new countries into which a language is carried are cut off from contact with the old, we may find them more tenacious of old habits of speech.
孤立した地域に古風な言語項が保存されるということは直観的にも理解できるだろう.実際に,「#430. 言語変化を阻害する要因」 ([2010-07-01-1]) で孤立したアイスランドの言語の例や,日本やヨーロッパからは,「#1045. 柳田国男の方言周圏論」 ([2012-03-07-1]) や「#1000. 古語は辺境に残る」 ([2012-01-22-1]) で取り上げた例に示される通りである.アメリカ植民においても,特に初期には新しい集落が互いに孤立してポツポツと点在していたのであり,そこでイギリス本国から持ち込まれた語法が変化せず,末永く保たれることになった,ということは十分にありそうである.
しかし Baugh and Cable は,この後,しばしば言われる「アメリカ英語の保守性」は無批判に受け入れることはできないだろうと慎重に議論を展開している.その議論は,至極まっとうである.アメリカ英語には "colonial lag" として説明できそうな古風な表現が多くあることは認めるにせよ,言語的革新もまた多く生じてきたのであり,一言で「古風」「保守的」と特徴づけて終わらせることはできない.
やはり "colonial lag" は多分に相対的な概念だと思う.ところで,なぜ「植民地の遅れ」と表現し「宗主国の進み」とは表現しないのだろうか.
・ Baugh, Albert C. and Thomas Cable. A History of the English Language. 6th ed. London: Routledge, 2013.
Language trends run in mysterious 14-year cycles と題する記事をみつけた.非常におもしろい. *
Marcelo Montemurro と Damián Zanette による調査結果である.2人は「#607. Google Books Ngram Viewer」 ([2010-12-25-1]) とコンピュータ・プログラムを用いて,1700年から2008年の間の常用される名詞の "popularity" の推移を探った.すると,14年周期で英単語の "popularity" が上がっては下がるということが繰り返されていることが分かったという.意味的に関連する語群は盛衰をともにするというパターンも見つかっているし,英語に限らずフランス語,ドイツ語,イタリア語,ロシア語,スペイン語などの言語でも似たような周期が確認されるというから驚きだ.
では,なぜこのような周期があり,そしてなぜ14年前後という間隔なのか.いくつかの語については,政治を含めた社会的な変化との連動の可能性が指摘されうるが,一般論として,なぜこのような周期があるのかは不明である.もちろん,この周期が無作為変動の誤差の範囲にとどまっているのではないかという疑念は残っており,さらなる調査が必要ではあろう.しかし,もし何らかの要因があるとすれば,それはいったい何なのか.研究者の1人は "an obvious cultural connection" は見られないとしている.
人間行動の反復性,流行の周期,言語行動の慣れや飽き,などの問題と関わるのだろうか.いずれにせよ,非常に不思議で,興味をそそる現象である.
Swadesh の言語年代学 (glottochronology) によれば,普遍的な概念を表わし,個別文化にほぼ依存しないと考えられる基礎語彙は,時間とともに一定の比率で置き換えられていくという.ここで念頭に置かれているのは,第一に話し言葉の現象であり,書き言葉は前提とされていない.ということは,読み書き能力 (literacy) はこの「一定の比率」に特別な影響を及ぼさない,ということが含意されていることになる.しかし,直観的には,読み書き能力と書き言葉の伝統は言語に対して保守的に作用し,長期にわたる語彙の保存などにも貢献するのではないかとも疑われる.
Zengel はこのような問題意識から,ヨーロッパ史で2千年以上にわたり継承されたローマ法の文献から法律語彙を拾い出し,それらの保持率を調査した.調査した法律文典のなかで最も古いものは,紀元前450年の The Twelve Tables である.次に,千年の間をおいて紀元533年の Justinian I による The Institutes.最後に,さらに千年以上の時間を経て1621年にフランスで出版された The Custom of Brittany である.この調査において,語彙同定の基準は語幹レベルでの一致であり,形態的な変形などは考慮されていない.最初の約千年を "First interval",次の約千年を "Second interval" としてラテン語法律語彙の保持率を計測したところ,次のような数値が得られた (Zengel 137) .
Number of items | Items retained | Rate of retention | |
---|---|---|---|
First interval | 68 | 58 | 85.1% |
Second interval | 58 | 46 | 80.5% |
Some new factor must be recognized to account for the astonishing stability disclosed in this study . . . . Since these materials have been selected within an area where total literacy is a primary and integral necessity in the communicative process, it seems reasonable to conclude that it is to be reckoned with in language change through time and may be expected to retard the rate of vocabulary change.
なるほど,Zengel はラテン語の法律語彙という事例により,語彙保持に対する読み書き能力の影響を実証しようと試みたわけではある.しかし,出された結論は,ある意味で直観的,常識的にとどまる既定の結論といえなくもない.Swadesh によれば個別文化に依存する語彙は保持率が比較的低いはずであり,法律用語はすぐれて文化的な語彙と考えられるから,ますます保持率は低いはずだ.ところが,今回の事例ではむしろ保持率は高かった.これは,語彙がたとえ高度に文化的であっても,それが長期にわたる制度と結びついたものであれば,それに応じて語彙も長く保たれる,という自明の現象を表わしているにすぎないのではないか.この場合,驚くべきは,語彙の保持率ではなく,2千年にわたって制度として機能してきたローマ法の継続力なのではないか.法律用語のほか,宗教用語や科学用語など,当面のあいだ不変と考えられる価値などを表現する語彙は,その価値が存続するあいだ,やはり存続するものではないだろうか.もちろん,このような種類の語彙は,読み書き能力や書き言葉と密接に結びついていることが多いので,それもおおいに関与しているだろうことは容易に想像される.まったく驚くべき結論ではない.
