9月20日付で,拙訳『スペリングの英語史』が早川書房より出版されました.原著は本ブログで何度も参照・引用している Horobin, Simon. Does Spelling Matter? Oxford: OUP, 2013. です.本ブログを読まれている方,そして英語スペリングの諸問題に関心をもっているすべての方に,おもしろく読んでもらえる内容です.
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サイモン・ホロビン(著),堀田隆一(訳) 『スペリングの英語史』 早川書房,2017年.302頁.ISBN: 978-4152097040.定価2700円(税別). |
「#2699. 暗号学と言語学」 ([2016-09-16-1]),「#2729. あらゆる言語は暗号として用いられる」 ([2016-10-16-1]) でみたように,通常の言語であっても使用者の少ない言語であれば,そのまま暗号として用いられうる.第2次世界大戦のナヴァホ族のコード・トーカーがよく知られているが,長田(著)『暗号大全』によると,ほかにも歴史上の「普通語」使用の事例はある (33--35) .
例えば,中世ヨーロッパでは一般的だったように,ラテン語は聖職者を初めとする知識人しか使いこなすことができなかった.それゆえ,聖職者どうしが意識的に庶民に知られたくないコミュニケーションを取ろうと思えば,ラテン語でやりとりすればよいのだった.
紀元前まで遡ると,シーザーがガリア遠征(紀元前54年)の軍事暗号として,ギリシア語を用いたことが知られている.ガリアの種族はギリシア語を解さなかったので,普通語であるギリシア語を用いるだけで,そのまま事実上の暗号となったのである.
19世紀末に話しは飛ぶが,南アフリカで繰り広げられたボーア戦争において,イギリス軍の将校は,ボーア人の知らないラテン語で命令や報告の伝達を行なっていた.
1960年,ベルギー軍がコンゴ共和国の首都レオポルドビルに侵入したとき,これに対して派遣された国連軍のなかにアイルランド兵がいた.彼らは無線電話で母語のゲール語を用いて伝達情報を秘匿した.当時の国連軍司令官は「これこそ,最良の暗号だ」と激賛したという.
最後に,我が国で,昭和46年の新聞に「朝鮮語,非行少女の間で流行」という記事があったもという.
長田 (35) は,この種の「暗号」は上記のように有効性を示した局面もあったが,「第三者のコトバに関する無知に依存しているわけだから」本質的には消極的な暗号であるとしている.考えてみれば,自分ともう1人以外には日本語を解する人がいないと思われる国際的な会話の場面で,あえて2人の間で日本語を符丁として用いるという状況はあるが,実は周囲の誰かが日本語を解するという可能性はゼロではない.確実に情報を秘匿したいときに使えるワザではない,というのは確かだろう.
・ 長田 順行 『暗号大全 原理とその世界』 講談社,2017年.
英語史における宗教改革の意義について,reformation の各記事で考えてきた.現時点での総括として,「宗教改革と英語史」のまとめスライド (HTML) を公開したい.こちらからどうぞ. * *
15枚からなるスライドで,目次は以下の通り.
1. 宗教改革と英語史
2. 要点
3. 宗教改革とは?
4. 歴史的背景
5. イングランドの宗教改革とその特異性
6. ルネサンスとは?
7. イングランドにおける宗教改革とルネサンスの共存
8. 英語文化へのインパクト
9. プロテスタンティズムの拡大と定着
10. 古英語研究の開始
11. 語彙をめぐる問題
12. 一連の聖書翻訳
13. まとめ
14. 参考文献
15. 補遺:「創世記」11:1--9 (「バベルの塔」)の近現代8ヴァージョン+新共同訳
別の「まとめスライド」として,「#3058. 「英語史における黒死病の意義」のまとめスライド」 ([2017-09-10-1]) もご覧ください.
今年は宗教改革500周年に当たる.1517年10月31日,ルターがヴィッテンベルクの城教会の北入口の扉に「95箇条の提題」を貼りだし,宗教改革が始まったとされる.以下に,森田 (122--25) による「宗教改革略年表」を再現したい.西ヨーロッパ全体に関わる年表だが,イングランドやスコットランドの主要な事件も含まれている(黄字で示した).宗教改革と英語(史)の関係を考慮する際のおともにどうぞ.
1483 | 11.10 | マルティン・ルター誕生(?1546.2.18.) |
1484 | 1.1 | ウルリヒ・ツヴィングリ誕生(?1531.10.11.) |
1488 | 4.21 | ウルリヒ・フォン・フッテン誕生(?1523.8.29?) |
1509 | 7.10 | ジャン・カルヴァン誕生(?1564.5.27) |
1516 | 2. | エラスムス『校訂新約聖書』 |
1516 | 4.16 | ツヴィングリ,アインジーデルン修道院の司牧司祭となる |
1517 | 10.31 | ルター「95箇条の提題」を発表 |
1519 | 1.1 | ツヴィングリ,チューリヒの司牧司祭となる |
1519 | エラスムス『パラクレーシス キリスト教哲学研究の勧め』単行本として出版 | |
1519 | 6.27--7.17 | ライプツィヒ討論会 |
1520 | 6.15 | ルターに対する波紋威嚇勅書「主よ,立ちて」が出される |
1520 | 8. | ルター「キリスト教界の改善について,ドイツ国民のキリスト教貴族に与える」 |
1520 | 9.28 | フッテン『ドイツ国民の諸身分に与える訴状』 |
1520 | 10. | ルター「教会のバビロン捕囚について」 |
1520 | 11. | ルター「キリスト者の自由」 |
1520 | 11. | ドイツ各地でルターの書物焼かれる |
1520 | 12.10 | ルター,破門脅迫勅書,教会法などの書籍を焼却 |
1521 | 1.3 | 教皇勅書「ローマ教皇にふさわしく」によりルター正式に破門さる |
1521 | 春 | 「神の水車」(パンフレット) |
1521 | ルフェーヴル・デターブル,モーで改革運動 | |
1521 | 4.17 | ルター,ヴォルムス帝国議会に召喚 |
1521 | 5.26 | ルター,ヴォルムス勅令により帝国追放刑 |
1521 | クラーナハ『キリストの受難とアンチ・キリストの受難』 | |
1522 | 9. | フッテン,ジッキンゲンら帝国騎士とともに,トリーア大司教を攻撃し,失敗する(騎士戦争) |
1523 | 1.29 | チューリヒの第一回公開討論会 |
1523 | 6. | ツヴィングリ『67箇条の提題の講解と論証』 |
1523 | 10.26 | チューリヒの第二回公開討論会 |
1523/24 | カールシュタット,オルラミュンデにおいて急進的改革を実施 | |
1524/25 | ドイツ農民戦争 | |
1525 | 1. | チューリヒ郊外のツォリコーン村で,再洗礼派運動誕生 |
1526 | 1. | マドリード条約 |
1526 | 5.21--6.8 | バーデン宗教討論会(スイス版ヴォルムス帝国議会) |
1526 | 5.22 | フランソワ一世,教皇とコニャック同名を結ぶ |
1526 | 8. | モハーチの戦い |
1526 | 8. | 第一回シュパイエル帝国議会,宗教改革に自由を与える |
1527 | 1. | フェーリクス・マンツ,リマト川にて溺殺刑 |
