標題は,Ogden and Richards による記号論・意味論の古典的名著 The Meaning of Meaning で広く知られるようになった,以下の図のことを指す.
この図のもつ最大の意義は,SYMBOL と REFERENT の間には,すなわち語と事物の間には,本質的な関係はなく,間接的な関係しかないことを明示していることである.ここに直接の関係があるかのように誤解されていることこそが,適切な思考と言語の使用にとって諸悪の根源であると,著者は力説する.この主張は,著書のなかで何度となく繰り返される.
SYMBOL, REFERENCE, REFERENT の3者の関係について,やや長い引用となるが,著者に直接説明してもらおう (10--12) .
This may be simply illustrated by a diagram, in which the three factors involved whenever any statement is made, or understood, are placed at the corners of the triangle, the relations which hold between them being represented by the sides. The point just made can be restated by saying that in this respect the base of the triangle is quite different in composition from either of the other sides.
Between a thought and a symbol causal relations hold. When we speak, the symbolism we employ is caused partly by the reference we are making and partly by social and psychological factors---the purpose for which we are making the reference, the proposed effect of our symbols on other persons, and our own attitude. When we hear what is said, the symbols both cause us to perform an act of reference and to assume an attitude which will, according to circumstances, be more or less similar to the act and the attitude of the speaker.
Between the Thought and the Referent there is also a relation; more or less direct (as when we think about or attend to a coloured surface we see), or indirect (as when we 'think of' or 'refer to' Napoleon), in which case there may be a very long chain of sign-situations intervening between the act and its referent: word---historian---contemporary record---eye-witness---referent (Napoleon).
Between the symbol and the referent there is no relevant relation other than the indirect one, which consists in its being used by someone to stand for a referent. Symbol and Referent, that is to say, are not connected directly (and when, for grammatical reasons, we imply such a relation, it will merely be an imputed, as opposed to a real, relation) but only indirectly round the two sides of the triangle.
It may appear unnecessary to insist that there is no direct connection between say 'dog,' the word, and certain common objects in our streets, and that the only connection which holds is that which consists in our using the word when we refer to the animal. We shall find, however, that the kind of simplification typified by this once universal theory of direct meaning relations between words and things is the source of almost all the difficulties which thought encounters.
Ogden and Richards がこの本を著した目的,そしてこの semiotic triangle を提示するに至った理由は,世の中の言説にはびこっている記号と意味に関する誤解を正すという点にあった.SYMBOL, REFERENCE, REFERENT の3者の間にある関係が世の中に正しく理解されていないという思い,それによって数々の言葉のミスコミュニケーションが生じているということへの焦燥感が,著者を突き動かしていた.その意味では,The Meaning of Meaning は,実践的治療を目的とした書,前置きで Umberto Eco も評している通り,"therapeutic" な書であると言える ("The Meaning of Meaning is pervaded by an abundant missionary fervor. I will call this attitude, with a certain severity, the 'therapeutic fallacy'." (vii)) .著者らが後に Basic English の創作を思いついたのも,このような "therapeutic" な意図をもっていたからにほかならない(Basic English については,「#960. Basic English」 ([2011-12-13-1]) 及び「#1705. Basic English で書かれたお話し」 ([2013-12-27-1]) を参照).
今となっては,semiotic triangle は記号と意味の理論として基本的な部類に属するが,この理論が力説されるに至った経緯には,Ogden and Richards の言語使用に関わる実際的な問題意識があったのである.
・ Ogden, C. K. and I. A. Richards. The Meaning of Meaning. 1923. San Diego, New York, and London: Harcourt Brace Jovanovich, 1989.
・ Eco, Umberto. "The Meaning of The Meaning of Meaning." Trans. William Weaver. Introduction. The Meaning of Meaning. C. K. Ogden and I. A. Richards. San Diego, New York, and London: Harcourt Brace Jovanovich, 1989. v--xi.
Bloomfield (148) の用語で,言語形式をあたかも名詞であるかのように扱うこと.実体化,hypostatization とも呼ばれる.以下に,例を挙げよう.
・ That is only an if.
・ There is always a but
・ The word normalcy
・ The name Smith
・ the suffix -ish in boyish ([2009-09-07-1]の記事「#133. 形容詞をつくる接尾辞 -ish の拡大の経路」を参照)
最後の -ish は,独立して Ish. 「みたいな.」のように一種の副詞として独立して用いられるようになっており,接辞の実体化の例といえるだろう.ほかにも,isms (諸諸の主義), ologies (諸学問)などの例がある.
