hellog〜英語史ブログ     ChangeLog 最新     カテゴリ最新     前ページ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 次ページ / page 2 (9)

map - hellog〜英語史ブログ

最終更新時間: 2024-04-26 08:56

2019-07-30 Tue

#37456 紀元前1千年紀後半,ケルト人の大遠征 [celtic][map][geography]

 紀元前1千年紀の後半(前5世紀?前1世紀),先行するハルシュタット文化を引き継ぐ形で,ラ・テーヌ文化がヨーロッパ中央部に広く展開した.その名前は,多くの鉄器が出土したスイスの La Tène 遺跡にちなむ.カエサルの『ガリア戦記』に登場するケルト人の文化とされる.
 ラ・テーヌ文化の地理的広がりには驚くべきものがある.前4世紀以降,その担い手はガリアから南下してイタリアへ侵入した.前3世紀にはドナウ河上中流域からその北側にかけて展開し,さらに周辺地域へと拡大した.同時期にバルカン半島を南下してギリシアにも侵入した.遠く小アジア(ガラテヤ)への拡大も著しい.これらが紀元前1千年紀後半の「ケルト人の大遠征」だ.原 (119) より,当時の大遠征の地図を示そう.

Celtic expedition

 ラ・テーヌ文化は,前1世紀には北進するローマ勢力と西進するゲルマン勢力に追われて消滅する.その系譜をかろうじて引き継いだのが,イギリス諸島を中心とする現代の「ケルト世界」である.これについては「#774. ケルト語の分布」 ([2011-06-10-1]) で地図などを確認されたい.その他の関連するケルト諸語の地図や系統図は,以下の記事も参照.

 ・ 「#778. P-Celtic と Q-Celtic」 ([2011-06-14-1])
 ・ 「#779. Cornish と Manx」 ([2011-06-15-1])
 ・ 「#2803. アイルランド語の話者人口と使用地域」 ([2016-12-29-1])

 ・ 原 聖 『ケルトの水脈』 講談社,2007年.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2019-07-20 Sat

#3736. Yamna culture --- 印欧祖語の担い手の有力候補 [indo-european][map]

 昨日の記事「#3735. 印欧語族諸族の大移動」 ([2019-07-19-1]) で,印欧祖語の分化の年代としておよそ紀元前3300年が提案されていることをみた.「#637. クルガン文化印欧祖語」 ([2011-01-24-1]) で紹介した Gimbutas の有力な説によると,印欧祖語の話者はクルガン文化の担い手と同一の集団ではないかとされる.
 しかし,考古学的な観点からもっと精密にみると,後期新石器時代から金石併用時代にかけて黒海およびカスピ海の北部ステップ地帯 (Pontic-Caspian steppes) で生活を営んでいた人々の存在が浮かび上がってくる.とりわけ紀元前3500年頃にはこの地域に "Yamna(ya) culture" という文化が栄えており,乗馬が行なわれていた可能性もあったという.また,Yamna は,後に分化していくインド=イラン語派と関連づけられる,東方に位置する "Andronovo culture" とも考古学的な関係が近いという.とすると,Yamna の担い手は,インド=イラン人の原型,あるいはインド=ヨーロッパ人そのものであるという可能性が開けてくる.年代的にも大きな齟齬はない.
 一方,Yamna 自身は,部分的に黒海北部に展開していた "Sredny Stog culture" (紀元前4500--3500)や,その東に位置する "Khvalynsk culture" から発展したものともされ,Khvalynsk こそが真の印欧祖語の故地であるとする見方もある.
 以上,Fortson (41--43) の記述に拠った.参考までに,Fortson (42) の地図を掲載しておく.

Map of Late Neolithic and Chalcolithic Cultures North of the Black and Caspian Seas

 ・ Fortson IV, Benjamin W. "An Approach to Semantic Change." Chapter 21 of The Handbook of Historical Linguistics. Ed. Brian D. Joseph and Richard D. Janda. Blackwell, 2003. 648--66.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2019-07-19 Fri

#3735. 印欧語族諸族の大移動 [indo-european][map][archaeology][comparative_linguistics]

 おそらく紀元前3300年以降のある段階で,ウクライナやカザフスタンのステップ地帯に住まっていた印欧祖語の話し手たちの一部が,その故地を離れ,ユーラシア大陸の広い領域へと移動を開始した.彼らは数千年の時間をかけて,東方へは現在の中国の新疆ウイグル自治区まで,南方へはイランやインドまで,西方へはヨーロッパ,そして北大西洋の島まで,広く散っていくことになった.動きがとりわけ活発化したのは紀元前2千年紀のことと考えられ,以降,歴史的に同定される諸民族や諸国家の名前がユーラシア大陸のあちらこちらで確認されるようになる.トカラ人,アーリア人,ペルシア人,メディア人,ミタンニ王国,ヒッタイト王国,ギリシア人,ケルト人,ゲルマン人,スラヴ人等々.
 『最新世界史図説 タペストリー』の p.4 より「前20?前11世紀の世界(インド=ヨーロッパ語族諸族の大移動)」と題する地図が,とても分かりやすい(関連して「#637. クルガン文化印欧祖語」 ([2011-01-24-1]) の地図も参照).

Migration of the Indo-Europeans



 上で挙げた紀元前3300年という大移動開始に関係する年代は,印欧祖語に再建される農業や牧畜に関する語彙と,そのような産業の考古学的な証拠とのすり合わせから,およそはじき出される年代である.とりわけ重要なキーワードは「車輪」である.というのは,こちらのスライドや「#166. cyclone とグリムの法則」 ([2009-10-10-1]),「#1217. wheel と reduplication」 ([2012-08-26-1]) でみたように「車輪」を表わす印欧祖語が確かに再建されており,また車輪そのものの出現が考古学的に紀元前4千年紀の後期とされていることから,印欧祖語の分化の上限が決定されるからだ.Fortson (38) がこう述べている.

Based on the available archaeological evidence, the addition of wheeled vehicles to this picture allows us to narrow the range to the mid- or late forth millennium: the earliest wheeled vehicles yet found are from c. 3300--3200 BC. If one adds a century or two on that figure (on the assumption that the actual invention of wheeled vehicles predates the earliest extant remains), that means the latest stage of common PIE (the state directly reachable by reconstruction and before any of the future branches separated) cannot have been earlier than around 3400 BC.


