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最終更新時間: 2024-04-24 16:18

2020-11-09 Mon

#4214. 強意複数 (1) [plural][intensive_plural][semantics][number][category][noun][terminology][countability]

 英語(やその他の言語)における名詞の複数形 (plural) とは何か,さらに一般的に言語における数 (number) という文法カテゴリー (category) とは何か,というのが私の研究におけるライフワークの1つである.その観点から,不思議でおもしろいなと思っているのが標題の強意複数 (intensive_plural) という現象だ.以下,『徹底例解ロイヤル英文法』より.
 まず,通常は -s 複数形をとらないはずの抽象概念を表わす名詞(=デフォルトで不可算名詞)が,強意を伴って強引に複数形を取るというケースがある.この場合,意味的には「程度」の強さを表わすといってよい.

 ・ It is a thousand pities that you don't know it.
 ・ She was rooted to the spot with terrors.

 このような例は,本来の不可算名詞が臨時的に可算名詞化し,それを複数化して強意を示すという事態が,ある程度慣習化したものと考えられる.可算/不可算の区別や単複の区別をもたない日本語の言語観からは想像もできない,ある種の修辞的な「技」である.心理状態を表わす名詞の類例として despairs, doubts, ecstasies, fears, hopes, rages などがある.
 一方,上記とは異なり,多かれ少なかれ具体的なモノを指示する名詞ではあるが,通常は不可算名詞として扱われるものが,「連続」「広がり」「集積」という広義における強意を示すために -s を取るというケースがある.

 ・ We had gray skies throughout our vacation.
 ・ They walked on across the burning sands of the desert.
 ・ Where are the snows of last year?

 ほかにも,気象現象に関連するものが多く,clouds, fogs, heavens, mists, rains, waters などの例がみられる.
 「強意複数」 (intensive plural) というもったいぶった名称がつけられているが,thanks (ありがとう),acknowledgements (謝辞),millions of people (何百万もの人々)など,身近な英語表現にもいくらでもありそうだ.英語における名詞の可算/不可算の区別というのも,絶対的なものではないと考えさせる事例である.

 ・ 綿貫 陽(改訂・著);宮川幸久, 須貝猛敏, 高松尚弘(共著) 『徹底例解ロイヤル英文法』 旺文社,2000年.

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2020-11-05 Thu

#4210. 人称の出現は3人称に始まり,後に1,2人称へと展開した? [person][verb][voice][impersonal_verb][middle_voice][indo-european][category][latin][terminology]

 先日の「#4207. 「先に名詞ありき,遅れて動詞が生じた」説」 ([2020-11-02-1]) と「#4208. It rains. は行為者不在で「降雨がある」ほどの意」 ([2020-11-03-1]) の記事に引き続き,國分(著)『中動態の世界 意志と責任の考古学』に依拠しつつ,今回は動詞の態 (voice) の問題から人称 (person) の問題へと議論を展開させたい.
 先の記事でみたように,印欧祖語よりさらに遡った段階では,It rains. のような非人称構文(中動態的な構文)こそがオリジナルの動詞構文を反映していたという可能性がある.仮にこの説を受け入れるならば,人称構文はそこから派生した2次的な構文ということになろう.
 これは動詞の問題にとどまらず,印欧語における人称とは何かという問題にも新たな光を投げかける.非人称的・中動態的な構文こそが原初の動詞構文だとすると,そこに人称という発想が入り込む余地はない.人称という文法カテゴリー (category) を前提としている現代の私たちからすれば,もし「その原初構文の人称は何か」と問われるのであれば,とりあえず(断じて1人称でも2人称でもないという意味で)消極的に「3人称」と答えることになるかもしれない.しかし,人称という文法カテゴリーが未分化だったとおぼしき,印欧祖語より前のこの仮説的な言語体系の内部から,同じ問題に答えようとすると,何とも答えに窮するのである.
 しかし,やがてこのような未分化の状態から,主体としての「私」と,私の重要な話し相手である「あなた」が前景化される契機が訪れ,それぞれが人称という文法カテゴリーを構成する重要な成員(後の用語でいう「1人称」と「2人称」)となった.一方,先の時代には名状しがたいものであった何かが,多分に消極的な動機づけで「3人称」と名づけられることになった.かくして1,2,3人称という区分ができあがり,現在に至る.と,こんなストーリーが描けるかもしれない.
 國分 (171) は,この点について次のように解説している(以下では原文の太字あるいは圏点を太字で示している).

     私に悔いが生じる」から「私が悔いる」へ

 これはつまり,動詞の歴史のなかで人称の概念はずいぶんと後になって発生したものだということでもある.
 たとえば,「私が自らの過ちを悔いる」と述べたいとき,ラテン語には非人称の動詞を用いた "me paenitet culpae meae" という表現があるが,これは文字通りには「私の過ちに関して,私に悔いが生じる」と翻訳できる(私が悔いるのではなく,悔いが私に生ずるのだから,これは「悔い」なるものを表現するうえで実に的確な言い回しと言わねばならない).
 だが,このような言い回しは人称の発達とともに動詞の活用に取って代わられていく.同じ動詞を一人称に活用させた paeniteo (私が悔いる)という形態が代わりに用いられるようになっていくからである.
 このような人称の歴史はその名称がもたらすある誤解を解いてくれる.動詞の非人称形態が後に「三人称」と呼ばれることになる形態に対応することを考えると,一人称(私)や二人称(あなた)の概念は動詞の歴史において,後になってから現われてきたものだということになる.
 「私」に「人称」という名称が与えられているからといって,人称が「私」から始まったわけではない.「私」(一人称)が,「あなた」(二人称)へと向かい,さらにそこから,不在の者(三人称)へと広がっていくというイメージはこの名称がもたらした誤解である.


 印欧語において,また言語一般において,人称とは何かという問題の再考を促す指摘である.この問題については「#3463. 人称とは何か?」 ([2018-10-20-1]),「#3468. 人称とは何か? (2)」 ([2018-10-25-1]),「#3480. 人称とは何か? (3)」 ([2018-11-06-1]),「#2309. 動詞の人称語尾の起源」 ([2015-08-23-1]) をはじめ person の各記事を参照.

 ・ 國分 功一郎 『中動態の世界 意志と責任の考古学』 医学書院,2017年.

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2020-05-19 Tue

#4040. 「言語に反映されている人間の分類フェチ」の記事セット [fetishism][gender][category][taxonomy][hellog_entry_set]

 昨日の記事「#4039. 言語における性とはフェチである」 ([2020-05-18-1]) で,言語における性 (gender) とは,かつての言語共同体の抱いていた独自の世界観(=物の見方のフェチ)を反映した名詞の分類法であるという趣旨で議論を展開した.実は,性に限らず文法カテゴリー (category) というものは,およそそのような人間の分類フェチの現われたものではないかと考えている.文法から離れても,語彙の分類などはまさにフェチのたまものだ.
 本ブログでは,この観点から様々な記事を書いてきたので,この辺りで記事セットをまとめておきたい.

 ・ 「言語に反映されている人間の分類フェチ」の記事セット

 なお,日本語のフェチとはフェティシズムの略で,手元にあった『広辞苑第六版』を引くと「呪物崇拝」「物神崇拝」「異性の衣類・装身具などに対して,異常に愛着を示すこと.性的倒錯の一種.」とある.英語の fetishism のもととなる fetish (n.) については,OALD8 によると以下の通り.

1 (usually disapproving) the fact that a person spends too much time doing or thinking about a particular thing
 ・ She has a fetish about cleanliness.
 ・ He makes a fetish of his work.
2 the fact of getting sexual pleasure from a particular object
 ・ to have a leather fetish
3 an object that some people worship because they believe that it has magic powers


 言語のカテゴリーについて私がインフォーマルに用いている「フェチ」という表現は,「ある言語共同体の特有の思考法や分類法が言語上に反映されたもの」ほどの意である.