言語変化の速度 (speed_of_change) について,今回の話題と関連して「#430. 言語変化を阻害する要因」 ([2010-07-01-1]),「#753. なぜ宗教の言語は古めかしいか」 ([2011-05-20-1]),「#2417. 文字の保守性と秘匿性」 ([2015-12-09-1]),「#795. インターネット時代は言語変化の回転率の最も速い時代」 ([2011-07-01-1]),「#1874. 高頻度語の語義の保守性」 ([2014-06-14-1]),「#2641. 言語変化の速度について再考」 ([2016-07-20-1]),「#2670. 書き言葉の保守性について」 ([2016-08-18-1]) なども参照されたい.
・ Zengel, Marjorie S. "Literacy as a Factor in Language Change." American Anthropologist 64 (1962): 132--39.
Esperanto に代表される人工言語 (artificial_language) が,主流派の言語学において真剣に議論されることはほとんどない.それもそのはずである.近代言語学の関心は,自然言語の特徴の体系(Saussure の "langue" あるいは Chomsky の "competence")を明らかにすることにあり,人為的にでっちあげた言語にそれを求めることはできないからだ.言語変化研究の立場からも,人工言語は少なくとも造り出された当初には母語話者もいないし,自然言語に通常みられるはずの言語変化にも乏しいと想像されるため,まともに扱うべき理由がない,と一蹴される.
しかし,主に社会言語学的な観点から言語変化を論じた Johns and Singh は,その著書の1章を割いて Language invention に関して論考している.その理由に耳を傾けよう.
We have . . . included select discussion of such [invented] systems here primarily because invention constitutes part of the natural and normal spectrum of human linguistic ability and behaviour and, as such, merits acknowledgement in our general discussion of language use and language change. At the most obvious level, linguistic inventions are, despite their tag of artificiality, ultimately products of the human linguistic competence and, indeed, creativity, that produces their natural counterparts. In many cases, they are also often born of the arguably human impulse to influence and change linguistic behaviour, an impulse which . . . fundamentally underlies strategies of natural language planning. Thus . . . languages may be invented to reflect particular world views, promote and foster solidarity among certain groups or even potentially for the purpose of preserving natural linguistic obsolescence as a result of the domination of one particular language. It is in such real-life purposes that our interest in linguistic invention lies . . . .
引用中には言語能力への言及もあるが,主として社会言語学的な関心による問題意識といってよいだろう.人工言語の発明,使用,体系を観察し,その動機づけを考察することで,人々が言語というものに何を求めているのか,自然言語のどの部分に問題を感じているのか,なぜ言語(行動)を変えようとするものなのか,という一般的な言語問題に対するヒントが得られるかもしれない,というわけだ.言語変化研究との関連では,なぜ言語計画や言語政策といった人為的な言語変化が試みられてきたのか,という問題にもつながる.つまるところ,人工言語の話題は,言語の機能とは何か,なぜ人々は言語を変化・変異させるのかという究極の問題について考察する際に,1つの材料を貢献できるということだ.言語変化研究にも資するところありだろう.
Jones and Singh (182) は,その章末で "as a linguistic exercise, the processes of invention, as well as its concomitant problems and issues, have the potential to complement our general understanding of how human language functions as successfully as it does" と言及している.一見遠回りのように思われる(し実際に遠回りかもしれない)が,周辺的な話題から始めて中核的な疑問に迫ってゆく手順がおもしろい.関連して「#963. 英語史と人工言語」 ([2011-12-16-1]) も参照されたい.
ほかに,人工言語の話題としては「#958. 19世紀後半から続々と出現した人工言語」 ([2011-12-11-1]),「#959. 理想的な国際人工言語が備えるべき条件」 ([2011-12-12-1]),「#961. 人工言語の抱える問題」 ([2011-12-14-1]) も参照.
・ Jones, Mari C. and Ishtla Singh. Exploring Language Change. Abingdon: Routledge, 2005.
現在,世界中に様々な英語変種 (world_englishes) が分布している.各々の言語特徴は独特であり,互いの異なり方も多種多様で,「英語」として一括りにしようとしても難しいほどだ.標準的なイギリス英語とアメリカ英語どうしを比べても,言語項によってその違いが何によるものなのかを同定するのは,たやすくない(「#627. 2変種間の通時比較によって得られる言語的差異の類型論」 ([2011-01-14-1]),「#628. 2変種間の通時比較によって得られる言語的差異の類型論 (2)」 ([2011-01-15-1]) を参照).
Tagliamonte は,世界の英語変種間の関係をつなぎ合わせるミッシング・リンクは,イギリス諸島の周辺部の諸変種とその歴史にあると主張し,序章 (p. 3) で次のように述べている.
It is fascinating to consider why the many varieties of English around the world are so different. Part of the answer to this question is their varying local circumstances, the other languages that they have come into contact with and the unique cultures and ecologies in which they subsequently evolved. However, another is the historically embedded explanation that comes from tracing their roots back to their origins in the British Isles. Indeed, leading scholars have argued that the study of British dialects is critical to disentangling the history and development of varieties of English everywhere in the world . . . .
Tagliamonte が言わんとしていることは,例えば次のようなことだろう.イギリスの主流派変種とアメリカの主流派変種を並べて互いの言語的差異を取り出し,それを各変種の歴史の知識により説明しようとしても,すべてを説明しきれるわけではない.しかし,視点を変えてイギリスあるいはアメリカの非主流派変種もいくつか含めて横並びに整理し,その歴史の知識とともに言語的異同を取れば,互いの変種を結びつけるミッシング・リンクが補われる可能性がある.例えば,現在のロンドンの英語をいくら探しても見つからないヒントが,スコットランドの英語とその歴史を視野に入れれば見つかることもあるのではないか.
