言語学では「人を呼ぶ」という言語行為は,人類言語学,社会言語学,語用論,人名学など様々な観点から注目されてきた.本ブログの関心領域である英語史の分野でも,人名 (anthroponym),呼称 (address_term),2人称代名詞の t/v_distinction の話題など,「人を呼ぶ」ことに関する考察は多くなされてきた.身近で日常的な行為であるから,誰もが興味を抱くタイプの話題といってよい.
しかし,そもそも「人を呼ぶ」とはどういうことなのか.滝浦 (78--79) より,示唆に富む解説を引用する.
すこし回り道になるが,“人を呼ぶ”ことの根本的な意味を確認しておきたい.文化人類学的に見れば,人を呼ぶことは声で相手に“触れる”ことであり,基本的なタブーに抵触する側面を持つ.そのため,多くの言語文化において,呼ぶことの禁止,あるいはそれに起因する敬避的呼称が発達した.日本語もこのタブーの影響が強く,敬避的呼称の例は,たとえば「僕(=しもべ)」「あなた(=彼方)」「御前(=人物の“前”の場所)」「○○殿(=建物名)」「陛下(=階段の下)」等々,いくらでも挙げることができる.相手を上げ自分を下げ,また,相手の“人”を呼ぶ代わりに方向や場所を呼ぶこうした方式は,呼ぶことで自分と相手が触れてしまうのを避けるために,“なるべく呼ばないようにして呼ぶ”ことが動機づけになっている遠隔化的呼称である.
一方,相手ととくに親しい関係にある場合には,こうしたタブー的な動機づけは反転し,むしろ相手の“人”をじかに呼び,相手の内面に踏み込んでゆくような呼称となる.これは,相手の領域に踏み込んでも人間関係は損なわれない――そのくらい2人の間には隔てがない――という含みの,共感的呼称である.固有名(とくに姓の呼び捨てや下の名で呼ぶこと)による呼称,限られた人しか知らない愛称による呼称が典型だが,代名詞による呼称もその傾きを持つ.
人を呼ぶのは一種のタブー (taboo) であるということ,しかしそれはしばしば破られるべきタブーであり,そのための呼称が多かれ少なかれオープンにされているということが重要である.人を呼んではいけない,しかし呼ばざるをえない,という矛盾のなかで,私たちはその矛盾による問題を最小限に抑えようとしながら,日々言語行為を行なっているのである.
・ 滝浦 真人 『ポライトネス入門』 研究社,2008年.
英語の姓 (last name) には,標題のように -son のつくものが多いですね.この -son を取り除いても,名 (first name) として通用するものが多いので,この -son には何かありそうです.皆さんすでにお気づきのように,この -son は「息子」の son と同語源です.これはどういうことかといえば,例えばいまだ姓をもたない身分だった John 氏が,あるとき,独自の姓を設けて新しい家系を築こうと思ったとき,自分の息子や孫息子へと男系で継いでいくべき家柄の名前をつけるにあたって,自分の名前を冠して Johnson などとすることは,ありそうなことです.このような名付けを父称 (patronymy) といいます.
しかし,驚くことに -son による父称は英語本来のものではありませんでした.また,英語以外でも父称は中世ヨーロッパ社会(そしてそれ以外でも)の諸言語で広く行なわれていました.では,音声解説をお聴きください.
父称の話題については,##1673,1937の記事セットをどうぞ.人名 (personal_name) の言語学は,その言語文化の歴史をみごとに映し出します.実におもしろい話題です.
固有名詞学 (onomastics) と関連して,本ブログでは地名 (toponym) や人名 (personal_name) の話題を様々に取り上げてきた.一般語と異なり,固有名詞には特有の性質があり,言語体系においても言語研究においてもその位置づけは特殊である.
特徴のいくつかについて「#2212. 固有名詞はシニフィエなきシニフィアンである」 ([2015-05-18-1]) や「#2397. 固有名詞の性質と人名・地名」 ([2015-11-19-1]) で論じた.そこで指摘したとりわけ重要な特徴は,固有名詞は意味をもたないということだ.指示対象 (referent) はもつが,意味はもたない.シニフィエなきシニフィアンと述べた所以だ.言語の内部にありながら外部性を体現しているという特徴も,言語学で扱う際に注意を要する.
ほかに固有名詞には,一般語にはみられない音変化や形態変化をしばしばたどるという性質がある.逆もまた然りで,一般語において生じた形式上の変化から免れていることも多い.この辺りの話題については,「#1184. 固有名詞化 (1)」 ([2012-07-24-1]),「#1185. 固有名詞化 (2)」 ([2012-07-25-1]) を参照されたい.
固有名詞学の分野をわかりやすく導入してくれているのが,Hough である.とりわけそのイントロが固有名詞(学)の諸特徴をみごとに要約していてすばらしい (213) .
Onomastics is the study of names, its two main branches being toponymy (the study of place-names) and anthroponymy (the study of people's names). Traditionally regarded as a sub-class of nouns having reference but no sense, names occupy a special position within language in that they can be used without understanding of semantic content. Partly for this reason, they tend to have a high survival rate, outlasting changes and developments in the lexicon, and easily being taken over by new groups of speakers in situations of language contact. Since most names originate as descriptive phrases, they preserve evidence for early lexis, often within areas of vocabulary sparsely represented in other sources. Many place-names, and some surnames, are still associated with their place of origin, so the data also contribute to the identification of dialectal isoglosses. Moreover, since names are generally coined in speech rather than in writing, they testify to a colloquial register of language as opposed to the more formal registers characteristic of documentary records and literary texts. Much research has been directed towards establishing the etymologies of names whose origins are no longer transparent, using a standard methodology whereby a comprehensive collection of early spellings is assembled for each name in order to trace its historical development. These spellings themselves can then be used to reveal morphological and phonological changes over the course of time, often illustrating trends in non-onomastic as well as onomastic language. The relationship between the two is not always straightforward, however, since the factors pertaining to the formation and transmission of names are in some respects unique.
固有名詞は,書き言葉ではなく話し言葉(特に口語)の要素を多分に含んでいるという指摘は,なるほどと思った.一方,幾層もの言語接触や言語変化の歴史をくぐりぬけ,古形を残存させていることがあるというのも,固有名詞の一筋縄ではいかない性質を物語っている.方言区分に貢献することがあるとも述べられているが,これについては「#3453. ノルマン征服がイングランドの地名に与えた影響」 ([2018-10-10-1]) で取り上げたケースが具体例となろう.
・ Hough, Carole. "Linguistic Levels: Onomastics." Chapter 14 of English Historical Linguistics: An International Handbook. 2 vols. Ed. Alexander Bergs and Laurel J. Brinton. Berlin: Mouton de Gruyter, 2012. 212--23.
