今でも英文法書などで触れられる機会があるからでしょうか,標題の質問はよく問われます.船や国名は無生物ですから,人称代名詞としては中性の人称代名詞 it で受けるのが適切のように思われますが,ときに女性の人称代名詞 she で受けられます.
・ There were over two thousand people aboard the Titanic when she left England.
・ Look at my sports car. Isn't she a beauty?
・ France increased her exports by 10 per cent.
・ After India became independent, she chose to be a member of the Commonwealth.
英語の歴史を少しかじっている方は,古英語には,フランス語やドイツ語などに現在も存在している文法性 (grammatical gender) があったということを知っているかと思います.古英語ではすべての名詞が男性,女性,中性のいずれかに振り分けられており,しかもその名詞の指示対象の生物学的な性とは必ずしも一致していなかったという,厄介な名詞分類があったのです.すると,船や国家を受ける she も古英語時代の文法性の名残ではないかと疑われるかもしれません.
しかし,そうではありません.「船」についていえば古英語の sċip (ship) は中性名詞でしたし,bāt (boat) も男性名詞でした.つまり,古英語の文法性は無関係です.では,なぜ現代英語では she が用いられることがあるのでしょうか.解説をどうぞ.
古英語で機能していた文法性は,中英語期にかけて崩壊していきます.この中英語期に,大陸の文学・文化の影響を受けて,前時代の文法性とは独立した「擬人性」という別種のジェンダーが発達することになったのです.船を始めとする乗り物や道具,そして国家などは,その舵取り役は歴史を通じて主に男性が担ってきました.船首や為政者である男性は,船や国家を「連れ合い」「愛人」「支配・制御すべきもの」として女性に見立てたということかもしれません.
ただし,近年の英語ではこの慣習は失われてきており,とりわけ公的な言葉使いとしては避けられるようになってきていることは付け加えておきましょう.
ということで,標題の素朴な疑問に対しては,中英語期以降に発達した「擬人性」の伝統を受け継いできたから,と答えておきます.この話題について深く知りたい方は,ぜひ ##3647,852,853,854,1912,1028,1517の記事セット をどうぞ.
いよいよ始まった今学期の社会言語学の授業では「言語と性」という抜き差しならぬテーマを扱う.このテーマから連想される話題は多岐にわたる.あまりに広い範囲を覆っているために,一望するのが困難なほどである.実際に,授業の履修生に連想される話題を箇条書きで挙げてもらったところ,のべ1,000件を優に超える話題が集まった.重複するものも多く,整理すればぐんと減るとは思われるが,それにしても凄い数だ(←皆さん,協力ありがとう).その一部を覗いてみよう.
・ (英語を除く)主要な印欧諸語にみられる文法性 (grammatical gender)
・ 代名詞にみられる性差
・ 職業名や称号を巡るポリティカル・コレクトネス (political_correctness)
・ LGBTQ と言語
・ 擬人化された名詞の性
・ 人名における性
・ 「男言葉」と「女言葉」
・ 性に関するスラングやタブー語
・ 性別によるコミュニケーションの取り方の違い
・ イントネーションの性差
そもそも,古今東西すべての言語で,「男」 (man) と「女」 (woman) という2つの単語が区別されて用いられている点からして,もう言語における性の話しは始まっているのである.最先端の関心事である LGBTQ やポリティカル・コレクトネスの問題に迫る以前に,すでに性は言語に深く刻まれている.
最先端の話題ということでいえば,10月2日の読売新聞朝刊で,JAL が乗客に対する「レディース・アンド・ジェントルメン」の呼びかけをやめ「オール・パッセンジャーズ」へ切り替える決定をしたとの記事を読んだ.人間の関心事としては最重要なものの1つとして認識される性,それが人間に特有の言語という体系に埋め込まれていないわけがないのである.
「言語と性」のテーマの広さを味わうところから議論を始めたいと思っている.こちらの hellog 記事セットをどうぞ.
昨日の記事「#4039. 言語における性とはフェチである」 ([2020-05-18-1]) で,言語における性 (gender) とは,かつての言語共同体の抱いていた独自の世界観(=物の見方のフェチ)を反映した名詞の分類法であるという趣旨で議論を展開した.実は,性に限らず文法カテゴリー (category) というものは,およそそのような人間の分類フェチの現われたものではないかと考えている.文法から離れても,語彙の分類などはまさにフェチのたまものだ.
本ブログでは,この観点から様々な記事を書いてきたので,この辺りで記事セットをまとめておきたい.
・ 「言語に反映されている人間の分類フェチ」の記事セット
なお,日本語のフェチとはフェティシズムの略で,手元にあった『広辞苑第六版』を引くと「呪物崇拝」「物神崇拝」「異性の衣類・装身具などに対して,異常に愛着を示すこと.性的倒錯の一種.」とある.英語の fetishism のもととなる fetish (n.) については,OALD8 によると以下の通り.
1 (usually disapproving) the fact that a person spends too much time doing or thinking about a particular thing
・ She has a fetish about cleanliness.
・ He makes a fetish of his work.
2 the fact of getting sexual pleasure from a particular object
・ to have a leather fetish
3 an object that some people worship because they believe that it has magic powers
言語のカテゴリーについて私がインフォーマルに用いている「フェチ」という表現は,「ある言語共同体の特有の思考法や分類法が言語上に反映されたもの」ほどの意である.
言語における文法上の性 (grammatical gender) は,それをもたない日本語や英語の話者にとっては実に不可解な現象に映る.しかし,印欧語族ではフランス語,スペイン語,ドイツ語,ロシア語,ラテン語などには当たり前のように見られるし,英語についても古英語までは文法性が機能していた.世界を見渡しても,性をもつ言語は多々あり,4つ以上の性をもつ言語も少なくない.
古英語の例で考えてみよう.古英語では個々の名詞が原則として男性 (masculine),女性 (feminine),中性 (neuter) のいずれかに振り分けられているが,その区分は必ずしも生物学的な性,すなわち自然性 (natural gender) とは一致しない.女性を意味する wīf (形態的には現代の wife に連なる)は中性名詞ということになっているし,同じく「女性」を意味する wīfmann (現代の woman に連なる)はなんと男性名詞である.「女主人」を意味する hlǣfdiġe (現代の lady に連なる)は女性名詞なので安堵するが,無生物であるはずの stān (現代の stone)は男性名詞であり,lufu (現代の love)は女性名詞である.分類基準がよく分からない(cf. 「#3293. 古英語の名詞の性の例」 ([2018-05-03-1])).
