昨日の記事「#1796. 言語には構造的写像性がない」 ([2014-03-28-1]) で,言語の構造的写像性の欠如に反逆するレトリックとして列叙法 (accumulation) という技巧があると述べた.これに関する佐藤 (257--58) の記述を見てみよう.
列叙法は、文章の外形を、その意味内容およびそれによって造形される現実に似せてしまおうという努力の一種である。表現することばによって、表現されるものの模型にしようとする。どうやらディジタル風にできているらしい言語を、あえてアナログ風につかってみようというこころみの一種である。たしかに、指針なしで数字だけを読みとらなければならないディジタル型の時計よりも、長針と短針の進む角度の大きさが時の流れのイメージをえがくアナログ型のダイアルのほうが、私たちの生物感覚にはしたしみやすい。角度が時間の模型になっているからである。
列叙法とは,例えば "my faith, my hope, my love" と列挙したり,"What may we think of man, when we consider the heavy burden of his misery, the weakness of his patience, the imperfection of his understanding, the conflicts of his counsels . . . ?" (Peacham, The Garden of Eloquence) に見られるような畳みかける語法のことをいう.旧訳聖書からは Eccles. 1:4--7 の次の箇所を引用しよう(AV より).
One generation passeth away, and another generation cometh: but the earth abideth for ever. The sun also ariseth, and the sun goeth down, and hasteth to his place where he arose. The wind goeth toward the south, and turneth about unto the north; it whirleth about continually, and the wind returneth again according to his circuits. All the rivers run into the sea; yet the sea is not full; unto the place from whence the rivers come, thither they return again.
日本語の例としては,「傲慢ナル、薄学寡聞ナル、怠惰ナル、賤劣ナル、不品行ナルハ、当時書生輩ノ常態ニテ候。」(尾崎行雄『公開演説法』)などがある.1つの物事を一言で表現しきらずに,あえて様々な角度から記述する.この引き延ばされたような冗長さが,言語本来のデジタルな機能に反するところのアナログさを感じさせるのだろう.
人間は,言語が本来的にもっている特徴や機能にあえて抗うためにすら,言語を用いることができるというのは,驚くべきことである.レトリックとは,言語を使いこなす技というよりは,言語による呪縛から解き放たれるための手段なのかもしれない.これが,佐藤信夫のいう「レトリック感覚」である.ぜひ一読を薦めたい良書.
・ 佐藤 信夫 『レトリック感覚』 講談社,1992年.
Powered by WinChalow1.0rc4 based on chalow