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history - hellog〜英語史ブログ

最終更新時間: 2024-12-23 11:02

2019-10-30 Wed

#3838. 「文字を有さずとも,かなり高度な文明と文化をつくり上げることは可能」 [writing][history][medium]

 昨日も紹介した鈴木董(著)『文字と組織の世界史』より,標記の話題について.通常,文字と文明とは切っても切れない関係にあると認識されており,「有文字社会はすなわち文明社会」という等式が広く受け入れられているように思われる.しかし,その裏返しとしての「無文字社会はすなわち非文明社会」という等式は常に成り立つのだろうか.
 鈴木 (27) は,無文字社会に対する有文字社会の比較優位は疑いえないとしつつも,無文字社会が常に非文明的なわけではないことを主張している.

 言語の発展は,これを可視的に定着する媒体としての文字をもったとき,まったく異なる段階に入ることとなる.
 ただし文字を有さずとも,かなり高度な文明と文化をつくり上げることは可能である.その格好な一例は「新世界」のインカ帝国である.
 ペルーを中心にチリからエクアドルにまで拡がる大帝国を建設し,壮麗なクスコやマチュピチュのような大都市をも造営したインカの人々は,数字を表わすキープ,すなわち「結縄文字」は有していたが,言語を可視的に定着する媒体としての体系的文字をもつことはついになかったようである.
 「旧世界」で顕著な例をとれば,ユーラシア中央部で活躍し,しばしば大帝国を建設した遊牧民たちである.文字を持つ周辺の諸文化世界を長らく脅かした遊牧民たちも,トルコ系の突厥帝国で八世紀に入り突厥文字が考案されるまで,文字をもたなかった.
 また広大なモンゴル帝国を築いたモンゴル人たちも,その帝国形成期には文字をもたず,一三世紀も後半に入ってからようやく,チベット文字をベースとするパスパ文字と,ウイグル文字をベースとするという二種の文字をもつようになったのである.ともすれば文字をもたずとも,インカ帝国,匈奴帝国,突厥帝国そしてモンゴル帝国のような,巨大な政治体を形成し維持することができたのは確かである.
 ....
 〔中略〕
 ....
 しかし,文字を媒体として膨大な情報量を蓄積しうるようになった社会が,次第に文明の諸分野において「比較優位」を占めるようになっていったことも疑いないであろう.ユーラシアの東西における定住的農耕民と移動的遊牧民の力関係が,最終的には前者の優位に帰結した一因もまた,ここにあったとみてよいであろう.


 この文章の力点は有文字社会の文明的優位性の主張にあるが,私はむしろ無文字社会が必ずしも非文明的であるわけではないという裏の主張のほうに関心があった.無文字社会と一言でくくっても,実はいろいろなケースがありそうである.この問題に関しては,以下の記事でも触れてきたのでご参照を.

 ・ 「#1277. 文字をもたない言語の数は?」 ([2012-10-25-1])
 ・ 「#2618. 文字をもたない言語の数は? (2)」 ([2016-06-27-1])
 ・ 「#2447. 言語の数と文字体系の数」 ([2016-01-08-1])
 ・ 「#3118. (無)文字社会と歴史叙述」 ([2017-11-09-1])
 ・ 「#3486. 固有の文字を発明しなかったとしても……」 ([2018-11-12-1])

 ・ 鈴木 董 『文字と組織の世界史 新しい「比較文明史」のスケッチ』 山川出版社,2018年.

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2019-10-29 Tue

#3837. 鈴木董(著)『文字と組織の世界史』 --- 5つの文字世界の発展から描く新しい世界史 [writing][grammatology][religion][review][history]

 昨年出版された鈴木董(著)『文字と組織の世界史 新しい「比較文明史」のスケッチ』は,文字の観点からみた世界史の通史である.一本の強力な筋の通った壮大な世界史である.文字,言語,宗教,そして統治組織という点にこだわって書かれており,言語史の立場からも刺激に富む好著である.
 本書の世界史記述は,5つの文字世界の歴史的発展を基軸に秩序づけられている.その5つの文字世界とは何か.第1章より,重要な部分を抜き出そう (19--20) .

〔前略〕唯一のグローバル・システムが全世界を包摂する直前というべき一八〇〇年に立ち戻ってみると,「旧世界」のアジア・アフリカ・ヨーロッパの「三大陸」の中核部には,五つの大文字圏,文字世界としての文化世界が並存していた.
 すなわち,西から東へ「ラテン文字世界」,「ギリシア・キリル文字世界」,「梵字世界」,「漢字世界」,そして上述の四つの文字世界の全てに接しつつ,アジア・アフリカ・ヨーロッパの三大陸にまたがって広がる「アラビア文字世界」の五つである.「新世界」の南北アメリカの両大陸,そして六つ目の人の住む大陸というべきオーストラリア大陸は,その頃までには,いずれも西欧人の植民地となりラテン文字世界の一部と化していた.
 ここで「旧世界」の「三大陸」中核部を占める文字世界は,文化世界としてとらえなおせば,ラテン文字世界は西欧キリスト教世界,ギリシア・キリル文字世界は東欧正教世界,梵字世界は南アジア・東南アジア・ヒンドゥー・仏教世界,漢字世界は東アジア儒教・仏教世界,そしてアラビア文字世界はイスラム世界としてとらええよう.そして,各々の文字世界の成立,各々の文化世界内における共通の古典語,そして文明と文化を語るときに強要される文明語・文化語の言語に用いられる文字が基礎を提供した.
 すなわち西欧キリスト教世界ではラテン語,東欧正教世界ではギリシア語と教会スラヴ語,南アジア・東南アジア・ヒンドゥー・仏教世界では,ヒンドゥー圏におけるサンスクリットと仏教圏におけるパーリ語,東アジア儒教・仏教世界では漢文,そしてイスラム世界においてはアラビア語が,各々の文化世界で共有された古典語,文明語・文化語であった.


 5つの文字世界の各々と地域・文化・宗教・言語の関係は密接である.改めてこれらの相互関係に気付かせてくれた点で,本書はすばらしい.  *
 本ブログでも,文字の歴史,拡大,系統などについて多くの記事で論じてきた.とりわけ以下の記事を参照されたい.

 ・ 「#41. 言語と文字の歴史は浅い」 ([2009-06-08-1])
 ・ 「#422. 文字の種類」 ([2010-06-23-1])
 ・ 「#423. アルファベットの歴史」 ([2010-06-24-1])
 ・ 「#1849. アルファベットの系統図」 ([2014-05-20-1])
 ・ 「#1822. 文字の系統」 ([2014-04-23-1])
 ・ 「#1853. 文字の系統 (2)」 ([2014-05-24-1])
 ・ 「#2398. 文字の系統 (3)」 ([2015-11-20-1])
 ・ 「#2416. 文字の系統 (4)」 ([2015-12-08-1])
 ・ 「#2399. 象形文字の年表」 ([2015-11-21-1])
 ・ 「#1834. 文字史年表」 ([2014-05-05-1])
 ・ 「#2414. 文字史年表(ロビンソン版)」 ([2015-12-06-1])
 ・ 「#2344. 表意文字,表語文字,表音文字」 ([2015-09-27-1])
 ・ 「#2386. 日本語の文字史(古代編)」 ([2015-11-08-1])
 ・ 「#2387. 日本語の文字史(近代編)」 ([2015-11-09-1])
 ・ 「#2389. 文字体系の起源と発達 (1)」 ([2015-11-11-1])
 ・ 「#2390. 文字体系の起源と発達 (2)」 ([2015-11-12-1])
 ・ 「#2577. 文字体系の盛衰に関わる社会的要因」 ([2016-05-17-1])
 ・ 「#2494. 漢字とオリエント文字のつながりはあるか?」 ([2016-02-24-1])

 ・ 鈴木 董 『文字と組織の世界史 新しい「比較文明史」のスケッチ』 山川出版社,2018年.

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2019-10-26 Sat

#3834. 『図説フランスの歴史』の年表 [timeline][history]

 先日の「#3828. 『図説フランスの歴史』の目次」 ([2019-10-20-1]) に引き続き,同書の巻末 (177--79) にある「フランス史略年表」を掲げたい.イギリス史の年表については,「#3478. 『図説イギリスの歴史』の年表」 ([2018-11-04-1]),「#3479. 『図説 イギリスの王室』の年表」 ([2018-11-05-1]),「#3487. 『物語 イギリスの歴史(上下巻)』の年表」 ([2018-11-13-1]),「#3497. 『イギリス史10講』の年表」 ([2018-11-23-1]) を参照.

