「#3162. 古因学」 ([2017-12-23-1]) や「#3172. シュライヒャーの系統図的発想はダーウィンからではなく比較文献学から」 ([2018-01-02-1]) で参照してきた三中によれば,人間の行なう物事の分類法は「分類思考」 (group thinking) と「系統樹思考」 (tree thinking) に大別されるという.横軸の類似性をもとに分類するやり方と縦軸の系統関係をもとに分類するものだ.三中 (107) はそれぞれに基づく科学を「分類科学」と「古因科学」と呼び,両者を次のように比較対照している.
分類科学 | 分類思考 | メタファー | 集合/要素 | 認知カテゴリー化 |
---|---|---|---|---|
古因科学 | 系統樹思考 | メトニミー | 全体/部分 | 比較法(アブダクション) |
観念論的解釈 | 系統学的解釈 | |
---|---|---|
体系学 (Systematik) | ← | 系統学 (Phylogenetik) |
形態類縁性 (Formverwandtschaft) | ← | 血縁関係 (Blutsverwandtschaft) |
変容 (Metamorphose) | ← | 系統発生 (Stammesentwicklung) |
体系学的段階系列 (systematischen Stufenreihen) | ← | 祖先系列 (Ahnenreihen) |
型 (Typus) | ← | 幹形 (Stammform) |
型状態 (typischen Zuständen) | ← | 原始的状態 (ursprüngliche Zuständen) |
非型的状態 (atypischen Zuständen) | ← | 派生的状態 (abgeänderte Zuständen) |
分類科学 | 古因科学 |
---|---|
構造主義言語学 (structural linguistics) | 比較言語学 (comparative linguistics) |
類型論 (typology) | 歴史言語学 (historical linguistics) |
言語圏 (linguistic area) | 語族 (language family) |
接触・借用 (contact, borrowing) | 系統 (inheritance) |
空間 (space) | 時間 (time) |
共時態 (synchrony) | 通時態 (diachrony) |
範列関係 (paradigm) | 連辞関係 (syntagm) |
パターン (pattern) | プロセス (process) |
紊???? (variation) | 紊???? (change) |
タイプ (type) | トークン (token) |
メタファー (metaphor) | メトニミー (metonymy) |
How | Why |
進化思考をあえて看板として高く掲げるためには,私たちは分類思考に対抗する力をもつもう一つの思考枠としてアピールする必要がある.たとえば,目の前にいる生きものたちが「どのように」生きているのか(至近要因)に関する疑問は実際の生命プロセスを解明する分子生物学や生理学の問題とみなされる.これに対して,それらの生きものが「なぜ」そのような生き方をするにいたったのか(究極要因)に関する疑問は進化生物学が取り組むべき問題だろう.
言語変化の「どのように」と「なぜ」の問題 (how_and_why) については,「#2123. 言語変化の切り口」 ([2015-02-18-1]),「#2255. 言語変化の原因を追究する価値について」 ([2015-06-30-1]),「#2642. 言語変化の種類と仕組みの峻別」 ([2016-07-21-1]),「#3133. 言語変化の "how" と "why"」 ([2017-11-24-1]) で扱ってきたが,生物学からの知見により新たな発想が得られた感がある.
・ 三中 信宏 『進化思考の世界 ヒトは森羅万象をどう体系化するか』 NHK出版,2010年.
2018年となりました.本年も hellog を続けていきます.よろしくお願い致します.
新年最初の話題は「ゆらぎ」について.自然界に存在するゆらぎには規則的といえるものもあれば,まったく予想不可能なものもあるが,多くの現象においては,完全とはいえずとももある程度予測できるゆらぎが確認される.なかでも「1/f ゆらぎ」として知られているものは,身の回りにも数多く確認され,とりわけ人間が快を感じるもののなかにしばしば含まれていると言われる.そよ風,小川のせせらぎ,木漏れ日,木目や年輪,虫の羽音,岩塩の旨み,電車の揺れ,古い町並み,日本庭園,畳の目,手拍子,太鼓のリズム,噺家の声,バッハやモーツァルトの楽曲などにみられるほか,宇宙線強度,細胞構造,心拍周期にも認められるという.「1/f ゆらぎ」という呼称は,対象のゆらぎの周波数 (frequency) を成分分析し,各成分の強さを数学的操作を加えてグラフ化すると,右下がりの相関直線が得られることによる.1/f2 や 1/f-1 でもなく 1/f であるところが,どうやら人間にとっての快のポイントらしい(武者,pp. 24--39).
1/f ゆらぎが人間の生活に密接なところに多いというのは,言語(体系)にもみられる可能性があることを示唆する.ここで言語にとってゆらぎとは何かが問題になる.形式的な variation を想定することもできそうだし,言語変化 (language_change) の頻度 (frequency) や速度 (speed_of_language_change) などにも見られるかもしれない.例えば,1/f ゆらぎが語彙拡散 (lexical_diffusion) と関わっていたらおもしろそうだ.
1/f ゆらぎは,複雑系 (complex_system) やカオス理論 (chaos_theory) とも深く関係する.言語体系が複雑系であり,言語変化がカオス理論の適用の対象となりうることは,「#3112. カオス理論と言語変化 (2)」 ([2017-11-03-1]),「#3122. 言語体系は「カオスの辺縁」にある」 ([2017-11-13-1]),「#3142. ホメオカオス (1)」 ([2017-12-03-1]),「#3143. ホメオカオス (2)」 ([2017-12-04-1]) などで触れてきた.そうだとすれば,1/f ゆらぎもまた言語に関与している可能性が高い.いずれの考え方にも共通しているのは,常に動いていて不安定なシステムこそ,周囲の予期できない変動に適応しやすいという点だ.不安定から安定が,混沌から秩序が生まれるようなシステムである.逆説的な言い方だが,そこには「動的な安定感」があるといってよい.あるいは最近の科学のキーワードでいえば「動的平衡」 (dynamic_equilibrium) である.「遊び」にも通じるものがある.
この点と関連して,武者 (127--28) は 1/f ゆらぎを示す,目の焦点についての興味深い事例を紹介している.
目は物体の後ろ側に焦点を合わせています.そして焦点は,ピタッと一定のところに止まっているのではなく,いつも前後にふらふらと動いているのだそうです.
この動きが,1/f ゆらぎに非常に近いのです.
焦点が前にいったり後ろにいったり,ちょこちょこと絶えず動いているのは,動いているほうが,ものの位置が変わったときにすぐ焦点を合わせ直しやすいからです.テニスの選手がサーブを受けるときに,足を少し開いて上体を左右に揺すっていますが,あれは止まっていると,ボールが飛んできたときに体がすぐに動かないからでしょう.目の焦点も同じことです.
また焦点は,見ようとするものよりも遠方に合わせられているのが普通のようです.見ているものが動くと,焦点がズレて画像がぼやけますが,もし焦点が物体に合っていると,ものが手前に来ても遠方に行っても,像がぼやけるという点では同じことになります.しかし,これでは焦点を合わせ直すのに,前後どちらに焦点を移動させればよいのか,とっさの判断ができません.見ているものよりも,少し遠方に焦点が定まっていれば,ものが焦点からズレて遠方に動くとものの像がはっきりしてきますし,その逆に手前に動けば,ぼやけかたが激しくなります.それと同時に,焦点は少し遠くに合わせられているのではないでしょうか.だから焦点が前後にゆらいでいるほうが,ものごとの変化に対応しやすいということでしょう.
