hellog〜英語史ブログ     ChangeLog 最新     カテゴリ最新     前ページ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 次ページ / page 10 (18)

history - hellog〜英語史ブログ

最終更新時間: 2024-11-12 07:24

2017-05-09 Tue

#2934. tea とイギリス [history][loan_word][pepys]

 tea とイギリスは,私たちのイメージのなかで分かち難く結びついている.茶はヨーロッパの近代において熱烈に流行した輸入品であり,その語源や語誌もよく知られている.『英語語源辞典』によると次のようにある.

1599年ポルトガル人によってヨーロッパにはじめて導入された名称は cha.この Port. cha は英語では16C末の文献に,chaa (1598) として,フランス語では1607年に chia, tcha として借入されたが,フランス語ではまもなく英語と同様 Malay 経由の thé を用いるようになった.また Russ. chaĭ は直接中国標準語から借入したものである.ヨーロッパ諸語に多い厦門方言形は,最初その貿易をほとんど一手に引き受けていた東インド会社などのオランダ人を通じたものと考えられる.17--18Cの英語に見られる , thé, tay /téi/ などは F thé の影響を示している.


 つまり,cha 系統の形態は1598年にすでに見られるが,tea 系統での初例は17世紀も半ばの1655年になってからのことである.17世紀半ばには,茶はすでにイギリスでも人気を博しつつあったことが,Samuel Pepys (1633--1703) の日記 The Diary of Samuel Pepys の記載からわかる(日記の該当箇所はこちら).
 しかし,17世紀半ばにイングランドで群を抜いて好評を博していた流行の飲み物といえば,むしろコーヒーだった.コーヒーハウスの流行によりコーヒーはその後も1世紀の間,時代を時めく社交ドリンクであり続けた.ところが,18世紀半ばには,コーヒーに代わって茶が習慣的に愛飲されるようになった.このコーヒーから茶への変わり身は何故か.これまで様々な説が提案されてきた.竹田 (176--78) は次のように諸説を提示し,評価している.

イギリスが“紅茶の国”になった理由には諸説ある.(1) 飲料水の性質(カルシウムなどを多量に含んだ硬水),(2) 紅茶に対する高い関税が引き下げられた,(3) 女王メアリー二世や妹のアン女王が紅茶を好んだ,(4) 富裕層を中心にアフタヌーン・ティーの習慣が広まった,(5) コーヒーが男性の飲み物であったのに対して,紅茶は女性に浸透して家庭の飲み物になった,などである.しかしオランダ東インド会社の台頭を前に,価格面におけるモカ・コーヒー貿易の比較優位性が失われ,イギリスは新たな利益の追求対象として中国茶貿易の独占を思い描くようになったという実利性に基づく政策転換が,その一番の理由であると考える.


 さらに竹田 (177--78) は,イギリスにおける喫茶習慣の定着について,次のように述べている.

 イギリス人が紅茶を飲む習慣を身につけたのは,一七世紀後半という説が一般的だ.イギリス国王チャールズ二世が一六六二年,ポルトガル王室から迎え入れた王女キャサリン・オブ・ブラガンザと結婚したことがきっかけで,紅茶文化が誕生したという.
 父親のチャールズ一世が処刑された後,王政復古を経て息子のチャールズ二世がイギリス国王として復活し,ヨーロッパ王室で屈指のポルトガルから王家の血を導入したのである.イギリス王妃となったキャサリンは,宮廷の生活で高価な紅茶を楽しみ,さらにポルトガルから持参金の一部として自ら持ち込んだ希少価値の砂糖を混ぜるなど,紅茶と砂糖を嗜む宮廷文化を創造し,イギリス王室に新風を吹き込む立役者となった.
 紅茶を飲む作法がこれを機会に,貴族階級において瞬く間に広がったと伝えられている.紅茶が持つ高級感は,こうした貴族文化に起因する.キャサリンというブランド名を考案し,日本国内で販売された紅茶は,キャサリン王妃の名前に由来する.


 このように喫茶のきっかけは貴族文化にあったようだが,東インド会社の貿易商たちは,これに乗じてイギリス全体を「紅茶の国」として演出する作戦に乗り出したというわけである.
 tea という語にまつわる英語史のこぼれ話は,オックスフォード大学の英語史学者 Simon Horobin による A history of English . . . in five words を参照.tea の母音部の発音と脚韻の歴史については,こちらのコラムも参照.

 ・ 竹田 いさみ 『世界史をつくった海賊』 筑摩書房,2011年.

Referrer (Inside): [2017-09-12-1]

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-05-08 Mon

#2933. 紙の歴史年表 [timeline][history][medium][writing]

 カーランスキーの著わした『紙の世界史』は,書写材料としての紙の歴史をたどりながら,結果として文字と文字文化の歴史を同時に記述している.書写材料については,「#2465. 書写材料としての紙の歴史と特性」 ([2016-01-26-1]),「#2456. 書写材料と書写道具 (1)」 ([2016-01-17-1]),「#2457. 書写材料と書写道具 (2)」 ([2016-01-18-1]) などで扱ってきたが,今回はカーランスキーの巻末より紙の歴史年表 (466--74) を掲げたい.一覧するとテクノロジーが社会を動かしてきたことがよく分かるが,カーランスキーの言葉を借りれば「社会がテクノロジーを生み出してきた」というべきなのだろう.