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2020-05-18 Mon

#4039. 言語における性とはフェチである [fetishism][gender][category][sobokunagimon][cognate][sociolinguistics][cognitive_linguistics][sapir-whorf_hypothesis][hellog_entry_set]

 言語における文法上の性 (grammatical gender) は,それをもたない日本語や英語の話者にとっては実に不可解な現象に映る.しかし,印欧語族ではフランス語,スペイン語,ドイツ語,ロシア語,ラテン語などには当たり前のように見られるし,英語についても古英語までは文法性が機能していた.世界を見渡しても,性をもつ言語は多々あり,4つ以上の性をもつ言語も少なくない.
 古英語の例で考えてみよう.古英語では個々の名詞が原則として男性 (masculine),女性 (feminine),中性 (neuter) のいずれかに振り分けられているが,その区分は必ずしも生物学的な性,すなわち自然性 (natural gender) とは一致しない.女性を意味する wīf (形態的には現代の wife に連なる)は中性名詞ということになっているし,同じく「女性」を意味する wīfmann (現代の woman に連なる)はなんと男性名詞である.「女主人」を意味する hlǣfdiġe (現代の lady に連なる)は女性名詞なので安堵するが,無生物であるはずの stān (現代の stone)は男性名詞であり,lufu (現代の love)は女性名詞である.分類基準がよく分からない(cf. 「#3293. 古英語の名詞の性の例」 ([2018-05-03-1])).
 古英語の話者を捕まえて,いったいなぜなのかと尋ねることができたとしても,返ってくる答えは「わからない,そういうことになっているから」にとどまるだろう.現代のフランス語話者にも尋ねてみるとよい.なぜ太陽 soleil は男性名詞で,月 lune は女性名詞なのかと.そして,ドイツ語話者にも尋ねてみよう.なぜ逆に太陽 Sonne が女性名詞で,月 Mund が男性名詞なのかと.いずれの話者も納得のいく答えを返せないだろうし,言語学者にも答えられない.
 言語の性とは何なのか.私は常々標題のように考えてきた.言語における性とはフェチなのである.もう少し正確にいえば,言語における性とは人間の分類フェチが言語上に表わされた1形態である.
 人間には物事を分類したがる習性がある.しかし,その分類の仕方については個人ごとに異なるし,典型的には集団ごとに,とりわけ言語共同体ごとに異なるものである.それぞれの分類の原理はその個人や集団が抱いていた世界観,宗教観,人生観などに基づくものと推測されるが,それらの当初の原理を現在になってから復元することはきわめて困難である.現在にまで文法性が受け継がれてきたとしても,かつての分類原理それ自体はすでに忘れ去られており,あくまで形骸化した形で,この語は男性名詞,あの語は女性名詞といった文法的な決まりとして存続しているにすぎないからだ.
 世界観,宗教観,人生観というと何やら深遠なものを想起させるが,そのような真面目な分類だけでなく,ユーモアやダジャレなどに基づくお遊びの分類も相当に混じっていただろう.そのような可能性を勘案すれば,性とはフェティシズム (fetishism),すなわちその言語集団がもっていた物の見方の癖くらいに理解しておくのが妥当だろう.いずれにせよ現在では真には理解できず,復元もできないような代物なのだ.自分のフェチを他人が理解しにくく,他人のフェチを自分が理解しにくいのと同じようなものだ.
 言語学用語としての gender を「性」と訳してきたことは,ある意味で不幸だった.英単語 gender は,ラテン語 genus が古フランス語 gendre を経て中英語期にまさに文法用語として入ってきた単語である.genus の原義は「種族,種類」ほどであり,現代フランス語で対応する genre は「ジャンル,様式」である.英語本来語である kind 「種類」も,実はこれらと同根である.確かに人類にとって決して無関心ではいられない人類自身の2分法は男女の区別だろう.最たる gender がとりわけ男女という sex の区別に適用されたこと自体は自然である.しかし,こと言語の議論について,これを「性」と解釈し翻訳してしまったのは問題だった.gender, genre, kind は,もともと男女の区別に限らず,あらゆる観点からの物事の区別に用いられるはずであり,いってみれば単なる「種類」を意味する普通名詞なのである.これを男性と女性(およびそのいずれでもない中性)という sex に基づく種類に限ってしまったために,なぜ「石」が男性名詞なのか,なぜ「愛」が女性名詞なのか,なぜ「女性」が中性名詞や男性名詞なのかという混乱した疑問が噴出することになってしまった.
 この問題への解決法は「gender = 男女(中)性の区別」というとらえ方から解放され,A, B, C でもよいし,イ,ロ,ハでもよいし,甲,乙,丙でも何でもよいので,さして意味もない単なる種類としてとらえることだ.古英語では「石」はAの箱に入っている,「愛」はBの箱に入っている等々.なまじ意味のある「男」や「女」などのラベルを各々の箱に貼り付けてしまうから,話しがややこしくなる.
 このとらえ方には異論もあろう.上では極端な例外を挙げたものの,多くの文法性をもつ言語で,男性(的なもの)を指示する名詞は男性名詞に,女性(的なもの)を指示する名詞は女性名詞に属することが多いことは明らかだからだ.だからこそ「gender = 男女(中)性の区別」の解釈が助長されてきたのだろう.しかし,それではすべてを説明できないからこそ,一度「gender = 男女(中)性の区別」の見方から解放されてみようと主張しているのである.男女の違いは確かに人間にとって関心のある区別だろう.しかし,過去に生きてきた無数の人間集団は,それ以外にも現在では推し量ることもできないような変わった関心,独自のフェティシズムをもって物事を分類してきたのではないか.それが形骸化したなれの果てが,フランス語,ドイツ語,あるいは古英語に残っている gender ということではないか.
 私は gender に限らず言語における文法カテゴリー (category) というものは,基本的にはフェティシズムの産物だと考えている.人類言語学 (anthropological linguistics),社会言語学 (sociolinguistics),認知言語学 (cognitive_linguistics),「サピア=ウォーフの仮説」 (sapir-whorf_hypothesis) などの領域にまたがる,きわめて広大な言語学上のトピックである.
 gender の話題ついては,gender の記事群のほか,改めて「言語における性の問題」の記事セットも作ってみた.こちらも合わせてどうぞ.

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2020-04-02 Thu

#3993. 印欧語では動詞カテゴリーの再編成は名詞よりも起こりやすかった [verb][category][exaptation][tense][aspect][perfect][case][dative][instrumental]

 印欧語比較言語学と印欧諸語の歴史をみていると,文法カテゴリーやそのメンバーの縮減や再編成が著しい.古英語とその前史を念頭においても,たとえば動詞の過去時制の形態は,前史の印欧祖語における完了 (perfect) と無限定過去 (aorist) の形態にさかのぼる.動詞の時制・相カテゴリーにおける再編成が起こったということだ (cf. 「#2152. Lass による外適応」 ([2015-03-19-1]),「#2153. 外適応によるカテゴリーの組み替え」 ([2015-03-20-1]),「#3331. 印欧祖語からゲルマン祖語への動詞の文法範疇の再編成」 ([2018-06-10-1])).
 ほかには,印欧祖語の動詞の祈願法 (optative) と接続法 (subjunctive) ではもともと異なる形態をとっていたが,古英語までに前者の形態が後者を飲み込む形で代表となった.その新しい形態に付けられた名称が「接続法」だから,ややこしい(cf. 「#3538. 英語の subjunctive 形態は印欧祖語の optative 形態から」 ([2019-01-03-1])).
 名詞にも同様の現象がみられる.古英語の与格 (dative) は,前代の与格,奪格,具格 (instrumental),位格などを機能的に吸収したものだが,形態上の起源には議論がある.古英語の形容詞,決定詞,疑問代名詞などにわずかに痕跡を残す具格も,形態的には前代の具格を受け継いだものではないという (Marsh 14) .変遷が実にややこしいのだ.
 Clackson (114) は,印欧語において動詞カテゴリーの再編成は名詞よりも起こりやすかったという.その理由は以下の通り.

