今回は,昨日の記事「#1784. 沖縄の方言札」 ([2014-03-16-1]) に関連して言及した言語権 (linguistic_right) について考えてみる.
強大なA言語に取り囲まれて,存続の危ぶまれる弱小なB言語が分布していると想定する.B言語の母語話者たちは,教育,就職,社会保障,経済活動など生活上の必要から,少なくともある程度はA言語を習得し,バイリンガル化せざるを得ない.現世代は,子供たちの世代の苦労を少しでも減らそうと,子育てにあたって,A言語を推進する.なかには共同体の母語であるB言語を封印し,A言語のみで子育てをおこなう親たちもいるかもしれない.このようにB言語の社会的機能の低さを感じながら育った子供たちは,公の場ではもとより,私的な機会にすらB言語ではなくA言語を用いる傾向が強まる.このように数世代が続くと,B言語を流ちょうに話せる世代はなくなるだろう.B言語をかろうじて記憶している最後の世代が亡くなるとき,この言語もついに滅びてゆく・・・.
上の一節は想像上のシミュレーションだが,実際にこれと同じことが現代世界でごく普通に起きている.世界中の言語の死を憂える立場の者からは,なぜB言語共同体は踏ん張ってB言語を保持しようとしなかったのだろう,という疑問が生じるかもしれない.B言語は共同体のアイデンティティであり,その文化と歴史の生き証人ではないのか,と.もしそのような主義をもち,B言語の保持・復興に尽力する人々が共同体内に現れれば,上記のシミュレーション通りにならなかった可能性もある.しかし,現実の保持・復興には時間と経費がかかるのが常であり,大概の運動は象徴的なものにとどまるのが現実である.A言語共同体などの広域に影響力のある社会からの公的な援助がない限り,このような計画の実現は部分的ですら難しいだろう.
言語の死は確かに憂うべきことではあるが,だからといって件の共同体の人々にB言語を話し続けるべきだと外部から(そして内部からでさえ)強制することはできない.それはアイデンティティの押し売りであると解釈されかねない.話者は,自らのアイデンティティのためにB言語の使用を選ぶかもしれないし,社会的・経済的な必要から戦略的にA言語の使用を選ぶかもしれないし,両者を適宜使い分けるという方略を採るかもしれない.すべては話者個人の選択にかかっており,この選択の自由こそが尊重されなければならないのではないか.これが,言語権の考え方である.加藤 (31--32) は,言語権の考え方をわかりやすく次のように説明している.
「すべての人間は、みずからの意志で使用する言語を選択することができ、かつ、それは尊重されねばならず、また、特定の言語の使用によって不利益を被ってはいけない」と考えるのですが、これは「言語の自由」と「言語による幸福」に分けることができます。自由とは言っても、人は生まれる場所や親を選ぶことはできないので、母語を赤ん坊が決めることはできません。しかし、ある程度の年齢になれば、公共の福祉に反しない限り、自らの意志で使用言語が選べるようにすることは可能です。使用の自由を妨げないと言っても、ことばは伝達できなければ役にたちませんから、誰も知らない言語を使って伝達に失敗すれば損をするのは当人ということになります。自由には責任が伴うのです。
「言語による幸福」は、特定の言語(方言も含む)を使うことで不利益を被らない社会であるべきだという考えによります。日本の社会言語学の基礎を気づいた徳川宗賢は、ウェルフェア・リングイスティクスという概念を提唱しましたが、これは、人間がことばを用いて生活をする以上、それが円滑に営まれるように、実情を調べ、さまざまな方策を考える必要があるとする立場の言語研究を指しています。ことばといっても、実際には多種多様な形態があり、例えば、言語障害、バイリンガル、弱小言語問題、方言や言語によるアイデンティティ、手話や点字といった言語、差別語、老人語、女性語、言語教育、外国語教育といったさまざまなテーマが関わってきます。すべての人間は、みずからの出自やアイデンティティと深く関わる母語を話すことで、不利益をこうむったり、差別されたりするべきではないのです。
言語権の考え方は,言語(方言)差別や言語帝国主義に抗する概念であり手段となりうるとして期待されている.
・ 加藤 重広 『学びのエクササイズ ことばの科学』 ひつじ書房,2007年.
昨日の記事で「#1785. 言語権」 ([2014-03-17-1]) を扱い,関連する話題として言語の死については language_death の各記事で取り上げてきた.近年,welfare linguistics や ecolinguistics というような考え方が現れてきたことから,このような問題について人々の意識が高まってきていることが確認できるが,意外と気づかれていないのが,対応する方言権と方言の死の問題である.
「#1636. Serbian, Croatian, Bosnian」 ([2013-10-19-1]) その他の記事で,言語学的には言語と方言を厳密に区別することは不可能であることについて触れてきた.そうである以上,言語権と方言権,言語の死と方言の死は,本質的に同じ問題,一つの連続体の上にある問題と解釈しなければならない.しかし,一般には,よりグローバルな観点から言語権や言語の死には関心がある人々でも,ローカルな観点から方言権や方言の死に対して同程度の関心を示すことは少ない.本当は後者のほうが身近な話題であり,必要と思えばそのための活動にも携わりやすいはずであるにもかかわらずだ.Trudgill (195) は,この事実を鋭く指摘している.
Just as in the case of language death, so irrational, unfavourable attitudes towards vernacular, nonstandard varieties can lead to dialect death. This disturbing phenomenon is as much a part of the linguistic homogenization of the world --- especially perhaps in Europe --- as language death is. In many parts of the world, we are seeing less regional variation in language --- less and less dialect variation. / There are specific reasons, particularly in the context of Europe, to feel anxious about the effects of dialect death. This is especially so since there are many people who care a lot about language death but who couldn't care less about dialect death: in certain countries, the intelligentsia seem to be actively in favour of dialect death.
言語の死や方言の死については,致し方のない側面があることは否定できない.社会的に弱い立場に立たされている言語や方言が徐々に消失してゆき,言語的・方言的多様性が失われてゆくという現代世界の潮流そのものを,覆したり押しとどめたりすることは現実的には難しいだろう.淘汰の現実は歴然として存在する.しかし,存続している限りは,弱い立場の言語や方言,そしてその話者(集団)が差別されるようなことがあってはならず,言語選択は尊重されなければならない.逆に,強い立場の言語や方言に関しては,それを学ぶ機会こそ万人に開かれているべきだが,使用が強制されるようなことがあってはならない.上記の引用の後の議論で,Trudgill はここまでのことを主張しているのではないか.
・ Trudgill, Peter. Sociolinguistics: An Introduction to Language and Society. 4th ed. London: Penguin, 2000.