1527 | ザクセン選帝侯ヨーハン「巡察者のための訓令」を発布 | |
1527 | 5. | 皇帝軍,ローマ掠奪 |
1527 | 12. | チューリヒ,コンスタンツと「キリスト教都市同盟」締結 |
1528 | 1. | ベルン公開討論会,ベルン宗教改革を導入して,「キリスト教都市同盟」へ加入 |
1528 | 2. | 「パック事件」が起きる |
1529 | 4.22 | 第二回シュパイエル帝国議会,ヴォルムス勅令の再施行 |
1529 | 4. | オーストリア,スイスのカトリック諸邦と「キリスト教連合」(ヴァルツフート同盟) |
1529 | ルーカス・クラーナハ「律法と福音」 | |
1529 | 5. | 第一次カペル戦争 |
1529 | 8.3 | カンブレ和約 |
1529 | 9.26--10.15 | 第一次ウィーン包囲 |
1529 | 10.1--3 | マールブルク宗教会談,ルター派とツヴィングリ派,正餐論争で一致せず |
1529 | 11.4--1536.4 | イングランドで「宗教改革議会」召集 |
1530 | 1. | 「キリスト教都市同盟」にシュトラースブルク加入 |
1530 | 6. | アウクスブルク帝国議会,「アウクスブルク信仰告白」の朗読 |
1530 | 8. | エックら「カトリックの論駁書」 |
1530 | 11. | ウルジー,大逆罪の容疑で逮捕され,ロンドンへ護送される途中で病死 |
1531 | 2.27 | シュマルカルデン同盟結成 |
1531 | 10. | 第二次カペル戦争,ツヴィングリ戦死 |
1534 | 8. | イグナティウス・デ・ロヨラ,イエズス会を設立 |
1534 | 10.17--18 | 「檄文事件」 |
1534 | 11. | イングランド議会「国王至上法」制定 |
1535 | 『カヴァデイル訳聖書』刊行 | |
1535 | 7.6 | トマス・モア処刑 |
1536 | 2.7 | ジュネーヴ,ベルンと同盟 |
1536 | 2.26 | 「第一スイス信仰告白」 |
1536 | 3 | カルヴァン『キリスト教綱要』 |
1536 | 5.21 | ジュネーヴ,宗教改革導入を決定 |
1536 | 5 | 西南ドイツの福音派とルター派のあいだに「ヴィッテンベルク一致信条」成立 |
1536 | 7 | カルヴァン,ジュネーヴで宗教改革運動に参加 |
1537 | 1. | カルヴァン「教会組織に関する諸条項」 |
1538 | 4.23 | カルヴァン,市民総会の決定により都市外追放 |
1539 | 6. | 「六箇条法」制定,『大聖書(グレート・バイブル)』刊行 |
1539 | 9. | カルヴァン「サドレート枢機卿への返答」 |
1541 | 9.13 | カルヴァン,ジュネーヴへ帰還 |
1541 | 11. | 「ジュネーヴ教会規則」を制定 |
1545 | カステリョ,ジュネーヴより追放 | |
1546/47 | シュマルカルデン戦争 | |
1547 | 1.28 | 英王ヘンリ8世没 |
1547 | 4.24 | ミュールベルクの戦い,ザクセン選帝侯ヨーハン・フリードリヒ捕虜になる |
1547 | 3.31 | 仏王フランソワ一世没 |
1548 | 6. | 「よろいを着た」アウクスブルク帝国議会,「仮信条協定」制定 |
1551 | カルヴァン,ジェローム・ボルセックと二重予定説問題の論争 | |
1552 | 諸侯戦争 皇帝カール5世敗退 | |
1553 | 10.27 | ミカエル・セルヴェトゥス焚刑 |
1558 | ノックス『女たちの奇怪な統治に反対するラッパの最初の高鳴り』 | |
1555 | 9. | アウクスブルク宗教平和 |
1559 | ジュネーヴ・アカデミーの創設 | |
1559 | 4. | イタリア戦争の終結,カトー・カンブレジの和議 |
1559 | 5. | 「フランス信仰告白」 |
1560 | 3.15--16 | アンボワーズの陰謀 |
1560 | 8. | 「スコットランド信仰告白」 |
1562 | 3. | ヴァシー事件,ユグノー戦争始まる |
1566 | 「飢餓の年」 | |
1571 | 1. | イングランド「三九箇条」法制化 |
1572 | 8.23 | サン・バルテルミの虐殺 |
1573 | 7. | 「ブーローニュの王令」改革派はラ・ロシェルなどの都市で礼拝式を認められる |
1578 | 7. | 「規律(第二)の書」 |
1579 | 1.23 | ユトレヒト同盟締結 |
1588 | 5. | 「バリケードの日」パリ市民の蜂起 |
1588 | 8. | スペイン無敵艦隊イングランドに敗退 |
1589 | 8. | アンリ3世暗殺され,アンリ・ド・ブルボンがアンリ4世として即位 |
1593 | 「国教忌避者処罰例」「ピューリタン処罰法」 | |
1598 | 4.13 | ナントの王令 |
1609 | 4.9 | オランダ独立戦争,オランダとスペインがアントウェルペンで,十二年休戦条約を結ぶ |
1618 | 11. | ドルトレヒト会議,ホマルス派の全面的勝利 |
1648 | 10. | ウェストファリア条約 |
17世紀のイングランドの海軍大臣 Samuel Pepys (1633--1703) は,1660--69年ロンドンでの出来事を記録した日記 The Diary of Samuel Pepys で知られる.1665--66年にロンドンを襲った腺ペスト (The Great Plague) についても,不安をもって記録している.関連する箇所をいくつか抜き出そう.
Sunday 30 April 1665 . . . . Great fears of the sickenesse here in the City, it being said that two or three houses are already shut up. God preserve as all!
Sunday 7 June 1665 . . . . This day, much against my will, I did in Drury Lane see two or three houses marked with a red cross upon the doors, and "Lord have mercy upon us" writ there; which was a sad sight to me, being the first of the kind that, to my remembrance, I ever saw. It put me into an ill conception of myself and my smell, so that I was forced to buy some roll-tobacco to smell to and chaw, which took away the apprehension.
Sunday 10 June 1665 . . . . In the evening home to supper; and there, to my great trouble, hear that the plague is come into the City (though it hath these three or four weeks since its beginning been wholly out of the City) . . . .
