昨日の記事「#4689. YouTube で「井上逸兵・堀田隆一英語学言語学チャンネル」を開設しました」 ([2022-02-27-1]) で,井上逸兵先生と共同で YouTube チャンネルを開設した旨をアナウンスしました.初回の「英語学」ってなに?--むずかしい「英語」を「学」ぶわけではありません!!では,対談という形で「英語学」そのものに迫ってみました.
ところが,この質問は私にとってはそこそこ不意打ちの質問でして,ちょっと考えてしまいました.私の専門は「英語史」ですが広い意味で「英語学」の1分野ですし,これまでも「英語学」の講義を担当してきた経緯があります.その割には「英語学とは何か」を考えてきていなかったということに気づきました.もやもやとは答えをもっていましたが,自明すぎて本気で問うことをしてこなかったようです.
私の答えを端的にいえば「英語という言語を対象とする言語学である」ということでした.ここには私の専門の英語史や英語文献学も含まれます.英語のスキルを磨くための「規範」に基づく語学学習とは一線を画し,英語のありのままを「記述」するのが英語学であると.つまり,とりわけ英語という個別言語をターゲットに絞って研究する言語学が英語学であるという認識です.
一方,井上氏の認識は,端的にいって「英語学とは英米流の言語学である」ということでした.ターゲットというよりもアプローチを指す用語だというわけです.例えば,日本語を対象としていても英語学は成り立つという立場です.確かに,英語学のアプローチを用いながら実際のところは日本語を研究しているという事例は,日本の関連学会でも英文科の大学院でもしばしば見受けられることです.その観からいえば,井上流の「英語学」の解釈もうなずけます.
どうやら「英語学」の理解にもいろいろとありそうだということに,今更ながら気づきました.では,英語学辞典などでは「英語学」はどのように定義されているのだろうと何冊か引いてみると,なんと載っていないのです! 自明すぎて載せないという建前なのでしょうが,実は自明ではないというのが今回の私の発見です.
では英語学の教科書ではどうだろうかと,まず手元にあった『日英対照 英語学の基礎』を開いてみました.「まえがき」の p. ii に次のようにありました.
みなさんは,「英語学」と聞くと,これまで勉強している「英語」と何が違うのだろうと思うことでしょう.「英語学」というのは,英語という言葉がどのような仕組みになっているかを考える言語学の一領域です.つまり,英語の音や単語,文や会話などがどのような仕組みになっており,そこにどのような規則が潜んでいるかを明らかにしようとする研究分野です.
これは,だいたいのところ私が理解している「英語学」に近いと思います.ただ,英語史贔屓の私にとっては,これだけではちょっと物足りないという感じがしています.
英語学って何なのでしょうかね.捉え方は十人十色なのだろうと思います.この事実は意外とびっくりでした.皆さんの考えははいかがでしょうか?
なお,「英語史」も負けず劣らず難しいです.とりあえず「#225. 「英語史研究」とは?」 ([2009-12-08-1]) 辺りをご覧ください.
・ 三原 健一・高見 健一(編著),窪薗 晴夫・竝木 崇康・小野 尚久・杉本 孝司・吉村 あき子(著) 『日英対照 英語学の基礎』 くろしお出版,2013年.
昨日の記事「#4678. 言語における塊現象と長相関」 ([2022-02-16-1]) で,言語における塊現象を「長相関」の観点からみたが,今回はもう1つの観点である「ゆらぎ」に注目しよう.ゆらぎ解析について,田中 (112) は次のように説明している.
このような塊現象を捉える自然な方法の一つとして,ある一定の範囲内に出現する単語の頻度の分散を調べることが挙げられる.ある単語の出現にゆらぎがあるのであれば,ある一定の範囲内にその単語が出現しない場合があり,また一方でその単語が数多く出現する場合もあり,その頻度の分散は大きくなるはずである.
解析原理としては分かりやすい.ある文章中に表われる語彙を念頭におく場合,ゆらぎ方は語によって異なるが,おもしろいことに,いわゆるキーワードはしばしばゆらぎが大きいという(田中,p. 118).これは,機械的なキーワードの同定などに貢献しそうな興味深い傾向である.