紀元前38000年北スペインのエル・カスティリョ洞窟に残る赤い点が人間による最古の描画とされている
紀元前3500年メソポタミアの石灰岩に最古の文字が刻まれる
紀元前3300年バビロニア南部(現イラク)のウルクで粘土板に文字が刻まれる.楔形文字の始まり
紀元前3000年年代が特定されている最古のパピルス.文字跡のない巻物がカイロ近郊サッカラの墳墓から発掘
紀元前3000年エジプトのヒエログリフ象形文字(神聖文字)の始まり
紀元前2500年インダス川流域ではじめて文字が書かれる
紀元前2400年現存する最古のエジプト語の文書
紀元前2200年インダス川流域で銅片や陶片に文字が彫られる
紀元前2100年年代が特定されている最古のタパ.断片がペルーで出土
紀元前1850年年代が特定されている最古の文献.獣皮に書かれたエジプト語の巻物
紀元前18世紀クレタで書記体系が生まれる
紀元前1400年中国で獣骨に文字が書かれる
紀元前1300年中国で青銅,翡翠,亀甲に文字が書かれる
紀元前1200年漢字が発達する
紀元前1100年エジプト人がフェニキア人にパピルスを輸出しはじめる
紀元前1000年フェニキア語のアルファベットが生まれる
紀元前600年メキシコでサポテク/ミステク文字が生まれる
紀元前600年中国とギリシアで木板に帳簿が書かれる
紀元前5世紀中国人が帛を書写に使う
紀元前400年イオニア式アルファベットがギリシアでの標準語となる
紀元前400年中国で油煙から墨が発明される
紀元前3世紀アレクサンドリアに図書館が建造される
紀元前255年中国で封印に関するはじめての記述がなされる.ただし墨を用いずに粘土に押印された
紀元前252年中国の楼蘭で発見された年代のあきらかな最古の紙
紀元前250年マヤ文字が使用される
紀元前220年中国で蒙恬が発明した駱駝の毛筆が書道に使われる
紀元前206年中国の王朝,前漢の幕開け.中国では漢代に紙が開発される
紀元前63年ギリシアの地理学者ストラボンが,黒海沿岸を統治するポントス王国のミトリダテス6世の王宮に水車設備があることへの驚きを記述
紀元前31年現存する最初のオルメカ文字
紀元前30年ローマ帝国がエジプトを征服,パピルスが地中海世界に広まる
紀元後1世紀ローマで一時的な書写に蝋板が使用される
75年楔形文字で最後の日文が書かれる
105年通説では語感の宮廷に使えた宦官の蔡倫が紙を発明したとされている
2世紀スカンディナビアでルーン文字のアルファベットが生まれる
250年--300年年代がほぼ特定されている紙がトルキスタンで出土
256年中国で最初の紙に書かれた本『譬喩経』が作られる
297年最初のマヤ暦が石に彫られる
394年エジプトのヒエログリフ象形文字で最後の日文が書かれる
5世紀日本語の独自の文字体系が開発される
450年年代が特定されている棕櫚の葉に書かれた最初の手稿.中国の北西部で葉写本の断片が発掘された
476年西ローマ帝国最後の皇帝ロムルス・アウグストゥルスの廃位により古代世界が正式に幕を閉じる
500年マヤ人がアマテに文字を書きはじめる
500年--600年マヤ人が樹皮紙を発達させる
538年朝鮮半島の百済の王が紙で作られた経典と仏像を日本へ送る
610年高句麗の僧の曇徴が製紙法を日本に伝える
630年ムハンマドがメッカを征服
673年川原寺の僧侶が仏典を写しはじめ,ほどなく日本で写経が活発になる
8世紀中国で印刷が始まる
706年アラブ人が紙をメッカに持ちこむ
711年アラブ人率いるベルベル人軍がモロッコからジブラルタル海峡を越えてスペインを侵攻
712年日本文学の最古の作品『古事記』が漢文で書かれる
720年仏教の浸透とともに日本での紙の使用が大々的に広まる
751年サマルカンドで製紙が始まる
762年--66年バグダードの建設
770年日本の称徳女帝が紙を使った初の印刷物,病気平癒を願う祈祷書の百万部の作成
794年布くずを材料とする製紙場がバグダードに設けられる
800年エジプトで紙がはじめて使われる
832年イスラム教徒がシチリアを征服
848年アラビア語で紙に書かれた完全な形の本が作られる.年代が特定された書籍では最古とされている
850年『千夜一夜物語』がはじめて書き起こされたと推定される
868年現存する最古の書籍『金剛般若経』が印刷された
889年マヤ人がすべての記録に石ではなく紙を使用しはじめる
9世紀後半バグダードが製紙業の重要拠点となる
900年エジプトで製紙が開始
969年中国で遊戯用カード(紙牌)がはじめて使われた
1041年--48年鉄の版に組まれる初の陶活字が中国で作られる.年代が特定される最古の可動活字
900年--1100年マヤ人が『ドレスデン・コデックス』を作成
1140年イスラム教徒支配下のスペインのハティバで製紙が始まる
1143年『コーラン』がラテン語に翻訳される
1164年イタリアのファブリアーノで初の製紙の記録
1308年ダンテが『神曲』の執筆を開始
1309年イングランドで紙がはじめて使用される
1332年オランダで紙がはじめて使用される
1353年ボッカチオが『デカメロン』を執筆
1387年チョーサーが『カンタベリー物語』の執筆を開始
1390年ドイツの製紙がニュルンベルクで始まる
1403年朝鮮王の太宗が銅活字を製造させる
1411年スイスで製紙が始まる
1423年ヨーロッパで木版印刷が始まったとされる
1440年--50年ヨーロッパで最初の版本(ブロック・ブック)が作られる
1456年グーテンベルクが可動活字で初の『聖書』の印刷を完成
1462年マインツが破壊され,印刷者が離散
1463年ウルリッヒ・ツェルがケルンで印刷所を興す
1464年ローマ近郊のスビアコ修道院がイタリアで最初の印刷所となる
1469年キケロの『家族への書簡集』が,ヴェネツィアで印刷された最初の書籍となる
1473年ルーカス・ブランディスがリューベックで印刷所を興す
1475年または1476年『東方見聞録』がフランス語で印刷された最初の書籍となる
1476年ウィリアム・キャクストンがイギリスで最初の印刷所を開く
1494年アルドゥス・マヌティウスがヴェネツィアにアルド印刷工房を開く
1495年ジョン・テイトがハートフォードシャーにイングランドで最初の製糸場を造る
1502年--20年アステカ人の貢ぎ物の記録に四十二ヵ所の製紙拠点が掲載されている.年間五十万枚の紙を作っていた村もある
1515年アルブレヒト・デューラーがエッチングを始める
1519年エルナン・コルテスが現ベラクルス付近に上陸し,アステカ文化の破壊を開始する
1520年マルティン・ルターの『キリスト教界の改善に関してドイツのキリスト諸貴族に宛てて』が印刷され,二年間で五万部が配布される
1528年ファン・デ・スマラガ神父が先住民の庇護者としてメキシコに到着し,本を燃やす
1539年スペイン人が先住民向けの本を作るためにメキシコ初の印刷所を開く
1549年マヤ人の図書館がスペイン人に焼かれる
1575年スペイン人がメキシコに最初の製紙場を建てる
1576年ロシア人が製紙を開始
1586年製紙許可の政令がドルトレヒトで発布される.オランダの製紙史上最古の記録
1605年セルバンテスの『ドン・キホーテ』が出版される
1609年世界初の週刊新聞がシュトラスブルクで創刊
1627年フランスのラ・ロシェルがカトリック勢力に包囲され,ユグノーの製紙業者はイングランドへ逃れる
1635年デンマークで製紙が開始
1638年英字印刷機はじめてアメリカへもたらされる
1672年オランダ式叩解機の発明によりオランダは良質な白い紙の輸入国から純輸出国に転じる
1690年ウィリアム・リッテンハウスがアメリカで最初の製紙場を設立
1690年アメリカで最初の新聞『パブリック・オカレンシズ・ボース・フォーリン・アンド・ドメスティック』がボストンで創刊
1690年アメリカ大陸の植民地で最初の紙幣がマサチューセッツで発行される
1698年トマス・セイヴェリが鉱山の排水目的で最初の蒸気機関を設計する
1702年ロンドンで日刊紙『デイリー・クーラント』が創刊
1719年ルネ・アントワーヌ・フェルショー・ド・レオミュールが木材から紙を作るスズメバチの手法を解説
1728年マサチューセッツで製紙が始まる
1744年はじめての児童向け絵本『小さなかわいいポケットブック』がイングランドで出版される
1744年ヴァージニアで製紙が始まる
1767年コネチカットで製紙が始まる
1768年アベル・ビュエルがアメリカ大陸植民地ではじめて活字を製造
1769年ニューヘイヴンのアイザック・ドゥーリトルが,イギリスのアメリカ大陸植民地ではじめて印刷機を製造
1773年ニューヨークで製紙が始まる
1774年スウェーデンの薬剤師カール・シェーレによる塩素の発見が漂白への道を開く
1785年ロンドンの独立系新聞『デイリー・ユニヴァーサル・レジスター』が創刊.三年後,『ザ・タイムズ』に紙名を変更
1790年トマス・ビュイックがイギリスでもっとも人気の挿絵画家となる
1798年ニコラ-ルイ・ロベールが連続式抄紙機の特許を申請
1798年画家J・M・W・ターナーが水彩画で実験を始める
1799年アロイス・ゼネフェルダーがリトグラフを考案
1800年スタンホープ卿が総鉄製の印刷機を発明
1801年ジョセフ-マリー・ジャカールがパンチカードによる自動織機を開発
1804年ブライアン・ドンキンが長網抄紙機の第一号を製造
1809年ジョン・ディキンソンが円網抄紙機の特許を取得
1811年フリードリヒ・ケーニヒが蒸気動力の印刷機を発明
1814年ロンドンの『ザ・タイムズ』がケーニヒの蒸気印刷機を使用
1818年ジョシュア・ギルピンがアメリカではじめて連続式抄紙機を製造
1820年この年イギリスで二千九百万部以上の新聞が売れる
1825年ジョセフ・ニセフォール・ニエプスがはじめて写真撮影する
1830年新しい漂白法により色つきのぼろ布から白い紙の製作が可能となる
1833年木材を原料とする製紙の特許がイギリスで登録される
1840年ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボットが紙に定着する写真をはじめて作成
1841年エビニーザ・ランデルズがロンドンの風刺雑誌『パンチ』を創刊
1843年アメリカのリチャード・M・ホーが蒸気動力の輪転機を発明
1863年アメリカの製紙業者が木材パルプの使用を始める
1867年イギリスの砕木機がパリ万国博覧会で展示される
1867年マサチューセッツ州のストックブリッジで合衆国初の製紙用の木材パルプが作られる
1867年タイプライターの発明
1872年アメリカ合衆国がイギリスとドイツを抜いて世界最大の紙の生産国になる
1874年東京の有恒社が機械漉き紙の製造を開始.大阪,京都,神戸の六社があとに続く
1890年合衆国の国勢調査にパンチカード式の集計機が使用される
1899年スウェーデンの探検家スヴェン・ヘディンが,古代都市,楼蘭の遺跡発掘作業中,紀元前252年の紙を発.紙の歴史を完全に塗り変える
1931年ヴァネヴァー・ブッシュがアナログ・コンピュータを開発
1945年ジョン・フォン・ノイマンが電子メモリをプログラミングするための二進数の採用を論文で発表
1947年トランジスタがベル研究所で発明される
1951年レミントン・ランドが,記憶装置と出力装置に磁気テープを登載したUNIVAC1を四十七台製造
1959年マイクロチップの特許出願


 ・ マーク・カーランスキー(著),川副 智子(訳)『紙の世界史 歴史に突き動かされた技術』 徳間書店,2016年.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-05-07 Sun

#2932. salacious [etymology][history][folk_etymology]

 salacious という語は「好色な;卑猥な;催淫性の」を意味する.語源を探ると,ラテン語 salāc, salāx (飛び跳ねるのが好きな)に遡り,さらに語根 salīre (飛び跳ねる)に行き着く.これは,salient, saltant, assail, assault 等をも生み出した語根動詞である.英語の salacious はラテン語から借用され,1647年に初出が確認されている.
 語源的には以上の通りだが,古くはむしろ salt (ラテン語 sāl) と結びつけられて理解されていたようだ.『塩の世界史』の著者カーランスキー(上巻,pp. 13--14)は,心理学者アーネスト・ジョーンズの1912年の論考を紹介しながら,次のように述べている.