   In the documented history of many IE languages, the verbal system has undergone complex restructuring, while the nominal system remains largely unaltered. . . . It appears, in Indo-European languages at least, that verbal systems undergo greater changes than nouns. If this is the case, it is not difficult to see why. Verbs typically refer to processes, actions and events, whereas nouns typically refer to entities. Representations of events are likely to have more salience in discourse, and speakers seek new ways of emphasising different viewpoints of events in discourse.
   It is certainly true that . . . the verbal systems of the earliest IE languages are less congruent to each other than the nominal paradigms. The reconstruction of the PIE verb is correspondingly less straightforward, and there is greater room for disagreement. Indeed, there is no general agreement even about what verbal categories should be reconstructed for PIE, let alone the ways in which these categories were expressed in the verbal morphology. The continuing debate over the PIE verb makes it one of the most exciting and fast-moving topics in comparative philology.


 ということは,意味論的にも動詞カテゴリーのほうが複雑で扱いが難しいということが予想されそうだ.確かに一般的にいって,静的な名詞より動的な動詞のほうが扱いにくそうだというのは合点がいく.

 ・ Marsh, Jeannette K. "Periods: Pre-Old English." Chapter 1 of English Historical Linguistics: An International Handbook. 2 vols. Ed. Alexander Bergs and Laurel J. Brinton. Berlin: Mouton de Gruyter, 2012. 1--18.
 ・ Clackson, James. Indo-European Linguistics. Cambridge: CUP, 2007.

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2020-03-25 Wed

#3985. 言語学でいう法 (mood) とは何ですか? (3) [mood][verb][terminology][inflection][conjugation][subjunctive][morphology][category][indo-european][sobokunagimon][latin]

 2日間の記事 ([2020-03-23-1], [2020-03-24-1]) に引き続き,標題の疑問について議論します.ラテン語の文法用語 modus について調べてみると,おやと思うことがあります.OED の mode, n. の語源記事に次のような言及があります.

In grammar (see sense 2), classical Latin modus is used (by Quintilian, 1st cent. a.d.) for grammatical 'voice' (active or passive; Hellenistic Greek διάθεσις ), post-classical Latin modus (by 4th-5th-cent. grammarians) for 'mood' (Hellenistic Greek ἔγκλισις ). Compare Middle French, French mode grammatical 'mood' (feminine 1550, masculine 1611).


 つまり,modus は古典時代後のラテン語でこそ現代的な「法」の意味で用いられていたものの,古典ラテン語ではむしろ別の動詞の文法カテゴリーである「態」 (voice) の意味で用いられていたということになります.文法カテゴリーを表わす用語群が混同しているかのように見えます.これはどう理解すればよいでしょうか.
 実は voice という用語自体にも似たような事情がありました.「#1520. なぜ受動態の「態」が voice なのか」 ([2013-06-25-1]) で触れたように,英語において,voice は現代的な「態」の意味で用いられる以前に,別の動詞の文法カテゴリーである「人称」 (person) を表わすこともありましたし,名詞の文法カテゴリーである「格」 (case) を表わすこともありました.さらにラテン語の用語事情を見てみますと,「態」を表わした用語の1つに genus がありましたが,この語は後に gender に発展し,名詞の文法カテゴリーである「性」 (gender) を意味する語となっています.
 以上から見えてくるのは,この辺りの用語群の混同は歴史的にはざらだったということです.考えてみれば,現在でも動詞や名詞の文法カテゴリーを表わす用語を列挙してみると,法 (mood),相 (aspect),態 (voice),性 (gender),格 (case) など,いずれも初見では意味が判然としませんし,なぜそのような用語(日本語でも英語でも)が割り当てられているのかも不明なものが多いことに気付きます.比較的分かりやすいのは時制 (tense),(number),人称 (person) くらいではないでしょうか.
 英語の mood/mode, aspect, voice, gender, case や日本語の「法」「相」「態」「性」「格」などは,いずれも言葉(を発する際)の「方法」「側面」「種類」程度を意味する,意味的にはかなり空疎な形式名詞といってよく,kind, type, class,「種」「型」「類」などと言い換えてもよい代物です.ということは,これらはあくまで便宜的な分類名にすぎず,そこに何らかの積極的な意味が最初から読み込まれていたわけではなかったという可能性が示唆されます.
 議論をまとめましょう.2日間の記事で「法」を「気分」あるいは「モード」とみる解釈を示してきました.しかし,この解釈は,用語の起源という観点からいえば必ずしも当を得ていません.mode は語源としては「方法」程度を意味する形式名詞にすぎず,当初はそこに積極的な意味はさほど含まれていなかったと考えられるからです.しかし,今述べたことはあくまで用語の起源という観点からの議論であって,後付けであるにせよ,私たちがそこに「気分」や「モード」という積極的な意味を読み込んで解釈しようとすること自体に問題があるわけではありません.実際のところ,共時的にいえば「法」=「気分」「モード」という解釈はかなり奏功しているのではないかと,私自身も思っています.

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2020-03-24 Tue

#3984. 言語学でいう法 (mood) とは何ですか? (2) [mood][verb][terminology][inflection][conjugation][subjunctive][morphology][category][indo-european][sobokunagimon][etymology]

 昨日の記事 ([2020-03-23-1]) に引き続き,言語の法 (mood) についてです.昨日の記事からは,moodmode はいずれも「法」の意味で用いられ,法とは「気分」でも「モード」でもあるからそれも合点が行く,と考えられそうに思います.しかし,実際には,この両単語は語源が異なります.昨日「moodmode にも通じ」るとは述べましたが,語源が同一とは言いませんでした.ここには少し事情があります.
 mode から考えましょう.この単語はラテン語 modus に遡ります.ラテン語では "manner, mode, way, method; rule, rhythm, beat, measure, size; bound, limit" など様々な意味を表わしました.さらに遡れば印欧祖語 *med- (to take appropriate measures) にたどりつき,原義は「手段・方法(を講じる)」ほどだったようです.このラテン単語はその後フランス語で mode となり,それが後期中英語に mode として借用されてきました.英語では1400年頃に音楽用語として「メロディ,曲の一節」の意味で初出しますが,1450年頃には言語学の「法」の意味でも用いられ,術語として定着しました.その初例は OED によると以下の通りです.moode という綴字で用いられていることに注意してください.

mode, n.
. . . .
2.
a. Grammar. = mood n.2 1.
   Now chiefly with reference to languages in which mood is not marked by the use of inflectional forms.
c1450 in D. Thomson Middle Eng. Grammatical Texts (1984) 38 A verbe..is declined wyth moode and tyme wtoute case, as 'I love the for I am loued of the' ... How many thyngys falleth to a verbe? Seuene, videlicet moode, coniugacion, gendyr, noumbre, figure, tyme, and person. How many moodes bu ther? V... Indicatyf, imperatyf, optatyf, coniunctyf, and infinityf.


 次に mood の語源をひもといてみましょう.現在「気分,ムード」を意味するこの英単語は借用語ではなく古英語本来語です.古英語 mōd (心,精神,気分,ムード)は当時の頻出語といってよく,「#1148. 古英語の豊かな語形成力」 ([2012-06-18-1]) でみたように数々の複合語や派生語の構成要素として用いられていました.さらに遡れば印欧祖語 *- (certain qualities of mind) にたどりつき,先の mode とは起源を異にしていることが分かると思います.
 さて,この mood が英語で「法」の意味で用いられたのは,OED によれば1450年頃のことで,以下の通りです.

mood, n.2
. . . .
1. Grammar.
a. A form or set of forms of a verb in an inflected language, serving to indicate whether the verb expresses fact, command, wish, conditionality, etc.; the quality of a verb as represented or distinguished by a particular mood. Cf. aspect n. 9b, tense n. 2a.
   The principal moods are known as indicative (expressing fact), imperative (command), interrogative (question), optative (wish), and subjunctive (conditionality).
c1450 in D. Thomson Middle Eng. Grammatical Texts (1984) 38 A verbe..is declined wyth moode and tyme wtoute case.