古英語の話者を捕まえて,いったいなぜなのかと尋ねることができたとしても,返ってくる答えは「わからない,そういうことになっているから」にとどまるだろう.現代のフランス語話者にも尋ねてみるとよい.なぜ太陽 soleil は男性名詞で,月 lune は女性名詞なのかと.そして,ドイツ語話者にも尋ねてみよう.なぜ逆に太陽 Sonne が女性名詞で,月 Mund が男性名詞なのかと.いずれの話者も納得のいく答えを返せないだろうし,言語学者にも答えられない.
言語の性とは何なのか.私は常々標題のように考えてきた.言語における性とはフェチなのである.もう少し正確にいえば,言語における性とは人間の分類フェチが言語上に表わされた1形態である.
人間には物事を分類したがる習性がある.しかし,その分類の仕方については個人ごとに異なるし,典型的には集団ごとに,とりわけ言語共同体ごとに異なるものである.それぞれの分類の原理はその個人や集団が抱いていた世界観,宗教観,人生観などに基づくものと推測されるが,それらの当初の原理を現在になってから復元することはきわめて困難である.現在にまで文法性が受け継がれてきたとしても,かつての分類原理それ自体はすでに忘れ去られており,あくまで形骸化した形で,この語は男性名詞,あの語は女性名詞といった文法的な決まりとして存続しているにすぎないからだ.
世界観,宗教観,人生観というと何やら深遠なものを想起させるが,そのような真面目な分類だけでなく,ユーモアやダジャレなどに基づくお遊びの分類も相当に混じっていただろう.そのような可能性を勘案すれば,性とはフェティシズム (fetishism),すなわちその言語集団がもっていた物の見方の癖くらいに理解しておくのが妥当だろう.いずれにせよ現在では真には理解できず,復元もできないような代物なのだ.自分のフェチを他人が理解しにくく,他人のフェチを自分が理解しにくいのと同じようなものだ.
言語学用語としての gender を「性」と訳してきたことは,ある意味で不幸だった.英単語 gender は,ラテン語 genus が古フランス語 gendre を経て中英語期にまさに文法用語として入ってきた単語である.genus の原義は「種族,種類」ほどであり,現代フランス語で対応する genre は「ジャンル,様式」である.英語本来語である kind 「種類」も,実はこれらと同根である.確かに人類にとって決して無関心ではいられない人類自身の2分法は男女の区別だろう.最たる gender がとりわけ男女という sex の区別に適用されたこと自体は自然である.しかし,こと言語の議論について,これを「性」と解釈し翻訳してしまったのは問題だった.gender, genre, kind は,もともと男女の区別に限らず,あらゆる観点からの物事の区別に用いられるはずであり,いってみれば単なる「種類」を意味する普通名詞なのである.これを男性と女性(およびそのいずれでもない中性)という sex に基づく種類に限ってしまったために,なぜ「石」が男性名詞なのか,なぜ「愛」が女性名詞なのか,なぜ「女性」が中性名詞や男性名詞なのかという混乱した疑問が噴出することになってしまった.
この問題への解決法は「gender = 男女(中)性の区別」というとらえ方から解放され,A, B, C でもよいし,イ,ロ,ハでもよいし,甲,乙,丙でも何でもよいので,さして意味もない単なる種類としてとらえることだ.古英語では「石」はAの箱に入っている,「愛」はBの箱に入っている等々.なまじ意味のある「男」や「女」などのラベルを各々の箱に貼り付けてしまうから,話しがややこしくなる.
このとらえ方には異論もあろう.上では極端な例外を挙げたものの,多くの文法性をもつ言語で,男性(的なもの)を指示する名詞は男性名詞に,女性(的なもの)を指示する名詞は女性名詞に属することが多いことは明らかだからだ.だからこそ「gender = 男女(中)性の区別」の解釈が助長されてきたのだろう.しかし,それではすべてを説明できないからこそ,一度「gender = 男女(中)性の区別」の見方から解放されてみようと主張しているのである.男女の違いは確かに人間にとって関心のある区別だろう.しかし,過去に生きてきた無数の人間集団は,それ以外にも現在では推し量ることもできないような変わった関心,独自のフェティシズムをもって物事を分類してきたのではないか.それが形骸化したなれの果てが,フランス語,ドイツ語,あるいは古英語に残っている gender ということではないか.
私は gender に限らず言語における文法カテゴリー (category) というものは,基本的にはフェティシズムの産物だと考えている.人類言語学 (anthropological linguistics),社会言語学 (sociolinguistics),認知言語学 (cognitive_linguistics),「サピア=ウォーフの仮説」 (sapir-whorf_hypothesis) などの領域にまたがる,きわめて広大な言語学上のトピックである.
gender の話題ついては,gender の記事群のほか,改めて「言語における性の問題」の記事セットも作ってみた.こちらも合わせてどうぞ.
古英語の3人称代名詞の屈折表について「#155. 古英語の人称代名詞の屈折」 ([2009-09-29-1]) でみたとおりだが,単数でも複数でも,そして男性・女性・中性をも問わず,いずれの形態も h- で始まる.共時的にみれば,古英語の h- は3人称代名詞マーカーの機能を果たしていたといってよいだろう.ちょうど現代英語で th- が定的・指示的な語類のマーカーであり,wh- が疑問を表わす語類のマーカーであるのと同じような役割だ.
非常に分かりやすい特徴ではあるが,皮肉なことに,この特徴こそが中英語にかけて3人称代名詞の屈折体系の崩壊と再編成をもたらした元凶なのである.古英語では,h- に続く部分の母音等の違いにより性・数・格をある程度区別していたが,やがて屈折語尾の水平化が生じると,性・数・格の区別が薄れてしまった.たとえば古英語の hē (he), hēo (she), hīe (they) が,中英語では(方言にもよるが)いずれも hi などの形態に収斂してしまった.h- そのものは変化しなかったために,かえって混乱を来たすことになったわけだ.かつては「非常に分かりやすい特徴」だった h- が,むしろ逆効果となってしまったことになる.
そこで,この問題を解決すべく再編成のメカニズムが始動した.h- ではない別の子音を語頭にもつ she が女性単数主格に,やはり異なる子音を語頭にもつ they が複数主格に進出し,後期中英語までに古形を置き換えたのである(これらに関する個別の問題については「#713. "though" と "they" の同音異義衝突」 ([2011-04-10-1]),「#827. she の語源説」 ([2011-08-02-1]),「#974. 3人称代名詞の主格形に作用した異化」 ([2011-12-27-1]),「#975. 3人称代名詞の斜格形ではあまり作用しなかった異化」 ([2011-12-28-1]),「#1843. conservative radicalism」 ([2014-05-14-1]),「#2331. 後期中英語における3人称複数代名詞の段階的な th- 化」 ([2015-09-14-1]) を参照).