Tagliamonte が上で述べているのは,この希望である.この希望をもって,方言の歴史を比較しあう方法論として "comparative sociolinguistics" を提案しているのだ.この「比較社会言語学」に,元祖の比較言語学 (comparative_linguistics) のもつ学術的厳密さを求めることはほぼ不可能といってよいが,1つの野心的な提案として歓迎したい.英語の英米差のような主要な話題ばかりでなく,ピジン英語,クレオール英語,AAVE など世界中の変種の問題にも明るい光を投げかけてくれるだろう.
本書の最後で,Tagliamonte (213) は英語方言史を称揚し,その明るい未来を謳い上げている.
Dialects are a tremendous resource for understanding the grammatical mechanisms of linguistic change. Dialects are also the storehouse of the heart and soul of culture, history and identity. Delving deep into the nuts and bolts of language, deeper than words and phrases and expressions, down into the grammar, we discover a treasure trove. Beneath the anecdotes and nonce tales are hidden patterns and constraints that are a system unto themselves, reflecting the legacy of regional factions, social groups and human relationships. As language evolves through history, its inner mechanisms are evolving, but not in the same way in every place nor at the same rate in all circumstances --- it will always mirror its own ecology.
・ Tagliamonte, Sali A. Roots of English: Exploring the History of Dialects. Cambridge: CUP, 2013.
政治的に公正な言語改革 ("politically correct" language reform) は,1970年代以降,英語の世界で様々な議論を呼び,実際に人々の言葉遣いを変えてきた.その過程で "political_correctness" という表現に手垢がついてきて,21世紀に入ってからは,かぎ括弧つきで表わさないと誤解されるほどまでになってきている."PC" という用語は意味の悪化 (semantic pejoration) を経たということであり,当初の言語改革への努力を指示するものとしてではなく,あまりに神経質で無用な言葉遣いを指すものとしてとらえられるようになってしまった.代わりの用語としては,性の問題に関する限り,"nonsexist language reform" という表現を用いておくのが妥当かもしれない.
"PC" が嘲りの対象にまで矮小化されたのは,多くの人々がその改革の「公正さ」に胡散臭さを感じたためであり,その検閲官風の態度に自由を脅かされる危機感を感じたためだろう.Curzan (114) は,現在PC言語改革が低く評価されていることに関して,その背景を次のように指摘している.
Politically correct language and the efforts to promote it are regularly ridiculed in the public arena. Fabricated language reforms such as personhole cover for manhole cover and vertically challenged for short are held up as symptomatic of the movement's excesses. I call these fabricated because I have never actually heard any advocate of nonsexist language reform seriously propose personhole cover or anyone proposing any kind of language reform make a serious case for vertically challenged. Yet they can show up side by side with more common, even at this point mainstream reforms such as Native American for Indian, African American for Black. If Urban Dictionary provides a snapshot of attitudes about the term political correctness, the term's negative connotations have gone beyond silly and unnecessary and now include manipulative, harmful, and silencing. The first definition in Urban Dictionary in Fall 2012 (which means it had the best ratio of thumbs up to thumbs down) read: "Organized Orwellian intolerance and stupidity, disguised as compassionate liberalism." It goes on to note: "Political correctness is most well known as an institutional excuse for the harassment and exclusion of people with differing political views." Subsequent definitions link politically correct language to censorship and "the death of comedy."
PC言語改革の高まりによって言葉遣いに関して何が変わったかといえば,新たな語句が生まれたということ以上に,個人がそのような言葉遣いを選ぶという行為そのものに政治的色彩がにじまざるを得なくなったということが挙げられる.一々の言語使用において,PC term と non-PC term の選択肢のいずれを採用するかという圧力を感じざるを得ない状況になってしまった.個人は中立を示す方法を失ってしまったといってもよい.Curzan (115) 曰く,"Politically correct language efforts force speakers to confront the fact that words are not neutral conveyors of intended meaning; words in and of themselves carry information about speaker attitudes and much more. Politically correct language asks speakers to use care in avoiding bias in their language choices and to respect the preferences of underrepresented groups in terms of the language used to refer to them."
以上の経緯でPC言語改革の社会的な評価が下がってきたのは事実だが,言語変化,あるいは言語使用の変化という観点からいえば,きわめて人為的な変化にもかかわらず,この数十年のあいだに著しい成功を収めてきた稀な事例といえる.一般に,正書法の改革や語彙の改革など言語に関する意図的な介入が成功する例は,きわめて稀である.数少ない成功例では,およそ人々の間に改革を支持する雰囲気が醸成されている.それを権力側が何らかの形でバックアップしたり追随することで,改革が進んでいくのである.非性差別的言語改革は,少なくとも公的な書き言葉というレジスターにおいて部分的ではあるといえ奏功し,非常に短い期間で人々の言葉遣いを変えてきた.このこと自体は,目を見張る結果と評価してもよいのかもしれない.Curzan (116) もこの速度について,"The speed with which some politically responsive language efforts have changed Modern English usage is remarkable." と評価している.
・ Curzan, Anne. Fixing English: Prescriptivism and Language History. Cambridge: CUP, 2014.
連日 Hockett の歴史言語学用語に関する論文を引用・参照しているが,今回も同じ論文から変化の種類 (kinds) と仕組み (mechanism) の区別について Hockett の見解を要約したい.
具体的な言語変化の事例として,[f] と [v] の対立の音素化を取り上げよう.古英語では両音は1つの音素 /f/ の異音にすぎなかったが,中英語では語頭などに [v] をもつフランス単語の借用などを通じて /f/ と /v/ が音素としての対立を示すようになった.