 塩は,ジョーンズに言わせれば生殖に関連付けられることが多い.これは塩辛い海に生息する魚が,陸上の動物よりはるかに多くの子を持つことから来たのだろう.塩を運ぶ舟にはネズミがはびこりやすく,ネズミは交尾することなしに塩につかえるだけで出産できる,と何世紀にもわたって信じられていた.
 ジョーンズは,ローマ人は恋する人間を「サラックス」すなわち「塩漬けの状態」と呼んだと指摘する.これは「好色な (salacious)」という単語の語源だ.ピレネー山脈ではインポテンツを避けるために,新郎新婦が左のポケットに塩を入れて教会に行く習慣があった.フランスでは地方により,新郎だけが塩を持っていくところと,新婦だけが持っていくところがあった.ドイツでは新婦の靴に塩をふりかける習慣があった.


 同著の p. 14 には,『夫を塩漬けにする女たち』と題する1157年のパリの版画が掲載されている.数人の妻とおぼしき女性が男たちを塩樽に押し込んでいる絵で,ほとんどリンチである.版画には詩が添えてあり,「体の前と後ろに塩をすりこむことで,やっと男は強くなる」とある.塩サウナくらいなら喜んで,と言いたくなるが,この塩樽漬けは勘弁してもらいたい.
 ジョーンズの salacious の語源解釈は,実際にあった風俗や習慣によって支えられた一種の民間語源 (folk_etymology) ということができる.比較言語学に基づくより厳密な語源論(「学者語源」)の立場からは一蹴されるものなのかもしれないが,民間語源とは共時態に属する生きた解釈であり,その後の意味変化などの出発点となり得る力を秘めていることに思いを馳せたい(関連して「#2174. 民間語源と意味変化」 ([2015-04-10-1]) を参照).

 ・ マーク・カーランスキー(著),山本 光伸(訳) 『塩の世界史』上下巻 中央公論新社,2014年.

Referrer (Inside): [2018-06-07-1]

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-05-02 Tue

#2927. 宗教改革,印刷術,英語の地位の向上 [reformation][printing][medium][history][religion][latin]

 カーランスキー (230) は,著書『紙の世界史』の第10章「印刷と宗教改革」において,印刷術という最新テクノロジーが宗教改革を駆動したことについて,次のように述べている.

印刷機は宗教改革の申し子だといったほうがよほど真実に近いだろう.宗教改革は宣伝戦略として印刷を利用したはじめての運動だった.宗教改革があったからこそ,印刷はあの時代に,あの場所で発明されたのだ.つまるところ,ヨーロッパ人は印刷機の製造法も,金属の彫り方も,鉛の鋳造も,彫られた像にインクをつけて刷る方法も,ずいぶんまえから知っていて,その気になれば,いつでも可動活字で印刷を始められた.世情の混乱や新しい思想や変化への欲求が沸き返っているドイツで印刷が発明されたのは偶然ではない.プロテスタントの宗教改革運動には,この新しいテクノロジーの可能性を直観的に理解する力があったのだろう.プロテスタントは巧みに印刷機を使いこなした.以来,インターネットの隆盛を迎えるまで,印刷機はあらゆる運動を組織化する一種の手本としての機能を果たした.


 それ以前は,思想を広める手段といえば,口頭の説教くらいのものだった.しかし,人々の識字率が上がってくると,文字広告がより効果的な手段として台頭してくる.宗教改革に内在していた,ある思想を広めたいという強い要求と人々の識字率の向上,そして印刷術というテクノロジーの誕生が,時代的にぴたっと符合したのである.こうして,宗教改革と印刷術はいわば二人三脚で進むことになった.
 16世紀初頭のドイツで始まったこの二人三脚は,すぐにイングランドにも伝わった.ローマ・カトリック教会と断絶してイングランド国教会を設立したヘンリー8世は,イングランド国民の支持を取り付けるために,文字広告を,つまり印刷術を利用したのである.カーランスキー (258) は,これについて次のように説明している(原文の傍点は下線に替えてある).

イングランド国教会には大衆の支持が必要であり,イングランドの出来事をローマが指示することは許されるべきではないという主張なら大衆の教会を得られるかもしれない.だが,それを売って広めなければならない.王の腹心,トマス・クロムウェルはこの戦略を議会と協議する一方,ドイツのプロテスタントのように印刷業者を利用して大衆の支持を集めさせた.クロムウェルは,反教皇の大義を日常の英語で論じる一連の小論文を出版した.そうしたパンフレットもそのなかで論じられている考え方も大衆に充分に受け入れられるものだった.物事を進める際の新しい形はこんな背景で十六世紀に定着したのだ.


 クロムウェルが,印刷術を利用して小論文という形の文字広告によりヘンリー8世の大義を民衆に受け入れさせようとした点が,重要である.そして,その媒介言語が,ローマ・カトリック教会と結びついたラテン語ではなく,皆が理解できる土着語たる英語であったことが,さらに重要である.ここにおいて,宗教改革,印刷術,土着の英語の3つが結びつくことになった.宗教改革が進めば,ますます多くの英語が印刷に付されてその地位が向上するし,英語の地位が向上して印刷される機会が増えれば,それだけ宗教改革の路線も強化された.一見結びつかないような様々な現象が,16世紀のイングランド社会を大きく動かしていたのである.

 ・ マーク・カーランスキー(著),川副 智子(訳)『紙の世界史 歴史に突き動かされた技術』 徳間書店,2016年.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-04-25 Tue

#2920. Gibraltar English [world_englishes][variety][history][spanish][hebrew]

 Gibraltar は,スペインの南西岸,地中海と大西洋が出会うジブラルタル海峡 (the Strait of Gibraltar) を臨む半島である.イギリスの海外領であり,軍事基地となっている.芦ノ湖とほぼ同じ6.8平方キロメートルの面積に約3万人がほど住んでおり,その3分の1がイギリス人(主として軍事関係者),3分の2が南ヨーロッパ,北アフリカ,イギリスの混合ルーツをもつ人々である.住民の大多数が英語を母語としており,「#177. ENL, ESL, EFL の地域のリスト」 ([2009-10-21-1]) でも示したように,ENL (English as a Native Language) 地域に数えられる.ただし,英語を公用語としているものの,スペイン語も広く話され,ほとんどの人々がバイリンガルである.

Map of Gibraltar

 ジブラルタルの領土は,1713年,スペイン継承戦争の戦後処理を通じてスペインからイギリスへ割譲され,1830年に英植民地とされた.スペインはジブラルタルの領有権を主張し続けてきたが,ジブラルタル人は一般に自らをイギリス人とみなしている.
 ジブラルタル英語は,RP の発音をもつ標準イギリス英語であり,non-rhotic である.しかし,労働者の話す変種はスペイン語の影響を受けており,例えば語頭の /s/ の前に母音が挿入されて espoon (for spoon), estreet (for street) のように発音される (McArthur 440--41) .スペイン語のほか,イタリア語ジェノバ方言やヘブライ語からの影響も混じっており,その英語変種は Yanito (Llanito) と呼ばれることもある.
 目下,イギリスのEU離脱に関連してEUが発表している指針の草案について,ジブラルタルが猛反発を示しているという.草案ではイギリス離脱後のジブラルタルの地位について「スペインと英国の合意」が必要である旨が明記されており,その草案作成の背後にスペインの要望と圧力があったと考えられているからだ.
 イギリスがジブラルタルを獲得することになった1713年のユトレヒト条約は,旧大国スペインの退潮と新大国イギリスの飛躍を決定づけた.イギリスが地中海と大西洋に睨みを利かせられるようになり,世界の海を股に掛ける大英帝国への本格的展開の端緒ともなった.英語の世界的拡大におおいに貢献することになった点で,英語史上にも意義の深い年である.

 ・ McArthur, Tom, ed. The Oxford Companion to the English Language. Oxford: OUP, 1992.