 気づいたでしょうか,c1450の初出の例文が,先に挙げた mode のものと同一です.つまり,ラテン語由来の mode と英語本来語の mood が,形態上の類似(引用中の綴字 moode が象徴的)によって,文法用語として英語で使われ出したこのタイミングで,ごちゃ混ぜになってしまったようなのです.OED は実のところ「心」の mood, n.1 と「法」の mood, n.2 を別見出しとして立てているのですが,後者の語源解説に "Originally a variant of mode n., perhaps reinforced by association with mood n.1." とあるように,結局はごちゃ混ぜと解釈しています.意味的には「気分」「モード」辺りを接点として,両単語が結びついたと考えられます.したがって,「法」を「気分」「モード」と解釈する見方は,ある種の語源的混同が関与しているものの,一応のところ1450年頃以来の歴史があるわけです.由緒が正しいともいえるし,正しくないともいえる微妙な事情ですね.昨日の記事で「法」を「気分」あるいは「モード」とみる解釈が「なかなかうまくできてはいるものの,実は取って付けたような解釈だ」と述べたのは,このような背景があったからです.
 では,標題の疑問に対する本当の答えは何なのでしょうか.大本に戻って,ラテン語で文法用語としての modus がどのような意味合いで使われていたのかが分かれば,「法」 (mood, mode) の真の理解につながりそうです.それは明日の記事で.

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2020-03-23 Mon

#3983. 言語学でいう法 (mood) とは何ですか? (1) [mood][verb][terminology][inflection][conjugation][subjunctive][morphology][category][indo-european][sobokunagimon]

 印欧語言語学では「法」 (mood) と呼ばれる動詞の文法カテゴリー (category) が重要な話題となります.その他の動詞の文法カテゴリーとしては時制 (tense),相 (aspect),態 (voice) がありますし,統語的に関係するところでは名詞句の文法カテゴリーである数 (number) や人称 (person) もあります.これら種々のカテゴリーが協働して,動詞の形態が定まるというのが印欧諸語の特徴です.この作用は,動詞の活用 (conjugation),あるいはより一般的には動詞の屈折 (inflection) と呼ばれています.
 印欧祖語の法としては,「#3331. 印欧祖語からゲルマン祖語への動詞の文法範疇の再編成」 ([2018-06-10-1]) でみたように直説法 (indicative mood),接続法 (subjunctive mood),命令法 (imperative mood),祈願法 (optative mood) の4種が区別されていました.しかし,ずっと後の北西ゲルマン語派では最初の3種に縮減し,さらに古英語までには最初の2種へと集約されていました(現代における命令法の扱いについては「#3620. 「命令法」を認めず「原形の命令用法」とすればよい? (1)」 ([2019-03-26-1]),「#3621. 「命令法」を認めず「原形の命令用法」とすればよい? (2)」 ([2019-03-27-1]) を参照).さらに,古英語以降,接続法は衰退の一途を辿り,現代までに非現実的な仮定を表わす特定の表現を除いてはあまり用いられなくなってきました.そのような事情から,現代の英文法では歴史的な「接続法」という呼び方を続けるよりも,「仮定法」と称するのが一般的となっています(あるいは「叙想法」という呼び名を好む文法家もいます).
 さて,現代英語の法としては,直説法 (indicative mood) と仮定法 (subjunctive mood) の2種の区別がみられることになりますが,この対立の本質は何でしょうか.一般には,機能的にデフォルトの直説法に対して,仮定法は話者の命題に対する何らかの心的態度がコード化されたものだといわれます.何らかの心的態度というのも曖昧な言い方ですが,先に触れた例でいうならば「非現実的な仮定」が典型です.If I were a bird, I would fly to you. における仮定法過去形の were は,話者が「私は鳥である」という非現実的な仮定の心的態度に入っていることを示します.言ってみれば,妄想ワールドに入っていることの標識です.
 同様に,仮定法現在形 go を用いた I suggest that she go alone. という文においても,話者の頭のなかで希望として描いているにすぎない「彼女が一人でいく」という命題,まだ起こっていないし,これからも確実に起こるかどうかわからない命題であることが,その動詞形態によって示されています.先の例ほどインパクトは強くないものの,これも一種の妄想ワールドの標識です.
 「法」という用語も「心的態度」という説明も何とも思わせぶりな表現ですが,英語としては mood ですから,話者の「気分」であるととらえるのもある程度は有効な解釈です.つまり,法とは話者がある命題をどのような「気分」で述べているのか(たいていは「妄想的な気分」)を標示するものである,という見方です.あるいは moodmode 「モード,様態」にも通じ,実際に両単語とも言語学用語としての法の意味で用いられますので,話者の「モード」と言い換えてもよさそうです.仮定法は,妄想モードを標示するものということです.
 法については上記のような「気分」あるいは「モード」という解釈で大きく間違いはないと思います.ただし,この解釈は,用語の歴史を振り返ってみると,なかなかうまくできてはいるものの,実は取って付けたような解釈だということも分かってきます.それについては明日の記事で.

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2019-10-27 Sun

#3835. 形容詞などの「比較」や「級」という範疇について [comparison][adjective][adverb][category][terminology][fetishism]

 英語の典型的な形容詞・副詞には,原級・比較級・最上級の区別がある.日本語の「比較」や「級」という用語には,英語の "comparison", "degree", "gradation" などが対応するが,そもそもこれは言語学的にどのような範疇 (category) なのか.Bussmann の用語辞典より,まず "degree" の項目をみてみよう.

degree (also comparison, gradation)
All constructions which express a comparison properly fall under the category of degree; it generally refers to a morphological category of adjectives and adverbs that indicates a comparative degree or comparison to some quantity. There are three levels of degree: (a) positive, or basic level of degree: The hamburgers tasted good; 'b) comparative, which marks an inequality of two states of affairs relative to a certain characteristic: The steaks were better than the hamburgers; (c) superlative, which marks the highest degree of some quantity: The potato salad was the best of all; (d) cf. elative (absolute superlative), which marks a very high degree of some property without comparison to some other state of affairs: The performance was most impressive . . . .
   Degree is not grammaticalized in all languages through the use of systematic morphological changes; where such formal means are not present, lexical paraphrases are used to mark gradation. In modern Indo-European languages, degree is expressed either (a) synthetically by means of suffixation (new : newer : (the) newest); (b) analytically by means of particles (anxious : more/most anxious); or (c) through suppletion . . . , i.e. the use of different word stems: good : better : (the) best.


 同様に "gradation" という項目も覗いてみよう.

gradation
Semantic category which indicates various degrees (i.e. gradation) of a property or state of affairs. The most important means of gradation are the comparative and superlative degrees of adjectives and some (deadjectival) adverbs. In addition, varying degrees of some property can also be expressed lexically, e.g. especially/really quick, quick as lightning, quicker and quicker.


 上の説明にあるように "degree" や "gradation" が「意味」範疇であることはわかる.英語のみならず,日本語でも「より良い」「ずっと良い」「最も良い」「最良」などの表現が様々に用意されており,「比較」や「級」に相当する機能を果たしているからだ.しかし,通言語的にはそれが常に形態・統語的な「文法」範疇でもあるということにはならない.いってしまえば,たまたま印欧諸語では文法化し(=文法に埋め込まれ)ているので文法範疇として認められているが,日本語では特に文法範疇として設定されていないという,ただそれだけのことである.
 個々の文法範疇は,通言語的に比較的よくみられるものもあれば,そうでないものもある.文法範疇とは,ある意味で個別言語におけるフェチというべきものである.この見方については「#2853. 言語における性と人間の分類フェチ」 ([2017-02-17-1]) をはじめ fetishism の各記事を参照されたい.

 ・ Bussmann, Hadumod. Routledge Dictionary of Language and Linguistics. Trans. and ed. Gregory Trauth and Kerstin Kazzizi. London: Routledge, 1996.

