昨日の記事[2010-06-23-1]で文字の種類に触れた.文字数という観点からもっとも経済的なのは音素文字体系 ( alphabet ) であり,それが発明されたことは人類の文字史にとって画期的な出来事だった.さらに,古今東西のアルファベットの各変種が North Semitic と呼ばれる原初アルファベットに遡るという点,すなわち単一起源であるという点も,その発明の偉大さを物語っているように思われる.
North Semitic と呼ばれる原初のアルファベットは,紀元前1700年頃にパレスチナやシリアで行われていた北部セム諸語 ( North Semitic languages ) の話し手によって発明されたとされる.かれらが何者だったかは分かっていないが,有力な説によるとフェニキア人 ( the Phoenicians ) だったのではないかといわれる.North Semitic のアルファベットは22個の子音字からなり,母音字は含まれていなかった.この文字を読む人は,子音字の連続のなかに文法的に適宜ふさわしい母音を挿入しながら読んでいたはずである.紀元前1000年頃,ここから発展したアルファベットの変種がギリシャに伝わり,そこで初めて母音字が加えられた.この画期的な母音字込みの新生アルファベットは,ローマ人の前身としてイタリア半島に分布して繁栄していた非印欧語族系のエトルリア人 ( the Etruscans ) によって改良を加えられ,紀元前7世紀くらいまでにエトルリア文字 ( the Etruscan alphabet ) へと発展していた.
このエトルリア文字は,英語の文字史にとって二重の意味で重要である.一つは,エトルリア文字が紀元前7世紀中にローマに継承され,ローマ字 ( the Roman alphabet or the Latin alphabet ) が派生したからである.このローマ字が,ずっと後の6世紀にキリスト教の伝道の媒介としてブリテン島に持ち込まれたのである ( see [2010-02-17-1] ) .以降,現在に至るまで英語はローマ字文化圏のなかで高度な文字文化を享受し,育んできた.
もう一つ英語史上で重要なのは,紀元前1世紀くらいに同じエトルリア文字からもう一つのアルファベット,ルーン文字 ( the runic alphabet ) が派生されたことである(ただし,起源については諸説ある).一説によるとゴート人 ( the Goths ) によって発展されたルーン文字は北西ゲルマン語派にもたらされ,後の5世紀に the Angles, Saxons, and Jutes とともにイングランドへ持ち込まれた.アングロサクソン人にとって,ローマ字が導入されるまではルーン文字が唯一の文字体系であったが,ローマ字導入後は <æ> と <ƿ> の二文字がローマ字に取り込まれたほかは衰退していった.
英語の文字史における主要な二つのアルファベット ( the runic alphabet and the Roman alphabet ) がいずれもエトルリア文字に起源をもつとすると,エトルリア人の果たした文化史的な役割の大きさが感じられよう.ルーン文字については,the Runic alphabet in Omniglot を参照.
・ Brinton, Laurel J. and Leslie K. Arnovick. The English Language: A Linguistic History. Oxford: OUP, 2006. 50--52.
(後記 2010/06/28(Mon):専門家より指摘していただいたところによると,ルーン文字の生成は紀元前1世紀でなく紀元1世紀という説が多くの論者のあいだで有力とのことです.Tineke Looijenga というオランダ人学者の説によると,ルーン文字はローマン・アルファベットの影響化で生まれたとのことです.要勉強.)
現代世界で使用されている英語の変種をどのようにとらえ,どのように分類するかについては,これまでにも種々のモデルを紹介して考えてきた ( see model_of_englishes ).
今回は,ENL と ESL についてのみだが,イギリスによってどのように植民されたか,特にどのような人口構成で植民が行われたかに注目して英語変種の行われている地域を分類する方法を紹介する.Leith によると,イギリスによる植民地化には次の三つのタイプがあるという.
In the first type, exemplified by America and Australia, substantial settlement by first-language speakers of English displaced the precolonial population. In the second, typified by Nigeria, sparser colonial settlements maintained the precolonial population in subjection and allowed a proportion of them access to learning English as a second or additional language. There is yet a third type, exemplified by the Caribbean islands of Barbados and Jamaica. Here, a precolonial population was replaced by new labour from elsewhere, principally West Africa. (181--82)
この三分類は,イギリス出身植民者と先住民との関係という観点からの分け方で,理解しやすい.タイプ1は植民者がほぼ先住民を置き換えたという意味で displacement タイプと呼ぼう.タイプ2は,植民者は先住民を置き換えたのではなく,政治的に支配化におき,政治や教育などの制度 ( establishment ) を通じて英語を普及させたというタイプで,establishment タイプとでも呼べそうである.タイプ3は,植民者が西アフリカなどよその地域から労働力として奴隷を供給し,その奴隷たちが英語変種 ( pidgin や creole ) を習得して先住民とその言語を置き換えていったというタイプで,replacement タイプと呼べるかもしれない.
[2009-10-21-1]の (1a) のようにカリブ地域の英語国を指してアメリカやオーストラリアと同列に ENL 地域とみなす場合があるが,英語が根付くことになった歴史的経緯や人種の多様性を考慮したい文脈では,同列に並べるには違和感がある.このような場合に,イギリスによる植民地の設立と運営という観点からみた上記の三分類は役に立ちそうだ.
・ Leith, Dick. "English---Colonial to Post Colonial." Chapter 5 of English: History, Diversity and Change. Ed. David Graddol, Dick Leith and Joan Swann. London and New York: Routledge, 1996. 180--221.
英語の歴史は,449年に北ドイツや南デンマークに分布していたアングル人 ( Angles ),サクソン人 ( Saxons ),ジュート人 ( Jutes ) の三民族が西ゲルマン語派の方言を携えてブリテン島に渡ってきたときに始まる ( see [2009-06-04-1] ).ケルトの王 Vortigern が,北方民族を撃退してくれることを期待して大陸の勇猛なゲルマン人を招き寄せたということが背景にある.その年を限定的に449年と言えるのは,古英語期の学者 Bede による The Ecclesiastical History of the English People という歴史書にその記述があるからである.この記述は後に The Anglo-Saxon Chronicle にも受け継がれ,ブリテン島における英語を含めた Anglo-Saxon の伝統の創始にまつわる神話として,現在に至るまで広く言及されてきた.The Anglo-Saxon Chronicle の北部系校訂本の代表である The Peterborough Chronicle の449年の記述から,有名な一節を古英語で引用しよう.現代英語訳とともに,Irvine (35) より抜き出したものである.