本年度の後期もオンライン授業が続いているが,先月のゼミ合宿で行なった即興英語史コンテンツ作成のイベント(cf. 「#4162. taboo --- 南太平洋発,人類史上最強のパスワード」 ([2020-09-18-1]))が苦しくも楽しかったので,学生と一緒にもう一度やってみた.その場で英単語を1つランダムに割り当てられ,それについて OED を用いて90分間で「何か」を書くという苦行.今回は,標題の未知の単語を振られ,見た瞬間に茫然自失.死にものぐるいの90分だった.その成果を,こちらに掲載.
古今東西,ある国や地域の住民に軽蔑(ときに愛情)をこめたニックネームを付けるということは,広く行なわれてきた.とりわけ付き合いの多い近隣の者たちが,茶化して名前を付けるケースが多い.しかし,たとえ当初は侮蔑的なニュアンスを伴うネーミングだったとしても,言われた側も反骨と寛容とユーモアの精神でそれを受け入れ,自他ともに用いる呼称として定着することも少なくない.
最も有名なのはアメリカ人を指す Yankee だろう.語源は諸説あるが,John に相当するオランダ語に指小辞を付した Janke が起源ではではないかといわれている.ニューヨーク(かつてオランダ植民地で「ニューアムステルダム」と称された)のオランダ移民たちが,コネチカットのイギリス移民を「ジョン坊主」と呼んで嘲ったことにちなむという説だ.
Yankee ほど有名でもなく,由来もはっきりしない類例の1つとして,米国インディアナ州の住民につけられたニックネームがある.標題の Hoosier だ.OED によると,Hoosier, n. /huːʒiə/ と見出しが立てられており,(予想される通り)アメリカ英語で使用される名詞である.語義が2つみつかる.いくつかの例文とともに示そう.
1. A nickname for: a native or inhabitant of the state of Indiana.
・ 1826 in Chicago Tribune (1949) 2 June 20/3 The Indiana hoosiers that came out last fall is settled from 2 to 4 milds of us.
・ 1834 Knickerbocker 3 441 They smiled at my inquiry, and said it was among the 'hoosiers' of Indiana.
・ . . . .
2. An inexperienced, awkward, or unsophisticated person.
・ 1846 J. Gregg Diary 22 Aug. (1941) I. 212 Old King is one of the most perfect samples of a Hoosier Texan I have met with. Fat, chubby, ignorant, and loquacious as Sancho Panza..we could believe nothing he said.
・ 1857 E. L. Godkin in R. Ogden Life & Lett. E. L. Godkin (1907) I. 157 The mere 'cracker' or 'hoosier', as the poor [southern] whites are termed.
・ . . . .
第1語義は「インディアナ州の住民」,第2語義は「世間知らずの垢抜けない田舎者」ほどである.上述の通り,軽蔑の色彩のこもった小馬鹿にするような呼称であることが感じられるだろう.初出は19世紀の前半とみられる.
語源に関しては OED に "Origin unknown" (語源不詳)とあり,残念な限りなのだが,ここで諦めるわけにはいかない.米国のことであれば,OED よりも情報量の豊富なはずの,百科辞典的な特色を備える The American Heritage Dictionary of the English Language に頼ればよい.早速当たってみると,しめしめ,1つの説が紹介されていた.その概要を解説しよう.
語源は闇に包まれているが,イングランドのカンバーランド方言で19世紀に「とてつもなく大きいもの」を意味する hoozer という訛語が文証される.これが変形した形で米国に持ち込まれたのが Hoosier ではないかという説だ.一方,後者の初出年である1826年よりも後のことではあるが,Dictionary of Americanisms には "a big, burly, uncouth specimen or individual; a frontiersman, countryman, rustic",要するに「田舎者の大男」の語義で現われていることが確認され,OED の第2語義にぴったり通じる.
実際,19世紀前半は Hoosier を含め米国各州の住民に次々と侮蔑的なニックネームがつけられた時代である.インディアナ州についても,おそらく近隣州の住民などが名付けの奇想を練っていたのだろう.詳しいルートこそ分からないが,そこへ Hoosier (田舎者の大男)がスルッと入り込んだようだ.テキサス州民の Beetheads (ビート頭),アラバマ州民の Lizards (トカゲ),ネブラスカ州民の Bugeaters (虫食い野郎),そしてミズーリ州民の Pukes (へど)などの名(迷)悪言が生まれたが,これらに比べれば Hoosier はひどい方ではない.
昨今は PC (= political correctness) の時代である.特定の国であれ地域であれ,そこの住民を侮蔑的なニュアンスを帯びた名前で呼ぶ慣習は,下火になりつつある.地域のスポーツチームのニックネームとして,ノースカロライナ州の Tarheels (ヤニの踵)やオハイオ州の Buckeyes (トチノキ)などに残る以外には用いられなくなってきている.
試しに Corpus of Historical American English により "[Hoosier]" として検索してみると,1870年代から1920年代にかけて浮き沈みはありつつも相対的に多く用いられていたようだが,20世紀後半にかけては低調である.
ただし,国民・地域住民への侮蔑的なあだ名が忌避されるようになってきているとはいえ,「公には」という限定つきである.実際には,そこいらの街角で,日々のおしゃべりのなかで,からかいの言葉は使われ続けるものである.憎まれっ子が世にはばかるように,憎まれ語も実はアンダーグラウンドで世にはばかっているのである.
・ The American Heritage Dictionary of the English Language. 4th ed. Boston: Houghton Mifflin, 2006.
・ Corpus of Historical American English. Available online at https://www.english-corpora.org/coha/. Accessed 20 October 2020.
・ The Oxford English Dictionary Online. Oxford: Oxford University Press, 2020. Available online at http://www.oed.com/. Accessed 20 October 2020.
昨日の記事「#4076. Dictionary of Old English と Dictionary of Old English Corpus」 ([2020-06-24-1]) に引き続き,英語史研究にはなくてはならないツールについて.中英語研究といえば,何をおいても MED を挙げなければならない (Kurath, Hans, Sherman M. Kuhn, John Reidy, and Robert E. Lewis. Middle English Dictionary. Ann Arbor: U of Michigan P, 1952--2001. Available online at http://quod.lib.umich.edu/m/med/) .昨日の DOE と DOEC の関係と同様に,MED にも関連する MEC というコーパスがあり,こちらもたいへん有用である (MEC = McSparran, Frances, ed. Middle English Compendium. Ann Arbor: U of Michigan P, 2006. Available online at http://quod.lib.umich.edu/m/mec/) .
MED は1952年に最初の小冊が出版され,1991年に最後の小冊が出版されて完成した.その後,2000年にオンライン版の Middle English Compendium に組み込まれ,使い勝手が大幅に向上した.細かな検索ができることはもちろん,hyperbibliography の充実振りが嬉しい.56,000件ほどの見出し語を誇る中英語最大の辞書であることはいうにおよばず,中英語研究史上の最大の成果物といえる.2018年にはほぼ20年振りの改訂版が公開され,現在も中英語研究の第一線を走っている.