言語体系も常にゆらいでいるからこそ,人間のコミュニケーション欲求の絶えざる変化に即応できる柔軟なシステムとなっているのかもしれない.1/f ゆらぎの言語への応用は未知数だが,今後関心を寄せていきたい.
・ 武者 利光 『ゆらぎの発想 1/f ゆらぎの謎にせまる』 日本放送出版協会,1994年.
昨日12月20日付けで,英語史連載企画「現代英語を英語史の視点から考える」の第12回の記事「なぜ英語はSVOの語順なのか?(後編)」が公開されました.
前編の最後では,標題の疑問を「なぜ英語は屈折重視型から語順重視型の言語へと切り替わり,その際になぜ基本語順はSVOとされたのか?」という疑問へとパラフレーズしました.後半ではいよいよこの問いに本格的に迫りますが,楽しく読めるように5W1Hのミステリー仕立てで話しを展開しました.
言語変化にかかわらずあらゆる歴史現象の究極の問いは Why です.その究極の答えに近づくためには,先にそれ以外の4W1Hをしっかり押さえ,証拠を積み上げておく必要があります.その上で,総合的に Why への解答を提案するという順序が自然です.今回は,この英文法史上最も劇的な変化を1つの事件と見立て,その5W1Hにミステリー仕立てで迫りたいと思います.
連載記事で展開した説明は仮説です.有力な仮説ではありますが,歴史上の事柄ですから絶対的な説明を提示することはほぼ不可能と言わざるを得ません.それは今回の疑問に限りません.しかし,言語変化を論じる際に,事実をよく調べ,その事実に反しない形で因果関係のストーリーを組み立てることは可能です.今回の説明も,その試みの1つとして理解していただければと思います.以下,連載記事からの引用です.
言語変化は決して偶然生じるわけではないことがわかったかと思います.言語変化の背後には言語内的・外的な諸要因が複合的に作用しており,確かにその一つひとつを突き止めることは難しいのですが,What, When, Where, Who, How の答えを着実に追い求めていけば,最後には究極の問い Why にも接近することができるのです.
今回で連載記事としては最終回となります.これからも本ブログやその他の媒体で,英語の素朴な疑問にこだわっていきたいと思いますので.今後ともよろしくお願い申し上げます.
「#1986. 言語変化の multiple causation あるいは "synergy"」 ([2014-10-04-1]) ほか多くの記事で触れてきたが,改めて言語変化の "multiple causation" の原則について述べておきたい.Thomason は,言語接触に関するハンドブックの議論のなかで,次のように述べている.
. . . a growing body of evidence suggests that multiple causation --- often a combination of an external and one or more internal causes --- is responsible for a sizable number of changes. (32)
The search for internal and external causation should proceed in parallel, because of the strong possibility, an actuality in many cases, that both internal and external causes influenced the linguistic outcome of change. (46)
一方で,Thomason は謙虚にも,たとえ "multiple causation" を前提とするにせよ,言語変化の究極の「なぜ」を解明することは不可能であると明言している.非常に力の入った箇所なので,そのまま引用する.
. . . in spite of dramatic progress toward explaining linguistic changes made in recent decades by historical linguists, variationists, and experimental linguists, it remains true that we have no adequate explanation for the vast majority of all linguistic changes that have been discovered. Worse, it may reasonably be said that we have no full explanation for any linguistic change, or for the emergence and spread of any linguistic variant. The reason is that, although it is often easy to find a motivation for an innovation, the combinations of social and linguistic factors that favor the success of one innovation and the failure of another are so complex that we can never (in my opinion) hope to achieve deterministic predictions in this area. Tendencies, yes; probabilities, yes; but we still won't know why an innovation that becomes part of one language fails to establish itself in another language (or dialect) under apparently parallel circumstances. there is an element of chance in many or most changes; and there is an element of more or less conscious choice in many changes. Even if we could pin down macro- and micro-social features and detailed linguistic features to a precise account (which we cannot), accident and the possibility of deliberate change would derail our efforts to make strong predictions. This assessment should not be taken as a defeatist stance, or discourage efforts to find causes of change: recent advances in establishing causes of changes after they have occurred and in tracking the spread of innovations through a speech community have produced notable successes. More successes will surely follow; seeking causes of change is a lively and fruitful area of research. But the realistic goal is a deeper understanding of processes of change, not an ultimate means of predicting change. (32--33)
私もまったくの同感である.言語変化に関する究極の Why に答えることは不可能だろう.しかし,せめて How の答えを見出すことは可能だろうし,そこから一歩でも Why に近づいていく努力はすべきである(cf. 「#3026. 歴史における How と Why」 ([2017-08-09-1])).関連する Thomason の所見は,以下の記事でも触れているので参考までに.
・ 「#1584. 言語内的な要因と言語外的な要因はどちらが重要か? (3)」 ([2013-08-28-1])
・ 「#1779. 言語接触の程度と種類を予測する指標」 ([2014-03-11-1])
・ 「#1780. 言語接触と借用の尺度」 ([2014-03-12-1])
・ 「#1781. 言語接触の類型論」 ([2014-03-13-1])
・ 「#2113. 文法借用の証明」 ([2015-02-08-1])
さらに,「#2589. 言語変化を駆動するのは形式か機能か (2)」 ([2016-05-29-1]) でも "multiple causation of language change" を重視すべきことに触れているので,その記事とそこから貼ったリンク先の記事もどうぞ.
・ Thomason, Sarah. "Contact Explanations in Linguistics." The Handbook of Language Contact. Ed. Raymond Hickey. 2010. Malden, MA: Wiley-Blackwell, 2013. 31--47.
言語接触 (contact) は言語を単純にするのか,あるいは複雑にするのか.古今東西の言語接触の事例を参照すると,いずれのケースもあると知られている.Trudgill がこの問題について論じているので,議論を紹介しよう.まず,言語接触は言語の複雑化に寄与するという観点について.
. . . there is considerable evidence that language contact can lead to an increase in linguistic complexity. This appears to occur as a result of the addition of features transferred from one language to another . . . . This is then additive change in which new features derived from neighboring languages do not replace existing features but are acquired in addition to them. A sociolinguistic-typological consequence of language contact is therefore that languages which have experienced relatively high degrees of contact are more likely to demonstrate relatively higher degrees of this type of additive complexity than languages which have not. (301)
この点と関連して,地域言語学の立場から,類似した言語項が広まりやすく言語的多様性が小さい,したがって比較的単純な言語構造を示しやすい "spread zones" (例として印欧語族の行なわれている地域など)と,反対に言語的多様性と複雑性に特徴づけられる "residual zones" (例としてコーカサス地方やニューギニアなど)という概念についても触れられている.つまり,"contact among languages fosters complexity, or, put differently, diversity among neighbouring languages fosters complexity in each of the languages" (303) であるという.いくつかの考察を経たあとで上記を結論づけたのが,次の箇所である.
