英語の典型的な形容詞・副詞には,原級・比較級・最上級の区別がある.日本語の「比較」や「級」という用語には,英語の "comparison", "degree", "gradation" などが対応するが,そもそもこれは言語学的にどのような範疇 (category) なのか.Bussmann の用語辞典より,まず "degree" の項目をみてみよう.
degree (also comparison, gradation)
All constructions which express a comparison properly fall under the category of degree; it generally refers to a morphological category of adjectives and adverbs that indicates a comparative degree or comparison to some quantity. There are three levels of degree: (a) positive, or basic level of degree: The hamburgers tasted good; 'b) comparative, which marks an inequality of two states of affairs relative to a certain characteristic: The steaks were better than the hamburgers; (c) superlative, which marks the highest degree of some quantity: The potato salad was the best of all; (d) cf. elative (absolute superlative), which marks a very high degree of some property without comparison to some other state of affairs: The performance was most impressive . . . .
Degree is not grammaticalized in all languages through the use of systematic morphological changes; where such formal means are not present, lexical paraphrases are used to mark gradation. In modern Indo-European languages, degree is expressed either (a) synthetically by means of suffixation (new : newer : (the) newest); (b) analytically by means of particles (anxious : more/most anxious); or (c) through suppletion . . . , i.e. the use of different word stems: good : better : (the) best.
同様に "gradation" という項目も覗いてみよう.
gradation
Semantic category which indicates various degrees (i.e. gradation) of a property or state of affairs. The most important means of gradation are the comparative and superlative degrees of adjectives and some (deadjectival) adverbs. In addition, varying degrees of some property can also be expressed lexically, e.g. especially/really quick, quick as lightning, quicker and quicker.
上の説明にあるように "degree" や "gradation" が「意味」範疇であることはわかる.英語のみならず,日本語でも「より良い」「ずっと良い」「最も良い」「最良」などの表現が様々に用意されており,「比較」や「級」に相当する機能を果たしているからだ.しかし,通言語的にはそれが常に形態・統語的な「文法」範疇でもあるということにはならない.いってしまえば,たまたま印欧諸語では文法化し(=文法に埋め込まれ)ているので文法範疇として認められているが,日本語では特に文法範疇として設定されていないという,ただそれだけのことである.
個々の文法範疇は,通言語的に比較的よくみられるものもあれば,そうでないものもある.文法範疇とは,ある意味で個別言語におけるフェチというべきものである.この見方については「#2853. 言語における性と人間の分類フェチ」 ([2017-02-17-1]) をはじめ fetishism の各記事を参照されたい.
・ Bussmann, Hadumod. Routledge Dictionary of Language and Linguistics. Trans. and ed. Gregory Trauth and Kerstin Kazzizi. London: Routledge, 1996.
「#3692. 英語には過去時制と非過去時制の2つしかない!?」 ([2019-06-06-1]),「#3693. 言語における時制とは何か?」 ([2019-06-07-1]) で簡単に論じたように,英語における未来時制の存在は長らく議論の的になってきた.未来時制を認めるべきなのか,認めるとすればその根拠は何か.あるいは,認めるべきではないのか,そうだとすればその根拠は何か.『英語学要語辞典』の future tense の項 (269) で要約されている「英語に未来時制がない」とする説の根拠を示そう.
(1) 一般に「will/shall + 不定詞」という形式を「未来形」と称し,「未来時制」を表わすものと理解されているが,これはあくまで統語的な手段を利用しているにすぎないことに注意が必要である.一方,時制として確立されている「現在時制」と「過去時制」は,go と went のように動詞を屈折・変化させる形態的な手段により「現在形」と「過去形」を形成しており,will/shall go とはレベルが異なるように思われる.will/shall go が対立するのはむしろ would/should go であり,この対立自体が結局のところ「現在時制」対「過去時制」に還元されるというべきではないか.
(2) 上記のような手段の問題は別にしても,will/shall がどこまで文法化した形式的な語であるかという点についても疑義がある.各語は元来「意志」「負債,義務」を表わす本動詞であり,助動詞化したあとでもその原義はある程度残っている.他にも付随意味として「推量・習慣」「必然・強制」などの意味が残っており,純粋に「未来」の意味を担うものとはなっていない.一方 can, may, must, ought, be going to, be (about) to など他の(準)助動詞も,多かれ少なかれ「未来」の意味を担当しているため,もし will/shall を「未来」の助動詞と認めるのであれば,これらも同様に認めなければ一貫性が保てない.もっとも,法的な含意を伴わない純粋な「未来」を表わす用例が,will/shall に見られるというのも事実ではある.以下の事例を参照.
My babe-in-arms will be fifty-nine on my eighty-ninth birthday ... The year two thousand and fifteen when I shall be ninety. --- [F. R. Palmer]
英語に未来時制はあるのか,ないのかという問題は,一般に,所与の言語項がある文法範疇の成員であるとみなすためには,どのような条件が満たされていればよいのかという本質的な問いへとつながっていく.これは文法理論や言語観に関わるきわめて大きなトピックである.
・ 寺澤 芳雄(編)『英語学要語辞典』,研究社,2002年.298--99頁.
筆者は学生時代に言語学に関心をもち,そこから歴史言語学,そして社会言語学へと関心を広げてきたが,まさか「民族」と「人種」といった抜き差しならない社会的な問題を扱うことになろうとは夢にも思わなかった.初心に戻って「民族」 (ethnic_group) と「人種」 (race) について整理してみたい.伝統的には前者は文化的なもの,後者は形質的なものととらえてきたが,昨今では必ずしもそのようにとらえられているわけではない.まずは「民族性」 (ethnicity) について見ておこう.A Dictionary of Sociolinguistics の ethnicity の項 (100--01) より.
ethnicity An aspect of an individual's social IDENTITY which is closely associated with language. Ethnicity is usually assigned on the basis of descent. In addition, the subjective experience of belonging to a culturally and historically distinct social group is often included in definitions of ethnicity. Thus, DEAF people usually consider themselves to be part of the Deaf community, which is defined by specific cultural and linguistic practices, although they may not have been born into the community (they may have become Deaf only later in life, or they may have grown up among hearing people). Questions of identity and ethnicity are also problematical in the context of migration. Second-generation migrants may not wish to identify with their traditional ethnic group but with the new society (e.g. second-generation German migrants in the USA may see themselves not as German but as American; such shifts in identity are often accompanied by symbolic actions such as name changes --- Karl Müller to Chuck Miller). To assign individuals unambiguously to distinct ethnic groups can be difficult in such contexts. Sometimes RELIGION is also considered to form part of ethnicity.
Language forms a central aspect and symbol of ethnic identity (see e.g. Smolicz (1981) on language as a 'core value' of an ethnic group). Sociolinguists who study multicultural societies have often included ethnicity as a SOCIAL VARIABLE. Horvath (1985), for example, included speakers from different ethnic groups (Australians of English, Italian and Greek background) in her study of English in Sydney.
民族性に言語が大きく関わるのは事実だが,言語のみで決定されるカテゴリーというわけでもない.そこには,言語以外の文化・歴史・社会的なカテゴリーもしばしば関与する.それは複合的な要因によって形成されるアイデンティティというべきものである.