前9世紀頃ケルト人,ガリアへ移住
BC121ローマ軍,ガリア南部を征服
BC52カエサル,ガリア全土を征服
372トゥールのマルティヌス,マルムティエ修道院を設立
418西ゴート族,アキテーヌ地方に定住
476西ローマ帝国滅亡
486ソワソンの戦い.クローヴィス,メロヴィング朝を開く
496トルビアックの戦い.クローヴィス,カトリックに改宗
575頃トゥール司教グレゴリウス『フランク人の歴史』
732トゥール・ポワティエ間の戦い.カール・マルテル,イスラム勢力を撃破
751ピピン3世(小ピピン),カロリング朝を開く
800教皇レオ3世,シャルルマーニュを西ローマ皇帝に戴冠
843ヴェルダン条約,帝国の三分割
987パリ伯ユーグ・カペー,フランス王に即位.カペー朝始まる (--1328)
1154アンリ・プランタジネット,イングランド王に即位(ヘンリ2世).アンジュー帝国成立
1190フィリップ2世,第3回十字軍に出発
1202フィリップ2世,英王ジョンの大陸所領没収を宣言
1209教皇イノケンティウス3世,南仏のカタリ派を攻撃,アルビジョワ十字軍始まる
1214ブーヴィーヌの戦い
1226ルイ9世即位,母后ブランシュ・ド・カスティーユ摂政 (--34)
1229トゥルーズ伯降伏,アルビジョワ十字軍終わる
1248ルイ9世,第6回十字軍に参加
1270ルイ9世,第7回十字軍に出発.テュニスで病死
1302フィリップ4世,最初の全国三部会をパリにて招集
1303アナーニ事件,教皇ボニファティウス8世憤死
1305フィリップ4世,ボルドー大司教を教皇に擁立(クレメンス5世)
1307フィリップ4世,テンプル騎士団員を一斉逮捕
1309教皇クレメンス5世,教皇庁をアヴィニョンに移す
1328シャルル4世没,カペー朝断絶.フィリップ6世即位,ヴァロア朝の開始 (--1589)
1337百年戦争始まる
1348黒死病がフランス全土で流行
1358エティエンヌ・マルセルのパリ革命
1415英王ヘンリ5世,ノルマンディに上陸 (8.12) .アザンクールの戦い (10.25)
1420トロワの和約
1429ジャンヌ・ダルク,オルレアンを解放.シャルル7世ランスで戴冠
1431ジャンヌ・ダルク火刑
1453カスティヨンの戦い,百年戦争終了
1477ブルゴーニュ公シャルル突進公戦死,ブルゴーニュ公国解体へ
1494シャルル8世,イタリアへ侵入.イタリア戦争始まる (--1559)
1516ボローニャの政教協約
1525パヴィアの戦い,フランソワ1世捕虜に
1530フランソワ1世,王立教授団を創設
1534檄文事件.プロテスタントへの弾圧開始
1539ヴィレル・コトレ王令.公文書におけるフランス語使用,小教区帳簿の作成を義務づける
1559カトー・カンブレジ条約,イタリア戦争終了.アンリ2世没
1562ヴァシーでプロテスタントを虐殺,宗教戦争始まる (--98)
1572サン・バルテルミの虐殺
1576ギーズ公アンリ,カトリック同盟(リーグ)を結成
1589アンリ3世暗殺,ヴァロア朝断絶.アンリ4世即位,ブルボン朝始まる (--1792)
1593アンリ4戦,サン・ドニでカトリックに改宗
1594アンリ4世,シャルトルで成聖式.国王,巴里に入城
1598ナント王令
1604ポーレット法,官職の世襲・売買を年税の支払いを条件に公認
1624リシュリュー,宰相に就任
1629アレス王令,プロテスタントの武装権を剥奪
1630「欺かれた者たちの日」,マリ・ド・メディシス失脚
1635フランス,三十年戦争に参戦
1639ノルマンディで反税蜂起「ニュ・ピエ(裸足党)の乱」
1648フロンドの乱勃発 (--53)
1659ピレネー条約
1661マザラン没.ルイ14世,親政を開始
1665コルベール,財務総監に就任
1667パリに警視総監職を設置.フランドル戦争始まる (--68)
1672オランダ戦争始まる (--78)
1685ナント王令の廃止
1688アウクスブルク同盟戦争始まる (--97) .国王民兵制導入
1695カピタシオン(人頭税)導入
1701スペイン継承戦争始まる (--13)
1710ディジエーム(十分の一税)導入
1715ルイ14世没.ルイ15世即位,オルレアン公摂政
1720「ローのシステム」破綻
1733ポーランド継承戦争始まる (--35)
1740オーストリア継承戦争始まる (--48)
1756七年戦争始まる (--63)
1771大法官モプーによる司法改革
1775小麦粉戦争
1786カロンヌ,全身分を対象とする新たな税を提唱
1789国民議会成立 (6.17),封建制の廃止 (8.4),人権宣言 (8.26),ヴェルサイユ行進 (10.5)
1790聖職者民事基本法
1791ヴァレンヌ事件 (6.20),「1791年憲法制定」 (9.3)
1792オーストリアに宣戦布告 (4.20),8月10日事件(王権の停止),ヴァルミの戦い (9.20),共和制の開始 (9.21)
1793ルイ16世処刑 (1.21),山岳派独裁,恐怖政治,総最高価格法 (9.29)
1794テルミドールの反動 (7.27),山岳派失脚
1796ナポレオン,イタリア遠征
1799ブリュメール18日のクーデタ.ナポレオン,政権を掌握
1800フランス銀行設立
1804ナポレオン法典(民法典).ナポレオン,皇帝に即位
1806ベルリン勅令(大陸封鎖令)
1814ナポレオン,皇帝を退位.エルバ島へ.ルイ18世パリに帰還
1815ナポレオン「百日天下」
1824ルイ18世没,シャルル10世即位
1830七月革命,ルイ・フィリップ即位(七月王政の開始)
1847最初の「改革宴会」
1848二月革命勃発 (2.23),第二共和制の成立,ルイ・ナポレオン大統領に (12.10)
1852ルイ・ナポレオン,皇帝に即位.第二帝政 (--70)
1855第1回パリ万国博覧会開催 (--56)
1870普仏戦争勃発,第二帝政崩壊
1871パリ・コミューン
1881--82ジュール・フェリー法制定.初等教育の無償・義務化
1884ヴァルデック・ルソー法制定.労働組合を合法化
1889ブーランジェ事件
1898ゾラ,「私は弾劾する」
1901結社法制定
1905政教分離法,反教権主義が確立
1914第一次世界大戦勃発
1918コンピエーニュの森で連合軍とドイツとの休戦協定
1919ヴェルサイユ条約調印
1924フランス,ソ連を承認
1928ケロッグ・ブリアン条約(パリ不戦条約)締結
1933スタヴィンスキー事件(金融スキャンダル).右翼の攻撃強まる
1936ブルム人民戦線内閣成立
1939第二次世界大戦勃発
1940パリ陥落 (6.14),ヴィシー政権成立 (7.10),ユダヤ人排斥法 (10.3)
1943ジャン・ムーラン,レジスタンス全国評議会 (CNR) 結成.国内のレジスタンスの統一
1944パリ解放 (8.25).ドゴール臨時政府成立 (9.9)
1945婦人参政権採択
1947マーシャル・プランに参加
1954ディエン・ビエン・フー陥落 (5.7) .ヴェトナムより撤退.アルジェリア戦争始まる (11.1)
1957ヨーロッパ経済共同体 (EEC) 条約調印
1958アルジェリアでコロンと軍の反乱 (5.13),ドゴール内閣成立 (6.1),第五共和制開始.ドゴール,大統領に当選 (12.21)
1962エヴィアン協定.アルジェリア戦争終結
1966フランス,NATO の軍事機構から脱退
1967ヨーロッパ共同体 (EC) 成立
19685月革命
1969ドゴール,大統領を辞任 (4.28) .ポンピドゥーが大統領に
1974ジスカールデスタン,大統領に当選
1981ミッテラン,大統領に当選
1986シラク,首相に就任.保革共存政権(コアビタシオン)成立
1992ヨーロッパ連合条約(マーストリヒト条約)に調印
1993EU 成立
1995シラク,大統領に当選
1999EU 単一通貨「ユーロ」導入
2003イラク戦争に反対,派兵せず
2005国民投票で EU 憲法拒否,パリ郊外暴動事件
2007サルコジ,大統領に当選
2012オランド,大統領に当選


 ・ 佐々木 真 『図説フランスの歴史』増補新版 河出書房新社,2016年.

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2019-10-20 Sun

#3828. 『図説フランスの歴史』の目次 [toc][hfl][french][history]

 英語史を学ぶ上で間接的ではあるが非常に重要な分野の1つにフランス史がある.今回は,図解資料を眺めているだけで楽しい『図説フランスの歴史』の目次を挙げておきたい.ちなみにイギリス史の目次については「#3430. 『物語 イギリスの歴史(上下巻)』の目次」 ([2018-09-17-1]) を参照.目次シリーズ (toc) の記事も徐々に増えてきた.



  第1章 ローマとフランク王国
    1. ローマン・ガリア
    2. フランク王国
    3. ガリア地方とキリスト教
  第2章 カペー朝の成立
    1. 「暗黒の世紀」
    2. カペー朝の成立
  第3章 フランス王国の発展
    1. フィリップ二世
    2. ルイ九世
    3. フィリップ四世とローマ教皇との戦い
    4. 社会の変化
    5. キリスト教徒ゴシック美術
  第4章 百年戦争とヴァロア朝
    1. 百年戦争
    2. 近代国家への胎動
    3. 封建制の危機
  第5章 ルネサンス王政
    1. イタリア戦争
    2. ルネサンス
    3. 宗教改革とフランス
  第6章 宗教戦争とブルボン朝の成立
    1. 宗教戦争
    2. ブルボン朝の成立
    3. アンリ四世の政治
  第7章 絶対王政の輝き
    1. ルイ一三世と主権国家
    2. ルイ一四世
    3. フランス絶対王政
    3. 王の栄光
  第8章 一八世紀の政治と文化
    1. ルイ一五世からルイ一六世
    2. 啓蒙思想
    3. 文化の変容
  第9章 フランス革命とナポレオン
    1. フランス革命
    2. ナポレオン
    3. フランス革命の構造
    4. 革命の遺産
  第10章 一九世紀のフランス
    1. 復古王政
    2. 七月王政
    3. 二月革命と第二共和制
    4. 第二帝政
    5. 産業化とブルジョワの支配
    6. 民衆世界の変貌
  第11章 第三共和政の成立
    1. パリ・コミューンと第三共和政の成立
    2. フランスにおける国民国家の形成
    3. 結社法と政教分離法
  第12章 現代のフランス
    1. 第一次世界大戦の衝撃
    2. 世界恐慌と人民戦線
    3. 第二次世界大戦とレジスタンス
    4. 戦後のフランス
    5. 激動の世紀末
    6. 二一世紀のフランス
    7. フランスの経験と日本



 ・ 佐々木 真 『図説フランスの歴史』増補新版 河出書房新社,2016年.

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2019-10-16 Wed

#3824. イギリス史・英語史は諸民族・諸言語が作り上げてきた織物 [history][hel_education][contact]

 「#37. ブリテン島へ侵入した5民族の言語とその英語への影響」 ([2009-06-04-1]) でみたように,1066年までの「イギリス史」においては,少なくとも5回の異民族の渡来が起こっている.ケルト人,ローマ人,アングロ・サクソン人,デーン人,ノルマン人である.各々の背後にあった言語は,ケルト語,ラテン語,英語,古ノルド語,ノルマン・フランス語である.イギリス史・英語史の前半は,これらの諸民族・諸言語が織りなす複雑な物語といってよい.イギリス史の編著者である川北 (17) が次のように述べている.

 ケルト期からノルマン期までの「イギリス」史を特徴づける点として異民族の接触をあげることができる.あらたな民族が渡来した際には征服・侵略活動がおこなわれる.しかし,その後の支配体制としては,先住民族をあらたな渡来民族が上から支配している重層的関係とともに,地理的な先住民との住み分けや共存関係がみられた.「ローマン=ブリティッシュ」「アングロ=ブリティッシュ」「アングロ=デーニッシュ」「アングロ=ノルマン」体制という場合に,それら両方の関係が示唆されていることに注意すべきである.
 外民族の侵入は,各時代のブリテン島の民族構成を大きく変化させた.あらたな文化の創造も,侵入・移住してきた外民族の存在をぬきにしては語れない.民族の変化は,政治や宗教も含む大きな社会的転換を引き起こす可能性をもっていた.また,すべての民族の活動があって「イギリス」の成立があるのであり,特定の民族活動のみが重要であるというわけではない.


 引用にある「先住民族をあらたな渡来民族が上から支配している重層的関係」を「縦糸」とみなし,「地理的な先住民との住み分けや共存関係」を「横糸」とみなせば,イギリス史は,様々な種類の糸で織られた織物といえるだろう.そして,これはほぼそのままに英語史にも当てはまるように思われる.
 縦糸と横糸の絡み合いを表わす「ローマン=ブリティッシュ」などの複合的な用語を,フルに展開した用語を時代順に与えてみた.