また,人間言語による文章とランダム文字列の文章とでゆらぎを比べると,明らかに前者の方がゆらぎが大きく,このことは人間言語の特徴の一端を示唆する.さらに,文章のジャンルによってもゆらぎは異なるために(田中,p. 120),ゆらぎの度合いは文体論的な指標ともなり得る.
様々な可能性を秘めた言語における「ゆらぎ」にアンテナを張っておきたい.関連して「1/f ゆらぎ」 (1/f) も要注目.
・ 田中 久美子 『言語とフラクタル --- 使用の集積の中にある偶然と必然』 東京大学出版会,2021年.
言語には,他の多くの自然・社会現象にもみられる「塊現象」というものが観察される.田中 (98) の説明を引用する.
その傾向は一言で言えば「塊現象」,つまり単語が固まって現れること,ある単語が一旦現れるとしばらくの間は頻繁に出現する一方で,それを過ぎるとほとんど出現しなくなる傾向があることとして直感的に捉えることができる.塊現象が見られる系列では,短い間隔が続いた後には短い間隔が現れ,また逆に長い間隔が続いた後には長い間隔が現れる可能性が高い.このような言語の塊現象の要因の一つは,当然のことながら文脈の変化にある.
塊現象は,自然,金融など,さまざまな複雑系においてはよく知られる〔中略〕.たとえば,大雨や地震が固まって現れることは経験を通して誰しも知っているだろう.社会的な対象においても,たとえば,株取引には,ある取引が引き金となって,関連する取引が行われるため,やはり塊現象が生じることが知られる.同様に,単語もある単語が引き金となり,その単語ならびに関連する単語の塊が出現する.
説明されてみれば,もっともという現象ではある.この塊現象の一般的な研究には歴史があるが,言語に応用した研究は少ないようだ.解析法としては,大きく分けて「長相関」と「ゆらぎ」に着目する2種類があるという.ここでは前者を見ていこう.
「長相関」による解析は,「ある系列中の,二つの部分列の相関が,その部分列の距離 s に依存してどのように変化するかを調べる解析」である(田中,p. 99).互いに離れた2つの部分列の内部構造が類似していれば長相関があるということになる(cf. 「#4675. 言語と複雑系」 ([2022-02-13-1]) で言及した「長期記憶」).
英語における最頻語である定冠詞 the について,長い文章で長相関解析を試みると,どうやら弱い長相関があるようだ(田中,p. 105).しかし,あくまで弱い長相関があるにとどまり,細かくみれば the にすらある程度の塊現象がみられることが判明する.驚くことに,the も現われるときは固まって現われ,現われないときにはしばらく現われない,ということがある程度観察されるのである.田中 (109)は,先行研究に従い,この事実を次のように解釈している.
k 個の短い間隔があると,続く k + 1番目の間隔も短く,k 個の長い間隔があると,それに続く k + 1番目の間隔も長い傾向にある.短い間隔が続くことは,対象となる単語が固まって現れることを示している.〔中略〕このような塊現象の背景には文脈の変化がある.the については,まず不定冠詞を中心として一般的な概念を導入し,その後,導入された概念について議論が行われ,その際は the が多用される.
これは,談話における情報構造 (information_structure) に着目した,the についての塊現象の読み解きといってよいだろう.
・ 田中 久美子 『言語とフラクタル --- 使用の集積の中にある偶然と必然』 東京大学出版会,2021年.
標題については「#3130. 複雑系言語学」 ([2017-11-21-1]) をはじめとして complex_system の記事で垣間見てきた.一昨日の記事「#4673. 言語の統計的必然性と偶然性」 ([2022-02-11-1]) で参照した田中が,『言語とフラクタル』の導入部で「複雑系」と題する1節を書いている.p. 34--35 より要点を引用したい.
本書における複雑系は,以下の二つの大域的な性質が満たされるものとして定義される.