次に「人種」はどうだろうか.こちらも単純に生物学的な区分とみる伝統的な見解もあるが,それ自体がすでに社会化された構造物であるという見方もある.上と同じ用語辞典より引用する.
race Highly contested term. Whilst it has no basis in biological or scientific fact, 'race' is in widespread everyday usage to refer to particular groups or 'races' of people, usually on the basis of physical appearance or geographical location, who are presumed to share a set of definable characteristics. The term ETHNICITY is sometimes used to refer to the identity of different groups on the basis of their assumed or presumed genealogical descent. 'Race' in social studies of language is viewed as a social construct rather than a fact (hence the use of inverted commas around 'race'): that is, 'race' or 'racial groups' only exist because particular physical characteristics (such as skin colour, facial features) are attributed a special kind of significance in society. This attribution usually involves differentiation between 'races' in terms of status and power, resulting from a particular IDEOLOGY. It is acknowledged that 'race' has considerable force in continuing to inform policies, behaviour and attitudes, including those relating to language and behaviour (see discussions in Omi and Winant, 1994). For this reason, 'race', usually within the context of RACISM, has been a focus of study in sociolinguistic research (e.g. Reisgl and Wodak, 2000).
民族,人種,言語はそれぞれ独立したカテゴリーでありながらも,非常に複雑な仕方で相互関係を保っている.それゆえに各カテゴリーの定義は,部分的に相互参照しながらなされなければならない運命なのだろう.
関連して,「#1871. 言語と人種」 ([2014-06-11-1]),「#3599. 言語と人種 (2)」 ([2019-03-05-1]) も参照.
・ Swann, Joan, Ana Deumert, Theresa Lillis, and Rajend Mesthrie, eds. A Dictionary of Sociolinguistics. Tuscaloosa: U of Alabama P, 2004.
昨日の記事「#3692. 英語には過去時制と非過去時制の2つしかない!?」 ([2019-06-06-1]) を受けて,今回は言語における時制 (tense) という文法範疇 (grammatical category) について考えてみる.
『新英語学辞典』の定義によれば,tense とは「動詞における時間的関係を示す文法範疇をいう.一般的には,時の関係は話者が話している時を中心とする時間領域を現在として,過去と未来に分けられる」とある.
言語における時制を考える際に1つ注意しておきたいのは,昨日の記事でも述べたように,現実における「時」と言語の範疇としての「時制」とは,必ずしもきれいに対応するわけではないということだ.形態的には「過去形」を用いておきながら,意味的には「現在」を指し示している What was your name? などの例があるし,その逆の関係が成り立つ歴史的現在 (historic_present) なる用法も知られている.このようなチグハグにみえる時と時制との対応関係は,ちょうど古英語の stān (= stone) が,現実的には男性でも女性でもなく中性というべきだが,文法上は男性名詞ということになっている,文法性 (grammatical gender) の現象に似ている.現実世界と言語範疇は,必ずしも対応するわけではないのである.また,言語表現上,範疇を構成する各成員間の境目,たとえば現在と過去,現在と未来との境目が,必ずしもはっきりと区別されているわけではないことにも注意を要する.
時制の分類法には様々なものがあるが,英語の時制に関していえば,形態的な観点に立ち,過去時制 (preterite tense) と現在時制(present tense) (あるいは非過去時制)(non-preterite tense) の2種とみる見解が古くからある.これは他のゲルマン諸語も然りなのだが,動詞の形態変化によって標示できるのは,たとえば sing (現在形あるいは非過去形)に対して sang (過去形)しかないからだ.一見すると「未来形」であるかのようにみえる will/shall sing は動詞の形態変化によるものではないから,未来時制は認めないという立場だ.
一方,意味的な観点に立つのであれば,sing, sang に対して will/shall sing は独自の時を指し示しているのだから,時制の1つとして認めるべきだという考え方もある.つまり,英語の時制は,立場によって2種とも3種とも言い得ることになる.
英語の時制について厄介なのは,動詞のとる時制形は,しばしば純粋に時制を標示するわけではなく,相 (aspect) や法 (mood) といった他の文法範疇の機能も合わせて標示することだ.各々の機能が互いに絡み合っており,時制だけをきれいに選り分けることができないという事情がある.
英語の時制の問題は,生成文法などで理論的な分析も提案されてきたが,今なお未解決といってよいだろう.今ひとつ重要な理論的貢献として「#2747. Reichenbach の時制・相の理論」 ([2016-11-03-1]) も参照されたい.
・ 大塚 高信,中島 文雄 監修 『新英語学辞典』 研究社,1987年.
・ Crystal, David, ed. A Dictionary of Linguistics and Phonetics. 6th ed. Malden, MA: Blackwell, 2008. 295--96.
英語史の授業などで,古英語の動詞の時制 (tense) には,過去時制 (preterite tense)と現在(あるいは非過去)時制 (non-preterite tense) の2種類しかないと述べると,学生から必ずといってよいほど「では,未来のことはどうやって表わしたのか」と質問がなされる.現代英語でも,形態的な観点からいえば相変わらず過去時制と現在時制の2つしかないにもかかわらずである.もっといえば,日本語にも過去時制(タ形)と非過去時制(非タ形)の2つしかないわけで,古英語とも現代英語とも異なるところがない.英語を含めたゲルマン語派の諸言語と日本語とはその点ではよく似ているのである.
形態的にみれば,英語は歴史的に過去時制 (preterite tense) と現在時制(present tense) (あるいは非過去時制 (non-preterite tense) の2種類の時制しかもってこなかったのは事実である.英語では未来のことは主として現在形で表わしてきたのであり,現在時制や過去時制と区別して特別な未来時制というものは存在しなかった.これはゲルマン諸語に共通する特徴であり,その歴史的背景は「#182. ゲルマン語派の特徴」 ([2009-10-26-1]),「#3331. 印欧祖語からゲルマン祖語への動詞の文法範疇の再編成」 ([2018-06-10-1]) で解説した通りである.
しかし,上記は「形態的にみれば」という但し書きの解説である.「#2208. 英語の動詞に未来形の屈折がないのはなぜか?」 ([2015-05-14-1]),「#2317. 英語における未来時制の発達」 ([2015-08-31-1]) でみたように,古英語以来,will や shall などの助動詞を用いた「統語的(迂言的)な未来形」が現われてきたのは事実であり,その確立の時期については議論があるものの,歴史のある段階から「未来時制」が英語の時制範疇に加わったと論じることはできるかもしれない.
英語の時制は2つなのか,3つなのかという議論は文法家のあいだでも長らく続けられており,決定的な答えは出されていない.しかし,それよりももっと重要な点は,現実世界の「時」と言語世界における「時制」とを区別して理解しておなければならないということだ.言語によっては,両者が一致していることもあるし,必ずしもそうでないこともある.現実世界(の認識)においては現在・過去・未来の3者が区別されるからといって,言語の文法範疇 (grammatical category) においても同じように3者が区別されるとは限らないのである.古英語も現代英語も日本語も,現実世界で3つの時が区別されているのに対し,言語世界では2つの時制に区別されているにすぎないのである.