MED には,使用に当たって知っておくべきいくつかの特徴がある.Durkin (1150--52) に拠って指摘しておこう.まず,MED は,語義に多くの注意を払う辞書だということだ.OED ではある語の語形を大きな基準として記述を仕分けているが,MED のエントリーの最大の構成原理は語義である.ある意味では語形の違いなどは方言差と割り切って,LALME や LAEME に委ねているといった風である.しかし,この語義優先という特徴により,語学的な研究のみならず,文化的,歴史的な研究にも資するツールとなっているという側面がある.
語義の重視と関連して,MED は該当語の固有名詞としての使用にも意を払っている.たいてい最後の語義として言及されるが,これは固有名詞研究や歴史研究に有用である.多言語テキストに記されている英語の地名なども拾い上げられており,他言語文献や言語接触の研究にも資する情報である.
MED で惜しむらく点は,語源記述が少ないことだ.直前の古英語形や借用語であればソース言語での形態などを挙げているにとどまり,深みがない.
最後に指摘しておくべきは,例文に付されている年代について,(1) 写本(証拠)そのものの年代と,(2) テキストが作成されたとおぼしき年代とが,分けて記されている点である(後者はカッコでくくられている).両年代を念頭におけば,例えば異写本間での語形の比較に際して貴重な判断材料となるだろう.この重要な情報は,diplomatic な読みを追求する文献学的な関心に答えてくれる可能性を秘めている.
関連して「#4016. 中英語研究のための基本的なオンライン・リソース」 ([2020-04-25-1]) も参照.
・ Durkin, Philip. "Resources: Lexicographic Resources." Chapter 73 of English Historical Linguistics: An International Handbook. 2 vols. Ed. Alexander Bergs and Laurel J. Brinton. Berlin: Mouton de Gruyter, 2012. 1149--63.
昨日の記事「#3902. 純アングロサクソン名の Edward, Edgar, Edmond, Edwin」 ([2020-01-02-1]) に引き続き,人名の話題.以下,主として梅田 (13) より.
標題の単語や人名はいずれも語源素として「高貴な」を意味する WGmc *aþilja にさかのぼる.その古英語の反映形 æþel(e) (高貴な)は重要な語であり,これに父称 (patronymy) を作る接尾辞 -ing を付した æþeling は,現在でも atheling (王子,貴族)として残っている.
æþel は,アングロサクソン王朝の諸王の名前にも多く確認される.「#2547. 歴代イングランド君主と統治年代の一覧」 ([2016-04-17-1]) を一瞥するだけでも,Ethelwulf, Ethelbald, Ethelbert, Ethelred, Athelstan などの名前が挙がる.しかし,昨日の記事でも述べたように,ノルマン征服後,これらの名前は衰退していき,現代では見る影もない.
ところで,ドイツ語で「高貴な」に対応する語は edel であり,「貴族」は Adel である.edelweiss (エーデルワイス)は「高貴なる白」を意味するアルプスの植物だ.形容詞に名詞化語尾をつけた形態が Adelheid であり,古高地ドイツ語の Adalheidis にさかのぼる.これは女性名ともなり,その省略された愛称形が Heidi となる.アニメの名作『アルプスの少女ハイジ』で,厳しい執事のロッテンマイヤーさんは,ハイジのことを省略せずにアーデルハイドと呼んでいる.なお,オーストラリアの South Australia 州の州都 Adelaide は,このドイツ語名がフランス語経由で英語に取り込まれたものである.
一方,Adalheidis は,フランス語に取り込まれるに及び,短縮・変形したバージョンも現われた.Alaliz や A(a)liz である.これが中英語に借用されて Alyse や,近現代の Alice となった.もう1つの女性名 Alison は,フランス語で Alice に指小辞が付されたものである.
「王子」「エーデルワイス」「ハイジ」「アリス」が関係者だったというのは,なかなかおもしろい.
・ 梅田 修 『英語の語源事典』 大修館書店,1990年.
「#2364. ノルマン征服後の英語人名のフランス語かぶれ」 ([2015-10-17-1]) でみたように,古英語期,すなわち1066年のノルマン征服より前の時代には当たり前のようにイングランドで用いられていたアングロサクソン人名の多くが,征服後に一気に衰退した.標題の名前は,生き残った純正アングロサクソン男性名の代表例である(「#2547. 歴代イングランド君主と統治年代の一覧」 ([2016-04-17-1]) よりアングロサクソン諸王の名前を確認されたい).
いずれも複合語であり,第1要素に Ed- がみえる.これは古英語の名詞 ēad (riches, prosperity, good, fortune, happiness) を反映したものである(すでに廃語).「裕福」という縁起のよい意味だから人名には多用された.Edward は ēad + weard (guardian) ということで「富を守る者」が原義である.Edgar は ēad + gār (spear) ということで「富裕な槍持ち」といったところか.Edmond/Edmund は ēad + mund (protection) ということで「富貴の守り手」ほどの意となる(この第2要素は Raymond, Richmond にもみられる).Edwine は ēad + wine (friend) ということで「富の友」である(この第2要素は Baldwin にもみられる).
なお Edith は女性名となるが,第1要素はやはり ēad である.これに gūþ (war) が複合(および少し変形)した,勇ましい名前ということになる.
現代に生き残るこのような純アングロサクソン名(残念ながら多くはない)を利用して,古英語の単語や語源について学ぶのもおもしろい.
標記の2つの地名が同根であり,歴史的にも単に近いというにとどまらず,ほとんど同一であることについては「#734. panda と Britain」 ([2011-05-01-1]) で取り上げた.日本語でいうところのイギリスの「ブリテン(島)」とフランスの「ブルターニュ(半島)」は,英語でこそ Britain, Brittany と別々の語になっているが,フランス語では現在も Bretagne の1語でまかなっている.この2つの地域はケルト系のブルトン (Breton) を名乗る同一の民族がともに住みついた地域であり,あえて区別するならば(そして実際に歴史的に区別されてきたが)「大ブリテン」と「小ブリテン」と呼び分けるべき地域なのである.
伝統的な見解によれば,5世紀のアングロサクソン人のブリテン島侵入に伴って,先住の島民であるブルトン人はブリテン島南西部のコーンウォールに追い詰められた.さらに彼らの一部は,海峡を南に渡って現在のブルターニュ半島へと移住したという.自らをブルトン人と疑わない移住者たちは,その新天地を故国と同じ「ブリテン」と呼び,自らのことも「ブルトン」人と呼び続けた.これにより,現代に至るまで海峡を挟んで北と南に同じ地名(2重地名現象)が認められるのである(北のブリテンと南のブルターニュ (Britain/Bretagne),北のコーンウォールと南のコルヌアイユ (Cornwall/Cornouaille),等々).