 比較言語学と考古学のコラボにより,太古の昔の言語分化と民族大移動の年代が明らかにされ得るというエキサイティングな話題である.

 ・ 川北 稔・桃木 至朗(監修) 帝国書院編集部(編) 『最新世界史図説 タペストリー』16訂版,帝国書院,2018年.
 ・ Fortson IV, Benjamin W. Indo-European Language and Culture: An Introduction. Malden, MA: Blackwell, 2004.

Referrer (Inside): [2019-07-20-1]

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2019-06-16 Sun

#3702. 中英語の3人称複数対格代名詞 es はオランダ語からの借用か? (2) [personal_pronoun][laeme][lalme][me_dialect][clitic][map][dutch]

 昨日の記事 ([2019-06-15-1]) に引き続き,中英語の them の代わりに用いられる es という人称代名詞形態について.Bennett and Smithers の注を引用して,およそ "SE or EMidl" に使用が偏っていると述べたが,LAEMEeLALME を用いて,初期・後期中英語における状況を確認しておこう.
LAEME では Map No. 00064420 として "THEM dir obj: 's' forms (sometimes cliticised), e.g. as, es, is, ys, hes, his." が挙げられており(下左図),eLALME では Item 8 として "THEM: 'his' type (incl as, es, is and enclitic -(e)s)." が挙げられている(下右図).ここでは縮小して掲げているので,詳しくはクリックして拡大を.

LAEME_and_eLALME_es_for_them_small.png



 全体として例が多いわけではないが,中英語期を通じて East Midland と Southeastern を中心として,部分的には内陸の West Midland にも散見されるといった分布を示していることが分かる.
 オランダ語との関連を議論するためには,当時のオランダ語話者集団のイングランドへの移民状況などの歴史社会言語学的な背景を調べる必要がある.一般的にいえば,「#3435. 英語史において低地諸語からの影響は過小評価されてきた」 ([2018-09-22-1]) でみたように,14世紀辺りには毛織物貿易の発展によりフランドルと東イングランドの関係は緊密になったことから,East Midland における es や類似形態の分布に関しては,オランダ語影響説を論じ始めることができるかもしれない.しかし,West Midland の散発的な事例については,別に考えなければならないだろう.

 ・ Bennett, J. A. W. and G. V. Smithers, eds. Early Middle English Verse and Prose. 2nd ed. Oxford: OUP, 1968.

Referrer (Inside): [2021-07-01-1]

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2019-04-04 Thu

#3629. ウクライナにおけるロシア語 [map][russian][ukrainian][sociolinguistics][slavic][language_shift]

 クリミア半島情勢を巡ってウクライナ共和国が揺れている.目下,ウクライナは大統領選の最中だが,争っている候補者たちは反ロシア,新欧米の路線という点では一致している.
 ウクライナとロシアの問題は,互いにスラヴという言語・民族・文化上の共通点があるがゆえに厄介だ.このような構図は古今東西ありふれているが,ありふれているからといって解決がたやすいわけではない.むしろ逆のことが多いだろう.
 ウクライナ語とロシア語の関係についていえば,「#1469. バルト=スラブ語派(印欧語族)」 ([2013-05-05-1]) で触れたとおり「Ukrainian はウクライナで約5000万人によって話されている大言語だが,国内では歴史的に威信のあるロシア語と競合しており,民族主義的な運動によりロシア語からの区別化が目指されている」というように,ウクライナ語話者の意識的なロシア語からの離反がある."sociolinguistic distancing" の典型例といってよいだろう.一方,歴史的にはウクライナ語からロシア語への言語交替 (language_shift) が生じてきたために,現在まで状況が複雑化してきたのである(「#1540. 中英語期における言語交替」 ([2013-07-15-1]) で関連した事情に一言触れてある).
 現代のウクライナにおける言語分布について,やや古いが2001年の国税調査の結果が3月29日の読売新聞朝刊に掲載されていた.リビウ,イワノ・フランコフスク,キエフなどの中部・西部諸州ではウクライナ語が圧倒しているが,南部のオデッサ州ではほぼ半々であり,東部のドネツク州や目下問題のクリミア自治共和国ではロシア語が圧倒している.国家全体としてみれば,ウクライナ語が約2/3と上回っているが,社会言語学的不安定さは容易に予想される比率である.  *
 ウクライナといえば,印欧祖語の故地の有力候補ともなっており,歴史言語学の世界でも名の知られた国である(cf. 「#637. クルガン文化印欧祖語」 ([2011-01-24-1])).また,英語語彙との絡みでいえば,「#834. ウクライナ語からの借用語」 ([2011-08-09-1]) にも注意したいところである.そして,上にも述べたように,意外かもしれないが,母語話者人口でいえば3千万人を超える,世界30位程度にランクインする大言語であることも銘記しておきたい.
 ウクライナ大統領選の行方も要注目だ.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2018-11-26 Mon

#3500. 世界史資料集の「古代文字の解読」 [writing][grammatology][hieroglyph][timeline][map]

 高校の世界史資料集『タペストリー』を眺めていたら,世界の言語と文字についての情報がまとまった見開きページ (pp. 52--53) を見つけた.日本の教科書や資料集は非常によくできており,感心することが多いが,p. 53 の「古代文字の解読」なども実によく整理されている.以下に再現しよう.