Referrer (Inside): [2021-12-06-1] [2019-03-08-1]

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-04-23 Sun

#2918. 「未知のもの」を表わす x [x][grapheme][arabic][spanish][abbreviation][history]

 「#2280. <x> の話」 ([2015-07-25-1]) の最後に触れたが,x には「未知数;未知の人(もの)」という意味がある.代数でお馴染みの未知数 x は,英語としての初出は1660年だが,大陸では Descartes が Géométrie (1637) の中で,すでに用いている.一説によれば,既知数を表わす a, b, c に対して,未知数はアルファベットの後ろから x, y, z を取ったものではないかとも言われる.「未知の人(もの)」の意味では,1797年に初出している.
 別の由来説によれば,アラビア語で「何か,あるもの」を表わす šay がスペイン語に xei として受け入れられたものとされる.中世ヨーロッパでは,イスラーム学者から高度な数学が伝わったが,とりわけ影響力の大きかったのはフワーリズミー (Muhammad ibn Musa al-Khwarizmi; c. 780--c. 850) によって著わされた『代数学』 (Kitab al-Jabr wal Muqabala) である.この書名の一部から algebra (代数)という語が後に借用されているし,著者名の一部から algorism なる語も出ている.この代数学書においては未知数を導き出す方程式の解法が解説されており,アラビア語で未知数を表わした前述の šay が,本書のスペイン語訳に際して xay と表記されたものらしい.それが1文字の x に短縮されたという.
 代数においては x は未知数を表わす記号として用いられるが,x にはその他の記号としての用法もある.ローマ数字で X は「10」を表わす(「#1823. ローマ数字」 ([2014-04-24-1]) を参照).手紙の最後などで Love from Kathy XXX. と記せば,キスマークとなる.チェックボックスに記入するチェックマークとしても用いられるし,マルバツのバツをも表わす.地図上に印を付けるにも,x が用いられる.リストからある項目を除外するときに x out sth と動詞として用いられるのは,記号用法から派生したものである.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-04-21 Fri

#2916. 連載第4回「イギリス英語の autumn とアメリカ英語の fall --- 複線的思考のすすめ」 [notice][link][ame_bre][history][calendar][z][rensai][sobokunagimon]

 4月20日付で,英語史連載企画「現代英語を英語史の視点から考える」の第4回の記事「イギリス英語の autumn とアメリカ英語の fall --- 複線的思考のすすめ」が公開されました.
 今回は,拙著『英語の「なぜ?」に答える はじめての英語史』の6.1節「なぜアメリカ英語では r をそり舌で発音するのか?」および6.2節「アメリカ英語はイギリス英語よりも「新しい」のか?」で扱った英語の英米差について,具体的な単語のペア autumn vs fall を取り上げて,歴史的に深く解説しました.言語を単線的思考ではなく複線的思考で見直そう,というのが主旨です.
 英語の英米差は,英語史のなかでもとりわけ人気のある話題なので,本ブログでも ame_bre の多く取り上げてきました.今回の連載記事で取り上げた内容やツールに関わる本ブログ内記事としては,以下をご参照ください.

 ・ 「#315. イギリス英語はアメリカ英語に比べて保守的か」 ([2010-03-08-1])
 ・ 「#1343. 英語の英米差を整理(主として発音と語彙)」 ([2012-12-30-1])
 ・ 「#1730. AmE-BrE 2006 Frequency Comparer」 ([2014-01-21-1])
 ・ 「#1739. AmE-BrE Diachronic Frequency Comparer」 ([2014-01-30-1])
 ・ 「#428. The Brown family of corpora の利用上の注意」 ([2010-06-29-1])
 ・ 「#964 z の文字の発音 (1)」 ([2011-12-17-1])
 ・ 「#965. z の文字の発音 (2)」 ([2011-12-18-1])
 ・ 「#2186. 研究社Webマガジンの記事「コーパスで探る英語の英米差 ―― 基礎編 ――」」 ([2015-04-22-1])

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-04-06 Thu

#2901. Hinduism は意外と遅い19世紀の造語 [etymology][religion][history][persian]

 Hinduism (ヒンドゥー教)といえば,人口にして世界第3位の宗教である.2001年の国勢調査(井上,p. 165)によると,インド人口の80.5%がヒンドゥー教徒であり,絶対数でいえば数億人以上となるから,地域宗教といえども世界へのインパクトは大きい.実際,2010年のCIAの統計では,キリスト教徒の33.3%,イスラム教徒の21.0%に次いで,ヒンドゥー教徒13.3%は第3位である(井上,p. 11;ちなみに第4位は仏教徒の5.8%).これほどの大宗教でありながら,その呼称が意外と新しいことを最近知った.
 OEDHinduism を引くと,"The polytheistic religion of the Hindus, a development of the ancient Brahmanism with many later accretions." と定義がある.その初例を確認すると,割と最近といってよい1829年のことである.

1829 Bengalee 46 Almost a convert to their goodly habits and observances of Hindooism.


 さらに驚くのは,ヒンディー語などのインド諸語にも,ずばりヒンドゥー教を指す表現はないのだという.井上 (169) 曰く,

「ヒンドゥー教」とは,「ヒンドゥーイズム」という英語表現の訳です.実はこれにぴたりと対応するインドの語彙はありません.厳密に言えば,一つのまとまった宗教があるというより,ヴェーダ文献とその文明から発した多様な信仰や伝統を総称して「ヒンドゥーイズム」と呼んでいるのです.〔中略〕
 この「ヒンドゥー」に「ism」が付いて宗教を示す英語表現になったのは19世紀のことです.インド支配に乗り出したイギリス人がインドの宗教文化を理解しようとしたとき,これを総称する言葉がなかったため,「ヒンドゥーイズム」という表現を用いるようになり,それが次第に一般化したのでした.


 ちなみに,Hindu (ヒンドゥー)自体は,「インダス川」を指す語がペルシア語で Hindū となり,広く「インドの住人」を指し示すようになった言葉である.ペルシア語から英語へは,17世紀半ばに借用された.Hindi (ヒンディー語)も,英語での最初の使用は1801年と遅めである.
 さて,ヒンドゥー教をどの理解すべきか.上記 OED の定義にあるように,様々な歴史的発展を内包したインド土着の多神教の総体と捉えるよりほかないだろう.井上 (170) も次のように述べている.

つまり「ヒンドゥー教」とは,インドに自然に成り立って来た多様な宗教文化を総称する幅の広い言葉なのです.その内容は実に多様で,イエスやブッダのような創唱者もいませんし,大きな協会組織もなく,キリスト教やイスラムのような明確な枠組みがありません.しかし,聖典ヴェーダを重んじている点は共通しています.


 ヒンドゥー教の源である聖典ヴェーダ (Veda) とその言語については,「#1447. インド語派(印欧語族)」 ([2013-04-13-1]) を参照されたい.

 ・ 井上 順孝 『90分でわかる!ビジネスマンのための「世界の宗教」超入門』 東洋経済新報社,2013年.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-04-05 Wed

#2900. 449年,アングロサクソン人によるブリテン島侵略 [bede][oe][literature][popular_passage][history][anglo-saxon][oe_text]

 Bede の古英語訳により,英語史上記念すべき449年の記述 ("The Coming of the English") を市川・松浪編の古英語テキスト(現代英語訳付き)で読んでみよう (pp. 89--94) .アングロサクソン人は,ブリトン人に誘われた機会に乗じて,いかにしてブリテン島に居座るに至ったのか.

   Ðā wæs ymb fēower hund wintra and nigon and fēowertiġ fram ūres Drihtnes menniscnysse þæt Martiānus cāsere rīċe onfēng and vii ġēar hæfde. Sē wæs syxta ēac fēowertigum fram Augusto þām cāsere. Ðā Angelþēod and Seaxna wæs ġelaðod fram þām foresprecenan cyninge, and on Breotone cōm on þrim miċlum scipum, and on ēastdæle þyses ēalondes eardungstōwe onfēng þurh ðæs ylcan cyninges bebode, þe hī hider ġelaðode, þæt hī sceoldan for heora ēðle compian and fohtan. And hī sōna compedon wið heora ġewinnan, þe hī oft ǣr norðan onherġedon; and Seaxan þā siġe e ġeslōgan. Þā sendan hī hām ǣrendracan and hēton secgan þysses landes wæstmbǣrnysse and Brytta yrgþo. And hī sōna hider sendon māran sciphere strengran wiġena; and wæs unoferswīðendliċ weorud,þā hī tōgædere ġeþēodde wǣron. And him Bryttas sealdan and ġēafan eardungstōwe betwih him, þæt hī for sibbe and for hǣlo heora ēðles campodon and wunnon wið heora fēondum, and hī him andlyfne and āre forġēafen for heora ġewinne.
   Cōmon hī of þrim folcum ðām strangestan Germānie, þæt is of Seaxum and of Angle and of Ġēatum. Of Ġēata fruman syndon Cantware and Wihtsǣtan; þæt is se þēod þe Wiht þæt ēalond oneardað. Of Seaxum, þæt is of ðām lande þe mon hāteð Ealdseaxan, cōmon Ēastseaxan and Sūðseaxan and Westseaxan. And of Engle cōman Ēastngle and Middelengle and Myrċe and eall Norðhembra cynn; is þæt land ðe Angulus is nemned, betwyh Ġēatum and Seaxum; and is sǣd of ðǣre tīde þe hī ðanon ġewiton oð tōdæġe þæt hit wēste wuniġe. Wǣron ǣrest heora lāttēowas and heretogan twēġen ġebrōðra, Henġest and Horsa. Hī wǣron Wihtgylses suna, þæs fæder wæs Witta hāten, þæs fæder wæs Wihta hāten, þæs fæder wæs Woden nemned, of ðæs strȳnde moniġra mǣġðra cyningcynn fruman lǣdde. Ne wæs ðā ylding tō þon þæt hī hēapmǣlum cōmon māran weorod of þām þēodum þe wǣ ǣr ġemynegodon. And þæt folc ðe hider cōm ongan weaxan and myċlian tō þan swīðe þæt hī wǣron on myclum eġe þām sylfan landbīġengan ðe hī ǣr hider laðedon and cȳġdon.


