hellog〜英語史ブログ

#855. lexical diffusioncritical mass[lexical_diffusion]

2011-08-30

 語彙拡散 (lexical diffusion) のS字曲線では,値が急激に増加し始める点,"take-off" と呼ばれる点がある.別の用語では,critical mass (臨界質量)とも呼ばれる.LDOCE5critical mass の定義をみてみよう.

1. the amount of a substance that is necessary for a nuclear chain reaction to start
2. the smallest number of people or things that are needed in order for something to happen or be possible


 語義1にあるように,もともとは物理学の用語で,核分裂性物質が連鎖反応を一定の割合で続けるのに必要な物質量を指す.ここから意味の一般化が起こり,物理学に限らず一般に,この点を超えるとさらなる連鎖反応を止めることが難しくなるという「局面を左右する重大な点」を意味するようになった.
 言語変化の lexical diffusion に長らく関心を寄せてきたが,"S-curve", "take-off", "critical mass" というようなキーワードが有効なのは何も言語変化に限らない.拡散という現象は日常生活にも頻繁にみられるし,むしろ言語変化の拡散などは拡散の研究全般において極めて周辺的である.拡散研究は言語変化以外の領域では非常に盛んであり,そこで得られる知見を言語変化に戻してやることが重要と考えられる.
 そこで,diffusion 研究の大家 Rogers の Diffusion of Innovations を読んだ.本文だけで471頁という嵩のある本だが,言語についての言及は,注意して読んだ限りなんと一カ所のみである.しかも,他の研究者からの引用文のなかで触れられているにすぎない.以下は,critical mass の議論のなかで,著者が Schelling という研究者から引用している箇所である(赤字は本ブログ記事執筆者).

The notion of critical mass originated in physics, where it was defined as the amount of radioactive material necessary to produce a nuclear reaction. "An atomic pile 'goes critical' when a chain reaction of nuclear fission becomes elf-sustaining" (Schelling, 1978, p. 89). Various illustrations of critical mass situations, in which a process becomes self-sustaining after some threshold point has been reached, abound in everyday life. A single log must be present so that each log reflects its heat onto the other. When the ignition point is reached, the fire takes off, and the two logs burn to ashes. / The critical mass bears on the relationship between the behavior of individuals and the larger system of which they are part. It thus centers on a crucial cross-level analysis that is "characteristic of a large part of the social sciences, especially the more theoretical part" (Schelling, 1978, p. 13). "The principle of 'critical mass' is so simple that it is no wonder that it shows up in epidemiology, fashion, survival and extinction of species, language systems, racial integration, jaywalking, panic behavior, and political movements" (Schelling, 1978, p. 89). / The concept of the critical mass is fundamental to understanding a wide range of human behavior because an individual's actions often depend on a perception of how many other individuals are behaving in a particular way (Schelling, 1978). (Rogers 349)


 この箇所が本書で唯一の言語への言及だからといって失望したわけでなく,むしろ言語変化への拡散論の応用は始まったばかりなのだなとインスパイアされた.拡散研究は非常に学際的であり,言語変化の方面からも積極的に参入できる環境が整っているようだ.lexical diffusion などと呼ぶとなにやら厳めしいが,畢竟,言語変化も他の多くの物事と同じように当たり前の拡がり方を示すのだ.特別なことは何もない.
 多くの一般の拡散の事例では,拡散の割合が人口の5--20%に達するとさらなる拡散を止めることは難しくなるという (Rogers 12, 274, 360).要するに,この付近に critical mass があると考えてよい.これは言語変化の場合にもそのまま当てはまるのだろうか.検証する必要がある.

 ・ Rogers, Everett M. Diffusion of Innovations. 5th ed. New York: Free Press, 1995.
 ・ Schelling, Thomas C. Micromotives and Macrobehavior. New York: Norton, 1978.

