言語変化がなぜ生じるか,その原因については様々な研究がなされてきた.言語変化の causation に関する議論は,基本的には後付けの議論である.過去に生じた,あるいは今生じている言語変化を観察し,状況証拠から何が原因だろうかと推測する.多くの場合,そのように推測された原因は当該の言語変化についてのみ有効な説明であり,別の変化に適用したり,今後の変化を予測するのには役立たない.また,ほぼすべての言語変化において原因は一つではなく複数の原因が複合的に組み合わさっていると考えられ,causation の議論では一般論が成立しにくい.
しかし,概論的にいえば多くの言語変化に当てはまると考えられる傾向はあり,いろいろと分類されている.細分化すればきりがないが,基本的に同意されていると思われるのは,言語内的 ( language-internal ) な原因と言語外的 ( language-external ) な原因とに二分するやり方である.Brinton and Arnovick ( 56--62 ) に従って,代表的な原因を箇条書きしよう.いくつかの項目の末尾に,関連するキーワードと本ブログ内へのリンクを付した.
・ Language-Internal Causes
[ 話者がおよそ無意識的 ]
・ ease of articulation ( assimilation )
・ perceptual clarity ( dissimilation )
・ phonological symmetry ( [2009-11-27-1] )
・ universal tendencies
・ efficiency or transparency
[ 話者がおよそ意識的 ]
・ spelling pronunciation ( spelling_pronunciation )
・ hypercorrection
・ overgeneralization
・ analogy ( analogy )
・ renewal
・ reanalysis ( reanalysis, metanalysis )
・ Language-External Causes
・ contact-induced language change ( contact )
・ extreme language mixture ( leading to pidgins, creoles, and bilingual mixed languages ) ( pidgin, creole )
・ language death ( language_death )
言語内的な原因については,話者が当該の変化について無意識的なのか意識的なのかで二分されているが,意識の有無は程度の問題なので絶対的な基準にはならないだろう.
関連する記事として,[2010-07-01-1], [2010-06-01-1]の記事も参照.
・ Brinton, Laurel J. and Leslie K. Arnovick. The English Language: A Linguistic History. Oxford: OUP, 2006.
言語変化の原因はどこまで探ることができるのか,あるいはそもそも探ることができるものなのかどうか.これは,歴史言語学の本質的な疑問であり,本ブログでも causation の各記事で間接的に話題にしてきた.また,かつての言語変化の原因の解明は,今後の言語変化の予測可能性という問題にも関係するが,その議論は prediction_of_language_change で取り上げてきた.今回は,言語変化の原因を探ることに消極的な学者と積極的な学者の意見をそれぞれ紹介したい.前者を表明する Postal (283) は,言語変化は fashion であり,ランダムだという意見である.
. . . there is no more reason for languages to change than there is for automobiles to add fins one year and remove them the next, for jackets to have three buttons one year and two the next.
Postal によれば,言語変化の原因は探ることができないものであり,探ってもしかたのないものである.一方で,Smith はこの考え方を批判している.個々の言語変化の原因は究極的には解明できないかもしれないが,一般論として言語変化の原因は議論できるはずである.そして,歴史言語学が原因を探ることをやめてしまえば,ただの年表作成に終始してしまうだろうと,反論を繰り広げる.Smith より,2カ所を引用しよう.
. . . it is held here that an adequate history of English must attempt at least to take account of the 'why' as well as the 'how' of the changes the language has undergone; problems of causation must therefore be confronted in any historical account, however provisional the resulting explanations might be. (12)
Although it is not possible, given the limitations of the evidence, to offer absolute proof as to the motivation of a particular linguistic innovation, or to predict the precise development of linguistic phenomena, nevertheless a rationally arguable historical explanation can be offered for the kinds of changes which languages can undergo, and a broad prediction can be made about the kinds of change which are liable to happen. This seems a reasonable goal for any historical enquiry which seeks to go beyond the simple chronicle. (194)
Smith は,言語変化は言語内的および言語外的な複数の原因(あるいは条件的要素)が複雑に組み合わさって生じるという認識であり,それを積極的に探り,論じるのが歴史言語学者の仕事だと確信している.言語変化の予測 (prediction_of_language_change) にまで踏み込む言及があり,これには異論もあるに違いないが,私は概ね Smith の意見に賛成である.なお,Smith 先生は私の恩師です.
・ Postal, P. Aspects of Phonological Theory. New York: Harper & Row, 1968.