We can thus take seriously the sociolinguistic-typological hypothesis that languages spoken in high-contact societies are relatively more likely to have relatively more complexity, not just in terms of having more features such as grammatical categories and articulation types, but also in terms of possessing features which are inherently more complex. (305--06)
一方で,逆説的ながらも,言語接触が言語の単純化をもたらす事例は広く認められている(ほかに「#1671. dialect contact, dialect mixture, dialect levelling, koineization」 ([2013-11-23-1])) も参照されたい).
. . . the paradox here is that contact can also, and just as clearly, lead to simplification. This is very well known, and is a point which has been made by many writers. Pidgins, creoles, and creoloids . . . are all widely agreed to owe their relative structural simplicity to language contact; and koines to dialect contact . . . . (306)
では,言語接触のいかなる側面が,複雑化か単純化かを決定するのだろうか.Trudgill は,接触の強度,期間,言語習得に関わる臨界期という要因を指摘している.臨界期とは,要するに,言語接触を経験している当の人々が,子供か大人かという違いである.Trudgill の結論は以下の通り.
1 high-contact, long-term pre-critical threshold contact situations are more likely to lead to additive (and only additive) complexification;
2 high-contact, short-term post-critical threshold contact situations are more likely to lead to simplification;
3 low contact situations are likely to lead to preservation of existing complexity.
荒削りな類型のようにも見えるが,興味深い仮説である.
・ Trudgill, Peter. "Contact and Sociolinguistic Typology." The Handbook of Language Contact. Ed. Raymond Hickey. 2010. Malden, MA: Wiley-Blackwell, 2013. 299--319.
昨日の記事 ([2017-12-03-1]) の続編.金子・津田 (205) の定義によると,ホメオカオスとは「弱いがたくさんの変数の関係したカオスによる安定性機構」である.金子・津田 (205--06) は,ホメオカオスを生命という複雑系において説明しながら,次のように述べている.
生命はその「増殖」という性質により次第に相互作用が強くなる.そこで同じものの集団であってもカオスによって性質が分化を始め,多様性が生まれる.そうやってできた多様性はホモカオス状態として維持される.その状態ではカオス的遍歴により外界からの擾乱や入力に対して多様かつ柔軟な応答を行っている.
上で用いられている「カオス的遍歴」も,複雑系の分野のジャーゴンである.金子(「多様性を生み出すカオス」『日経サイエンス』1994年5月号)はカオス的遍歴を次のように説明している(吉永,p. 163 より孫引き).
例えば,全要素がほぼ二つのクラスターに分かれてそれぞれでほぼ引き込んで振動する状態を長く続けた後,ばらばらになり,それをしばらく続けた後で,またほとんど二個(ないし数個)のクラスターに秩序化し,またばらばらに……といったことを繰り返す.つまり,いくつかの秩序的な状態の間が乱れた状態を経由してスイッチしていくのである.
言語においても「ホメオカオス」や「カオス的遍歴」は日常的に見られる.例えば,言語は文法的に屈折に依存する言語と語順に依存する言語という両極の間を揺れ動くものと考えることができる.そのシフトの途中段階で,揺らぎや乱れが見られるかもしれないが,ゆくゆくはそれなりに落ち着くものではないか.音韻体系においても,語彙体系においても,常に揺れ動くという意味で静的な秩序というものはあり得ないが,動的にバランスが保持されている.
平均台の上で完全に静止していることは難しいが,左右の小刻みな揺れを利用してバランスをとり続けることは可能である.ときに揺れ幅がやや大きくなることもあるが,そのピンチを解消するために,逆側に思い切ってバランスを傾けることで,結果として再び安定状態に回帰することはある.直立不動の静止状態というもの理論的にはあり得るが,現実的にはあり得ない.否,その理論的可能性をも否定し,理論上ですら常に不安定で動的であることを前提とするのがホメオカオスである.
・ 金子 邦彦,津田 一郎 『複雑系のカオス的シナリオ』 朝倉書店,1996年.
・ 吉永 良正 『「複雑系」とは何か』 講談社〈講談社現代新書〉,1996年.
言語体系がカオスと自己組織化を特徴とする複雑系であることについて,以下の記事で取り上げてきた(cf. 「#3111. カオス理論と言語変化 (1)」 ([2017-11-02-1]) ,「#3112. カオス理論と言語変化 (2)」 ([2017-11-03-1]),「#3122. 言語体系は「カオスの辺縁」にある」 ([2017-11-13-1]),「#3123. カオスとフラクタル」 ([2017-11-14-1]),「#3130. 複雑系言語学」 ([2017-11-21-1])).
言語の変化と変異を研究対象にしていると,言語に関わる現象のあまりの複雑さに圧倒される.どのように考えても解きにくいと悟った時,複雑系にすがる動機が生れる.見れば見るほど無秩序のようにみえて,それでも間違いなく何らかの秩序はあると直感するとき,それは複雑系に違いないという発想になる.静的な中心の欠如,動的な安定性の存在,結果としてバランスの保たれるアンバランス,秩序のなかの変化と変異.このような相矛盾する特徴が,気象や物理現象や生物や言語といった一筋縄では理解できない対象のうちに内在する.
『「複雑系」とは何か』を著わした吉永 (169) は,このような秩序を金子らに従って「ホメオカオス」という造語で呼んでいる.
部分秩序層で生成される秩序は,自己組織化という言葉から誤ってイメージされるような,静的な安定性ではない.多数の自由度をもつ弱いカオス的振動が,完全にそろうわけでもなく,かといって完全にばらばらになるわけでもなく,お互い影響し合い,依存し合いながら,つまり多様性を保持しながら――あるいは多様性をもつがゆえに――大筋ではあたかも基準となる状態があって,そこから逸脱しないかのようなふるまいをする,動的な安定状態である.
金子らはこの多様性を維持した安定性機構を「ホメオカオス homeochaos」と呼んでいる.いわゆるホメオスタシスが,理想的な静的安定性を想定し,そこから生じたゆらぎに対するゆり戻しのフィードバック機構と考えられてきたのに対し,ホメオカオスはそのような理想状態を仮想しなくてもいいことを教えてくれている.
さらに,このホメオカオスにおいて著しいのは,秩序の「次元」や「自由度」といった枠組みそのものが変化し,異なる枠組みへ飛躍することがあり得るということだ.これはオープンカオス(開放型カオス)と呼ばれる(吉永, pp. 169--70).
ホメオカオスがとくに重要になるのは,相空間の次元を決めるシステムそのものの自由度が変動するケースである.具体的には,要素的なユニットが互いの相互作用を経て分裂したり,また途中から消失したりする場合であり,たとえば細胞の増殖や死など,自然界の大半のシステムはこうした自由度の変動を許す開いたシステムになっている.