・ 要素の分布にスケールフリー性が成り立つこと
・ 列に長期記憶があること
〔中略〕
要素の分布にスケールフリー性があることは,系の要素が無限に増えていく無限系であり,また,系は開放性を持つことを示唆する.一方,第二の基準の長期記憶に関しては,言語の列に内在する特性を表し,〔中略〕本書でいう長期記憶 (long memory) とは,コーパスのある部分が,そこから遠く離れた別の部分に影響を及ぼすことをいう.影響を及ぼす要因は,意味的,構文的,実用論的等さまざまで,その種別を問わず,長距離での関係をおしなべて長期記憶と総称する.日本語として認知科学以外の分野では耳慣れないかもしれないが,大元の英語 long memory は,複雑系科学では頻出する.
「スケールフリー性」にせよ「長期記憶」にせよ言語学で一般に用いられる用語ではない.しかし,このような概念を用いて説明されてきた自然界や人間界の多数の現象から,言語現象がそれほど隔たっているわけではない,という洞察が複雑系言語学の要点である.ただし,他の現象とまったく同じというわけではない.その差異を的確にとらえることができれば,言語を言語たらしめている本質が見えてくるのではないか.そのような期待がある.
・ 田中 久美子 『言語とフラクタル --- 使用の集積の中にある偶然と必然』 東京大学出版会,2021年.
「#4657. 翻訳の不確定性」 ([2022-01-26-1]) の補足として,関連の深い根源的翻訳について導入したいと思います.皆さんも一度は考えたことのある思考実験ではないでしょうか.無人島で,まったく異なる言語を母語とする人と2人きりでコミュニケーションを取ることになったら,どんなコミュニケーションになるのか,というあの問題です.言語哲学の分野では,2人の間で交わされる言語行為は根源的翻訳と呼ばれています.
服部は「翻訳の不確定性」説の基盤にある「根源的翻訳」の思考実験について,次のように論じています (95--97) .
クワインは,『ことばと対象』という本の中では,別の論拠によって翻訳の不確定性を主張している.それは,言語学者が自分の話す言語とはまったく異質の未知の言語を話す人々の住む社会に初めて遭遇したときに,彼/彼女がその言語をどのように翻訳するか---このような状況での翻訳は根源的翻訳と呼ばれる---という思考実験に基づいたものである.根源的翻訳は現実にはまず存在しない.というのも,現在ではもはやこの地球上のほとんどの地域が調査され,(たとえわずかであっても,また貧弱であっても)そこに住む人々の言語を通訳する人や辞書が存在したりするからである.しかしながら,現実には存在しなくとも,そのような仮想的な状況での翻訳作業がどのように行なわれるかということを考察することは,翻訳とはそもそもいかなるものなのか,ということを考える場合には有用である.
以下,クワインの思考実験を辿ってみよう.ある日本人の言語学者が未知の言語を話す未知の社会に足を踏み入れたとする.そこで彼/彼女は現地の人と出くわす.折しも,その人の前を一羽のウサギが横切った.すると,それを見たその人は「ガヴァガイ!」と叫んだ.このとき,その言語の学者は,その人は「ウサギだ!」あるいは「ウサギが横切った!」と言ったのだろうと推測し,自分のノートに「カヴァガイ---ウサギ」というメモを残すだろう.これが私たちの通常の翻訳作業ではなかろうか.しかし,そうであるならば,「ウサギ」という表現は「ガヴァガイ」という表現の唯一正しい翻訳とは言えないかもしれない.なぜなら,ウサギを横切るのを見たとき,私たち日本人は「ウサギだ!」あるいは「ウサギが横切った!」と言いたくなるかもしれないが,現地の人もまたそうだとは断言できないからである.彼/彼女らは,たとえば,そのような場合,「ウサギ場面!」とか「ウサギの分離されていない部分!」と言っているのかもしれない.
この事態は情報が不十分ということから起こっているわけではない.たとえば,どれが「ガヴァガイ!」の正しい翻訳であるかを決めるためにさらに観察を重ねたとしても,何ら事態は改善されないのである.というのは,新たにウサギを横切るのを見,そのとき現地の人が「ガヴァガイ!」と叫ぶのを見るとき,それは,一方の翻訳を支持する人---Aさん---にとっては「ウサギだ!」と訳すべきだということの証拠とされるが,他方の翻訳を支持する人---Bさん---にとっては「ウサギ場面だ!」と訳すべきだということの証拠とされるからである.