この変化について,どのように生じたかという具体的な過程には一切触れずに,その前後の事実を比べれば,これは「音韻の変化」であると表現できる.形態の変化でもなければ,統語の変化や語彙の変化でもなく,音韻の変化であるといえる.これは,変化の種類 (kind) についての言明といえるだろう.音韻,形態,統語,語彙などの部門を区別する1つの言語理論に基づいた種類分けであるから,この言明は理論に依存する営みといってよい.前提とする理論が変われば,それに応じて変化の種類分けも変わることになる.
一方,言語変化の仕組み (mechanism) とは,[v] の音素化の例でいえば,具体的にどのような過程が生じて,異音 [v] が /f/ と対立する /v/ の音素の地位を得たのかという過程の詳細のことである.ノルマン征服が起こって,英語が [v] を語頭などにもつフランス単語と接触し,それを取り入れるに及んで,語頭に [f] をもつ語との最小対が成立し,[v] の音素化が成立した云々ということである(この音素化の実際の詳細については,「#1222. フランス語が英語の音素に与えた小さな影響」 ([2012-08-31-1]),「#2219. vane, vat, vixen」 ([2015-05-25-1]) などの記事を参照).仕組みにも様々なものが区別されるが,例えば音変化 (sound change),類推 (analogy),借用 (borrowing) の3つの区別を設定するとき,今回のケースで主として関与している仕組みは,借用となるだろう.いくつの仕組みを設定するかについても理論的に多様な立場がありうるので,こちらも理論依存の営みではある.
言語変化の種類と仕組みを区別すべきであるという Hockett の主張は,言語変化のビフォーとアフターの2端点の関係を種類へ分類することと,2端点の間で作用したメカニズムを明らかにすることとが,異なる営みであるということだ.各々の営みについて一組の概念や用語のセットが完備されているべきであり,2つのものを混同してはならない.Hockett (72) 曰く,
My last terminological recommendation, then, is that any individual scholar who has occasion to talk about historical linguistics, be it in an elementary class or textbook or in a more advanced class or book about some specific language, distinguish clearly between kinds and mechanisms. We must allow for differences of opinion as to how many kinds there are, and as to how many mechanisms there are---this is an issue which will work itself out in the future. But we can at least insist on the main point made here.
関連して,Hockett (73) は,言語変化の仕組み (mechanism) と原因 (cause) という用語についても,注意を喚起している.
'Mechanism' and 'cause' should not be confused. The term 'cause' is perhaps best used of specific sequences of historical events; a mechanism is then, so to speak, a kind of cause. One might wish to say that the 'cause' of the phonologization of the voiced-voiceless opposition for English spirants was the Norman invasion, or the failure of the British to repel it, or the drives which led the Normans to invade, or the like. We can speak with some sureness about the mechanism called borrowing; discussion of causes is fraught with peril.
Hockett の議論は,言語変化の what (= kind) と how (= mechanism) と why (= cause) の用語遣いについて改めて考えさせてくれる機会となった.
・ Hockett, Charles F. "The Terminology of Historical Linguistics." Studies in Linguistics 12.3--4 (1957): 57--73.
昨日の記事「#2640. 英語史の時代区分が招く誤解」 ([2016-07-19-1]) で,言語変化は常におよそ一定の速度で変化し続けるという Hockett の前提を見た.言語変化の速度という問題については長らく関心を抱いており,本ブログでも speed_of_change, , lexical_diffusion などの多くの記事で一般的,個別的に取り上げてきた.
多くの英語史研究者は,しばしば言語変化の速度には相対的に激しい時期と緩やかな時期があることを前提としてきた.例えば,「#795. インターネット時代は言語変化の回転率の最も速い時代」 ([2011-07-01-1]),「#386. 現代英語に起こっている変化は大きいか小さいか」 ([2010-05-18-1]) の記事で紹介したように,現代は変化速度の著しい時期とみなされることが多い.また,言語変化の単位や言語項の種類によって変化速度が一般的に速かったり遅かったりするということも,「#621. 文法変化の進行の円滑さと速度」 ([2011-01-08-1]),「#1406. 束となって急速に生じる文法変化」 ([2013-03-03-1]) などで前提とされている.さらに,語彙拡散の理論では,変化の段階に応じて拡散の緩急が切り替わることが前提とされている.このように見てくると,言語変化の研究においては,言語変化の速度は,原則として一定ではなく,むしろ変化するものだという理解が広く行き渡っているように思われる.この点では,Hockett のような立場は分が悪い.Hockett (63) の言い分は次の通りである.
Since we find it almost impossible to measure the rate of linguistic change with any accuracy, obviously we cannot flatly assert that it is constant; if, in fact, it is variable, then one can identify relatively slow change with stability, and relatively rapid change with transition. I think we can with confidence assert that the variation in rate cannot be very large. For this belief there is descriptive evidence. Currently we are obtaining dozens of reports of language all over the world, based on direct observation. If there were any really sharp dichotomy between 'stability' and 'transition', then our field reports would reveal the fact: they would fall into two fairly distinct types. Such is not the case, so that contrapositively the assumption is shown to be false.
Hockett (58) は別の箇所でも,言語変化の速度を測ることについて懐疑的な態度を表明している.
Can we speak, with any precision at all, about the rate of linguistic change? I think that precision and significance of judgments or measurements in this connection are related as inverse functions. We can be precise by being superficial, say in measuring the rate of replacement in basic vocabulary; but when we turn to deeper aspects of language design, the most we can at present hope for is to attain some rough 'feel' for rate of change.
Hockett の言い分をまとめれば,こうだろう.語彙や音声や文法などに関する個別の言語変化については,ある単位を基準に具体的に変化の速度を計測する手段が用意されており,実際に計測してみれば相対的に急な時期,緩やかな時期を区別することができるかもしれない.しかし,言語体系が全体として変化する速度という一般的な問題になると,正確にそれを計測する手段はないといってよく,結局のところ不可知というほかない.何となれば,反対の証拠がない以上,変化速度はおよそ一定であるという仮説を受け入れておくのが無難だろう.