   It was 449 years after our Lord's incarnation that the emperor Martianus received the kingdom, and he had (it) seven years. He was the forty-sixth from the emperor Augustus. Then the Angles and Saxons were invited by the aforesaid king (Vortigern), and came to Britain on three great ships, and received a dwelling place in the east of this island by order of the same king, who invited them hither, that they should strive and fight for their country. And they soon fought with their enemies who had oft harassed them from the north before; and the Saxons won victory then. Then they sent home messengers and bade (them) tell the fertility of this land and the Britons' cowardice. And then they sent a larger fleet of the stronger friends soon; and (it) was an invincible troop when there were united together. And the Britons gave and alloted them habitation among themselves, on the condition that they should fight for the peace and safety of their country and resist their enemies, and they (the Britons) should give them sustenance and estates in return for their strife.
   They came of the three strongest races of Germany, that is, of Saxons and of Angles and of Jutes. Of Jutes' origin are the people of Kent and the 'Wihtsætan', that is, the people who inhabit the Isle of Wight. Of the Saxons, of the land (of the people) that is called Old Saxons, came the East Saxons, the South Saxons, and the West Saxons. And of Angles came the East Angles and the Middle Angles and Mercians and the whole race of Northumbria; it is the land that is called Angulus, between the Jutes and the Saxons; and it is said from the time when they departed thence till today that it remains waste. At first their leaders and commanders were two brothers, Hengest and Horsa. They were the sons of Wihtgyls, whose father was called Witta, whose father was named Wihta, whose father was named Woden, of whose stock the royal families of many tribes took their origin. There was no delay until they came in crowds, larger hosts from the tribes that we had mentioned before. And the people who came hither began to increase and multiply so much that they were a great terror to the inhabitants themselves who had invited and invoked them hither.


・ 市河 三喜,松浪 有 『古英語・中英語初歩』 研究社,1986年.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-03-30 Thu

#2894. 793年,ヴァイキングによるリンディスファーン島襲撃 [anglo-saxon_chronicle][popular_passage][oe][history][literature][oe_text]

 Anglo-Saxon Chronicle は,アルフレッド大王の命により890年頃に編纂が開始された年代記である.古英語で書かれており,9写本が現存している.最も長く続いたものは通称 Peterborough Chronicle と呼ばれもので,1154年までの記録が残っている.以下の抜粋は,Worcester Chronicle と呼ばれるバージョンの793年の記録である(Crystal 19 より現代英語訳も合わせて引用).数年前からイングランドに出没し始めたヴァイキングが,この年に,ノーサンブリアのリンディスファーン島を襲った.イングランド人の怯える様が,印象的に記されている.最後に言及されている Sicga なる人物は,788年にノーサンブリア王 Ǣlfwald を殺した悪名高い貴族である.

Ann. dccxciii. Her ƿæron reðe forebecna cumene ofer noðhymbra land . 7 þæt folc earmlic breȝdon þæt ƿæron ormete þodenas 7 liȜrescas . 7 fyrenne dracan ƿæron ȝeseƿene on þam lifte fleoȝende. þam tacnum sona fyliȝde mycel hunȝer . 7 litel æfter þam þæs ilcan ȝeares . on . vi. id. ianr . earmlice hæþenra manna herȝunc adileȝode ȝodes cyrican in lindisfarna ee . þurh hreaflac 7 mansliht . 7 Sicȝa forðferde . on . viii . kl. martius.


Year 793. Here were dreadful forewarnings come over the land of Northumbria, and woefully terrified the people: these were amazing sheets of lightning and whirlwinds, and fiery dragons were seen flying in the sky. A great famine soon followed these signs, and shortly after in the same year, on the sixth day before the ides of January, the woeful inroads of heathen men destroyed god's church in Lindisfarne island by fierce robbery and slaughter. And Sicga died on the eighth day before the calends of March.


 歴史上,この793年の事件は,イングランドにおける本格的なヴァイキングの侵攻の開始を告げる画期的な出来事である.

 ・ Crystal, David. Evolving English: One Language, Many Voices. London: The British Library, 2010.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-03-25 Sat

#2889. ヴァイキングの移動の原動力 [old_norse][hel_education][history][map]

 3月号の『National Geographic 日本版』「バイキング 大会の覇者の素顔」と題する特集を組んでいる.特製付録として,ヴァイキング (Vikings) の足跡と行動範囲を示した地図が付いていた.説明書きには,「古くは8世紀末にブリテン諸島を荒らし回った記録が残るバイキング.11世紀までには,北半球の広い範囲で襲撃や交易,探検を行うようになった」とある.  *  *
 対応サイトからはフォトギャラリーも閲覧可能で,現在もシェトランド諸島やポーランドで行なわれているヴァイキングの歴史にちなんだ祭りの様子や,ヴァイキングの武具や装身具などの遺物,オスロの文化史博物館に所蔵の有名な Viking ship,そしてスウェーデン南部の墳墓のルーン文字石碑などを見ることができる.英語史で古ノルド語の影響などを紹介する際ののビジュアル資料として重宝しそうである.
 ヴァイキングの移動の原動力は何だったのか,という歴史上の問いには様々な回答がありうる.「#2854. 紀元前3000年以降の寒冷化と民族移動」 ([2017-02-18-1]) で少し触れたように,気候変動との関係も,ヴァイキングの大移動の1要因と考えられるかもしれない.「バイキング 大会の覇者の素顔」の記事で挙げられている要因としては,以下のようなものがある (46--47) .

 ・ 536年の彗星か隕石の落下と,その結果としての日照不足に起因する飢饉(スカンディナヴィアは農耕の北限であることに注意)
 ・ 放棄された土地を巡っての,勇猛さや攻撃性に特徴づけられた軍事的社会の形成
 ・ 7世紀の帆走技術や造船技術の発展
 ・ 独身の若い戦士が大勢いたとおぼしき状況

 なお,6世紀半ばの大災害の結果として,陰鬱たる北欧神話「ラグナロク」が生まれたとされる.それは,「世界の創造が終わり,最終戦争が起きて,すべての神々,人間,生き物が死に絶える」死の季節で始まる神話である.このような暗さのなかで育まれた精神が,8世紀半ばに外へ向かって爆発した,と考えることができるのではないか.
 ヴァイキングのブリテン島への侵攻については,「#1611. 入り江から内海,そして大海原へ」 ([2013-09-24-1]) の記事も要参照.

Referrer (Inside): [2020-03-17-1]

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-03-23 Thu

#2887. 連載第3回「なぜ英語は母音を表記するのが苦手なのか?」 [notice][link][vowel][diphthong][consonant][alphabet][writing][grapheme][history][spelling_pronunciation_gap][grammatology][rensai][sobokunagimon]

 3月21日付で,英語史連載企画「現代英語を英語史の視点から考える」の第3回の記事「なぜ英語は母音を表記するのが苦手なのか?」が公開されました.今回は,拙著『英語の「なぜ?」に答える はじめての英語史』の第2章「発音と綴字に関する素朴な疑問」で取り上げた話題と関連して,特に「母音の表記の仕方」に注目し,掘り下げて考えています.現代英語の母音(音声)と母音字(綴字)の関係が複雑であることに関して,音韻論や文字史の観点から論じています.この問題の背景には,実に3千年を優に超える歴史物語があるという驚愕の事実を味わってもらえればと思います.
 以下に,第3回の記事と関連する本ブログ内の話題へのリンクを張っておきます.合わせてご参照ください.