Ða comon þa men of þrim megðum Germanie: of Aldseaxum, of Anglum, of Iotum. Of Iotum comon Cantwara 7 Wihtwara, þet is seo megð þe nu eardaþ on Wiht, 7 þet cyn on Westsexum þe man nu git hæt Iutnacynn. Of Ealdseaxum coman Eastseaxa 7 Suðsexa 7 Westsexa. Of Angle comon, se a syððan stod westig betwix Iutum 7 Seaxum, Eastangla, Middelangla, Mearca and ealla Norþhymbra.
PDE translation: Those people came from three nations of Germany: from the Old Saxons, from the Angles, and from the Jutes. From the Jutes came the inhabitants of Kent and the Wihtwara, that is, the race which now dwells in the Isle of Wight, and that race in Wessex which is still called the race of the Jutes. From the Old Saxons came the East Saxons, the South Saxons, and the West Saxons. From the land of the Angles, which has lain waste between the Jutes and the Saxons ever since, came the East Anglians, the Middle Anglians, the Mercians, and all of the Northumbrians.
この一節に基づいて形成されてきた移住神話 ( migration myth ) は,いくつかの事実を覆い隠しているので注意が必要である.449年は移住の象徴の年として理解すべきで,実際にはそれ以前からゲルマン民族が大陸よりブリテン島に移住を開始していた形跡がある.また,449年に一度に移住が起こったわけではなく,5世紀から6世紀にかけて段階的に移住と定住が繰り返されたということもある.他には,アングル人,サクソン人,ジュート人の三民族の他にフランク人 ( Franks ) もこの移住に加わっていたとされる.同様に,現在では疑問視されてはいるが,フリジア人 ( Frisians ) の混在も議論されてきた.移住の詳細については,いまだ不明なことも多いようである ( Hoad 27 ).
上の一節にもあるとおり,主要三民族は大陸のそれぞれの故地からブリテン島のおよそ特定の地へと移住した.大雑把に言えば,ジュート人は Kent や the Isle of Wight,サクソン人はイングランド南部へ,アングル人はイングランド北部や東部へ移住・定住した(下の略地図参照).古英語の方言は英語がブリテン島に入ってから分化したのではなく,大陸時代にすでに分化していた三民族の方言に由来すると考えられる.
西ゲルマン諸民族のなかで,特に Jutes の果たした役割については[2009-05-31-1]を参照.また,上の一節については,オンラインからも古英語と現代英語訳で参照できる.
・ Irvin, Susan. "Beginnings and Transitions: Old English." The Oxford History of English. Ed. Lynda Mugglestone. Oxford: OUP, 2006. 32--60.
・ Hoad, Terry. "Preliminaries: Before English." The Oxford History of English. Ed. Lynda Mugglestone. Oxford: OUP, 2006. 7--31.
昨日の記事[2010-03-20-1]で,アイルランドのジャガイモ大飢饉 ( Great Irish [Potato] Famine ) を契機として大量のアイルランド人がアメリカへ移住し,アイルランド英語の語法をアメリカ英語へもたらしたかもしれないという話題に触れた.例えば,shall の代わりに will を頻用するという AmE の特徴は,アイルランド英語の語法に由来するのではないかという.
話しをおもしろくするためにあえて歴史の因果関係をこじつけてみると,アイルランドの主食たるジャガイモを襲って大飢饉をもたらした疫病の元凶,Phytophthora infestans という菌こそが,現代米語の I will なる表現を定着させたともいえる.この舌をかみそうな名前の菌は,皮肉なことに北米から運ばれてきたものだった.結果としてみれば,アメリカはアイルランドに菌を送り出し,代わりに大量のアイルランド移民と(おそらく)アイルランド英語語法を迎え入れたことになる.[2009-08-24-1]の「英語を世界語にしたのはクマネズミである」的な強引さではあるが,biohistory of English (?) なる観点からするとストーリーとしておもしろいのではないか.
ところで,BrE では will と shall は主語の人称によって使い分けられるのが規範文法の建前である.それを犯すと誤用のレッテルを貼られる可能性がある.[2010-02-22-1]でみた BBC による誤用ランキングでは,この使い分けは堂々の第7位である.もしこの誤用がアメリカ語法に後押しされているという部分があるのであれば,言語的影響が Irish -> American -> British と回ってきたことによりヒートアップした誤用論争ということになるのかもしれない.
以下に,アイルランド大飢饉について簡単に説明.19世紀ヨーロッパに起こった最大の飢饉.特にジャガイモ依存率の高かったアイルランドでは,1845--49年のジャガイモ疫病による大凶作により,大量の人民が被害を被った.1844年には840万人いた人口が,大飢饉直後の1851年には660万人にまで減っていた.餓死したものも多かったし,北米や英国へ移民したものも多かった.移民は飢饉の期間のみで150万人.それ以降も続いた.下図は,1841--51年の地域別の人口減少率を示す.西部の貧しいエリアが甚大な被害を被ったことがよくわかる.
19世紀半ば,アイルランド大飢饉 ( 1845--48 ) を受けてアイルランド人のアメリカへの大移住 ( The Great Irish Immigration ) が起こった.その結果,いくつかのアイルランド英語の語法がアメリカ英語に持ち込まれ,後にアメリカ語法として定着したという.松浪有編『英語史』によれば,例えば,次のような項目が挙げられている.
・ shall の用法が will にほとんど取って代わられた(早くも1855年頃にすでに確立)
・ the measles などのように定冠詞を用いる用法(アイルランド英語の基層にあるゲール語の影響か)
・ 接頭辞・接尾辞の頻繁な使用( anti-, semi-, -ster, -eer などの接辞による造語は AmE に顕著.このケースではアイルランド英語の影響はあくまで可能性とのこと.)
・ 強意語の多用
いずれも知らなかった.これらの影響が言語事実からどれだけ客観的に裏付けられるのか確認する必要があるが,しばしば指摘される英語の英米差の一端が Irish English に帰せられるとすれば,アメリカ移民史とも関連して興味深い.
・ 松浪 有 編,秋元 実治,河井 迪男,外池 滋生,松浪 有,水鳥 喜喬,村上 隆太,山内 一芳 著 『英語史』 英語学コース[1],1986年,大修館書店.159--60頁.