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#1811. "The later a change begins, the sharper its slope becomes."[lexical_diffusion][speed_of_change][language_change][entropy][do-periphrasis][schedule_of_language_change]

2014-04-12

 昨日の記事「#1810. 変異のエントロピー」 ([2014-04-11-1]) の最後で,「遅く始まった変化は急速に進行するという,言語変化にしばしば見られるパターン」に言及した.これは必ずしも一般的に知られていることではないので,補足説明しておきたい.実はこのパターンが言語変化にどの程度よく見られることなのかは詳しくわかっておらず,この問題は私の数年来の研究テーマともなっている.
 言語変化のなかには,進行速度が slow-quick-quick-slow と変化する語彙拡散 (lexical_diffusion) と呼ばれるタイプのものがある.語彙拡散の研究によると,変化を開始するタイミングは語によって異なり,比較的早期に変化に呑み込まれるものから,比較的遅くまで変化に抵抗するものまで様々である.Ogura や Ogura and Wang の指摘で興味深いのは,このタイミングの早い遅いによって,開始後の変化の進行速度も異なる可能性があるということだ.早期に開始したもの (leaders) はゆっくりと進む傾向があるのに対して,遅れて開始したもの (laggers) は急ピッチで進む傾向があるという.譬えは悪いが,早起きしたけれども歩くのが遅いので遅刻するタイプと,寝坊したけれども慌てて走るので間に合うタイプといったところか.標記に挙げた "the later a change begins, the sharper its slope becomes" は,Ogura (78) からの引用である.
 私自身,初期中英語諸方言における複数形の -s の拡大に関する2010年の論文で,この傾向を明らかにした.その論文から,Ogura と Ogura and Wang へ言及している部分など2箇所を引用する.

In their series of studies on Lexical Diffusion, Ogura and Wang discussed whether leaders and laggers of a change are any different from one another in terms of the speed of diffusion. In case studies such as the development of periphrastic do and the development of -s in the third person singular present indicative, they proposed that the later the change, the more items change and the faster they change . . . . (12)

. . . the laggers catching up with the leaders in SWM C13b and in SEM C13b concurs with the recent proposition of Lexical Diffusion that "the later a change begins, the sharper its slope becomes." (14)


 変化に参与する各語をそれぞれS字曲線として表わすと,例えば以下のような非平行的なS字曲線の集合となる.



 ここで昨日の相対エントロピーの話に戻ろう.上のようなグラフを,Y軸を相対エントロピーの値として描き直せば,スタートは早いが進みは遅い語は,長い裾を引く富士山型の線を,スタートは遅いが進みは速い語は,尖ったマッターホルン型の線を描くことになるだろう.
 語彙拡散のS字曲線,エントロピー,[2013-09-09-1]の記事で触れた「#1596. 分極の仮説」などは互いに何らかの関係があると見られ,言語変化のスピードやスケジュールという一般的な問題に迫るヒントを与えてくれるだろう.

 ・ Ogura, Mieko. "The Development of Periphrastic Do in English: A Case of Lexical Diffusion in Syntax." Diachronica 10 (1993): 51--85.
 ・ Ogura, Mieko and William S-Y. Wang. "Snowball Effect in Lexical Diffusion: The Development of -s in the Third Person Singular Present Indicative in English." English Historical Linguistics 1994. Papers from the 8th International Conference on English Historical Linguistics. Ed. Derek Britton. Amsterdam: John Benjamins, 1994. 119--41.
 ・ Hotta, Ryuichi. "Leaders and Laggers of Language Change: Nominal Plural Forms in -s in Early Middle English." Journal of the Institute of Cultural Science (The 30th Anniversary Issue II) 68 (2010): 1--17.

Referrer (Inside): [2017-03-10-1] [2014-07-16-1]

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#1642. lexical diffusion の3つのS字曲線[lexical_diffusion][variation][wave_theory][schedule_of_language_change]

2013-10-25

 「#1550. 波状理論語彙拡散含意尺度 (3)」 ([2013-07-25-1]) と「#1569. 語彙拡散のS字曲線への批判 (2)」 ([2013-08-13-1]) でも話題にしたが,言語変化の拡大に関する語彙拡散モデル (lexical_diffusion) の問題として,語彙拡散のS字曲線のグラフにおいてY軸は何を指すのかという疑問がある.X軸は時間を表わすということで異論ないだろうが,Y軸を表わす変数には様々なものが考えられる.
 いま,ある言語項目について旧形が新形を置き換えるという過程を考えよう.この揺れを示す言語項目を変項と呼び,(ITEM) と表記する.また,旧形を /O/, 新形を /N/ で表わすとしよう.この言語変化は,歴史的に "(ITEM): /O/ → /N/" と表現できることになる.
 さて,この言語変化が描くと想定されるS字曲線のグラフにおいて,Y軸の可能性を考えてみよう.語彙拡散という名前からまず思い浮かぶのは,このグラフは,ある1人の話者について当該の変化が語彙を縫うように進行してゆくことを表現している,ということである.この場合,Y軸は変化が及びうる語彙の全体を100%とする軸であり,時間とともに多くの語において /N/ が /O/ を置き換えてゆくにつれ,Y値が増えてゆくというグラフの読みとなる.S字曲線は,当該の変化の "lexical gradualness" を表わしている.
 別のY軸も考えられる.ある話者のある語を取り上げ,その語において /N/ が /O/ を置き換えていくというとき,実際にはその語のすべての生起例について,昨日まで /O/ だったものが今日になって突然 /N/ へと変化するわけではない.むしろ,/O/ と /N/ の比率が以下のように段階的に変化してゆき,結果として振り返ってみると /O/ → /N/ が起こっていた,というのが現実だろう.