段階川北の用語長く展開してみた用語
1(ブリティッシュ)British (language)
2ローマン=ブリティッシュRoman-British (language)
3アングロ=ブリティッシュAnglo-Roman-British (language)
4アングロ=デーニッシュDanish-Anglo-Roman-British (language)
5アングロ=ノルマンNorman-Danish-Anglo-Roman-British (language)


 英語史の始まりは第3段階以降ということになるが,それ以前に作られていた下地の上にさらに織り上げられていったものとみるならば,英語は少なく見積もっても "Norman-Danish-Anglo-Roman British language" と呼ぶべき織物といえるだろう.

 ・ 川北 稔 「第一章 『イギリス』の成立」『イギリス史』川北 稔(編),山川出版社,1998年.16--53頁.

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2019-10-12 Sat

#3820. なぜアルフレッド大王の時代までに学問が衰退してしまったのか? [history][oe][alfred][anglo-saxon]

 昨日の記事「#3819. アルフレッド大王によるイングランドの学問衰退の嘆き」 ([2019-10-11-1]) で話題にしたように,9世紀後半のアルフレッド大王の時代(在位871--99年)までに,イングランドの(ラテン語による)学問水準はすっかり落ち込んでしまっていた.8世紀中には,とりわけ Northumbria から Bede や Alcuin などの大学者が輩出し,イングランドの学術はヨーロッパ全体に威光を放っていたのだが,昨日の記事で引用したアルフレッド大王の直々の古英語文章から分かる通り,その1世紀半ほど後には,嘆くべき知的水準へと堕していた.
 その理由の1つは,ヴァイキングの襲来である.793年に Lindisfarne が襲撃されて以来,9世紀にかけて,イングランドでは写本の制作が明らかに減少した.イングランドの既存の写本も多くが消失してしまい,大陸へ避難して保管された写本もあったが,それとてさほどの数ではない.写本がなければ,イングランドの学僧とて学ぶことはできないし,ラテン語力を維持することもできなかった.全体として学問水準が落ち込むのも無理からぬことだった.
 もう1つの理由は,ヴィアキングの襲来以前に,イングランドの頭脳が大陸に流出してしまったということがある.碩学 Alcuin (c732--804) がシャルルマーニュの筆頭顧問として仕えるべく大陸へ発ってしまうと,Northumbria の学問にはっきりと衰退の兆候が現われた.1人の重要人物の流出によって大きなダメージがもたらされるというのは,古今東西の人事の要諦だろう.
 およそ同時代,イングランド出身でゲルマン人に布教した Boniface (680?--754?) が学問のある貴顕とともにドイツへと発ってしまった結果,Southumbria の学術水準もはっきりと落ち込んだ.すでに8世紀中に,イングランド中で学問衰退の傾向が現われていたのである.そこへヴァイキング襲撃という,泣きっ面に蜂のご時世だったことになる.

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2019-09-25 Wed

#3803. 大英帝国の「大」と「英」 [japanese][history][terminology]

 the British Empire は伝統的に「大英帝国」と訳されてきた.同様に the British Museumthe British Library も各々「大英博物館」「大英図書館」と訳されてきた.英語表現には「大」に相当するものはないし,「英」についても本来は English の語頭母音の音訳に由来するものであり,British とは関係しないので,訳語が全体的にずれている感じがする(「#1145. EnglishEngland の名称」 ([2012-06-15-1]),「#1436. EnglishEngland の名称 (2)」 ([2013-04-02-1]),「#2250. English の語頭母音(字)」 ([2015-06-25-1]),「#3761. ブリテンとブルターニュ」 ([2019-08-14-1]) を参照).
 日本語で「イギリス」「英国」と呼びならわしているあの国を指し示す表現が,日本語においても英語においても,歴史にまみれて複雑化していることはよく知られているが,こと日本語の「大」「英」という訳語は,それ自体が特殊な価値観を帯びている.近藤 (6--7) に次のような論評がある.

 連合王国について,慣用で「イギリス」「英国」という名が普及している.この起源は一六―一七世紀の東アジア海域で用いられたポルトガル語・オランダ語なまりの「アンゲリア」「エンゲルス」あるいは「エゲレス」であった.アンゲリアには「諳厄利亜」,エゲレスには「英吉利」「英倫」といった漢字が当てられた.一九世紀後半,すなわち幕末・明治になると諳厄利亜や諳国・諳語は用いられなくなり,英吉利・英国・英語が定着した.「諳」や「厄」と対照的に,「英」という漢字は,花,精華,すぐれ者を意味し,英国といった場合,その優秀さが含意されていた.これはたかが漢字表記の問題にすぎないが,しかしまた,一つの価値観の受容でもある.〔中略〕
 なお大英帝国,大英博物館といった日本語表記も普及しているが,もとの British Empire, British Museum のどこにも「大」という意味はない.にもかかわらず日本語として定着したのは,イギリス帝国を偉大と考え,「大日本帝国」の模範,あるいは文明の表象として寄り添おうとした,明治・大正・昭和の羨望と事大主義のゆえだろうか.こうしたバイアスのあらわな語は引用する場合にしか使わず,本書では英吉利帝国,英国博物館としよう.


 現在,多くの日本人は「大英語」という呼称こそ用いていないが,心理的には英語を「大英語」としてとらえているいるのではないか.味気ないが中立的な日本語の呼称として「イングリッシュ」があってもよいかもしれない.

 ・ 近藤 和彦 『イギリス史10講』 岩波書店〈岩波新書〉,2013年.

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2019-09-19 Thu

#3797. アングロサクソン七王国 [anglo-saxon][history][map][oe][heptarchy]

 アングロサクソン七王国 (The Anglo-Saxon Heptarchy) とは5--9世紀のイングランドに存在したアングロサクソンの7つの王国で Northumbria, Mercia, Essex, East Anglia, Wessex, Sussex, Kent を指す.5世紀を中心とするアングロサクソンのブリテン島への渡来に際して,主としてアングル人が Northumbria, Mercia, East Anglia に入植し,サクソン人が Essex, Wessex, Sussex に, ジュート人が Kent に各々入植したのが,諸王国の起源である.互いに攻防を繰り返し,6世紀末には七王国が成立したが,800年頃までには Northumbria, Mercia, East Anglia, Wessex の4つへと再編され,最終的には9--10世紀にかけて Wessex が覇権を握り,その下でアングロサクソン(イングランド)王国が統一されるに至った.
 七王国時代には,時代によって異なる王国が覇を唱えた.7世紀から8世紀前半にかけては Northumbria が覇権を握り,Bede, Alcuin などのアイルランド系キリスト教の大学者も輩出した(「ノーサンブリア・ルネサンス」と呼ばれる).8世紀後半から9世紀初めにかけては,Mercia に Offa 王が現われ,海外にも名をとどろかせるほどの隆盛を誇った(「マーシアの覇権」).Offa は銀貨も鋳造し,イングランド統一に近いところまでいった.また,ウェールズとの国境を画する「オッファの防塁」 (Offa's Dyke) もよく知られている.しかし,Mercia の覇権は続かず,9世紀が進んでくると Wessex の宗主権の下に入ることになった.
 9世紀後半にかけてヴァイキングの侵攻が激化してくると,王国は次々と独立を失い,形をとどめたのはアルフレッド大王の Wessex のみとなってしまった.Wessex を守り抜いた大王とその子孫は,9世紀末から10世紀にかけてイングランドの他の領域にも影響力を行使し,事実上のイングランド統一を果たしていった.
 このように,アングロサクソン七王国は,内圧と外圧によりその分立が徐々に解消されていき,ついにはアングロサクソン(イングランド)王国へと発展していった.この時代のもう少し詳しい年表については,「#2871. 古英語期のスライド年表」 ([2017-03-07-1]),「#3193. 古英語期の主要な出来事の年表」 ([2018-01-23-1]) を参照.
 指 (13) の「アングロ・サクソン七王国」と題する地図を掲げておこう.実際には明確な国境があったわけではなく,それぞれの勢力圏は流動的だったことに注意しておきたい.

Map of the Anglo-Saxon Heptarchy

 ・ 指 昭博 『図説イギリスの歴史』 河出書房新社,2002年.

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2019-09-18 Wed

#3796. ゲルマン人の移動とケルト人の移動 [anglo-saxon][celtic][history][map]

 5世紀のアングロサクソンのブリテン島への渡来は「ゲルマン民族の大移動」 (Volkerwanderung) の一環としてよく知られているが,それと同時期に生じていたケルトの移動については特に名称も与えられておらず,印象が薄い.実は,ブリテン諸島のケルト人は,アングロサクソンの渡来と前後する4--8世紀のあいだ,なかなか活動的だったのである.4--5世紀にはアイルランドからスコットランド西岸やウェールズ西岸への移住がみられたし,4--8世紀のあいだにはブリテン島南西部から海峡を南に越えてブルターニュ半島へも人々が渡っていた(後者については「#734. pandaBritain」 ([2011-05-01-1]) と「#3761. ブリテンとブルターニュ」 ([2019-08-14-1]) を参照).
 従来,アングロサクソンがブリテン島に押し入ってきたことにより,ケルトが周辺部に追いやられたと考えられてきた.しかし,ケルトは実際にはアングロサクソンがやってくる以前から様々な動きを示していたのである.指 (12--13) は次のように述べている.

 従来,アングロ・サクソン人は,先住のケルト人を,西ではウェールズ(サクソン人の言葉で「外国人の土地」を意味する)やコーンウォール,北方では高地スコットランド地方といった辺境へ追いやったと考えられてきた.しかし,ゲルマン人の活動が盛んであった五世紀の前後,イギリス諸島のケルト人の動きも活発であったことを忘れてはならない.すでに四世紀にはアイルランドのスコット人がブリテン島北西部に移住し,先住のピクト人を統合するかたちで後のスコットランドを形成することになったし,一部のアイルランド人はウェールズにも渡った.ウェールズなどブリテン島西南部のブリトン人も,四?八世紀に,海を渡ってブルターニュ半島に定着,王国を形成した.イギリス諸島の西と東とでともに大きな人々の動きが見られたのである.
 しかも近年では,イングランドからもケルト系先住民が完全に放逐されたわけではなく,先のケルト人が多数を占める先住民と融合していたように,実際には共住もしていたことが,考古学の発見によって明らかにされてきている.アングロ・サクソンの人口はケルト人を凌駕するものではなかったようだが,この過程で,優勢であったアングロ・サクソンの文化が定着し,英語が使用されるなど,イングランド地域からケルト文化が駆逐されていったことも,また確かである.


 「#389. Angles, Saxons, and Jutes の故地と移住先」 ([2010-05-21-1]) のような地図に,ケルトの移動も組み合わせた別の地図(指, p. 12 より)を示そう.

Volkerwanderung of the Anglo-Saxons and Celts

 近年,従来のアングロサクソンの「電撃的な圧勝」という説ではなく,ケルトとの共生を想定する,穏やかな説が聞かれるようになってきている.これについては「#3113. アングロサクソン人は本当にイングランドを素早く征服したのか?」 ([2017-11-04-1]) の記事や,そこからのリンク先の記事を参照.

 ・ 指 昭博 『図説イギリスの歴史』 河出書房新社,2002年.