Saturday 16 September 1665 . . . . At noon to dinner to my Lord Bruncker, where Sir W. Batten and his Lady come, by invitation, and very merry we were, only that the discourse of the likelihood of the increase of the plague this weeke makes us a little sad, but then again the thoughts of the late prizes make us glad.
上の3つめの引用にあるとおり,ペストがシティに入ってきたのは6月10日頃である.6月下旬には,ロンドン市長と市参事会の連名でペスト条例が公布されている.当時のロンドンの人口は25万人ほどという説があるが,その1/5ほどがわずか1年のあいだに腺ペストに倒れたというから,その勢いは凄まじい(蔵持,pp. 219--226).ペストは翌1666年には下火になっていたものの,くすぶってはいた.ペストが完全に制圧されたのは,皮肉にも9月2日のロンドン大火によってだった.その日の Pepys の日記 (Sunday 2 September 1666) も参照されたい.
・ 蔵持 不三也 『ペストの文化誌 ヨーロッパの民衆文化と疫病』 朝日新聞社〈朝日選書〉,1995年.
昨日の記事「#3059. ベンガル語の必修化を巡るダージリンのストライキ」 ([2017-09-11-1]) で Darjeeling について取り上げたので,関連して tea の話題を.「#2934. tea とイギリス」 ([2017-05-09-1]) で見たように,英語における tea の初出は1655年である.The Diary of Samuel Pepys より1660年9月25日の記録を引こう.tea が舶来の飲み物としてはやり始めた頃だったとわかる.
Tuesday 25 September 1660 . . . . To the office, where Sir W. Batten, Colonel Slingsby, and I sat awhile, and Sir R. Ford coming to us about some business, we talked together of the interest of this kingdom to have a peace with Spain and a war with France and Holland; where Sir R. Ford talked like a man of great reason and experience. And afterwards I did send for a cup of tee (a China drink) of which I never had drank before, and went away.
17世紀後半から18世紀にかけて,tea は洗練された嗜みとして庶民にも拡がっていき,コーヒーを追い抜いていくことなる.tea の人気振りは,関連する食器や家具などを表わす複合語が次々と現われた事実からも見て取ることができるだろう.Crystal (370) から,例を初出年とともに拾ってみよう.
tea-pot (1662), tea-spoon (1666), tea-table (1688), tea-house (1689), tea-water (1693), tea-cup (1700), tea-room (1702), tea-equipage (1702), tea-dish (1711), tea-canister (1726), tea-tongs (1738), tea-time (1741), tea-shop (1745), tea-things (1747), tea-treats (1748), tea-box (1758), tea-saucer (1761), tea-visit (1765), teaware (1766), tea-cloth (1770), tea-tray (1773), tea-set (1786), tea-urn (1786)
・ Crystal, David. The Stories of English. London: Penguin, 2005.
ここ数日,集中的に英語史における黒死病の意義を考えてきた.これまで書きためてきた black_death の記事を総括する意味で「英語史における黒死病の意義」のまとめスライド (HTML) を作ってみたので,こちらよりご覧ください.
13枚からなるスライドで,目次は以下の通り.
1. 英語史における黒死病の意義
2. 要点
3. 黒死病 (Black Death) とは?
4. ノルマン征服による英語の地位の低下
5. 英語の復権の歩み (#131)
6. 黒死病の社会(言語学)的影響 (1)
7. 黒死病と社会(言語学)的影響 (2)
8. 英語による教育の始まり (#1206)
9. 実は中英語は常に繁栄していた
10. 黒死病は英語の復権に拍車をかけたにすぎない
11. 村上,pp. 176--77
12. まとめ
13. 参考文献
HTML スライドなので,そのまま hellog 記事にリンクを張ったり辿ったりでき,とても便利.英語史スライドシリーズとして,ほかにも作っていきたい. * *
英語史における黒死病 (black_death) の意義は,黒死病→人口減少→英語母語話者の社会的台頭→英語の復権といった因果関係の連鎖に典型的にみることができる.しかし,もっと広い視野から歴史の因果関係を考察すると,黒死病→人口減少→賃金上昇→技術革新という連鎖も認められ,この技術革新が間接的に英語の復権をサポートしたという側面もありそうだ.
ケリーが『黒死病 ペストの中世史』のなかの「必要が新しい技術を生む」という節で,次のように述べている (376--77) .
人口減少は技術革新にも大きな影響を及ぼした.労働力が急激に減少したことから,人手を省くための装置の開発が各分野で進み,書籍作りにもその動きが見られた.十三世紀と十四世紀には,商人や大学教育を受けた専門職や職人などの階級が成長したことから,書籍への需要が着実に伸びた.しかし,中世の造本はきわめて労働集約的な作業だった.まず,数人の写字生が手分けして一冊の本を一折りずつ書き写す.労働賃金が安かった黒死病以前の時代には,この方法でも儲けが出たが,黒死病以後の高賃金の時代になると,そうはいかなかった.そこでドイツのマインツに生まれた野心家の若者ヨハネス・グーテンベルクの登場である.大量死の時代からおよそ百年後の一四五三年,グーテンベルクは世界初の印刷機を世に送り出した.
以上より,1世紀ほどの時間幅があるとはいえ,黒死病→人口減少→賃金上昇→技術革新→印刷術の発明,という連鎖が得られた.印刷術の発明の後に続く連鎖については,「#2927. 宗教改革,印刷術,英語の地位の向上」 ([2017-05-02-1]) と「#2937. 宗教改革,印刷術,英語の地位の向上 (2)」 ([2017-05-12-1]) を参照されたい.黒死病が,最終的には英語の社会的地位の向上につながる.
ケリー (377--79) は,黒死病に起因する技術革新や制度変化が,造本のほか,鉱業,漁業,戦争形態,医療,公衆衛生,高等教育など多くの分野で生じたことを示しており,すでに近代的な科学の方法論を取り入れる素地ができあがりつつあったとも述べている.例えば,高等教育の変化について「ペスト流行後の学問の衰退と聖職者兼教育者の不足」に言及している(ケリー,p. 379).当時の大学の置かれていた状況については「#1206. 中世イングランドにおける英語による教育の始まり」 ([2012-08-15-1]) および「#3055. 黒死病による聖職者の大量死」 ([2017-09-07-1]) を参照.
・ ジョン・ケリー(著),野中 邦子(訳) 『黒死病 ペストの中世史』 中央公論新社,2008年.
連日,黒死病 (black_death) の話題を取りあげている.昨日の記事「#3054. 黒死病による社会の流動化と諸方言の水平化」 ([2017-09-06-1]) では Gooden の英語史読本を参照したが,黒死病を手厚く扱っているもう1つのポピュラーな英語史読本として,Bragg (60--61) を挙げよう.黒死病の英語史における意義に関して特に目新しことを述べているわけではないが,さすがに読ませる書き方ではある.