Timet1t2t3t4t5
/O/0%15%50%85%100%
/N/100%85%50%15%0%


 この場合に新形 /N/ が用いられる割合をY軸に取ると,これもS字曲線となることが予想される.このグラフが表わしているものは,"variable gradualness" とでも呼べるかもしれない.音韻変化であれば,"phonetic gradualness" (Lass 331) と呼んでもよい.
 さらに別のY軸も考えられる.上述の2つケースはある1人の話者を念頭に置いたグラフだが,/O/ → /N/ の変化を被った話者の数,あるいは言語共同体内の割合をY軸におくようなグラフも想像することができるだろう.このグラフでは,ある言語変化が,言語共同体の中で伝播してゆく様子を表わしている.これは,"populational gradualness" と呼べるかもしれない.また,話者が属しているのは地理的な空間であるから,さらに一般化して,言語変化の地理的拡大を表わすグラフともとらえられる.ここまで進むと,波状理論 (wave_theory) にも近くなってくる.
 ほかにもY軸の取り得る変数の可能性はあるだろうが,少なくとも lexical gradualness, variable gradualness, populational gradualness の3つは比較的容易に想定することができる.今一度まとめると,それぞれのグラフは,1人の話者の語彙全体における変化の進行を考えるとき,1人の話者の1つの語における変化の進行を考えるとき,言語共同体の話者集団における変化の伝播を考えるときに対応する.
 もしいずれのグラフにおいても語彙拡散の主張するようなS字曲線が描かれるとするならば,3種類のS字曲線を数学的に総合した結果も,やはりS字曲線となるだろう.一般的に言語変化の拡大について語られたり図示されたりするS字曲線は,この抽象化された意味でのS字曲線ととらえておく必要がある.Lass (331) は,lexical gradualness と variable gradualness の2つのみを念頭において議論してはいるものの,S字曲線が抽象化されたものであるとの指摘は的確である.

[T]he overall smooth S-curve for a change is an abstraction from (a) individual lexical curves, and (b) variable and phonetically gradual phonetic implementation along these curves. But the final historical effect is a levelling-out, so that the single-curve abstraction in fact BECOMES TRUE of the change as a whole. Thus we distinguish, in the broader historical perspective, between the change-as-a-whole and the piecemeal mechanism of its implementation.


 /O/ → /N/ という言語変化の表記は,変化の始まりと終わりのみを示した略記である.実際には,矢印のなかに,様々なレベルにおける無数の途中経過が含まれている.矢印のなかをじっくり観察して言語変化を理解しようとする立場が diffusionist,事後に結果としてその変化をとらえようとする立場が Neogrammarian .両者は立場の違いにすぎず,言語変化として起こっていることは1つなのである.このように考えれば,昨日の記事「#1641. Neogrammarian hypothesis と lexical diffusion の融和」 ([2013-10-24-1]) という課題にも対処できるだろう.

 ・ Lass, Roger. Phonology. Cambridge: CUP, 1983.