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2019-09-08 Sun

#3786. ローマン・ブリテンの略年表と地図 [roman_britain][timeline][history][map]

 「#3784. ローマン・ブリテンの言語状況 (1)」 ([2019-09-06-1]) と「#3785. ローマン・ブリテンの言語状況 (2)」 ([2019-09-07-1]) で,ローマン・ブリテンの話題を取り上げた.君塚や指のイギリス史概説書を参照して,この時代を中心とする略年表を作成してみた(イギリス史全体の年表については,「#3478. 『図説イギリスの歴史』の年表」 ([2018-11-04-1]),「#3487. 『物語 イギリスの歴史(上下巻)』の年表」 ([2018-11-13-1]),「#3497. 『イギリス史10講』の年表」 ([2018-11-23-1]) などを参照).

81万年前頃ブリテン付近に人類が居住
紀元前1万年頃狩猟採集民が居住(旧石器時代末期)
前7--6千年頃ブリテン島が大陸から分離
前4千年頃農耕・牧畜の開始(新石器時代の開始)
前22--20世紀頃ビーカー人が渡来(青銅器時代の開始)
前18世紀頃ストーンヘンジの建造
前6世紀頃ケルト系のベルガエ人の渡来
前2世紀末ベルガエ人が高度な鉄器文化と農牧文化を築く
前55--54年ユリウス・カエサルのブリタニア遠征
43年ローマ皇帝クラウディウスのブリタニア侵攻
50年頃ロンディニウム(ロンドン)の建設
61年イケニ族の女王ボウディッカの反乱
80年頃ローマ軍,スコットランドに到着
122--132年ハドリアヌスの長城の建造
140年頃アントニヌスの長城の建造(しかし,60年後に放棄)
2世紀末ロンドンが中心都市として発達し,街道も整備される
211年ブリテン,ローマと協約締結し「同盟者」に
306年ブリタニアで即位したコンスタンティヌス,帝国の再編へ
4世紀半ばキリスト教の伝来,ヨークとロンドンに司教座
406年大陸のゲルマン諸部族,ライン川を超えてガリアへ侵入
410年ローマ,ブリタニアから撤退
449年アングロ・サクソンの渡来が始まる
6世紀末7王国の成立
597年聖アウグスティヌス,キリスト教宣教のために教皇グレゴリウス1世によってローマからケント王国へ派遣される
664年ウィットビーの宗教会議でローマキリスト教の優位が認められる


 ローマン・ブリテンの関連地図も,君塚 (9) の「「ローマ帝国支配のブリテン島」と,Encyclopaedia Britannica からのもの (Encyclopaedia Britannica 2008 Ultimate Reference Suite. Chicago: Encyclopaedia Britannica, 2008.) を挙げておこう.

Map of Roman Britain
Map of Roman Britain

 ついでに Encyclopaedia Britannica から見つけた,ローマ軍に抵抗したイケニ族の女王ボアディッカを描いた19世紀の版画も挙げておく (Queen Boudicca leading a revolt against the Romans, engraving, 19th century. The Granger Collection, New York) .

Queen Boudicca leading a revolt against the Romans, engraving, 19th century. <em>The Granger Collection</em>, New York

 ローマン・ブリテン時代のその他の話題については「#3440. ローマ軍の残した -chester, -caster, -cester の地名とその分布」 ([2018-09-27-1]) ほか roman_britain の各記事を参照.

 ・ 君塚 直隆 『物語 イギリスの歴史(上下巻)』 中央公論新社〈中公新書〉,2015年.
 ・ 指 昭博 『図説イギリスの歴史』 河出書房新社,2002年.

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2019-09-07 Sat

#3785. ローマン・ブリテンの言語状況 (2) [roman_britain][latin][celtic][history][gaulish][contact][language_shift][prestige][sociolinguistics]

 昨日の記事に続き,ローマン・ブリテンの言語状況について.Durkin (58) は,ローマ時代のガリアの言語状況と比較しながら,この問題を考察している.

One tantalizing comparison is with Roman Gaul. It is generally thought that under the Empire the linguistic situation was broadly similar in Gaul, with Latin the language of an urbanized elite and Gaulish remaining the language in general use in the population at large. Like Britain, Gaul was subject to Germanic invasions, and northern Gaul eventually took on a new name from its Frankish conquerors. However, France emerged as a Romance-speaking country, with a language that is Latin-derived in grammar and overwhelmingly also in lexis. One possible explanation for the very different outcomes in the two former provinces is that urban life may have remained in much better shape in Gaul than in Britain; Gaul had been Roman for longer than Britain, and urban life was probably much more developed and on a larger scale, and may have proved more resilient when facing economic and political vicissitudes. In Gaul the Franks probably took over at least some functioning urban centres where an existing Latin-speaking elite formed the basis for the future administration of the territory; this, combined with the importance and prestige of Latin as the language of the western Church, probably led ultimately to the emergence of a Romance-speaking nation. In Britain the existing population, whether speaking Latin or Celtic, probably held very little prestige in the eyes of the Anglo-Saxon incomers, and this may have been a key factor in determining that England became a Germanic-speaking territory: the Anglo-Saxons may simply not have had enough incentive to adopt the language(s) of these people.


 つまり,ローマ帝国の影響が長続きしなかったブリテン島においては,ラテン語の存在感はさほど著しくなく,先住のケルト人も,後に渡来してきたゲルマン人も,大きな言語的影響を被ることはなかったし,ましてやラテン語へ言語交代 (language_shift) することもなかった.しかし,ガリアにおいては,ローマ帝国の影響が長続きし,ラテン語(そしてロマンス語)との言語接触も持続したために,最終的に基層のケルト語も後発のフランク語も,ラテン語に呑み込まれるようにして消滅していくことになった,というわけだ.
 ブリテン島とガリアは,ケルト系言語の基層の上にラテン語がかぶさってきたという点では共通の歴史を有しているようにみえるが,ラテン語との接触の期間や密度という点では差があり,それが各々の地域における後世の言語事情にも重要なインパクトを与えたということだろう.この差は,部分的にはローマからの距離の差やラテン語に対して抱いていた威信の差へも還元できるものかもしれない.
 この両地域の社会言語学的な状況の差は,回り回って英語とフランス語におけるケルト借用語の質・量の差にも影響を与えている.これについては,Durkin による「#3753. 英仏語におけるケルト借用語の比較・対照」 ([2019-08-06-1]) を参照されたい.

 ・ Durkin, Philip. Borrowed Words: A History of Loanwords in English. Oxford: OUP, 2014.

Referrer (Inside): [2019-09-08-1]

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2019-09-06 Fri

#3784. ローマン・ブリテンの言語状況 (1) [roman_britain][latin][celtic][history][sociolinguistics][bilingualism]

 Claudius 帝によるブリテンの征服が成った43年から,ローマが撤退する410年までのローマン・ブリテン時代には,言語状況はいかなるものだったのか.ケルト系言語とラテン語はどのくらい共存しており,どの程度のバイリンガル社会だったのか.これらの問題については正確なことが明らかにされておらず,およそ推測の域を出ないが,1つの見解として Durkin (57--58) の説明に耳を傾けてみよう

Unfortunately for our purposes, the linguistic situation is one of the things about which we know the least. During the period of Roman imperial domination, Latin was certainly the language of administration and of much of the elite; what is much less certain, and rather hotly disputed, is whether it was also the language of the 'man in the street', and if it was, whether it remained so in more troubled times before the arrival of the Anglo-Saxons. The assumption made by most scholars is that Latin had relatively little currency outside the urban areas; that (some form of) Celtic was the crucial lingua franca; while auxiliaries recruited from many locations both inside and outside the Roman Empire probably spoke their own native languages. There were certainly Germani among such auxiliaries. There were probably also slaves of Germanic origin in Britain and in the later stages of Roman Britain there were also certainly at least some mercenaries and other irregular forces of Germanic origin, and some settlements associated with such people. They may have been quite numerous, but it is unlikely that they had any significant impact on the subsequent linguistic history of Britain.


 ラテン語はブリテン島に点在する都市部でこそ用いられていたが,それ以外では従来のケルト語の世界が広がっていたはずだというのが,大方の見解である.公的な領域においてはバイリンガル社会は存在したと思われるが,それほど著しいものではなかったろう.一方,ローマン・ブリテン時代の後期には,ゲルマン人もある程度の数でブリテン島に住まっていたことは確かなようであり,当時の言語状況はさらに複雑だったと思われる.
 ローマン・ブリテン時代にさかのぼる地名の話題については「#3440. ローマ軍の残した -chester, -caster, -cester の地名とその分布」 ([2018-09-27-1]),「#3454. なぜイングランドにラテン語の地名があまり残らなかったのか?」 ([2018-10-11-1]) を参照.

 ・ Durkin, Philip. Borrowed Words: A History of Loanwords in English. Oxford: OUP, 2014.

Referrer (Inside): [2019-09-08-1]

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2019-09-05 Thu

#3783. 大陸時代のラテン借用語 pound, kettle, cheap [latin][loan_word][germanic][etymology][history]

 英語(およびゲルマン諸語)が大陸時代にラテン語から借用したとされる単語がいくつかあることは,「#1437. 古英語期以前に借用されたラテン語の例」 ([2013-04-03-1]),「#1945. 古英語期以前のラテン語借用の時代別分類」 ([2014-08-24-1]) などで紹介してきた.ローマ時代後期の借用語とされる pound, kettle, cheap; street, wine, pit, copper, pin, tile, post (wooden shaft), cup (Durkin 55) などの例が挙げられるが,そのうち pound, kettle, cheap について Durkin (72--75) に詳しい解説があるので,それを要約したい.
 古英語 pund は,Old Frisian pund, Old High German phunt, Old Icelandic pund, Old Swedish pund, Gothic pund などと広くゲルマン諸語に文証される.しかし諸言語に共有されているというだけでは,早期の借用であることの確証にはならない.ここでのポイントは,これらの諸言語に意味変化が共有されていることだ.つまり,いずれも重さの単位としての「ポンド」の意味を共有している.これはラテン語の lībra pondō (a pound by weight) という句に由来し,句の意味は保存しつつ,形態的には第2要素のみを取ったことによるだろう.交易において正確な重量測定が重要であることを物語る早期借用といえる.
 次に古英語 ċ(i)etel もゲルマン諸語に同根語が確認される (ex. Old Saxon ketel, Old High German kezzil, Old Icelandic ketill, Gothic katils) .古英語形は子音が口蓋化を,母音が i-mutation を示していることから,早期の借用とみてよい.ラテン語 catīnus は「食器」を意味したが,ゲルマン諸語ではそこから発達した「やかん」の意味が共有されていることも,早期の借用を示唆する.ただし,現代英語の kettle という形態は,ċ(i)etel からは直接導くことができない.後の時代に,語頭子音に k をもつ古ノルド語の同根語からの影響があったのだろう.
 ラテン語 caupō (small tradesman, innkeeper) に由来するとされる古英語 ċēap (purchase or sale, bargain, business, transaction, market, possessions, livestock) とその関連語も,しばしば大陸時代の借用とみられている.現代の形容詞 cheap は "good cheap" (good bargain) という句の短縮形が起源とされる.ゲルマン諸語の同根語は,Old Frisian kāp, Middle Dutch coop, Old Saxon kōp, Old High German chouf, Old Icelandic kaup など.動詞化した ċēapian (to buy and sell, to make a bargain, to trade) や ċȳpan (to sell) もゲルマン諸語に同根語がある.ほかに ċȳpa, ċēap (merchant, trader) を始めとして,ċēapung, ċȳping (trade, buying and selling, market, market place) や ċȳpman, ċȳpeman (merchant, trader) などの派生語・複合語も多数みつかる.この語については「#1460. cheap の語源」 ([2013-04-26-1]) も参照.