「一羽の」の訳すべき現地語---それを「M」としよう---と「ガヴァガイ」が組み合わされて使用されるのを観察すれば,「ガヴァガイ」が(「ウサギ場面」ではなく)「ウサギ」と訳されるべきことであることがわかる,と言われるかもしれない.しかし,そのためめには「M」が「一羽の」と訳されるとういことが確定していなければならない.ところが,その M の翻訳においても,「ガヴァガイ」と同じように,複数の翻訳がありうる.つまり,「M ガヴァガイ」は A さんにとっては「一羽のウサギ」と訳されるべきかもしれないが,B さんにとっては「ウサギ場面」という表現を含むかなり複雑な表現に翻訳されるべきかもしれないのであり,このいずれが正しいのかを何らかの観察によって決めることはできないのである.
以上の点は次のようにまとめることができる.すなわち,
「ある言語を別の言語に翻訳するための手引きには,種々の異なるものがありえ,しかも,いずれの手引きも言語性向全体とは両立するものの,それらの手引きどうしは互いに両立しえないということがありうる」.
同床異夢と言いましょうか,よくおじいちゃんとおばあちゃんの会話などで,はたから聞いていると明らかにかみ合っていないのに,本人たちは互いにコミュニケーションが取れていると思い込んでいるように見えるケースがありますが,あれに近いのでしょうかね.
「ガヴァガイ」問題については,心理言語学の観点から「#920. The Gavagai problem」 ([2011-11-03-1]) でも論じていますので,そちらも補足としてご覧ください.
・ 服部 裕幸 『言語哲学入門』 勁草書房,2003年.
意味は存在するのか,という言語哲学 (philosophy_of_language) 上の問題がある.素人考えでは,もちろん存在していると思うわけだが,犬や石が存在するのと同じように存在しているのかと問われると自信がなくなってくる.(普通の感覚では)犬や石は確かに客観的に存在しているように思われる.しかし,意味も同じような客観性をもって存在しているといえるのだろうか.意味とは,存在するにしても,あくまで主観的にのみ存在しているものなのではないか.もしそうだとすると,つまり客観的な意味というものが存在しないとすると,驚くべき結論が導かれることになる.ここからは,服部 (94--95) を引用しよう.
もし客観的対象としての意味が存在しないとしてみよう.すると,「正しい翻訳が唯一定まる」ということが意味をなさなくなるのである.この点を以下で説明しよう.
翻訳とは,異なる言語の間で意味が同じ表現同士を対応させることである.私たちは通常,客観的対象としての意味が存在すると考えていて,一方の言語に属する表現 A がある場合,それが表す意味 m があって,その m を表すもう一方の言語に属する表現 B (があればそれ)を A に対応させると,A は正しく(B に)翻訳された,と考えてはいないだろうか.もし m を表さない表現 C を A に対応させれば,その翻訳は誤りとされるのである〔後略〕.
ところが,〔中略〕m や n に相当するものが存在しないとすれば,どのようにして B が A の正しい翻訳であり,C はそうでないと主張したらよいのだろうか.さまざまな会話状況において円滑なやりとりが可能となるかどうか,といったことを目安に「翻訳の正しさ」を決めるということはありうるが,そのような基準をとったときに正しい翻訳が唯一定まる保証はどこにもない.かくして,翻訳の不確定性が生じることになる.
これは,アメリカの哲学者 Willard van Orman Quine (1908--2000) が Word and Object (1960) で主張した翻訳の不確定性 (indeterminacy of translation) と呼ばれる現象を,かみ砕いて説明したものである.翻訳の不確定性を巡っては,生成文法を唱えた Noam Chomsky (1928--) との間で後に論争が繰り広げられたこともよく知られている.
関連して「#920. The Gavagai problem」 ([2011-11-03-1]) を参照.
・ 服部 裕幸 『言語哲学入門』 勁草書房,2003年.