さて,古英語における h- は共時的には3人称代名詞マーカーだったと述べたが,通時的にみると,どうやら単数系列の h- と複数系列の h- は起源が異なるようだ.つまり,h- は古英語期までに結果的に「非常に分かりやすい特徴」となったにすぎず,それ以前には両系列は縁がなかったのだという.Lass (141) を参照した Marsh (15) は,単数系列の h- は印欧祖語の直示詞 *k- にさかのぼり,複数系列の h- は印欧祖語の指示代名詞 *ei- ? -i- にさかのぼるという.後者は前者に基づく類推 (analogy) により,後から h- を付け足したということらしい.長期的にみれば,この類推作用は古英語にかけてこそ有用なマーカーとして恩恵をもたらしたが,中英語にかけてはむしろ迷惑な副作用を生じさせた,と解釈できるかもしれない.
なお,上で述べてきたことと矛盾するが「#467. 人称代名詞 it の語頭に /h/ があったか否か」 ([2010-08-07-1]) という議論もあるのでそちらも参照.
・ Marsh, Jeannette K. "Periods: Pre-Old English." Chapter 1 of English Historical Linguistics: An International Handbook. 2 vols. Ed. Alexander Bergs and Laurel J. Brinton. Berlin: Mouton de Gruyter, 2012. 1--18.
・ Lass, Roger. Old English: A Historical Linguistic Companion. Cambridge: CUP, 1994.
連日 want という語を英語史的に掘り下げる記事を書いている(過去記事は [2020-04-08-1] と [2020-04-09-1]).今回は語末の t について考えてみたい.
英語史の教科書などでは,want のような日常的な単語が古ノルド語からの借用語であるというのは驚くべきこととしてしばしば言及される.また,語末の t が古ノルド語の形容詞の中性語尾であることも指摘される(cf. 「#1253. 古ノルド語の影響があり得る言語項目」 ([2012-10-01-1])).しかし,この t を巡っては意外と込み入った事情がある.
「#3999. want の英語史 --- 語源と意味変化」 ([2020-04-08-1]) で触れたように,英語の名詞 want と動詞 want とは語幹こそ確かに同一だが,入ってきた経路は異なる.名詞 want は,古ノルド語の形容詞 vanr (欠いた)が中性に屈折した vant という形態が名詞的に用いられるようになったものである.一方,動詞 want は古ノルド語の動詞 vanta (欠く,欠いている)に由来する.つまり,語根に対応する wan の部分こそ共通とみてよいが,語末の t に関しては,名詞の場合には形容詞の中性語尾に由来するといわなければならず,動詞の場合には(未調査だが)また別に由来があるということになる.したがって,want の t は形容詞の中性語尾であるという教科書的な指摘は,名詞としての want にのみ当てはまるということだ.
動詞の t については別途調べることにし,ここでは教科書で言及される,名詞の t が形容詞の中性語尾に由来する件について掘り下げたい.すでに述べたように,古ノルド語 vanr は形容詞で「?を欠いている」 (lacking) を意味した(古英語の形容詞 wana と同根語).古ノルド語では,これが be 動詞と組み合わさって非人称構文を構成した.OED の want, adj. and n.2 の語源欄に,次のように記述がある.
Old Icelandic vant (neuter singular adjective) is used predicatively in expressions of the type vera vant to be lacking, typically with the person lacking something in the dative and the thing that is lacking in the genitive and with vant thus behaving similarly to a noun (compare e.g. var þeim vettugis vant they were lacking nothing, they had want of nothing, or var vant kýr a cow was missing, there was want of a cow).
形容詞としての vanr (中性形 vant)は,つまり "was VANT to them of nothing" (彼らにとって何も欠けていなかった)のように主語のない非人称構文において用いられていたということである.この用法がよほど高頻度だったのだろうか,古ノルド語話者と接触した英語話者は,中性に屈折した vant それ自体があたかも語幹であるかのように解釈し,語頭子音を英語化しつつ t 語尾込みの want を「欠乏,不足」を意味する名詞として受容したと考えられる.
語の借用においては,受け入れ側の話者が相手言語の文法に精通していないかぎり,屈折語尾を含めて語幹と勘違いして,「原形」として取り込んでしまう例はいくらでもあったろう.実際,形容詞の中性語尾に由来する t をもつ他の例として,scant (乏しい), thwart (横切って), wight (勇敢な),†quart (健康な)などが挙げられる.
関連して,フランス語の不定詞語尾 -er を含んだまま英語に取り込まれた cesser, detainer, dinner, merger, misnomer, remainder, surrender なども,ある意味で類例といえるだろう.これにつていは「#220. supper は不定詞」 ([2009-12-03-1]),「#221. dinner も不定詞」 ([2009-12-04-1]) を参照.
英語の人称代名詞体系においては,単複ともに1, 2人称では性が区別されない (I, you) が,3人称単数では区別される (he, she, it) .状況は古英語でも同じであり,性の形式上の区別は1, 2人称ではつけられないが,3人称ではつけられた.これはなぜだろうか.18世紀半ばの影響力のある文法家 Lowth (29) は次のように説明している.
The Persons speaking and spoken to, being at the same time the Subjects of the discourse, are supposed to be present; from which and other circumstances their Sex is commonly known, and needs not to be marked by distinction of Gender in their Pronouns; but the third Person or thing spoken of being absent and in many respects unknown, it is necessary that it should be marked by distinction of Gender; at least when some particular Person or thing is spoken of, which ought to be more distinctly marked: accordingly the Pronoun Singular of the Third Person hath the Three Genders, He, She, It.
1, 2人称は会話の現場にいるわけだから性別は見ればわかる.しかし,3人称はたいてい現場にいないわけなので,性別に関する情報を形式に載せるのが理に適っている,という理屈だ.3人称複数で性差がつけられない点については直接言及されていないが,3人称単数のほうが "some particular Person or thing" として性の区別をより強く要求すると言うことだろうか.
Lowth の理屈は分からないでもないが,必ずしも説得力があるわけではない.少なくとも日本語やその他の言語の状況をも説明する普遍的な説明とはなっていない.日本語では,ある意味ではむしろ1, 2人称でこそ性の区別がつけられる傾向があるともいえるからだ.
しかし,日本語と異なり,英語には明確に人称 (person) という文法範疇が認められてきた.1人称=オレ,2人称=オマエ,3人称=その他の一切合切,という1つの世界観のことだ(cf. 「#3463. 人称とは何か?」 ([2018-10-20-1]),「#3468. 人称とは何か? (2)」 ([2018-10-25-1]),「#3480. 人称とは何か? (3)」 ([2018-11-06-1])).この世界観のもとでは,ある人称の場合には,例えば性というような第2の文法範疇がより強く意識される・されないといった傾向が出てくるのは自然といえば自然だろう.そこに何か重要な区別が表わされていると感じられるからこそ,人称という文法範疇が存在しているはずだからだ.