 ・ Durkin, Philip. Borrowed Words: A History of Loanwords in English. Oxford: OUP, 2014.

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2019-08-20 Tue

#3767. 日本の帝国主義,アイヌ,拓殖博覧会 [history][linguistic_imperialism][ainu][typology][history_of_linguistics]

 「#3603. 帝国主義,水族館,辞書」 ([2019-03-09-1]) の記事で,イギリス帝国(や大日本帝国)にとって,水族館やそこに展示される様々な生物は,自分たちが世界の海を支配していることを広くアピールする手段だったという議論をみた.安田敏朗(著)『金田一京助と日本語の近代』を読んでいて,よく似た議論に出くわした.日本が,帝国内に行なわれているアイヌ(語)を含めた様々な異質な民族や言語を展示することによって,帝国としての力をアピールしていたのではないかという見方だ.安田は,金田一京助もそのような観点からアイヌ(語)をとらえていたとみている.金田一の最初の本である訳書『新言語学』(1912年)の「自序」に,次のようにある(安田,p. 71--72 より孫引き).

〔漢字・漢文,欧米言語の学習という「苦行は」〕吾々に外国人には容易に得られない尊い資格をつけてゐる.それは,欧羅巴の学者の定説に拠ると,世界の諸国語は無慮数百千の多数に上るが,大観すると其の中に三つ(或は四つ)の大きな典型がある.曲折語・膠着語・孤立語これである.英語・仏蘭西語其の外白色人種の言語は,凡て曲折語に属し,支那語は孤立語に,日本語は膠着語に属する.
 して見ると,種々様々な形態を採る世界言語の一般概念は,此の小島国に生れた日本〔人〕は,大人になる迄には自然に把持する様に出来てゐる.
 尤も,四つの典型に観る場合には,前の三つの上に,抱合語といふものを加へる.抱合語の例を求めると,これも丁度日本には,アイヌという種族が話して国土の内に行はれてゐる.おまけに台湾には土着の熟蕃が孤立語を話してゐるので,日本といふ国はさながら世界各種の言語の見本を備へつけた,生きた図書館の観がある.実に言語研究の立場に於ては,日本人は生れ乍らに天与の特権をもってゐるものである.


 つまり,日本は,帝国の領土を拡張したことにより,そのまま諸言語の博覧会というべき存在となったというわけである.博覧会とは,比喩的な意味だけで言っているわけではない.というのは,1912年10月に上野公園で「拓殖博覧会」が開かれ,そこでアイヌを含め熟蕃,ギリヤーク,オロチョン,朝鮮に関する見世物が実際に展示されたのである.そして,金田一は,展示されるべく東京にやってきたアイヌ語のインフォーマントたちを利用して,自らのアイヌ語研究を進めることができた.
 帝国主義と言語学史には,思いのほか接点が多い.この件については「#3020. 帝国主義の申し子としての比較言語学 (1)」 ([2017-08-03-1]),「#3021. 帝国主義の申し子としての比較言語学 (2)」 ([2017-08-04-1]),「#3376. 帝国主義の申し子としての英語文献学」 ([2018-07-25-1]) も参照されたい.

 ・ 安田 敏朗 『金田一京助と日本語の近代』 平凡社〈平凡社新書〉,2008年.

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2019-07-26 Fri

#3742. ウェールズ歴史年表 [wales][welsh][timeline][history]

 「#1715. Ireland における英語の歴史」 ([2014-01-06-1]),「#2361. アイルランド歴史年表」 ([2015-10-14-1]) の記事で,アイルランドと英語の歴史を概説した.そのウェールズ版について,これまでの記事で「#1718. Wales における英語の歴史」 ([2014-01-09-1]) などは書いてきたが,「ウェールズ歴史年表」はまだ掲げていなかったので,ここに略年表を示そう.以下は,桜井(著)『物語 ウェールズ抗戦史』の巻末の年表 (249--51) より.ウェールズがイングランドに併合される1536年より前までの歴史で,かつ時期によって扱いの濃淡もあるが,簡便で有用な略年表である.

60?61年頃イケニ族の女王ボウディッカの反乱
410年ローマのブリテン島撤退
5世紀半ばアングロサクソン人のブリテン島侵入始まる
476年ローマ帝国(西ローマ帝国)滅亡
5世紀終わり?6世紀初めアンブロシウス・アウレリアヌス率いるブリトン人がベイドンの丘でアングロサクソン人に完勝
634年グウィネズ王カドワロン,ノーサンブリア王国を征服
900?950年ハウエル善良王の治世
1057年頃グリフィズ・アプ・サウェリンの全ウェールズ統一
1066年ノルマンの征服
 ノルマン人のウェールズ侵攻開始
1093年ノルマン人によるデハイバース王フリース・アプ・テウドゥールの殺害
1107?1111年フランドル人のウェールズ南西部移住
1155年フリース・アプ・グリフィズ(ロード・フリース),デハイバース王に即位
1174年ジェラルド・オブ・ウェールズ,ブレコンの副司教に就任
1176年ジェラルドの第1回セント・デイヴィッズ司教選挙始まる
1195年グウェンウィンウィン,ポウィス王に即位
1198?1203年ジェラルドの第2回セント・デイヴィッズ司教選挙
1199サウェリン・アプ・ヨーワース(大サウェリン),北ウェールズ大公を名乗る
1218年大サウェリン,イングランドとウースター条約を結ぶ
1258年サウェリン・アプ・グリフィズ(最後のサウェリン),ウェールズ大公を名乗る
1276?1277年第1次ウェールズ征服戦争
1282?1283年第2次ウェールズ征服戦争.ウェールズの政治的独立終わる
1400年オワイン・グリンドール蜂起.ウェールズ大公を名乗る
1404年オワイン,全ウェールズ規模の議会を招集
1405年オワイン,フランスと同盟
1409年ハルレッヒ城,陥落.オワインの乱の事実上の終了
1412年オワイン最後の目撃譚
1457年ヘンリー・テューダー,南西ウェールズのペンブローク城に生まれる
1461年ペンブローク城,陥落.4歳のヘンリー・テューダー,ヨーク派ウィリアム・ハーバートの保護下に
1470年ウィリアム・ハーバート敗北.ヘンリー・テューダー,叔父のジャスパーと再会
1471年14歳のヘンリー・テューダー,ブルターニュ公国に亡命
1485年8月28歳のヘンリー・テューダー,フランスから船団を率いてウェールズに戻る.ボズワースの戦いでリチャード3世を斃す
1485年10月ヘンリー・テューダー,ヘンリー7世としてイングランド国王に即位


 関連して,「#1742. 言語政策としての罰札制度 (2)」 ([2014-02-02-1]),「#3292. 史上最初の英語植民地 Pembroke」 ([2018-05-02-1]),「#3303. イングランド宗教改革の荒波をくぐりぬけたウェールズ語」 ([2018-05-13-1]) の記事も参照.

 ・ 桜井 俊彰 『物語 ウェールズ抗戦史 --- ケルトの民とアーサー王伝説』 集英社〈集英社新書〉,2017年.

Referrer (Inside): [2021-08-13-1]

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2019-06-14 Fri

#3700. 「アルファベットと鉄による文明の大衆化」論 [history][alphabet][writing][language_myth]

 紀元前2千年紀半ば以降に人類が獲得した2つの技術的発明の意義について,マクニール (128--29) が次のように述べている.

 アルファベット表記の発明の重要性は,ほぼ同じころおこった鉄の採用のそれと比べられよう.鉄の器具や武器は,貧富の差を和らげて,戦争や社会を大衆化した.また,上に述べたように,それは,はじめて農村の農民と都会の工人に互恵的な交換関係を結ばせて,文明というものを真に地域的特色を持つものにした.同じように,アルファベット文字は,普通人にも文字の初歩をなんとか学ばせるようにして,学問を大衆化したのである.アルファベットによって,それまでは特殊な神官団の中に保持されていた文明社会の高度の知的伝統が,かつてないほどに,俗人や一般人に解放された.さらに重要なのは,アルファベット文字のおかげで,俗人,一般人が,文明共同社会の文字による世襲財産に貢献することがひじょうに容易になり,結果としてその財産の種類の幅と量が大いにひろげられたことである.例えば,アルファベット文字がなかったら,アモスのような無学な牛飼いとか,その他だれにせよヘブライの預言者の言ったことなどが記しとめられて,後世今日にいたるまで人の思想と行動に影響を与えるようなことはなかっただろう.
 したがって,鉄とアルファベットの影響は,全人口のうちの以前より大きな部分が,文明生活の経済的,知的営みにもっと参加できるような状態をつくり出し,それまでにないほどしっかりと文明的な生活スタイルを確立させることになったのである.


 ここでマクニールは,アルファベットの発明と製鉄技術を,人類史における大衆的で民主的な革新ととらえて,その歴史的な意義を強調している.アルファベットより前の文字は一般庶民が容易に学べる類いの文字ではなく,その使用は閉鎖的な特権集団の内部に限られていた.ところが,数十個以下の文字数であらゆる言語を表記できるアルファベットが発明されたことにより,それを学習し使用する機会が一般社会に解放され,文明生活の拡大に寄与したというわけだ.
 これはもっともな理屈のように思われるし,実際にそのような側面もあり得たことは私も否定しない.しかし,アルファベットの単純さと学びやすさという要因のみで,文明生活の拡大という現象を説明することはできないだろうと考えている.「#2429. アルファベットの卓越性という言説」 ([2015-12-21-1]) の記事で,今回のマクニールの唱えるようなアルファベットの大衆性仮説に対する反論を展開したが,むしろ同仮説は神話的といってすらよい代物かもしれないのだ.
 この問題と関連して,「#2577. 文字体系の盛衰に関わる社会的要因」 ([2016-05-17-1]),「#1838. 文字帝国主義」 ([2014-05-09-1]),「#850. 書き言葉の発生と論理的思考の関係」 ([2011-08-25-1]),「#3568. literacy は認知上の決定的な差異をもたらすか? (1)」 ([2019-02-02-1]),「#3569. literacy は認知上の決定的な差異をもたらすか? (2)」 ([2019-02-03-1]),「#3545. 文化の受容の3条件と文字の受容」 ([2019-01-10-1]) の記事も参照.
 なお,鉄のもつ大衆的な性格についてもアルファベットと比較し検討したいところだが,門外漢なので控えておく.