多くの言語には,時間 (time) に関連する概念を標示する機能があります.まず,日本語にも英語にもあって分かりやすいのは時制 (tense) という範疇 (category) ですね.過去,現在,未来という時間軸上のポイントを示すアレです.
もう1つ,よく聞くのが相 (aspect) です.aspect という英単語は「局面,側面,様態,視座,相」ほどを意味し,いずれで訳してもよさそうですが,最も分かりにくい「相」が定訳となっているので困ります.難しそうなほうが学術用語としてありがたがられるという目論見だったのでしょうかね.あまり感心できませんが,定着してしまったものを無視するわけにもいきませんので,今回は「相」で通します.
さて,aspect や「相」について参考書を調べてみると,様々な定義や解説が挙げられていますが,互いに主旨は大きく異なりません.
動詞に関する文法範疇の一つで,動詞の表わす動作・状態の様相のとらえ方およびそれを示す文法形式をいう.(『新英語学辞典』, p. 96)
The grammatical category (expressed in verb forms) that refers to a way of looking at the time of a situation: for example, its duration, repetition, completion. Aspect contrasts with tense, the category that refers to the time of the situation with respect to some other time: for example, the moment of speaking or writing. There are two aspects in English: the progressive aspect ('We are eating lunch') and the perfect aspect ('We have eaten lunch'). (McArthur 86)
A grammatical category concerned with the relationship between the action, state or process denoted by a verb, and various temporal meanings, such as duration and level of completion. There are two aspects in English: the progressive and the perfect. (Pearce 18)
半年ほど前のことですが,オンライン授業の最中に,学生よりズバリ「相」って何ですかという質問がチャットで寄せられました.そのときに次の即席の回答をしたことを思い出しましたので,こちらに再現します.授業中ということもあり,その場での分かりやすさを重視し,カジュアルで私的な解説にはなっていますが,かえって分かりやすいかもしれません.
相が時制とどう違うか,という内容の問題でしょうかね? そうするとけっこう難しいのですが,よく言われるのは「相」は動詞の表わす動作の内部時間の問題,「時制」は動詞の表わす動作の外部時間の問題とか言われます.
例えば jump 「跳ぶ」の外部時間は分かりやすくて「跳んだ」「跳ぶ」「跳ぶだろう」ですね.内部時間というのは,「跳ぶ」と一言でいっても,脚の筋肉を緊張させて跳び始めようかなという段階(=相)もあれば,実際跳び始めてるよという段階(=相)もあるし,跳んでいて空中にいる最中の段階(=相)もあれば,跳び終わって着時寸前の段階(=相)もあれば,跳び終わっちゃった段階(=相)もあるというように,今の例では少なくとも5段階くらいあるわけです.スローモーションの画像のどこで止めようかという話しです.この細かい段階を表わすのが「相」です.時間が関わってくる点では共通していますが,「時制」とは別次元の時間の捉え方ですよね.
言語における「相」の概念の一部のみをつかんだ取り急ぎの解説にすぎませんが,参考になれば.
もう少し本格的には「#2747. Reichenbach の時制・相の理論」 ([2016-11-03-1]) も参照.
・ 大塚 高信,中島 文雄(監修) 『新英語学辞典』 研究社,1982年.
・ McArthur, Tom, ed. The Oxford Companion to the English Language. Oxford: OUP, 1992.
・ Pearce, Michael. The Routledge Dictionary of English Language Studies. Abingdon: Routledge, 2007.
英語史の最重要キーワードの1つである "Great Vowel Shift" (「大母音推移」; gvs)については本ブログでも多く取り上げてきたが,それにちなんで名付けられた統語論上の "Great Complement Shift" (「大補文推移」; gcs)については「#860. 現代英語の変化と変異の一覧」 ([2011-09-04-1]) でその名前に言及した程度でほとんど取り上げてきていなかった.これは,英語史上,動詞補分構造 (complementation) が大きく変化してきた現象を指す.この分野の第一人者である Rohdenburg (143) が,重要な論文の冒頭で次のように述べている.