[2009-09-05-1]の記事などで,中英語期の英語の復権を話題にしてきた.その記事に掲げた年表では,1362年に議会の開会が英語で宣言され,1363年に法廷での使用言語が英語と記した.ところが,後者の法廷での英語使用が1363年ではなく,議会での英語使用と同じ,前年の1362年と結びつけられている記述を別で見つけ,この辺りの事情をきちんと理解していなかったので,正確なところを調べ直してみた.
結論をいえば,1362年の秋に開かれた議会で「訴答手続き法」 ( Statute of Pleading ) が制定され,施行がその翌年1月だったということである.英語の復活にかかわる英語史的意義としては,制定年をとれば象徴的,施行年をとれば実質的ということになろう.いずれにせよ,議会の開会が初めて英語で行われた年と重なることからも,1362年を英語の公的な復活を象徴する年とみなしてよいだろう.この英語の復活までに,Norman Conquest から実に296年の歳月が流れていた.
さて,London や Middlesex の州裁判所においては,英語による訴訟手続きは一足先の1356年に始まっていたが,全国的な法律としては上記の通り1362年に制定された.それ以前は,手続きはフランス語で行われていたのである.また,同法の制定・施行後も,記録自体はいまだラテン語で行われていたことも銘記すべきである.つまり,立証,弁護,答弁,論争など,口頭の訴訟手続きこそ英語に切り替わったが,それが文書化される段には英語の地位はいまだゼロだった.英語が法律の書き言葉としては認められたのは,それから126年後の1488年のことである(1489年1という記述もあり,これも制定・施行の差だろうか?).その140年後,1628年にようやく英語で書かれた最初の法典が編纂され,さらにその103年後,1731年に法律文書がラテン語ではなく英語で書かれることが義務づけられた.法律の分野での英語化の速度がいかに遅々としたものであったかが知れよう.逆にいえば,この分野でのフランス語やラテン語の影響力が,中世以来いかに大きいものであったかがわかる.
・ 寺澤 芳雄,川崎 潔 編 『英語史総合年表?英語史・英語学史・英米文学史・外面史?』 研究社,1993年.
・ 渡部 昇一 『英語の歴史』 大修館,1983年.174--75頁.
昨日の記事[2010-01-06-1]で,1588年のスペイン無敵艦隊のあっけない敗北が遠く後の英語の世界化に貢献したことに触れた.興味深いことに,スペインのあっけない敗北が英語の世界化に貢献したもう一つの例がある.1898年の米西戦争 ( the Spanish-American War ) である.
1895年,キューバがスペインからの独立を目指して反乱を起こした.スペインの横暴な抑圧に対し,アメリカはキューバを支持し,スペイン軍のキューバからの撤退を議会で決議した.1898年4月24日,スペインが宣戦布告.だが,戦いは一方的だった.スペイン領フィリピンの海戦では,準備不足のスペイン艦隊はアメリカ艦隊にあっけなく敗退.一方,キューバのほうでも,アメリカの猛攻によりスペイン艦隊は再度あっけなく敗退した.こうして,早々と7月17日には決着がついていた.
戦後処理のパリ条約で,スペインは (1) Cuba から手を引き,(2) Guam と Puerto Rico をアメリカに割譲し,(3) the Philippines の統治権を2千万ドルでアメリカに移譲した.アメリカはこうして遠く西太平洋に領土を保有することとなり,国際的な影響力を高めることとなった.
ところで,16世紀末と19世紀末の二度にわたるスペインのあっけない敗北を英語の拡大の歴史と結びつける視点を提供したのは,[2010-01-05-1]で紹介した島村氏である .
国際舞台におけるスペインの敗退が英語と英米文化の拡張と拡散に果たした役割は,皮肉なことに非常に大きい.これは歴史の偶然がもたらした結果であるが,「歴史」とは,畢竟,そうしたものではなかろうか.(37)
ひるがえって現在の米国.スペイン語を母語とする Hispanic 系の人々がスペイン語(文化)を国内外に拡張・拡散しており,一部の英語(文化)の担い手にとって脅威となっている.スペインの逆襲とでもいうべきだろうか.Spanish と English の因縁は,無敵艦隊の16世紀末以来,21世紀にまで続いている.
・ 島村 宣男 『新しい英語史?シェイクスピアからの眺め?』 関東学院大学出版会,2006年.
1588年,Philip II 率いるスペイン無敵艦隊 ( the Spanish Invincible Armada ) が Elizabeth I 率いるイングランドに敗北を喫した事件は,歴史上に名高い.この事件により,ヨーロッパにおける政治・軍事・交易の大国たるスペインの威信が揺らぐこととなり,代わってイングランドが国際情勢に影響力をもつようになった.
海戦の背景には,当時の複雑な政治情勢があった.まず Catholic Spain にとって Protestant England をカトリック国へ回帰させることは至上の課題だった.また,England が the Spanish Netherlands の独立を支持したことも Philip II を怒らせた.そのほか,England が海賊行為をもって大西洋貿易に絡んできたことも Philip II にとっては我慢ならないことであった.
Philip II は二年がかりで艦隊を作り上げ,1588年,いざ England へと出航させた.ところが,準備不足だった.スペイン艦隊は the Spanish Netherlands に戦略基地となるはずの港をしっかり確保しないままにイングランド海域に突っ込んでしまったのである.攻め損なったスペイン艦隊は逆に北海へ敗走させられ,スコットランドを回ってスペインへの帰路につかざるをえなかった(地図参照).こうして,スペイン艦隊は戦略ミスによりあっけなく敗退した.
この事件がもつ英語史上の意義は,英語を携えたイングランドが国際的な競争力を回復した点にある.百年戦争後の100年間で,かつてフランスにもっていた領土をすべて失ってしまったイングランドは,すっかり自信をなくしていた.そこへ今回の起死回生の大国スペイン打倒である.競争力と自信を取り戻したイングランドは,今後,堂々とアメリカへの進出を果たしてゆく.これが数百年後の英語の世界化への足がかりになったことはいうまでもない.
海戦の詳細については,British History in depth: The Spanish Armada が参考になる.