In 1348 Rattus rattus, the Latin-named black rodent, was the devil in the bestiary. These black rats deserted a ship from the continent which had docked near Weymouth. They carried a deadly cargo, a term that modern science calls Pasteurella pestis, that the fourteenth century named the Great Pestilence and that we know as the Black Death.
The worst plague arrived in these islands, and much, including the language, would be changed radically.
The infected rats scaled out east and then north. They sought out human habitations, building nests in the floors, climbing the wattle and daub walls, shedding the infected fleas that fed on their blood and transmitted bubonic plague. It has been estimated that up to one-third of England's population of four million died. Many others were debilitated for life. In some places entire communities were wiped out. In Ashwell in Hertfordshire, for instance, in the bell tower of the church, some despairing soul, perhaps the parish priest, scratched a short poignant chronicle on the wall in poor Latin. "The first pestilence was in 1350 minus one . . . 1350 was pitiless, wild, violent, only the dregs of the people live to tell the tale."
The dregs are where our story of English moves on. These dregs were the English peasantry who had survived. Though the Black Death was a catastrophe, it set in train a series of social upheavals which would speed the English language along the road to full restoration as the recognised language of the natives. The dregs carried English through the openings made by the Black Death.
The Black Death killed a disproportionate number of the clergy, thus reducing the grip of Latin all over the land. Where people lived communally as the clergy did in monasteries and other religious orders, the incidence of infection and death could be devastatingly high. At a local level, a number of parish priests caught the plague from tending their parishioners; a number ran away. As a result the Latin-speaking clergy was much reduced, in some parts of the country by almost a half. Many of their replacements were laymen, sometimes barely literate, whose only language was English.
More importantly, the Black Death changed society at its roots --- the very place where English was most tenacious, where it was still evolving, where it roosted.
In many parts of the country there was hardly anyone left to work the land or tend the livestock. The acute shortage of labour meant that for the first time those who did the basic work had a lever, had some power to break from their feudal past and demand better conditions and higher wages. The administration put out lengthy and severe notices forbidding labourers to try for wage increases, attempting to force them to keep to pre-plague wages and demands, determined to stifle these uneasy, unruly rumblings. They failed. Wages rose. The price of property fell. Many peasants, artisans, or what might be called working-class people discovered plague-emptied farms and superior houses, which they occupied.
引用中に,聖職者が特にペストの餌食となったことにより,イングランド社会におけるラテン語の影響力が減じたとある.含意として,相対的に大多数の人々の母語である英語が影響力を増したと読める.しかし,聖職者がとりわけ被害を受けたというのが本当なのかどうかについては論争があり,真実は必ずしも明らかにされていない.とはいえ,「聖職者というのは,埋葬に立ち会い,終油の秘蹟をさずけ,あるいは救助活動に身を捧げたりで,患者や死者との接触度が一般人よりもはるかに大きく,それだけ危険度も高かった」(村上,p. 131)というのは,理に適っているように思われる.なお,聖職者は教育者でもあったことも付け加えておこう (cf. 「#1206. 中世イングランドにおける英語による教育の始まり」 ([2012-08-15-1])) .
・ Bragg, Melvyn. The Adventure of English. New York: Arcade, 2003.
・ 村上 陽一郎 『ペスト大流行 --- ヨーロッパ中世の崩壊 ---』 岩波書店〈岩波新書〉,1983年.
英語史では中世における英語の復権と関連して,たいてい黒死病のことが触れられる.しかし,簡単に言及されるにとどまり,突っ込んだ説明のないものも多い.そのなかで,一般向けの英語史読本を著わした Gooden (67--68) は,黒死病に対して1節を割くほどの関心を示している.読み物としておもしろいので引用しておこう.なお,引用の第2段落の1部は,Black Death の語源と関連して「#2990. Black Death」 ([2017-07-04-1]) でも取りあげた.
The Black Death had a devastating effect on the British Isles, as on the rest of Europe. The population of England was cut by anything between a third and a half. Probably originating in Asia, the plague arrived in a Dorset port in the West country in 1348, rapidly spreading to Bristol and then to Gloucester, Oxford and London. If a rate of progress were to be allotted to the plague, it was advancing at about one-and-a-half miles a day. The major population centres, linked by trading routes, were the most obviously vulnerable but the epidemic had reached even the remotest areas of western Ireland by the end of the next decade. Symptoms such as swellings (the lumps or buboes that characterize bubonic plague), fever and delirium were almost invariably followed within a few days by death. Ignorance of its cause heightened panic and public fatalism, as well as hampering effectual preventive measures. Although the epidemic petered out in the short term, the disease did not go away, recurring in localized attacks and then major outbreaks during the 17th century which particularly affected London. One of them disrupted the preparations for the coronation of James I in 1603; the last major epidemic killed 70,000 Londoners in 1665.
The term 'Black Death' came into use after the Middle Ages. It was so called either because of the black lumps or because in the Latin phrase atra mors, which means 'terrible death', atra can also carry the sense of 'black'. To the unfortunate victims, it was the plague, or, more often, the pestilence. So Geoffrey Chaucer calls it in The Pardoner's Tale, where he makes it synonymous with death. The words survive in modern English even if with a much diminished force in colloquial use: 'He's a pest.' 'Stop plaguing us!' Curiously, although pest in the sense of 'nuisance' has its roots in pestilence, the word pester comes from a quite different source, the Old French empêtrer ('entangle', 'get in the way of').
The impact of the pestilence on English society was profound. Quite apart from the psychological effects, there were practical consequences. Labour shortages meant a rise in wages and more fluid social structure in which the old feudal bonds began to break down. Geographical mobility would also have helped in dissolving regional distinctions and dialect differences.
黒死病による人口減少により,生き残った労働者の賃金が上がり,彼らの社会的地位が上昇するとともに彼らの母語である英語の社会的地位も上昇した,というのが黒死病の英語史上のインパクトと言われる.しかし,引用の最後にあるように,人々が社会的にも地理的にも流動化したという点にも注目すべきである.これにより,人々がますます混交し,とりわけロンドンのような都会では諸方言が水平化してゆく契機となった (cf. dialect levelling) .黒死病は,確かに英語の行く末に間接的な影響を与えたといえるだろう.
・ Gooden, Philip. The Story of English: How the English Language Conquered the World. London: Quercus, 2009.
1348年に起こった黒死病 (black_death) について,本ブログでも何度か取りあげてきた(cf. 「#119. 英語を世界語にしたのはクマネズミか!?」 ([2009-08-24-1]),「#138. 黒死病と英語復権の関係について再考」 ([2009-09-12-1]),「#1206. 中世イングランドにおける英語による教育の始まり」 ([2012-08-15-1])).今回は,英語史における黒死病の意義を考えるにあたって,特に農業経済の変化に焦点を当てつつ,広い視野から当時の歴史的背景を紹介したい.