・ Smith, Jeremy J. An Historical Study of English: Function, Form and Change. London: Routledge, 1996.
先日,大学の英語史の授業で,英語の屈折の衰退について,[2012-07-10-1]の記事「#1170. 古ノルド語との言語接触と屈折の衰退」で概説した議論を紹介した.屈折の衰退は,英語が総合的言語から分析的な言語 (synthesis_to_analysis へと言語類型を転換させる契機となった大変化であり,それ自身が,言語内的な要因だけでなく古ノルド語との接触といった言語外的な要因によって引き起こされたと考えられている.これは,英語史の多数の話題のなかでも,最もダイナミックで好奇心をくすぐる議論ではないだろうか.なにしろ,仮説であるとはいえ,説得力のある内的・外的な要因がいろいろと挙げられて,英語史上の大変化が見事に説明されるのだから,「そうか,言語変化にもちゃんと理由があるのだなあ」と感慨ひとしお,となるのも必定である.実際に,多くの学生が,この大変化の「原因」や「理由」がよく理解できたと,直接あるいは間接にコメントで述べていた.
ところが,ある学生のコメントに次のようにあり,目から鱗が落ちた.「言語が今日どうあるかは,本当にぐう然でしかないんだなと思った。」
こちらとしては,言語変化には原因や理由があり,完全に説明しきれるわけではないものの,ある程度は必然的である,ということを,屈折の衰退という事例を参照して,主張しようとした.実際に,多くの学生がその趣旨で解釈した.しかし,趣旨と真っ向から反する「偶然」観が提示され,完全に意表を突かれた格好となった.
言語変化の原因論については causation の各記事で扱ってきたように,歴史言語学における最重要の問題だと考える.これは歴史における必然と偶然の問題と重なっており,哲学の問題といってよい.ある言語変化の原因を究明したとしても,その原因で説明できるのはどこまでなのか,どこまでを歴史的必然とみなせるのかという問題が残る.裏を返せば,その変化のどこまでが歴史的偶然の産物なのかという問題にもなる.
すべて偶然だと言ってしまうと,そこで議論はストップする.すべて必然だと言ってしまうと,すべてに説明を与えなければならず,息苦しい.あるところまでは偶然で,あるところまでは必然だというのが正しいのだろうと考えているが,授業にせよ歴史記述にせよ,話している方も聞いている方も興味を感じるのは,必然の議論,理由があるという議論だろう.説明が与えられないよりも与えられたほうが「腑に落ちる」感覚を味わえるからだ.ただし,上の学生のコメントが誘発する問いは,常に抱いておきたい.
なぜ言語は変化するか.英語史,歴史言語学を研究している私の抱いている究極の問いの1つである.これまでも,主として理論的な観点から,causation の各記事で取り上げてきた問題である.Coseriu, E. (Sincronía, Diacronía e Historia. Investigaciones y estudios. Seri Filología y lingüística 2. Montevideo: Revista de la Facultad de Humanidades y Ciencias, 1958. p. 37.) によれば,言語変化の原因を問う際には,異なる3種類の原因を区別すべきであるという.Coseriu の原書をもたないので,Weinreich et al. (99--100fn) より趣旨を要約する.
1つ目は "the rational problem of why languages changes of necessity" である.言語はなぜ変わらなければならないのか,変わる必要があるのか,という哲学的な問いだ.この観点からの言語変化論者としては,Keller が思い浮かぶ.言語変化には「見えざる手」 (invisible_hand) が関与しているという説である.言語変化はある種の方向をもって進行すると考える「駆流」 (drift も,ここに含まれるだろうか.
2つ目は "the general problem of conditions under which particular changes usually appear in languages" である.言語変化には,異なる言語,異なる時代において共通して見られるものがある.これは偶然とは考えにくく,背景に一般的な原因,あるいはより控えめな表現でいえば conditioning factors が作用していると考えるのが妥当である.生理的,心理的,社会的な要因を含めた広い意味での言語学的な諸条件が,ある特定の変化を引き起こす傾向があるということは受け入れられている.言語類型論や言語普遍性の議論,uniformitarian_principle (斉一論の原則),grammaticalisation などが,ここに属するだろうか.
3つ目は "the historical problem of accounting for concrete changes that have taken place" である.これは,一般的に言語変化を論じるのとは別に,実際に生じた(生じている)言語変化の個々の事例を説明しようとする試みのことである.英語史の研究では,通常,具体的な言語変化の事例を扱う.古英語では名詞複数形を形成するのに数種類の方法があったが,なぜ中英語以降には事実上 -s のみとなったのか.なぜ名前動後という強勢パターンが16世紀後半に現われ始めたのか.なぜ大母音推移が生じたのか,等々.具体的な言語変化の歴史性,単発性,個別性を強調する視点といってよいだろう.