そもそも,言語における時制とは何なのか,明日の記事で考えたい.
英語の人称代名詞体系においては,単複ともに1, 2人称では性が区別されない (I, you) が,3人称単数では区別される (he, she, it) .状況は古英語でも同じであり,性の形式上の区別は1, 2人称ではつけられないが,3人称ではつけられた.これはなぜだろうか.18世紀半ばの影響力のある文法家 Lowth (29) は次のように説明している.
The Persons speaking and spoken to, being at the same time the Subjects of the discourse, are supposed to be present; from which and other circumstances their Sex is commonly known, and needs not to be marked by distinction of Gender in their Pronouns; but the third Person or thing spoken of being absent and in many respects unknown, it is necessary that it should be marked by distinction of Gender; at least when some particular Person or thing is spoken of, which ought to be more distinctly marked: accordingly the Pronoun Singular of the Third Person hath the Three Genders, He, She, It.
1, 2人称は会話の現場にいるわけだから性別は見ればわかる.しかし,3人称はたいてい現場にいないわけなので,性別に関する情報を形式に載せるのが理に適っている,という理屈だ.3人称複数で性差がつけられない点については直接言及されていないが,3人称単数のほうが "some particular Person or thing" として性の区別をより強く要求すると言うことだろうか.
Lowth の理屈は分からないでもないが,必ずしも説得力があるわけではない.少なくとも日本語やその他の言語の状況をも説明する普遍的な説明とはなっていない.日本語では,ある意味ではむしろ1, 2人称でこそ性の区別がつけられる傾向があるともいえるからだ.
しかし,日本語と異なり,英語には明確に人称 (person) という文法範疇が認められてきた.1人称=オレ,2人称=オマエ,3人称=その他の一切合切,という1つの世界観のことだ(cf. 「#3463. 人称とは何か?」 ([2018-10-20-1]),「#3468. 人称とは何か? (2)」 ([2018-10-25-1]),「#3480. 人称とは何か? (3)」 ([2018-11-06-1])).この世界観のもとでは,ある人称の場合には,例えば性というような第2の文法範疇がより強く意識される・されないといった傾向が出てくるのは自然といえば自然だろう.そこに何か重要な区別が表わされていると感じられるからこそ,人称という文法範疇が存在しているはずだからだ.
ただし,人称にせよ性にせよ,文法範疇というものは人間の分類フェチの一種にすぎないことに注意する必要がある.フェチに,あまり合理的な説明を求めることはできないのではないかと考えている.「文法範疇=フェチ」という持論については,「#2853. 言語における性と人間の分類フェチ」 ([2017-02-17-1]),「#1868. 英語の様々な「群れ」」 ([2014-06-08-1]),「#1449. 言語における「範疇」」 ([2013-04-15-1]) などを参照.
・ Lowth, Robert. A Short Introduction to English Grammar. 1762. New ed. 1769. (英語文献翻刻シリーズ第13巻,南雲堂,1968年.9--113頁.)
昨日の記事に引き続き「原形の命令用法」に関する問題.松瀬は昨日引用した論文とは別の関連論文のなかで,より突っ込んだ英語教育の観点からこの問題に切り込んでいる.「原形の命令用法」を押し出すことで,関連する諸現象とともに一貫した英文法を提供できるのではないかという.その「まとめ」を引用したい (78) .
結局,現代英語で命令形を構成する主要動詞要素は(たとえ言語的事実は,命令法を体現する定形動詞の摩耗形であったとしても,独自の動詞形態を持たない以上)「原形(不定詞)」と捉えざるを得ず,「動詞の法」の観点からは決してそれを定形と呼ぶわけにはいかないが,「文の法」としては定形とも見なされるので,その意味で「命令文」と呼ぶことも可能であると結論づけられる.しかも,従属節接続法現在形でも,法助動詞が現れないときには,命令形と同様に原形のみが現れるとする見方は,その義務や勧告を表す意味機能との親和性とも相俟って,非常に統一感のある捉え方だと言っていい.命令法と接続法現在形を原形が表す非事実的法性で一括りに捉えることができるということである.確かに,「法」の概念自体は英語教育の現場では等閑視されている項目であろうが,「原形」という言い方は非常によく使われている現状を考えたとき,むしろこれを前面に押し出した指導法には大いにメリットがあると思われる.
学校では,いわゆる三単現の -s については,(本来なら非常に重要で,理解に不可欠な)直説法という概念は無視して,やかましく指導されるが,それに真っ向から反する,従属節接続法現在形の he do という連鎖を理解するためには,法に関しての知識がどうしても必須である.そこでたとえ「法」という言葉は使わないにしても,両者間にある事実性と非事実性という対立を教員は是非とも指摘しなければならない.その際,動詞の「原形」は非事実的法性(の一部)を担うという考え方を披瀝することは,法や定形性の意味的理解を深める上でも十分に有効であろう.
通時的な事実を十分に押さえた上で,あえてその発想から決別し,共時的な体系化を図るという論者の姿勢は,おおいに真似したいところだ.また,引用後半にあるように,この問題は裏から迫った「3単現の -s」の問題とも換言できそうで,示唆に富む.
・ 松瀬 憲司 「定形か非定形か---英語の命令「文」について---」『熊本大学教育学部紀要』第63巻,2014年,73--79頁.
現代英語について命令法 (imperative mood) を認めるか否かという問題は,英語学でもたびたび議論がなされてきた.法 (mood) を純粋に形態論的なカテゴリーと解するならば,伝統文法でいう動詞の「命令形」は原形(不定詞)と同一であるから,ここに独自の法を設定する必要はないということになる.むしろ,原形(不定詞)を基本に据えて,その用法の1つとして命令用法があると考えるほうがすっきりする.命令用法と原形の他の諸用法には,意味的な「非事実性」および統語意味的な「非定性」という共通項も見出され,その点でも理論的に都合がよい.さらにいえば,従来「接続法現在」と呼ばれてきたものも形態的には原形と異ならないのだから,やはり同じグループに入ることになるだろう.実際,「接続法現在」はまさに「非事実性」を持ち合わせている.
上で述べてきたことは,原形,命令形,接続法現在形とそれらの用法は「非事実性」の法として1つにくくることができるという提案だが,ある意味で「非事実性」の典型ともいえる「未来」への言及が,これらと同形(=原形)によって担われないのはなぜかという問題は残る.「仮定」や「思考」の表現においても同様である.このように法,時制,定性,非事実性などの諸カテゴリーが複雑に交錯する問題を扱うのは決して容易ではない.「命令法」の扱いを改めようと一押しすると,「未来時制」の扱いに不都合が生じる,といった玉突きが生じるからだ.
上の議論は,およそ松瀬の議論の要約である.松瀬論文では,通時的・共時的な観点からこの問題に迫っているが,その「まとめ」は次の通り (98) .
高度に屈折した古典語では,法を区別する手立ては十分すぎるほどあり,その存在意義もまた十分にあったが,完全とまでは言えず,同じ動詞形態が複数の法を表すことも一部だがあった.おそらくそのような形態上の重複という形式面と,直説法現在が未来の事象までも射程に入れることが可能だったという意味的側面とが相まって,有標の接続法ではなく,無標の直説法のなかに未来時を設定することが常態化していたのではないかと考えられる.