古代文字解読者解読年解読資料・関連事項
神聖文字(ヒエログリフ)シャンポリオン(仏)1822ロゼッタストーン
楔形文字グローテフェント(独)1802ペルセポリスの碑文
ローリンソン(英)1847ベヒストゥーン碑文
インダス文字(未解読)
甲骨文字劉鶚・羅振玉・王国維(清),白川静(日)1903殷墟卜辞.白川は独自の再解釈を示したが,内容には異論も多い.
クレタ文字聖刻文字(絵文字)(未解読)
線文字A(未解読)
線文字B(ミケーネ文字)ヴェントリス(英),チャドウィック(英)1952 (1953)ギリシア古語を表わす音節文字と判明
ヒッタイト楔形文字ブロズニー(チェコ)1915ボアズキョイ出土の粘土板
原カナーン/原シナイ文字オルブライト(米)1966アルファベットの祖
ブラーフミー文字プリンセプ(英)1840ごろアショーカ王碑文
突厥文字トムセン(デンマーク)1893オルホン碑文
マヤ絵文字トンプソン(英)など一部解読


 「#2427. 未解読文字」 ([2015-12-19-1]),「#2486. 文字解読の歴史」 ([2016-02-16-1]) と合わせて文字解読のロマンに浸ってください.
 同じ資料集より「世界の語族」 (p. 52) と「世界の文字」 (p. 53) の地図も有用.  *

 ・ 川北 稔・桃木 至朗(監修) 帝国書院編集部(編) 『最新世界史図説 タペストリー』16訂版,帝国書院,2018年.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2018-10-07 Sun

#3450. 「余はフランス人でありフランス語を話す」と豪語した(はずの)ヘンリー2世 [monarch][french][map]

 ヘンリー2世 (Henry II; 1133--89年;統治1154--89年) は,Plantagenet 王朝の開祖,イングランド王にして,12世紀半ばの西ヨーロッパに突如出現したアンジュー帝国 (the Angevin Empire) の「皇帝」である.先祖代々の継承地に加え,アリエノールとの結婚によって獲得した土地,そして征服や外交によって得た領土を含め,イギリス海峡をまたいだ広大な地域を治めることになった.具体的には,次の地図(君塚,p. 73の「アンジュー帝国」より)の示すとおり,勢力範囲はスコットランド国境からピレネー山脈に及んでおり,実力としては対抗するフランス王を優に超えていた.

Map of the Angevin Empire

 ヘンリー2世は,軍役代納金の本格的導入,法制・財政の諸制度改革,巡回裁判制度の拡充,聖職者や教会の特権の制限,自由都市の認可など数々の業績を残した.カンタベリー大司教ベケットとの対立したり,野心的な拡張主義を実践したという側面はあるが,英王と評価してよいだろう.しかし,英語史の観点からいえば,イングランド王でありながら,フランス人であることを主張し,フランス語で押し通したという点に注目したい.森 (47) 曰く,

ヘンリー二世は,「イングランド王ではあったが,決してイングランド人の王ではなかった」とも評されている.プランタジニット王家は,アーンジュ家の血を引くことから「アーンジュ王家」とも呼ばれるが,彼の場合は,まさしくアーンジュの人,つまりフランス人で押し通し,フランスからイェルサレムまでの言葉を理解したといわれながらも,遂にイングランドの言葉は全く理解しなかったし,その努力もしなかった.そのイングランドにおける統治の充実も,飽くまでも大陸における彼の野望達成のための手段であったとする見方もある.彼が「短いマント (Curtmantle)」のニックネイムで呼ばれたのも,それまでの長いローブとは異なる,アーンジュ・スタイルのマントを持ちこんだことによる.


 この種の「フランスかぶれ」は,ノルマン王家とプランタジネット王家においては珍しくもない当たり前の事実だったが,ヘンリー2世は,その後を継いだ息子のリチャード1世に比べれば,ノルマンディとイングランドをそこそこ足繁く往復していた方ではあるといえるだろう (cf. 「#3447. Richard I のイングランド滞在期間は6か月ほど」 ([2018-10-04-1])) .皇帝は出不精ではいけない,フットワークの軽さが重要である.

 ・ 森 護 『英国王室史話』16版 大修館,2000年.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2018-09-16 Sun

#3429. マケドニアの新国名を巡る問題 [sociolinguistics][macedonia][greek][map]

 ギリシアは北の隣国「マケドニア共和国」の国名使用に反対してきたが,両国政府の話し合いにより,「マケドニア共和国」の新国名を「北マケドニア共和国」 (Republic of North Macedonia) とする案が,6月12日に合意されたという.マケドニアでは9月末に国名変更の是非を問う国民投票を実施し,賛成多数となれば正式な決定への重要な一歩となる(その後,ギリシア議会による批准も必要とされる).マケドニアにとってEUへの加盟の足かせとなってきた問題であり,今回の提案により前進する可能性が出てきた.ただし,マケドニアで主として使用されている言語については,従来通り「マケドニア語」と呼び続けるようだ.

Map of Macedonia

 もっとも,上記の合意は政府レベルの合意であり,ギリシア国民の多くが納得しているわけではない.9月8日の BBC News の報道 Greek riot police fire tear gas at Macedonia name protesters では,ギリシア北部のマケドニア地方の都市テッサロニキにて暴動が起こったことが伝えられた.ギリシアの「マケドニア」地方と,その北の隣国「マケドニア」共和国の名称が重なっているのが,そもそも大問題だったのだ
 ギリシアは,アレクサンダー大王で有名な古代ギリシアのマケドニア王国を,ギリシアの歴史の一部として認識してきた.背景には歴史,民族,国家,言語を巡る非常に複雑な経緯がある.「#1659. マケドニア語の社会言語学」 ([2013-11-11-1]) ほか,以下の BBC News の記事を参照されたい.

 ・ Macedonia country profile (2018/07/10): 国の輪郭
 ・ Macedonia and Greece: Deal after 27-year row over a name (2018/07/12): 問題の由来が歴史の観点から説明されている
 ・ Macedonia and Greece: Backlash over name deal (2018/07/13): 7月の政治的合意について

Referrer (Inside): [2019-01-23-1]

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2018-05-02 Wed

#3292. 史上最初の英語植民地 Pembroke [wales][history][linguistic_imperialism][map]

 「#1718. Wales における英語の歴史」 ([2014-01-09-1]) で示したように,英語がウェールズの地に初めてもらたされたのは,Henry I の治世,12世紀初頭のことだった.1108年に,ウェールズ南西部の Pembrokeshire 南部に,英語を話すイングランド人,フランドル人が入植したとされている.

Map of Wales

 『英語の帝国』を著わした平田 (21) によれば,この英語の移植は,ブリテン諸島における英語の「言語植民地主義」の史上最初の例ととらえられ得るという.