確かに,個別の言語変化という局所的な問題について考える場合と,言語体系としての変化という全体的な問題の場合には,同じ「速度」の話題とはいえ,異なる扱いが必要になってくるだろう.関連して「#1551. 語彙拡散のS字曲線への批判」 ([2013-07-26-1]),「#1569. 語彙拡散のS字曲線への批判 (2)」 ([2013-08-13-1]) も参照されたい.
上に述べた言語体系としての変化という一般的な問題よりも,さらに一般的なレベルにある言語進化の速度については,さらに異なる議論が必要となるかもしれない.この話題については,「#1397. 断続平衡モデル」 ([2013-02-22-1]),「#1749. 初期言語の進化と伝播のスピード」 ([2014-02-09-1]),「#1755. 初期言語の進化と伝播のスピード (2)」 ([2014-02-15-1]) を参照.
・ Hockett, Charles F. "The Terminology of Historical Linguistics." Studies in Linguistics 12.3--4 (1957): 57--73.
「#2628. Hockett による英語の書き言葉と話し言葉の関係を表わす直線」 ([2016-07-07-1]) (及び補足的に「#2629. Curzan による英語の書き言葉と話し言葉の関係の歴史」 ([2016-07-08-1]))の記事で,Hockett (65) の "Timeline of Written and Spoken English" の図を Curzan 経由で再現して,その意味を考えた.その後,Hockett の原典で該当する箇所に当たってみると,Hockett 自身の力点は,書き言葉と話し言葉の距離の問題にあるというよりも,むしろ話し言葉において変化が常に生じているという事実にあったことを確認した.そして,Hockett が何のためにその事実を強調したかったかというと,人為的に設けられた英語史上の時代区分 (periodisation) が招く諸問題に注意喚起するためだったのである.
古英語,中英語,近代英語などの時代区分を前提として英語史を論じ始めると,初学者は,あたかも区切られた各時代の内部では言語変化が(少なくとも著しくは)生じていないかのように誤解する.古英語は数世紀にわたって変化の乏しい一様の言語であり,それが11世紀に急激に変化に特徴づけられる「移行期」を経ると,再び落ち着いた安定期に入り中英語と呼ばれるようになる,等々.
しかし,これは誤解に満ちた言語変化観である.実際には,古英語期の内部でも,「移行期」でも,中英語期の内部でも,言語変化は滔々と流れる大河の如く,それほど大差ない速度で常に続いている.このように,およそ一定の速度で変化していることを表わす直線(先の Hockett の図でいうところの右肩下がりの直線)の何地点かにおいて,人為的に時代を区切る垂直の境界線を引いてしまうと,初学者の頭のなかでは真正の直線イメージが歪められ,安定期と変化期が繰り返される階段型のイメージに置き換えられてしまう恐れがある.
Hockett (62--63) 自身の言葉で,時代区分の危険性について語ってもらおう.
Once upon a time there was a language which we call Old English. It was spoken for a certain number of centuries, including Alfred's times. It was a consistent and coherent language, which survived essentially unchanged for its period. After a while, though, the language began to disintegrate, or to decay, or to break up---or, at the very least, to change. This period of relatively rapid change led in due time to the emergence of a new well-rounded and coherent language, which we label Middle English; Middle English differed from Old English precisely by virtue of the extensive restructuring which had taken place during the period of transition. Middle English, in its turn, endured for several centuries, but finally it also was broken up and reorganized, the eventual result being Modern English, which is what we still speak.
One can ring various changes on this misunderstanding; for example, the periods of stability can be pictured as relatively short and the periods of transition relatively long, or the other way round. It does not occur to the layman, however, to doubt that in general a period of stability and a period of transition can be distinguished; it does not occur to him that every stage in the history of a language is perhaps at one and the same time one of stability and also one of transition. We find the contrast between relative stability and relatively rapid transition in the history of other social institutions---one need only think of the political and cultural history of our own country. It is very hard for the layman to accept the notion that in linguistic history we are not at all sure that the distinction can be made.
Hockett は,言語史における時代区分には参照の便よりほかに有用性はないと断じながら,参照の便ということならばむしろ Alfred, Ælfric, Chaucer, Caxton などの名を冠した時代名を設定するほうが記憶のためにもよいと述べている.従来の区分や用語をすぐに廃することは難しいが,私も原則として時代区分の意義はおよそ参照の便に存するにすぎないだろうと考えている.それでも誤解に陥りそうになったら,常に Hockett の図の右肩下がりの直線を思い出すようにしたい.
時代区分の問題については periodisation の各記事を,言語変化の速度については speed_of_change の各記事を参照されたい.とりわけ安定期と変化期の分布という問題については,「#1397. 断続平衡モデル」 ([2013-02-22-1]),「#1749. 初期言語の進化と伝播のスピード」 ([2014-02-09-1]),「#1755. 初期言語の進化と伝播のスピード (2)」 ([2014-02-15-1]) の議論を参照.
・ Hockett, Charles F. "The Terminology of Historical Linguistics." Studies in Linguistics 12.3--4 (1957): 57--73.
・ Curzan, Anne. Fixing English: Prescriptivism and Language History. Cambridge: CUP, 2014.