では,ブリテンなりブルターニュなり,そもそもこれらの語形はどこから来たのだろうか.田辺 (82) は,後者を説明して次のように述べている.
ブルターニュ (Bretagne) は,ラテン語「ブリタニア (Britannia)」からきた名である.ブリタニアとは,もとグランド・ブルターニュ(グレイト・ブリテン)の名であって,そこの住民のことを古ローマ人(とくにユリウス・カエサル)が,ブリタニア人 (Britanni) と呼んだことに由来する.ギリシア語の「プレタノイ」が変形したとされるが,この先住民たちは,現英国,アイルランドなど大西洋沿岸の諸島に新石器時代から住んでいたといわれる.ブルターニュは英語では「ブリタニー (Brittany)」と呼び,ブリテンとは区別しているが,フランス語では同一語を用いているので注意しておこう.紀元前十世紀頃には,このあたりにもケルト民族が移り住むようになり,次第に広がった.
鶴岡 (85) には次のようにある.
「ブリタニア」という島名の元は,前四世紀のギリシア人ピュテアスに基づくもので,今日のイングランドと,ケルト文化圏(スコットランド,ウェールズ,コンウォール,マン島)の人々を「ブレタノイ」と呼んだことから,ラテン語で「ブリタニア」となった.
事情は込み入っているが,ブリテンにせよブルターニュにせよ,ケルト系の1民族の呼称がそのまま用いられて現在にいたるということである.この名前に関する限り,アングロサクソン的(英語的)な風味は微塵もないということが重要である.
・ 田辺 保 『ブルターニュへの旅 --- フランス文化の基層を求めて』 朝日新聞社〈朝日選書〉,1992年.
・ 鶴岡 真弓 『ケルト 再生の思想 ---ハロウィンからの生命循環』 筑摩書房〈ちくま新書〉,2017年.
[2018-09-20-1]の記事に引き続き,絶大な人気を誇る英語の男性名 John について.
John は,歴史的には最も人気の高い男性名と思われる.1620年に新大陸へ航海したメイフラワー号 (the Mayflower) には102名が乗っており,そのうち73名が男性だったが,そのうちの約2割に相当する15名までもが,この名前をもっていた.先立つ中世には,25%の男性がこの名前を帯びていたという統計すらある.現代でも John F. Kennedy, John Lennon, John Travolta など人気は衰えていない.男性の代表であるから,Honest John (まっ正直な男)という表現もあるほどだ.
人気の背景には,語源である洗礼者ヨハネにあやかりたいという思いがあるわけだが,ほかにも語形上 Jesus (イエス;ヘブライ語のイェシュア Yeshua‘)や Yahweh/Jehovah (ヤハウエ;エホバ)とも関連してくるというから,文字通りに神的な名前である.Ye- 自体がヤハウエを表わすので,この根源的な語根から無数の名前が派生したことになる (ex. Joseph, Jonathan) .
英語 John に対応するのは,スコットランド・ゲール語 Sean, アイルランド語 Sean/Shane, フランス語 Jean, イタリア語 Giovanni, スペイン語 Juan, ドイツ語 Johann, Jan, Hans, ハンガリー語 János, ロシア語 Ivan である.女性形も Joanna, Joana, Joanne, Joan, Jeanne, Jeannette, Janet など様々だ.
以上,梅田 (42--55) を参照して執筆した.
・ 梅田 修 『世界人名物語』 講談社〈講談社学術文庫〉,2012年.
「#1216. 古英語期のケルト借用語」 ([2012-08-25-1]),「#3740. ケルト諸語からの借用語」 ([2019-07-24-1]),「#3749. ケルト諸語からの借用語に関連する語源学の難しさ」 ([2019-08-02-1]),「#3750. ケルト諸語からの借用語 (2)」 ([2019-08-03-1]) などで英語における一般的なケルト借用語に焦点を当ててきたが,人名・地名などの固有名詞におけるケルト語要素についても,Durkin (81--82) にしたがって状況を覗いてみよう.
まず,人名について.古英語詩で有名な Cædmon の名前が真っ先に挙がる(「#2898. Caedmon's Hymn」 ([2017-04-03-1]) を参照).続いて,ウェストサクソン王国の諸王や貴族の名前で Ċerdiċ, Ċeawlin, Ċeadda, Ċeadwalla, Ċedd, Cumbra が見つかる.残念ながら,これらの意味については定説がない.
地名については人名よりも豊富な証拠があり,ケルト語要素を同定しやすいが,だからといって問題は簡単ではないようだ.その地理的な分布は,「#2443. イングランドにおけるケルト語地名の分布」 ([2016-01-04-1]) でみたように北部や西部に偏っている.Thames, Severn, Trent などの河川名は(前)ケルト語要素として同定しやすいものが多い (see 「#1188. イングランドの河川名 Thames, Humber, Stour」 ([2012-07-28-1])) .
Kent がケルト語要素を保っているのは,その位置(ブリテン島の南東部)を考えるとやや奇異に思えるが,これはアングロサクソン人のブリテン島渡来以前から知られていた地名だったからだろう.Chevening, Chattenden, Chatham, Dover, Reculver, Richborough, Sarr, Thanet などもケルト語(あるいは前ケルト語)要素を保持している.
他の関連する話題として,「#1736. イギリス州名の由来」 ([2014-01-27-1]) と「#3113. アングロサクソン人は本当にイングランドを素早く征服したのか?」 ([2017-11-04-1]) も参照.
・ Durkin, Philip. Borrowed Words: A History of Loanwords in English. Oxford: OUP, 2014.
昨日の記事「#3749. ケルト諸語からの借用語に関連する語源学の難しさ」 ([2019-08-02-1]) で論じたように,英語におけるケルト借用語の特定は様々な理由で難しいとされる.今回は,「#3740. ケルト諸語からの借用語」 ([2019-07-24-1]) のリストと部分的に重なるものの,改めて専門家による批評を経た上で,確かなケルト借用語とみなされるものを挙げていきたい.その専門家とは,英語語源学の第1人者 Durkin である.
Durkin (77--81) は,古英語期のあいだ(具体的にその時期のいつかについては詳らかにしないが)に借用されたとされる Brythonic 系のケルト借用語をいくつかを挙げている.まず,brock "badger" (OE brocc) は手堅いケルト借用語といってよい.これは,「アナグマ」を表わす語として,初期近代英語期に badger にその主たる地位を奪われるまで,最も普通の語だった.
「かいばおけ」をはじめめとする容器を指す bin (OE binn) も早い借用とされ,場合によっては大陸時代に借りられたものかもしれない.
coomb "valley" (OE cumb) も確実なケルト借用語で,古英語からみられるが主として地名に現われた.地名要素としての古いケルト借用語は多く,古英語ではほかに luh "lake", torr "rock, hill", funta "fountain", pen "hill, promontory" なども挙げられる.