Coseriu は,言語学は,この3種類の問題を混同してはならないと注意を喚起している.
・ Weinreich, Uriel, William Labov, and Marvin I. Herzog. "Empirical Foundations for a Theory of Language Change." Directions for Historical Linguistics. Ed. W. P. Lehmann and Yakov Malkiel. U of Texas P, 1968. 95--188.
「なぜ言語は変化するのか」と「なぜ話者は言語を変化させるのか」とは,おおいに異なる問いである.発問に先立つ前提が異なっている.
Why does language change? という問いでは,言語が主語(主体)となってあたかも生物のように自らが発展してゆくといった言語有機体説 (organicism) や言語発達説 (ontogenesis) の前提が示唆されている.言語の変化が必然で不可避 (necessity) であることをも前提としている.一方,Why do speakers change their language? という問いでは,話者が主語(主体)であり,話者が自由意志 (free will) によって言語を変化させるのだという機械主義 (mechanism) や技巧 (artisanship) の前提が示唆される.
どちらが正しい発問かといえば,Keller (8--9) に語らせれば,どちらも言語変化を正しく問うていない.というのは,言語変化は集合的な現象 (collective phenomena) だからである.この集団的な現象を統御しているのは目的論 (teleology) ではなく,「見えざる手」 (invisible_hand) の原理である,と Keller は主張する.
見えざる手については「#10. 言語は人工か自然か?」 ([2009-05-09-1]) で話題にしたが,この理論の源泉は Bernard de Mandeville (1670--1733) による The Fable of the Bees: Private Vices, Public Benefits (1714) に求めることができる.要点として,Keller から3点を引用しよう.
・ the insight that there are social phenomena which result from individuals' actions without being intended by them (35)
・ An invisible-hand explanation is a conjectural story of a phenomenon which is the result of human actions, but not the execution of any human design (38)
・ a language is the unintentional collective result of intentional actions by individuals (53)
これを言語変化に当てはめると,個々の話者の言語活動における選択は意図的だが,その結果として起こる言語変化は最初から意図されていたものではないということになる.入力は意図的だが出力は非意図的となると,その間にどのようなブラックボックスがはさまっているのかが問題となるが,このブラックボックスのことを見えざる手と呼んでいるのである.個々の話者の意図的な言語行動が無数に集まって,見えざる手というブラックボックスに入ってゆくと,当初個々の話者には思いもよらなかった結果が出てくる.この結果が,言語変化ということになる.ここから,Keller (89) は言語変化の長期的な機能主義性を指摘している.
As an invisible-hand explanation of a linguistic phenomenon always starts with the motives of the speakers and 'projects' the phenomenon itself as the macro-structural effect of the choices made, it is necessarily functionalistic, although in a 'refracted' way.
言語変化に至る過程のスタート地点では話者が主体となっているが,途中で見えざる手のトンネルをくぐり抜けると,いつのまにか主体が言語に切り替わっている.このような言語変化観をもつ者からみれば,Why does language change? も Why do speakers change their language? も適切な質問でないことは明らかだろう.どちらも違っているともいえるし,どちらも当たっているともいえる.見えざる手の前提が欠落している,ということになろう.
・ Keller, Rudi. On Language Change: The Invisible Hand in Language. Trans. Brigitte Nerlich. London and New York: Routledge, 1994.
[2010-07-14-1]の記事の続編.言語変化論における2項対立として,言語内的な要因 (language-internal factors, or endogeny) と言語外的な要因 (language-external factors, or exogeny) がある.20世紀の主流派言語学では,前者が主であり,後者が従であるとみなされてきた.言語が自立した体系であるという前提を受け入れるのであれば,言語変化とはその体系が組み替えられるということであり,内的に制約されざるをえない.したがって,言語変化は言語内的に履行されると考えなければならない.言語変化の要因も,言語体系の中核に近いところで作用する要因のほうがより直接的ということになり,言語内的な要因の優位が主張されることになる.この主流派言語学の見解は,次のようにまとめられる.