 ウェールズの南西部には中世からイングランド化されていた地域があった.いまのペンブローク州の南部には,一二世紀初頭の中世から英語を話す住民がいた.その理由はよく知られていないが,一一〇八年のヘンリ一世によるイングランド人とフランドル人の入植者(農民,羊毛業者,商人などで,後発のフランドル人がイングランド人から英語を学んだらしい)の創始に伴うものとの説明が一般的である.これらの入植者たちはともにイングランド王室のプランテーションで働き,やがてフランドル人よりもイングランド人が優勢を占めるようになった.いまのスウォンジーの西側のガワー半島にもイングランド人移民が入植して,一五世紀以前に実質的にイングランド人の入植地となっていた.
 もとからいたウェールズ人はこの両地域から追い立てられ,ここは今日まで英語化された地域であるために,ブリテン諸島におけるもっとも早期の「言語植民地主義」の事例と見る論者もいる.言語の境界が,河川や丘陵といった自然が作る境界ではなく,これとは対照的に,ほぼ直線上でいかにも人為的だからである.ただし,両地域は,近隣のウェールズ語地域から政治的独立性,経済的自立性を保っており,ここからウェールズ側に言語上の影響を与えたという証拠も,逆にウェールズ側からこの地域に影響を与えたという証拠もない.


 ここでは,英語話者のペンブローク州への入植が「ブリテン諸島におけるもっとも早期の『言語植民地主義』の事例」と見なし得ることが述べられているが,その後,英語が近現代にかけて,言語植民地主義,さらには言語帝国主義を引き下げつつ世界へ拡大していく歴史を念頭におくならば,「ブリテン諸島における」という限定は不要だろう.一般化して,英語の言語植民地主義・言語帝国主義の最も早期の事例とみなすこともできそうだ.

 ・ 平田 雅博 『英語の帝国 ―ある島国の言語の1500年史―』 講談社,2016年.

Referrer (Inside): [2019-07-26-1] [2018-09-23-1]

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2018-04-30 Mon

#3290. アフリカの公用語事情 [africa][official_language][language_planning][map]

 昨日の記事「#3289. SwazilandeSwatini に国名変更」 ([2018-04-29-1]) で,日本人にとって馴染みの薄いと思われるアフリカの1国を取り上げたが,話題をアフリカ全体に広げてみても,やはり馴染みが薄いというところではないか.本ブログでも,「#2472. アフリカの英語圏」 ([2016-02-02-1]) などを書いてきたが,アフリカの扱いは全体的に弱かったと思い,今回はアフリカの公用語事情について紹介することにした.
 Ethnologue による2000年時点での調査によれば,アフリカには2058言語が使用されているという.これは,世界中の言語総数6,809の約30%割に相当する数である(ちなみにアジアが32%で1位であり,3位以下は太平洋地域の19%,南北アメリカの15%,ヨーロッパの3%と続く).アフリカ諸国はヨーロッパの植民地支配を被ってきた歴史をもち,その結果としてとりわけフランス語や英語が広く通じるという印象をもって見られるが,その公用語事情は非常に複雑である.公用語が単一が複数か.複数の場合,土着の言語はいかなる立場にあるか.言語政策の内実も国によって様々である.そもそも公用語の定義が国によって揺れている場合もある.以下は,1998年のデータに基づいた2002年の三好 (218--19) による各国・地域の公用語の一覧である.情報が古い可能性もあるので(例えば2011年に独立した南スーダンが入っていないなど),当面は概略として理解されたい.  *  *

 [ アラビア語公用語国・地域 ]

  ・ アルジェリア (Algeria)
  ・ エジプト (Egypt)
  ・ リビア (Libya)
  ・ モーリタニア (Mauritania)
  ・ モロッコ (Morocco)
  ・ スーダン (Sudan)
  ・ チュニジア (Tunisia)

 [ ポルトガル語公用語国・地域 ]

  ・ アンゴラ (Angola)
  ・ カボベルデ (Capo Verde)
  ・ ギニア・ビサウ (Guinea-Bissau)
  ・ モザンビーク (Mozambique)
  ・ サントーメ・プリンシペ (São Tom Príncipe)

 [ スペイン語公用語国・地域 ]

  ・ カナリヤ諸島 (Canary Islands)
  ・ 赤道ギニア (Equatorial Guinea)

 [ フランス語公用語国・地域 ]

  ・ ベニン (Benin)
  ・ ブルキナファソ (Burkina Faso)
  ・ コンゴ共和国 (Republic of Congo)
  ・ ガボン (Gabon)
  ・ ギニア (Guinea)
  ・ コートジボワール (Côte d'Ivoire)
  ・ マリ (Mali)
  ・ マヨット (Mayotte)
  ・ ニジェール (Niger)
  ・ レユニオン (Reunion)
  ・ トーゴ (Togo)
  ・ コンゴ民主共和国 (Democratic Republic of Congo)
  ・ セネガル (Senegal)

 [ 英語公用語国・地域 ]

  ・ ガンビア (Gambia)
  ・ ガーナ (Ghana)
  ・ リベリア (Liberia)
  ・ モーリシャス (Mauritius)
  ・ ナミビア (Namibia)
  ・ ナイジェリア (Nigeria)
  ・ シェラレオネ (Sierra Leone)
  ・ ウガンダ (Uganda)
  ・ ザンビア (Zambia)
  ・ ジンバブエ (Zimbabwe)

 [ アフリカ土着語公用語国・地域 ]

  ・ セイシェル (Seychelles):セイシェル・クレオール・フレンチ (Seychelles Creole French)

 [ 複数公用語公用語国・地域(アラビア語+土着語) ]

  ・ ソマリア (Somalia):アラビア語+ソマリ語 (Somali)
  ・ エリトリア (Eritrea):アラビア語+英語+ティグリニア語 (Tigrinya)

 [ 複数公用語国・地域(フランス語+土着語) ]

  ・ ブルンジ (Burundi):フランス語+ルンジ語 (Rundi)
  ・ 中央アフリカ (Central African Republic):フランス語+サンゴ語 (Sango)
  ・ マダガスカル (Madagascar):フランス語+マラガシー語 (Malagasy)
  ・ ルワンダ (Rwanda):フランス語+英語+ルワンダ語 (Rwanda)