それに対して,動詞の語形変化が古英語に比べて極めて簡素化された現代英語では,もはや動詞形態としての法を明示することができない状況にあるが,それでも事実的法性は,〔中略〕'stance' marker として機能する.will などの法助動詞や if などの特殊なマーカーおよび,従属節を従える場合でも,suggest や require といった主節動詞の持つ意味によって過不足無く伝えることができる.このように考えれば,未来時の指示は,典型的には法助動詞 will という stance marker により,その非事実的法性を表す有標な構造と捉えることができ,そこには直説法や接続法といった法概念を特に持ち込む必要はないことになる.さらに付け加えれば,非事実的法性を表す有標構造には,時として従属節に(節たり得ない)非定形動詞である原形(不定詞)が現れる.それは別の見方をすれば,〔中略〕伝統的な命令法を,その動詞を定形動詞ではなく原形(不定詞)と見なした場合,まさにその命令法形が従属節に埋め込まれているとも考えられるわけで,だとすると逆に,非事実的法性を表す原形(不定詞)の一用法として従来の命令法を捉えることもでき,命令法自体を法の一種として別立てにする必要も同時になくなることになる.
英語学的に「命令」をどう扱うべきかという問題は,当然ながら英語教育にも関わってくるだろう.
・ 松瀬 憲司 「未来時に「事実性」はあるのか---英語の直説法と接続法---」『熊本大学教育学部紀要』第62巻,2013年,91--100頁.
標題の文は古風な表現ではあるが,現在でも使われることがある.「家が建てられているところだ」という受動的な意味に対応させるには,受動進行形を用いて The house is being built. となるべきではないのかと疑問に思われるかもしれない.この疑問はもっともであり,確かに後者の受動進行形の構文が標準的ではある.しかし,それでもなお,標題の The house is building. は可能だし,歴史的にはむしろ普通だった.能動態と受動態という態 (voice) の区別にうるさいはずの英語で,なぜ標題の文が許されるのだろうか.
歴史的には,The house is building. の building は現在分詞ではなく動名詞である.同じ -ing 形なので紛らわしいが,両者は機能がまったく異なる.The house is building. の前段階には The house is a-building. という構文があり,さらにその前段階には The house is on building. という構文があった.つまり,building は build の動名詞であり,それが前置詞 on の目的語となっているという統語構造なのである.意味的にはまさに「建築中」ということになる.前置詞 on が弱化して接頭辞的な a- となり,それがさらに弱化し最終的には消失してしまったために,あたかも現在進行形構文のような見栄えになってしまったのである.
動名詞は動詞由来であるから動詞的な性質を色濃く残しているとはいえ,統語上の役割としては名詞である.態とは本質的に動詞にかかわる文法範疇であり,名詞には関与しない.したがって,動「名詞」としての building では,「建てる」と「建てられる」の態の対立が中和されている.まさに日本語の「建築」がぴったりくるような意味をもっているのだ.前置詞 on を伴って「建築中」の意となるのは自然だろう.
このような構文は,古風とはいえ現在でも用いられることがあるし,近代英語まで遡ればよくみられた.類例として,以下を挙げておこう(中島,pp. 229--30).
・ The whilst this play is playing --- Hamlet, III. ii. 93.
・ While grace is saying -- Merch. V., II. ii. 202
・ What's doing here?
・ The dinner is cooking.
・ The book is printing.
・ The tea is drawing.
・ The history which is making about us.
標題の問いに戻ろう.主語の the house と,building のなかに収まっているもともとの動詞 build とは,歴史的にいえば直接的な統語関係にあるわけではない.言い方をかえれば,build the house という動詞句を前提とした構文ではないということだ.一方,現代の標準的な The house is being built. は,その動詞句を前提とした構文である.つまり,2つの構文は起源がまったく異なっており,比べて合ってもしかたない代物なのである.
現在分詞と動名詞が,まったく異なる機能をもちながらも,同じ -ing 形となっている歴史的経緯については,「#2421. 現在分詞と動名詞の協働的発達」 ([2015-12-13-1]) を参照されたい.
・ 中島 文雄 『英語発達史 改訂版』岩波書店,2005年.
大堀 (70) は,語彙カテゴリー(いわゆる品詞)の問題を論じながら,名詞 -- 形容詞 -- 動詞の連続性に注目している.一方の極に安定があり,他方の極に移動・変化がある1つの連続体という見方だ.
語彙カテゴリーが成り立つ基盤は,知覚の上で不変の対象と,変化をともなう過程との対立に見出すことができる.つまり,一方では時間の経過の中で安定した対象があり,もう一方ではその移動や変化の過程が知覚される.こうした対立をもとに考えると,名詞のプロトタイプは,変化のない安定した特性をもった対象である.指示を行うためには,明瞭な輪郭をもち,恒常性のある物体であることが基本となる.これに対し,動詞のプロトタイプは,状態の変化という特性をもった過程である.叙述を行うのは,際立った変化がみとめられた場合が主であり,それは典型的には行為の結果として現れるからである.談話の中での機能という点からこれを見れば,「名詞らしさ」は談話内で一定の対象を続けて話題にするための安定した背景を設け,「動詞らしさ」は時間の中での変化によって起きる事態の進行を表すはたらきをもつ.
このように考えると,類型論的に形容詞が名詞らしさと動詞らしさの間で「揺れ」を示す,あるいは自立したカテゴリーとしては限られたメンバーしかもたないことが多いという点は,形容詞がもつ用法上の特性から説明されると思われる.形容詞は修飾的用法(例:「赤いリンゴ」)と叙述的用法(例:「リンゴは赤い」)を両方もっており,前者は対象の特定を通じて「名詞らしさ」の側に,後者は(行為ではないが)性質についての叙述を通じて「動詞らしさ」の側に近づくからである.そして概念的にプロトタイプから外れたときには,名詞や動詞からの派生によって表されることが多くなる.
形容詞が名詞と動詞に挟まれた中間的な範疇であるがゆえに,ときに「名詞らしさ」を,ときに「動詞らしさ」を帯びるという見方は説得力がある.その違いが,修飾的用法と叙述的用法に現われているのではないかという洞察も鋭い.また,言語類型論的にいって,形容詞というカテゴリーは語彙数や文法的振る舞いにおいて言語間の異なりが激しいのも,中間的なカテゴリーだからだという説明も示唆に富む(例えば,日本語では形容詞は独立して述語になれる点で動詞に近いが,印欧諸語では屈折形態論的には名詞に近いと考えられる).
上のように連続性と範疇化という観点から品詞をとらえると,品詞転換 (conversion) にまつわる意味論やその他の傾向にも新たな光が当てられるかもしれない.
・ 大堀 壽夫 『認知言語学』 東京大学出版会,2002年.
標題は,[2018-10-20-1], [2018-10-25-1]の記事の続編.『新英語学辞典』と The Oxford Companion to the English Language より, (人称)という用語を引くと,興味深い情報が得られた.英語の人称代名詞の用法の詳細についての話題が主となるが「人称」というフェチ的世界観の奥深さが垣間見える.いくつかを挙げよう.
