hellog〜英語史ブログ

#2452. 書き手の主体性が機械に乗っ取られる感覚[writing]

2016-01-13

 コンピュータを用いた文字の表記は,英語でも日本語でも,今では当たり前である.しかし,コンピュータが現在ほど普及する前には,我が国ではコンピュータによる日本語表記について,喧々囂々の議論がなされていた.その議論の一部はいまだ有効のように思われる.阿辻 (105--07) は,1998年当時,書き手の主体性という問題へ注意を喚起している.

文章とは自分で書くものであり、機械が書いてくれるものではない、という当たり前の事実だけは、絶対に忘れてはならない。日本語の表記に関して今もっとも要求されているのは、文字を書く人間の主体性の確立なのであって、そのためにも文章を書く人間の自覚の重要さを強調する必要がある。
 これからの二一世紀にむけて、日本語を平仮名や片仮名(あるいはローマ字書き)中心で書こうとする主張が唱えられることはおそらくありえない。現在すでに六三〇〇字あまりの漢字がコンピュータで処理でき、しかもこれからの日本の発展の中枢に、コンピュータが位置することは確実である。つまりこれからの漢字は、コンピュータの進化と離れては、みずからの存在を主張できないのである。
 もちろん二一世紀になっても、手で書かれた文字は頻繁に使われるだろうし、書道の作品も大量に制作されつづけるだろう。それらはおそらく人類の歴史と共に、永遠に存在しつづけるにちがいない。しかし少なくとも論文や研究報告、あるいはビジネス文書、それに書籍や雑誌などでの日本語は、執筆の段階でコンピュータとの付き合いを離れてはありえない。そしてもっとも大事な問題は、コンピュータが出してくる日本語をそのまま二一世紀の日本語とするのではなく、日本人自身が二一世紀の日本語を作っていかなければならない、ということなのである。
 そのためにはどうしたらいいのか。それは決して難しいことではない。単に、文章を書くのはほかでもなく私たち自身であり、コンピュータではないのだという、きわめて当然の事実を、各人がしっかりと自覚すればいいのだ。コンピュータが処理する日本語に関する種々の機能はまことに日進月歩であって、どんどん高機能化している。最近では文法的な解析ができると標榜するものまであって、「仮名漢字変換」という機能は、たしかに非常に便利なものである。しかしコンピュータが画面上に出してくる文章に対して、なんの吟味も検討も加えず、それに安易に引きずられてしまうと、人間ではなくコンピュータが書いた文章ができあがる。筆やペンを使って手書きで文章を書いていた時に、言葉を丁寧に一つずつ選んでいた状況が、機械を前にしてキーボードを使って書いても、同じように実現されなければならないのである。日本語に対する各人の感性が、今ほど重要視される時代はない。


 これは,「#2391. 表記行動」 ([2015-11-13-1]) で示した図で考えれば,「表記主体」たる書き手が「表記手段」たるコンピュータの上位にあるのが当然であり,前者が後者に従属することがあってはならないということである.現在,コンピュータによる仮名漢字変換や語法チェックなどの機能は実に便利であり,私たちも日々お世話になっていることは疑い得ないが,書き手はその利便性を享受しながらも,最終的には校正者であり編集者であり決定者であるという自覚をもっていなければならない,ということだ.
 英語をコンピュータで書くときも同様である.スペルチェックや文法チェックはありがたいが,ときに余計なお世話だと思うことはある.余計なお世話,との感覚がまるでなくなるとしたら,そのときこそ,書く主体としての人間がコンピュータに乗っ取られる瞬間だろう.

 ・ 阿辻 哲次 『一語の辞典 文字』 三省堂,1998年.

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