It is true, I think, that in what might be called the dominant tradition in historical linguistics, it has been assumed that languages change within themselves as part of their nature as languages. The 'external' agency of speaker/listeners and the influence of 'society' in language change have tended to be seen as secondary and, sometimes, as not relevant at all. (Milroy 143)
言語内的な要因を主とみる見解にも,従としての言語外的な要因をどのくらい受け入れるかに関して,温度差がある.上の引用にあるように,"secondary" なのか "not relevant" なのかという問題だ.Milroy (144) は4段階を認めている.
1. change originates within 'language' as a phenomenon;
2. change takes place within single languages unaffected by other languages;
3. change is more satisfactorily explained internally than externally;
4. change is not necessarily triggered by speakers or through language contact. (144)
3 の立場を明言しているのが Lass である.言語外的な要因を認めはするが,言語変化の理論としては内的に特化するほうがよいという Lass 流の「節減の法則」 (the principle of parsimony) だ.2点を引用しよう.
Therefore, in the absence of evidence, an endogenous change must occur in any case, whereas borrowing is never necessary. If the (informal) probability weightings of both source-types converge for a given character, then the choice goes to endogeny. (209)
I am not trying in any way to rule out syntactic borrowing; but merely suggesting how any suspect case ought to be investigated. Above all, one should never take apparent similarity, even in cases of known contact with evidence for other borrowing, as probative until the comparative work (if it's possible) has been done. The conclusion might be that anything can be borrowed, and often is; but in a given case it's always both simpler and safer to assume that it isn't, unless the evidence is clear and overwhelming. (201)
一方,Milroy は言語外的な要因の優位を唱える論者の代表である.Milroy によれば,究極の言語変化の why の問題は,ある言語変化があるときに生じるのはなぜか,すなわち actuation を問うものでなければならない.言い換えれば,「#1282. コセリウによる3種類の異なる言語変化の原因」 ([2012-10-30-1]) の3つ目の問いこそが重要なのだという意見である.言語変化の歴史的,単発的,個別的,具体的な側面を重視することになるから,言語外に目を移さざるを得ないことになる.Milroy (148) は,言語外的な要因を明確にすることによってこそ,言語内的な要因の性質もよりよく理解されるはずだと論じている.
Linguistic change is multi-causal and the etiology of a change may include social, communicative and cognitive, as well as linguistic, factors. Thus --- seemingly paradoxically --- it happens that, in order to define those aspects of change that are indeed endogenous, we need to specify much more clearly than we have to date what precisely are the exogenous factors from which they are separated, and these include the role of the speaker/listener in innovation and diffusion of innovations. (148)
私は,Milroy の立場を支持したい.そして,どちらの要因が重要かという標記の問題には,どちらも重要だと答えたい.
この問題と関連して,「#1549. Why does language change? or Why do speakers change their language?」 ([2013-07-24-1]) の記事,および言語内 言語外 要因の各記事を参照.
・ Milroy, James. "On the Role of the Speaker in Language Change." Motives for Language Change. Ed. Raymond Hickey. Cambridge: CUP, 2003. 143--57.
・ Lass, Roger. Historical Linguistics and Language Change. Cambridge: CUP, 1997.
[2010-07-14-1]と[2013-08-26-1]に引き続き,言語変化の説明原理としての endogeny と exogeny (contact-based) の問題を取り上げる.この論争は,endogeny を支持する保守派と exogeny の重要性を説く革新派の間で繰り広げられている.前者は Lass ([2013-08-26-1]) や Martinet (「#1015. 社会の変化と言語の変化の因果関係は追究できるか?」 [2012-02-06-1]) などが代表的な論客であり,後者には Milroy ([2013-08-26-1]) や Thomason and Kaufman などの論客がいる.
exogeny 支持派の多くは,ある言語変化が内的な要因によってうまく説明されるとしても,それゆえに外的な要因は関与していないと結論づけることはできないと主張する.また,多くの場合,内的な要因と外的な要因は一緒になって作用していると考える必要があり,言語変化論は "multiple causation" を前提とすべきだと説く.まずは,Thomason から3点を引用しよう.
Many linguistic changes have two or more causes, both external and internal ones; it often happens that one of the several causes of a linguistic change arises out of a particular contact situation. (62)
It clearly is not justified, for instance, to assume that you can only argue successfully for a contact origin if you fail to find any plausible internal motivation for a particular change. One reason is that the goal is always to find the best historical explanation for a change, and a good solid contact explanation is preferable to a weak internal one; another reason is that the possibility of multiple causation should always be considered and, as we saw above, it often happens that an internal motivation combines with an external motivation to produce a change. (91)
Yet another unjustified assumption is that contact-induced change should not be proposed as an explanation if a similar or identical change happened elsewhere too, without any contact or at least without the same contact situation. (92)
さらに,ケルト語の英語への影響の論客 Filppula より,同趣旨の一節を引用しよう.