 [ 複数公用語国・地域(英語+土着語) ]

  ・ ボツワナ (Botswana):英語+ツワナ語 (Tswana)
  ・ エチオピア (Ethiopia):英語+アムハラ語 (Amharic)+14の土着語
  ・ ケニア (Kenya):英語+スワヒリ語 (Swahili)
  ・ レソト (Lesotho):英語+レソト語 (Sotho)
  ・ マラウィ (Malawi):英語+チェワ語 (Chewa)
  ・ 南アフリカ共和国 (South Africa):英語+アフリカーンス語 (Afrikaans)+9つの土着語
  ・ スワジランド (Swaziland):英語+スワティ語 (Swati)
  ・ タンザニア (Tanzania):英語+スワヒリ語

 [ 公用語として土着語を含まない複数公用語国・地域 ]

  ・ カメルーン (Cameroon):英語+フランス語
  ・ チャド (Chad):フランス語+アラビア語
  ・ コモロ (Comoros):フランス語+アラビア語
  ・ ジブチ (Djibouti):アラビア語+フランス語

 ・ 三好 重仁 「第9章 2000の言語が話される大陸アフリカにおける言語政策概観」 河原俊昭(編著)『世界の言語政策 他言語社会と日本』 くろしお出版,2002年.217--24頁.
 ・ 宮本 正興・松田 素二(編) 『新書アフリカ史 改訂版』 講談社〈講談社現代新書〉,2018年.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2018-04-29 Sun

#3289. SwazilandeSwatini に国名変更 [map][official_language][history][esl]

 アフリカ南部,南アフリカ共和国とモザンビークに囲まれた内陸国の Swaziland (スワジランド)が,国王 (King Mswati III) の発議により,国名を eSwatini (エスワティニ)に変えることになったという(BBCの記事を参照).
 この国は「アフリカのスイス」とも称される高原国で,人口約130万人を擁する.人口の約90%がバントゥー系のスワジ族で,スワジ語(スワティ語; Swazi, Swati)を話す.公用語はスワジ語とともに英語が採用されている.19世紀より,イギリス領ケープ植民地やボーア人からの圧力を受け,それぞれの保護下・統治下に入ったが,ボーア戦争後の1902年に正式にイギリス高等弁務官領となった.そこでは伝統的な政治体制が据え置かれ,国王も存続した.1960年代のアフリカ諸国の独立に刺激を受け,1968年にスワジランド王国として独立し,ソブフザ2世を頂く立憲君主国となった.1986年,後継者争いを経て,ムスワティ3世が即位し,絶対君主制を敷きつつ現在に至る.英連邦に加盟している(「#1676. The Commonwealth of Nations」 ([2013-11-28-1])).歴史的には南アへの依存度が高かったが,独立期以来,経済が発展し,依存度は低くなってきたという.HIV感染率が世界一高いなど深刻な問題を抱えている国でもある.

Map of Swaziland

 英語との関係でいえば,英語が公用語の1つとして採用されているので,ESL国である.「#2472. アフリカの英語圏」 ([2016-02-02-1]) で示したように,英語を用いる人口は5万人ほどいると推計されている.その英語変種は,「#1919. 英語の拡散に関わる4つの crossings」 ([2014-07-29-1]) で触れた通り,「ESL と EFL の中間的な」変種とされる.言語事情については,Ethnologue より Swaziland を参照.
 また,この国家については,BBC より Swaziland country profileSwaziland chronological profile などを参照.
 関連の深い隣国,南アフリカ共和国の英語事情については,「#343. 南アフリカ共和国の英語使用」 ([2010-04-05-1]),「#407. 南アフリカ共和国と Afrikaans」 ([2010-06-08-1]),「#1703. 南アフリカの植民史と国旗」 ([2013-12-25-1]) をどうぞ.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2018-03-21 Wed

#3250. 現代ロシアの諸民族が抱える「ロシアのくびき」問題 [language_planning][linguistic_right][sociolinguistics][altaic][map][russian]

 ロシアではプーチン大統領の4期目が決まり,引き続き強権政治が展開されることが見込まれている.2月28日の読売新聞朝刊の8面に「多民族ロシアのくびき」という見出しの記事が掲載されていた.プーチンは100以上の民族を抱える大国を運営するにあたり「国家の安定」と「社会の団結」を強調しているが,その主張を言語的に反映させる政策として,国家,民族の共通の言語としてのロシア語を推進する方針を打ち出している.裏返していえば,少数民族の言語を軽視する政策である.
 新聞記事で取り上げられていたのは,モスクワの東方約800キロほど,ウラル山脈の西のボルガ川中流域に位置するタタルスタン共和国におけるタタール語 (TaTar, Tartar) を巡る問題である.タタール語は,アルタイ語族の西チュルク語派に属する言語で,中世以来,この地域に根付いてきた(「#1548. アルタイ語族」 ([2013-07-23-1]) を参照).歴史的には,モンゴル帝国の流れを汲むキプチャク・ハン国の後裔となったカザン・ハン国が15--16世紀に栄え,首都のカザニを中心にイスラム文化が花咲いた.ロシア人の立場から見れば,1237--1480年まで「タタールのくびき」のもとで苛烈な支配を受け,その後1552年にイワン雷帝が現われてこの地を征服したということになる.ソ連時代にはタタール自治共和国として存在し,現在はロシア連邦に属する民族共和国の1つとして存在する.タタルスタン共和国の現在の人口は約388万人で,そのうちタタール語を話すタタール人が53%,ロシア人が40%を占める(ロシア全体としてもタタール人はロシア人に次いで多い民族である).共和国ではロシア語とタタール語が公用語となっている.