自由度が固定された,したがって相空間の次元が不変に保たれた閉じたシステムに見られる通常のカオスでは,相空間の中での軌道が不安定になって伸ばされていくと,どこかで折りたたまれる.相空間そのものが変わることはない.ところが,自由度が変動する開いたシステムでは,不安定性が増大していって運動が不規則になると,そこで自由度のジャンプが起こることがある.そして,新たに出現した余分な自由度に不安定さが分配されると,そこで生じた大自由度の弱いカオス状態にホメオカオスの機構が働いて,多様性を維持した安定性が生成される.このような開いたシステムに特有なカオスのダイナミクスを金子らは「開放型カオス」と呼んでいる.
システムをシステムとして維持するための動的な機構が提案されるのであれば,それは言語にも適用できる可能性が高いだろう.それくらい言語は動的で複雑である.
・ 吉永 良正 『「複雑系」とは何か』 講談社〈講談社現代新書〉,1996年.
・ 金子 邦彦,津田 一郎 『複雑系のカオス的シナリオ』 朝倉書店,1996年.
言語変化の "why" は,歴史言語学において究極の問いである.その答えに少しでも近づくためには,その他の4W1Hの問いへの答えを着実に積み重ねていくよりほかない.それでも "why" に完璧にたどり着くのはほとんど不可能であり,せいぜい "how" を明らかにするのが関の山である.その "how" の答えですら,仮説の域を出ないことも多いだろう.
本ブログでも,言語変化の how_and_why については,「#784. 歴史言語学は abductive discipline」 ([2011-06-20-1]),「#2255. 言語変化の原因を追究する価値について」 ([2015-06-30-1]),「#2123. 言語変化の切り口」 ([2015-02-18-1]) などで扱ってきた.
昨日の記事「#3130. 複雑系言語学」 ([2017-11-21-1]) で紹介した Kretzschmar (251--52) は,複雑系の理論を用いて言語変化(具体的にはアメリカ英語の諸変種の生起という問題)に迫ることにより,"why" の問いには答えられないとしても,"how" の問いに対しては有効な答えを与えることができると自信を示している.
We cannot answer the question "why" American English is as it is --- there is never a good answer to the "why" question in linguistics --- but it is now possible to address more adequately the question "how" it came to be as it is.
Kretzschmar の言葉遣いによると,ある言語現象を共時的に説明しようとする際の問いが "why" で,通時的・歴史的に説明しようとする際の問いが "how" であるようにも感じられる.あるいは,言語変化の原因を問うのが "why" で,言語変化の型を問うのが "how" であると述べているようにも聞こえる.
論者によって "how" と "why" という疑問詞によって何を指すのかはおおいに異なり得るということを認めた上で,私も言語変化の how_and_why にこだわり続けていきたい.
・ Kretzschmar, William A., Jr. "Complex Systems in the History of American English." Chapter 4 of Developments in English: Expanding Electronic Evidence. Ed. Irma Taavitsainen, Merja Kytö, Claudia Claridge, and Jeremy Smith. Cambridge, 2015. 251--64.
Kretzschmar は,言語を複雑系としてとらえ,言語変化を論じる研究者である.最近の論文で,複雑系の概念を用いて,アメリカ英語の諸変種がいかにして生じてきたかという問題を論じている.論文の冒頭 (251) で,発話を複雑系としてとらえる見方が端的に述べられている.
. . . language in use, speech as opposed to linguistic systems as usually described by linguists, satisfies the conditions for complex systems as defined in sciences such as physics, evolutionary biology, and economics . . . .
言語は複雑系とみなされるべき2つの特徴,すなわち "non-linear distribution" と "scaling" を備えているという (253) .前者 "non-linear distribution" は,具体的にいえば,漸近双曲線 (A-curve) の分布を指している.例としてすぐに思い浮かぶのは,「#1103. GSL による Zipf's law の検証」 ([2012-05-04-1]) や「#1101. Zipf's law」 ([2012-05-02-1]) で紹介した zipfs_law のグラフである.少数の高頻度語と多数の低頻度語により,右下へ長い尾を引くグラフが描かれる.Kretzschmar は,言語に関わる他の現象でもこのようなグラフが得られると主張する.
「言語=複雑系」に関するもう1つの特徴である "scaling" は,A-curve のような分布が言語の異なるレベルにおいて繰り返し現われる状況を指している.アメリカ東部諸州における方言単語(訛語)の頻度調査で,各形態について頻度順位の高い順に並べて頻度をプロットしていくと A-curve となるが,New York 州に限って同様のグラフを作成しても類似した曲線が得られるし,女性話者に限ったグラフでもやはり同様の曲線が得られるという (255) .
グラフが非線形でありスケール・フリーということになれば,当然ながら「#3123. カオスとフラクタル」 ([2017-11-14-1]) が想起される.関連して,「#3111. カオス理論と言語変化 (1)」 ([2017-11-02-1]),「#3112. カオス理論と言語変化 (2)」 ([2017-11-03-1]),「#3122. 言語体系は「カオスの辺縁」にある」 ([2017-11-13-1]) も参照されたい.
Kretzschmar (263--64) は論文の最後で,言語変種の生起・拡大を説明するのに複雑系の考え方が有用であると結論づけ,複雑系言語学を唱える.
Complexity science is the model that can cope successfully with the problems of language variation and change that we are interested in solving for the history of American English. Complexity science addresses the emergence of a new American variety, along with its component regional varieties, more adequately than traditional approaches. Complex systems replace the notion of monolithic "language contact" or Fischer's "cultural shift" with interaction between speakers. Complex systems can deal with the extension of existing varieties into new areas, and still account for the evident acquisition of new variants from important cultural groups in different areas. Finally, complex systems can cope with contemporary American cultural change and attendant language change, again without recourse to monolithic thinking. We are just at the beginning of research to understand the operation of the complex system of speech, but it is already clear that it gives us a good way to describe how the process of emergence and change really works.
従来のような "monolithic" な言語接触に基づいた理論ではなく,それを内に含み込むような複雑系の理論こそが,これからの言語変化研究を支えていくのではないかというわけだ.確かに刺激的な話題である.
・ Kretzschmar, William A., Jr. "Complex Systems in the History of American English." Chapter 4 of Developments in English: Expanding Electronic Evidence. Ed. Irma Taavitsainen, Merja Kytö, Claudia Claridge, and Jeremy Smith. Cambridge, 2015. 251--64.
『カオス的世界像』の著者スチュアート (481--82) によると,カオスについて興味深いことは,カオスと秩序との境目に近い「カオスの辺縁」において,ただならぬ何かが起こっているということである.