ただし,人称にせよ性にせよ,文法範疇というものは人間の分類フェチの一種にすぎないことに注意する必要がある.フェチに,あまり合理的な説明を求めることはできないのではないかと考えている.「文法範疇=フェチ」という持論については,「#2853. 言語における性と人間の分類フェチ」 ([2017-02-17-1]),「#1868. 英語の様々な「群れ」」 ([2014-06-08-1]),「#1449. 言語における「範疇」」 ([2013-04-15-1]) などを参照.
・ Lowth, Robert. A Short Introduction to English Grammar. 1762. New ed. 1769. (英語文献翻刻シリーズ第13巻,南雲堂,1968年.9--113頁.)
英語以外の印欧諸語はほとんど文法的性をもっているが,英語にはそれがない.古英語にはあったのだが,中英語以降に完全に消失してしまった.しがって,現代英語には文法的性 (grammatical gender) はなく,あるのは,それに取って代った自然的性 (natural gender) にすぎない.
歴史的な文法的性の消失により,現代英語は言語習得上のメリットを得たといわれるが,それによって印欧語やゲルマン語のプロトタイプから大きく逸脱した「変わった言語」となったこともまた事実である.英語が歴史的に獲得したこの特徴について,規範文法の権化ともいえる Robert Lowth (1710--87) がその重要著書 A Short Introduction to English Grammar において,たいへんおもしろい見解を述べている.すっかり感心してしまったので,すべて引用しておきたい (27--28) .
The English Language, with singular propriety, following nature alone, applies the distinction of Masculine and Feminine only to the names of Animals; all the rest are Neuter: except when, by a Poetical or Rhetorical fiction, things inanimate and Qualities are exhibited as Person, and consequently become either Male or Female. And this gives the English an advantage above most other languages in the Poetical and Rhetorical Style: for when Nouns naturally Neuter are converted into Masculine and Feminine [3], the Personification is more distinctly and forcibly marked.
英語は文法的性がないゆえに,たまに擬人的に名詞に性を与えると,その擬人法がひときわ浮き立つ.一方,最初からすべての名詞に文法的に性があてがわれているような言語では,モノと性との関わりが日常的すぎて,たまに擬人法で効果を出したいと思っても,それを浮き立たせることが難しい.これは,そのような言語のもつ文学・修辞学上の弱みといってよい.
これには指摘されるまで気付かなかった,目から鱗の落ちるような指摘だ.まさに逆転の発想.
Lowth (27--28) は,上に引用した箇所で [3] として注を与えており,そこで具体例を出しながら,このことを丁寧に説明している.
[3] "At his command th'uprooted hills retir'd
Each to his place: they heard his voice and went
(18) Obsequious: Heaven his wonted face renew'd,
And with fresh flowrets hill and valley smil'd." Milton, P. L. B. vi.
"Was I deceiv'd or did a sable cloud
Turn forth her silver lining on the Night?" Milton, Comus.
"Of Law no less can be acknowledged, than that her seat is the bosom of God; her voice, the harmony of the world. All things in heaven and earth do her homage; the very least, as feeling her care; and the greatest, as not exempted from her power." Hooker, B. i. 16. "Go to your Natural Religion: lay before her Mahomet and his disciples, arrayed in armour and in blood:---shew her the cities which he set in flames; the countries which he ravaged:---when she has viewed him in this scene, carry her into his retirements; shew her the Prophet's chamber, his concubines and his wives:---when she is tired with this prospect, then shew her the Blessed Jesus---" See the whole passage in the conclusion of Bp. Sherlock's 9th Sermon, vol. i.
Of these beautiful passages we may observe, that as in the English if you put it and its instead of his, she, her, you confound and destroy the images, and reduce, what was before highly Poetical and Rhetorical, to mere prose and common discourse; so if you render them into another language, Greek, Latin, French, Italian, or German; in which Hill, Heave, Cloud, Law, Religion, are constantly Masculine, or Feminine, or Neuter, respectively; you make the images obscure and doubtful, and in proportion diminish their beauty. This excellent remark is Mr. Harris's , HERMES, p. 58.
上記は,このたび Lowth を漫然と読みながら気付いたポイントなのだが,やはり一家言ある文法家のセンスというのは,ときにまばゆく鋭い.言語における文法的性と自然的性の議論に,新鮮な光を投げかけてくれた.
・ Lowth, Robert. A Short Introduction to English Grammar. 1762. New ed. 1769. (英語文献翻刻シリーズ第13巻,南雲堂,1968年.9--113頁.)
新年度の「英語史」の講義が始まりました.毎年度,初回の授業では,何でもよいので英語に関する疑問,とりわけ素朴な疑問を出してくださいと呼びかけています.今回も,おかげさまで,たんまりとブログのネタが集まりました.実際には必ずしも「素朴」でもなく高度だったりするのですが,本格的に英語の先生にこんな問いを投げかけてよいのだろうか,と問うことを躊躇していたような問いでも,とにかく出してくださいと呼びかけての募集だったで,なかなかの良問が出そろいました.向こう数週間,本ブログで,そのような学生からの問いを取り上げていきたいと思います.ということで,まずは標題の疑問.
千年ほど前に話されていた古英語 (Old English) では,フランス語やドイツ語をはじめとする現在のヨーロッパ諸言語にみられる文法上の性(文法性 = grammatical gender)が健在でした.すべての名詞が男性,女性,中性のいずれかに割り振られていたのです.おそらく第2外国語として文法性のある言語を学んだことのある学生が,このことを聞いて「英語にも文法性があったのか」と驚き,そこから標題の問いへと思いを巡らせたのかと思います.確かに,現代の英語には,船を始めとする各種の乗り物や国名を指して女性代名詞 she で受ける言語習慣があります.たとえば,次の通りです.
・ Look at my sports car. Isn't she a beauty?
・ What a lovely ship! What is she called?
・ Hundreds of small boats clustered round the yacht as she sailed into Southampton docks.
・ There were over two thousand people aboard the Titanic when she left England.
・ Iraq has made it plain that she will reject the proposal by the United Nations.
・ France increased her exports by 10 per cent.
・ Britain needs new leadership if she is to help shape Europe's future.
・ After India became independent, she chose to be a member of the Commonwealth.