18世紀後半に始まった産業革命と,続いて起こった農業革命は,ヨーロッパの社会構造を大きく変質させた.これほど画期的な出来事が,英語にも影響を及ぼさずにすむはずはない.英語の語彙への影響など,言語体系への影響はもちろんあるが,今回は,特に現代標準発音の形成との関連で両革命を位置づけてみたい.
農業革命は,華々しい産業革命の陰で存在が薄いが,社会構造の変化,さらには英語の標準化に,間接的ながらも著しく貢献した.産業革命により生み出された農業機械による効率の改善,大規模な農地経営の実践により,人々は人類史上初めて農業を制する力をもつに至った.その証拠に,1840年代の大飢饉を最後に,ヨーロッパに本格的な飢饉は訪れていない.
大規模農地経営の進展により,これまでの農村社会の存立基盤であった地主と小作人の関係が崩れ,農村の階級差が解消されるとともに,多くの農民は働く土地を失った.農村に余った人々は,産業革命の落とし子である巨大化した都市へと流入し,都市労働者となった.このように,産業革命と農業革命は,農村から都市へと人々を大量に動かした.
とりわけロンドンには,国中のあらゆる地方から人々が流入した.言語的には,あまたの方言の入り交じる多様性を呈した.一方で,多様性の裏返しとして,異なる方言をもつ人々が意志疎通をはかるための標準語,特に標準発音が発達してきた.こうして発達してきた標準的な英語の発音のうち,社会的なステータスと結びつけられるようになった発音がある.後に RP ( = Received Pronunciation ) 「容認発音」と呼ばれることになる発音である.19世紀末以来 RP は学校教育や BBC でも推奨されてきており,現在に至っている.
RP は現代の英国では多分に "posh" とされるものの,英国外の英語世界ではいまだに権威ある発音とみなされている.アメリカ人も,多くが RP に一目をおいているという.アメリカ発音のプレゼンスに押されながらも,RP は現代の英語世界に一定の影響を及ぼし続けている.そして,その淵源はというと,200年ほど前に生じた産業革命と農業革命にあった.社会変革は,言語の歴史にも影響を与えずにおかない.
・Fennell, Barbara A. A History of English: A Sociolinguistic Approach. Malden, MA: Blackwell, 2001. 170--72, 185--87.
日本人にとってイギリスという国は,明治時代より親近感をもって見られてきた.
日本の皇室とイギリスの王室という類似点,明治以来の両国の交流,日英同盟の経験が,その親近感を醸成してきたといってよい.さらには,地理的な共通点,すなわち日本とイギリスはともにユーラシア大陸の両端に位置する島国という点で共通している,ということが言われる.
しかし,特に最後に挙げた共通点には注意しなければならない.ともにユーラシア大陸の両端にある島国であることは,純粋に地理的な観点からは確かにその通りなのだが,歴史的にみると,イギリスには島国らしからぬ特徴がある.
イギリスはその歴史においてブリテン島のみにとどまっていた期間は驚くほど短い.中世以来,イギリスがブリテン島の外側に領土を有していなかった経験は,16世紀のElizabeth朝の短期間に過ぎない.それ以前も以降も,イギリスは海外のどこかしらに領土をもっていたのである.つまり,内から外へ展開していた.また,イギリスはそもそも海外からの移住・征服によって形成されてきた国であることからして,外から内へも開かれていた.このように,あたかも地続きの国であるかのように内外の移動が自然だった.大陸と海で隔てられていることを感じさせない「島国」である.この点,同じ「島国」でも,日本は,外からの大規模な移住・征服を経ていないし,海外に領土をもつようになったのは近代期のみである.
なぜ同じ島国もでこのように異なるか.その大きな要因は地勢にある.以下の地勢図を比べてみれば,ブリテン島は,西部や北部に高地(黄色い部分)が広がっているが,大陸に向かう南東部は低地(緑の部分)である.海峡を越えたフランス側も低地であるから,ブリテン島がまさに大陸に向かって開かれていることがわかる.山から一気に低地に駆け下りて,海峡をひとまたぎ,といったふうである.
それと対照的に,日本は国土のほとんどが山間部である.対馬海峡をまたいで朝鮮半島側も山間部であるから,勢いをつけて一またぎというわけにはいかない.地勢からして,大陸に向かって開かれていないのである.
そんな日本ですら,文化的にも言語的にも大陸の影響を相当に受けてきた.ましてや,ブリテン島の文化や言語が大陸の影響を受けずにすまされるわけはない.英語史を考える上でも,ブリテン島の地勢の特徴を念頭においておく必要があるだろう.
昨日[2009-09-12-1]に続き,黒死病と英語復権の話題.ただ,今回はより一般的に,ある事件(例えば黒死病)が歴史上にもつ意義を論じる際の問題点を考えてみる.
本ブログでも,これまでに「○○の英語史上の意義」というような話題をいくつか扱ってきた([2009-08-24-1], [2009-07-24-1], [2009-06-26-1]).私は,歴史記述は,あらゆる事実を年代的に羅列することではなく,現代にとって意義を有する事実をピックアップしてそれを時間順にストーリーとして組み立てることだと考えている.これは英語の歴史にも当てはめられるはずである.
では,どの事実が「意義を有する」のかというと,その答えは記述者の見方ひとつで決まる類のものであり,客観的に決められるものではない.黒死病と英語復権の例をとっても,直接的な因果関係があると結論づける論者もいるかもしれないし,すでに存在していた英語復権の傾向に拍車をかけただけというとらえ方もできる.
『歴史を変えた昆虫たち』を著したクラウズリー=トンプソンや『ペスト大流行』を著した村上陽一郎氏は,ともに「拍車論」を採っている.この点は,私も同意する.村上氏は歴史記述について参考になる意見を述べているので,ここに引用したい.
その意味で,多くの史家の指摘するとおり,黒死病そのものは,時代の担っていた趨勢のなかから,次代へ繋がるものをアンダーラインした上でそれを加速させ,その時代に取り残されるものに引導を渡すという働きをしたにせよ,次代を作り出す何ものかを積極的に生み出したわけではなかった.
たしかに黒死病は,流行病としては人類の歴史上,おそらく最悪のものの一つであった.しかし,その異常事態の上に映し出されたものは,良かれ悪しかれその時代そのものであって,その時代の要素が,いささか拡大されて見えるにとどまる.逆に見れば,あれほど未曾有の異常な時間も,歴史のなかに呑み込まれてしまえば,一つのエピソードにすぎないのでもある.