・ Well, and how are we today? などにおける「親身の we」 (paternal we) は,1人称(複数)というよりも「総称人称」 (generic person) あるいは「共通人称」というべき.as we know なども同様.
・ 人称の指示対象と人称の文法上の振る舞いは異なる:たとえば the (present) writer, the author, the speaker などは,指示対象は1人称だが,文法上は3人称である.同様に your Majesty, your Excellency なども指示対象は2人称だが,文法上は3人称である.Does His Majesty wish to leave? や Does Madam wish to look at some other hats? などを参照.関連して「#440. 現代に残る敬称の you」 ([2010-07-11-1]) も.
・ 逆に,Mother, where are you? のような呼びかけでは,3人称的な名詞を用いながらも,2人称的色彩が濃厚.
・ 各種の Pidgin English では "inclusive" な1人称複数 yumi (< "you-me") と,"exclusive" な1人称複数 mipela (< "me-fellow") が区別される (cf. 「#1313. どのくらい古い時代まで言語を遡ることができるか」 ([2012-11-30-1])) .
・ royal we という,きわめてイギリスらしい慣習.Victoria 女王による We are not amused. (← 一生に1度でも言ってみたい)を参照.
・ 日本語「こそあ(ど)」は各々1,2,3人称に対応すると考えられる.(← なるほど)
・ 大塚 高信,中島 文雄 監修 『新英語学辞典』 研究社,1987年.
・ McArthur, Tom, ed. The Oxford Companion to the English Language. Oxford: OUP, 1992.
人称 (person) について,先日「#3463. 人称とは何か?」 ([2018-10-20-1]) で私見を述べた.より客観的に言語における人称を考えていくに当たって,まずは言語学用語辞典で person を引いてみよう.以下,Crystal (358--59) の記述より.
person (n.) (per, PER) A category used in grammatical description to indicate the number and nature of the participants in a situation. The contrasts are deictic, i.e. refer directly to features of the situation of utterance. Distinctions of person are usually marked in the verb and/or in the associated pronouns (personal pronouns). Usually a three-way contrast is found: first person, in which speakers refer to themselves, or to a group usually including themselves (e.g. I, we); second person, in which speakers typically refer to the person they are addressing (e.g. you); and third person, in which other people, animals, things, etc are referred to (e.g. he, she, it, they). Other formal distinctions may be made in languages, such as 'inclusive' v. 'exclusive' we (e.g. speaker, hearer and others v. speaker and others, but no hearer); formal (or 'honorific') v. informal (or 'intimate'), e.g. French vous v. tu; male v. female; definite v. indefinite (cf. one in English); and so on. There are also several stylistically restricted uses, as in the 'royal' and authorial uses of we. Other word-classes than personal pronouns may show person distinction, as with the reflexive and possessive pronouns in English (myself, etc., my, etc.). Verb constructions which lack person contrast, usually appearing in the third person, are called impersonal. An obviative contrast may also be recognized.
なるほど,一口に人称といっても考慮すべき点はいろいろあるようだ.意味論・語用論的な観点からの人称の捉え方もあれば,文体的な問題としての人称もある.
最後に触れられている obviative という3人称と区別される弁別的な人称の発想はおもしろい.いわば「4人称」である.Crystal (338) の同じ用語辞典より,説明を聞いてみよう.
obviative (adj./n.) A term used in linguistics to refer to a fourth-person form used in some languages (e.g. some North American Indian languages). The obviative form ('the obviative') of a pronoun, verb, etc. usually contrasts with the third person, in that it is used to refer to an entity distinct from that already referred to by the third-person form --- the general sense of 'someone/something else'.
「オレ」「オマエ」「それ以外」という3区分に従えば obviative も3人称であるには違いなく,「4人称」とは不適切な呼称かもしれない.しかし,「4人称」という発想は,人称というフェチな世界観が(いくつかの言語においては)すでに言及されているか否かという談話の観点までも考慮しつつ,どこまでもフェチになりうる文法範疇であることを教えてくれる.
・ Crystal, David, ed. A Dictionary of Linguistics and Phonetics. 6th ed. Malden, MA: Blackwell, 2008. 295--96.
Lass (151--53) によると,Sanskrit の典型的な動詞には,時制,人称,数のカテゴリーに応じて126の定形がある.ゲルマン諸語のなかで最も複雑な屈折を示す Gothic では,22の屈折形がある.ゲルマン諸語のなかでもおよそ典型的といってよい古英語は,最大で8つの屈折形を示す.なお,現代英語では最大でも3つだ.この事実は,示唆的だろう.時代を経るごとに,屈折の種類が減ってきているのである.
印欧祖語では,区別されていた文法カテゴリーとその中味は以下の通り.
・ 態 (voice) :能動態 (active) ,中動態 (middle)
・ 法 (mood) :直説法 (indicative) ,接続法 (subjunctive),祈願法 (optative) ,命令法 (imperative)
・ 相・時制 (aspect/tense) :現在 (present) ,無限定過去 (aorist) ,完了 (perfect)
・ 数 (number) :単数 (singular) ,両数 (dual) ,複数 (plural)
・ 人称 (person) :1人称 (first) ,2人称 (second) ,3人称 (third)
これらのカテゴリーについて,印欧祖語からゲルマン祖語への再編成の様子を略述しよう.
態のカテゴリーについては,印相祖語の能動態 vs 中動態の区別は,ゲルマン祖語では(能動態) vs (受動態と再帰態)とでもいうべき区別に再編成された.
法のカテゴリーに関しては,印欧祖語の4つの区分は,北・西ゲルマン語派では,直説法,接続法,命令法の3区分,あるいはさらに融合が進み,古英語では直説法と接続法の2区分へと再編成された.
印欧祖語の時制・相のカテゴリーは,基本的には相に基づいたものと考えられている.議論はあるようだが,主として印欧祖語の「完了」が,ゲルマン祖語における「過去」に再編成されたようだ.結果として,ゲルマン祖語では,この新生「過去」と,現在を包含する「非過去」との,時制に基づく2分法が確立する.
数のカテゴリーは,古英語では両数が人称代名詞にわずかに残存しているものの,概論的にいえば,単数と複数の2区分に再編成された.この再編成については,「#2152. Lass による外適応」 ([2015-03-19-1]),「#2153. 外適応によるカテゴリーの組み替え」 ([2015-03-20-1]) を参照されたい.
最後に,人称のカテゴリーについては,現代英語の「3単現の -s」にも象徴されるように,およそ3区分法が現代まで受け継がれている.
・ Lass, Roger. Old English: A Historical Linguistic Companion. Cambridge: CUP, 1994.
通時的であれ共時的であれ文法化 (grammaticalisation) を問題にする場合,取りあげている事例がどの程度「文法化」らしいのか,「文法的」なのかを判断する基準が必要である.しかし,そのような基準を設定することは,言い換えれば文法化に定義を与えることにほかならず,自ずから困難な課題であることは論を俟たない.このような基準,ないしパラメータとしては,Lehmann の提案が古典的なものとされている.議論はあるものの,たたき台として重要である.Hopper and Traugott (31) に Lehmann のパラメータが要領よくまとまっているので,そちらを引用しよう.連合関係の軸 (paradigm) から3点,統合関係の軸 (syntagm) から3点である.