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2019-07-02 Tue

#3718. 英語に未来時制がないと考える理由 [future][tense][category][grammaticalisation][auxiliary_verb]

 「#3692. 英語には過去時制と非過去時制の2つしかない!?」 ([2019-06-06-1]),「#3693. 言語における時制とは何か?」 ([2019-06-07-1]) で簡単に論じたように,英語における未来時制の存在は長らく議論の的になってきた.未来時制を認めるべきなのか,認めるとすればその根拠は何か.あるいは,認めるべきではないのか,そうだとすればその根拠は何か.『英語学要語辞典』の future tense の項 (269) で要約されている「英語に未来時制がない」とする説の根拠を示そう.

 (1) 一般に「will/shall + 不定詞」という形式を「未来形」と称し,「未来時制」を表わすものと理解されているが,これはあくまで統語的な手段を利用しているにすぎないことに注意が必要である.一方,時制として確立されている「現在時制」と「過去時制」は,gowent のように動詞を屈折・変化させる形態的な手段により「現在形」と「過去形」を形成しており,will/shall go とはレベルが異なるように思われる.will/shall go が対立するのはむしろ would/should go であり,この対立自体が結局のところ「現在時制」対「過去時制」に還元されるというべきではないか.

 (2) 上記のような手段の問題は別にしても,will/shall がどこまで文法化した形式的な語であるかという点についても疑義がある.各語は元来「意志」「負債,義務」を表わす本動詞であり,助動詞化したあとでもその原義はある程度残っている.他にも付随意味として「推量・習慣」「必然・強制」などの意味が残っており,純粋に「未来」の意味を担うものとはなっていない.一方 can, may, must, ought, be going to, be (about) to など他の(準)助動詞も,多かれ少なかれ「未来」の意味を担当しているため,もし will/shall を「未来」の助動詞と認めるのであれば,これらも同様に認めなければ一貫性が保てない.もっとも,法的な含意を伴わない純粋な「未来」を表わす用例が,will/shall に見られるというのも事実ではある.以下の事例を参照.

My babe-in-arms will be fifty-nine on my eighty-ninth birthday ... The year two thousand and fifteen when I shall be ninety. --- [F. R. Palmer]


 英語に未来時制はあるのか,ないのかという問題は,一般に,所与の言語項がある文法範疇の成員であるとみなすためには,どのような条件が満たされていればよいのかという本質的な問いへとつながっていく.これは文法理論や言語観に関わるきわめて大きなトピックである.

 ・ 寺澤 芳雄(編)『英語学要語辞典』,研究社,2002年.298--99頁.

Referrer (Inside): [2021-05-22-1]

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2019-06-20 Thu

#3706. 民族と人種 [ethnic_group][race][sociolinguistics][category]

 筆者は学生時代に言語学に関心をもち,そこから歴史言語学,そして社会言語学へと関心を広げてきたが,まさか「民族」と「人種」といった抜き差しならない社会的な問題を扱うことになろうとは夢にも思わなかった.初心に戻って「民族」 (ethnic_group) と「人種」 (race) について整理してみたい.伝統的には前者は文化的なもの,後者は形質的なものととらえてきたが,昨今では必ずしもそのようにとらえられているわけではない.まずは「民族性」 (ethnicity) について見ておこう.A Dictionary of Sociolinguisticsethnicity の項 (100--01) より.

ethnicity An aspect of an individual's social IDENTITY which is closely associated with language. Ethnicity is usually assigned on the basis of descent. In addition, the subjective experience of belonging to a culturally and historically distinct social group is often included in definitions of ethnicity. Thus, DEAF people usually consider themselves to be part of the Deaf community, which is defined by specific cultural and linguistic practices, although they may not have been born into the community (they may have become Deaf only later in life, or they may have grown up among hearing people). Questions of identity and ethnicity are also problematical in the context of migration. Second-generation migrants may not wish to identify with their traditional ethnic group but with the new society (e.g. second-generation German migrants in the USA may see themselves not as German but as American; such shifts in identity are often accompanied by symbolic actions such as name changes --- Karl Müller to Chuck Miller). To assign individuals unambiguously to distinct ethnic groups can be difficult in such contexts. Sometimes RELIGION is also considered to form part of ethnicity.
   Language forms a central aspect and symbol of ethnic identity (see e.g. Smolicz (1981) on language as a 'core value' of an ethnic group). Sociolinguists who study multicultural societies have often included ethnicity as a SOCIAL VARIABLE. Horvath (1985), for example, included speakers from different ethnic groups (Australians of English, Italian and Greek background) in her study of English in Sydney.


 民族性に言語が大きく関わるのは事実だが,言語のみで決定されるカテゴリーというわけでもない.そこには,言語以外の文化・歴史・社会的なカテゴリーもしばしば関与する.それは複合的な要因によって形成されるアイデンティティというべきものである.
 次に「人種」はどうだろうか.こちらも単純に生物学的な区分とみる伝統的な見解もあるが,それ自体がすでに社会化された構造物であるという見方もある.上と同じ用語辞典より引用する.

race Highly contested term. Whilst it has no basis in biological or scientific fact, 'race' is in widespread everyday usage to refer to particular groups or 'races' of people, usually on the basis of physical appearance or geographical location, who are presumed to share a set of definable characteristics. The term ETHNICITY is sometimes used to refer to the identity of different groups on the basis of their assumed or presumed genealogical descent. 'Race' in social studies of language is viewed as a social construct rather than a fact (hence the use of inverted commas around 'race'): that is, 'race' or 'racial groups' only exist because particular physical characteristics (such as skin colour, facial features) are attributed a special kind of significance in society. This attribution usually involves differentiation between 'races' in terms of status and power, resulting from a particular IDEOLOGY. It is acknowledged that 'race' has considerable force in continuing to inform policies, behaviour and attitudes, including those relating to language and behaviour (see discussions in Omi and Winant, 1994). For this reason, 'race', usually within the context of RACISM, has been a focus of study in sociolinguistic research (e.g. Reisgl and Wodak, 2000).


 民族,人種,言語はそれぞれ独立したカテゴリーでありながらも,非常に複雑な仕方で相互関係を保っている.それゆえに各カテゴリーの定義は,部分的に相互参照しながらなされなければならない運命なのだろう.
 関連して,「#1871. 言語と人種」 ([2014-06-11-1]),「#3599. 言語と人種 (2)」 ([2019-03-05-1]) も参照.

 ・ Swann, Joan, Ana Deumert, Theresa Lillis, and Rajend Mesthrie, eds. A Dictionary of Sociolinguistics. Tuscaloosa: U of Alabama P, 2004.

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2019-06-07 Fri

#3693. 言語における時制とは何か? [tense][category][preterite][future][verb][conjugation][historic_present][sobokunagimon]

 昨日の記事「#3692. 英語には過去時制と非過去時制の2つしかない!?」 ([2019-06-06-1]) を受けて,今回は言語における時制 (tense) という文法範疇 (grammatical category) について考えてみる.
 『新英語学辞典』の定義によれば,tense とは「動詞における時間的関係を示す文法範疇をいう.一般的には,時の関係は話者が話している時を中心とする時間領域を現在として,過去と未来に分けられる」とある.
 言語における時制を考える際に1つ注意しておきたいのは,昨日の記事でも述べたように,現実における「時」と言語の範疇としての「時制」とは,必ずしもきれいに対応するわけではないということだ.形態的には「過去形」を用いておきながら,意味的には「現在」を指し示している What was your name? などの例があるし,その逆の関係が成り立つ歴史的現在 (historic_present) なる用法も知られている.このようなチグハグにみえる時と時制との対応関係は,ちょうど古英語の stān (= stone) が,現実的には男性でも女性でもなく中性というべきだが,文法上は男性名詞ということになっている,文法性 (grammatical gender) の現象に似ている.現実世界と言語範疇は,必ずしも対応するわけではないのである.また,言語表現上,範疇を構成する各成員間の境目,たとえば現在と過去,現在と未来との境目が,必ずしもはっきりと区別されているわけではないことにも注意を要する.
 時制の分類法には様々なものがあるが,英語の時制に関していえば,形態的な観点に立ち,過去時制 (preterite tense) と現在時制(present tense) (あるいは非過去時制)(non-preterite tense) の2種とみる見解が古くからある.これは他のゲルマン諸語も然りなのだが,動詞の形態変化によって標示できるのは,たとえば sing (現在形あるいは非過去形)に対して sang (過去形)しかないからだ.一見すると「未来形」であるかのようにみえる will/shall sing は動詞の形態変化によるものではないから,未来時制は認めないという立場だ.
 一方,意味的な観点に立つのであれば,sing, sang に対して will/shall sing は独自の時を指し示しているのだから,時制の1つとして認めるべきだという考え方もある.つまり,英語の時制は,立場によって2種とも3種とも言い得ることになる.
 英語の時制について厄介なのは,動詞のとる時制形は,しばしば純粋に時制を標示するわけではなく,相 (aspect) や法 (mood) といった他の文法範疇の機能も合わせて標示することだ.各々の機能が互いに絡み合っており,時制だけをきれいに選り分けることができないという事情がある.
 英語の時制の問題は,生成文法などで理論的な分析も提案されてきたが,今なお未解決といってよいだろう.今ひとつ重要な理論的貢献として「#2747. Reichenbach の時制・相の理論」 ([2016-11-03-1]) も参照されたい.