ほかに,成句を字義通りにとらえる realization (現実化)という種類の hypostasis もある.kick the bucket は成句で「死ぬ」の意だが,あえて字義通りに「バケツを蹴る」と解するとき,hypostasis が生じている.他者の発言を繰り返す引用 (quotation) も,機能的には hypostasis にきわめて近いと考えられる.よく知られた例としては,Lewis Carroll の Through the Looking-Glass の次の一節における nobody の実体化が挙げられる.「言葉じり」にも通ずる概念だろう.
"I see nobody on the road," said Alice. "I only wish I had such eyes," the king remarked in a fretful tone. "To be able to see Nobody! And at that distance too! Why, it's as much as I can do to see real people, by this light!"
hypostasis はメタ言語的用法の1つととらえてよいが,これが言語学的な関心の対象となるのは,結果として生じた実詞が普通名詞なのか,形容詞になれるのか,どの性に属することになるのかなどの問題が生じるからである.また,日常のなかに豊富に例があり,意味変化や造語などの創造的な言語活動にも広く関わってくる過程として重要だ.修辞法とも関わりが深い.
hypostasis と関連して,メタ言語の機能については,「#1075. 記号と掛詞」 ([2012-04-06-1]) で取り上げた Barthes の記号の2次使用としての meta language や,「#1071. Jakobson による言語の6つの機能」 ([2012-04-02-1]) を参照.
・ Bloomfield, Leonard. Language. 1933. Chicago and London: U of Chicago P, 1984.
・ 大塚 高信,中島 文雄 監修 『新英語学辞典』 研究社,1987年.
・ 寺澤 芳雄(編)『英語学要語辞典』,研究社,2002年.298--99頁.
昨日の記事「#1184. 固有名詞化」 ([2012-07-24-1]) で紹介した Coates の onymisation の理論について,思うところを2点メモする.
(1) Coates にしたがって onymisation は意味を失う過程であると理解すると,これは,[2012-05-09-1]の記事「#1108. 言語記号の恣意性,有縁性,無縁性」で言及した「無縁化」にほかならない.そこで触れたように,言語記号の無縁化と有縁化は通時的に無限のサイクルを構成するということを考慮すると,固有名詞と一般名詞の間の往来もまた無限に繰り返されるものなのかもしれない.この議論は,「#1056. 言語変化は人間による積極的な採用である」 ([2012-03-18-1]) や「#1069. フォスラー学派,新言語学派,柳田 --- 話者個人の心理を重んじる言語観」 ([2012-03-31-1]) の記事でみた柳田国男の言語変化観にも関わるところがある.
(2) 固有名詞は音韻的な摩耗や,一般語には見られない例外的な音韻変化を受けることが多い.理論的には,昨日の記事で触れたように,固有名詞語彙の phonological space が相対的に広々としていると説明することができるかもしれない.歴史言語学の方法論の観点からは,音韻変化に関する固有名詞の例外的な振る舞いは「音韻変化を論じる際には,固有名詞を参照することに注意せよ」という教訓となる.Coates (33) は,Hogg の同趣旨の言及を支持しながら,"using name material in argumentation about phonology (and morphology) needs caution, because name material can contain chronological and systemic anomalies with respect to its matrix language" と述べている.例えば,古英語 geat "gate" は,Yeats, Yates などに発音と綴字の痕跡を残しているが,現代標準英語では古ノルド語形 gat に由来するとおぼしき gate が伝わっている(Hogg 69; [2009-11-19-1]の記事「#206. Yea, Reagan and Yeats break a great steak.」も参照).
・ Coates, Richard. "to þære fulan flóde . óf þære fulan flode: On Becoming a Name in Easton and Winchester, Hampshire." Analysing Older English. Ed. David Denison, Ricardo Bermúdez-Otero, Chris McCully, and Emma Moore. Cambridge: CUP, 2012. 28--34.
・ ピエール・ギロー 著,佐藤 信夫 訳 『意味論』 白水社〈文庫クセジュ〉,1990年.
・ Hogg, Richard M. "Phonology and Morphology." The Cambridge History of the English Language: Vol. 1 The Beginnings to 1066. Ed. Richard M Hogg. Cambridge: CUP, 1992. 67--167.
フランスの記号学者 Rolan Barthes (1915--80) は,記号 (sign) の2次利用のもたらす作用に注目し,connotation (含蓄的意味,共示)と meta language (メタ言語)という,一見すると関係のなさそうな言語の作用と機能の関係を鮮やかに示した.加賀野井 (165) の図から再現しよう.