Referrer (Inside): [2015-08-13-1]

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#803. 名前動後の通時的拡大[stress][diatone][drift][speed_of_change][lexical_diffusion]

2011-07-09

 「名前動後」の起源について[2009-11-01-1], [2009-11-02-1], [2011-07-07-1], [2011-07-08-1]の記事で議論してきたが,その通時的拡大の事実についてはまだ紹介していなかった.
 Sherman は,SOEDWeb3 の両辞書に重複して確認される名詞と動詞が同綴り (homograph) である語を取り出し,そのなかで強勢交替を示す語を分別した.音節数別に内訳を示すと,以下の通りとなる (Sherman 51) .


potential diatonicsactual diatonics
disyllabic N-V pairs1,315150 (11.41%)
trisyllabic44270 (15.84%)
polysyllabic1,757220 (12.52%)


 対象を2音節語に限定すると,1315語あるが,そのなかで強勢交替を示すものは実は150語 (11.41%) にすぎない.強勢交替を示さない1165語について見てみると,名詞・動詞ともに強勢が第2音節に置かれている oxytone は215語,第1音節に置かれている paroxytone は950語で後者が圧倒している.「名前動後」は現実以上に話題として強調されすぎており,実際には「名前動前」が支配的だという結果が出た.
 近代期以降の通時的観察によると,「名後動後」という oxytone の語が,名詞について強勢を前寄りに繰り上げるという方向での変化が多いという (Sherman 53, 55) .「名前動後」の diatone を表わす2音節語は近代英語期からゆっくりと確実に分布を広げてきており,20世紀半ばまでに150語に達している.以下の「名前動後」の通時的推移を表わすグラフは,Sherman (54) のグラフに基づいて再作成したものである(ただし,19世紀と20世紀についての数値は "tentative" とされている),

Lexical Diffusion of Diatones


 Sherman の研究は,語彙拡散 (Lexical Diffusion) の例を提供していると考えられるかもしれない重要な研究である.この曲線が,語彙拡散の予想するS字曲線に沿っているのかどうかはまだ判然としないが,この数百年の潮流を観察すれば,今後も名前動後が少しずつ増えてゆくだろうことは容易に予想される.
 この論文は何度か読んでいるが,研究の計画・手法,使用する資料,事実の提示法,論旨にいたるまで実によくできており,スリル感をもって読ませる好論である.

 ・ Sherman, D. "Noun-Verb Stress Alternation: An Example of the Lexical Diffusion of Sound Change in English." Linguistics 159 (1975): 43--71.

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#1214. 属格名詞の位置の固定化の歴史[word_order][syntax][genitive][lexical_diffusion][statistics]

2012-08-23

 「#132. 古英語から中英語への語順の発達過程」 ([2009-09-06-1]) と昨日の記事「#1213. 間接目的語の位置の固定化の歴史」 ([2012-08-22-1]) に引き続き,Fries の研究の紹介.今回は,属格名詞が被修飾名詞に対して前置されるか後置されるかという問題について.
 c900--c1250年の発展について,次のような結果が得られた (Fries 205) .

 c. 900c. 1000c. 1100c. 1200c. 1250
Genitive before its noun52.4%69.1%77.4%87.4%99.1%
Genitive after its noun47.6%30.9%22.6%12.6%0.9%


Development of Genitive Before Its Noun

 早くも13世紀には,属格名詞の前置が固定可されていたことがわかる.
 関連して,17世紀後半に属格名詞ではなく通格名詞(単数でも複数でも)が他の名詞に前置されてそのまま修飾語として用いられる例 (ex. school teacher, examination paper) が現われるが,修飾語と被修飾語の位置関係が固定されていなければ不可能な統語手段である (206) .
 これまでに動詞と直接目的語と間接目的語の位置関係,属格名詞と被修飾名詞の位置関係の歴史について見てきたことになるが,いずれも遅くとも中英語の終わりまでには現代英語的な語順に固定していたことがわかる.中英語は,語順の固定可が著しく進んだ時代と結論づけてよいだろう.

 ・ Fries, Charles C. "On the Development of the Structural Use of Word-Order in Modern English." Language 16 (1940): 199--208.

Referrer (Inside): [2015-10-19-1] [2012-08-24-1]

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#1215. 属格名詞の衰退と of 迂言形の発達[word_order][syntax][genitive][lexical_diffusion][statistics][synthesis_to_analysis]

2012-08-24

 昨日の記事「#1214. 属格名詞の位置の固定化の歴史」 ([2012-08-23-1]) で,中英語における被修飾名詞に対する属格名詞の位置の固定可について見たが,前置であれ後置であれ,属格名詞そのものが同時期に衰退していったという事実を忘れてはならない.属格名詞を用いた A's B の代わりに B of A というof による迂言形が発達し,前者を脅かした.この交替劇は,大局から見れば,総合から分析へ (synthesis_to_analysis) という英語史の潮流に乗った言語変化である.
 Fries (206) に与えられている表は,古英語から中英語にかけて3種類の属格(前置属格,of 迂言形,後置属格)がそれぞれどの程度の割合で用いられれたかを示す統計値である.これをグラフ化してみた.