The Downs に残る古英語の dūn "hill" も,しばしばケルト借用語と認められている.「#1395. up and down」 ([2013-02-20-1]) で見たとおり,私たちにもなじみ深い副詞・前置詞 down も同一語なのだが,もしケルト借用語だとすると,ずいぶん日常的な語が借りられてきたものである.他の西ゲルマン諸語にもみられることから,大陸時代の借用と推定される.
「ごつごつした岩」を意味する crag は初例が中英語期だが,母音の発達について問題は残るものの,ケルト借用語とされている.coble 「平底小型漁船」も同様である.
hog (OE hogg) はケルト語由来といわれることも多いが,形態的には怪しい語のようだ.
次に,ケルト起源説が若干疑わしいとされる語をいくつか挙げよう.古英語の形態で bannuc "bit", becca "fork", bratt "cloak", carr "rock", dunn "dun, dull or dingy brown", gafeluc "spear", mattuc "mattock", toroc "bung", assen/assa "ass", stǣr/stær "history", stōr "incense", cæfester "halter" などが挙がる.専門的な見解によると,gafeluc は古アイルランド語起源ではないかとされている.
古アイルランド語起源といえば,ほかにも drȳ "magician", bratt "cloak", ancra/ancor "anchorite", cursung "cursing", clugge "bell", æstel "bookmark", ċine/ċīne "sheet of parchment folded in four", mind "a type of head ornament" なども指摘されている.この類いとされるもう1つの重要な語 cross "cross" も挙げておこう.
最近の研究でケルト借用語の可能性が高いと判明したものとしては,wan "pale" (OE wann), jilt, twig がある.古英語の trum "strong", dēor "fierce, bold", syrce/syrc/serce "coat of mail" もここに加えられるかもしれない.
さらに雑多だが重要な候補語として,rich, baby, gull, trousers, clan も挙げておきたい (Durkin 91) .
・ Durkin, Philip. Borrowed Words: A History of Loanwords in English. Oxford: OUP, 2014.
私の名前は「堀田隆一」だが,英語を習い始めたときからローマ字書きでは Ryuichi Hotta と書き続けてきた.英語の教科書でも日本人名はそのような書き方だったし,英語圏では「名→姓」という順序が原則だとなれば,特に疑問を抱くこともなかった.だが,後年になってよく考えてみると,私の名前は「隆一堀田」ではなくあくまで「堀田隆一」である.ローマ字で書くにせよ,並び順も含めた Hotta Ryuichi という全体が自らの名前なのではないかという,しごく当たり前のことに気づいた.もちろん人名には正式な名前を崩したニックネームなどの別名があってもよいし,その点でいえば姓・名の順序を入れ替えたヴァリアントがあってもよい.しかし,正式な名前となれば,やはり Hotta Ryuichi なのだろうなと,今では思っている.
先週,文化庁が日本人名のローマ字表記を姓→名の順で書くようにと官公庁や報道機関などに通知を出したという新聞記事をいくつか読んだ.実は,かつても似たようなお触れが出されたことがあった.2000年に当時の文部省・国語審議会が,人類の言語の多様性を意識し生かしていくべきだという方針のもとに,姓→名のローマ字表記が望ましいと答申したのである.しかし,2000年に示されたこの方向性は定着しなかった.この問題の最近の再燃は,河野太郎外相の持論に端を発するようだ.中国の習近平 (Xi Jinping) や韓国の文在寅 (Moon Jae-in) などは英語でも姓→名と表記しているのに,日本人だけ欧米式に合わせているのは妙ではないか,というわけだ.外相自身は,名刺などでは持論通りの姓→名にしているが,一人で頑張っていても無意味だとして,検討を進めることにしたという.
日本人名のローマ字表記の名→姓の慣行は,予想通り,明治時代の欧化主義の一環だったらしい.幕末の日米和親条約 (1854) では姓→名でサインされていたが,明治に入ると岩倉具視宛ての英語の手紙に Tomomi Iwakura が確認されるなど,名→姓も現われるようになった.それでも1870年代まではまだ姓→名が多かったようで,名→姓が増えてきたのは,続く80年代,90年代になってからという.
近年の動向としては,2001年度以前の中学英語教科書では名→姓で自己紹介するような英文が普通だったが,2002年度以後は先の2000年の答申を受けて姓→名となっているという.また,団体によっても慣行は異なるようだ.たとえば日本サッカー協会では2012年に姓→名にすることを発表したが,クレジットカードなどでは名→姓がいまだ一般的である.楽天やトヨタ自動車のような国際企業も名→姓だという.
2000年の答申では定着しなかったが,今回の文化庁の再挑戦は奏功するのだろうか.ちなみに,私自身は姓であることを示すために大文字書きして HOTTA Ryuichi などとすることが多いが,正直なところをいえば中学時代に刷り込まれた慣習からは脱しがたく,ついつい Ryuichi Hotta と書いていることもしばしばである.
そもそも英語と日本語とでなぜ姓と名の順序が異なるのかという問題は,ある意味で統語論の話題といえる.これについては「#2366. なぜ英語人名の順序は「名+姓」なのか」 ([2015-10-19-1]) をどうぞ.
ヘブライ語 (hebrew) は,いわずとしれた旧約聖書の言語であり,ユダヤ・キリスト教の影響化にある多くの言語に影響を与えてきた.英語も例外ではなく,古英語期から近代英語期まで,ラテン語やギリシア語に媒介される形で,主に語彙的な影響を被ってきた.宇賀治 (119--20) に従って,いくつかの借用語を示そう.
・ amen: 「アーメン」(祈りの終わりの言葉).「そうでありますように」 (So be it!) の意.
・ cabal: 「陰謀団,秘密結社」.
・ cherub [ʧérəb]: 「ケルビム,第2天使」
・ hallelujah: 「ハレルヤ」(神を賛美する叫び).「主をほめたたえよ」 (Praised be God!) の意.
・ hosanna: 「ホサナ」(神またはキリストを賛美する叫び).「救い給え」 (Save, we pray) の意.
・ jubilee: 「ヨベルの年;記念祭」(ユダヤ教で50年ごとに行われる安息の年).
・ leviathan: 「リヴァイアサン」(巨大な海の怪物).
・ manna: 「マナ」(モーゼ (Moses) に率いられたイスラエル人がエジプト脱出に際して荒野で飢えたとき神から恵まれた食物).
・ rabbi: 「ラビ」(ユダヤ教の聖職者,律法学者等).
・ sabbath: 「安息日」.
・ satan: 「サタン,(キリスト教でいう)悪魔」.
・ schwa: 「シュワー,(アクセントのない)あいまい母音.
・ seraph: 「セラピム,熾天使」.