しかし,これは古英語にあった文法性とは無関係です.乗り物や国名を女性代名詞で受ける英語の慣習は中英語期以降に発生した比較的新しい「擬人性」というべきものであり,古英語にあった「文法性」とは直接的な関係はありません.そもそも「船」を表わす古英語 scip (= ship) は女性名詞ではなく中性名詞でしたし,bāt (= boat) にしても男性名詞でした.古英語期の後に続く中英語期の文化的・文学的な伝統に基づく,新たな種類のジェンダー付与といってよいでしょう.詳しくは,以下の記事をご覧ください.
・ 「#852. 船や国名を受ける代名詞 she (1)」 ([2011-08-27-1])
・ 「#853. 船や国名を受ける代名詞 she (2)」 ([2011-08-28-1])
・ 「#854. 船や国名を受ける代名詞 she (3)」 ([2011-08-29-1])
・ 「#1028. なぜ国名が女性とみなされてきたのか」 ([2012-02-19-1])
・ 「#1912. 船や国名を受ける代名詞 she (4)」 ([2014-07-22-1])
・ 「#1517. 擬人性」 ([2013-06-22-1])
そもそも文法性とは何なのだ,と気になる人も多いと思います.言語学的にもいろいろと議論できるのですが,私は人間の「フェチ」の一種であると考えています.「#2853. 言語における性と人間の分類フェチ」 ([2017-02-17-1]) をご参照ください.
昨日の記事「#3455. なぜ言語には男女差があるのか --- 3つの立場」 ([2018-10-12-1]) で依拠した Wardhaugh は,言語による性差は,社会や個人の認識というレベルでの性差に由来するのだろうと考えている.つまり「社会・文化・認識→言語」の因果関係こそが作用しているのであり,その逆ではないという立場だ.そして,そのような差異は,性に限らず教育水準や社会階級や出身地域などに基づく他の社会的パラメータにもみられるものであり,性だけを取り上げて,それを特に重視することができるのかと疑問を呈している.次の議論を聞いてみよう.
[W]e must be prepared to acknowledge the limits of proposals that seek to eliminate 'sexist' language without first changing the underlying relationship between men and women. Many of the suggestions for avoiding sexist language are admirable, but some, as Lakoff points out with regard to changing history to herstory, are absurd. Many changes can be made quite easily; early humans (from early man); salesperson (from salesman); ordinary people (from the common man); and women (from the fair sex). However, other aspects of language may be more resistant to change, e.g., the he-she distinction. Languages themselves may not be sexist. Men and women use language to achieve certain purposes, and so long as differences in gender are equated with differences in access to power and influence in society, we may expect linguistic differences too. For both men and women, power and influence are also associated with education, social class, regional origin, and so on, and there is no question in these cases that there are related linguistic differences. Gender is still another fact that relates to the variation that is apparently inherent in language. While we may deplore that this is so, variation itself may be inevitable. Moreover, we may not be able to pick and choose which aspects of variation we can eliminate and which we can encourage, much as we might like to do so. (350)
社会的な男女差というものは,たやすく水平化できない根強い区別であり,それが言語上にも反映しているととらえるのが妥当だと,Wardhaugh は考えている.さらに,私見として次のように述べながら性差に関する章を閉じている.
My own view is that men's and women's speech differ because boys and girls are brought up differently and men and women often fill different roles in society. Moreover, most men and women know this and behave accordingly. If such is the case, we might expect changes that make a language less sexist to result from child-rearing practices and role differentiations which are less sexist. Men and women alike would benefit from the greater freedom of choice that would result. However, it may be utopian to believe that language use will ever become 'neutral'. Humans use everything around them --- and language is just a thing in that sense --- to create differences among themselves. (354)
・ Wardhaugh, Ronald. An Introduction to Sociolinguistics. 6th ed. Malden: Blackwell, 2010.
標題は社会言語学の最重要問題の1つであり,本ブログでも「#1361. なぜ言語には男女差があるのか --- 征服説」 ([2013-01-17-1]),「#1362. なぜ言語には男女差があるのか --- タブー説」 ([2013-01-18-1]),「#1363. なぜ言語には男女差があるのか --- 女性=保守主義説」 ([2013-01-19-1]) をはじめ gender_difference の多くの記事で話題にしてきた.様々な議論があり,昨今活況を呈している分野といってよいが,社会言語学の定番教科書を著わしている Wardhaugh (346--47) は,大きく3つの立場があり得ると述べている.
(1) 「男女の生物学的な差異が言語にも重大な影響を及ぼしている」
The first claim is that men and women are biologically different and that this difference has serious consequences for gender. Women are somehow predisposed psychologically to be involved with one another and to be mutually supportive and non-competitive. On the other hand, men are innately predisposed to independence and to vertical rather than horizontal relationships. (346)
この立場はある意味でスッキリしている仮説とはいえるが,証拠に乏しく,ステレオタイプを追認するにすぎないとの批判があることを付け加えておく.
(2) 「男女の言語差は,力の上下関係に基づいている」
The second claim is that social organization is best perceived as some kind of hierarchical set of power relationships. Moreover, such organization by power may appear to be entirely normal, justified both genetically and evolutionarily, and therefore natural and possibly even preordained. Language behavior reflects male dominance. Men use what power they have to dominate each other and, of course, women, and, if women are to succeed in such a system, they must learn to dominate others too, women included. (346)
(3) 「男女の言語差は,各々が異なる環境で言語を修得してきた結果である」
The third claim . . . is that men and women are social beings who have learned to use language in different ways. Language behavior is largely learned behavior. Men learn to talk like men and women learn to talk like women because society subjects them to different life experiences. This is often referred to as the difference (sometimes also deficit) view as opposed to the dominance view . . . . (347)
ジェンダー問題に広く見受けられるように,それぞれの立場に微妙なニュアンスの違いがある.(1) から (3) にかけて,生物学的な性差 (sex) から社会的な性差 (gender) を重視する立場へと切り替わっていくが,どこが境目なのかはよく分からない.(3) のさらに先には,言語の男女差はまったく特殊な差ではなく,階級差,民族差,国民差などの他の区別と同様に,人間社会において極めてありふれた1つの社会的な差異にすぎないという見方もある.それによれば,言語そのものは "sexist" ではなく,単に性に基づいて variationist であるにすぎないということになる.Wardhaugh は,どうやらこの立場を取っているようだ.
・ Wardhaugh, Ronald. An Introduction to Sociolinguistics. 6th ed. Malden: Blackwell, 2010.
英語史の授業などで,古英語にも文法性 (grammatical gender) があったと知ると驚く学生が多い.現代英語は印欧語族の諸言語のなかでも珍しく文法性を欠いており,むしろ例外的な言語なのだが,ふだん現代英語のみを相手にしていると,その事実に気づかない.印欧語族の大多数の言語が文法性をもっていることは,「#487. 主な印欧諸語の文法性」 ([2010-08-27-1]) で明らかである.そして,古英語もそのような「普通の」印欧語の1つだった.