黒死病に関する McDowall (46--47) からの文章を引こう.
Probably more than one-third of the entire population of Britain died, and fewer than one person in ten who caught the plague managed to survive it. Whole villages disappeared, and some towns were almost completely deserted until the plague itself died out.
The Black Death was neither the first natural disaster of the fourteenth century, nor the last. Plagues had killed sheep and other animals earlier in the century. An agricultural crisis resulted from the growth in population and the need to produce more food. Land was no longer allowed to rest one year in three, which meant that it was over-used, resulting in years of famine when the harvest failed. This process had already begun to slow down population growth by 1300.
After the Black Death there were other plagues during the rest of the century which killed mostly the young and healthy. In 1300 the population of Britain had probably been over four million. By the end of the century it was probably hardly half that figure, and it only began to grow again in the second half of the fifteenth century. Even so, it took until the seventeenth century before the population reached four million again.
The dramatic fall in population, however, was not entirely a bad thing. At the end of the thirteenth century the sharp rise in prices had led an increasing number of landlords to stop paying workers for their labour, and to go back to serf labour in order to avoid losses. In return villagers were given land to farm, but this tenanted land was often the poorest land of the manorial estate. After the Black Death there were so few people to work on the land that the remaining workers could ask for more money for their labour. We know they did this because the king and Parliament tried again and again to control wage increases. We also know from these repeated efforts that they cannot have been successful. The poor found that they could demand more money and did so. This finally led to the end of serfdom.
Because of the shortage and expense of labour, landlords returned to the twelfth-century practice of letting out their land to energetic freeman farmers who bit by bit added to their own land. In the twelfth century, however, the practice of letting out farms had been a way of increasing the landlord's profits. Now it became a way of avoiding losses. Many "firma" agreements were for a whole life span, and some for several life spans. By the mid-fifteenth century few landlords had home farms at all. These smaller farmers who rented the manorial lands slowly became a new class, known as the "yeomen". They became an important part of the agricultural economy, and have always remained so.
Overall, agricultural land production shrank, but those who survived the disasters of the fourteenth century enjoyed a greater share of the agricultural economy. Even for peasants life became more comfortable. For the first time they had enough money to build more solid houses, in stone where it was available, in place of huts made of wood, mud and thatch.
黒死病の勃発する1358年より前にも,疫病,人口増加,農地不足はすでに大きな問題となっており,農業経済は行き詰まっていた.農奴制 (serfdom) も持ちこたえられなくなっており,賃金労働者たる自由農民 (yeoman) という新しい身分が出現し始めていた.そこへ黒死病が到来し,生産者人口が激減するに及んで,生き残った生産者の社会的地位が高まった.このようにして,とりわけ自由農民の層が15世紀にかけて存在感と発言力を増していった.そして,彼らの話す言葉こそが,英語だったのである.
McIntyre (15) が述べている通り,"the greater the influence a particular group has within society, the more likely it is that the language spoken by that group will be seen as prestigious."である.英語は,中世イングランドの農業経済の変化(農奴制から自由農民制へ)とともに復権を果たしたといえる.
ただし,黒死病が必ずしも農業経済に直接の影響を及ぼしたわけではない,それは旧来の学説だとする見方も,近年影響力を高めてきているようではあるマクニール(下巻,p. 58 を参照).
・ McDowall, David. An Illustrated History of Britain. Harlow: Longman 1989.
・ McIntyre, Dan. History of English: A Resource Book for Students. Abingdon: Routledge. 2009.
・ ウィリアム・H・マクニール(著),佐々木 昭夫(訳) 『疫病と世界史 上・下』 中央公論新社〈中公文庫〉,2007年.
昨日の記事 ([2017-08-16-1]) で,戦争が語彙に及ぼす影響について取り上げ,2つの世界大戦より具体例を挙げた.戦時に様々な戦争用語が生まれるというのは自然なことであり,疑うべきことではないが,戦争と「著しい」語彙革新とが常に関連づけられるものかどうかは慎重に調べる必要がある.というのは,むしろ2つの世界大戦期には,語彙革新が相対的に少なかったというデータがあるからだ.
Beal (29--34) の A Chronological English Dictionary に基づいた新語の初例登録年代の調査によると,意外なことに,1915--19年と1944--45年に新語導入の谷が現われている.この年代はちょうど両世界大戦に相当し,むしろ語彙革新が激しかったのではないかと予想される時期である.
ここで重要なのは,これらの時期に「戦時新語」が他の時期と比べて多かっただろうことは自明だが,「戦時新語」以外の新語を含めた新語の総数が多かったとは限らないという点だ.研究者も私たちも,この時期に「戦時新語」の例を探し求めたがり,結果としていくつかの例を見出すことになるが,それはその時期の新語総数が多かったということと同義ではない.新語総数としては著しくなかかったという可能性があるし,事実,この調査によればその通りだったのだ.Beal (33) は次のように述べている.
[W]ar does not stimulate lexical innovation: although the loan-words from allies and enemies alike are noticed during and after these conflicts, they are not great in number.
予想に反して戦時には新語が少ないという仮の結論となったが,これが本当だとすると,いったいなぜだろうか.これはこれで興味深い問題となる.
・ Beal, Joan C. English in Modern Times: 1700--1945. Arnold: OUP, 2004.
Baugh and Cable (293--94) によれば,戦争は語彙の革新をもたらすということがわかる.戦争に関わる新語 (neologism) が形成されたり借用されたりするほか,既存の語の意味が戦争仕様に変化することも含め,戦争という歴史的事件は語彙に大きな影響を及ぼすものらしい.例を挙げてみよう.
1914--18年にかけて,第1次世界大戦の直接的な影響により,語彙に革新がもたらされた.air raid (空襲),antiaircraft gun (高射砲),tank (戦車),blimp (小型軟式飛行船),gas mask (ガスマスク),liaison officer (連絡将校)などの語が作られた.借用語としては,フランス語から camouflage (迷彩)が入った.既存の語で語義が変化したものとしては,sector (扇形戦区),barrage (弾幕),dud (不発弾),ace (優秀パイロット)がある.専門用語だったものが一般に用いられるようになったという点では,hand grenade (手榴弾),dugout (防空壕),machine gun (機関銃),periscope (潜望鏡),no man's land (中間地帯),doughboy (米軍歩兵)などがある.その他,blighty (本国送還になるような負傷),slacker (兵役忌避者),trench foot (塹壕足炎),cootie (バイキン),war bride (戦争花嫁)などの軍俗語が挙げられる.