これは,昨日の記事「#1074. Hjelmslev の言理学」 ([2012-04-05-1]) で紹介した言理学の創始者 Hjelmslev から着想を得たものといわれる.SA は signifiant を,SE は signifié をそれぞれ表わす.
(1) に示した connotation (含蓄的意味,共示)とは,denotation (明示的意味,外示)に対する概念であり,日常的に表現すれば「言外の意味」である.[2012-03-09-1]の記事「#1047. nice の意味変化」で触れたが,You're a nice fellow. の文字通りの意味 (denotation) は「あなたは親切な人ですね」だが,言外に皮肉を含めれば (connotation) 「おまえはなんて不親切な奴なんだ」の意味ともなりうる.この場合,「あなたは親切な人ですね」という signifiant と signifié の結びついた記号の全体が signifiant へと昇格し,新たに対応する signifié,皮肉のこもった意味「おまえはなんて不親切な奴なんだ」と結合している.connotation とは,このような2段構えの記号作用の結果としてとらえることができる.
次に,図 (2) は,図 (1) の下部を移動しただけのようにみえるが,記号のあり方は大きく異なる.これは meta language (メタ言語)の構造を示したものだ.meta language とは,「#523. 言語の機能と言語の変化」 ([2010-10-02-1]) や「#1071. Jakobson による言語の6つの機能」 ([2012-04-02-1]) で触れたように,言語について語るという言語の機能のことである.例えば,「connotation って何のこと?」という文では "connotation" という術語の意味を問うており,言語についての疑問を言語を用いて表現しているので,メタ言語機能を利用していることになる."connotation" という語はそれ自体が /ˌkɑnəˈteɪʃən/ という音形と「含蓄的意味」という意味を備えた1つの記号だが,この記号全体が signifié となって,意味が空っぽである対応する音形 /ˌkɑnəˈteɪʃən/ と結びつき,図 (2) 全体で表わされる2次的な記号の構造を得る.
connotation と meta language という一見すると関係のなさそうな言語の作用と機能が,2段構えの記号の構造として関連づけられるというのはおもしろい.では,図 (1) と図 (2) をもじって,図 (3) を作ってみると,これはどのような言語作用・機能を表わしていると考えられるだろうか.ある独立した記号それ自体が signifiant となり外部の signifié と結びつくという点では図 (1) の connotation と似ているが,ここでは新たに結びついた signifié それ自体が,内部に signifiant と signifié を有する別の記号でもあるという点が異なっている.
あれこれ考えを巡らせてみたが,掛詞 (paronomasia) のような言葉遊びが相当するのではないかと思い当たった.掛詞が慣習化されている和歌を考えてみよう.百人一首より,在原行平の「立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば今帰り来む」では,「往なば」と「因幡」,「待つ」と「松」が掛詞となっている.特に後者は,和歌において完全に慣習化された関係である.「待つ」と「松」は同じ音形をもっているからこそ掛詞と言われるのだが,それ以上に重要なのは「松」と聞けば待つ行為や感情がすぐに想起されるし,「待つ」と聞けば松の映像がすぐに喚起されるという記号と記号の関係が確立していることである.
これらの図は,homonymy や polysemy の問題とも関わってきそうだ.また,メタ言語,想像的創造,詩的言語などのキーワードが想起されることから,言語の機能とも深い関係にあるのではないか([2010-10-02-1]の記事「#523. 言語の機能と言語の変化」を参照).
・ 加賀野井 秀一 『20世紀言語学入門』 講談社〈講談社現代新書〉,1995年.
ソシュール言語学の正統の後継者とも言われるコペンハーゲン学派の領袖 Louis Hjelmslev (1899--1965) の打ち立てた glossematics は,言語学史において独特な地位を占める.glossematics は言理学あるいは言語素論と訳さるが,これがソシュール言語学を受け継いでいるといわれるのは,1つには,ソシュールの唱えた表現 (expression) と内容 (content) との面 (plane) の対立と,形相(あるいは形式) (form) と実質 (substance) との記号 (sign) の対立をとりわけ重視し,形相どうしの関係を定式化しようと追究したからである.記号論理学の方法を大いに取り入れており,見た目は論理学や数学そのもの,狙いは記号論といったほうが適切である.きわめて抽象的な記述に満ちており,具体的な個別言語への応用は Hjelmslev 自身もついに行なわなかった.
加賀野井 (85) にある Hjelmslev の理論図式を再現しよう.