 ・ 大塚 高信,中島 文雄 監修 『新英語学辞典』 研究社,1987年.
 ・ Crystal, David, ed. A Dictionary of Linguistics and Phonetics. 6th ed. Malden, MA: Blackwell, 2008. 295--96.

Referrer (Inside): [2021-05-22-1] [2019-07-02-1]

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2019-06-06 Thu

#3692. 英語には過去時制と非過去時制の2つしかない!? [tense][category][preterite][future][verb]conjugation]

 英語史の授業などで,古英語の動詞の時制 (tense) には,過去時制 (preterite tense)と現在(あるいは非過去)時制 (non-preterite tense) の2種類しかないと述べると,学生から必ずといってよいほど「では,未来のことはどうやって表わしたのか」と質問がなされる.現代英語でも,形態的な観点からいえば相変わらず過去時制と現在時制の2つしかないにもかかわらずである.もっといえば,日本語にも過去時制(タ形)と非過去時制(非タ形)の2つしかないわけで,古英語とも現代英語とも異なるところがない.英語を含めたゲルマン語派の諸言語と日本語とはその点ではよく似ているのである.
 形態的にみれば,英語は歴史的に過去時制 (preterite tense) と現在時制(present tense) (あるいは非過去時制 (non-preterite tense) の2種類の時制しかもってこなかったのは事実である.英語では未来のことは主として現在形で表わしてきたのであり,現在時制や過去時制と区別して特別な未来時制というものは存在しなかった.これはゲルマン諸語に共通する特徴であり,その歴史的背景は「#182. ゲルマン語派の特徴」 ([2009-10-26-1]),「#3331. 印欧祖語からゲルマン祖語への動詞の文法範疇の再編成」 ([2018-06-10-1]) で解説した通りである.
 しかし,上記は「形態的にみれば」という但し書きの解説である.「#2208. 英語の動詞に未来形の屈折がないのはなぜか?」 ([2015-05-14-1]),「#2317. 英語における未来時制の発達」 ([2015-08-31-1]) でみたように,古英語以来,willshall などの助動詞を用いた「統語的(迂言的)な未来形」が現われてきたのは事実であり,その確立の時期については議論があるものの,歴史のある段階から「未来時制」が英語の時制範疇に加わったと論じることはできるかもしれない.
 英語の時制は2つなのか,3つなのかという議論は文法家のあいだでも長らく続けられており,決定的な答えは出されていない.しかし,それよりももっと重要な点は,現実世界の「時」と言語世界における「時制」とを区別して理解しておなければならないということだ.言語によっては,両者が一致していることもあるし,必ずしもそうでないこともある.現実世界(の認識)においては現在・過去・未来の3者が区別されるからといって,言語の文法範疇 (grammatical category) においても同じように3者が区別されるとは限らないのである.古英語も現代英語も日本語も,現実世界で3つの時が区別されているのに対し,言語世界では2つの時制に区別されているにすぎないのである.
 そもそも,言語における時制とは何なのか,明日の記事で考えたい.

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2019-05-24 Fri

#3679. 1, 2人称代名詞では区別されない性が3人称代名詞では区別される理由 [gender][person][personal_pronoun][category][sobokunagimon][fetishism]

 英語の人称代名詞体系においては,単複ともに1, 2人称では性が区別されない (I, you) が,3人称単数では区別される (he, she, it) .状況は古英語でも同じであり,性の形式上の区別は1, 2人称ではつけられないが,3人称ではつけられた.これはなぜだろうか.18世紀半ばの影響力のある文法家 Lowth (29) は次のように説明している.

The Persons speaking and spoken to, being at the same time the Subjects of the discourse, are supposed to be present; from which and other circumstances their Sex is commonly known, and needs not to be marked by distinction of Gender in their Pronouns; but the third Person or thing spoken of being absent and in many respects unknown, it is necessary that it should be marked by distinction of Gender; at least when some particular Person or thing is spoken of, which ought to be more distinctly marked: accordingly the Pronoun Singular of the Third Person hath the Three Genders, He, She, It.


 1, 2人称は会話の現場にいるわけだから性別は見ればわかる.しかし,3人称はたいてい現場にいないわけなので,性別に関する情報を形式に載せるのが理に適っている,という理屈だ.3人称複数で性差がつけられない点については直接言及されていないが,3人称単数のほうが "some particular Person or thing" として性の区別をより強く要求すると言うことだろうか.
 Lowth の理屈は分からないでもないが,必ずしも説得力があるわけではない.少なくとも日本語やその他の言語の状況をも説明する普遍的な説明とはなっていない.日本語では,ある意味ではむしろ1, 2人称でこそ性の区別がつけられる傾向があるともいえるからだ.
 しかし,日本語と異なり,英語には明確に人称 (person) という文法範疇が認められてきた.1人称=オレ,2人称=オマエ,3人称=その他の一切合切,という1つの世界観のことだ(cf. 「#3463. 人称とは何か?」 ([2018-10-20-1]),「#3468. 人称とは何か? (2)」 ([2018-10-25-1]),「#3480. 人称とは何か? (3)」 ([2018-11-06-1])).この世界観のもとでは,ある人称の場合には,例えば性というような第2の文法範疇がより強く意識される・されないといった傾向が出てくるのは自然といえば自然だろう.そこに何か重要な区別が表わされていると感じられるからこそ,人称という文法範疇が存在しているはずだからだ.
 ただし,人称にせよ性にせよ,文法範疇というものは人間の分類フェチの一種にすぎないことに注意する必要がある.フェチに,あまり合理的な説明を求めることはできないのではないかと考えている.「文法範疇=フェチ」という持論については,「#2853. 言語における性と人間の分類フェチ」 ([2017-02-17-1]),「#1868. 英語の様々な「群れ」」 ([2014-06-08-1]),「#1449. 言語における「範疇」」 ([2013-04-15-1]) などを参照.

 ・ Lowth, Robert. A Short Introduction to English Grammar. 1762. New ed. 1769. (英語文献翻刻シリーズ第13巻,南雲堂,1968年.9--113頁.)

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2019-03-27 Wed

#3621. 「命令法」を認めず「原形の命令用法」とすればよい? (2) [imperative][mood][subjunctive][tense][future][category][elt][3sp]

 昨日の記事に引き続き「原形の命令用法」に関する問題.松瀬は昨日引用した論文とは別の関連論文のなかで,より突っ込んだ英語教育の観点からこの問題に切り込んでいる.「原形の命令用法」を押し出すことで,関連する諸現象とともに一貫した英文法を提供できるのではないかという.その「まとめ」を引用したい (78) .