 Post-positive genitive'Periphrastic' genitivePre-positive genitive
c. 90047.5%0.5%52.0%
c. 100030.5%1.0%68.5%
c. 110022.2%1.2%76.6%
c. 120011.8%6.3%81.9%
c. 12500.6%31.4%68.9%
c. 13000.0%84.5%15.6%


Development of Three Types of Genitive

 グラフからは,3種類の属格の交代劇が一目瞭然である.古英語の終わりにかけて後置属格が衰退するにともなって前置属格が伸長し,その後13世紀中に of 迂言形が一気に拡大して前置属格を置き換えてゆく.of 迂言形の拡大については,Mustanoja (74--76) が詳しい.

 ・ Fries, Charles C. "On the Development of the Structural Use of Word-Order in Modern English." Language 16 (1940): 199--208.
 ・ Mustanoja, T. F. A Middle English Syntax. Helsinki: Société Néophilologique, 1960.

Referrer (Inside): [2015-10-19-1]

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#1569. 語彙拡散のS字曲線への批判 (2)[lexical_diffusion][language_change][speed_of_change][wave_theory][variation]

2013-08-13

 [2013-07-26-1]の記事に引き続き,lexical_diffusion (語彙拡散)の言語変化理論としての問題点について.前の記事の最初の引用で触れた Denison (2003) をじっくり読んだ.Denison は長らく典型的な言語変化の進行パターンとして lexical diffusion の象徴であるS字曲線を受け入れていたが,それについて考え直すようになったと述べ,理論的な問題点,不明な箇所,議論すべき話題を明らかにしている.lexical diffusion について私の抱いていた問題意識と重なる部分が多かったため興奮しながら読んだ.以下に箇条書きで論点をまとめよう.

 (1) lexical diffusion は言語変化が slow-quick-quick-slow と進行すると唱えているが,なぜそのようなパターンを描くのかについての合理的な説明は,皆無ではないものの (ex. Bloomfield, Labov) ,しばしば議論の前面に現われてこない.
 (2) S字曲線の背景にある数学的原理は複数ありうるが,多くの場合,無批判にロジスティック曲線 (logistic curve) が前提とされている.
 (3) 語彙拡散のグラフのY軸が何を表わすのかという問題について真剣に議論されてこなかった."lexical diffusion" という名が示すとおり,通常は変化に関与する語彙の総体を100%としてY軸に据える.しかし,構文タイプの数,語用論的な環境の数,話者個人の新形使用の割合,言語共同体内の話者人口の割合など,考えられるY軸は多岐にわたる.
 (4) Y軸の表わす値が絶対数なのか割合なのかにより,背後にある数学は大きく異なるが,その考察はなされていない.
 (5) X軸が時間を表わすことに議論の余地はない.しかし,個人の人生の時間ととらえることはできるのだろうか.これは,個人の一生のなかでの言語変化という別の興味深い問題と関わってくるだろう.
 (6) 言語変化のS字曲線は,十分な証拠が得られないという理由か,あるいは途中で変化が止まったり逆行したりするという理由により,後半部分が描かれないことが多い.おそらく,完全なS字曲線よりも,このように不完全な曲線のほうが多いだろう.
 (7) ほとんどの語彙拡散研究は,ある旧形に対してある新形が拡大してゆくパターンに注目している.しかし,対立する variants は,すべての言語変化について,旧形1つ,新形1つの計2つしか関与していないのだろうか.実際には多数の variants があるはずではないか.3つ以上の variants が関わる場合の言語変化モデルは,2つの場合のモデルとおおいに異なるのではないか.機能的には等価な variants とみなす基準はどのように決められるのか.
 (8) 1言語の歴史を,言語変化の束であるとして,すなわちS字曲線の束であるとする言語史観が散見される(例えば,古英語と近代英語は比較的安定しているが,中英語は激変の時代であるから,英語史も大きなS字曲線だとする見方).しかし,無数の個々の言語変化を表わすS字曲線を束ねるということは,いったいどういうことなのか,何を意味するのかは不明である.