この2日間の記事(「#2634. ヨーロッパにおける迂言完了の地域言語学 (1)」 ([2016-07-13-1]) と「#2635. ヨーロッパにおける迂言完了の地域言語学 (2)」 ([2016-07-14-1]))で,迂言完了の統語・意味の地域的拡散 (areal diffusion) について,Drinka の論考を取り上げた.Drinka は一般にこの種の言語項の地域的拡散は普通の出来事であり,言語接触に帰せられるべき言語変化の例は予想される以上に頻繁であると考えている.Drinka はこの立場の目立った論客であり,「#1977. 言語変化における言語接触の重要性 (1)」 ([2014-09-25-1]) で別の論考から引用したように,言語変化における言語接触の意義を力強く主張している.(他の論客として,Luraghi (「#1978. 言語変化における言語接触の重要性 (2)」 ([2014-09-26-1])) も参照.)
迂言完了の論文の最後でも,Drinka (28) は最後に地域的拡散の一般的な役割を強調している.
With regard to larger implications, the role of areal diffusion turns out to be essential in the development of the periphrastic perfect in Europe, throughout its history. The statement of Dahl on the role of areal phenomena is apt here:
Man kann wohl sagen, dass Sprachbundphänomene in Grammatikalisierungsproessen eher die Regel als eine Ausnahme sind---solche Prozesse verbreiten sich oft zu mehreren benachbarten Sprachen und schaffen dadurch Grammfamilien. (Dahl 1996:363)
Not only are areally-determined distributions frequent and widespread, but they constitute the essential explanation for the introduction of innovation in many cases.
このような地域的拡散という話題は,言語圏 (linguistic_area) という概念とも密接な関係にある.特に迂言完了のような統語的な借用 (syntactic borrowing) については,「#1503. 統語,語彙,発音の社会言語学的役割」 ([2013-06-08-1]) で触れたように,社会の団結の標識 (the marker of cohesion in society) と捉えられる可能性が指摘されており,社会言語学における遠大な仮説を予感させる.
なお,言語内的な要因と言語外的な要因を巡る議論は,本ブログでも多く取り上げてきた.「#2589. 言語変化を駆動するのは形式か機能か (2)」 ([2016-05-29-1]) に関連する諸記事へのリンク集を挙げているので,そちらを参照されたい.
・ Drinka, Bridget. "Areal Factors in the Development of the European Periphrastic Perfect." Word 54 (2003): 1--38.
Curzan による Fixing English: Prescriptivism and Language History を読んでいる.これは,英語の規範主義 (prescriptivism) の歴史についての総合的な著書だが,新たな英語史のありかたを提案する野心的な提言としても読める.
従来の英語史記述では,規範主義は18世紀以降の英語史に社会言語学な風味を加える魅力的なスパイスくらいの扱いだった.しかし,共同体の言語に対する1つの態度としての規範主義は,それ自体が言語変化の規模,速度,方向に影響を及ぼしう要因でもある.この理解の上に,新たな英語史を記述することができるし,その必要があるのではないか,と著者は強く説く.この主張は,とりわけ第2章 "Prescriptivism's lessons: scope and 'the history of English'" で何度となく繰り返されている.そのうちの1箇所を引用しよう.
When I began this project, I was not expecting to end up asking one of the most fundamental scholarly questions one can ask in the field of history of English studies. But examining prescriptivism as a real sociolinguistic factor in the history of English raises the question: What does it mean to tell the "linguistic history" of "the English language"? Or, to put it more prescriptively, what should it mean to tell the history of the English language? Attention to prescriptivism in the telling of language history gives significant weight to writing, ideologies, and consciously implemented language change. In so doing, it highlights some inconsistencies within the field about the focus of study, about what falls within the scope of "linguistic" history.
Re-examining the scope of the linguistic history of English encompasses at least three major issues . . .: the relative importance of language attitudes and ideologies in understanding a language's history; the relative importance of the written and spoken versions of the language in constituting "the English language" whose history is being told; and the relative importance of change above and below speakers' conscious awareness (to use standard terminology in the field) in constituting language change. (42--43)
Curzan (48) は,第2段落にある3つの観点を次のように換言しながら,新しい英語史記述の軸として提案している.
・ The history of the English language encompasses metalinguistic discussions about language, which potentially have real effects on language use.
・ The history of the English language encompasses the development of both the written and the spoken language, as well as their relationship to each other.
・ The history of the English language encompasses linguistic developments occurring both below the level of speakers' conscious awareness --- what is sometimes called "naturally" --- and above the level of speakers' conscious awareness.
第1点目の,規範主義が実際の言語変化に影響を与えうるという指摘については,確かにその通りだと思っている.英語史研究者はこの問題に真剣に向かい合う必要があるという主張には,大きくうなずく次第である.
・ Curzan, Anne. Fixing English: Prescriptivism and Language History. Cambridge: CUP, 2014.
昨日の記事「#2628. Hockett による英語の書き言葉と話し言葉の関係を表わす直線」 ([2016-07-07-1]) で示唆したように,英語の書き言葉と話言葉の間の距離は,おおまかに「小→中→大→中(?)」と表現できるパターンで推移してきた.あらためて要約すると,次の通りである.
書き言葉と話し言葉の距離は,古英語から中英語にかけては比較的小さいままにとどまっていたが,ルネサンスの近代英語期に入ると書き言葉の標準化 (standardisation) が進んだこともあって,両媒体の乖離は開いてきた.しかし,現代英語期になり,口語的な要素が書き言葉にも流れ込むようになり (= colloquialisation) ,両者の距離は再び部分的に狭まってきていると考えることができる.
両媒体の略歴については,Curzan (54--55) の記述が的確である.