そしてこのことは,ある歴史的時代や事態を見るに当たって,ともすれば,それが次代に対してもつ影響力,次代を導くことになる要素にのみ光を当てがちなわれわれにとって,噛みしめるべき良き教訓である.( 176--77 )
あとがきで触れているように,著者は歴史研究を志した当初から「私の心の片隅に巣食って離れなかったのは,その歴史に刻まれた死としての黒死病への思いであった」.そこに歴史上の意義を見いだしたからこそ『ペスト大流行』という書を著したのだろうが,その本人が「一つのエピソード」としているのは,非常な謙遜である.
黒死病と英語復権という英語史の話題を考える際にも,黒死病だけにスポットを当てて,その英語復権との因果関係を探るというよりは,英語復権という大きな時代の流れをアンダーラインする一事件として黒死病を捉えるという謙虚な態度が必要なのだろう.
・村上 陽一郎 『ペスト大流行 --- ヨーロッパ中世の崩壊 ---』 岩波書店〈岩波新書〉,1983年.
・クラウズリー=トンプソン 『歴史を変えた昆虫たち』増補新装版 小西正泰訳,思索社,1990年.
[2009-08-24-1]の記事で黒死病と英語の復権との関連について論じた.この件について,先日,村上陽一郎著の『ペスト大流行』を読んで得られた知見を付け加えておこうと思う.
[2009-08-24-1]では,下層階級と中産階級が,黒死病の試練を経ることで社会的に勢力を伸ばすこととなり,それに伴ってかれらの母語,すなわち英語も実力をつけてきたと論じた.別の見方をすれば,上流階級の言語であったフランス語や,学者・聖職者の言語であったラテン語が相対的に力を弱めてきたといってもよい.だが,もう一つ別の観点から,黒死病と英語の復権の関係が論じられてもよいかもしれない.
村上氏 (164--67) によれば,『歴史を変えた昆虫たち』の著者クラウズリー=トンプソンは,英語の重用という思想が黒死病の直接的な影響の産物だと考えているという.黒死病によって年配のフランス語教師たちがいなくなったために,フランス語やラテン語を知らない人びとが英語で発言する機会が増えたというのである.また,年配の知識人層が激減したことで,ヨーロッパの大学は打撃を受け,実際につぶれる大学も出てきた.こうした知の危機的な状況の中で,若い知識人層が知の現場に登場する機会が増え,フランス語に代えて英語を使用する傾向が強まったという.
要約すれば,古典語を尊重する長老から母語を重用する若手への世代交代がおこなわれた,ということになろう.だが,注意すべきは,英語重用の風向きは黒死病が起こる以前からすでに始まっていたということである([2009-09-05-1]).黒死病は,その流れを加速させたに過ぎない.英語復権の最初の契機を作ったわけではなく,流れを加速させる引き金となったと理解すべきだろう.
「黒死病→長老教師の死→フランス語・ラテン語の相対的な衰退→英語の復権」という流れはおもしろいと思うが,一つ疑問を抱いた.ペストは特に若い男性を襲うことが多く,老人は被害から免れるケースが多かったということがいくつかの記述から知られているが,それとの関連はどうなのだろう?
・村上 陽一郎 『ペスト大流行 --- ヨーロッパ中世の崩壊 ---』 岩波書店〈岩波新書〉,1983年.
・クラウズリー=トンプソン 『歴史を変えた昆虫たち』増補新装版 小西正泰訳,思索社,1990年.116--17頁.
世界語としての英語を主題とする本などを読んでいると,英語を民主的な言語ととらえる英語観に出くわすことがある.その考え方の根底には,民主主義礼賛,世界語としての英語礼賛という政治的な立場があるように思われるが,その是非に関する議論はおいておき,どのような根拠をもって民主的と呼ばれ得るのか,英語史の立場から考えてみたい.
まず第一に,「世界的な語彙」 ( cosmopolitan vocabulary ) という点が挙げられる.これは,Baugh and Cable などによって英語の最大の特徴の一つとして数えられている特徴である.英語はその歴史において常に他言語と接触してきており,結果として豊富な語種を獲得するに至った.近代に入ってからは大英帝国の世界的展開,アメリカ合衆国の覇権により英語はますます世界化し,語彙を増大させ続けているばかりか,多言語への語彙の提供源にもなった.語彙の借用の歴史に象徴される懐の深さや自由奔放さが,英語という言語の民主的な性格を物語っている.
第二に,英語は,中英語期の前半にフランス語のくびきのもとで下層民の言語として「冷や飯を食う」ことを余儀なくされたが,中英語期の後半には一人前の言語へと復活し,近代英語期にかけて国際語の地位を得るに至った.お上に虐げられてきた下層階級の言語が徐々に市民権を獲得してゆく過程こそが,英語の民衆主導の歴史を物語っている.(もっとも,英語は,5世紀にその話者がブリテン島の先住民を征服したところに端を発するのであり,当時は抑圧する側だったという点を忘れてはならないだろう.これを考えると,当然,民主的とは言いにくくなる.)
第三は,民主的な英語という英語観との関連ではあまり議論されてこなかった点だと思われるが,近代英語期にフランスやイタリアで設立されたような,言語を統制する公的機関としてのアカデミーがついに創設されなかったことである.「言語の乱れ」を取り締まるお上が存在しない代わりに,民衆の間で慣用を重んじる伝統が確立された.この伝統を築いたのは,政府の偉い人々ではなく,ジェントルマン的な文人・知識人 ( literati ) たちだった.彼らは,慣用を重視する自らの言語観を世に問い,人気を勝ち取ることによってそれを定着させようとしてきた.現代の英語の綴り字や文法の慣用は,かれらの不断の努力のたまものであり,アカデミーによる押しつけの成果ではない.(とはいっても,文豪 Jonathan Swift の熱心な運動で,アカデミーの役割を果たす機関が設立される一歩手前までいったことも事実である.もし設立していたら,後の英語の進む方向はどれくらい影響を受けていただろうか.)
・Baugh, Albert C. and Thomas Cable. A History of the English Language. 5th ed. London: Routledge, 2002.