 ・ 「#503. 現代英語の綴字は規則的か不規則的か」 ([2010-09-12-1])
 ・ 「#1024. 現代英語の綴字の不規則性あれこれ」 ([2012-02-15-1])
 ・ 「#2405. 綴字と発音の乖離 --- 英語綴字の不規則性の種類と歴史的要因の整理」 ([2015-11-27-1])
 ・ 「#1021. 英語と日本語の音素の種類と数」 ([2012-02-12-1])
 ・ 「#2515. 母音音素と母音文字素の対応表」 ([2016-03-16-1])
 ・ 「#1826. ローマ字は母音の長短を直接示すことができない」 ([2014-04-27-1])
 ・ 「#2092. アルファベットは母音を直接表わすのが苦手」 ([2015-01-18-1])
 ・ 「#1837. ローマ字とギリシア文字の字形の差異」 ([2014-05-08-1])
 ・ 「#423. アルファベットの歴史」 ([2010-06-24-1])
 ・ 「#1849. アルファベットの系統図」 ([2014-05-20-1])

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-02-15 Wed

#2851. almond [recipe][history][pronunciation]

 「#2849. macadamia nut」 ([2017-02-13-1]),「#2850. walnut」 ([2017-02-14-1]) に引き続き,もう1つの人気あるナッツである almond (アーモンド)について.almond の語源はギリシア語にまで遡ることができるが,それ以前については不詳である.英語へは1300年頃にフランス語経由で入った.MEDalma(u)nde (n.) に挙げられているように,alma(u)ndealmo(u)nde などの綴字で現われている.
 MED の例文を眺めていると分かるように,使用例は料理のレシピに多い.実際,アーモンドは中世とルネサンス期を通じて,レシピに最もよく現われたナッツの1つである.レシピでは特にアーモンドミルクやアーモンドバターとしての使用が目立ち,1399年頃の料理本とされる The Form of Cury には,多くの例が確認される.MED でも引用されている4例を挙げると,

 ・ (a1399) Form Cury (Add 5016) 32: Make gode thik Almaund mylke as tofore.
 ・ (a1399) Form Cury (Add 5016) 44: Creme of Almandes: Take Almandes blanched, grynde hem and drawe hem up thykke..boile hem..spryng hem with Vynegar, cast hem abrode uppon a cloth and cast uppon hem sugar.
 ・ (a1399) Form Cury (Add 5016) 45: Grewel of Almandes: Take Almandes blanched, bray hem with oot meel, and draw hem up with water.
 ・ (a1399) Form Cury (Add 5016) 56: Take the secunde mylk of Almandes.


 この料理本は,政治的にはぱっとしないが,その宮廷と厨房の壮麗さではよく知られている Richard II のお抱え料理人が編纂したもので,後に Elizabeth I にも献呈されたというから,一流のレシピである.40もの異なる版が現存しており,1780年に出版された版がオンラインの The Form of Cury で閲覧できるので,参照してみた.例えば,その p. 44 には,上の MED からの引用の2つめにも挙げた "Creme of Almānd" と題するレシピが掲載されている.

Take Almānd blan~ched, grynde hem and drawe hem up thykke, set hem oūe the fyre & boile hem. set hem adoū and spryng hem with Vyneg~, cast hem abrode uppon a cloth and cast uppon hem sug. whan it is colde gadre it togydre and leshe it in dyssh.


 一度,味わってみたい気がする.
 「#1967. 料理に関するフランス借用語」 ([2014-09-15-1]) の記事で引用した15世紀のレシピにも,almondes が現われている.アーモンドは,14世紀半ばの黒死病の猛威と関連して,外来の香辛料とナッツの需要が拡大したなかで,とりわけ愛された食材だったのである.
 なお,LPD によると,almond の現在の発音は,イギリス英語では原則として /ˈɑːmənd/ と <l> を発音しないが,アメリカ英語では75%の割合で <l> を発音し,/ˈɑːlmənd/ となるという.この発音については,「#2099. faultl」 ([2015-01-25-1]) も参照.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-01-22 Sun

#2827. PC の歴史 [political_correctness][sociolinguistics][politeness][history]

 歴史的な視点を交えた Hughes による Political Correctness の研究書を読んだ.一口に political_correctness といっても,はてしなく広い領域を覆う社会言語学上の問題であることが理解できた.現代的な意味での PC の歴史はまだ数十年しかないが,その淵源はおそらくずっと古い時代にまで遡ることができそうだ.というのは,PC は別の社会言語学的な問題である taboo, euphemism, politeness とも関係が深く,これらはいつの時代でも,どこの文化にもあったと考えられるからだ.
 しかし,20世紀半ばから始まった現代的な PC も,それほど長くない歴史のなかで,その在り方を少なからず変えてきた.Hughes (3--4) は,著書のイントロで,PC を巡る過去数十年間の変遷と PC の効果について,次のように要約している.

Linguistically it started as a basically idealistic, decent-minded, but slightly Puritanical intervention to sanitize the language by suppressing some of its uglier prejudicial features, thereby undoing some past injustices or "leveling of the playing fields" with the hope of improving social relations. It is now increasingly evident in two opposing ways. The first is the expanding currency of various key words . . . , some of a programmatic nature, such as diversity, organic, and multiculturalism. Contrariwise, it has also manifested itself in speech codes which suppress prejudicial language, disguising or avoiding certain old and new taboo topics. Most recently it has appeared in behavioral prohibitions concerning the environment and violations of animal rights. As a result of these transitions it has become a misnomer, being concerned with neither politics nor correctness as those terms are generally understood. / Political correctness inculcates a sense of obligation or conformity in areas which should be (or are) matters of choice. Nevertheless, it has had a major influence on what is regarded as "acceptable" or "appropriate" in language, ideas, behavioral norms, and values. But "doing the right thing" is, of course, an oversimplification. There is an antithesis at the core of political correctness, since it is liberal in its aims but often illiberal in its practices: hence it generates contradictions like positive discrimination and liberal orthodoxy.


 PC はもともとは純粋な差別撤廃の理想主義から出発した運動だった.Hughes は,その結果として,(1) diversity その他の価値を著わすキーワードが世の中に広まったこと,(2) タブーとそれに代わる婉曲表現が様々な領域に拡大していったこと,を挙げている.後者に関しては,あまりに領域が拡大しすぎて,もはや当初の意味での「政治」にも「公正さ」にも直接関係しないものまでもが,PC という包括的な用語のもとに含められるようになってしまったほどである.
 引用の後半の指摘も意味深長である.本来の出発点だった純粋な差別撤廃の思想が,PC 変遷の過程で歪められて,"positive discrimination" (or "affirmative action") や "liberal orthodoxy" に到達してしまったという矛盾のことだ.理想としての自由が,現実としての束縛に至ってしまったことになる.
 これは確かに皮肉であり,PC がしばしば皮肉られる理由もここにあるのだろうと思うが,そのように冷笑的な評価を加えるだけでは不十分だろう.おそらく PC という運動そのものが,自由と束縛の両側面を最初から内包しているのである.数十年間の PC を巡る議論や行動を通じて,この事実が顕著に浮き彫りになってきた,と解釈したい.
 いずれにせよ,PC は20世紀後半から21世紀初頭に至るまで展開してきた,社会言語学上の一大ムーブメントである.

 ・ Hughes, Geoffrey. Political Correctness: A History of Semantics and Culture. Malden, ML: Wiley Blackwell, 2010.

Referrer (Inside): [2017-01-28-1] [2017-01-27-1]

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2017-01-07 Sat

#2812. バラ戦争の英語史上の意義 [history][standardisation][lme][monarch][sociolinguistics]

 イングランド史において中世の終焉を告げる1大事件といえば,バラ戦争 (the Wars of the Roses; 1455--85) だろう(この名付けは,後世の Sir Walter Scott (1829) のもの).国内の貴族が,赤バラの紋章をもつ Lancaster 家と白バラの York 家の2派に分かれて,王位継承を争った内乱である.30年にわたる戦いで両派閥ともに力尽き,結局は漁父の利を得るがごとく Lancaster 家の Henry Tudor が Henry VII として王位に就くことになった.この戦いでは貴族が軒並み没落したため,王権は強化されることになり,さらに商人階級が社会的に台頭する契機ともなった.
 バラ戦争は,イングランドが中世の封建制から脱皮して近代へと歩みを進めていく過渡期として,政治・経済・社会史上の意義を付されているが,英語史の観点からはどのように評価できるだろうか.Gramley (98--99) は次のように評価している.

. . . the series of wars that go under this name [= The Wars of the Roses] sped up the weakening of feudal power and strengthened the merchant classes since the wars further thinned the ranks of the feudal nobility and facilitated in this way the easier rise of ambitious and able people from the middle ranks of society. When the conflict was settled under Henry VII, a Lancastrian and a Tudor, power was essentially centralized. From the point of view of the language, this meant that the standard which had begun to emerge in the early fourteenth century would continue with a firm base in the usage which had been crystallizing in the London area at least since Henry IV (reign 1399--1413), the first king since the OE period who was a native speaker of English.