左側はよく知られたソシュールの記号 (sign) の図である.Hjelmslev の理論では,signifié は「内容の形相」に相当し,signifiant は「表現の形相」に相当する.いずれも現実そのものではなく,話者の心的表象である.次に,上下両側にある原意 (meaning or purport) とは言語外の現実のことであり,無定形な実質の連続体である.これに言語の形相が恣意的に投影されて,個別化された実質が成立する.内容側(上側)の実質とは思考内容であり,表現側(下側)の実質とは音声である.Hjelmslev にとって,表現と内容は正確に対称的とされた.
Hjelmslev は面と記号の2種類の対立の組み合わせに応じて,言語学に次のような分野を想定した.
Hjelmslev が目指したのは形相の言語学だったので,彼の用語でいうところの cenematics と plerematics を重視したことになる.ソシュール も形相を重視したが,あくまで単語レベルの形相にとどまっていたために,統語論の考察は浅かった.しかし,Hjelmslev は文やテキストという大きな単位にも語と同じくらいに注意を払い,それら大きな単位の意味をも考慮した.どのレベルにおいても,表現の形相 (signifiant) と内容の形相 (signifié) とを記号として不可分に扱った点でも,ソシュールの考え方に忠実だったといえる.内要素の提案や homonymy と polysemy の区別の方法など,構造的意味論の発展に大いに貢献した功績も評価すべきだろう.
言理学は,きわめて難解で,独特な術語も多く,言語学史において主流をなすことはなかったが,その野心的なプログラムは言語を考察する上で数々の示唆を与えてきた.機械翻訳の分野で価値が見いだされているという事実も,言理学の特徴を浮き彫りにしている.
言理学についての読みやすい解説として,町田 (107--40) やイヴィッチ (127--34) を挙げておこう.
・ 加賀野井 秀一 『20世紀言語学入門』 講談社〈講談社現代新書〉,1995年.
・ 町田 健 『ソシュールと言語学』 講談社〈講談社現代新書〉,2004年.
・ ミルカ・イヴィッチ 著,早田 輝洋・井上 史雄 訳 『言語学の流れ』 みすず書房,1974年.
言語は音声に基づいている.文明においては文字が重視されるが,言語の基本が音声であることは間違いない.このことは[2011-05-15-1]の記事「#748. 話し言葉と書き言葉」で論じているので,繰り返さない.今回は,言語という記号体系がなぜ音声に基づいているのか,なぜ音声に基づいていなければならないのかという問題について考える.
まず,意思疎通のためには,テレパシーのような超自然の手段に訴えるのでないかぎり,何らかの物理的手段に訴えざるをえない.ところが,人間の生物としての能力には限界があるため,人間が発信かつ受信することのできる物理的な信号の種類は,おのずから限られている.具体的には,受信者の立場からすれば,視・聴・嗅・味・触の五感のいずれか,あるいはその組み合わせに訴えかけてくる物理信号でなければならない.発信者の立場からすれば,五感に刺激を与える物理信号を産出しなければならない.当然,後者のほうが負担は重い.
さて,嗅覚に訴える言語というものを想像してみよう.発信者は意思疎通のたびに匂いを作り出す必要があるが,人間は意志によって匂いを作り出すことは得意ではないし,作り出せたとしても時間がかかるだろう.あまり時間がかかるようだと即時的な意思疎通は不可能であり,「会話」のキャッチボールは望めない.また,匂いを作り出せたとしても,その種類は限られているだろう.手にニンニク,魚,納豆を常にたずさえているという方法はあるが,それならばニンニク,魚,納豆の現物をそのまま記号として用いるほうが早い.仮に頑張って3種類の匂いを作り出すことができたと仮定しても,それはちょうどワー,オー,キャーの3語しか備わっていない言語と同じことであり,複雑な意志疎通は不可能である.3種類を組み合わせれば複雑な意思疎通が可能になるかもしれないが,匂いは互いに混じり合ってしまうという大きな欠点がある.受信者の側にそれを嗅ぎ分ける能力があればよいが,受信者は残念ながら犬ではなく人間であり,嗅ぎ分けは難しいと言わざるを得ない.風が吹かずに空気が停滞している場所で,古い匂いメッセージと区別して新しい匂いメッセージを送りたいとき,発信者・受信者ともに匂いの混じらない安全な場所に移動しなければならないという不便もある(だが,逆にメッセージを残存させたいときには,匂いの残存しやすい性質はメリットとなる).風が吹いていれば,それはそれで問題で,受信者が感じ取るより先ににおいが流されてしまう恐れがある.発信者が体調不良で匂いを発することができない場合や,受信者が風邪で鼻がつまっている場合には,匂いによる「会話」は不可能である(もっとも,類似した事情は音声言語にもあり,声帯が炎症を起こしている場合や,耳が何らかの事情で聞こえない場合には機能しない).人間にとって,嗅覚に訴えかける言語というものは発達しそうにない.