Disagreements as to what weight each of the proposed methodological principles should be assigned in a given case are bound to remain part of the scholarly discourse, but certain things seem to me uncontroversial. First, as Lass (1997: 200--1) argues, apparent similarity, i.e. a mere formal parallel, cannot serve as proof of contact influence --- neither can it prove something to be of endogenous origin . . . . Before jumping to conclusions it is always necessary to examine the earlier history and the full syntactic, semantic and functional range of the features at issue, and also search for every possible kind of extra-linguistic evidence such as the extent of bilingualism in the speech communities involved, the chronological priority of rival sources, the geographical or areal distribution of the feature(s) at issue, demographic phenomena, etc. Secondly --- again in line with Lass's thinking (see, e.g., Lass 1997: 208) --- it is true to say that, from the point of view of the actual research, there is always a greater amount of homework in store for those who want to find conclusive evidence for contact influence than for those arguing for endogeny. On the other hand, even if endogeny is hard to rule out, as was shown by the examples discussed above, it does not follow that there would be no room for contact-based explanations or for those based on an interaction of factors. (171)
最後に, Weinreich, Labov and Herzog の著名な論文より引用する.
Linguistic and social factors are closely interrelated in the development of language change. Explanations which are confined to one or the other aspect, no matter how well constructed, will fail to account for the rich body of regularities that can be observed in empirical studies of language behavior. (188)
・ Thomason, Sarah Grey and Terrence Kaufman. Language Contact, Creolization, and Genetic Linguistics. Berkeley: U of California P, 1988.
・ Thomason, Sarah Grey. Language Contact. Edinburgh: Edinburgh UP, 2001.
・ Filppula, Markku. "Endogeny vs. Contact Revisited." Motives for Language Change. Ed. Raymond Hickey. Cambridge: CUP, 2003. 161--73.
・ Lass, Roger. Historical Linguistics and Language Change. Cambridge: CUP, 1997.
・ Weinreich, Uriel, William Labov, and Marvin I. Herzog. "Empirical Foundations for a Theory of Language Change." Directions for Historical Linguistics. Ed. W. P. Lehmann and Yakov Malkiel. U of Texas P, 1968. 95--188.
昨日の記事「#1985. 借用と接触による干渉の狭間」 ([2014-10-03-1]) で参照した Meeuwis and Östman の言語接触に関する論文に,「言語接触における間接的な影響」 (indirect influence in language contact) という節があった.借用 (borrowing) や接触による干渉 (contact-induced interference) においては,言語Aから言語Bへ何らかの言語項が移動することが前提となっているが,言語項の移動を必ずしも伴わない言語間の影響というのもありうる.典型的な例として言語接触が引き金となって既存の言語項が摩耗したり消失したりする現象があり,英語史でも古ノルド語との接触による屈折体系の衰退という話題がしばしば取り上げられる.そこでは何らかの具体的な言語項が古ノルド語から古英語へ移動したわけではなく,あくまで接触を契機として古英語に内的な言語変化が進行したにすぎない.このようなケースは「間接的な影響」の例と呼べるだろう.「#1781. 言語接触の類型論」 ([2014-03-13-1]) で示した類型において Thomason が "Loss of features" と呼ぶところの例であり,一般に単純化 (simplification) や中和化 (neutralization) などと言及される例でもある (cf. ##928,931,932,1585,1839) .
「間接的な影響」は,当該の言語接触がなければその言語変化は生じ得なかったという点で,言語変化の原因を論じるにあたって,直接的な影響に勝るとも劣らぬ重要さをもっている.「言語接触という外的な要因に触発された内的な変化」という原因及び過程は一体をなしており,それぞれの部分へ分解して論じることはできない.したがって,内的・外的要因のどちらが重要かという問いは意味をなさない.ここでは,Meeuwis and Östman の言うように "multiple causation" あるいは "synergy" を前提とする必要がある.