複雑性はカオスの概念の上に築かれるものである.実際,複雑性理論にうるさくつきまとう基本語――あるいはより正確には慣用句――は「カオスのふち(辺縁)」という語句である.カチカチと規則正しく時を刻む,歯車でできた時計仕掛の宇宙のように,いくつかのシステムは非常に単純な仕方でふるまう.しかし,カオス現象を示すシステムはもっとずっと複雑な仕方でふるまう.その極端な例として,気体分子の全体としてのランダムな運動がある.その中間にあるシステムは,もっと興味深い類のふるまい――複雑ではあるがパターンを暗示するようなふるまい――を示す.これらの複雑ではあるが組織化されたシステムは,まさに秩序とカオスの間の遷移状態にあるように見える――そして,それこそが「カオスの辺縁」なのである.ここで示唆されるのは,淘汰(選択)あるいは学習によってシステムがこの境域に行きつくということである.あまりに単純なシステムは,競合的環境のなかでは生き残れない.なぜなら,より複雑微妙なシステムはそれらの規則性を食い物にすることによって単純なシステムを出し抜けるからである.(もしもある現金輸送会社の車が,毎週金曜日の午前十時に銀行からお金を受け取り,正確に同じルートを通って輸送するとしたら,強盗はいとも簡単に現金強奪劇を演ずることができるだろう.)まったくランダムなシステムもまた,生き残らないだろう.なぜならそういうシステムは,秩序のある(コヒーレントな)ことは何もなし遂げられないからである.(もしも現金輸送車がまったくランダムなルートをとるとしたら,銀行に到着するまでに時間があまりにかかりすぎ,到着する前にその仕事は別の会社に奪われてしまうだろう.)だから,生き残るという点では,全体としての構造を失ってしなわない程度にできるかぎり複雑化するのが利益になるのである.進化するシステムは,カオスの辺縁にとどまるよう強いられているのである.
言語体系も,環境の変化に柔軟に適応する体系である.言語変異や言語接触は「カオスの辺縁」ととらえることができ,まさにそこで最もおもしろい現象が繰り広げられている.言語は,生き残りに成功してきた,単純すぎも複雑すぎもしない1つのシステムなのである.
関連して,「#3111. カオス理論と言語変化 (1)」 ([2017-11-02-1]),「#3112. カオス理論と言語変化 (2)」 ([2017-11-03-1]) も参照.
・ スチュアート,イアン(著),須田 不二夫・三村 和男(訳) 『カオス的世界像 非定形の理論から複雑系の科学へ』 白揚社,1998年.
昨日の記事 ([2017-11-02-1]) に引き続いての話題.カオス理論と言語変化の接点に注目した英語史研究者に Smith がいる.Smith (194) は,言語変化について次のように述べている.
Change . . . is the result of the complex interaction of extralinguistic and intralinguistic developments, and any resulting change itself interacts with further developments to produce yet more change. The conception is therefore a dynamic one . . . .
Smith (195) は,上のように述べた後で,このような多様な側面をもつ言語変化を「カオス理論」で説明され得る現象として提示している.
Such a multifarious conception of language change . . . seems to correspond to the most recent paradigm in both the natural and human sciences: 'chaos-theory'. Chaos-theory is really about order, about the way in which order results from complex interaction. The best-known popular example of this process --- the butterfly stamping in the forest causing a storm a thousand miles away --- is really about how a tiny innovation can make a difference, by interacting with other innovations to produce a snowball effect. If language is a metastable system deployed by interacting innovative and conservative language-users, it does not, in a chaotic world, require or imply some divine plan or overall grand design. Rather, living languages are the result of what Dawkins has called a 'blind watchmaker' effect, whereby order comes out of chaos.
Such an approach is hardly revolutionary, and . . . no claims of special newness are made here.
Smith は,言語変化を,言語に関与する種々の要素の "complex interaction" のたまものとしてとらえている.Smith の言語変化観については,「#1123. 言語変化の原因と歴史言語学」 ([2012-05-24-1]),「#1466. Smith による言語変化の3段階と3機構」 ([2013-05-02-1]),「#1928. Smith による言語レベルの階層モデルと動的モデル」 ([2014-08-07-1]) を参照.上の引用にもある "blind watchmaker" の比喩と関連して,teleology や invisible_hand の記事もどうぞ.
・ Smith, Jeremy J. An Historical Study of English: Function, Form and Change. London: Routledge, 1996.
1960年代より,カオス理論 (chaos_theory) は「時計じかけの宇宙」観に代わる自然科学のパラダイムとして受け入れられてきたのみならず,社会科学その他の領域へも応用されてきた.それは,気象学,物理学,天文学,数学に始まり,生物学,経済学,社会学にまで裾野を広げている.例えば,気象現象,流体力学,幾何学,生物の個体数の増加速度,立ち上る煙の振る舞い,綿花の価格などがカオス理論で説明されるといわれ,ほかには実用的なところでCGの描画にも活用されている.
カオス理論は,その名前とは裏腹に,実は秩序に関する理論である.一見ランダムで予測できない現象にも,ある種の傾向が見られると主張する.また,カオス理論は,初期条件が僅かに異なるだけでも,その後の振る舞いに甚大な影響が及ぼされる点を指摘する.その最も有名な例がバタフライ効果 (butterfly effect) だろう.『サイエンス大図鑑 コンパクト版』 (351) によれば,バタフライ効果とは,
カオス系の主な特徴である「初期条件に大きく左右される性質」を表現するために,エドワード・ローレンツが考案した用語.初期条件の変更がたとえわずかであっても,現象が何度も繰り返されるうちに,大きな差が生じてしまうことを示す.ローレンツは「蝶(バタフライ)がブラジルで羽ばたくと,テキサスで竜巻が起こる」と表現した.彼のデータから描かれたモデル“ローレンツ・アトラクタ”は,偶然にも蝶の形をしている.カオス的な現象の進行を示すこのモデルでは,突然,進行方向が逆転し,同じ軌跡は2度と通らない.
"Lorenz' attractor" と呼ばれる蝶を彷彿とさせるこの3次元のグラフは,天候の軌跡を表現している.開始点の座標がたとえ僅かでも異なると,軌道が大きく逸脱し,異なる羽形の領域(各々穏やかな天候と荒れた天候を表わす)へ帰着するという.
初期条件の僅かな異なりが後に甚大な差異をもたらす現象を,数学の簡単な例で確かめることができる.A を定数(ここでは A = 2 とおく)とし,x0 を0から1の間をとるものとする(ここでは x0 = 0.9 とおく).このとき,x1 を Ax0(1 - x0) と定義すれば,x1 = 2 * 0.9 * (1 - 0.9) = 0.18 となる.同様に,x2 = Ax1(1 - x1) = 2 * 0.18 * (1 - 0.18) = 0.2952 とし,このサイクルを繰り返して,x0 から xn までの数列を得る.結果は,0.09, 0.18, 0.2952, 0.4161, 0.4859, 0.4996, 0.5000, 0.5000, ... となり,0.5000で安定する.A の値を2から3まで大きくしても,安定期に入るまでのサイクル数は増えるものの,最終的には安定する.これは,振り子が多少乱されても,最終的には揺れが安定してくることになぞらえられる.
ところが,A が3を超えると,2つの数を行き来する関係に至るなど予期できない振る舞いを示すようになる.そして,A が3.57程度になると,いつまでたっても定期性を示さない状態,すなわちカオスの状態に帰結する.例えば,A を3.7とおき,初期値の x0 を 0.9 と置いた場合と,僅かに異なる 0.9000009 と置いた場合の数列を得てグラフをプロットすると,以下のように興味深い結果が得られる.
35サイクルまでは2つのグラフは事実上重なっているが,以降40サイクルくらいまでにある種の安定的な分岐を示すようになり,その後は互いに無関係のカオス的な様相を呈する.すべては,初期値の僅かな差に由来するのだ.見方を変えれば,種々の初期条件がほぼ一致していたとしても,ある1つの条件において0.000009ほどの差があれば,後にたどる運命を天と地ほどまで違えるのに十分であるということになる.