・ shibboleth: 「(ある階級・団体に)特有の言葉[慣習・主義など]」.敵対するエフライム人 (Ephraimites) が [ʃ] 音を発音できないことから,ギレアデ人 (Geleadites) が敵を見分けるためにこの語を用いた(旧約聖書 Judges 12: 4--6 より).
ほかに大槻・大槻 (96) より補えば,bar mitzvah (バル・ミツバー[13歳の男子の宗教上の一種の成人式]),Jehovah (ヤハウェ),Rosh Hashana (ユダヤの新年祭),sapphire (サファイア), babel (バベルの塔),behemoth (ビヒモス[巨獣]),cider (リンゴ酒),jasper (碧玉),shekel (シケル銀貨),kosher ((食物が)律法にかなった),kibbutz (キブツ[イスラエルの集団農場])などがある.
人名に多いことも付け加えておこう.例として,「#3408. Elizabeth の数々の異名」 ([2018-08-26-1]) と「#3433. 英語の男性名 John」 ([2018-09-20-1]) を参照.
・ 宇賀治 正朋 『英語史』 開拓社,2000年.
・ 大槻 博,大槻 きょう子 『英語史概説』 燃焼社,2007年.
昨日の記事「#3453. ノルマン征服がイングランドの地名に与えた影響」 ([2018-10-10-1]) に引き続きイングランド地名の話題.ローマン・ブリテン時代には,当然ながら建設された都市にはラテン名が付けられていた.その代表が「#3440. ローマ軍の残した -chester, -caster, -cester の地名とその分布」 ([2018-09-27-1]) でみたように,-chester を含む都市名だったわけである.しかし,5世紀のアングロサクソンの渡来を受けて,既存のラテン地名の多くが捨て去られ,後世まで残らなかった.これはなぜだろうか.
デイヴィスとレヴィット (82--83) は,ローマ人とアングロサクソン人では,ブリテン島にやってきた目的が異なっていた点に注目している.
ラテン語の地名は,英語が流入してきた地域では英語の浸透によって消滅した.これまでこれまで述べてきたことに付け加えて,ラテン語の地名が残らなかったもうひとつの重要な原因は,アングロ・サクソン人はローマ人とはかなり異なった文化を持っていたということである.アングロ・サクソン人は,居住するための都市を求めて来たのではなく耕すための土地を求めてきたのである.アングロ・サクソン人は自分たちの作った新しいムラの名前を必要とした.ローマ人の作った砦や都市はアングロ・サクソン人の役には立たなかった.ローマ軍の砦は,ローマ軍の撤回からアングロ・サクソン人の到来に至る間に,北方から来た野蛮人に略奪されたか,アングロ・サクソン人の戦争の仕方に合わなかったため放置されたかである.都市と同様に砦は廃れ,それらの名前までも忘れ去られた.
例えば,Dee 川のほとりのローマ軍駐屯地 Deva は,ローマン・ブリテン時代の長きにわたって軍団を収容してきた砦だったが,『アングロ・サクソン年代記』では「廃墟のチェスター」と言及されている.ローマの遺産は,砦もろとも名前も捨て去られたのである.
・ デイヴィス,C. S.・J. レヴィット(著),三輪 伸春(監訳),福元 広二・松元 浩一(訳) 『英語史でわかるイギリスの地名』 英光社,2005年.
デイヴィスとレヴィット (168--69) は,ノルマン征服 (norman_conquest) が地名(史)に及ぼしたインパクトについて次のように述べている.
英語圏内にみられる様々な方言への分岐が加速されたことであった.このため,英語は統治のための手段ではなくなり,全国どこでも通じる意志〔ママ〕伝達の均一の手段ではなくなってしまった.また,以前とは違って,教育や文学のための言語でもなくなった.その結果,どんな言語にでも常に息づいている,方言として周囲に拡散する傾向が自由を得て,これまで英語に存在していた保守的な勢力が消滅していった.従って,英語は豊かな方言形式を発達させ,方言は地名に大きな影響を与えた.地名の成立にではなく,時代を経ての地名継承のあり方に大きな影響を及ぼした.
この点はなるほどと思った.標準語が存在する言語においては,一般語彙に関して,広く通用する「標準形」と各地で行なわれる種々の「方言形」がありうる.しかし,地名語彙には,通常「標準形」と「方言形」という区別はない.地名は広く参照される語なので,機能的には標準的でなければならないが,形式的には標準的とされるものが採用される必要はない.それは,地名が何かを意味している必要はなく,その場所を参照していればよいという記号論的に特殊な性質を持ち合わせていることと関係しているだろう(この点については,「#2212. 固有名詞はシニフィエなきシニフィアンである」 ([2015-05-18-1]),「#2397. 固有名詞の性質と人名・地名」 ([2015-11-19-1]) を参照).
中英語期の方言分化と地名の関係がよく見える形で表われている例の1つが,hill や mill の母音の変異である.「#1812. 6単語の変異で見る中英語方言」 ([2014-04-13-1]) でみたように,この母音は南東部では e として,西部では u として,それ以外では i として実現される.それぞれの分布について,デイヴィッドとレヴィット (216--17) に次のように記述がある.
e を用いていた地域(主にケント)からはヘルステッド (Helsted),ワームズヒル(Wormshill, 1232年の記録では Wodnesell, 意味はおそらく Woden's Hill 「ウォドンの丘」),ミルトン (Milton, カンタベリーの近く.tun by a mill 「粉引き場の近くの町」の意味で,1242年の記録では Meleton).
u を用いていた地域からはスタッフォードシャーのペンクハル (Penkhull, ブリトン語の人名 Pencet に英語の hill が付け加えられている),グロスターシャーのラッジ(Rudge, ridge 「山の尾根」),ランカシャーのハルトン (Hulton, tun on a hill 「丘の上にある町」),スタッフォードシャーのミルトン (Milton) は以前 (1227年)は Mulneton だった.
i を用いていた地域からの例は多数あり,最初期の頃にしばしば u が用いられ,その起源はイースト・ミッドランド及び北部の方言形 i が別個に発展する以前に遡る.
地名学,方言学,音変化の研究は,ともに手を携えて進むべき仲間である.
・ デイヴィス,C. S.・J. レヴィット(著),三輪 伸春(監訳),福元 広二・松元 浩一(訳) 『英語史でわかるイギリスの地名』 英光社,2005年.
「#1188. イングランドの河川名 Thames, Humber, Stour」 ([2012-07-28-1]),「#1216. 古英語期のケルト借用語」 ([2012-08-25-1]),「#2443. イングランドにおけるケルト語地名の分布」 ([2016-01-04-1]) で見てきたように,イングランドの河川名にはケルト語由来の要素からなるものが多い.
一般に河川名は,異民族による征服の歴史を経ても,古名が引き継がれる傾向が強いといわれる.その理由は[2012-07-28-1]でも少し論じたが,別の観点から,デイヴィスとレヴィット (62--63) が述べるような以下の事情も関与していただろう.