ノルマン人の征服 ( Norman Conquest ) 以降,中英語の前半は,イングランドはフランス語の支配に屈していた.庶民の言語である英語はいわば地下に潜っていたが,13世紀辺りから徐々に英語の復活劇が始まる.だが,フランス語支配の時代に蓄えられた多くの遺産をすべてひっくり返すには,相当な時間とエネルギーが必要だった.例えば,法的文書の英語義務化は18世紀になってようやく施行された.英語の復権は,実に長い道のりだったわけである.
以下の年表は,英語の復権に関連する出来事に絞ってまとめた年表である.
1066年 | ノルマン人の征服 |
12--13世紀 | 英語の文学作品などが現れ始める( Layamon's Brut, The Owl and the Nightingale, Ancrene Wisse, etc. ) |
1258年 | Simon de Monfort の反乱(政府機関へのフランス人の登用に対する抗議.英語の回復も強く要求される.その結果,Henry III は布行政改革の宣言書をラテン語,フランス語だけでなく英語でも出すこととなった.) |
1272年 | Edward I がイングランド王として初めて英語を使用する |
1337年 | Edward III,フランスの王位継承権を主張し百年戦争が始まる( ? 1453年 ) |
1348--50年 | 最初のペストの流行( 1361--62, 1369, 1375年にも流行.黒死病については[2009-08-24-1]を参照.) |
1350年代 | Higden's Polychronicon で,上流貴族の子弟にとってもすでに英語が母語となっていたことが示唆される |
1356年 | 地方裁判所の記録が英語になる |
1362年 | 議会の開会が英語で宣言される |
1363年 | 法廷での使用言語が英語となる (ただし,記録はラテン語) |
1380年代 | ロンドンのギルドが記録に英語を使い始める |
1381年 | Peasants' Revolt |
1384年 | ロンドンのシティーが英語で布告を出す |
1399年 | 英語を母語とする最初の王 Henry IV 即位 |
1414年 | Henry V がイングランド王として初めて英語で手紙を書く(政府内でも英語の使用が奨励される) |
1422年 | ロンドンの醸造業者が手続きをラテン語から英語にする |
1453年 | 百年戦争の終結 |
1488年 | 英語が法的文書の書き言葉として認められる |
1539年 | Great Bible が王により初めて公認される(保守的な宗教の世界でも英語の使用が認められるようになる) |
1628年 | 英語で書かれた最初の法典が編纂される |
1731年 | 法的文書が英語でなければならなくなる |
先日,山口県岩国に出かけた.岩国市には昔から世界でも珍しいシロヘビの種が生息しているという.1738年の『岩邑年代記』という文献にシロヘビの存在が記されており,古くからの野生種らしい.「岩国のシロヘビ」として天然記念物に指定されており,地元では幸福の神として崇められているということで,観覧所にて面会してみた.
このシロヘビの正体は,日本固有のアオダイショウ ( Elaphe climacophora ) の白色変種で,いわゆるアルビノ ( albino ) である.albino 「白子,白色変種」は,ラテン語 albus 「白い」からスペイン語・ポルトガル語の albino 「白みがかった」を経て18世紀に英語に入った借用語である.ちなみに album はラテン語 albus の中性形で,「白いもの」が原義である.こちらは17世紀の借用語.
さて,本題は同じく albus から派生した Albion という語である.ブリテン島の南部海岸は白亜質の絶壁が続く.そこから Albion は古代においてブリテン島を指す名称として使われた(Google Imageよりこちらの画像を参照).紀元前4世紀あるいはそれ以前に古代ギリシャの地理学者が用いたとされ,ブリテン島の呼び名として知られているなかでもっとも古い語である.
英語での初例は古英語の Bede である.現代英語にもブリテン島の雅名として残っている.
現代の学校英文法で扱われる典型的な注意を要する事項に以下のようなものがある.
・自動詞 lie と他動詞 lay の区別をつけるべし
・which の所有格として whose を用いるべからず
・it is me ではなく it is I とすべし
・文末に前置詞を置くべからず
・二つ以上のもののあいだには between を,三つ以上のもののあいだには among を使うべし
・the oldest of the two ではなく the older of the two とすべし
・二重否定は使うべからず
・to fully understand などの「分離不定詞」は使うべからず
こうした「べき・べからず集」はどのようにして生まれたのだろうか.こうした慣例は,あるときに自然発生的に生まれ,慣例として守られてきたということなのだろうか.
いや,そうではない.これは,ほんの250年ほど前,18世紀の規範文法家 ( priscrictive grammarians ) たちが理屈をこねて作り上げたきわめて人工的な規則である.実はそれほど説得力のある理屈があるわけではなく,いってしまえば当時権威のあった文法家たちの個人的な嗜好にすぎない.それが不思議なことにその後も尊重され続け,現代の学校英文法の現場でも生きているというのが現状である.
生きているというのは生やさしい.受験生はこの「べき・べからず集」に生殺与奪の権を握られているといっても過言ではない.しかし,われわれが覚えさせられててきたこうしたがちがちの学校英文法が,実は18世紀の数名の規範文法家によって人為的に作られたことを知ってしまうと,受験生の頃のあの努力はなんだったのかと思わざるをえない.ある意味では,相当に不毛な勉強をしてきたともいえる.だが,こうした規範文法は,英語を学習する外国人のみならず,英語母語話者の英語観にもいまだ深く根付いているので,問題は単純ではない.
18世紀は秩序と規範を重んじる時代で,the Age of Reason 「理性の時代」と呼ばれた.文法規則こそが言語を支配するのだという文法先行の発想で,規範文法書が続々と出版された.特に影響の大きかったのは1762年に出版された Robert Lowth 著の A Short Introduction to English Grammar である.世紀の終わりまでに22版を重ねたというから,絶大な人気ぶりである.
規範文法ができあがった18世紀より前の英語の慣用では,上記の文法事項はいずれも普通におこなわれていたことは覚えておいてよい.これで,受験英語問題で間違えたときに「18世紀より前の英語では許されたんだけどね」と軽く受け流すことができる(かもしれない).
・ヤツェク・フィシャク 『英語史概説---第1巻外面史』 小林 正成,下内 充,中本 明子 訳.青山社,2006年.180--188頁.
日本では新型インフルエンザが早くも猛威をふるっており,今年度の後期は注意を要する学期になりそうである.