The fluctuating distance between written and spoken registers provides one fascinating lens through which to tell the history of English. For the Old English and Middle English periods, scholars assume a much closer correspondence between the written and spoken, with the recognition that the record does not preserve very informal registers of the written. While there were some local written standards, these periods predate widespread language standardization, and spelling and morphosyntactic differences by region suggest that scribes saw the written language as in some way capturing their individual or local pronunciation and grammar. The prevalence of coordinated or paratactic clause structures in these periods is more reflective of the spoken language than the highly subordinated clause structures that come to characterize high written prose in the Renaissance. . . . The Renaissance witnesses a growing chasm between the spoken and written, with the rise of language standardization and the spread of English to more scientific, legal, and other genres that had been formerly written in Latin. To this day, written academic, legal, and medical registers are marked by stark differences from spoken language, from the prevalence of nominalization (e.g., when the verb enhance becomes the noun enhancement) to the relative paucity of first-person pronouns to highly subordinated sentence structures.
At the turn of the millennium something interestingly cyclical appears to be happening online, in journalistic prose, and in other registers, where the written language is creeping back toward patterns more characteristic of the spoken language --- a process referred to as colloquialization . . . . In other words, the distance between the structure and style of spoken and written language that has characterized much of the modern period is narrowing, a least in some registers. Current colloquialization of written prose includes the rise of features such as semi-modals (e.g., have to), contractions, and the progressive.
これは,書き言葉と話し言葉の関係という観点からみた,もう1つの見事な英語史記述だと思う.
・ Curzan, Anne. Fixing English: Prescriptivism and Language History. Cambridge: CUP, 2014.
Curzan の規範主義に関する著書を読んでいて,英語史における書き言葉と話言葉の距離感についての Hockett (1957) の考察が紹介されていた (Hockett, Charles F. "The Terminology of Historical Linguistics." Studies in Linguistics 12 (1957: 3--4): 57--73.) .以下の図は,Curzan (55) に掲載されていた図に手を加えたものなので,Hockett のオリジナルとは多少とも異なるかもしれない.図に続けて,同じく Curzan (55--56) より孫引きだが,Hockett の付した説明を引用する.
With Alfred, the 'writing' line begins to slope downwards more gently, becoming further and further removed from the 'speech' line. This is because Alfred's highly prestigious writings set an orthographic and stylistic habit, which tended to persist in the face of changing habits of speech. The Norman Conquest leads rather quickly to an end of this older orthographic practice; the new 'writing' line which begins approximately at this time represents the rather drastically altered orthographic habits developed under the influence of the French-trained scribes. I have begun this line somewhat closer to the 'speech' line at the time, on the assumption --- of which I am not certain --- that the rather radical change in writing habits led, at least at first, to a somewhat closer matching of contemporary speech. From this time until Caxton and printing, the 'writing' line follows more or less inadequately the changing pattern of speech, never getting very close to it, yet constantly being modified in the direction of it. But with Caxton, and the introduction of printing, there soon comes about the real deep-freeze on English spelling-habits which has persisted to our own day. (Hockett 65--66)
この図と解説は,せいぜい20世紀半ばまでをカバーしているにすぎないが,その後,20世紀の後半から現在にかけては,むしろ書き言葉が colloquialisation (cf. 「#625. 現代英語の文法変化に見られる傾向」 ([2011-01-12-1])) を経てきたことにより,少なくともある使用域において,両媒体の距離は縮まってきているようにも思われる.したがって,図中の2本の線をそのような趣旨で延長させてみるとおもしろいかもしれない.
書き言葉と話し言葉の距離という話題については,「#2292. 綴字と発音はロープでつながれた2艘のボート」 ([2015-08-06-1]) や「#15. Bernard Shaw が言ったかどうかは "ghotiy" ?」 ([2009-05-13-1]) の図も参照されたい.
・ Curzan, Anne. Fixing English: Prescriptivism and Language History. Cambridge: CUP, 2014.
大母音推移 (gvs) やグリムの法則 (grimms_law) に代表される音の循環シフト (circular shift, chain shift) には様々な理論的見解がある.Samuels は,大母音推移は,当初は機械的 ("mechanical") な変化として始まったが,後の段階で機能的 ("functional") な作用が働いて音韻体系としてのバランスが回復された一連の過程であるとみている.機械的な変化とは,具体的にいえば,低・中母音については,強調された(緊張した)やや高めの異音が選択されたということであり,高母音については,弱められた(弛緩した)2重母音的な異音が選択されたということである.各々の母音は,当初はそのように機械的に生じた異音をおそらく独立して採ったが,後の段階になって,体系の安定性を維持しようとする機能的な圧力に押されて最終的な分布を定めた,という考え方だ.
Circular shifts of vowels are thus detailed examples of homeostatic regulation. The earliest changes are mechanical . . . ; the later changes are functional, and are brought about by the favouring of those variants that will redress the imbalance caused by the mechanical changes. In this respect circular shift differs considerably from merger and split. Merger is redressed by split only in the most general and approximate fashion, since the original functional yields are not preserved; but in circular shift, the combination of functional and mechanical factors ensures that adequate distinctions are maintained. To that extent at least, the phonological system possesses some degree of autonomy. (Samuels 42)
ここで Samuels の議論の運び方が秀逸である.循環シフトが機能的な立場から音素の分割と吸収 (split and merger) の過程とどのように異なっているかを指摘しながら,前者が示唆する音体系の自律性を丁寧に説明している.このような説明からは Samuels の立場が機能主義的に偏っているとの見方になびきやすいが,当初のきっかけはあくまで機械的な要因であると Samuels が明言している点は銘記しておきたい.関連して「#2585. 言語変化を駆動するのは形式か機能か」 ([2016-05-25-1]) を参照.
・ Samuels, M. L. Linguistic Evolution with Special Reference to English. London: CUP, 1972.
「#2585. 言語変化を駆動するのは形式か機能か」に引き続き,この問題についての Samuels の考え方に迫りたい.Samuels (38) は,音変化の原因論に関して,音韻論上の機能的対立が変化を先導しているのか,あるいは調音上の形式的(機械的)な要因が変化を駆動しているのかと問いながら,次のような見解を示している.