Of relevance on the paradigmatic axis are:
1. the "weight" or size of an element (Lehmann refers to "signs"); weight may be phonological (Lat. ille 'that' has more phonological weight than the French article le that derives from it) or semantic (the motion verb go is thought to be semantically weightier than the future marker go) --- "Grammaticalization rips off the lexical features until only the grammatical features are left" (1995: 129);
2. the degree to which an element enters into a cohesive set or paradigm; e.g., Latin tense is paradigmatically cohesive whereas English tense is not (contrast the Latin with its translation in amo 'I love,' amabo 'I will love,' amavi 'I have loved');
3. the freedom with which an element may be selected; in Swahili if a clause is transitive, an object marker must be obligatorily expressed in the verb (given certain semantic constraints), whereas none is required in English.
Of relevance on the syntagmatic axis are:
4. the scope or structural size of a construction; periphrasis, as in Lat. scribere habeo 'write:INF have:1stSg', is structurally longer and weightier and larger than inflection, as in Ital. scriverò, 'I shall write';
5. the degree of bonding between elements in a construction (there is a scale from clause to word to morpheme to affix boundary, 1995: 154); the degree of bonding is greater in the case of inflection than in that of periphrasis;
6. the degree to which elements of a construction may be moved around; in earlier Latin scribere habeo and habeo scribere could occur in either order, but in later Latin this order became fixed, which allowed the word boundaries to be erased.
これらを現代英語の文法事象に照らしてみよう.例えば,現代英語の法助動詞 will による「未来時制」の発達はどのくらい「文法化」的な問題だろうか.「#2317. 英語における未来時制の発達」 ([2015-08-31-1]),「#2208. 英語の動詞に未来形の屈折がないのはなぜか?」 ([2015-05-14-1]) で論じたように,法助動詞 will の発達は文法化の典型例の1つと考えられているが,上記の2から示唆される通り,現代英語の will による「未来時制」は連合関係の観点から,さほど cohesive とはいえないようにも思われ,どこまで時制という文法カテゴリーの成員として扱えるのか疑問が残る.もちろん,これは Yes/No の問題ではなく程度の問題であり,プロトタイプ的に理解する必要はあるだろう.6つのパラメータをすべて満たす完璧な事例だけを「文法化」としてしまうと,多くを見落としてしまうことになる.
・ Lehmann, Christian. Thoughts on Grammaticalization. Munich: Lincom Europa, 1995.
・ Hopper, Paul J. and Elizabeth Closs Traugott. Grammaticalization. 2nd ed. Cambridge: CUP, 2003.
昨日10月20日付けで,英語史連載企画「現代英語を英語史の視点から考える」の第10回の記事「なぜ you は「あなた」でもあり「あなたがた」でもあるのか?」が公開されました.
本文でも述べているように,この素朴な疑問にも「驚くべき歴史的背景が隠されて」おり,解説を通じて「英語史のダイナミズム」を感じられると思います.2人称代名詞を巡る諸問題については,これまでも本ブログで書きためてきました.以下に関連記事へのリンクを張りますので,どうぞご覧ください.
[ 各時代,各変種の人称代名詞体系 ]
・ 「#180. 古英語の人称代名詞の非対称性」 ([2009-10-24-1])
・ 「#181. Chaucer の人称代名詞体系」 ([2009-10-25-1])
・ 「#196. 現代英語の人称代名詞体系」 ([2009-11-09-1])
・ 「#529. 現代非標準変種の2人称複数代名詞」 ([2010-10-08-1])
・ 「#333. イングランド北部に生き残る thou」 ([2010-03-26-1])
[ 文法範疇とフェチ ]
・ 「#1449. 言語における「範疇」」 ([2013-04-15-1])
・ 「#2853. 言語における性と人間の分類フェチ」 ([2017-02-17-1])
[ 親称と敬称の対立 (t/v_distinction) ]
・ 「#167. 世界の言語の T/V distinction」 ([2009-10-11-1])
・ 「#185. 英語史とドイツ語史における T/V distinction」 ([2009-10-29-1])
・ 「#1033. 日本語の敬語とヨーロッパ諸語の T/V distinction」 ([2012-02-24-1])
・ 「#1059. 権力重視から仲間意識重視へ推移してきた T/V distinction」 ([2012-03-21-1])
・ 「#1126. ヨーロッパの主要言語における T/V distinction の起源」 ([2012-05-27-1])
・ 「#1552. T/V distinction と face」 ([2013-07-27-1])
・ 「#2107. ドイツ語の T/V distinction の略史」 ([2015-02-02-1])
[ thou, ye, you の競合 ]
・ 「#673. Burnley's you and thou」 ([2011-03-01-1])
・ 「#1127. なぜ thou ではなく you が一般化したか?」 ([2012-05-28-1])
・ 「#1336. なぜ thou ではなく you が一般化したか? (2)」 ([2012-12-23-1])
・ 「#1865. 神に対して thou を用いるのはなぜか」 ([2014-06-05-1])
・ 「#291. 二人称代名詞 thou の消失の動詞語尾への影響」 ([2010-02-12-1])
・ 「#2320. 17世紀中の thou の衰退」 ([2015-09-03-1])
・ 「#800. you による ye の置換と phonaesthesia」 ([2011-07-06-1])
・ 「#781. How d'ye do?」 ([2011-06-17-1])
[ 敬称の you の名残り ]
・ 「#440. 現代に残る敬称の you」 ([2010-07-11-1])
・ 「#1952. 「陛下」と Your Majesty にみられる敬意」 ([2014-08-31-1])
・ 「#3095. Your Grace, Your Highness, Your Majesty」 ([2017-10-17-1])
[ you の発音と綴字 ]
・ 「#2077. you の発音の歴史」 ([2015-01-03-1])
・ 「#2234. <you> の綴字」 ([2015-06-09-1])
『物語 数学の歴史』を著わした加藤 (37) は,知的精神活動としての数学の特質として以下を挙げている.
・ 人間精神が抽象し切り出してきた知的対象を実体化して扱うこと.
・ 対象の認識に関する以下の2点について一般的なコンセンサスがあること.
――ミクロ的側面:対象を取り扱う際の局所的な流れの基調.
――マクロ的側面:体系全体の整合性や大局的価値を判断する基準.
数学の場合,最初の点は,「数」という抽象物を具体物であるかのように扱うことに相当する.2つ目の点については,ミクロ的側面とは計算方法や論証方法などを指し,マクロ的側面とは数学について直観される審美性や存在感のようなものを指す.このようなマクロ的側面は,人類にとって唯一無二ものではなく,むしろ古今東西の文明の各々がもっている独自の「数学らしさ」に対応する.
さて,この知的精神活動の諸特質が関心を引く点は,それが数学や自然科学以外にも適用され得ることである.加藤 (38--39) は,その1例として漢字の体系を挙げている.