第1次大戦に比べれば第2次世界大戦はさほど語彙革新を巻き起こさなかったとはいえ,少なからぬ新語・新用法が確認される.alert (空襲警報),blackout (報道管制),blitz (電撃攻撃),blockbuster (大型爆弾),dive-bombing (急降下爆撃),evacuate (避難させる),air-raid shelter (防空壕),beachhead (橋頭堡),parachutist (落下傘兵),paratroop (落下傘兵),landing strip (仮設滑走路),crash landing (胴体着陸),roadblock (路上バリケード),jeep (ジープ),fox hole (たこつぼ壕),bulldozer (ブルドーザー),decontamination (放射能浄化),task force (機動部隊),resistance movement (レジスタンス),radar (レーダー)が挙げられる.動詞の例としては,to spearhead (先頭に立つ),to mop up (掃討する),appease (宥和政策を取る)を挙げておこう.借用語としては,ドイツ語から flack (対空射撃),ポルトガル語からcommando (奇襲部隊)がある.語義が流行した語としては,priority (優先事項),tooling up (機会設備),bottleneck (障害),ceiling (最高限度),backlog (残務),stockpile (備蓄),lend-lease (武器貸与).
戦後の用語としては,iron curtain (鉄のカーテン),cold war (冷戦),fellow traveler (シンパ),front organization (みせかけの組織),police state (警察国家)がある.
・ Baugh, Albert C. and Thomas Cable. A History of the English Language. 6th ed. London: Routledge, 2013.
歴史言語学は言語変化を扱う分野だが,なぜ言語は変化するのかという原因 (causation) を探究するという営みについては様々な立場がある.本ブログでも言語変化 (language_change) の「原因」「要因」「駆動力」を様々に論じてきたが,「なぜ」に対する答えはそもそも存在するのだろうかという疑念が常につきまとっている.仮に与えられた答えらしきものは,言語変化の「なぜ」 (Why?) に対する答えではなく,「どのように」 (How?) に対する答えにすぎないのではないか,と.言語変化の How と Why については,「#2123. 言語変化の切り口」 ([2015-02-18-1]) と「#2255. 言語変化の原因を追究する価値について」 ([2015-06-30-1]) で別々の問いであるかのように扱ってきたが,この2つの問いはどのような関係にあるのだろうか.
連日参照している Harari (265--66) は,歴史学の立場からこの問題を論じており,Why に対する How の重要性を説いている.
What is the difference between describing 'how' and explaining 'why'? To describe 'how' means to reconstruct the series of specific events that led from one point to another. To explain 'why' means to find causal connections that account for the occurrence of this particular series of events to the exclusion of all others.
Some scholars do indeed provide deterministic explanations of events such as the rise of Christianity. They attempt to reduce human history to the workings of biological, ecological or economic forces. They argue that there was something about the geography, genetics or economy of the Roman Mediterranean that made the rise of a monotheist religion inevitable. Yet most historians tend to be sceptical of such deterministic theories. This is one of the distinguishing marks of history as an academic discipline --- the better you know a particular historical period, the harder it becomes to explain why things happened one way and not another. Those who have only a superficial knowledge of a certain period tend to focus only on the possibility that was eventually realised. They offer a just-so story to explain with hindsight why that outcome was inevitable. Those more deeply informed about the period are much more cognisant of the roads not taken.
では,歴史の Why ではなく How に踏みとどまざるを得ない歴史学とは何のためにあるのか.Harari (48) は解放感のある次のような言葉で言い切る.
So why study history? Unlike physics or economics, history is not a means for making accurate predictions. We study history not to know the future but to widen our horizons, to understand that our present situation is neither natural nor inevitable, and that we consequently have many more possibilities before us than we imagine. For example, studying how Europeans came to dominate Africans enables us to realise that there is nothing natural or inevitable about the racial hierarchy, and that the world might well be arranged differently.
未来予測が歴史学の目的ではない.同じように,言語変化を扱う歴史言語学も,言語の未来予測を目的としていない.
言語の予測可能性については,「#843. 言語変化の予言の根拠」 ([2011-08-18-1]),「#844. 言語変化を予想することは危険か否か」 ([2011-08-19-1]),「#1019. 言語変化の予測について再考」 ([2012-02-10-1]),「#2154. 言語変化の予測不可能性」 ([2015-03-21-1]),「#2273. 言語変化の予測可能性について再々考」 ([2015-07-18-1]) をはじめとする (prediction_of_language_change) の記事を参照されたい.
・ Harari, Yuval Noah. Sapiens: A Brief History of Humankind. 2011. London: Harvill Secker, 2014.
英文学史上,18--19世紀は "the Age of Prose", "the great age of the personal letter", "the golden age of letter writing" などと呼ばれることがある.人々がいそいそと手紙をしたため,交わした時代である.近年,英語史的において,この時代の手紙における言葉遣いや当時の規範的な文法観が手紙に反映されている様子などへの関心が高まってきている.とりわけ社会言語学や語用論の観点からのアプローチが盛んだ.
18--19世紀に手紙を書くことが社会的なブームとなった背景について,Tieken-Boon van Ostade の解説を引こう (2--3) .
Letter writing became an important means of communication to all people alike, largely as a result of the developments of the postal system. With the establishment of the Penny Post throughout Britain in 1840, postage became cheaper and was now paid for by the writer instead of the receiver. The result was phenomenal: while according to Mugglestone (2006: 276) 'some 75 million letters were sent in 1839', they had increased to 347 million ten years later. Just before the widespread introduction of the Penny Post, the average person in England and Wales received about four letters a year (Bailey 1996: 17), which rose to about eight times as many in 1871, and doubled further at the end of the century. The effects on the language were significant: more people write than ever before, either themselves or, as with minimally schooled writers, through the hands of others who had had slightly more education. Letter-writing manuals, such as The Complete Letter Writer (Anon., 2nd edn 1756), had been appearing in increasing numbers since the mid-eighteenth century, and they gained in popularity during the nineteenth, both in England and in the United States.
このブームは,後期近代英語期に新たな書き言葉のジャンルが本格的に開拓され伸張したことを意味するばかりではない.これまで書いていた人々がますます書くようになったこと,そしてさらに重要なことに,これまで書くことのなかった人々までが書くという行為の担い手となり始めたことをも意味する.さらに,手紙の書き方に関するマニュアルが出版されるようになり,それが社会的なたしなみとして規範化していった時期でもあることを意味する.
この時代は,ドレスコードにせよ言葉遣いにせよ,何事につけても「たしなみ」の時代だった.手紙を書くという行為も,そのような時代の風潮のなかで社会に組み込まれていったもう1つのたしなみだったということになろう.
16世紀から19世紀までの手紙の資料については,Tieken-Boon van Ostade による Correspondences のページを参照.
・ Tieken-Boon van Ostade, Ingrid. An Introduction to Late Modern English. Edinburgh: Edinburgh UP, 2009.