 ・ マクニール,ウィリアム・H(著),増田 義郎・佐々木 昭夫(訳) 『世界史(上)』 中央公論新社,2008年.

Referrer (Inside): [2023-01-26-1]

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2019-05-19 Sun

#3674. Harris のカリグラフィ本の目次 [toc][review][calligraphy][alphabet][writing][history]

 Harris 著,ローマン・アルファベットの書体に関するイラスト本 The Art of Calligraphy は眺めていて飽きない.歴史上の様々な書体が,豊富な写本写真や筆による実例をもって紹介される.文字や筆記用具に関する蘊蓄も満載.
 本書の目次がそのままローマン・アルファベットの書体の歴史となっているので,以下に再現しておこう.

Introduction
   The Development of Western Script
   Script Timeline
   Getting Started
Roman & Late Roman Scripts
   Rustic Capitals
   Square Capitals
   Uncial & Artificial Uncial
Insular & National Scripts
   Insular Majuscule
   Insular Minuscule
Caroline & Early Gothic Scripts
   Caroline Minuscule
   Foundational Hand
   Early Gothic
Gothic Scripts
   Textura Quadrata
   Textura Prescisus
   Gothic Capitals & Versals
   Lombardic Capitals
   Bastard Secretary
   Bâtarde
   Fraktur & Schwabacher
   Bastard Capitals
   Cadels
Italian & Humanist Scripts
   Rotunda
   Rotunda Capitals
   Humanist Minuscule
   Italic
   Humanist & Italic Capitals
   Italic Swash Capitals
Post-Renaissance Scripts
   Copperplate
   Copperplate Capitals
Roman & Late Roman Scripts
   Imperial Capitals
Script Reference Chart
Glossary
Bibliography
Index & Acknowledgments


 ・ Harris, David. The Art of Calligraphy. London: Dorling Kindersley, 1995.

Referrer (Inside): [2020-05-23-1] [2019-06-28-1]

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2019-03-30 Sat

#3624. 安藤貞雄『英語史入門』の英語史年表 [timeline][history]

 本ブログでいくつか掲載してきた英語史年表のコレクションに,もう1つを加えよう.安藤貞雄『英語史入門』の第1章に「英語の外面史」と題する年表 (4--17) である.古代・中世についてかなり詳しいのが特徴(特長).