Map of Tatarstan

 義務教育学校では,タタール語も必修科目とされているが,近年は当局が脱必修化の圧力をかけてきているという.これに反発する保護者や住民も多く,当局のタタール語軽視はタタール人の尊厳を傷つけていると非難している.言語教育問題が社会問題となっている事例である.
 タタール語については,Ethnologue よりこちらの説明こちらの地図も参照.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2018-03-20 Tue

#3249. The Falkland Islands [variety][world_englishes][history][map][rhotic]

 標題の the Falkland Islands (フォークランド諸島; Falklands とも) といえば,1982年のフォークランド紛争が想起される.南大西洋上,南米大陸から480キロほど東の沖合に浮かぶこの諸島はイギリスの植民地だが,歴史的に領有権を主張するアルゼンチンがこの年に軍事的侵入を試みたことに発する国際紛争である.イギリスはサッチャー首相のもとでアルゼンチンと国交断絶した上で,大艦隊をもって報復し,アルゼンチン軍を一掃した.イギリス国民は大国意識をくすぐられたかのごとく狂喜し,西側諸国も概ねイギリスを支持したが,大英帝国の時代を懐かしむかのような時代錯誤感が否めず,その後の世論は必ずしもイギリスにとって芳しくない.両サイドに数百人の死者が出た事件だった.

Map of the Falkland Islands

 フォークランド諸島の地理と歴史を覗いてみよう.諸島には West Falkland と East Falkland の2つの主たる島がある.ここにイギリス系住民が2100人ほど住んでいる.1690年,イギリスの船長 John Strong が諸島に上陸したとの記録が残っている.島名は,この Strong 船長が Viscount Falkland にちなんで名付けたものだという.しかし,1765年に最初の居住地を建設したのは de Bougainville に率いられたフランス人たちであり,イギリス人居住地の建設はそれから1年遅れた.1767年にはスペインがフランス居住地を購入し,その後一時的にイギリス人を追い払ったが,イギリス人は統治権を手放したわけではなかった.1811年,今度はスペイン居住地が撤退することとなった.
 その後,1816年にスペインから独立を果たしたアルゼンチンが,1820年にフォークランド諸島の領有権を宣言した(アルゼンチンでは諸島を Las Islas Malvinas と呼んでいる.これは,島を訪れた Saint-Malo 出身のブルトン人漁師にちなんでフランス語 Les îles Malouines と名付けられたもののスペイン語名である).しかし,1831年にアメリカの軍艦が East Falkland のアルゼンチン居住地を攻撃し,1833年にはイギリス軍も介入してアルゼンチンの役人を追い払った.1841年,イギリスはフォークランド諸島総督を任命し,1885年までに2つの島で1800人ほどのイギリス人社会を作り上げた.そして,1892年にイギリス植民地となった.
 以降,首都である East Falkland の Port Stanley では,オーストラリアやニュージーランドの英語といくぶん似通った英語変種が発達してきた.互いに深い接触があったとは思えないが,羊毛刈り労働者がオーストラリア,ニュージーランド,フォークランド諸島のあいだを往復していたという事実があり,これらの方言混交の結果として互いの英語変種に似ている部分が見られるということかもしれない.また,West Falkland の個々の村落で話される変種は,先祖の出身地であるイギリスの特定の地方方言と結びつけられるという.なお,フォークランド諸島の変種では non-prevocalic r に関しては non-rhotic である.
 以上,Trudgill and Hannah (123--24) および McArthur (397) の記述に依拠して書いた.CIA: The World Factbook による Falkland IslandsEthnologue による Falkland Islands も参照.

 ・ McArthur, Tom, ed. The Oxford Companion to the English Language. Oxford: OUP, 1992.
 ・ Trudgill, Peter and Jean Hannah. International English: A Guide to the Varieties of Standard English. 5th ed. London: Hodder Education, 2008.

Referrer (Inside): [2022-04-22-1]

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2018-01-13 Sat

#3183. ソグド語 [sogdian][iranian][writing][map][direction_of_writing][aramaic]

 21世紀入ってから,謎とされていた民族,ソグド人の研究が賑やかになってきている.1999年に山西省太原で随の虞弘墓の発掘があり,墓室から発見されたソグドの壁画に,美術史家や考古学者が関心を示したのがきっかけである.ソグド人の話していたソグド語(Sogdian; この言語名の英語での初出は1909年)や,表記されたソグド文字についても,少しずつ研究が進んできているらしい.
 ソグド語は現在では死語となっているが,歴史的には紀元前300年頃から紀元900年頃にかけて中央アジアのソグディアナ (Sogdiana) で行なわれていたとされる.歴史的なソグディアナはアラル海へと注ぐ中央アジアの2大河,アム河 (Amu Dar'ya) とシル河 (Syr Darya) に挟まれた地域を指し,首邑はサマルカンドである.現在の,ウズベキスタンとタジキスタン辺りに相当する.

 Map of Sogdiana

 ソグド語は中央イラン語群に属し,南西イラン語群に属する歴史的に強大なペルシア語とは言語的に隔たりがある.イラン語派については「#1452. イラン語派(印欧語族)」 ([2013-04-18-1]) の記事や「#1146. インドヨーロッパ語族の系統図(Fortson版)」 ([2012-06-16-1]) の樹形図を参照されたい.
 ソグド語はソグディアナにおいて優勢な言語ではあったが,ソグド人は統一国家をなさなかったので標準語というべきものは成立しなかった.ソグド語はイスラーム化とともに失われ,サマルカンドでも10世紀までにペルシア語に取って代わられた.
 ソグド語の現存する文献として,20世紀の初めにドイツのトルファン探検隊により発見された文書がある.コインの銘文などを除けば,313年頃に書かれた「古代書簡」が現存する最古の文献とされていたが,近年さらに古い紀元2世紀のものとされる碑文がみつかった.
 ソグド語が表記されているソグド文字は,アラム文字の系統を引き,それと同じ22文字からなっていた.その書字方向について「#2449. 書字方向 (2)」 ([2016-01-10-1]) では右横書きの言語として触れたが,実際には時代によって変化したようだ.紀元2世紀の古い文書では実際に右横書きだったと考えられているが,6世紀以降の碑文では左縦書きが普通となっている.
 ソグド文字に関して興味深いのは,アラム語の単語をアラム語通りに綴って,それをソグド語で「訓読」する例があったことだ.「送りがな」が添えられているものもある.ただし,そのように訓読される語彙は20語ほどと限定されていた.
 ザラフシャン河の上流ヤグノブ渓谷でヤグノブ語 (Yagnobi) という言語が現在でも1万2千人ほどの話者により行なわれているが,この言語は歴史的なソグド語と近縁である.当時,ソグド語は地域の共通語的な地位にあったが,その方言の1つとしてヤグノブ語の祖先があったという関係である.
 ソグドは,日本との関連でいえば正倉院宝物として知られる「酔胡王」の伎楽面や「漆胡瓶」に文化の痕跡を残している.これらは唐より伝わったものだが,当時の唐では「胡」の名前のつくもの(胡人,胡姫,胡複,胡食,胡旋舞)が大流行していた.この「胡」とは,従来はペルシア(人)を指すものと理解されていたが,近年の研究によるとほぼソグド(人)を指していると考えてよいという.シルクロードの大動脈のど真ん中で交易に従事していたのが,このソグド人だったのである.
 以上,主として吉田を参照して執筆した.