流行病は世界中でいつの時代でも脅威であったが,14世紀中葉にヨーロッパを席巻したペスト被害である黒死病 ( Black Death ) は,当時のヨーロッパ社会にとって一大事件であった.様々な推計があるが,ヨーロッパの全人口の三分の一が死んだというからすさまじい.イングランドだけでも200万人が死んだとされ,1300年と1400年の時点での人口を比べると半減しているという.それ以前の西洋史において,黒死病ほど多くの人命を奪った出来事は,戦争や他の疫病を含めてためしがない.
このペストは,1347年に中央アジア方面からコンスタンティノープルに侵入してきたのち,地中海貿易経路をたどり,翌1348年にはイタリア,フランス,イングランドの南部に到達.続く1349年,1350年とかけて,ヨーロッパの内陸部や島嶼部の奥へも広がっていった(地図参照).
わずか数年という短期間でこれだけの人口が死んだわけであるから,人々の話す言語にも相応のインパクトがあった.イングランドでは,1066年のノルマン人の征服 ( Norman Conquest ) 以来,支配者の言語としてフランス語が優位にあった.農民を含めて庶民はみな英語話者であり,人口こそ多かったものの,英語の社会的地位はまだ低かった.ところが,14世紀に入ると,1337年に英仏百年戦争 ( Hundred Years' War ) が始まり,フランス語が敵対語になったこともあり,イングランドにおける英語の復権が徐々に始まっていた.そのタイミングで,黒死病が勃発したのである.
英語史における黒死病の意義は小さくない.疫病は襲う人を選ばないとはいうものの,劣悪な生活環境にある社会の底辺の人々や,逃げ場のない閉ざされた空間たる修道院などで特に猛威をふるった.労働者が激減したことによって,労働力の需要が高まり,それに応じて労働者の社会的地位も高まった.
もともと人口過密状態だったところでは,人口が減ることで庶民の生活条件が改善されたということもあった.だが,その恩恵にあずからない不満分子の農民たちが1381年に農民一揆 ( Peasants' Revolt ) を起こし,一般庶民の地位の向上をさらに訴えた.それに応じて,彼らの言語である英語の地位も着々と向上していった.
一方,当時,都市に集まって社会集団を形成していた職人たちの社会的地位も向上し,農民でも貴族でもない実力をもった中産階級が台頭することになった.このことも,英語の地位の向上に結びついた.1356年に地方裁判所の記録が初めて英語でとられ,続いて1362年に議会の開会宣言が初めて英語でなされたことは,英語の地位の向上を如実に物語っている.
さて,そもそも黒死病を引き起こしたペストのヨーロッパ上陸は,13世紀にシルクロードを通じて東西の交流が盛んになったことと関係する.ペストを保菌していたインド産のクマネズミ ( Rattus rattus ) が,おそらくは気候変動による食物連鎖の不順が原因で,インドを出て西進し,その菌がシルクロードを運ばれたという.
以下は戯れの if に過ぎないが,もしクマネズミが西進しなければ,ヨーロッパで黒死病は起こらなかったかもしれない.もし黒死病が起こらなければ,イングランドでの英語の復権はもっと遅れていたかもしれない.もし遅れていれば,場合によっては,英語は書き言葉として定着する機会を永遠に得られず,イングランド社会はフランス語優勢のまま進んだかもしれない.そうすると,後に英語はアメリカへ渡ることもなかったろうし,現在,世界語としての地位を確立していることもないだろう.そうすると,われわれ日本人が義務教育として英語を学ぶこともなかったろうし,このブログ自体も存在していないかもしれない・・・.
英語史を動かした(かもしれない)インドのクマネズミ,恐るべし.
下の絵を見てもらいたい.何に見えるだろうか?
ひまわり? 古代エジプト遺跡? ロケット?
答えはタコクラゲ・・・ではなく,英語史を揺るがした(と考えられなくもない)ハレー彗星 ( Halley's Comet ) である.昨日の日食の記事[2009-07-23-1]に引き続き,英語史にまつわる天体の話しをしてみたい.
上のハレー彗星の絵は,西洋美術史上,西洋史上,そして英語史上,非常に名高いバイユーのタペストリー ( Bayeux tapestry ) からとったものである.
このタペストリー(つづれ織り)は,49.5cm × 70m の非常に横に長い絵巻で,11世紀の歴史を活写する70コマ漫画とでもいうべきものである.英国史と英語史にとって前代未聞の大事件であるノルマン人の征服 ( Norman Conquest ) の経緯を詳細に描いた一級の史料である.
さて,ハレー彗星の現れる問題のコマ.
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1066年4月24日にハレー彗星が現れたとされており,絵の左側の人々が右上の謎の天体を見上げてざわついている.不吉なことが起こるかもしれないと案じているのである.実際に,この約半年後,運命のヘイスティングズの戦い ( Battle of Hastings ) により,絵の右の王座についている Harold 2世がノルマンディー公 William に破れ,アングロサクソン王朝が終焉することとなった.William がイングランド王 William 1世として戴冠したのが,同年のクリスマス.これ以降数百年の間,ゲルマン系の言語である英語が,ロマンス系の言語であるフランス語の影響下に置かれることとなった.
英語がロマンス語色を強めてゆく方向が確定したのはどの時点だと考えるべきだろうか.王政史的には William が戴冠した1066年のクリスマスということになるのかもしれない.しかし,中世の人々と同様に占星術や予言に重きをおくのであれば,1066年4月24日とするのも一案かもしれない.来るべき擾乱を予告するハレー彗星が空に現れたまさにその日に英語史という物語の筋が決まった,と想像すると,「空飛ぶタコクラゲ」の存在感は意外と大きいのかもしれない.
以上,ハレー彗星に英語史上の意義を強引に見いだしてみたが,歴史は見方一つで面白くもなるし,詰まらなくもなると思う.あくまで参考までに.
ちなみに,このハレー彗星の描かれているコマは,Bayeux tapestry 中,私の一番好きなコマである.タコクラゲにしか見えない.
・ Martin K. Foys. The Bayeux Tapestry Digital Edition. Leicester: Scholarly Digital Editions 2003, 2003. CD-ROM.