昨日の記事「#2993. 後期近代英語への関心の高まり」 ([2017-07-07-1]) で,近年の後期近代英語研究の興隆について紹介した.後期近代英語 (Late Modern English) とは,いつからいつまでを指すのかという問題は,英語史あるいは言語史一般における時代区分 (periodisation) という歴史哲学的な問題に直結しており,究極的な答えを与えることはできない(比較的最近では「#2640. 英語史の時代区分が招く誤解」 ([2016-07-19-1]),「#2774. 時代区分について議論してみた」 ([2016-11-30-1]),「#2960. 歴史研究における時代区分の意義」 ([2017-06-04-1]) で議論したので参照).
ややこしい問題を抜きにすれば,後期近代英語期は1700--1900年の時期,すなわち18--19世紀を指すと考えてよい.もちろん,1700年や1900年という区切りのわかりやすさは,時代区分の恣意性を示しているものと解釈すべきである.ここに社会史に沿った観点から細かい修正を施せば,英国史における「長い18世紀」と「長い19世紀」を加味して,後期近代とは王政復古の1660年から第1次世界大戦終了の1918年までの期間を指すものと捉えるのも妥当かもしれない.特に社会史と言語史の密接な関係に注目する歴史社会言語学の立場からは,この「長い後期近代英語期」の解釈は,適切だろう.Beal (2) の説明を引く.
Of course, it would be foolish to suggest that any such period could be homogeneous or that the boundaries would not be fuzzy. The starting-point of 1700 is particularly arbitrary, especially since . . . the obvious political turning-point which might mark the Early/Later Modern English boundary is the restoration of the monarchy in 1660. This coincides with the view of historians that the 'long' eighteenth century extends roughly from the restoration of the English monarchy (1660) to the fall of Napoleon (1815). On the other hand, the 'long' nineteenth-century in European history is generally acknowledged as beginning with . . . 'the great bourgeois French Revolution' of 1789 . . . and concluding with the end of World War I in 1918 . . . .
終点をさらに少しく延ばして第2次世界大戦の終了の1945年にまで押し下げて,「非常に長い後期近代英語期」を考えることもできるかもしれない.このように見てくると,この約3世紀に及ぶ期間が,いまや世界的な言語である英語の歴史を論じるにあたって,極めて重要な時代であることは自明のように思われる.しかし,この時期に本格的な焦点が当たり始めたのは,今世紀に入ってからなのである.
・ Beal, Joan C. English in Modern Times: 1700--1945. Arnold: OUP, 2004.
14世紀半ばにイングランド(のみならずヨーロッパ全域)を襲った Black Death (黒死病; black_death)の英語史上の意義については,「#119. 英語を世界語にしたのはクマネズミか!?」 ([2009-08-24-1]),「#138. 黒死病と英語復権の関係について再考」 ([2009-09-12-1]),「#139. 黒死病と英語復権の関係について再々考」 ([2009-09-13-1]) で論じてきた.
この世界史上悪名高い疫病につけられた Black Death という名前は,実は後世の造語である.『英語語源辞典』によると,英語での初例は1758年と意外に遅く,ドイツ語のder schwarze Tod のなぞり (loan_translation) とされる.16世紀よりスウェーデン語で swarta dödhen が,デンマーク語で den sorte död がすでに用いられており,それがドイツ語でなぞられたものが,一般的な疫病の意味でヨーロッパ諸語に借用されたものらしい.14世紀半ばのイギリス史上の疫病を指す用語としての Black Death は,1823年に "Mrs Markham" (Mrs Penrose) が導入し,1833年には医学書で上述のようにドイツ語を参照して使われ出したとされ,それ以前には the pestilence, the plague, great pestilence, great death などと呼ばれていた.
なぜ「黒」なのかという点については,この病気にかかると体が黒くなることに由来すると言われるが,詳細は必ずしも明らかではない.参考までに,Gooden (68) には次のように解説されている.
The term 'Black Death' came into use after the Middle Ages. It was so called either because of the black lumps or because in the Latin phrase atra mors, which means 'terrible death', atra can also carry the sense of 'black'.
・ Gooden, Philip. The Story of English: How the English Language Conquered the World. London: Quercus, 2009.
書店で平積みになっていた新書を買って読んでみた.松木武彦著『縄文とケルト』である.日英比較考古学の興味をそそる本である.端的にいえば,両地域,両民族ともに,紀元前に先進的な文明をもつ大陸の民族に大きな影響を受けたが,現在その歴史をとらえる視点は,おおいに異なっているということだ.「同じ動きを,英国史ではヨーロッパ史の一部とみているのに対し,日本史ではどこまでも日本史としてにらんでいる」(223) のだという.
もう少し詳しく著者の結論を紹介するには,直接文章を引用するのが早いだろう.松木 (236) は,文明を「非文明のさまざまな知的試行や積み重ねの中から生み出されて広まった,人類第二次の知識体系」と定義づけた後に,次のように締めくくっている.
大陸中央部の平原で芽生えて根を張った,この文明の知識体系やそれに沿った行動様式は,環境の悪化と資源の低落による危機を肥やしにして,その実利的な結実率の高さゆえに周辺の地域にも急速にはびこっていった.ケルトとは,ユーラシア大陸の中央部から主として西方へ進んだこの動きを,一つの人間集団の移動拡散というドラマになぞらえて,後世の人びとが自らのアイデンティティと重ねながらロマン豊かに叙述したものである.
いっぽう,ユーラシア大陸中央部から東方にも同様の動きが進んだ.克明な一国史の叙述を大の得意とするわが国の歴史学や考古学では,この島国にしっかりと足をつけて西の海の向こうをにらむ姿勢をもとに,このような動きを,弥生時代に水田稲作をもたらした「渡来人」,古墳時代に先進的な技術と知識をもってやってきた「渡来人」(古くは「帰化人」)に集約して描こうとしてきた.後者は一時,東のケルトとでもいうべき「騎馬民族」に含めて描かれようとしたが,島国日本の伝統と孤立と純粋さを信じたい心根と,日本考古学一流の精緻な実証主義とがあいまったところから大きな反発を受け,その時点では不成功の試みに終わった.
ともあれ,西と東のケルトは,ともにその最終の到達地であるブリテン島と日本列島とにそれぞれ歴史的な影響を及ぼし,環濠集落のような戦いと守りの記念物や,不平等や抑圧を正当化する働きをもった王や王族の豪華な墓をそこに作り出した.紀元前三〇〇〇年を過ぎたころから紀元前後くらいまでの動きである.
しかし,東西ケルトの動きの最終的帰結ともいえる大陸の古代帝国――漢とローマ――が日本列島とブリテン島とに関わった程度と方向性は大きく異なり,そのことは,両地域がたどったその後の歴史の歩みの違いと,そこから来る相互の個性を作り出すに至る.大陸との間を隔てる海が狭かったがゆえにローマの支配にほぼ完全に呑み込まれたブリテン島では,文字や貨幣制度など,抽象的な記号を媒介とする知財や情報の交換システム――人類第三次の知識体系――に根ざした新しいヨーロッパ社会の一翼としてその後の歴史の歩みに入っていった.