カオス理論は,「環境」が関与するありとあらゆる分野に適用されることが明らかになってきている.言語とその変化も「環境」のなかで作用しているものであるから,当然,カオス理論と無縁ではない.例えば,拙著『英語の「なぜ?」に答える はじめての英語史』の「3.5.2 -e の衰退の一波万波」で示したとおり,英語史における屈折語尾の弱化という調音の僅かな変化が引き金となって,英語の統語論ががらんと組み替えられた事例が,カオス理論のバタフライ効果に対応するだろうか.言語も,「一波動けば万波生ず」なのである.
明日の記事でも,引き続きカオス理論の話題を扱う.
・ デイヴィス,アダム・ハート(総監修),日暮 雅通(監訳) 『サイエンス大図鑑 コンパクト版』 河出書房新社,2014年.
・ 堀田 隆一 『英語の「なぜ?」に答えるはじめての英語史』 研究社,2016年.
歴史言語学は言語変化を扱う分野だが,なぜ言語は変化するのかという原因 (causation) を探究するという営みについては様々な立場がある.本ブログでも言語変化 (language_change) の「原因」「要因」「駆動力」を様々に論じてきたが,「なぜ」に対する答えはそもそも存在するのだろうかという疑念が常につきまとっている.仮に与えられた答えらしきものは,言語変化の「なぜ」 (Why?) に対する答えではなく,「どのように」 (How?) に対する答えにすぎないのではないか,と.言語変化の How と Why については,「#2123. 言語変化の切り口」 ([2015-02-18-1]) と「#2255. 言語変化の原因を追究する価値について」 ([2015-06-30-1]) で別々の問いであるかのように扱ってきたが,この2つの問いはどのような関係にあるのだろうか.
連日参照している Harari (265--66) は,歴史学の立場からこの問題を論じており,Why に対する How の重要性を説いている.
What is the difference between describing 'how' and explaining 'why'? To describe 'how' means to reconstruct the series of specific events that led from one point to another. To explain 'why' means to find causal connections that account for the occurrence of this particular series of events to the exclusion of all others.
Some scholars do indeed provide deterministic explanations of events such as the rise of Christianity. They attempt to reduce human history to the workings of biological, ecological or economic forces. They argue that there was something about the geography, genetics or economy of the Roman Mediterranean that made the rise of a monotheist religion inevitable. Yet most historians tend to be sceptical of such deterministic theories. This is one of the distinguishing marks of history as an academic discipline --- the better you know a particular historical period, the harder it becomes to explain why things happened one way and not another. Those who have only a superficial knowledge of a certain period tend to focus only on the possibility that was eventually realised. They offer a just-so story to explain with hindsight why that outcome was inevitable. Those more deeply informed about the period are much more cognisant of the roads not taken.
では,歴史の Why ではなく How に踏みとどまざるを得ない歴史学とは何のためにあるのか.Harari (48) は解放感のある次のような言葉で言い切る.
So why study history? Unlike physics or economics, history is not a means for making accurate predictions. We study history not to know the future but to widen our horizons, to understand that our present situation is neither natural nor inevitable, and that we consequently have many more possibilities before us than we imagine. For example, studying how Europeans came to dominate Africans enables us to realise that there is nothing natural or inevitable about the racial hierarchy, and that the world might well be arranged differently.
未来予測が歴史学の目的ではない.同じように,言語変化を扱う歴史言語学も,言語の未来予測を目的としていない.
言語の予測可能性については,「#843. 言語変化の予言の根拠」 ([2011-08-18-1]),「#844. 言語変化を予想することは危険か否か」 ([2011-08-19-1]),「#1019. 言語変化の予測について再考」 ([2012-02-10-1]),「#2154. 言語変化の予測不可能性」 ([2015-03-21-1]),「#2273. 言語変化の予測可能性について再々考」 ([2015-07-18-1]) をはじめとする (prediction_of_language_change) の記事を参照されたい.
・ Harari, Yuval Noah. Sapiens: A Brief History of Humankind. 2011. London: Harvill Secker, 2014.
「#2993. 後期近代英語への関心の高まり」 ([2017-07-07-1]) で,近年,後期近代英語期の研究が盛り上がってきていることに触れた.その理由は様々に説明できるように思われるが,Kytö et al. (4--5) の指摘している4点に耳を傾けよう.19世紀の英語が研究に値する理由として,先の記事で触れたものと合わせて確認しておきたい.
(1) 19世紀中に識字率が上がったことにより,多種多様なテキストが豊富に生み出された.とりわけ性差と言語変化の関係がよく調査できるようになった.
(2) Brown Family のような現代英語のコーパスによる研究の成果として,数十年ほどの短期間における言語変化に注目が集まった.ここから,後期近代英語期の社会的・政治的な出来事と,当時の言語変化の関係を探る研究が試みられるようになった.
(3) この時期にジャンルの広がりが見られた.特に,私信,新聞,小説,科学の言説など,現代にかけて重要性を増すことになる諸ジャンルが開拓された時期として重要である.
(4) 19世紀は,イギリス以外の英語変種の多くにとって形成期に相当する.
いずれの項目も,後期近代英語期に特有の特殊な歴史事情を反映していることはいうまでもないが,それ以上に近年のコーパス言語学,社会言語学,語用論といったアプローチが興隆してきた学史的な背景と連動していることが重要である.もとより歴史的な分野であるとはいえ,いま歴史のどの側面に関心を寄せやすいのか,関心があるのかという現在的な動機こそが,歴史研究を駆動していくものだとわかる.
・ Kytö, Merja, Mats Rydén, and Erik Smitterberg. "Introduction: Exploring Nineteenth-Century English --- Past and Present Perspective." Nineteenth-Century English: Stability and Change. Ed. Merja Kytö, Mats Rydén, and Erik Smitterberg. Cambridge: CUP, 2006. 1--16.
昨日の記事 ([2017-07-16-1]) に引き続き,標題の第4弾.後期近代英語期に対する関心と注目が本格的に増してきたのは,「#2993. 後期近代英語への関心の高まり」 ([2017-07-07-1]) で見たとおり,今世紀に入ってからといっても過言ではない.しかし,それ以前にもこの時代に関心を寄せる個々の研究者はいた.早いところでは,英語史の名著の1つを著わした Strang も,少なからぬ関心をもって後期近代英語期を記述した.Strang は,この時代に体系的な音変化が生じていない点を指摘し,同時代が軽視されてきた一因だとしながらも,だからといって語るべき変化がないということにはならないと論じている.
Some short histories of English give the impression that changes in pronunciation stopped dead in the 18c, a development which would be quite inexplicable for a language in everyday use. It is true that the sweeping systematic changes we can detect in earlier periods are missing, but the amount of change is no less. Rather, its location has changed: in the past two hundred years changes in pronunciation are predominantly due, not, as in the past, to evolution of the system, but to what, in a very broad sense, we may call the interplay of different varieties, and to the complex analogical relationship between different parts of the language. (78--79)
(音)変化の現場が変わった,という言い方がおもしろい.では,現場はどこに移動したかといえば,変種間の接触という社会言語学的な領域であり,体系内の複雑な類推作用という領域だという.