. . . there is a host of generalization, avoidance, simplification and other processes at work in second-language acquisition, language shift, language death and other types of language contact, which show no isomorphic or qualitative correspondence with elements in the donor language or in a previous form of the recipient, affected language. These seemingly internal 'creations' of previously non-existent structures occur simply due to the contact situation, i.e. they would not have occurred in the language unless it had been in contact . . . and could thus not be explained without reference to a linguistic and cultural contact. Also, in all these fields, the phenomenon of 'multiple causation' or, as it is also called, 'synergy' has to be taken into account. Synergy refers to changes that occur internally in a language but are triggered by the contact with similar features, patterns, or rules in another language. Here, some qualitative resemblances to features in the donor language or in a pre-contact state of the affected language can be observed: the contact has given rise to a change in existing features. . . . '[S]ynergy' is a widely observable phenomenon that is too often slighted by keeping the distinction between internally and externally motivated language change too rigidly separate. (42)
このような現象に対しての "synergy" (相乗効果)という用語は初耳だったが,日頃抱いていた考え方に近く,受け入れやすく感じた.関連して,以下の記事も参照されたい.
・ 「#443. 言語内的な要因と言語外的な要因はどちらが重要か?」 ([2010-07-14-1])
・ 「#1232. 言語変化は雨漏りである」 ([2012-09-10-1])
・ 「#1233. 言語変化は風に倒される木である」 ([2012-09-11-1])
・ 「#1582. 言語内的な要因と言語外的な要因はどちらが重要か? (2)」 ([2013-08-26-1])
・ 「#1584. 言語内的な要因と言語外的な要因はどちらが重要か? (3)」 ([2013-08-28-1])
・ 「#1977. 言語変化における言語接触の重要性 (1)」 ([2014-09-25-1])
・ 「#1978. 言語変化における言語接触の重要性 (2)」 ([2014-09-26-1])
・ Meeuwis, Michael and Jan-Ola Östman. "Contact Linguistics." Variation and Change. Ed. Mirjam Fried et al. Amsterdam: Benjamins, 2010. 36--45.
言語変化について様々に論じてきたが,言語変化を考察する上での諸々の切り口,研究する上で勘案すべき種々のパラメータを整理してみたい.言語にとって変化が本質的であるならば,言語変化研究こそが言語研究の革新ともいえるはずである.
以下に言語変化の切り口を,本ブログ内へのリンクを張りつつ,10項目立てで整理した.マインドマップ風にまとめた画像,PDF,あるいはノードを開閉できるFLASHもどうぞ.記事末尾の書誌は,最も重要な3点のみに限った.以前の同様の試みとして,「#729. 言語変化のマインドマップ」 ([2011-04-26-1]) も参照.
コセリウは,言語変化に「原因」はないと述べている.この一見不可解な謂いを理解するには,コセリウが「原因」という言葉で何を指しているかを正しくとらえる必要がある.基底にある考え方は,「#1056. 言語変化は人間による積極的な採用である」 ([2012-03-18-1]) と「#2139. 言語変化は人間による積極的な採用である (2)」 ([2015-03-06-1]) の標題の通りである.以下,「原因による説明と結果による説明。言語変化に対する通時的構造主義のたちば。「目的論」的解釈の意味」と題するコセリウの第6章 (259--343) より,3箇所を引用する(以下,原文の圏点は太字に置き換えてある).
言語の中には、したがって、変化をひき起こす「原因」なるものは存在せず(唯一の作用原因は話し手の自由だから)、またその理由も存在せず(それは常に目的の序列のものだから)、あるのは、話し手の言語的自由にゆだねられ、使用されながら同時にその表現の欲求に応じて変化をとげるところの「道具的」(技術的)な条件、状況である。体系のまさに「弱点」――新しい表現要求から見て、伝統的な手段にやどる技術的な欠陥――すらも変化の「原因」ではなく、言語的自由がとり組んで、「道具」それ自体の創造過程の中で解決すべき問題である。したがって、なし得る、そしてなさなければならないものは、自然の、あるいは自由の外にある「原因」をあれこれと探し求めることではなく、個々の歴史条件のもとで自由によって実現されたものを目的の点から正当づけることであり、新しく現われた形が変化に先行する言語の欠陥と可能性とによって、どのようなしかたで必然性もしくは可能性として決定(限定)されるのかをつきとめることである。 (286)