古英語の名詞の性には,男性 (masculine),女性 (feminine),中性 (neuter) の3つがあった.語形により性の判断が付く場合も確かにあるが,原則として共時的には予測可能性は高くない.意味の基準は多少役に立つ場合があり,稀な例外(wīf "woman" が中性名詞で,wīfmann "woman" が男性名詞など)はあるものの,通常,男性を表わす名詞は男性名詞だし,女性を表わす名詞は女性名詞である.どの程度,古英語の名詞の性が予測できるのか,できないのかは,ランダムに掲げた以下の例を参照されたい.
Masculine | Feminine | Neuter |
---|---|---|
ǣsc "ash tree" | bōc "book" | ǣġ "egg" |
brōðor "brother" | beadu "battle" | ċild "child" |
cyning "king" | benċ "bench" | corn "grain" |
dōm "doom" | clǣnness "cleanness" | ēage "eye" |
enġel "angel" | cwēn "queen" | ġeat "gate" |
feoh "money" | dǣd "deed" | hēafod "head" |
hæle(þ) "warrior" | dohtor "daughter" | hūs "house" |
here "army" | ġiefu "gift" | lamb "lamb" |
hrōf "roof" | hand "hand" | land "land" |
mann "man" | hnutu "nut" | mæġþ "maiden" |
nama "name" | lenġu "length" | scēap "sheep" |
stān "stone" | sāwol "soul" | scip "ship" |
sunu "sun" | sorg "sorrow" | searu "skill" |
wealh "foreigner" | strengþ "strength" | þing "thing" |
wīfmann "woman" | tunge "tongue" | wīf "woman" |
ドイツ国歌の歌詞にある Vaterland (父なる祖国)が男性バイアスの用語なので,Heimatland (故郷の国)に変更しようという political_correctness の提案がドイツ国内でなされている.ドイツ政府による男女共同参画の推進を担当する女性の政治活動家が提案したもので,目下,物議を醸している.ジェンダーについて中立な言葉遣いが時勢に合っているからという理由での提案だが,保守系の政治家は「やりすぎだ」「これを変えるなら『母語』という言葉も使えない」などと反発している.メルケル首相も変更は不要という立場のようだ.
ドイツ国歌は,オーストリアの作曲家ハイドンの曲に対して1841年に歌詞づけしたもので,国歌としては旧西ドイツから東西統一後のドイツへの引き継がれた.国歌の歌詞におけるジェンダーの問題は最近オーストリアやカナダでも起こっており,そこでは中立的な表現に置き換えられたという経緯がある.これらの先例を受けての,ドイツでの論争という次第である.
英語でも「祖国,故国」を表わす語として fatherland という言い方がある.motherland という言い方もあるが,PC の観点からはジェンダーについて中立な homeland, native country, home が用いられることが多くなっているという.しかし,借用語の patriot (愛国者),patriotism (愛国心)などでは語幹にラテン語で「父」を意味する pater が含まれており,発想としては fatherland と酷似するのだが,これについては特にジェンダー論争が起こっているという話しは聞かない.借用語では,語幹の「父」の意味が直接には感じ取られにくいからだろうか.
ラテン語 pater と英語 father は語源的には同根だが,その関係を詳しく理解しようと思えば「グリムの法則」 (grimms_law) や「ヴェルネルの法則」 (verners_law) の知識が必要となる.それには,「#2277. 「行く」の意味の repair」 ([2015-07-22-1]),「#102. hundred とグリムの法則」 ([2009-08-07-1]),「#480. father とヴェルネルの法則」 ([2010-08-20-1]),「#2297. 英語 flow とラテン語 fluere」 ([2015-08-11-1]) 辺りの記事をどうぞ.
singular they の話題について,以下の記事で扱ってきた.
・ 「#275. 現代英語の三人称単数共性代名詞」 ([2010-01-27-1])
・ 「#1054. singular they」 ([2012-03-16-1])
・ 「#1887. 言語における性を考える際の4つの視点」 ([2014-06-27-1])
・ 「#1920. singular they を取り締まる規範文法 (1)」 ([2014-07-30-1])
・ 「#1921. singular they を取り締まる規範文法 (2)」 ([2014-07-31-1])
・ 「#1922. singular they を取り締まる規範文法 (3)」 ([2014-08-01-1])
・ 「#2455. 2015年の英語流行語大賞」 ([2016-01-16-1])
先日,Merriam-Webster の辞書サイトのコラムで,Singular 'They' に関する記事を見つけた.1881年に Emily Dickinson が singular they の用例を提供してくれていること,男女という性別の二分法そのものに疑問を呈するシンボルとしての用法が現われてきていることなど興味深い内容を含んだ記事だが,読みながらとりわけなるほどと膝を打ったのが,次のくだりである.
. . . the development of singular they mirrors the development of the singular you from the plural you, yet we don't complain that singular you is ungrammatical . . . .
互いに近すぎるために,これまで気づかなかった.人称代名詞の複数系列では,2人称と3人称においてともに,形態上の数の区別が中和され(得)るということだ.英語史上,人称代名詞体系はちょこちょこ変化してきたが,その伝統は21世紀へも着実に受け継がれており,今も変化と変異を生み出し続けている.
単複兼用の2人称代名詞 you については,「#3099. 連載第10回「なぜ you は「あなた」でもあり「あなたがた」でもあるのか?」」 ([2017-10-21-1]) 及びそこに張ったリンク先を参照されたい.
「#119. 英語を世界語にしたのはクマネズミか!?」 ([2009-08-24-1]) や「#3097. ヤツメウナギがいなかったら英語の復権は遅くなっていたか,早くなっていたか」 ([2017-10-19-1]) に続き,歴史の if を語る妄想シリーズ.ノルマン征服がなかったら,英語はどうなっていただろうか.
まず,語彙についていえば,フランス借用語(句)はずっと少なく,概ね現在のドイツ語のようにゲルマン系の語彙が多く残存していただろう.関連して,語形成もゲルマン語的な要素をもとにした複合や派生が主流であり続けたに違いない.フランス語ではなくとも諸言語からの語彙借用はそれなりになされたかもしれないが,現代英語の語彙が示すほどの多種多様な語種分布にはなっていなかった可能性が高い.
綴字についていえば,古英語ばりの hus (house) などが存続していた可能性があるし,その他 cild (child), cwic (quick), lufu (love) などの綴字も保たれていたかもしれない.書き言葉における見栄えは,現在のものと大きく異なっていただろうと想像される.<þ, ð, ƿ> などの古英語の文字も,近現代まで廃れずに残っていたのではないか (cf. 「#1329. 英語史における eth, thorn, <th> の盛衰」 ([2012-12-16-1]) や「#1330. 初期中英語における eth, thorn, <th> の盛衰」 ([2012-12-17-1])) .