ここで Strang に質問できるならば,では,中世や初期近代における言語変化は,このような領域と無縁だったのか,と問いたい.おそらく無縁ということはなく,かつても後期近代と同様に,変種間の相互作用や体系内の類推作用はおおいに関与していただろう.ただ異なるのは,かつての時代の言語を巡る情報は後期近代英語期よりもアクセスしにくく,本来の複雑さも見えにくいということではないか.後期近代英語期は,ある程度の社会言語学的な状況も復元することができてしまうがゆえに,問題の複雑さも実感しやすいということだろう.解像度が高いだけに汚れが目立つ,とでも言おうか.つまり,変化の現場が変わったというよりは,最初からあったにもかかわらず見えにくかった現場が,よく見えるようになってきたと表現するのが妥当かもしれない.もちろん,現代英語期については,なおさらよく見えることは言うまでもない.
・ Strang, Barbara M. H. A History of English. London: Methuen, 1970.
標題に関して「#319. 英語話者人口の銀杏の葉モデル」 ([2010-03-12-1]),「#339. 英語史が近代英語期で止まってしまったかのように見える理由」 ([2010-04-01-1]),「#386. 現代英語に起こっている変化は大きいか小さいか」 ([2010-05-18-1]),「#622. 現代英語の文法変化は統計的・文体的な問題」 ([2011-01-09-1]),「#1430. 英語史が近代英語期で止まってしまったかのように見える理由 (2)」 ([2013-03-27-1]) で取り上げてきたが,もう1つ議論の材料を追加したい.
近代英語末期から現代英語期にかけての時代を扱った Cambridge 英語史シリーズ第4巻の編者 Romaine は,序章でこの時代を次のように特徴づけている (1) .
The final decades of the eighteenth century provide the starting point for this volume --- a time when arguably less was happening to shape the structure of the English language than to shape attitudes towards it in a social climate that became increasingly prescriptive. . . . The most radical changes to English grammar had already taken place over the roughly one thousand years preceding the starting year of this volume.
この時期には,言語体系に影響するような変化はさほど起こっておらず,むしろ話者の態度における変化(主として規範主義的言語観の定着)が顕著に見られるのだという.言い換えれば,言語学的な変化というよりは社会言語学的な変化に特徴づけられる時代ということであり,歴史社会言語学的な側面がクローズアップされる時代ということになる.
この時期,特に文法の分野で大規模な変化として見るべきものがないことは,「#622. 現代英語の文法変化は統計的・文体的な問題」 ([2011-01-09-1]) で触れた通りだが,Romaine (2) も同じ趣旨で次のように論じている.
The immediately preceding period dealt with in Volume III (1476--1776) of this series, the Early Modern Period, has often been described as the formative period in the history of Modern Standard English. By the end of the seventeenth century what we might call the present-day 'core' grammar of Standard English was already firmly established. As pointed out by Denison in his chapter on syntax, relatively few categorical innovations or losses occurred. The syntactic changes during the period covered in this volume have been mainly statistical in nature, with certain construction types becoming more frequent.
もちろん,(後期)近代英語期に英語史の流れが本当に止まったわけではない.言語内的な変化は,先行する時代に比して確かに目立たないと言えそうだが,言語外的な変化は激しく生じている.英語史が内的な歴史(内面史)と外的な歴史(外面史)の和である以上,その流れが止まることは決してない.
・ Romaine, Suzanne. "Introduction." The Cambridge History of the English Language. Vol. 4. Cambridge: CUP, 1998. 1--56.
標記の話題について,Crystal (296--97) は著書の終わりに近い部分で,説得力をもって次のように述べている.
It is no more than common sense for those who have invested a childhood, or adult time and money, in successfully acquiring the English language to maintain an active interest in the language's progress. The more we learn about where the language has been, how it is structured, how it is used, and how it is changing, the more we will be able to judge its present course and help to plan its future. For many people, this will indeed mean a conscious altering of attitude. Language variation and language change --- the two aspects of English which are at the centre of its identity, and which are most in the public eye --- are too often blindly condemned. If just a fraction of the nervous energy which is currently devoted to the criticism of split infinitives and the intrusive r were devoted to the constructive promotion of forward-looking language activities, what might not be achieved?
Crystal は,英語の変化と変異 (change and variation) を学ぶことにより,その現在をよりよく判断し,未来をよりよく計画することができると力説している.これが,英語の歴史を始め,構造,変異,使用を学ぶ意義だろう.現在,そして未来に向けて,英語とうまく付き合っていくための知識であり知恵となる.さらに,英語史を学ぶことは,母語を含めた言語一般に対する視野を広げ,寛容な態度を育てることにも貢献する.今後も,この分野のもつ大きな可能性を指摘し,説いていきたいと思っている.
関連して,「#24. なぜ英語史を学ぶか」 ([2009-05-22-1]),「#1199. なぜ英語史を学ぶか (2)」 ([2012-08-08-1]),「#1200. なぜ英語史を学ぶか (3)」 ([2012-08-09-1]),「#1367. なぜ英語史を学ぶか (4)」 ([2013-01-23-1]) も参照.
・ Crystal, David. The English Language. 2nd ed. London: Penguin, 2002.
カーランスキー(著)『紙の世界史』を読んだ.紙の歴史については「#2465. 書写材料としての紙の歴史と特性」 ([2016-01-26-1]) でも扱ったが,密接に関連する印刷術のテクノロジーと合わせて,紙が人類の文明に偉大な貢献をなしたことは疑いようがない.
カーランスキーの紙の歴史の叙述は一級品だが,テクノロジーの歴史に関する一般的な原理の指摘も示唆に富んでいる (11) .
テクノロジーの歴史から学ぶべき重要なこと,一般に誤った推論がなされていることはほかにもある.新しいテクノロジーは古いテクノロジーを排除するというのがそのひとつだ.これはめったには起こらない.パピルスは紙が導入されてからも地中海沿岸を中心とする地域で何世紀も使われつづけた.羊皮紙はいまだに使われている.ガスや電気ストーブが発明されても暖炉がなくなることはなかった.印刷ができるようになっても人はペンで書くことをやめなかった.テレビはラジオを駆逐しなかった.映画は劇場をなくせなかった.ホームビデオも映画館をなくせなかった.が,今挙げたものはどれも誤った予測をたてられた.電卓がそろばんの使用を終わらせることさえできなかったのに.そして,商業的成功を約束された電球の特許がトーマス・エジソンに与えられた一八七九年から一世紀以上経った現在でも,アメリカ合衆国だけで四百社の蝋燭製造業者が存在し,およそ七千人の従業員を雇い,年間で二十億ドル以上を売り上げている.二十一世紀の最初の十年には蝋燭の売り上げが伸びたほどだ.むろん蝋燭の使い途は大きく変わったけれども.同様のことは羊皮紙の製造法や用途についても起こった.新たなテクノロジーは古いテクノロジーを排除するというより選択肢を増やすのだ.コンピュータはまちがいなく紙の役割を変えるだろうが,紙が消えることはけっしてない.