 ・ 吉田 豊 「ソグド人の言語」『ソグド人の美術と言語』 (曽布川 寛・吉田 豊(編)) 臨川書店,2011年.80--118頁.

Referrer (Inside): [2018-01-14-1]

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-11-20 Mon

#3129. 基本語順の類型論 (4) [word_order][syntax][typology][world_languages][map][geography][linguistic_area]

 昨日の記事「#3128. 基本語順の類型論 (3)」 ([2017-11-19-1]) を受けて,S, V, O に関して基本語順を示す言語の地理的分布について考えてみたい.この話題は,"Order of Subject, Object and Verb" by Matthew S. Dryer の2節 "Geographical distribution of the dominant-order types" で扱われているので,以下,その部分をもとに説明する.昨日の記事 ([2017-11-19-1]) の地図も合わせて参照されたい.
 最も多い SOV 言語は世界中にちらばっているが,とりわけ東南アジアを除くアジア全域に顕著である.ニューギニア,オーストラリア,南北アメリカ大陸にも広く分布している.2番目に多い SVO は,サハラ砂漠以南のアフリカ,中国から東南アジアにかけての地域,そしてヨーロッパや地中海付近に広くみられる.3番目の VSO も分布がちらばっているが,東アフリカ,北アフリカ,西ヨーロッパのケルト系諸語,ポリネシアにはある程度の集中がみられる.
 同節には,歴史上の様々な段階での基本語順をフラットにまとめた興味深いユーラシア大陸の地図も掲載されている(以下に示す).

Map of Word Order Typology Diachronic

 ヨーロッパや地中海付近では現在でこそ SVO が多いが,古い時代で考えるとむしろ SOV が優勢だったことがわかる(ラテン語やエトルリア語など).また,現在と異なり,セム系諸語の集まる地域において,かつて VSO が広くみられた点も指摘しておこう.基本語順の地理的分布というものは,時間のなかで相当に変わるもののようだ.言語の基本語順の変化については,「#3127. 印欧祖語から現代英語への基本語順の推移」 ([2017-11-18-1]) を参照.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-11-19 Sun

#3128. 基本語順の類型論 (3) [word_order][syntax][typology][world_languages][map][linguistic_area]

 「#137. 世界の言語の基本語順」 ([2009-09-11-1]),「#3124. 基本語順の類型論 (1)」 ([2017-11-15-1]),「#3125. 基本語順の類型論 (2)」 ([2017-11-16-1]) に続いて,S, V, O の基本語順の話題.
 「#2786. 世界言語構造地図 --- WALS Online」 ([2016-12-12-1]) で紹介した The World Atlas of Language Structures (WALS Online) に,S, V, O の語順についての専門的な解説がある."Order of Subject, Object and Verb" by Matthew S. Dryer と題するその解説によると,諸言語は,厳格な語順 (rigid order) をもつ言語と柔軟な語順 (flexible order) をもつ言語に大きく2分される.後者については,柔軟な語順をもつとはいえ,頻度や語用論的な中立性という観点から基本語順 (dominant order) とみなせるものをもつ場合も多い.また,3要素のうち V の位置については比較的柔軟だが,S と O の相対的位置は決まっているというような「半柔軟」と呼ぶべき語順を示すものもある.しかし,明らかな基本語順を示さない言語も存在することは事実である(例えば,北オーストラリアの Gunwinyguan).さらに,ドイツ語やオランダ語のように主節では SVO が,従属節では SOV が原則だが,いずれがより統語的に基本的かは自明でなく,基本語順を一意に定められないようなケースもある.
 上記のように基本語順の類型論は複雑であり,基本語順の決定に関して様々な問題が生じるが,大雑把に分類して世界地図上にプロットしたのが Feature 81A: Order of Subject, Object and Verb である(以下に再掲).統計表も掲げる.

Map of Word Order Typology

SOV565
SVO488
VSO95
VOS25
OVS11
OSV4
No dominant order189


 "No dominant order" は,先に述べたように基本語順が一意に定まらない言語の寄せ集めなので数としては多くなっている.それを除いた上で,比率として考えれば,トップの SOV が47.56%,2位の SVO が 41.08%,3位の VSO が 8.00% となり,この3つのみで95.64%をカバーする.やはり日本語型の SOV 言語は最多なのである.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-10-16 Mon

#3094. 449年以前にもゲルマン人はイングランドに存在した [anglo-saxon][history][archaeology][map]

 標題について,「#2493. アングル人は押し入って,サクソン人は引き寄せられた?」 ([2016-02-23-1]) で, Gramley (16) の "Pre-Conquest Germanic cemeteries" と題する地図を示した(以下に再掲).

Pre-Conquest Germanic Cemeteries

 5世紀初め,そしておそらくもっと古くから,ゲルマン人がイングランドにいたことが考古学的な証拠から示唆されるが,この辺りの事情について,Gramley (16--17) の説明を引用しておきたい.