Over the past few centuries, English has experienced a massive restructuring of its system of sentential complementation, which may be referred to as the Great Complement Shift.
一括りに補文構造の大変化といっても,実際には様々な種類の変化が含まれている.それらが互いにどのような関係をもつのかは明らかにされていないが,Rohdenburg はまとめて GCS と呼んでいる.Rohdenburg (143--45) は,次のような通時的変化(あるいはそれを示唆する共時的変異)の例を挙げている.
(1) She delighted to do it. → She delighted in doing it.
(2) She was used/accustomed to do it. → He was used/accustomed to doing it.
(3) She avoided/dreaded to go there. → She avoided/dreaded going there.
(4) He helped (to) establish this system.
(5) They gave us some advice (on/as to) how it should be done.
(6) a. He hesitated (about) whether he should do it.
b. He hesitated (about) whether to do it.
(7) a. She was at a loss (about) what she should do.
b. She was at a loss (about) what to do.
(8) a. She advised to do it in advance.
b. She advised doing it in advance.
c. She advised that it (should) be done in advance.
(9) a. He promised his friends to return immediately.
b. He promised his friends (that) he would return immediately.
統語論上これらを1つのタイプに落とし込むことは難しいが,動詞の補文として動名詞,不定詞,that 節,前置詞句などのいずれを取るのかに関して通時的変化が生じてきたこと,そして現在でもしばしば共時的変異がみられるということが,GCS の趣旨である.
・ Rohdenburg, Günter. "The Role of Functional Constraints in the Evolution of the English Complement System." Syntax, Style and Grammatical Norms: English from 1500--2000. Ed. Christiane Dalton-Puffer, Dieter Kastovsky, Nikolaus Ritt, and Herbert Schendl. Bern: Peter Lang, 2006. 143--66.
ジェスチャー (gesture) は言語そのものではないが,言語と同期することも多く,心理言語学や社会言語学などの分野では重要な研究対象となっている.とりわけ近年では「マルティモーダル分析」 (multimodal analysis) と呼ばれる,パラ言語的要素 (paralinguistics) を統合的に観察する手法が編み出されてきている,ジェスチャーは,言語の起源 (origin_of_language),手話 (sign_language),普遍言語といった話題とも接点があり,言語学との結びつきは強い.実際,目下読み進めている言語学史のハンドブックで,ジェスチャー研究の歴史に1章が割かれている.Kendon (71) より,意外と緩い「ジェスチャー」の定義・解説を引いておきたい.
'Gesture' here refers to the wide variety of ways in which humans, through visible bodily action, give expression to their thoughts and feelings, draw attention to things, describe things, greet each other, or engage in ritualized actions as in religious ceremonies. 'Gesture' includes the movements of the body, especially of the hands and arms, often integrated with spoken expression; the use of manual actions, often conventionalized, to convey something without speech; or the manual and facial actions employed in sign languages. All this is part of 'gesture', broadly conceived. Expressions such as laughing and crying, blushing, clenching the teeth in anger, and the like, or bodily postures and attitudes sustained during occasions of interaction, are less likely to be so considered. 'Gesture' is not a well-defined category. Although there is a core of phenomena, such as those mentioned, to which the term is usually applied without dispute, it is not possible to establish clear boundaries to the domain of its application, and some writers are inclined to include a much wider range of phenomena than do others.
本ブログでは「#2921. ジェスチャーの分類」 ([2017-04-26-1]) でジェスチャーの話題を取り上げたことがある程度で私も門外漢だ.そこでふと思ったのだが,歴史ジェスチャー学というものは存在するのだろうか.例えば演劇のパフォーマンス,写本図像,絵本などの資料などから,それらしい研究が成り立つのだろうか.
・ Kendon, Adam. "History of the Study of Gesture." Chapter 3 of The Oxford Handbook of the History of Linguistics. Ed. Keith Allan. Oxford: OUP, 2013. 71--89.