発音については,音韻体系そのものが様変わりしたかどうかは疑わしいが,強勢パターンは現在と相当に異なっていたものになっていたろう.具体的にいえば,ゲルマン的な強勢パターン (Germanic Stress Rule; gsr) が幅広く保たれ,対するロマンス的な強勢パターン (Romance Stress Rule; rsr) はさほど展開しなかったろうと想像される.詩における脚韻 (rhyme) も一般化せず,古英語からの頭韻 (alliteration) が今なお幅を利かせていただろう.
文法に関しては,ノルマン征服とそれに伴うフランス語の影響がなかったら,英語は屈折に依拠する総合的な言語の性格を今ほど失ってはいなかったろう.古英語のような複雑な屈折を純粋に保ち続けていたとは考えられないが,少なくとも屈折の衰退は,現実よりも緩やかなものとなっていた可能性が高い.古英語にあった文法性は,いずれにせよ消滅していた可能性は高いが,その進行具合はやはり現実よりも緩やかだったに違いない.また,強変化動詞を含めた古英語的な「不規則な語形変化」も,ずっと広範に生き残っていたろう.これらは,ノルマン征服後のイングランド社会においてフランス語が上位の言語となり,英語が下位の言語となったことで,英語に遠心力が働き,言語の変化と多様化がほとんど阻害されることなく進行したという事実を裏からとらえた際の想像である.ノルマン征服がなかったら,英語はさほど自由に既定の言語変化の路線をたどることができなかったのではないか.
以上,「ノルマン征服がなかったら,英語は・・・?」を妄想してみた.実は,これは先週大学の演習において受講生みんなで行なった妄想である.遊び心から始めてみたのだが,歴史の因果関係を確認・整理するのに意外と有効な方法だとわかった.歴史の if は,むしろ思考を促してくれる.
「#2993. 後期近代英語への関心の高まり」 ([2017-07-07-1]) で,近年,後期近代英語期の研究が盛り上がってきていることに触れた.その理由は様々に説明できるように思われるが,Kytö et al. (4--5) の指摘している4点に耳を傾けよう.19世紀の英語が研究に値する理由として,先の記事で触れたものと合わせて確認しておきたい.
(1) 19世紀中に識字率が上がったことにより,多種多様なテキストが豊富に生み出された.とりわけ性差と言語変化の関係がよく調査できるようになった.
(2) Brown Family のような現代英語のコーパスによる研究の成果として,数十年ほどの短期間における言語変化に注目が集まった.ここから,後期近代英語期の社会的・政治的な出来事と,当時の言語変化の関係を探る研究が試みられるようになった.
(3) この時期にジャンルの広がりが見られた.特に,私信,新聞,小説,科学の言説など,現代にかけて重要性を増すことになる諸ジャンルが開拓された時期として重要である.
(4) 19世紀は,イギリス以外の英語変種の多くにとって形成期に相当する.
いずれの項目も,後期近代英語期に特有の特殊な歴史事情を反映していることはいうまでもないが,それ以上に近年のコーパス言語学,社会言語学,語用論といったアプローチが興隆してきた学史的な背景と連動していることが重要である.もとより歴史的な分野であるとはいえ,いま歴史のどの側面に関心を寄せやすいのか,関心があるのかという現在的な動機こそが,歴史研究を駆動していくものだとわかる.
・ Kytö, Merja, Mats Rydén, and Erik Smitterberg. "Introduction: Exploring Nineteenth-Century English --- Past and Present Perspective." Nineteenth-Century English: Stability and Change. Ed. Merja Kytö, Mats Rydén, and Erik Smitterberg. Cambridge: CUP, 2006. 1--16.
英語圏では,前世紀後半より言語上の性差別を廃する傾向が強まってきている.日常的言語使用の慣習ともなってきているが,それを支える法的な基盤もある.イギリスでの性差別を違法とする法律は1975年に制定されている(Sex Discrimination Act 1975 を参照).この法律は,その後廃止され,2010年の Equality Act 2010 に受け継がれている.
Crystal (314--15) によれば,
Legal changes, such as the Sex discrimination Act in Britain (1975), have caused job titles and much of the associated language to be altered. The written language has been most affected, but there have been signs of change in speech behaviour too. Plainly, the last quarter of the 20th century saw a general raising of consciousness about the issue of linguistic sexism, and this is likely to have a permanent effect upon the language.
このような言語上の性差別廃止の傾向は,上のような法律が駆動しているというよりは,すでにある社会的なトレンドを同法律が後押ししているとみなすほうが適切だろう.というのは,法律が明言しやすいのは書き言葉における非性差別表現使用の徹底だと思われるが,法律がいかに話し言葉にまで影響を及ぼし得るかは自明ではないにもかかわらず,実際には日常の話し言葉においても非性差別の方向での「慣行の変化の兆し」が確認されるからだ.これは,程度の差はあれ,昨今の日本語の環境においても見られる潮流だろう.
関連して,言語使用における性差別の解消について,以下の記事も参照.
・ 「#2655. PC言語改革の失敗と成功」 ([2016-08-03-1])
・ 「#1709. 主要英訳聖書年表」 ([2013-12-31-1]):特に The New Revised Standard Version (1990) の性差別表現の忌避は徹底的
・ 「#1048. フランス語の公文書で mademoiselle が不使用へ」 ([2012-03-10-1])
・ Crystal, David. How Language Works. London: Penguin, 2005.
言語における性 (gender) の存在と起源について,本ブログでは,英語をはじめとする印欧語を中心として,話題にしてきた(本記事の末尾に掲げたリンク先を参照).
言語の性の起源は,人類学者,神話学者,言語学者がそれぞれの立場から諸説を唱えてきた.男女の生理的区別を標示するもの,未開人のアニミズムに根ざすもの,人間の想像力の産物,音象徴・類推によるもの,感情的価値を示すものなど様々だ.いずれも満足のゆく説とはされておらず,この問題は未解決と言わざるを得ない.
このように性の起源については不詳だが,現在の共時的な文法範疇としての性をどのようにとらえるかは,また別の問題である.多くの場合,共時的には「意味のない」分類とみなされているのではないか.宮本 (116) がこの立場を,次のように説明している.
結局のところ,性は古代人の思惟にとっては,あるいは合理的なものであったかもしれないが,いまでは文法範疇のなかで最も不合理なもの,化石化してしまった文法体系の圧力にすぎないと考えられることが多い.その結果,現代英語やペルシア語に見られるように,性の喪失を言語史上の最も有利な変化であると考える立場が生まれる.性はいかなる言語にあっても,名詞の分類にはまったく利益をもたらさず,なんら思想上の区別を表明しないとされるのである.文法性は自然的性の区分に対応しない以上,贅沢品であり,したがって,性は消滅したとしてもおかしくないというのである.