OE 外面史 (449--1100)
      【先史時代】
2500--2000BCスペイン・フランスにも住んでいた,短身,黒髪の新石器人種である Iberia 種族,menhir (立石),dolmen (環状列石)などの巨石遺跡を残す.
      【ケルト族の移住】
c2000BCケルト族 (Celts),大陸の Armorica (=Brittany) から Britannica (=Britain) に渡る.やがて,ピクト族 (Picts),Scythia (おそらく Scandinavia)から Caledonia (=Scotland) に移住.のちに,スコット族 (Scots),Hibernia (=Ireland) から Scotland の西半分に移住する.
      【ローマ人による征服 (Roman Conquest)】
55--54BCCaesar, 2度にわたりブリテン島を侵攻.
AD47ローマ皇帝 Claudius, ブリテン島を征服,以後約350年間,ローマ帝国の支配下に置く.
122--26Hadrianus 皇帝,スコットランド連合軍の侵略を防ぐ目的で,イングランド北部に125キロの城壁 (Hadrian's Wall) を築く.
395ローマ帝国,東西に分裂.
410最後のローマ軍団,Vandal 族からローマを守ためにブリテン島から撤退.
      【ヴァイキングの侵入】
449ブリテン王,北方の Pict 族の撃退を大陸のジュート族 (Jutes) に依頼,Pict 族,至るところで打ち破られる.
455Jute 族,Kent に移住.
477Saxon 族,Sussex に移住.
496別の Saxon 族,Wessex に定住.
547Angle 族,Humber 川の北に Northumbria 王国を建国.6世紀末までに Anglo-Saxon Heptarchy (7王国)の時代となる.
      【キリスト教化】
563St. Columba,アイルランドから12人の修道士を伴い,Iona [aióunə] 島に渡り,修道院を建立(アイルランド系キリスト教).
597St. Augustine, キリスト教宣教のために教皇 Gregory I によってローマから Kent 王国へ派遣される(ローマキリスト教).
604Kent 王,ロンドンに St. Paul's 会堂を創建.
617--85Northumbria,イングランドを制覇,政治・文化の中心となる.
635アイルランド生まれの St. Aidan [éidn], Northumbria に渡り,Lindisfarne に修道院を創設,宣教に努める.
657--80Whitby の女子修道院の牛飼いであった Cædmon, 霊感を得て天地想像の賛美歌 (Hymn) を歌う.
664Northumbria の Whitby での宗教会議,ローマキリスト教の優位が認められる.
c725ゲルマン語最古の叙事詩 Beowulf の原本成る(ただし,British Library 所蔵の唯一の現存写本は1000年ごろのもの).
731Jarrow の修道院の司祭 St. Bede, Historia Ecclesiastica Gentis Anglorum (英国民教会史)を完成(本文ラテン語,アングロサクソン族がキリスト教化された歴史を述べる).
780--850詩人 Cynewulf (Elene, The Fates of the Apostles, Christ II, Juliana) .
      【デーン人の征服】
793--4Lindisfarne,および Jarrow の修道院,デーン人 (Danes) により掠奪される.
829Wessex 王 Egbert, Mercia を征服,7王国を統一する.
851デーン人,イングランドで初めて越冬,London, Canterbury を占領.
866--71デーン人,East Anglia, Northumbria, Mercia を攻略,続いて Wessex に侵入.
871--99Alfred 大王の治世,教会の復興,僧院の建設,学問の復興に努める.教皇 Gregory, Orosius, Boethius の著作を翻訳し,Bede の教会史の OE 訳を提唱,Anglo-Saxon Chronicle の編集を指導する.
878Wedmore 協定,Alfred 王,苦戦の末,侵入者デーン人を破り,London と Chester を結ぶ線の北側をデーンロー (Danelaw) (デーン人の法律が及び,かつ居住を許される地域)とした).
c890Englisch (= English) という語,Bede の OE 訳に初出.
901--50ノルウェー人,アイルランドを経てデーンロー地区へ移住.
937Brunanburh の戦い,Wessex 王 Athelstan,デーン人を破り,英国の統一を確立.
978Ethelred,英国王となる,デーン人の攻略を防げず,"the Unready" (無策王)とあだ名される.
c990--98Ælfric, 司教のための説教集 Homilies や聖徒伝を書いて散文の発達の貢献,OE で初学者用ラテン文法書も書いた.
991Olaf (のち Norway 王),英国に侵攻 (The Battle of Maldon (現存するのは325行)はこのさまを歌ったもの).
c1000Beowulf 写本(当時の文学語 West-Saxon 方言に基づいて筆者),West-Saxon Gospels (West-Saxon 方言による最初の本格的英訳聖書で,6種の写本が残っている).
1013デンマーク王 Svein,英国王 Ethelred を国外に追放,王位を奪う.
1016Svein の息子 Canute,英国王位 (--35) につく(デンマーク王 (1019--35),ノルウェー王 (1028--35) を兼ねる).
1042Ethelred 無策王の息子 Edward,英国王 (--66) となり,デーン人より王位を回復する."the Confessor" (篤信王)と呼ばれ,聖徒に列せられる.
      【ノルマン人の征服】
1066Wessex 伯 Harold, Edward を継いで王位につく.Normandy 公 William, Hastings の戦いで Harold を破り,英国王 William I となる (--87) .支配階級はノルマンフランス語を日常語とし,多数のフランス語,英語に流入する.
1079教皇 Gregory VII, Vulgata 聖書(ラテン語訳)意外の使用を禁止(他の言語への翻訳は異端とみなされた).
1086William I の勅命により,課税のための土地台帳 Domesday Book が完成.
1087William II 即位 (--1100) .
1096聖地奪還のため第1回十字軍 (--99) .以後約2世紀にわたって第8回(1270年)まで続き,イスラム世界と接触する.
ME 外面史
1100Henry I 即位 (--35) .
1106Henry I, 長兄の領土 Normandy をも英国王の所属とする.
1135Blois 伯 Stephen,英国王となる (--54) .
1154Anjou 伯 Henry,英国王 Henry II となり (--89) ,Plantagenet 王朝始まる (--1399) .この年まで Peterborough の修道院で Anglo-Saxon Chronicle (Laud Manuscript) が書きつがれ,1080年以降の部分の英語は明らかに ME の特徴を示している.(もう一つ重要な写本 Parker Manuscript は1070年で終わっている.)
1162Thomas à Becket, Canterbury 大司教となる.教会の至上権を主張して Henry II と対立.
1170Oxford 大学創立,Thomas à Becket,国王側に暗殺される.
c1175Poema Morale (400行からなる宗教詩,英語で初めての脚韻を用いた).
1189Henry II の第3子 Richard (the Lion-Hearted 獅子心王),英国王となり (--99) ,第3回十字軍を率いる.
1199Henry II の末子 John (Lackland 失地王),英国王となる (--1216) .
c1200Layamon: Brut, Ancrene Riwle 'Rule for Anchoress', Ormulum, The Owl and the Nightingale (いずれもフランス語ではなく,英語 (ie ME) で書かれている点が注目に値する).
1204John 王,フランス王 Philip II と戦って,Normandy および大部分の大陸所領を奪われる.
1215John 王,貴族たちの要求をいれ,Magna Carta に調印.
1216John 王の息子 Henry III,9歳にして即位 (--72) .
a1225King Horn (英国最初の韻文ロマンス).約200のフランス借入語がある.
      【英語の復権】
c1250英国王 Henry III とフランス王 Lous IX に対する英国貴族の二重忠誠終わる.
1258Henry III, 悪政の抑止と政治の改革を求める「オックスフォード条項」 (Provisions of Oxford) を公布(英語とフランス語で書かれている)
1264「貴族の戦い」 (Baron's War) . Simon de Montfort の率いる貴族たち,Henry III を幽閉し,「オックスフォード条項」の遵守を要求する.
1265英国下院創設.
1272Henry III の第1子 Edward I 即位 (--1307) .Wales を完全に征服 (-1307) .
1300英語再び上流階級の第1言語となる.
1307Edward II 即位 (--27) .
1314Edward II, Scotland 王と戦い,敗れる.
a1325Cursor Mundi 「世界を走る者」(北部方言を用い,天地創造から最後の審判までを扱う長編宗教史).
1327Edward III 即位 (--77)
1337百年戦争 (Hundred Years' War) (--1453) (Edward III が母方の権利によってフランス王位を要求して侵略を開始したため,英仏間で断続的におこなわれた戦争)始まる.
1348黒死病 (Black Death) ,ヨーロッパ全土に広がり,多数の聖職者が死亡.その後継者養成のため,grammar school が英国各地に設けられる (--50) .労働階級の日常語である英語の重要性が増す.最高の勲位ガーター勲位 (the Order of the Garter) 制定.
1350英国議会,上下両院に分かれる.
1356London, Middlesex 州法廷で英語の使用始まる
1362議会開会演説,初めて英語で行なわれる.訴答法 (Statute of Pleading) により,法廷用語も英語となる.
c1362William Langland, Piers Plowman (寓意的な物語史).
      【宗教改革,聖書英訳】
1374John Wyclif の宗教改革運動始まる.
1377Richard II 即位 (--99) (Plantagenet 朝最後の王).
1381Wat Tyler, John Ball らの農民一揆 (Peasants' Revolt) により,彼らの言語である英語の重要性がさらに増す.
1383最古の英語の遺言状書かれる.
c1384最初の完訳英語聖書 Wycliffite Bible 完成(Wyclif の指導のもとに公認ラテン語訳聖書 Vulgate から重訳).Wyclif, そのために殉教する.
1385英語による教育,すべての grammar school で定着する.
c1387Geoffrey Chaucer, The Canterbury Tales (--1400) .Chaucer の全作品のロマンス語の借入語の比率は51.8%.
1388Purvey, Wycliffite Bible を一層慣用的な英語にするべく改訂に着手.
c1390Sir Gawayne and the Grene Knight (西中部方言で書かれた,ME ロマンスの代表的傑作).
c1393John Gower, Confessio Amantis (恋する男の告解)(恋物語を集めたもの).Gower の全語彙のうち,ロマンス借用語は42.1%,本来語派54.9%,ON 借入語は1.9%である.
c1395Wycliffite Bible 後期訳成る.
1399Lancaster 公,Richard II を破り,Henry IV となる(Lancaster 王朝始まる (--1361)).
1400遺言書,一般に英語で書かれ始める.
1413Henry V 即位 (--22) .
1415Henry V,アジャンクール (Agincourt) でフランスの大群を破り,英国人に自信を与える.
1423国会の議事録,英語で記される.
1425ロンドン方言が標準的な書き言葉になり,公文書に用いられる.
1431Jeanne d'Arc (1412--) 焚殺される.
1438ドイツの Gutenberg,活字印刷を始める.
1442Henry VI 即位 (--61), York 公 Edward に王位を奪われ,Scotland に亡命する.
1450諸都市の記録,英語で行なわれる.
1455バラ戦争 (Wars of Roses) 勃発,王位継承をめぐって York 家と Lancaster 家の間で争われた内乱 (--85) .
1461Edward IV 即位 (--70) .York 王朝始まる.
a1470Thomas Malory, Le Morte Darthur (散文による Arthur 王(ケルト人)伝説の集大成.近代初期散文の文体に決定的な影響を与える).
1470Henry VI (Lancaster 家),王位回復 (--71) .
1471Edward IV (York 家),再び王位回復 (--83) .
1476William Caxton, Westminster で英国最初の印刷物出版を始め,標準英語を普及させる.
1483Edward V (York 家),2ヶ月間英国を治めるが,野心家の叔父の Richard, Edward を暗殺し,Richard III (York 家)となる (--85) .
1485Lancaster 家の血を引く Henry Tudor, Richard III と決戦してこれを殺し,Henry VII となる(Tudor 王朝始まる (--1603)).
1489すべての法令,英語で記録される(1300年まではラテン語,それ以後はフランス語であった).
ModE 外面史
   EModE 期 (1500--1700)
1500ルネッサンス (--1650) .学校教育が普及し,活字印刷の導入によって,古典作品の翻訳が盛んに行われ,正書法も徐々に確立していく.特にラテン語から約1万の語を借入するとともに,強い民族意識に支えられて,英語が学術語トしても使用されるようになった.
1509Henry VIII 即位 (--47) .
1522ドイツの Martin Luther,新約聖書のドイツ語訳を出版.
1525William Tyndale [tìndl],ギリシア語原典より新約聖書を訳し,ドイツで出版.素朴にして雄渾な訳文は,のちの欽定訳英語聖書 (AV) などの手本となった.
1534Henry VIII,ローマ教会と絶縁する.Martin Luther,旧新約聖書のドイツ語訳を完成.
1535Henry VIII, Oxford 大学に古典文学講座を設ける.Coverdale's Bible (旧新約聖書を含むが,Luther 訳や Vulgata 聖書からの重訳であった).
1536Henry VIII,小修道院を破戒,解散し,その土地と財産を没収する.Tyndale,絞首焚刑に処せられる.
1537Matthew Bible (Tyndale 訳と Coverdale 訳をつなぎ合わせたもの).
1539Henry VIII,大修道院を解体(多数の写本・文書が紛失する),The Great Bible (大きな folio 版のため,こう呼ばれた).Coverdale 主幹で完成(最初の英国国教会の公認訳).
1541Henry VIII, King of Ireland の称号をアイルランド議会に承認させる.
1543inkhorn terms (インク壺言葉)という用語の OED における初例.その難解さのゆえに嘲笑,非難された.
1547Henry VIII の第1子 Edward VI, 10歳で即位 (--53) .
1549Edward VI, The Book of Common Prayer を制定(その後,数回の改定を経て1662年版が決定版).
?1552詩人 Edmund Spenser 生まれる (--99) .
1553Henry VIII と第1夫人の娘 Mary I (Bloody Mary) 即位 (--58) .母と同様カトリック教徒で,英国をカトリック教国に戻そうとして多くの新教徒を処刑する.
1560The Geneva Bible (ジョネーヴに亡命中の Calvin 派の学者たちによる翻訳,正確な訳文は,のちの欽定訳英語聖書に大きな影響を与える).
1561親切の Merchant Taylors' School の校長 Richard Mulcaster,英語を古典語よりも優先する.
1564詩人・劇作家 William Shakespeare 生まれる (--1616) .
1568The Bishops' Bible (Canterbury 大主教 Parker を主幹として,The Great Bible を改定したもの).
1582The Rheims-Douai Bible (政府の弾圧を逃れて大陸に亡命中のカトリック教徒が Vulgata 聖書から新訳を重訳したもの).旧約は1609--10年に出版.
1586Bullokar, Bref Grammar for English (最初の英文法書).
1588Drake, Hawkins ら,スペインの無敵艦隊 (Invincible Armada) を撃退,英国の海外進出の道を開く.
1590--1620英国劇全盛時代.
1603スコットランドの James VI,英国王 James I となり,Stuart 王朝始まる (--1714) .王権神授 (Divine Right) を信じ,カトリック教徒と清教徒を圧迫する.
1605James I に失望したカトリック教徒による,告解を撃破しようとした陰謀事件 (Gunpowder Plot) ,カトリック教徒 Guy Fawkes が首謀.
1611『欽定訳英語聖書』 (The Authorized Version of the Bible, AV) .本来語が多用され,延語数で約90%,近代英語の文体に大きな影響を与え,引用句辞典でも Shakespeare を抜いて最大の源泉.
1620102名の清教徒 Pilgrim Fathers,自由の天地を求めて北栄の Cape Cod に上陸.New England の建設に乗り出す.
1623Condell and Heminge, Shakespeare の First Folio を出版.
1625James I の子 Charles I 即位 (--49) .フランス王女と結婚,宮廷にカトリック的・専制的傾向が浸透.
1631詩人・劇作家・批評家 John Dryden (--1700) 生まれる.
1636Harvard 大学創立.
1638Sir Henry Spelman, Cambridge 大学で Anglo-Saxon 語講座を担当(まもなく廃絶).
1640Ben Jonson,外国人のために The English Grammar を著す.
1642内乱 (Civil War) が起こる (--51) .Charles I,清教徒を弾圧,専制的で議会を無視したため,全国が王党 (Cavaliers) と議会党 (Roundheads) に分かれて戦った.倫敦の劇場閉鎖.
      【共和制始まる】
1649Charles I 処刑され,共和制 (Commonwealth) 始まる (--60) .
1650理性の時代 (Age of Reason) (--1714) .形式・バランス・抑制・調和・品位・秩序が重んじられる.
1653Oliver Cromwell (1599--1658),護国卿 (Lord Protector) となる.
      【王政復古】
1660フランスに亡命中の Charles II (「陽気な王様」 "Merry Monarch")即位,王政復古 (Restoration) 成る.劇場再開.
1662英国学士院 (Royal Society) 認可(会員に簡潔明晰な表現を要求したので,散文の発達にも貢献).
1664英国学士院,「英語改良委員会」を設置(John Dryden が最も積極的に働いた).
1667John Milton, Paradise Lost 『楽園喪失』,荘重体を用いて人間の原罪と神の摂理を説く.
1678John Bunyan, The Pilgrim's Progress 『天路歴程』(寓意物語),広く読まれて小説勃興の気運を促す.
1685York 公,James II として即位 (--88) .カトリック教徒で専制的であったため,人心離反し革命を招く.
1688名誉革命 (Glorious Revolution) .James II は,アイルランドへ逃亡し,王女 Mary と夫 William of Orange (オランダ人)が,Mary II (--1694), William III (--1702) として,共同で王位を継ぐ.
   LModE 期 (1700--1900)
      【ジャーナリズムの勃興】
1702Mary II の妹 Anne 即位 (--14) .“文芸全盛期” (Augustan Age) 始まる (--26) ,Samuel Beckley, 英国最初の日刊新聞 The Daily Courant を創刊 (--35) .
1704Daniel Defoe, A Weekly Review of the Affairs of France and of All Europe を創刊 (--12) .
1707Scotland の議会,England の議会と合流,連合王国 (The United Kingdom of Great Britain) が成立する.
1708ロンドンで coffee-house が全盛期で,その数3000.文学・政治・時事問題などが論じられる.
1709Sir Richard Steele, 週3回発行の刊行物 The Tatler を発行 (--11) .
1711日刊紙 The Spectator 創刊 (--14) .二人の編者 Addison と Steele の英語は,整然として平明であり,その後の英語の文体に大きく影響した.
1712Swift, "A Proposal for Correcting, Improving and Ascertaining the English Tongue" (アカデミーの提唱).
1714Anne 女王没.Tory 党権力を失い,Whig 党の推す James I の曾孫 Hanover 選挙公 George Louis が,George I として王位につく(今日まで続く Honaver 王朝の始まり).彼はドイツ人で全く英語が話せず,宮廷ではフランス語を使用した.閣議も欠席しがちで,ために内閣の独立性が強まった.
1721Bailey, An Universal Etymological English Dictionary. 難語だけでなく,基本語も収録し,本格的に語源も示した最初の英語辞書.Johnson の事典の基礎となる.増補を続け,1802年まで30版を重ねた.
1727George II 即位 (--60) .
1731公用語としてのラテン語を全廃する.
1753大英博物館 (British Museum) 創立.
1755Samuel Johnson, A Dictionary of the English Language. 出典を明示,慣用として行なわれる綴り字を提示し,その固定化に寄与した.この辞典は,英国ではできなかったアカデミーの代わりとしたと言える.
1760George III 即位 (--1820) .
1762Robert Lowth [lauθ], A Short Introduction to English Grammar. 典型的な規範文法で,広く読まれ,米国でも好評を博した.
1768Encyclopaedia Britannica (初版3巻)発刊(第4版 (1801--10) は全20巻).
1776アメリカ合衆国,独立を宣言(7月4日).
1783James Watt, 蒸気機関を発明.続いて産業革命起こる.
1795Lindley Murray, English Grammar. will と shall の使い分け,二重否定,It's me の禁止など,18世紀中葉以来の規範文法の集大成で,19世紀末まで学校文法を風靡した.
1805Nelson 提督,Trafalgar 沖海戦でフランス艦隊を破り,制海権を握る.英国は世界貿易の大部分を制し,英語の威信も高まる.
1806Noah Webster, A Compendious Dictionary of the English Language. のちにアメリカの綴り字として定着する新綴り字法を使用.この辞書の百科辞書的編纂法はアメリカの辞書の伝統となる.最新番は Webster's Third New International Dictionary of the English Language (1961) で,残念ながら百科辞典的傾向が失われてしまった.
1820George IV 即位 (--30) .
1832First Reform Bill (商工業者に選挙権).
1837Victoria 女王即位 (--1901) .
1861アメリカの南北戦争 (Civil Law) (--65) .
1867Second Reform Bill (納税している中流下層部に選挙権).
1881Revised Version (RV) の新約出版.旧約は1885年.
1884The New English Dictionary (NED) Part I (A--Ant) 刊行される(1928年に完成,全10巻).のちに13巻に分けて The Oxford English Dictionary (OED) と改称,Supplement (1933) .
1884Third Reform Bill (小作人に選挙権).
   PE 期 (1900--)
1901Edward VII 即位 (--10) .The American Standard Version of the Bible (ASV) ,米国で出版.
1910George V 即位 (--36) .
1914第一次世界大戦 (--18) .
1928Last Reform Bill (女性に選挙権).
1936Edward VIII 即位 (--36) .George VI 即位 (--52) .
1939第二次世界大戦 (--45) .
1946ASV の改訂版 Revised Standard Version の新約,米国で出版.旧約は1952年.
1952Elizabeth II 即位.
1961The New English Bible (NEB) 新約出版.旧約は1970年.その英語について,各方面からきびしい批判にさらされる.
1966The Jerusalem Bible (各書の解説と注に特色).
1988OED 第2版(20巻)刊行.
1989The Revised English Bible (NEB の全面改定訳).その改訂版 The New Revised English Bible (1990) では,thou, thee などが除去され,性差別表現が回避されている.