結局、目的性とは動機づけの一類型である。これは、「原因」が「それによって何かが生じ(存在するようになり)、変化し、あるいは消失する(存在をやめる)すべてのものである」かぎり、「原因」の一般的概念の中にそれとして含まれる。アリストテレスは周知のように四種類の「原因」を区別している。何かを作り出し、あるいは生み出すもの(作動者、すなわち第一始動因もしくは作用因)、それを用いて何かが作り出される素材(材質もしくは材質因〔質量因〕)、それから何かが作られる概念(本質もしくは形式因〔形相因〕)、それをめざして何かが作られるところのもの(目的因)(『自然学』II、3およびII、7)。したがって、目的性(目的因)とは、一つの原因であるから、「作用因」が自由と意図性とをそなえた実体であるときに、はじめて生じ得る原因である。そして、たしかにこの意味では、言語変化とは、実際にアリストテレスの言う四つの動機づけをそなえているがゆえに、「原因」をもつと言ってもまったく矛盾はない。つまり、新しい言語事実は、誰かによって(作用因)、何かをもって(材質因)、作られるものの観念をもって(形式因)、何かのために(目的因)作られるものだからである。われわれが言語変化には「原因がない」と言うのは、自然科学的な意味での原因がないというだけのことであって、言いかえれば、――物質的なもののばあいを除いて――自由の外にあって、「客観的」で自然物のような原因はないという意味においてのみ、そう言っているのである。われわれはそれ自体としては正当な「原因」という用語の使用に反対しているのではなく、そこに付与されている意味と、じつは原因でも何でもない諸状況を決定的な原因と見る主張に反対しているのである。 (290--91)
言語変化は、ある条件のもとに生じるものではあるが、条件そのものからは生じない。言語事実は、話し手が何かのために創造するから存在するのであって、話し手自身にとって外的な、物理的必然の「産物」でもなければ、それ以前の言語状態の「必然的かつ不可避的な帰結」でもない。何か新しい言語事実の、本当の意味で「原因的」な唯一の説明とは、自由がある目的をもって、それを創造したのだとするものだけである。それ以外の説明は、物質的な起源の説明であり、また改新者や採用者としての個人の言語的自由が活動を行ったその条件の説明である。
一般に言語変化の「原因」と呼ばれてきたものは,実は「原因」というよりは「条件」とみなすべきものだという議論である.真の原因とは,諸者の条件のもとにおける自由意志による採用である.この観点から,今後も改めて言語変化の原因と諸条件について考えていきたい.
・ E. コセリウ(著),田中 克彦(訳) 『言語変化という問題――共時態,通時態,歴史』 岩波書店,2014年.
言語変化の原因を大きく二分すると,言語内的なものと言語外的なものに分けられる.この伝統的な区別については,「#442. 言語変化の原因」 ([2010-07-13-1]),「#443. 言語内的な要因と言語外的な要因はどちらが重要か?」 ([2010-07-14-1]),「#1582. 言語内的な要因と言語外的な要因はどちらが重要か? (2)」 ([2013-08-26-1]),「#1584. 言語内的な要因と言語外的な要因はどちらが重要か? (3)」 ([2013-08-28-1]) などで論じてきたとおりである.
この2つはそれぞれ社会言語学的要因と(純)言語学的要因と読み替えることもできるが,この二分法ではいかんせん大雑把にすぎる.例えば,語用的要因とか,言語の産出と理解に関わる神経的な要因とかいう場合には,言語内・外のいずれが関与していることになるのだろうか.また,語順の類型論におけるSOVの語順と「形容詞+名詞」の語順との相関関係というような議論を持ち出す言語変化論においては,その要因とは言語学的なものなのか,認知的なものなのか,あるいは単に統計的なものなのか.○○的要因というときの○○とは,言語変化の諸要因のある種の体系化に基づく厳密な言葉遣いとして用いられているのか,それともその都度あてがわれる適当なラベルにすぎないのか.このような問題意識は言語変化の multiple causation (cf. 「#1986. 言語変化の multiple causation あるいは "synergy"」 ([2014-10-04-1]))と無関係ではなく,それがいかに複雑な問題であるかを反映している.
Aitchison (736) は,上に述べた様々な○○を "layer" (層)と表現した上で,言語変化の主たる原因には(少なくとも)3層が認められると述べている.社会言語学的,(純)言語学的,認知心理学的の3種である.
In historical linguistics, at least three overlapping layers of causes can usefully be distinguished. First is immediate trigger, which can be regarded as "sociolinguistic," as when, in Labov's seminal paper, the permanent inhabitants of Martha's Vineyard imitated the vowels of the fishermen they subconsciously admired . . . . Second is "linguistic proper," due to vocal tract configurations, or to the maintenance of language patterns, as when, in the Martha's Vineyard case, the diphthongs [ai] and [au] follow a roughly parallel course of change. The third level is when broad properties of the human mind are hypothesized to account for any such changes. For example, memory limitations or processing procedures might plausibly be invoked to explain why front and back vowels tend to move in tandem not just in Martha's Vineyard, but everywhere. This "top layer" of causation can be labeled psycholinguistic or cognitive, even though such labels need to be used with care: they have been applied in the literature in a number of different ways. . . . This territory is a no-person's-land between language universals and more general psychological ones. The location of the boundary is often dependent on the theory adopted, rather than on an (unachievable) Olympian view of the situation.