宮本 (116--17) は,広く信じられている見解をこのように要約する一方で,人間の言語における性(せい)を人間の性(さが)とも見ているようだ.
すべての名詞には何らかの価値がまとわりついていそうである.この価値に基づいて,名詞に類別の観念を持ち込むことは人間的思惟にとって普遍的であるかに思われる.人間は,事物に名称を与える命名主義者(ノミナリスト)だといわれるが,同時に,事物を分類しないではおれない分類主義者(タクソノミスト)でもあるといえよう.要は,分類の価値が言語形式の上に映発されるか否かの違いである.
人間には,森羅万象を分類せざるを得ない性(さが)がある.要するに,人間は分類フェチである.言語の性(せい)も,この分類フェチの産物である.
・ 「#1135. 印欧祖語の文法性の起源」 ([2012-06-05-1])
・ 「#1517. 擬人性」 ([2013-06-22-1])
・ 「#1449. 言語における「範疇」」 ([2013-04-15-1])
・ 「#1534. Dyirbal 語における文法性」 ([2013-07-09-1])
・ 「#1883. 言語における性,その問題点の概観」 ([2014-06-23-1])
・ 「#1887. 言語における性を考える際の4つの視点」 ([2014-06-27-1])
・ 宮本 正興 「名詞のクラス」 『『言語』セレクション』第1巻,月刊『言語』編集部(編),大修館書店,2012年.115--22頁.(1993年10月号より再録.)
今年もこの時期がやってきた.American Dialect Society による 2015年の The Word of the Year が1月8日に発表された.今年の受賞は,singular "they" である.
They was recognized by the society for its emerging use as a pronoun to refer to a known person, often as a conscious choice by a person rejecting the traditional gender binary of he and she.
. . . .
The use of singular they builds on centuries of usage, appearing in the work of writers such as Chaucer, Shakespeare, and Jane Austen. In 2015, singular they was embraced by the Washington Post style guide. Bill Walsh, copy editor for the Post, described it as "the only sensible solution to English's lack of a gender-neutral third-person singular personal pronoun."
While editors have increasingly moved to accepting singular they when used in a generic fashion, voters in the Word of the Year proceedings singled out its newer usage as an identifier for someone who may identify as "non-binary" in gender terms.
"In the past year, new expressions of gender identity have generated a deal of discussion, and singular they has become a particularly significant element of that conversation," Zimmer said. "While many novel gender-neutral pronouns have been proposed, they has the advantage of already being part of the language."
なぜ今さら singular they がという気がしないでもなかったが,上の記事と合わせて Wordorigins.org: ADS Word of the Year for 2015 の記事を読んでみて合点がいった.単に性別を問わない単数の一般人称代名詞としての they の用法はここ数十年間で確かに認知されてきており,とりわけ2015年を特徴づける語法というわけではないが,男女という性別の二分法そのものに疑問を呈するシンボル (nonbinary identifier) として,昨年,焦点が当てられたという.テレビ番組などで transgender の話題が多く取り上げられ,"nonbinary identifier" としての they の使用が目立ったということだ.なお,singular they は,MOST USEFUL カテゴリーでも受賞している.時代のキーワードであることが,特によくわかる受賞だった.
singular_they については,本ブログでも何度か扱ってきたので,以下にリンクを張っておきたい.
・ 「#275. 現代英語の三人称単数共性代名詞」 ([2010-01-27-1])
・ 「#1054. singular they」 ([2012-03-16-1])
・ 「#1887. 言語における性を考える際の4つの視点」 ([2014-06-27-1])
・ 「#1920. singular they を取り締まる規範文法 (1)」 ([2014-07-30-1])
・ 「#1921. singular they を取り締まる規範文法 (2)」 ([2014-07-31-1])
・ 「#1922. singular they を取り締まる規範文法 (3)」 ([2014-08-01-1])
過去の WOY の受賞については,woy を参照.
「#2219. vane, vat, vixen」 ([2015-05-25-1]) と「#2220. 中英語の中部・北部方言で語頭摩擦音有声化が起こらなかった理由」 ([2015-05-26-1]) で,vixen (雌ギツネ)という語に触れた.現代標準英語の語彙のなかで,語頭の有声摩擦音が歴史的に特異であると述べてきたが,この語にはもう1つ歴史的に特異な点がある.それは,古いゲルマン語の女性名詞語尾に由来する -en をとどめている点だ.
現在,男性名詞から対応する女性名詞を作る主たる接尾辞として -ess がある.これは,ギリシア語 -issa を後期ラテン語が借用した -issa が,フランス語経由で -esse として英語に入ってきたものであり,外来である.ゲルマン系のものとしては「#2188. spinster, youngster などにみられる接尾辞 -ster」 ([2015-04-24-1]) で触れた西ゲルマン語群にみられる -estre があるが,純粋に女性を表わすものとして現代に伝わるのは spinster のみである.今回問題にしている -en もゲルマン語派にみられる女性接尾辞であり,ゲルマン祖語の *-inī, *-injō が古英語の -en, -in へ発展したものである.古英語の類例としては,god (god) に対する gyden (goddess),munuc (monk) に対する mynecen (nun), wulf (wolf) に対する wylfen (she-wolf) がある(いずれも接尾辞に歴史的に含まれていた i による i-mutation の効果に注意).
vixen に関していえば,雌ギツネを意味する名詞としては,古英語には斜格としての fyxan が1例のみ文証されるにすぎない.MED の fixen (n.) によると,初期中英語では fixen が現われるが,fixen hyd (fox hide) として用いられていることから,この形態は古英語の女性形名詞ではなく形容詞 fyxen (of the fox) に由来するとも考えられるかもしれない.しかし,後期中英語では名詞としての ffixen が確かに文証され,『英語語源辞典』によれば,さらに16世紀末以降には語頭の有声摩擦音を示す現在の vyxen に連なる形態が現われるようになる(OED によれば15世紀にも).
現代ドイツ語では女性語尾としての -in は現役であり,Fuchs vs Füchsin のみならず,Student vs Studentin, Sänger vs Sängerin など一般的に用いられる.英語では女性語尾の痕跡は vixen に残るのみとなってしまったが,ゲルマン語の語形成の伝統をかろうじて伝える語として,英語史に話題を提供してくれる貴重な例である.語頭の v と合わせて,英語史的に堪能したい.
Powered by WinChalow1.0rc4 based on chalow