 結局,現代英語で命令形を構成する主要動詞要素は(たとえ言語的事実は,命令法を体現する定形動詞の摩耗形であったとしても,独自の動詞形態を持たない以上)「原形(不定詞)」と捉えざるを得ず,「動詞の法」の観点からは決してそれを定形と呼ぶわけにはいかないが,「文の法」としては定形とも見なされるので,その意味で「命令文」と呼ぶことも可能であると結論づけられる.しかも,従属節接続法現在形でも,法助動詞が現れないときには,命令形と同様に原形のみが現れるとする見方は,その義務や勧告を表す意味機能との親和性とも相俟って,非常に統一感のある捉え方だと言っていい.命令法と接続法現在形を原形が表す非事実的法性で一括りに捉えることができるということである.確かに,「法」の概念自体は英語教育の現場では等閑視されている項目であろうが,「原形」という言い方は非常によく使われている現状を考えたとき,むしろこれを前面に押し出した指導法には大いにメリットがあると思われる.
 学校では,いわゆる三単現の -s については,(本来なら非常に重要で,理解に不可欠な)直説法という概念は無視して,やかましく指導されるが,それに真っ向から反する,従属節接続法現在形の he do という連鎖を理解するためには,法に関しての知識がどうしても必須である.そこでたとえ「法」という言葉は使わないにしても,両者間にある事実性と非事実性という対立を教員は是非とも指摘しなければならない.その際,動詞の「原形」は非事実的法性(の一部)を担うという考え方を披瀝することは,法や定形性の意味的理解を深める上でも十分に有効であろう.


 通時的な事実を十分に押さえた上で,あえてその発想から決別し,共時的な体系化を図るという論者の姿勢は,おおいに真似したいところだ.また,引用後半にあるように,この問題は裏から迫った「3単現の -s」の問題とも換言できそうで,示唆に富む.

 ・ 松瀬 憲司 「定形か非定形か---英語の命令「文」について---」『熊本大学教育学部紀要』第63巻,2014年,73--79頁.

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2019-03-26 Tue

#3620. 「命令法」を認めず「原形の命令用法」とすればよい? (1) [imperative][mood][subjunctive][tense][future][category][elt]

 現代英語について命令法 (imperative mood) を認めるか否かという問題は,英語学でもたびたび議論がなされてきた.法 (mood) を純粋に形態論的なカテゴリーと解するならば,伝統文法でいう動詞の「命令形」は原形(不定詞)と同一であるから,ここに独自の法を設定する必要はないということになる.むしろ,原形(不定詞)を基本に据えて,その用法の1つとして命令用法があると考えるほうがすっきりする.命令用法と原形の他の諸用法には,意味的な「非事実性」および統語意味的な「非定性」という共通項も見出され,その点でも理論的に都合がよい.さらにいえば,従来「接続法現在」と呼ばれてきたものも形態的には原形と異ならないのだから,やはり同じグループに入ることになるだろう.実際,「接続法現在」はまさに「非事実性」を持ち合わせている.
 上で述べてきたことは,原形,命令形,接続法現在形とそれらの用法は「非事実性」の法として1つにくくることができるという提案だが,ある意味で「非事実性」の典型ともいえる「未来」への言及が,これらと同形(=原形)によって担われないのはなぜかという問題は残る.「仮定」や「思考」の表現においても同様である.このように法,時制,定性,非事実性などの諸カテゴリーが複雑に交錯する問題を扱うのは決して容易ではない.「命令法」の扱いを改めようと一押しすると,「未来時制」の扱いに不都合が生じる,といった玉突きが生じるからだ.
 上の議論は,およそ松瀬の議論の要約である.松瀬論文では,通時的・共時的な観点からこの問題に迫っているが,その「まとめ」は次の通り (98) .

 高度に屈折した古典語では,法を区別する手立ては十分すぎるほどあり,その存在意義もまた十分にあったが,完全とまでは言えず,同じ動詞形態が複数の法を表すことも一部だがあった.おそらくそのような形態上の重複という形式面と,直説法現在が未来の事象までも射程に入れることが可能だったという意味的側面とが相まって,有標の接続法ではなく,無標の直説法のなかに未来時を設定することが常態化していたのではないかと考えられる.
 それに対して,動詞の語形変化が古英語に比べて極めて簡素化された現代英語では,もはや動詞形態としての法を明示することができない状況にあるが,それでも事実的法性は,〔中略〕'stance' marker として機能する.will などの法助動詞や if などの特殊なマーカーおよび,従属節を従える場合でも,suggest や require といった主節動詞の持つ意味によって過不足無く伝えることができる.このように考えれば,未来時の指示は,典型的には法助動詞 will という stance marker により,その非事実的法性を表す有標な構造と捉えることができ,そこには直説法や接続法といった法概念を特に持ち込む必要はないことになる.さらに付け加えれば,非事実的法性を表す有標構造には,時として従属節に(節たり得ない)非定形動詞である原形(不定詞)が現れる.それは別の見方をすれば,〔中略〕伝統的な命令法を,その動詞を定形動詞ではなく原形(不定詞)と見なした場合,まさにその命令法形が従属節に埋め込まれているとも考えられるわけで,だとすると逆に,非事実的法性を表す原形(不定詞)の一用法として従来の命令法を捉えることもでき,命令法自体を法の一種として別立てにする必要も同時になくなることになる.


 英語学的に「命令」をどう扱うべきかという問題は,当然ながら英語教育にも関わってくるだろう.

 ・ 松瀬 憲司 「未来時に「事実性」はあるのか---英語の直説法と接続法---」『熊本大学教育学部紀要』第62巻,2013年,91--100頁.

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2019-03-10 Sun

#3604. なぜ The house is building. で「家は建築中である」という意味になるのか? [syntax][gerund][participle][passive][voice][category][construction][sobokunagimon]

 標題の文は古風な表現ではあるが,現在でも使われることがある.「家が建てられているところだ」という受動的な意味に対応させるには,受動進行形を用いて The house is being built. となるべきではないのかと疑問に思われるかもしれない.この疑問はもっともであり,確かに後者の受動進行形の構文が標準的ではある.しかし,それでもなお,標題の The house is building. は可能だし,歴史的にはむしろ普通だった.能動態と受動態という態 (voice) の区別にうるさいはずの英語で,なぜ標題の文が許されるのだろうか.
 歴史的には,The house is building.building は現在分詞ではなく動名詞である.同じ -ing 形なので紛らわしいが,両者は機能がまったく異なる.The house is building. の前段階には The house is a-building. という構文があり,さらにその前段階には The house is on building. という構文があった.つまり,buildingbuild の動名詞であり,それが前置詞 on の目的語となっているという統語構造なのである.意味的にはまさに「建築中」ということになる.前置詞 on が弱化して接頭辞的な a- となり,それがさらに弱化し最終的には消失してしまったために,あたかも現在進行形構文のような見栄えになってしまったのである.
 動名詞は動詞由来であるから動詞的な性質を色濃く残しているとはいえ,統語上の役割としては名詞である.態とは本質的に動詞にかかわる文法範疇であり,名詞には関与しない.したがって,動「名詞」としての building では,「建てる」と「建てられる」の態の対立が中和されている.まさに日本語の「建築」がぴったりくるような意味をもっているのだ.前置詞 on を伴って「建築中」の意となるのは自然だろう.
 このような構文は,古風とはいえ現在でも用いられることがあるし,近代英語まで遡ればよくみられた.類例として,以下を挙げておこう(中島,pp. 229--30).

 ・ The whilst this play is playing --- Hamlet, III. ii. 93.
 ・ While grace is saying -- Merch. V., II. ii. 202
 ・ What's doing here?
 ・ The dinner is cooking.
 ・ The book is printing.
 ・ The tea is drawing.
 ・ The history which is making about us.

 標題の問いに戻ろう.主語の the house と,building のなかに収まっているもともとの動詞 build とは,歴史的にいえば直接的な統語関係にあるわけではない.言い方をかえれば,build the house という動詞句を前提とした構文ではないということだ.一方,現代の標準的な The house is being built. は,その動詞句を前提とした構文である.つまり,2つの構文は起源がまったく異なっており,比べて合ってもしかたない代物なのである.
 現在分詞と動名詞が,まったく異なる機能をもちながらも,同じ -ing 形となっている歴史的経緯については,「#2421. 現在分詞と動名詞の協働的発達」 ([2015-12-13-1]) を参照されたい.