 この評によると,14世紀の前半に始まっていた英語の標準化 (standardisation) が,バラ戦争の結果として王権が強化され,中産階級が台頭したことにより,15世紀後半以降もロンドンを基盤としていっそう推し進められることになった,という.もとより英語の標準化は非常にゆっくりとしたプロセスであり,引用にあるとおりその開始は "the early fourteenth century" のロンドンにあったと考えることができる(「#1275. 標準英語の発生と社会・経済」 ([2012-10-23-1]) を参照).その後,バラ戦争までの1世紀半の間にも標準化は進んでいたが,あくまで緩慢な過程だった.そのように標準化が穏やかに進んでいたところに,バラ戦争という社会的な大騒動が起こり,標準化を利とみる王権と中産階級が大きな影響力をもつに及んで,その動きが促進された,ということだろう.
 その他の歴史的大事件の英語史上の意義については,以下の記事を参照.

 ・ 「#119. 英語を世界語にしたのはクマネズミか!?」 ([2009-08-24-1])
 ・ 「#208. 産業革命・農業革命と英語史」 ([2009-11-21-1])
 ・ 「#254. スペイン無敵艦隊の敗北と英語史」 ([2010-01-06-1])
 ・ 「#255. 米西戦争と英語史」 ([2010-01-07-1])

 ・ Gramley, Stephan. The History of English: An Introduction. Abingdon: Routledge, 2012.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2016-12-06 Tue

#2780. 海戦の歴史と近現代英語史 [history][timeline]

 古来,海戦は大きく歴史を動かしてきた.というのは,海戦はその時々の技術の粋を結集したものであり,文明どうしの衝突でもあるからだ.第二次世界大戦以後,空軍が戦いの主役となる以前は,強い海軍を保有し,交易路たる海を支配できることが,権力と富を手に入れるための条件だった.『海のひみつ』 (89) より,世界史に名の残る海戦をいくつか年表形式で示そう.

紀元前480年サラミスの海戦380せきのギリシャ艦隊が1200せきのペルシャ艦隊と戦って勝ちました.
紀元前31年アクティウムの海戦合わせて550せき以上のエジプトとローマの艦船がイオニア海で戦いました.ローマが勝利し,その結果帝政ローマが生まれました.
1279年崖山の戦いフビライ・ハンひきいる元が1000せき以上の南宋の艦船をはかいし,東アジアの南宋支配を終わらせました.
1571年レパントの海戦カトリック教国の同盟軍が,オスマン帝国の大艦隊を打ちやぶりました.
1588年アルマダの海戦130せきからなるスペイン艦隊が,イングランド艦隊との戦いで損害をこうむって北に逃げ,そこで強風によりかいめつじょうたいとなりました.
1776年ロングアイランドの戦いアメリカ独立戦争で最初の大規模な海戦は,経験不足のアメリカ軍がイギリス軍に敗北しました.
1805年トラファルガーの海戦ホレーショ・ネルソン提督にひきいられたイギリス艦隊が,ナポレオン戦争中にスペインのトラファルガー岬の沖でフランスとスペインの連合艦隊をやぶりました.
1916年ユトランド沖海戦第一次世界大戦中に,イギリス海軍とドイツ海軍がデンマーク沖で戦ったユトランド沖海戦は,艦船の大きさと数とで史上最大の海戦でした.
1942年ミッドウェー海戦第二次世界大戦の太平洋の戦いで最も重要とされる海戦で,アメリカと日本の海軍が戦いました.
1944年レイテ沖海戦第二次世界大戦における最後の大規模な海戦で,フィリピン沖でアメリカ軍と日本軍が戦いました.しずんだ艦船の数は史上最多です.
1950年仁川上陸作戦朝鮮戦争での海戦で,この戦いにおいて国連軍が勝利したことにより,大韓民国は首都ソウルをふたたび取りもどすことができました.


 1588年のアルマダの海戦以降,世界史的な意義をもつ重要な海戦のほとんどに,イギリスやアメリカが関わっていることがわかる.このことは,技術,文明,権力,富が,近代以降,英米両国に集結してきたこと,言語史としてみれば英語の重要性が高まってきたことと無縁ではない.世界のたどってきた社会的な歴史と言語の歴史は,水も漏らさぬほどの密接な関係とはいえないにせよ,少なくとも疎からざる関係にあったことは論を俟たない.
 とりわけ英語史に関わる海戦の話題としては,「#254. スペイン無敵艦隊の敗北と英語史」 ([2010-01-06-1]) と「#255. 米西戦争と英語史」 ([2010-01-07-1]) を参照.

 ・ スティーブ・パーカー(著),白山 義久(日本語版監修) 『海のひみつ』 小学館の図鑑 たんけん! NEO,小学館,2013年.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2016-12-02 Fri

#2776. マリー・アントワネットの用いた暗号 (2) [cryptology][history]

 昨日の記事 ([2016-12-01-1]) に引き続き,マリー・アントワネットと情夫フェルセンの間に交わされた暗号通信について.用いられた暗号システムは,多表換字式暗号の一種であり,大文字と小文字の一覧表および鍵から成るものだった.『暗号解読事典』 (p. 177--78) によれば,例えば,次のような一覧表が2人の間で共有されていたと考えられる.

. . .
M     kn or sv wz ad eh il mp qt ux yb cf gj
N     ab cd ef gh ij kl mn op qr st uv wx yz
O     pr su vx ya bd eg hj km np qs tu wy zb
. . .

 もし鍵が "M" だとすると,例えば "ami" という単語は,それぞれのペアの相方の文字を取って "dpl" と暗号化される.もし鍵が "N" だとすると,同じ単語は "bnj" となる,等々.この鍵の共有の仕方は様々だったが,ある出版された書物を鍵とする方法も取られていたようだ.
 多表換字式が,それ以前の単一字換字式より優れているのは,同じ文字の反復の頻度が格段に減るために,文字の出現頻度に基づく統計的分析による暗号解読の試みをくじくことができる点にある.鍵さえしっかり秘匿されていれば,解読者にとって解読不可能とはいわずとも,相当な時間を費やさせることにはなるだろう.種明かしをされれば,何だそんなものかと反応したくなる程度の代物だが,この種の多表換字式暗号とその諸変種は,15世後半から20世紀に至るまで,暗号のスタンダードであり続けたのである.

 ・ フレッド・B・リクソン(著),松田 和也(訳) 『暗号解読事典』 創元社,2013年.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2016-12-01 Thu

#2775. マリー・アントワネットの用いた暗号 (1) [cryptology][history]

 先日,六本木ヒルズの森アーツセンターギャラリーで開催中のヴェルサイユ宮殿《監修》マリー・アントワネット展に行ってきた.革命のヒロインとしての人気はすさまじく,美術館も大入りだった.特に目を引いたのは,マリー・アントワネットが家族とともに革命派に捕らわれていたときに,逃亡をもくろんでスウェーデン人の伯爵で情夫たるアクセル・フェルセンと交わした暗号通信のための暗号表の展示である.混雑していて,ショーケースに収められたその文書をゆっくりと眺めることはできなかったが,多表換字式暗号のようだった.近代に入ってから開発されたヴィジュネル暗号の変種といえる.1790年頃のものだという.
 帰宅してから『暗号解読事典』 (pp. 23--25) で少し調べてみた.マリーは,母マリア・テレジアが暗号通信に執心していたことから,もともと暗合に馴染みがあったものと思われる.マリーは,とらわれの身となってからも,暗号通信を用いて,フェルセンを仲立ちとして王党派との接触を図り,打開策を講じようとしていた.フェルセンの暗号システムは多表換字式暗号であり,比較的単純なものではあったが,統制の取れない混乱の革命派をだますには,十分に機能した.
 この暗号の効果もあって,逃亡の計画は秘密裏に実行に移された.王族が召使いに化け,フェルセンが馭者役となり,馬車でフランス東部への脱出を図ったのである.ところが,目的が達せられる寸前に,ヴァレンヌの村で正体が露見し,パリに送還された.
 その後も,マリーはより強力な暗号通信により神聖ローマ皇帝レオポルド2世や諸国の王室に働きかけ,革命派の裏をかく共謀を企てた.しかし,すでにマリーの暗号は敵の手により解読されており,共謀は見破られていた.その後,ルイ16世とマリーが有罪判決を申し渡され,断頭台のつゆと消えたことは,周知の事実である.ちなみに,フェルセンはパリから脱出したものの,後にスウェーデン皇太子の毒殺の偽りの嫌疑をかけられ,1810年にストックホルムで民衆に殺されている.
 フランス革命の背後にも,このように,暗号が活躍(暗躍?)していたのである.暗号が歴史に果たした役割は大きいと言えよう.
 マリー・アントワネット展のサイトより,フェルセン伯爵との恋 新たな証拠では,1792年1月4日付のマリーからフェルセンへの手紙の画像が公開されている.黒塗りで隠されていた部分の文字が今年1月に解読され,2人の関係の深さが明らかになったというニュースである.  *

 ・ フレッド・B・リクソン(著),松田 和也(訳) 『暗号解読事典』 創元社,2013年.