次に味覚である.こちらも産出が難しいという点では,嗅覚に匹敵する.発信者が意志によって体から辛み成分や苦み成分を分泌し,受信者に「ほれ,なめろ」とかいうことは考えにくい.激しい運動により体に汗をかかせて塩気を帯びさせるなどという方法は可能かもしれないが,即時性の点で不満が残るし,不当に体力を消耗するだろう.受信者の側でも,味覚により何種類の記号を識別できるかという問題が残る.味覚は個人差が大きいし,体調に影響されやすいことも,経験から知られている.さらに,匂いの場合と同様に,味は混じりやすいという欠点がある.味覚依存の言語も,効率という点では採用できないだろう.
触覚.これは嗅覚や味覚に比べれば期待がもてる.触るという行為は,発信も受信も容易だ.発信者は,触り方(さする,突く,掻く,たたく,つねる等々),触る強度,触る持続時間,触る体の部位などを選ぶことができ,それぞれのパラメータの組み合わせによって複雑な記号表現を作り出すことができそうだ.たたくリズムやテンポを体系化すれば,音楽に匹敵する表現力を得ることもできるかもしれない.複数部位の同時タッチも可能である.ただし,受信者側にとっては触覚の感度が問題になる.人間の識別できるタッチの種類には限界があるし,掻く,たたく,つねるなどの結果,痛くなったり痒くなったりしては困る.痛みや痒みは持続するので,匂いの残存と同じような不都合も生じかねない.触覚に依存する言語というものは十分に考えられるが,より効率の良い手段が手に入るのであれば,積極的に採用されることはないのではないか.さする,なでる,握手する,抱き合うなどのスキンシップは実際に人間のコミュニケーションの一種ではあるが,複雑な記号体系を構成しているわけではなく,主役の音声言語に対して補助的に機能することが多い.
人間において触覚よりもよく発達しており,意思伝達におおいに利用できそうな感覚は,視覚である.実際に有効に機能している視覚記号として,身振りや絵画がある.特に身振りは発信が容易であり,即時性もある.文字や手話も視覚に訴える有効な手段だが,これらは身振りと異なり,原則として音声言語を視覚へ写し取ったものである.あくまで派生的な手段であり,補助や代役とみなすべきものだ.しかし,補助や代役とはいえ,いくつかの点で,音声言語の限界を超える働きすら示すことも確かである(##748,849,1001).このように音声言語の補助や代役として視覚が選ばれているのは,人間の視覚がことに鋭敏であるからであり,偶然ではない.視覚依存の欠点として,目の利かない暗闇や濃霧のなかでは利用できないことなどが挙げられるが,他の感覚に比べて欠点は少なく,長所は多い.[2009-07-16-1]の記事「#79. 手話言語学からの inspiration 」も参照.
最後に残ったのが,人間の実際の言語が依存している聴覚である.聴覚に訴えるということは,受信者は音声を聴解する必要があり,発信者は音声を産出する必要があるということである.まず受信者の立場を考えてみよう.人間の聴覚は視覚と同様に非常に鋭敏であり,他の感覚よりも優れている.したがって,この感覚を複雑な意思疎通の手段のために利用するというのは,能力的には理にかなっている.音の質や量の微妙な違いを聞き分けられるのであるから,それを記号間の差に対応させることで膨大な情報を区別できるこはずだからだ.
次に発信者の立場を考えてみよう.発信者は多様な音声を産出する必要があるが,人間にはそのために必要な器官が進化の過程で適切に備わってきた([2009-10-04-1]の記事「#160. Ardi はまだ言語を話さないけれど」,[2010-10-23-1]の記事「#544. ヒトの発音器官の進化と前適応理論」を参照).人間の唇,歯,舌,声帯,肺などの発音に関わる器官がこのような状態で備わっているのは,言語の発達にとって理想であったし,奇跡とすらいえる.これにより,微妙な音の差を識別できる聴覚のきめ細かさに対応する,きめ細かな発音が可能になったのである.音声に依存する言語が発達する条件は,進化の過程で整えられてきた.
では,他の感覚ではなく聴覚に訴える手段が,音声に依存する言語が,特に発達してきたのはなぜだろうか.それは,上で各感覚について述べてきたように,聴覚依存,音声依存の伝達の長所と欠点を天秤にかけたとき,長所が欠点を補って余りあるからである.その各点については,明日の記事で.
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