 (3) の考えられるY軸という問題について補足しよう.「#1550. 波状理論語彙拡散含意尺度 (3)」 ([2013-07-25-1]) で "double diffusion" という考え方に触れたが,double どころか multiple の拡散が考えられるというのが,Y軸問題なのではないだろうか.Y軸を共同体や地理の次元ととらえれば,拡散とは wave_theory における伝播と異ならないことになるだろう.
 示唆に富む刺激的な論文だった.

 ・ Denison, David. "Log(ist)ic and Simplistic S-Curves." Motives for Language Change. Ed. Raymond Hickey. Cambridge: CUP, 2003. 54--70.

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#1572. なぜ言語変化はS字曲線を描くと考えられるのか[lexical_diffusion][language_change][speed_of_change][schedule_of_language_change]

2013-08-16

 語彙拡散に典型的なS字曲線については,最近では「#1569. 語彙拡散のS字曲線への批判 (2)」 ([2013-08-13-1]) で,過去にも「#855. lexical diffusioncritical mass」 ([2011-08-30-1]) や「#5. 豚インフルエンザの二次感染と語彙拡散の"take-off"」 ([2009-05-04-1]) を含む lexical_diffusion の諸記事で扱ってきた.自然界や人間社会における拡散や伝播の事例の多くが時間軸に沿ってS字曲線を描きながら進行することが経験的に知られている.噂の広がり,流行の伝播,新商品のトレンドなど,社会学ではお馴染みのパターンである.
 だが,言語変化においてこのパターンが生じるのは(事実だとすれば)なぜなのか.合理的な説明は可能なのだろうか.ロジスティック曲線のような数学的なモデルを参照することは,合理的な説明のためには参考になるかもしれないが,そもそも前提となるモデルがロジスティック曲線であるかどうかは,[2013-08-13-1]の (2) でも触れたように,自明ではない.
 Denison (58) は,変異形の選択にかかる圧力こそが,slow-quick-quick-slow のパターンを示すS字曲線の原動力であるとしている.

Now, speakers reproduce approximately what they hear, including variation, and even apparently including the rough proportions of variant usage they hear around them. However, if there is some slight advantage in the new form over the old, the proportions may adjust slightly in favour of the new. Thus the status quo is not reproduced with perfect fidelity. The speaker has (unconsciously) made a slightly different choice between variants --- albeit a statistical choice, reflected in frequencies of occurrence. And this effect of choice is greatest when the two variants are both there to choose from. In the very early stages of a change, so the argument runs, the new form is rare, so the pressures of choice are relatively weak and the rate of change is slow. In the late stages of a change, the old form is rare, so that the selective effect of having two forms to compare and choose between is again weak, and once again the rate of change is slow. Only in the middle period, when there are substantial numbers of each form in competition, does the rate of change speed up. Hence the S-curve.


 変化の過程の最初と最後は,古形と新形の2つの variants のうちいずれかが圧倒的に優勢であるために,どちらを選択するかの迷い(すなわち圧力)は低い.だが,変化の過程の中盤で多くの選択がフィフティ・フィフティに近くなると,毎回選択の圧力が働くために,選択の効果が顕在化しやすく,変化のスピードが増すことになる.
 Denison (60) はまた,他の論者の議論に拠りながら,次のようにも述べている.

Suppose that the small impetus towards change has to do with some structural disadvantage in the old form . . ., then after the change had taken place in a majority of contexts, reduction in numbers of the old form would perhaps reduce the pressure for change, allowing the rate of transfer to the new form to slow down again. Or words that are particularly salient, or maybe especially frequent or infrequent, or of a particular form, might resist the change for reasons which had not applied --- or at least did not apply so strongly --- to those words which had succumbed early on. Even if the impetus towards change is not structural but to do with social convention . . . there would still be the same slow-down towards the end.


 同じ選択の圧力の議論だが,それは構造的であれ社会的であれ同様に見られるのではないかと示唆している.変化の最初と最後に関わるのが言語的 salience であり,フィフティ・フィフティ付近に関わるのが non-salience であるという対比も鋭い指摘だと思う.ただし,Denison の議論は,言語変化のS字曲線を説明するのに上記のような理屈を持ち出すことはできるものの,実際にはそううまくは進まないという結論なので,単純な議論ではないことに注意する必要がある.

 ・ Danison, David. "Log(ist)ic and Simplistic S-Curves." Motives for Language Change. Ed. Raymond Hickey. Cambridge: CUP, 2003. 54--70.
 ・ Rogers, Everett M. Diffusion of Innovations. 5th ed. New York: Free Press, 1995.

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