確かに,紙に印刷された書籍が現われたあとも長らく羊皮紙はとりわけ正式な文書にふさわしい素材だとみなされ続け,18世紀末のアメリカ独立宣言においても羊皮紙で書かれるべきことが説かれたほどである.
昨今,紙の書籍と電子書籍の競合についての議論が盛んだが,カーランスキー (461--62) は上記のテクノロジー観をさらに押し進めて,次のように述べる.
デジタル時代に消えてゆくであろうものを予測するまえに,口承文化が今も生き残っているということを思い出してみるのもいいだろう.新刊本の販売促進で最初におこなわれるイベントが著者による朗読会であったりするのは,人には耳で聞いたものを読みたくなる傾向があるからだろう.オーディオブックも人気となっている.
なるほど,古いテクノロジーは新しいテクノロジーにより置き換えられるというよりは,独特な機能を保持・獲得しつつ,存続してゆくことが多いものかもしれない.これは,ちょうど古い語が新しい語に置き換えられるのではなく,語義,用法,使用域を特化させてしぶとく生き残っていく様にも似ている.古きものは社会の一線からは退くかもしれないが,完全に廃棄されてしまうわけではなく,むしろ選択肢の一つとして積み重ねられていき,生活や表現のヴァリエーションを豊かにしていくものなのだろう.
・ マーク・カーランスキー(著),川副 智子(訳)『紙の世界史 歴史に突き動かされた技術』 徳間書店,2016年.
渋沢栄一と言語(学)はあまり結びつかないと思われるが,『論語と算盤』のなかの「習慣の感染性と伝播力」と題する節で,善事の習慣も悪事の習慣も人々に感染するものだから,よく気をつけなければならない,と説くくだりがある.そこで,「言語動作」も例外ではないとして,言語の伝播について,そして実質的には言語の変化について触れている (pp. 101--02) .
言語動作のごときは,甲の習慣が乙に伝わり,乙の習慣が丙に伝わるような例は,決して珍しくない.著しい例証を挙ぐれば,近来新聞紙上に折々新文字が見える.一日甲の新聞にその文字が登載されたかと思うと,それがたちまち乙丙丁の新聞に伝載され,遂には社会一般の言語として,誰しも怪しまぬことになる.かの「ハイカラ」とか「成金」とかいう言葉は,すなわちその一例である.婦女子の言葉などもやはり左様で,近頃の女学生が頻りに「よくッてよ」とか「そうだわ」とかいう類の言語を用いるのも,ある種の習慣が伝播したものといって差し支えない.また昔日は無かった「実業」という文字のごときも,今日は最早習慣となり,実業といえばただちに,商工業のことを思わせるようになって来た.かの「壮士」という文字なども,字面から見れば壮年の人でなければならぬ筈であるのに,今日では老人を指しても壮士といい,誰一人それを怪しむものなきに至っている.もって習慣が,如何に感染性と伝播力を持っているかを察知するに足るであろう.しかして,この事実より推測する時は,一人の習慣は終に天下の習慣となりかねまじき勢いであるから,習慣に対しては深い注意を払うとともに,また自重してもらわねばならぬのである.
当時の新語や言葉遣いの様子が分かっておもしろい.渋沢がこれらの新語に対して必ずしも好意的ではなかったように読めるが,いずれにせよ,それほど言葉も強い感染力と伝播力をもっているのだ,ということが説かれている.
また,言語が伝播するというよりは,言語動作が伝播するという言い方をしているのもおもしろい.言語そのものよりも,その話者に一歩近い立場から言語変化を見ていることになるだろうか.
「感染性」と「伝播力」と関連して,語彙拡散の諸問題について「#5. 豚インフルエンザの二次感染と語彙拡散の"take-off"」 ([2009-05-04-1]),「#1572. なぜ言語変化はS字曲線を描くと考えられるのか」 ([2013-08-16-1]),「#2299. 拡散の駆動力3点」 ([2015-08-13-1]) を含む lexical_diffusion の各記事を参照されたい.
・ 渋沢 栄一 『論語と算盤』 忠誠堂,1927年.KADOKAWA,2008年.
進化生物学では,自然淘汰 (natural selection) と関連して淘汰圧 (selective pressure or evolutionary pressure) という概念がある.伊勢 (23) の説明を見てみよう.
自然淘汰の強さの度合いを表わすときに,淘汰圧 (selective pressure または evolutionary pressure) という言葉を使います.形質による適応度の違いが大きいとき,淘汰圧は高くなります.たとえば,環境が悪化して多くの個体が子孫を残さずに死に絶え,適応度の高いごく一部の個体だけが子孫を残して繁栄するような状況では,淘汰圧は高くなります.
淘汰圧が高いとき,進化は猛スピードで進みます.適応度は形質によって大きく異なるので,高い適応度を生む形質が自然淘汰で選ばれていき,適応度を下げる形質は急速に失われていきます.逆に,淘汰圧が低い状況では,形質が違ってもそれほど適応度に差が見られません.よって,世代を経ても形質の変化はあまり見られません.
伊勢は,例としてアルビノ化を挙げている.アルビノ化した個体はカモフラージュが苦手なので,一般に生存確率が下がる.つまり適応度を下げる形質なので,通常の淘汰圧の高い状況下では,失われていくことがほとんどである.ところが,真っ暗な洞窟など,カモフラージュすることが意味をもたない環境においては,淘汰圧は低いため,アルビノ化した個体が適応度の点で特に劣ることにはならない.洞窟においては,アルビノ化(の有無)は重要性をもたないのである.
さて,ここで言語の話題に移ろう.言語変化を,広い意味で言語をとりまく環境の変化に適応するための自然淘汰であると捉えるのであれば,言語における淘汰圧というものを考えることは有用だろう.淘汰圧が高い状況では,ちょっとした言語項の変異でも重要性を帯び,より適応度の高い変異体が選択される可能性が高い.一方,淘汰圧が低い状況では,それなりに目立つ変異であってもさほど重要性をもたないため,特定の変異体が勝ったり負けたりというような淘汰のプロセスへ進んでいかない.
では,言語において淘汰圧の高い状態や低い環境とは何だろうか.言語体系内での圧力と言語体系外の圧力に分けて考えることができる.前者については,構造言語学的な観点から機能負担量 (functional_load),対立の効率性,体系の対称性など,様々な考え方がある.後者については,社会言語学や語用論で取り上げられる話者間の相互作用や言語接触などが,特定の言語環境を用意する要素となる.
生物における淘汰圧が進化の速度にも関係するということは,言語についても当てはまりそうである.淘汰圧が高ければ,おそらく言語変化はスピーディに進むだろう.この点に関しては,エントロピー (entropy) という,もう1つの興味深い話題も想起される.「#1810. 変異のエントロピー」 ([2014-04-11-1]),「#1811. "The later a change begins, the sharper its slope becomes."」 ([2014-04-12-1]) の議論を参照されたい.
・ 伊勢 武史 『生物進化とはなにか?』 ベレ出版,2016年.
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