3層のみの設定でよいのか,なぜその最上層が「認知心理」であるのか,引用に述べられているような「言語学的」と「認知心理学的」の境目の曖昧さなど,切り込みたいことはいろいろある.しかし,言語内的(社会言語学的)と言語外的(言語学的)という一見するとわかりやすい二分法が,単に大雑把であるという以上に,誤解を招く(誤解を含む)分類であることが,少なくともよくわかるようになる一節とはいえるだろう.
・ Aitchison, Jean. "Psycholinguistic Perspectives on Language Change." The Handbook of Historical Linguistics. Ed. Brian D. Joseph and Richard D. Janda. Malden, MA: Blackwell, 2003. 736--43.
言語変化の言語内的な要因と言語外的な要因については,多くの記事で考えてきた (cf. 「#442. 言語変化の原因」 ([2010-07-13-1]),「#443. 言語内的な要因と言語外的な要因はどちらが重要か?」 ([2010-07-14-1]),「#1015. 社会の変化と言語の変化の因果関係は追究できるか?」 ([2012-02-06-1]),「#1582. 言語内的な要因と言語外的な要因はどちらが重要か? (2)」 ([2013-08-26-1]),「#1584. 言語内的な要因と言語外的な要因はどちらが重要か? (3)」 ([2013-08-28-1]),「#2151. 言語変化の原因の3層」 ([2015-03-18-1])) .
言語外的な要因の1つとして社会構造の変化が挙げられるが,社会構造の変化が言語構造にいかに反映しうるかという問題は興味深い.言語体系の外にあったものが内に取り込まれるというのは,いったいどういうことなのか.例えば,中英語期に英語とフランス語の diglossia により言語使用の社会的な上下関係が現われたとき,その上下関係は,swine と pork のような語彙の register における上下関係として英語の言語体系に反映されることとなった.この反映とは,いったいどのような仕組みで起こっているのだろうか.この問題については,「#1489. Ferguson の diglossia 論文と中世イングランドの triglossia」 ([2013-05-25-1]),「#1491. diglossia と borrowing の関係」 ([2013-05-27-1]),「#1583. swine vs pork の社会言語学的意義」 ([2013-08-27-1]) の記事でも取り上げた.
コセリウ (169) は,上で述べた「反映」の仕組みについては詳しく述べてこそいないが,それが間接的であることを次のように論じている(原文の圏点は太字に置き換えてある).
いわゆる「外的」要因(異族間の混淆や文化の中心地の役割とかのような)は〔中略〕、言語活動を直接に決定することのない、二次的な要因である。それらが決定するのは言語的知識の構成であって、それは話す行為の条件となる。したがって、言語的自由が対している状況は、異族間の混淆そのものではなく、そのことから生ずる個人間の言語的知識の状態である。同じことは、「社会構造の変化」についても言えるのであって、なかんずくA・メイエは、これを言語変化の究極の理由であるとした。社会構造の変化が言語の内的構造の中にそのまま反映され得ないのは、同じく構造とはいっても、両者の間に平衡関係がないからである。社会構造は言語の外的構造、すなわち言語の社会的成層に対応している。そして、これは文化のことがらである。社会的なものは、疑いもなく言語の「進化」における重要な直接的要因ではあるが、言語的知識の多様化と階層化のことを言うばあいにかぎって、つまり文化の要因としてのみそう言えるのである。
コセリウは,続く箇所で同じ議論によって,歴史は言語構造に直接は反映しないと論じている.社会や歴史の要因を軽視しているのではなく,それと言語構造とは別の次元にあるものだという主張だろう.この観点からすると,言語内的な要因と言語外的な要因はどちらが重要かという問題は,異なるレベルの2つのものを比べているという点で,ナンセンスということになる.どちらも異なる次元において重要だということだろう.
引用で触れられているメイエの言語変化の原因についての議論は,「#1973. Meillet の意味変化の3つの原因」 ([2014-09-21-1]) を参照.
・ E. コセリウ(著),田中 克彦(訳) 『言語変化という問題――共時態,通時態,歴史』 岩波書店,2014年.