我々は白川静氏の著作の数々から,漢字というものが古代中国人の呪術式精神世界から切り出された高度に抽象的な概念的象徴であること,そしてそれらは存在の自己表現の形式そのものとしての実体性を持つことを学ぶことができる.のみならず,会意や仮借といった,いわゆる六書による演繹で自己生成し,その体系が広がっていくこと,そしてそれが実在の概念化と客観化という対応規則を通して,現実の世界と不可分の関係にあることを実感することができる.
漢字はその歴史を通じて,単なる文字記号としてのみ機能するというものではなかった.それは文字記号であるとともに,また美の様式の実現の場であり,それを通じての美の思想の表現でさえあることができた.〔白川 静 『漢字百話』 中公新書 (1978) 159--160頁〕
これは漢字の体系が,古代中国における美の自然科学であったことを雄弁に物語っている.
実際のところ,上の知的精神活動の特質は,数学や漢字のみならず,多くの学問や記号体系に見られるものではないか.言語(学)も然り.そこでは,言語という抽象的な存在が,具体的な要素の集合として実体化される.また,言語の様々なレベルで局所的に作用する「文法」と呼ばれる規則が想定されている.そして,言語は全体として1つの世界観を構成している.
さらに,言語体系自体が知的精神活動の複合体であるとみなすこともできそうだ.例えば,文法性,数,格,法,態などの文法範疇 (category) の各々が,上記の特質を有する1つの知的精神活動であると考えることができる.
「言語らしさ」を体現する要素は何か.この問いに対する可能な答えの数だけ,言語学(説)も存在するのかもしれない.
・ 加藤 文元 『物語 数学の歴史』 中央公論新社〈中公新書〉,2009年.
言語における性 (gender) の存在と起源について,本ブログでは,英語をはじめとする印欧語を中心として,話題にしてきた(本記事の末尾に掲げたリンク先を参照).
言語の性の起源は,人類学者,神話学者,言語学者がそれぞれの立場から諸説を唱えてきた.男女の生理的区別を標示するもの,未開人のアニミズムに根ざすもの,人間の想像力の産物,音象徴・類推によるもの,感情的価値を示すものなど様々だ.いずれも満足のゆく説とはされておらず,この問題は未解決と言わざるを得ない.
このように性の起源については不詳だが,現在の共時的な文法範疇としての性をどのようにとらえるかは,また別の問題である.多くの場合,共時的には「意味のない」分類とみなされているのではないか.宮本 (116) がこの立場を,次のように説明している.
結局のところ,性は古代人の思惟にとっては,あるいは合理的なものであったかもしれないが,いまでは文法範疇のなかで最も不合理なもの,化石化してしまった文法体系の圧力にすぎないと考えられることが多い.その結果,現代英語やペルシア語に見られるように,性の喪失を言語史上の最も有利な変化であると考える立場が生まれる.性はいかなる言語にあっても,名詞の分類にはまったく利益をもたらさず,なんら思想上の区別を表明しないとされるのである.文法性は自然的性の区分に対応しない以上,贅沢品であり,したがって,性は消滅したとしてもおかしくないというのである.
宮本 (116--17) は,広く信じられている見解をこのように要約する一方で,人間の言語における性(せい)を人間の性(さが)とも見ているようだ.
すべての名詞には何らかの価値がまとわりついていそうである.この価値に基づいて,名詞に類別の観念を持ち込むことは人間的思惟にとって普遍的であるかに思われる.人間は,事物に名称を与える命名主義者(ノミナリスト)だといわれるが,同時に,事物を分類しないではおれない分類主義者(タクソノミスト)でもあるといえよう.要は,分類の価値が言語形式の上に映発されるか否かの違いである.
人間には,森羅万象を分類せざるを得ない性(さが)がある.要するに,人間は分類フェチである.言語の性(せい)も,この分類フェチの産物である.
・ 「#1135. 印欧祖語の文法性の起源」 ([2012-06-05-1])
・ 「#1517. 擬人性」 ([2013-06-22-1])
・ 「#1449. 言語における「範疇」」 ([2013-04-15-1])
・ 「#1534. Dyirbal 語における文法性」 ([2013-07-09-1])
・ 「#1883. 言語における性,その問題点の概観」 ([2014-06-23-1])
・ 「#1887. 言語における性を考える際の4つの視点」 ([2014-06-27-1])
・ 宮本 正興 「名詞のクラス」 『『言語』セレクション』第1巻,月刊『言語』編集部(編),大修館書店,2012年.115--22頁.(1993年10月号より再録.)
日本語には「雨」の種類を細かく区分して指し示す語彙が豊富にあり,英語には「群れ」を表わす語がその群れているモノの種類に応じて使い分けられる(「#1894. 英語の様々な「群れ」,日本語の様々な「雨」」 ([2014-07-04-1]),「#1868. 英語の様々な「群れ」」 ([2014-06-08-1]) を参照).このような話しは,サピア=ウォーフの仮説 (sapir-whorf_hypothesis) に関する話題として,広く興味をもたれる.実際には,このような事例が,どの程度同仮説の主張する文化と言語の密接な関係を支持するものなのか,正確に判断することは難しい.このことは,「#364. The Great Eskimo Vocabulary Hoax」 ([2010-04-26-1]),「#1337. 「一単語文化論に要注意」」 ([2012-12-24-1]) などの記事で注意喚起してきた.
それでも,この種の話題は聞けば聞くほどおもしろいというのも事実であり,いくつか良い例を集めておきたいと思っていた.Wardhaugh (234--35) に,古今東西の言語からの事例が列挙されていたので,以下に引用しておきたい.
If language A has a word for a particular concept, then that word makes it easier for speakers of language A to refer to that concept than speakers of language B who lack such a word and are forced to use a circumlocution. Moreover, it is actually easier for speakers of language A to perceive instances of the concept. If a language requires certain distinctions to be made because of its grammatical system, then the speakers of that language become conscious of the kinds of distinctions that must be referred to: for example, gender, time, number, and animacy. These kinds of distinctions may also have an effect on how speakers learn to deal with the world, i.e., they can have consequences for both cognitive and cultural development.