ケルト語は川の名前に最も多くみられる.概して,川の名前の約3分の2はケルト語である.その大部分は南部と東部よりも北部と西部にみられる.なぜそれほど多くの川の名前が残ったのであろうか.いくつかの川の場合,特に大きな河川の場合は,川の名前は交易上の通路としてイギリスと大陸の国々との間で広く知られるほど非常に重要であっただろう.大陸からの貿易商たちは紀元前何世紀も前からイングランドに,海を渡って来ていた.海を使う船乗りにとって,大きめの川はそのまま内陸部への侵入通路となるので,様々な民族にその名前は知られていたであろう.アングロ・サクソン人は侵略者であって貿易商ではなかった.しかし,侵略という正にその目的のためにもイングランドへの進入路には大きな関心を寄せていた.
小さめの河川や支流の場合は,上で述べたようなことは当てはまらない.結局,特別説明すべきものはなにもない.しかしながら,北アメリカではアメリカインディアンの言語がケルト語と似かよった運命を辿っており,大小の多くの河川には北米インディアンの名前が残っているということは注目してよい.その例としてはミシシッピー川,ミズーリ川,その他にも多くみられる.どの河川の名前が残り,どの川の名が残らないかという問題は歴史上の解けないなぞのひとつである.
別の箇所に「イングランド全体で,アングロ・サクソン語の地名は全体の約3分の2を占めている」(デイヴィスとレヴィット,52頁)という記述があるので,河川名に関してむしろケルト系が約3分の2を占めるというのは,驚くべき差異である.
河川名は古名を引き継ぎやすい理由としてもう1つ考えられそうなのは,河川(やその他の自然の地形)は,町や村や通りのような人工物ではないということがあるかもしれない.新たに作り出したり,スクラップ・アンド・ビルドできるものではなく,古来から屹然とそこに存在しているものである.自然に手を加えることができないのと同様に,既存の名前にも手を加えないでおくということではないか.地名 (toponym) と一口にいっても,地形の名前と町の名前とで趣が異なるのは当然かもしれない.
・ デイヴィス,C. S.・J. レヴィット(著),三輪 伸春(監訳),福元 広二・松元 浩一(訳) 『英語史でわかるイギリスの地名』 英光社,2005年.
標題の Elizabeth は,英国史の最も偉大な2人の女性に代表される典型的な英語の女性人名である.旧約聖書に現われるたいへん古い名前であり,語源もよく分かっていないようだが,ヘブライ語で「神の誓い」「神は完全なり」を表わす Elisheba に由来するのではないかと言われる.
英国では16世紀後半の Elizabeth I の治世が契機となり,後の3世紀間,英語女性名としては絶大な人気を誇ったが,20世紀になると(Elizabeth II の治世にもかかわらず)古めかしい名前と評価されるようになったからか,かつてのような人気は博していないようだ.
聖書にも現われる古い名前だけに,英国のみならずヨーロッパ諸国で同名,およびそこから派生した名前が人名として広く採用されているが,それらが改めて英語人名として英語社会に入ってくると,Elizabeth ファミリーと呼ぶべき種々の異名が行なわれることになった.あまつさえ,英語内部で省略形,愛称形 (hypocorism),地方方言形も発達してきたので,英語では多種多様な Elizabeth が流通していることになる.以下に,Crystal (148) に拠って,代表的なものを挙げよう.
・ Short forms: Bess, Bet, Beth, Eliza, Elsa, Liza, Lisbet, Lisbeth, Liz, Liza
・ Pet forms (hypocorism): Bessie, Bessy, Betsy, Bette, Betty, Elsie, Libby, Lilibet, Lizzie, Lizzy, Tetty
・ Regional forms: Elspet, Elspeth, Elspie (Scottish)
・ Foreign forms: Elizabeth (common European spelling); Babette, Elise, Lise, Lisette (French); Elsa, Else, Ilse, Liesel (German); Bettina, Elizabetta (Italian); Isabel, Isabella, Isbel, Isobel, Izzie, Sabella (Spanish/Portuguese); Elilís (Irish Gaelic); Ealasaid (Scottish Gaelic); Bethan (Welsh)
歴史的には,これらの異名の各々に対して綴字も様々あり得たわけであり,とりわけ標準的な綴字が普及する18世紀より前には,個人名の「正しい」綴字へのこだわりは稀薄だったので,綴字の多様性は著しい.「#1720. Shakespeare の綴り方」 ([2014-01-11-1]) で示唆したとおりである.Elizabeth (および他の多くの名前)について,歴史的にどれだけ多くのヴァリエーションがあったことだろうか.「斉藤」「斎藤」「齋藤」「齊藤」の比ではない!?
・ Crystal, David. The Cambridge Encyclopedia of the English Language. 2nd ed. Cambridge: CUP, 2003.
人名を言語学的に扱う人名学 (anthroponomastics) については,「#1673. 人名の多様性と人名学」 ([2013-11-25-1]) をはじめとして,personal_name の各記事で関連する話題を取り上げてきた.
英語の人名は,個人名としての first name (forename, Christian name, or given name) と家族名としての last name (family name or surname) が区別されるほか,しばしば middle name が付け加えられる.
日本語の人名の感覚だと理解しにくい状況として,典型的に last name であるものが first name としても用いられるということがある.例えば,日本語では「鈴木」や「小林」という典型的な姓が名として用いられ得る状況を想像することはできないだろうが,英語では決して少なくない.シップリー (740) によれば,母親の姓が子供の名へ転用されるケースが多いという.
今日では姓(家族名)が個人名となることが多い.それは特に母親の姓を長男に与えるという慣習によるものである.この場合,母親の姓がファーストネームとして与えられる場合もあれば,ミドルネームとして与えられ,後にファーストネームを使わずに,これを個人名とする場合もある.例えば Mary Addison という名の女性が Henry Jones という男性と結婚した場合,彼らの息子は Addison Jones と名づけられることがある.姓が個人名となった例として,アメリカの俳優バージェス・メレディス ([Oliver] Bergess Meredith, 1907--97),映画監督ナナリー・ジョンソン (Nunnally [Hunter] Johnson, 1897--1977),詩人ロビンソン・ジェファーズ ([John] Robinson Jeffers, 1887--1962),英国の劇作家バーナード・ショー ([George] Bernard Shaw, 1856--1950) などがある.英国の政治家チャーチル (Winston [Leonard Spencer] Churchill, 1874--1965) とアメリカの小説家 Winston Churchill (1871--1947) を混同してはならない.
ほかに,一般的な名前が姓にも名にも採用されるということは,19世紀には普通だったようだ.Crystal (150) によれば,Baron, Beverley, Fletcher, Maxwell をはじめ,特にもともと地名として用いられていた Clifford "ford near a slope", Douglas "dark water", Shirley "bright clearing" などが名として採用されることは慣習的だったという.