・ おんどり刺しゅう研究グループによる,
バイユーのタペストリーの複製作品と解説が見られるサイト: http://www.asahi-net.or.jp/~CN2K-OOSG/tapestry.html
・ その他,Googleからbayeux tapestryで無数のオンラインコンテンツを取得可能
・ アングロサクソン時代の天文学については,一昨日公開されたこちらの記事(Podcastもあり)が興味深い: http://365daysofastronomy.org/2009/07/22/july-22nd-astronomy-in-anglo-saxon-england/
(後記 2013/03/10(Sat) Reading Museum による,Britain's Bayeux Tapestry at the Museum of Reading のページ: 詳しい解説のほか,スライド形式でタペストリーを鑑賞できる)
北海道・大雪山系のトムラウシ山での遭難事件が紙面を賑わしているが,記事の中でしきりに「ビバーク」という語が出てくる.寡聞にして初耳の単語だったが,登山用語で,予定外の露営・野宿を意味するという.英語では聞いたことがないし,何語だろうかと思ったが,すぐにドイツ語だろうと見当をつけた.ドイツ語風の音素配列 ( phonotactics ) だと直感したこともあるが,それ以上に,日本語の登山用語にはやたらとドイツ語が多いことを知っていたからである.ザイル,シュラフザック,ハーケン,ツェルトザック,ヒュッテ等々.
ところが,「ビバーク」はフランス語 bivouac から来ていると聞いた.予想外だなと思い,ここで初めて語源辞典を繰ってみると,このフランス単語自体がドイツ語スイス方言から借用されたものらしい.それで納得した.ドイツ語の対応する形態は Beiwache ( bei "by" + Wache "watch, guard" ) であり,そのスイス方言形がフランス語に取り込まれて bivouac へ変化したということのようだ.
30年戦争の頃に Zürich などで町役人の夜警を助ける市民の夜警を指して,"extra guard" ほどの意味で使われたらしいが,これが後にフランス語に入り,さらに後の18世紀初頭に英語へもそのまま bivouac として借用された(発音は /ˈbi:vuˌæk/ ).その後,「夜警」から「野営・露営」へと意味が発展し,現在の登山用語として定着した.
上記の通り,bivouac はゲルマン系たるドイツ語の一方言に起源があるわけだが,それがイタリック系のフランス語に借用され,さらにそこから英語へ借用された.この流れは,比較言語学的にはゲルマン系を標榜している英語にとって,皮肉とも言える流れである.というのは,本来のゲルマン系単語が,イタリック系言語を経由して,イタリック化した形態で英語に入ってきたということは,英語のゲルマン系言語としての性質が薄いことを示唆するからである.さらに皮肉なのは,英語には本来語の watch が歴として存在することだ.だが,いかにも借用語風の bivouac をみて watch と関連づけられる人はまずいないだろう.bivouac は「イタリック化されたゲルマン」を象徴する単語とみることができるのではないか.
もともと英語にあってもおかしくない語が,フランス語経由で英語の中に見いだされることになったという経緯は,歴史の偶然としても奥が深い.
ちなみに,watch 「夜警」に対応する動詞が wake 「目覚めている」であることは,[2009-06-16-1]の記事でも触れたので,復習しておきたい.
英語史における古ノルド語の意義は,およそ固まっているように思う.古くは Bradley 以来,無数の英語史の通史で語られてきたことである.要約すると次のようなことになるだろうか.
古ノルド語と古英語のあいだでは単語の語幹はほぼ共通だが,屈折語尾は大きく異なっていた.屈折語尾こそが両言語間のコミュニケーションの阻害要因だったのであり,それを簡略化することは,互いにとって利があった.古英語後期にすでに言語内的に始まっていた屈折語尾の消失傾向が中英語初期にかけて加速化したのは,他ならぬ古ノルド語との言語接触とそこで生じたコミュニケーション上の必要性ゆえである.英語史を総合的な言語から分析的な言語への移行の歴史と捉えるのであれば,英語史上に古ノルド語が果たした役割の大きさは計りしれない.
私もこの認識でいる.
英語史上の意義ということでもう一つ付け加えるのであれば,古ノルド語から1,000語近くの単語を借用したすぐ後の中英語の時代に,フランス語から10,000語近くの単語を借用したという事実を考えれば,古ノルド語との接触は,借用語から構成されているといっても過言ではない現代英語の語彙の特質が,後に顕著になっていくその前段階おいて,借用の「練習台」を提供したともいえる.もちろん「練習台」とは比喩的な言い方であり,後の歴史を予言しているかのような teleological なその響きは誤解を招くおそれがあることは承知している.しかし,英語史は歴史記述である以上,このような読み込みも一方では重要だし必要だと思っている.
英語史における古ノルド語といえば,上記の二点を常に想起していた.
ところが,先日,古ノルド語の英語への影響について授業で話しをしたときに,ある学生からこんな趣旨の反応があり,考えさせられた.
現代英語の学習者にとって学習を非常に容易にしてくれる「屈折の少なさ」が,古英語話者と古ノルド語話者のコミュニケーション上の要求の結果として,つまり共通語を確立しようとする営みの結果として生まれたことは,後に世界の共通語になってゆく英語の未来を暗示しているかのようだ.実際に,現代英語の「屈折の少なさ」はリンガ・フランカとしての英語の地位をかなり優位にしており,古ノルド語との接触に運命的なものを感じざるをえない.
現在,世界共通語の地位へ接近している英語と,約千年前に古ノルド語と融合し,両言語話者の共通語として簡略化しつつあった英語.千年の時をまたいで,英語の簡略化傾向という平行関係を指摘し,それを「運命的な」共通点であると見抜いた洞察に感銘を受けた.
この意見に問題点があることは確かだ.例えば,現代英語の「屈折の少なさ」が本当に英語のリンガ・フランカとしての地位を優位にしているのかどうかは,検証無しには受け入れられない.また,英語の言語変化を科学的に記述・説明する立場からすれば,「運命」という表現はあまりに teleological である.
しかし,先ほども述べたように,英語史という物語の語りにおいては,そこに通底する何らかのテーマを読み込むことは重要だし必要だと思う.そのテーマの一つの可能性として「異言語間コミュニケーションを可能にすべく発展してきた言語」という英語史観がありうるかもしれないなと思った.その立場を積極的に取るかどうかは別として,この学生の意見は,英語の未来が議論され始めてきた昨今にふさわしい非常に現代的な洞察だなと思った.
刺激的な意見をありがとう!
・Bradley, Henry. The Making of English. New York: Dover, 2006. New York: Macmillan, 1904.
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