Referrer (Inside): [2016-12-02-1]

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2016-11-26 Sat

#2770. 『金・銀・銅の日本史』と英語史 [periodisation][history]

 村上隆(著)『金・銀・銅の日本史』を読んだ.ある特定の切り口による○○史というものは,一般の政治史とは異なる発想が得られることが多く,英語史や言語史を再考する上で参考になる.日本における金属の歴史は,村上 (v--vi) によれば,端的に次のように要約される.

日本において,本格的に金属が登場するのは,弥生時代までさかのぼる.日本では,長く見積もっても金属はたかだが二五〇〇年程度の歴史しか持たない.しかも,自らの文化的な発達過程で自然発生的に生み出されたものではないから,その変遷は他国とは異なり個性的である.〔中略〕当初は中国大陸や朝鮮半島から渡ってきた人たちの世話になりながら,技術の移転と定着を実現し,長い年月をかけて独り立ちに至る.そして,やがて近世を迎える頃には,汎世界的に見ても,人類が獲得した技術の最高峰にまで登り詰めるとともに,一時期には世界有数の金属産出国となり,さらには輸出国にもなるのである.


 その上で,村上 (vii) は「金・銀・銅」を中心とした金属の日本史を7つの時代に区分している(以下では,原文の漢数字はアラビア数字に変えてある).

草創期  弥生時代?仏教伝来(538)
定着期  仏教伝来(538)?東大寺大仏開眼供養(752)
模索期  東大寺大仏開眼供養(752)?石見銀山の開発(1526)
発展期  石見銀山の開発(1526)?小判座(金座の前身)の設置(1595)
熟成期  小判座(金座の前身)の設置(1595)?元文の貨幣改鋳(1736)
爛熟期  元文の貨幣改鋳(1736)?ペリーの来航(1853)
再生期  ペリーの来航(1853)?


 この時代区分が非常におもしろい.「模索期」が約800年間続くのが,一見すると不均衡に長すぎるようにも思われるものの,金属という切り口から見れば,これはこれで理に適っているようだ.村上 (114) によれば,

そして,いよいよ約八〇〇年にわたる長い模索期の静けさを破るときが到来する.歴史とは不思議なものである.いくつかの出来事が,一斉に動き出すような瞬間がある.一六世紀の初めの頃も,ちょうどそんなときだったのだろう.「金・銀・銅」をめぐるダイナミズムの口火が切られるのである.一端,動き出すと急激に複合作用が生じて一〇〇年にも満たない間に,日本は当時の世界の中で,屈指の鉱山国にまで急成長した.長い模索期に十分な活性化エネルギーが蓄積されたから,一瞬で急激な反応が生じたのである.


 英語史では,11--12世紀という比較的短い期間に,文法体系を揺るがす大変化が生じている.ここでも,それ以前の「長い模索期に十分な活性化エネルギーが蓄積されたから,一瞬で急激な反応が生じた」と考えることができるかもしれない.「ダイナミズムの口火が切られ」,屈折語尾の水平化,格の衰退,文法性の消失,語順の台頭,前置詞の反映などの「いくつかの出来事が,一斉に動き出」したと見ることができそうだ.
 金属に焦点を当てた日本の歴史と英語の歴史との間の共通点は,それぞれ「金属」や「英語」という対象の歴史を扱っているように見えるものの,実際には人間社会が「金属」や「英語」をどのように用いてきたかという歴史であり,あくまで主体は人間であることだ.つまり,○○史の時代区分は,○○それ自体の有り様の通時的変化に対応しているわけではなく,人々が○○をどのように使いこなしてきたかという通時的変化に対応している.一方,両者の異なるのは,金属は本来「自然」のものであり,その自然史も記述可能だが,言語は金属のような意味において「自然」ではないことだ.しかし,言語もある意味では「自然」と言えなくもない,という議論も可能ではあろう.これについては,「#10. 言語は人工か自然か?」 ([2009-05-09-1]) の "phenomena of the third kind"(第三の現象)を参照.

 ・ 村上 隆 『金・銀・銅の日本史』 岩波書店〈岩波新書〉,2007年.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

2016-11-25 Fri

#2769. Dreadnought [etymology][history]

 日本語で「超弩級の台風」などというときの「弩」とは,1906年にイギリス海軍が完成した巨砲を備えた新型戦艦につけた名前 Dreadnought の頭文字をとり,それに「おおゆみ,いしゆみ,力強い弓」を意味する漢字を当てたものである.Dreadnought は文字通り dread + nought (= nothing) で「こわいもの知らず」の戦艦である.イギリスは,当時の主要海軍国に対して圧倒的な差をつけるべく,既出艦よりも並外れて大きな戦艦 Dreadnought を作り出した.建造に関わる情報は隠されていたため,他の列強は Dreadnought の出現に慌てたが,すぐに追随し,各種の「弩級戦艦」が現われた.American Heritage Dictionary の定義によると,"a battleship armed with six or more guns having calibers of 12 inches or more" である.
 しかし,dreadnought という単語の初出は実は20世紀初頭ではない.すでにエリザベス朝の1573年にやはり戦艦の名前として使われているのである.OED によると,"Acct. Treasurer Marine Causes (P.R.O.: E 351/2209) m. 8d, In newe beildinge and erectinge fower newe shipes called the Swifte sewer, the Dreadnoughte, the Achates & the handmayd." が初例となっている.
 軍事史を塗り替えた20世紀初頭の「ドレッドノート」の例は,先に述べたように1906年のことで,"Outlook 20 Oct. 495/2 The Atlantic Fleet will consist of three Dreadnoughts and five of the Canopus class." として出ている.ドレッドノートの出現がいかに世界史的なインパクトがあり画期的だったかは,早くも1908年に the pre-Dreadnought period という表現が初出していることからも分かるだろう.
 dreadnought はその他の語義でも近代英語期から用いられている.「こわいもの知らず《人》」の語義で17世紀から例が見られるし,18世紀末には「荒天用の厚手のラシャ(製外套)」の語義でも用いられている.この厚手の生地の意味としては,類義語に fearnought (or fearnaught) という語もあり,やはり18世紀後半に現われている.
 さて,軍事史上の画期をなした Dreadnought の出現の背景には,日本の開発した下瀬火薬が日露戦争の日本海海戦で大活躍したという事実が関与していたという.下瀬火薬は炸裂威力が強く,バルチック艦隊はその砲弾の前になすすべがなかった.渡部 (191--94)曰く,

 下瀬火薬の前に敗れさったロシア海軍の姿を見て,世界中の海軍関係者は大きなショックを受けた.「装甲による防御」という考えが,下瀬火薬によってまったく否定されてしまったからである.
 この日本海海戦以降,世界中の戦艦は一変した.一九〇六年にイギリス海軍が建造したドレッドノート号という戦艦が,その最初の例になった.ドレッドノート号では,それまで舷側に並べられていた副砲を全廃し,厚い鉄板の砲塔に守られた主砲のみを据えつけるようになったのである.
 従来の副砲は,いわば剥き出しの状態なので,下瀬火薬のような爆風が来ればたちまち使用不能になる.「ならば,いっそのこと副砲は全廃して,砲塔に守られて安全な主砲だけにしよう」というのが,イギリス海軍の発想であった.
 もちろん,副砲を廃止するわけだから,その分,主砲の数は増えている.それまでの戦艦では主砲は前後に一基二門ずつの計四門であったのだが,ドレッドノート号は一二インチ砲十門を備える,化物のような戦艦になった.
 これ以来,世界の海軍は“大艦巨砲時代”に突入する.
 ドレッドノートの出現は,既存の戦艦をすべて旧式艦にしてしまったから,列強は争って「ド級戦艦」あるいは「超ド級戦艦」を建造することになった(ド級とは,ドレッドノート級の略).その結果,建艦競争があまりにも過熱したため,とうとうワシントン会議(一九二一?二二)を開いて,列強の間で戦艦保有数を制限しなければならなかったほどであった.


 ドレッドノート,恐るべし (Dread it!) .

 ・ 渡部 昇一 『世界史に躍り出た日本』「日本の歴史」第5巻 明治篇,ワック,2016年.

[ 固定リンク | 印刷用ページ ]

Powered by WinChalow1.0rc4 based on chalow