 ・ 中島 文雄 『英語発達史 改訂版』岩波書店,2005年.

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2018-12-29 Sat

#3533. 名詞 -- 形容詞 -- 動詞の連続性と範疇化 [prototype][category][pos][noun][verb][adjective][typology][conversion]

 大堀 (70) は,語彙カテゴリー(いわゆる品詞)の問題を論じながら,名詞 -- 形容詞 -- 動詞の連続性に注目している.一方の極に安定があり,他方の極に移動・変化がある1つの連続体という見方だ.

語彙カテゴリーが成り立つ基盤は,知覚の上で不変の対象と,変化をともなう過程との対立に見出すことができる.つまり,一方では時間の経過の中で安定した対象があり,もう一方ではその移動や変化の過程が知覚される.こうした対立をもとに考えると,名詞のプロトタイプは,変化のない安定した特性をもった対象である.指示を行うためには,明瞭な輪郭をもち,恒常性のある物体であることが基本となる.これに対し,動詞のプロトタイプは,状態の変化という特性をもった過程である.叙述を行うのは,際立った変化がみとめられた場合が主であり,それは典型的には行為の結果として現れるからである.談話の中での機能という点からこれを見れば,「名詞らしさ」は談話内で一定の対象を続けて話題にするための安定した背景を設け,「動詞らしさ」は時間の中での変化によって起きる事態の進行を表すはたらきをもつ.
 このように考えると,類型論的に形容詞が名詞らしさと動詞らしさの間で「揺れ」を示す,あるいは自立したカテゴリーとしては限られたメンバーしかもたないことが多いという点は,形容詞がもつ用法上の特性から説明されると思われる.形容詞は修飾的用法(例:「赤いリンゴ」)と叙述的用法(例:「リンゴは赤い」)を両方もっており,前者は対象の特定を通じて「名詞らしさ」の側に,後者は(行為ではないが)性質についての叙述を通じて「動詞らしさ」の側に近づくからである.そして概念的にプロトタイプから外れたときには,名詞や動詞からの派生によって表されることが多くなる.


 形容詞が名詞と動詞に挟まれた中間的な範疇であるがゆえに,ときに「名詞らしさ」を,ときに「動詞らしさ」を帯びるという見方は説得力がある.その違いが,修飾的用法と叙述的用法に現われているのではないかという洞察も鋭い.また,言語類型論的にいって,形容詞というカテゴリーは語彙数や文法的振る舞いにおいて言語間の異なりが激しいのも,中間的なカテゴリーだからだという説明も示唆に富む(例えば,日本語では形容詞は独立して述語になれる点で動詞に近いが,印欧諸語では屈折形態論的には名詞に近いと考えられる).
 上のように連続性と範疇化という観点から品詞をとらえると,品詞転換 (conversion) にまつわる意味論やその他の傾向にも新たな光が当てられるかもしれない.

 ・ 大堀 壽夫 『認知言語学』 東京大学出版会,2002年.

Referrer (Inside): [2021-06-19-1]

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2018-11-06 Tue

#3480. 人称とは何か? (3) [person][category][personal_pronoun][deixis][title][pidgin][fetishism]

 標題は,[2018-10-20-1], [2018-10-25-1]の記事の続編.『新英語学辞典』と The Oxford Companion to the English Language より, (人称)という用語を引くと,興味深い情報が得られた.英語の人称代名詞の用法の詳細についての話題が主となるが「人称」というフェチ的世界観の奥深さが垣間見える.いくつかを挙げよう.

 ・ Well, and how are we today? などにおける「親身の we」 (paternal we) は,1人称(複数)というよりも「総称人称」 (generic person) あるいは「共通人称」というべき.as we know なども同様.
 ・ 人称の指示対象と人称の文法上の振る舞いは異なる:たとえば the (present) writer, the author, the speaker などは,指示対象は1人称だが,文法上は3人称である.同様に your Majesty, your Excellency なども指示対象は2人称だが,文法上は3人称である.Does His Majesty wish to leave?Does Madam wish to look at some other hats? などを参照.関連して「#440. 現代に残る敬称の you」 ([2010-07-11-1]) も.
・ 逆に,Mother, where are you? のような呼びかけでは,3人称的な名詞を用いながらも,2人称的色彩が濃厚.
・ 各種の Pidgin English では "inclusive" な1人称複数 yumi (< "you-me") と、"exclusive" な1人称複数 mipela (< "me-fellow") が区別される (cf. 「#1313. どのくらい古い時代まで言語を遡ることができるか」 ([2012-11-30-1])) .
・ royal we という,きわめてイギリスらしい慣習.Victoria 女王による We are not amused. (← 一生に1度でも言ってみたい)を参照.
 ・ 日本語「こそあ(ど)」は各々1,2,3人称に対応すると考えられる.(← なるほど)

 ・ 大塚 高信,中島 文雄 監修 『新英語学辞典』 研究社,1987年.
 ・ McArthur, Tom, ed. The Oxford Companion to the English Language. Oxford: OUP, 1992.

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2018-10-25 Thu

#3468. 人称とは何か? (2) [person][category][personal_pronoun][agreement][t/v_distinction][deixis][sobokunagimon]

 人称 (person) について,先日「#3463. 人称とは何か?」 ([2018-10-20-1]) で私見を述べた.より客観的に言語における人称を考えていくに当たって,まずは言語学用語辞典で person を引いてみよう.以下,Crystal (358--59) の記述より.

person (n.) (per, PER) A category used in grammatical description to indicate the number and nature of the participants in a situation. The contrasts are deictic, i.e. refer directly to features of the situation of utterance. Distinctions of person are usually marked in the verb and/or in the associated pronouns (personal pronouns). Usually a three-way contrast is found: first person, in which speakers refer to themselves, or to a group usually including themselves (e.g. I, we); second person, in which speakers typically refer to the person they are addressing (e.g. you); and third person, in which other people, animals, things, etc are referred to (e.g. he, she, it, they). Other formal distinctions may be made in languages, such as 'inclusive' v. 'exclusive' we (e.g. speaker, hearer and others v. speaker and others, but no hearer); formal (or 'honorific') v. informal (or 'intimate'), e.g. French vous v. tu; male v. female; definite v. indefinite (cf. one in English); and so on. There are also several stylistically restricted uses, as in the 'royal' and authorial uses of we. Other word-classes than personal pronouns may show person distinction, as with the reflexive and possessive pronouns in English (myself, etc., my, etc.). Verb constructions which lack person contrast, usually appearing in the third person, are called impersonal. An obviative contrast may also be recognized.


 なるほど,一口に人称といっても考慮すべき点はいろいろあるようだ.意味論・語用論的な観点からの人称の捉え方もあれば,文体的な問題としての人称もある.
 最後に触れられている obviative という3人称と区別される弁別的な人称の発想はおもしろい.いわば「4人称」である.Crystal (338) の同じ用語辞典より,説明を聞いてみよう.

obviative (adj./n.) A term used in linguistics to refer to a fourth-person form used in some languages (e.g. some North American Indian languages). The obviative form ('the obviative') of a pronoun, verb, etc. usually contrasts with the third person, in that it is used to refer to an entity distinct from that already referred to by the third-person form --- the general sense of 'someone/something else'.


 「オレ」「オマエ」「それ以外」という3区分に従えば obviative も3人称であるには違いなく,「4人称」とは不適切な呼称かもしれない.しかし,「4人称」という発想は,人称というフェチな世界観が(いくつかの言語においては)すでに言及されているか否かという談話の観点までも考慮しつつ,どこまでもフェチになりうる文法範疇であることを教えてくれる.

 ・ Crystal, David, ed. A Dictionary of Linguistics and Phonetics. 6th ed. Malden, MA: Blackwell, 2008. 295--96.

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