これに対し,もっと広い海で大陸から隔てられていた日本列島は,漢の直接支配下に入ることなく,王族たちが独自の政権を作り,前方後円墳という固有の記念物を生み出し,独自のアイデンティティを固める期間がイギリスよりもはるかに長かった.私たち現代日本人は,このような感性や世界観を受け継いでいる.「縄文時代」「弥生時代」「古墳時代」と,同じ島国のイギリスの歴史ではほとんど用いられない一国史的な時代区分を守り,東のケルト史観たる騎馬民族説に反発する日本人の歴史学者や考古学者の観念もまた,そこに由来するのかもしれない.(237--39)
本書には,地政学的な指摘も多い.例えば,日英両島嶼地域と大陸との関係は,間に挟まる海峡の幅にも比例するという.ドーヴァー海峡の幅は34キロであり,人間でも頑張れば泳ぎ切れる距離だが,対馬海峡は約200キロもあり,さすがに泳いでは渡れない (233) .また,「東西のケルト」は,いずれもユーラシア中央部に近いところにルーツが想定されているという指摘も,ユーラシア大陸規模で歴史を考えさせる契機となり,意味深長である (224) .
上の引用の最後にもあるように,紀元前後に,ブリテン島では帝国に取り込まれて固有のアイデンティティが育ち得なかったのという指摘もおもしろい.そのタイミングで育ち得なかったがゆえに,ずっと後の近代期に,国家的アイデンティティを作り出す手段として基層に広がるケルトが利用されたのではないかという考察も示唆に富む(231--32) .英国史および英語史に対して,1つの視点を与えてくれる本として読んだ.そして,もちろん日本(語)史に対しても.
今回の話題と関連して,「#159. 島国であって島国でないイギリス」 ([2009-10-03-1]),「#2968. ローマ時代以前のブリテン島民」 ([2017-06-12-1]) も参照.
・ 松木 武彦 『縄文とケルト』 筑摩書房〈ちくま新書〉,2017年.
ブリテン島の先史時代にも人々の移動は頻繁にあったが,いつどのような民族がやってきて,いかにして先住民を征服したか,あるいは共存したかについて,詳細はわかっていない.アングロ・サクソン時代の直前のブリテン島民であった「ケルト人」についても,いつどのように渡来したのかについて諸説あり,論争の的となっている.以下では,君塚 (3--5),川北 (17--22),指 (7--9) に依拠して,教科書的な記述を施しておきたい.
人類が現在のブリテン島に相当するユーラシア大陸西端に居住していた最古の痕跡は,81万年前のものとされている.紀元前1万年頃の旧石器時代末期には,前時代におけるネアンデルタール人の文化をもった旧人に代わり,新人が狩猟採集の生活を営みつつ住み着いていた.紀元前7000--6000年になると,この地は大陸と完全に切り離された.ブリテン島の誕生である.次いで紀元前4000年頃からは農耕や牧畜も始まり,新石器時代に入る.この頃には,イベリア半島あるいは北アフリカ沿岸より人々が渡来していたようだ.新石器時代の末期,紀元前22--20世紀には大陸からビーカー人(埋葬品として用いられた口広型の土器にちなむ)と呼ばれる戦士集団がやってきて,青銅器文化をもたらした.ビーカー人は,おそらく印欧語を話していたと考えられる.ストーンヘンジに代表される巨石文化は紀元前18世紀頃に栄えたが,この頃までには大小様々な集団が生まれていたようだ.
ちょうどその頃,紀元前2千年紀には,大陸のアルプス山脈北部に,後にケルト人と呼ばれる冒険的戦士集団が生まれていた.彼らは千年ほどかけて北西ヨーロッパ,特に中欧,東欧にかけて拡張し,紀元前6世紀頃にはブリテン島にも渡来し,青銅器文化の担い手を追い出して,鉄器文化をもたらしつつ,この島に住み着くようになった.なお,ケルト人といっても均一の文化をもっていたわけではなく,彼らに征服された多様な先住民が征服者の文化と言語を共有する緩やかな文化的集合体をなしていたととらえるのが適切だろう(征服というよりは緩やかな同化だった可能性もある).さて,ブリテン島に次々に渡来してきたケルト人のなかでも中心的な役割を果たしたとされる最後の分派がベルガエ人であり,紀元前2世紀末までに高度な鉄器文化を発達させていた.数十の部族が分立していたが,このケルト人こそが,紀元前1世紀半ばよりローマ軍団に狙われることになるブリテン島民だった.
・ 君塚 直隆 『物語 イギリスの歴史(上)』 中央公論新社〈中公新書〉,2015年.
・ 川北 稔(編) 『イギリス史』 山川出版社,1998年.
・ 指 昭博 『図説イギリスの歴史』 河出書房新社,2002年.
ニュージーランドの北東約3000kmに浮かぶクック諸島 (Cook Islands) は,ニュージーランドと自由連合を組む自治国である.国名は,Captain Cook が1773年にこの諸島に上陸したことにちなむ.1888年にイギリスの属領となった後,1901年にはニュージーランドの属領へ移行し,1965年に内政自治権を獲得した.1万7千人程度の人口があり,その8割程度がポリネシア系のクック諸島マオリ族である.クック諸島マオリ語と英語がともに公用語となっている.以下,地図を掲載(広域図は「#2215. Niue,英語を公用語としてもつ最小の国(最新版)」 ([2015-05-21-1]) を参照).
首都 Avarua のある Rarotonga 島の北西400kmほどのところに,Palmerston Island という島が浮かんでいる.ここでは,成立過程のよく知られている Palmerston English と呼ばれる英語変種が話されている.Trudgill (100) の記述を借りよう.
Palmerston English is spoken on Palmerston Island (Polynesian Avarau), a coral atoll in the Cook Islands about 250 miles northwest of Rarotonga, by descendants of Cook Island Maori and English speakers. William Marsters, a ship's carpenter and cooper from Gloucestershire, England, came to uninhabited Palmerston Atoll in 1962. He had three wives, all from Penrhyn/Tongareva in the Northern Cook Islands. He forced his wives, seventeen children and numerous children to use English all the time. Virtually the entire population of the island today descends from the patriarch. Palmerston English has some admixture from Polynesian but is probably best regarded as a dialectal variety of English rather than a contact language.
その他,クック諸島の基本情報は,CIA: The World Factbook による Cook Islandsや外務省のクック諸島基礎データを参照.
・ Trudgill, Peter. A Glossary of Sociolinguistics. Oxford: Oxford University Press, 2003.
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