Data such as the following are sometimes cited in support of such claims. The Garo of Assam, India, have dozens of words for different types of baskets, rice, and ants. These are important items in their culture. However, they have no single-word equivalent to the English word ant. Ants are just too important to them to be referred to so casually. German has words like Gemütlichkeit, Weltanschauung, and Weihnachtsbaum; English has no exact equivalent of any one of them, Christmas tree being fairly close in the last case but still lacking the 'magical' German connotations. Both people and bulls have legs in English, but Spanish requires people to have piernas and bulls to have patas. Both people and horse eat in English but in German people essen and horses fressen. Bedouin Arabic has many words for different kinds of camels, just as the Trobriand Islanders of the Pacific have many words for different kinds of yams. Mithun . . . explains how in Yup'ik there is a rich vocabulary for kinds of seals. There are not only distinct words for different species of seals, such as maklak 'bearded seal,' but also terms for particular species at different times of life, such as amirkaq 'young bearded seal,' maklaaq 'bearded seal in its first year,' maklassuk 'bearded seal in its second year,' and qalriq 'large male bearded seal giving its mating call.' There are also terms for seals in different circumstances, such as ugtaq 'seal on an ice-floe' and puga 'surfaced seal.' The Navaho of the Southwest United States, the Shona of Zimbabwe, and the Hanunóo of the Philippines divide the color spectrum differently from each other in the distinctions they make, and English speakers divide it differently again. English has a general cover term animal for various kinds of creatures, but it lacks a term to cover both fruit and nuts; however, Chinese does have such a cover term. French conscience is both English conscience and consciousness. Both German and French have two pronouns corresponding to you, a singular and a plural. Japanese, on the other hand, has an extensive system of honorifics. The equivalent of English stone has a gender in French and German, and the various words must always be either singular or plural in French, German, and English. In Chinese, however, number is expressed only if it is somehow relevant. The Kwakiutl of British Columbia must also indicate whether the stone is visible or not to the speaker at the time of speaking, as well as its position relative to one or another of the speaker, the listener, or possible third party.
諸言語間で語の意味区分の精粗や方法が異なっている例から始まり,人称や数などの文法範疇 (category) の差異の例,そして敬語体系のような社会語用論的な項目に関する例まで挙げられている.サピア=ウォーフの仮説を再考する上での,話しの種になるだろう.
・ Wardhaugh, Ronald. An Introduction to Sociolinguistics. 6th ed. Malden: Blackwell, 2010.
「#2680. deixis」 ([2016-08-28-1]) に関わる文法範疇 (category) の1つに,人称 (person) がある.ただし,直接 deixis に関係するのは,1人称(話し手)と2人称(聞き手)のみであり,いわゆる3人称とはそれ以外の一切の事物として否定的に定義されるものである.「私」と「あなた」の指示対象は,会話の参与者が変わればそれに応じて当然変わるものであり,コミュニケーションにとって,このように相対的な指示機能を果たす1・2人称代名詞が是非とも必要だが,3人称については,絶対的にそれを指し示す名詞(句)だけを使っても用を足すことはできる.例えば代名詞「彼」や「彼女」を用いる代わりに,「鈴木」や「山田」と名前を繰り返し用いて済ませることも可能である.したがって,諸言語の人称代名詞体系において最も本質的なものは1,2人称であり,3人称は場合によってなしでも可である.
Huang (137) は,3人称代名詞を欠く言語がありうる理由について,次のように述べている.
Third person is the grammaticalization of reference to persons or entities which are neither speakers nor addressees in the situation of utterance, that is, the 'participant-role' with speaker and addressee exclusion [-S, -A] . . . . Notice that third person is unlike first or second person in that it does not necessarily refer to any specific participant-role in the speech event . . . . Therefore, it can be regarded as the grammatical form of a residual non-deictic category, given that it is closer to non-person than either first or second person . . . . This is why all of the world's languages seem to have first- and second-person pronouns, but some appear to have no third-person pronouns.
具体的に Huang が3人称代名詞を欠く言語として言及しているのは,Dyirbal, Hopi, Yéli Dnye, Yidiɲ, 及びコーカサス諸語である.
実は,日本語にしても,人称代名詞をどのように考えるかという議論はあるが,3人称代名詞については古来指示代名詞の転用が一般的であり,独自のものはなかったといってよい.1人称はア・アレ,ワ・ワレ,2人称ではナ・ナレが固有の語幹としてあったのに対し,3人称は少なくとも独自の語幹をもつほどには発達していなかったからだ.
ところで,日本語でも英語でも小さい子供が自分のことを1人称代名詞ではなく固有名詞で呼ぶ現象があるが,あれは相対的なものの見方や自我の発達と関係があるのだろうか.deixis は,その時々の立ち位置を定めた上での相対的な指示機能であるから,認知能力の発達と関係しそうではある.これは絶対敬語の問題とも関係し,広い意味で語用論の話題,deixis の話題といえる.
・ Huang, Yan. Pragmatics. Oxford: OUP, 2007.
屈折 (inflection) には,より語彙的な含蓄をもつ固有屈折 (inherent inflection) と,より統語的な含蓄をもつ文脈屈折 (contextual inflection) の2種類があるという議論がある.Booij (1) によると,
Inherent inflection is the kind of inflection that is not required by the syntactic context, although it may have syntactic relevance. Examples are the category number for nouns, comparative and superlative degree of the adjective, and tense and aspect for verbs. Other examples of inherent verbal inflection are infinitives and participles. Contextual inflection, on the other hand, is that kind of inflection that is dictated by syntax, such as person and number markers on verbs that agree with subjects and/or objects, agreement markers for adjectives, and structural case markers on nouns.
このような屈折の2タイプの区別は,これまでの研究でも指摘されることはあった.ラテン語の単数形 urbs と複数形 urbes の違いは,統語上の数の一致にも関与することはするが,主として意味上の数において異なる違いであり,固有屈折が関係している.一方,主格形 urbs と対格形 urbem の違いは,意味的な違いも関与しているが,主として統語的に要求される差異であるという点で,統語の関与が一層強いと判断される.したがって,ここでは文脈屈折が関係しているといえるだろう.
英語について考えても,名詞の数などに関わる固有屈折は,意味的・語彙的な側面をもっている.対応する複数形のない名詞,対応する単数形のない名詞(pluralia tantum),単数形と複数形で中核的な意味が異なる(すなわち異なる2語である)例をみれば,このことは首肯できるだろう.動詞の不定形と分詞の間にも類似の関係がみられる.これらは,基体と派生語・複合語の関係に近いだろう.
一方,文脈屈折がより深く統語に関わっていることは,その標識が固有屈折の標識よりも外側に付加されることと関与しているようだ.Booij (12) 曰く,"[C]ontextual inflection tends to be peripheral with respect to inherent inflection. For instance, case is usually external to number, and person and number affixes on verbs are external to tense and aspect morphemes".
言語習得の観点からも,固有屈折と文脈屈折の区別,特に前者が後者を優越するという説は支持されるようだ.固有屈折は独自の意味をもつために直接に文の生成に貢献するが,文脈屈折は独立した情報をもたず,あくまで統語的に間接的な意義をもつにすぎないからだろう.
では,言語変化の事例において,上で提起されたような固有屈折と文脈屈折の区別,さらにいえば前者の後者に対する優越は,どのように表現され得るのだろうか.英語史でもみられるように,種々の文法的機能をもった名詞,形容詞,動詞などの屈折語尾が消失していったときに,いずれの機能から,いずれの屈折語尾の部分から順に消失していったか,その順序が明らかになれば,それと上記2つの屈折タイプとの連動性や相関関係を調べることができるだろう.もしかすると,中英語期に生じた形容詞屈折の事例が,この理論的な問題に,何らかの洞察をもたらしてくれるのではないかと感じている.中英語期の形容詞屈折の問題については,ilame の各記事を参照されたい.
・ Booij, Geert. "Inherent versus Contextual Inflection and the Split Morphology Hypothesis." Yearbook of Morphology 1995. Ed. Geert Booij and Jaap van Marle. Dordrecht: Kluwer, 1996. 1--16.
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