・ ジョーゼフ T. シップリー 著,梅田 修・眞方 忠道・穴吹 章子 訳 『シップリー英語語源辞典』 大修館,2009年.
・ Crystal, David. The Cambridge Encyclopedia of the English Language. 2nd ed. Cambridge: CUP, 2003.
「#3124. 基本語順の類型論 (1)」 ([2017-11-15-1]) と「#3125. 基本語順の類型論 (2)」 ([2017-11-16-1]) で語順の類型論を紹介したが,コムリー他 (23) は人名における姓と名の語順についても類型論上の含意 (typological implication) があると指摘している.
SOV の基本語順を示す日本語や朝鮮語では,「安倍晋三」「キム・ジョンウン」など,言わずとしれた「姓+名」の人名語順となる.肩書きについても平行的であり,「安倍首相」のように「姓+肩書き」となる.このような点に,類型論上の含意を認めることができそうだ.
父称 (patronymy) においても,語順の傾向がみられるという.スコットランド語,アイルランド語,ヘブライ語などは VSO を基本語順とするが,父称においては「子供・孫」を表わす語(以下,赤字で示す)が名前そのものに先行する.それぞれ MacAlister, O'Hara, Ben-Gurion の如くである.
一方,コーカサス地方では SOV の言語が話されているが,そこでは父称は逆の語順となる.アルメニア語の Khachaturian やグルジア語の Basilashvili の如くである.
実は,印欧語の多くが父称に関してコーカサスの言語と同じ語順を示す.チェコ語の Gruberovà,アイスランド語の Sigurðsdottir,スウェーデン語の Andersson,そして英語の Browning などが例となる.このことは,印欧祖語の基本語順がかつて SOV であったことを示唆しているのかもしれない.
類型論はあくまで傾向をとらえるものであり,必ずしも普遍性を強く主張するものではない.しかし,人名語順の傾向も他種の語順の傾向と相関関係を示すのであれば,人名語源研究などにも新たな光が当てられることになるだろう.
関連して,「#2366. なぜ英語人名の順序は「名+姓」なのか」 ([2015-10-19-1]) も参照.
・ バーナード・コムリー,スティーヴン・マシューズ,マリア・ポリンスキー 編,片田 房 訳 『新訂世界言語文化図鑑』 東洋書林,2005年.
シップリー (722--39) に「固有名詞から生まれた言葉」の一覧がある.以下では,その一覧を参照用に再現する.各表現の故事来歴について詳しくは直接シップリーに,あるいは各種の辞書に当たっていただきたい.とりあえず,このような表現がたくさんあるものだということを示しておきたい.
Adonis
agaric
agate
Alexandrine
Alice blue
America
ammonia
ampere
Ananias
Annie Oakley
aphrodisiac
areopagus
argosy
Argus-eyed
arras
artesian well
astrachan
Atlantic
atlas
babbitt
bacchanals
bakelite
barlett (pear)
battology
bayonet
begonia
bellarmine
bergamask
bison
blanket
bloomers
bobby
bohemian
bowdlerize
bowie
boycott
braille
brie
Brithg's disease
bronze
brougham
Brownian movement
brummagem
bunsen (burner)
Casarean
camembert
cantaloup
cardigan
caryatid
Cassandra
cereal
chalcedony
cherrystone clams
Chippendale
coach
Colombia, Columbia
cologne
colophony
colt
copper
coulomb
cravat
cupidity
currant
daguerreotype
dauphin
derby
diesel (engine)
diddle
doily
dollar
dumdum bullet
Duncan Phyfe
Dundreary (whiskers)
echo
epicurean
ermine
erotic
euhemerism
euphuism
Fabian
Fahrenheit
faience
Fallopian
farad
Ferris (wheel)
fez
forsythia
frankfurter
frieze
galvanize
gamboges
gardenia
gargantuan
gasconade
gauss
gavotte
gibus
Gilbertian
gladstone (bag)
Gobelin
gongorism
Gordian knot
gothite
greengage
Gregorian (calendar/chant)
guillotine
hamburger
havelock
Heaviside layer
hector
helot
henry
hermetically
hiddenite
Hitlerism
Hobson's choice
hyacinth
indigo
iridium
iris
jacinth
Jack Ketch
Jack Tar
jeremiad
jobation
Jonah
joule
jovial
Julian calendear
laconic
lambert
landau
Laputan, Laputian
lavalier
lazar
leather-stocking
Leninism
Leyden jar
lilliputian
limousine
loganberry
Lothario
lyceum
lynch
macadamize
machiavellian
machinaw
mackintosh
magnet
magnolia
malapropism
Malpighian tubes
manil(l)a
mansard roof
marcel
martinet
Marxist
maudlin
mausoleum
maxim (gun)
mayonnaise
mazurka
McIntosh (apple)
Melba toast
Mendelian
mentor
Mercator projection
mercerize
mercurial
meringue
mesmerism
mho
milliner
mnemonic
morphine
morris chair
morris dance
Morse code
negus
nicotine
Nestor
Occam's razor
odyssey
ogre
ohm
Olympian
panama (hat)
panic
parchment
Parthian glance, Parthian shot
pasteurize
peach
peeler
peony
percheron
philippic
pinchbeck
Platonic
Plimsoll line [mark]
poinsettia
polka
polonaise
pompadour
praline
Prince Albert
procrustean
protean
prussic (acid)
Ptolemaic system
Pullman
pyrrhic victory
pyrrhonism
quisling
quixotic
raglan
rhinestone
rodomontade
Roentgen ray
roquefort
Rosetta Stone
Rosicrucian
Salic (law)
Sally Lunn
Samaritan
sandwich
sardine
sardonic
sardonyx
satire
saxophone
scrooge
Seidlitz
sequoia
shanghai
Sheraton
shrapnel
silhouette
simony
sisyphean
socratic
solecism
spaniel
Spencer
spinach
spruce
Stalinism
stentorian
Steve Brodie
sybarite
tabasco
tangerine
tarantella
tarantula
thrasonical
timothy
titanic
tobacco
Trotskyte
trudgen
Vandyke
vaudeville
venery
Victoria
volcano
volt
vulcanize
watt
Wedgwood ware
Wellington (boot)
Winchester rifle
wulfenite
Xant(h)ippe
Zeppelin
場所や人の名前をもとに,その来歴や何らかの特徴を反映した普通名詞が生まれるのは,主に metonymy の作用と考えられる.また,本来は固有の指示対象をもっていたものが,一般的に用いられるようになったという点で,意味の拡大の事例ともいえるだろう.
シップリーの語源に関するリストとしては,ほかに「#1723. シップリーによる2重語一覧」 ([2014-01-14-1]) でも話題にしたので参照を.
・ ジョーゼフ T. シップリー 著,梅田 修・眞方 忠道・穴吹 章子 訳 『シップリー英語語源辞典』 大修館,2009年.
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