 ・ 安藤 貞雄 『英語史入門 現代英文法のルーツを探る』 開拓社,2002年.

Referrer (Inside): [2019-11-02-1]

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2019-03-12 Tue

#3606. 講座「北欧ヴァイキングと英語」 [asacul][old_norse][inflection][word_order][history][contact][loan_word][borrowing][link][slide]

 先日3月9日(土)の15:00?18:15に,朝日カルチャーセンター新宿教室にて,「英語の歴史」と題するシリーズ講座の第2弾として「北欧ヴァイキングと英語」をお話ししました.参加者の方々には,千年以上前のヴァイキングの活動や言葉(古ノルド語)が,私たちの学んでいる英語にいかに多大な影響を及ぼしてきたか分かっていただけたかと思います.本ブログでは,これまでも古ノルド語 (old_norse) に関する話題を豊富に取り上げてきましたので,是非そちらも参照ください.
 今回は次のような趣旨でお話ししました.

 英語の成り立ちに,8 世紀半ばから11世紀にかけてヨーロッパを席巻した北欧のヴァイキングとその言語(古ノルド語)が大きく関与していることはあまり知られていません.例えば Though they are both weak fellows, she gives them gifts. という英文は,驚くことにすべて古ノルド語から影響を受けた単語から成り立っています.また,英語の「主語+動詞+目的語」という語順が確立した背景にも,ヴァイキングの活動が関わっていました.私たちが触れる英語のなかに,ヴァイキング的な要素を探ってみましょう.

   1. 北欧ヴァイキングの活動
   2. 英語と古ノルド語の関係
   3. 古ノルド語が英語の語彙に及ぼした影響
   4. 古ノルド語が英語の文法に及ぼした影響
   5. なぜ英語の語順は「主語+動詞+目的語」で固定なのか?


 講座で使用したスライド資料をこちらにアップしておきます.スライド中から,本ブログの関連記事へもたくさんのリンクが張られていますので,そちらで「北欧ヴァイキングと英語」の関係について復習しつつ,理解を深めてもらえればと思います.

   1. シリーズ「英語の歴史」 第2回 北欧ヴァイキングと英語
   2. 本講座のねらい
   3. 1. 北欧ヴァイキングの活動
   4. ブリテン島の歴史=征服の歴史
   5. ヴァイキングのブリテン島来襲
   6. 関連用語の整理
   7. 2. 英語と古ノルド語の関係
   8. 3. 古ノルド語が英語の語彙に及ぼした影響
   9. 古ノルド語からの借用語
   10. 古ノルド借用語の日常性
   11. イングランドの地名の古ノルド語要素
   12. 英語人名の古ノルド語要素
   13. 古ノルド語からの意味借用
   14. 句動詞への影響
   15. 4. 古ノルド語が英語の文法に及ぼした影響
   16. 形態論再編成の「いつ」と「どこ」
   17. 古英語では屈折ゆえに語順が自由
   18. 古英語では屈折ゆえに前置詞が必須でない
   19. 古英語では文法性が健在
   20. 古英語は屈折語尾が命の言語
   21. 古英語の文章の例
   22. 屈折語尾の水平化
   23. 語順や前置詞に依存する言語へ
   24. 文法性から自然性へ
   25. なぜ屈折語尾の水平化が起こったのか? (1)
   26. なぜ屈折語尾の水平化が起こったのか? (2)
   27. なぜ屈折語尾の水平化が起こったのか? (3)
   28. 形態論再編成の「どのように」と「なぜ」
   29. 英文法の一大変化:総合から分析へ
   30. 5. なぜ英語の語順は「主語+動詞+目的語」で固定なのか?
   31. 本講座のまとめ
   32. 参考文献

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2019-03-09 Sat

#3603. 帝国主義,水族館,辞書 [borrowing][history][cosmopolitan_vocabulary][linguistic_imperialism]

 水族館には好んででかけていくほうだが,最近,溝井裕一(著)『水族館の文化史』を読むまで,水族館へ足を運ぶという文化の背後に,ここまで深い歴史と,ときに露骨なまでの帝国主義的な意味合いが込められているとは思いも寄らなかった.イラスト等も豊富で,知的刺激に富む一冊.
 水族館(や動物園)は,人間が他の生物を支配していることの証であるにとどまらず,他の人間に対してみずからの権力を誇示するためのステータス・シンボルでもあった(溝井,p. 47).水族館の原型は古代や中世にもみられたが,現代的な意味での公開型水族館の第1号は,1853年にロンドン動物園内に設立された「フィッシュハウス」だとされる.ロンドンという場所といい,19世紀半ばというタイミングといい,イギリス帝国の存在を思い起こさずにはいられない.溝井 (74) によれば,

 フィッシュハウスは,ただ珍奇な見世物だったわけではない.それは西洋文明が自然からもぎとったさらなる勝利を象徴するものであった.しかも,これがロンドン動物園に生まれた点が重要である.1828年の開園以来,ロンドン動物園には,世界各地から連れてこられた動物が展示されたが,それは多様な生きものを管理できるイギリス人の優れた能力を誇示するものだった.さらに動物たちは,イギリス人が支配する,あるいはアクセスできる地域をも体現した.
 フィッシュハウスにも,おなじことが当てはまる.生きた魚の展示は,アクアリウムを生んだイギリス人の英知と,大英帝国の支配がとうとう水界にまで及んだことを表象したのである.しかもその範囲は,いずれ全海域におよぶであろうことは,『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』のつぎの一文にもあらわれていよう.

海のもっとも隔絶されたところにいる華麗な種でさえ,今後,常に変化しまた興味深いコレクション[……]に追加されない理由はない.


 その後,イギリスでは1871年と翌年に,クリスタル・パレス水族館とブライトン水族館もそれぞれ開館した.時をほぼ同じくして,1872--76年には,イギリス軍艦「チャレンジャー」による深海探査も開始され,イギリスは世界の海底にまで触手を伸ばすことになった.

 「チャレンジャー」に期待されていたのは,深海生物の実態を明らかにすることであった.とはいえ,生物学的探究のためだけに,イギリス政府が軍艦1隻を貸すわけがない.「チャレンジャー」は,世界中の海流や水質を調査することも任務としており,それは海底用電信ケーブルの敷設に役立てられることになっていた.ケーブルは,遠隔地との交信を容易にするため,戦略的に重要とみなされており,大英帝国は,自国のケーブルのために海底を確保することを望んでいたのだ.
 それに,海流や水位がわかれば,海軍の展開にどれほど役立つことか.有名な歌に「ブリタニア,海を統治せよ」とあるように,大英帝国はなんといっても海の国である.海の情報をもっとも多く蓄積するのはとうぜんであり,しかもその支配は海面だけでなく海底にまでおよぶべきであったのだ.(溝井,p. 114)


 帝国主義と水族館発展史の関わりは,イギリスに限定されない.大日本帝国も,同じように水族館と関わっていた.「大日本帝国の水族館」と題する節で,溝井 (177--78) は次のように述べている.

 明治期の水族館のもうひとつの特徴は,帝国主義とのかかわりだ.和田岬水族館は,台湾が日本統治下におかれていくばくもたたないうちに,そこから運んできたタイマイを展示している.当時の来館者には,その政治的意味は明らかだったはずである.ヨーロッパの動物園や水族館において,植民地産の生きものが,帝国の版図を表象していたことはすでに述べた.同様に,台湾産の生きものは,大日本帝国が新しく獲得した植民地を体現していた.
 もちろん,タイマイを展示した運営者側の本来の意図は定かではない.しかしこの時代,できるかぎり広い地域から,できるかぎりたくさんの生きものを展示しようとする水族館は,おのずから帝国主義と結びつかざるをえなかったのである.
 堺水族館でも,再び台湾産のサンパンヒー,レーヒー,ゼンヒー,コウタイ,トウサイなる魚が展示された.これらを出品したのは,台湾総督府である.


 水族館をこのようにみる視点は,言語の帝国主義的側面にも新たな光を与えてくれそうだ.関連して,「#3020. 帝国主義の申し子としての比較言語学 (1)」 ([2017-08-03-1]),「#3021. 帝国主義の申し子としての比較言語学 (2)」 ([2017-08-04-1]),「#3376. 帝国主義の申し子としての英語文献学」 ([2018-07-25-1]) を参照.
 また,エキゾチックな水産物をエキゾチックな単語に置き換えてみれば,近代以降,なぜ英語が世界の隅々から語彙を借用し,それを OED などの辞書に登録してきたかという問題にも,1つの答えが出せるように思われる.辞書は水族館なのかもしれない.関連して「#2359. 英語が非民主的な言語と呼ばれる理由 (3)」 ([2015-10-12-1]) も参照.

 ・ 溝井 裕一 『水族館の文化史 ひと・動物・モノがおりなす魔術的世界』 勉誠出版,2018年.

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