The earliest evidence we have of Germanic settlement in Britain consists of the Anglo-Saxon cemeteries and settlements in the region between the Lower Thames and Norfolk. Others possibly lay in Lincolnshire and Kent. In Caister-by-Norwich there was a large cremation cemetery outside the town dating from about 400. Similar settlements were found near Leicester, Ancaster, and Great Chesterford. One of the most likely explanations for these settlements, virtually always outside the city walls, was that the Germanic invaders were invited there to protect the British settlements, especially after the Romans withdrew. Much as in other western provinces, the Empire relied on barbarian troops and officers from the late third century on.
  The formal end of Roman rule by 410 did not mean the end of all efforts to protect Britain from external attacks, the most serious of which came from the Scots and the Picts . . . to the north and the sea-borne Saxons among others. It may well have been that the British leaders continued to use Germanic troops after 410 and perhaps even to increase their numbers. For the Germanic newcomers it was probably of no importance who recruited them. They were simply doing what their fathers before them had done. However, without any central power to coordinate defenses the Germanic forces would soon have realized they had a free hand to do as they wished. Soon more would be coming from the Continental coast near the Elbe and Weser estuaries (the Saxons), from Schleswig-Holstein, especially the region of Angeln (the Angels (sic)), from northern Holland (the Frisians), and probably from Jutland (the Jutes).


 伝説によれば,449年に Hengist と Horsa というジュート人の兄弟が,ブリトン人に呼ばれる形でイングランドに足を踏み入れたとされるが,実際にはすでにゲルマン人はその数十年も前からイングランドに存在しており,5世紀半ばには,大陸から仲間を呼び寄せるのに,ある意味で準備万端であったとも言えるのである.ゲルマン人のイングランドへの侵攻は,伝説が示すほど電撃的なものではなかったと考えられる.
 関連して,「#33. ジュート人の名誉のために」 ([2009-05-31-1]),「#389. Angles, Saxons, and Jutes の故地と移住先」 ([2010-05-21-1]),「#1013. アングロサクソン人はどこからブリテン島へ渡ったか」 ([2012-02-04-1]),「#2353. なぜアングロサクソン人はイングランドをかくも素早く征服し得たのか」 ([2015-10-06-1]) の記事も参照されたい.

 ・ Gramley, Stephan. The History of English: An Introduction. Abingdon: Routledge, 2012.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-09-20 Wed

#3068. 「宗教改革と英語史」のまとめスライド [reformation][renaissance][bible][emode][lexicology][slide][history][link][map][hel_education][asacul]

 英語史における宗教改革の意義について,reformation の各記事で考えてきた.現時点での総括として,「宗教改革と英語史」のまとめスライド (HTML) を公開したい.こちらからどうぞ.  *  *
 15枚からなるスライドで,目次は以下の通り.

 1. 宗教改革と英語史
 2. 要点
 3. 宗教改革とは?
 4. 歴史的背景
 5. イングランドの宗教改革とその特異性
 6. ルネサンスとは?
 7. イングランドにおける宗教改革とルネサンスの共存
 8. 英語文化へのインパクト
 9. プロテスタンティズムの拡大と定着
 10. 古英語研究の開始
 11. 語彙をめぐる問題
 12. 一連の聖書翻訳
 13. まとめ
 14. 参考文献
 15. 補遺:「創世記」11:1--9 (「バベルの塔」)の近現代8ヴァージョン+新共同訳

 別の「まとめスライド」として,「#3058. 「英語史における黒死病の意義」のまとめスライド」 ([2017-09-10-1]) もご覧ください.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-09-10 Sun

#3058. 「英語史における黒死病の意義」のまとめスライド [black_death][reestablishment_of_english][history][sociolinguistics][slide][link][map][hel_education][asacul]

 ここ数日,集中的に英語史における黒死病の意義を考えてきた.これまで書きためてきた black_death の記事を総括する意味で「英語史における黒死病の意義」のまとめスライド (HTML) を作ってみたので,こちらよりご覧ください.
 13枚からなるスライドで,目次は以下の通り.

 1. 英語史における黒死病の意義
 2. 要点
 3. 黒死病 (Black Death) とは?
 4. ノルマン征服による英語の地位の低下
 5. 英語の復権の歩み (#131)
 6. 黒死病の社会(言語学)的影響 (1)
 7. 黒死病と社会(言語学)的影響 (2)
 8. 英語による教育の始まり (#1206)
 9. 実は中英語は常に繁栄していた
 10. 黒死病は英語の復権に拍車をかけたにすぎない
 11. 村上,pp. 176--77
 12. まとめ
 13. 参考文献

 HTML スライドなので,そのまま hellog 記事にリンクを張ったり辿ったりでき,とても便利.英語史スライドシリーズとして,ほかにも作っていきたい.  *  *

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-06-07 Wed

#2963. Palmerston English [esl][world_englishes][map][variety][history]

 ニュージーランドの北東約3000kmに浮かぶクック諸島 (Cook Islands) は,ニュージーランドと自由連合を組む自治国である.国名は,Captain Cook が1773年にこの諸島に上陸したことにちなむ.1888年にイギリスの属領となった後,1901年にはニュージーランドの属領へ移行し,1965年に内政自治権を獲得した.1万7千人程度の人口があり,その8割程度がポリネシア系のクック諸島マオリ族である.クック諸島マオリ語と英語がともに公用語となっている.以下,地図を掲載(広域図は「#2215. Niue,英語を公用語としてもつ最小の国(最新版)」 ([2015-05-21-1]) を参照).

Map of Cook Islands

 首都 Avarua のある Rarotonga 島の北西400kmほどのところに,Palmerston Island という島が浮かんでいる.ここでは,成立過程のよく知られている Palmerston English と呼ばれる英語変種が話されている.Trudgill (100) の記述を借りよう.

Palmerston English is spoken on Palmerston Island (Polynesian Avarau), a coral atoll in the Cook Islands about 250 miles northwest of Rarotonga, by descendants of Cook Island Maori and English speakers. William Marsters, a ship's carpenter and cooper from Gloucestershire, England, came to uninhabited Palmerston Atoll in 1962. He had three wives, all from Penrhyn/Tongareva in the Northern Cook Islands. He forced his wives, seventeen children and numerous children to use English all the time. Virtually the entire population of the island today descends from the patriarch. Palmerston English has some admixture from Polynesian but is probably best regarded as a dialectal variety of English rather than a contact language.


 その他,クック諸島の基本情報は,CIA: The World Factbook による Cook Islands外務省のクック諸島基礎データを参照.

 ・ Trudgill, Peter. A Glossary of Sociolinguistics. Oxford: Oxford University Press, 2003.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

Powered by WinChalow1.0rc4 based on chalow