. . . provided the potentiality for contrast exists, it is likely to be realised sooner or later, though the accident may be only one of many that could have given the same result; and the greater the potentiality for contrast, the sooner it is likely to be realised, i.e. the more inevitable and less accidental the phonemicisation actually is.
ここでは,機能的要因が変化の潜在的受け皿として,形式的要因が変化の実際的な引き金として解されていることがわかる.前者は変化を引き寄せる要因,あるいはもっと弱くいえば,変化を受け入れる準備であり,後者は変化を実現させるきっかけである.後者は偶発的出来事 (accident) にすぎないと言及されているが,だからといって,Samuels は前者と比べて本質的に重要でないとは考えていないだろう.前回の記事で確認したように,Samuels は形式的要因のほうが機能的要因よりも本質的であるとか,重要であるとか,あるいはその逆であるとか,そのようなアプリオリの前提は完全に排しているからだ.言語変化には両側面が想定されるべきであり,受け皿と引き金の両方がなければ変化が生じないということは言うまでもない.いずれの側面が重要かと問うのはナンセンスだろう.
似たような議論として,言語内的な要因と外的な要因はいずれが重要かという不毛な論争がある.「#1232. 言語変化は雨漏りである」 ([2012-09-10-1]),「#1233. 言語変化は風に倒される木である」 ([2012-09-11-1]) で取り上げた Aitchison からの例を借りて,言語変化を雨漏りや風に倒される木に喩えるならば,強い雨と老朽化した屋根の双方が,あるいは強風と弱った木の双方が,異なるレベルでともに変化の原因だろう.いずれがより本質的で重要な要因かと問うのはナンセンスである.言語変化の原因論では,常に multiple causation of language change を前提とすべきである.この問題については,ほかにも以下の記事を参照されたい.
・ 「#442. 言語変化の原因」 ([2010-07-13-1])
・ 「#443. 言語内的な要因と言語外的な要因はどちらが重要か?」 ([2010-07-14-1])
・ 「#1123. 言語変化の原因と歴史言語学」 ([2012-05-24-1])
・ 「#1173. 言語変化の必然と偶然」 ([2012-07-13-1])
・ 「#1282. コセリウによる3種類の異なる言語変化の原因」 ([2012-10-30-1])
・ 「#1582. 言語内的な要因と言語外的な要因はどちらが重要か? (2)」 ([2013-08-26-1])
・ 「#1584. 言語内的な要因と言語外的な要因はどちらが重要か? (3)」 ([2013-08-28-1])
・ 「#1977. 言語変化における言語接触の重要性 (1)」 ([2014-09-25-1])
・ 「#1978. 言語変化における言語接触の重要性 (2)」 ([2014-09-26-1])
・ 「#1986. 言語変化の multiple causation あるいは "synergy"」 ([2014-10-04-1])
・ 「#2143. 言語変化に「原因」はない」 ([2015-03-10-1])
・ 「#2151. 言語変化の原因の3層」 ([2015-03-18-1])
・ 「#1549. Why does language change? or Why do speakers change their language?」 ([2013-07-24-1])
・ 「#2123. 言語変化の切り口」 ([2015-02-18-1])
・ 「#2012. 言語変化研究で前提とすべき一般原則7点」 ([2014-10-30-1])
・ 「#1992. Milroy による言語外的要因への擁護」 ([2014-10-10-1])
・ 「#1993. Hickey による言語外的要因への慎重論」 ([2014-10-11-1])
・ Samuels, M. L. Linguistic Evolution with Special Reference to English. London: CUP, 1972.
言語変化における話し手と聞き手の役割について,とりわけ後者の役割を相対的に重視する近年の説について,「#1070. Jakobson による言語行動に不可欠な6つの構成要素」 ([2012-04-01-1]),「#1862. Stern による言語の4つの機能」 ([2014-06-02-1]),「#1932. 言語変化と monitoring (1)」 ([2014-08-11-1]),「#1933. 言語変化と monitoring (2)」 ([2014-08-12-1]),「#1934. audience design」 ([2014-08-13-1]),「#1935. accommodation theory」 ([2014-08-14-1])),「#1936. 聞き手主体で生じる言語変化」 ([2014-08-15-1]),「#2140. 音変化のライフサイクル」 ([2015-03-07-1]),「#2150. 音変化における聞き手の役割」 ([2015-03-17-1]) などの記事で紹介してきた.
Samuels (31) は音変化を論じる章のなかで,話し手と聞き手の役割とその関係について,バランスの取れた見方を提示している.
As regards the current controversy as to whether articulatory or acoustic evidence is to be preferred, the study of change evidently demands both: the production of new variants is mainly articulatory in nature, their spread and imitation mainly acoustic, and both are continually coordinated by the process of monitoring.
話し手の調音 (articulation) に駆動された変化が,聞き手の音響 (acoustics) としての受容を通じて言語使用者の間に拡散し,その過程は集団の監視機能 (monitoring) により逐一調整される,というモデルだ.
昨日の記事「#2585. 言語変化を駆動するのは形式か機能か」 ([2016-05-25-1]) で,形式的(機械的)な駆動と機能的な駆動の関係について Samuels の見解を紹介したが,それぞれの駆動力は話し手の役割と聞き手の役割におよそ対応させられるようにも思われる.ただし,言語使用者は,通常,同時に話し手でも聞き手でもあるから,個人間のみならず個人の内部においても,常に両立場からの監視機能が働いているのだろう.
言語変化理論においては,(1) 話し手の行動,(2) 聞き手の行動,(3) モニタリング,の3要素を意識しておく必要がある.
・ Samuels, M. L. Linguistic Evolution with Special Reference to English. London: CUP, 1972.
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