文字論研究史を概説している Daniels (63) に,日本語の仮名(平仮名と片仮名)がモーラに基づく文字であることが言及されている.この事実そのものは日本語学では当然視されており目新しいことでも何でもないが,音節 (syllable) ではなくモーラ (mora) という音韻論的単位が言語学に持ち込まれた契機が,ほかならぬ日本語研究にあったということを初めて知った.日本語の仮名表記や音韻論を理解・説明するのにモーラという概念は是非とも必要だが,否,まさにそのために導入された概念だったのだ.
The term 'mora' was introduced into modern linguistics by McCawley (1968) to render a term (equivalent to 'letter') for the characters in the two Japanese 'syllabaries' ('kana'), hiragana and katakana, which denote not merely the (C)V syllables of the language but also a syllable-closing nasal or length.
モーラと音節が異なる単位であることは,以下の例からも分かる.要するに,長音,促音,撥音のような特殊音素は,独立した音節にはならないが独立したモーラにはなる.
・ 「ながさき」 (Nagasaki) は4モーラで4音節
・ 「おおさか」 (Ōsaka) は4モーラで3音節
・ 「ロケット」 (roketto) は4モーラで3音節
・ 「しんぶん」 (shimbun) は4モーラで2音節
音節とは異なるが,日本語母語話者にとっては明らかに独立した部品とみなされているもう1つの音韻論的単位,それが日本語のモーラである.仮名の各文字には,およそきれいに1つのモーラが対応している.
・ Daniels, Peter T. "The History of Writing as a History of Linguistics." Chapter 2 of The Oxford Handbook of the History of Linguistics. Ed. Keith Allan. Oxford: OUP, 2013. 53--69.
・ McCawley, James D. The Phonological Component of a Grammar of Japanese. The Hague: Mouton, 1968.
言語変化の伝播や拡散 (diffusion) というテーマに関心を持ち続けている.この話題についてすぐに思い浮かぶのは語彙拡散 (lexical_diffusion) だろう.音変化や形態変化が語彙の間を縫うように進行していくという現象である.一方,ある言語変化が人から人へ,方言から方言へと物理的,地理的に広がっていくという意味での伝播や拡散の話題もある(cf. 「#1053. 波状説の波及効果」 ([2012-03-15-1])).また,昨今ではインターネットなどを経由して非物理的,非地理的に広がっていく言語変化というものも起こっているようである.言語変化の diffusion にも様々なアプローチがあるということが分かるだろう.
diffusion とは,もともと人文地理学 (human geography) や疫学 (epidemiology) において注目されてきた概念であり,思想,事物,生物が分布を広げていく現象を指す.例えば,ある技術や病原菌がいかにして周囲に伝播し拡散していくかという観点から考察がなされてきた.人文地理学の分野では19世紀末に始まる研究史があり,とりわけ影響力の大きい研究者としては Torsten Hägerstrand (1916--2004) の名前が挙がる.オリジナルの著書はスウェーデン語で書かれたが,1967年に英語版の Innovation Diffusion as a Spatial Process が出版されると世に広く知られることになった.人文地理学事典で diffusion の項を執筆した Gregory (160) によると,その革新的な意義は次の通り.
Hágerstrand's work had two catalytic consequences: it set in motion the frozen worlds of SPATIAL SCIENCE, and it opened the door to sophisticated computer modelling of spatial processes.
この Hägerstrand の傑作により diffusion 研究は一時的に勢いを得たものの,やがて社会学的な観点から多くの問題点が指摘されるようになり,diffusion 研究全体が沈滞するようになった.Gregory (161) より,その状況を確認しておこう.
Just ten years after the translation of Hágerstrand's magnum opus, Blaikie (1978) could speak of a 'crisis' in diffusion research, which he said arose from its preoccupation with spatial form and space-time sequence, while Gregory (1985) attributed the 'stasis' of diffusion theory to a pervasive unwillingness to engage with SOCIAL THEORY and social history to explore the conditions and the consequences of diffusion processes. Critics argued that the spatial circulation of information remained the strategic element in most applications of the Hägerstrand model and its derivatives, and while flows of information through different propagation structures and contact networks were exposed in more detail, the primacy accorded to the reconstruction of these spatial pathways obscured a crucial limitation of the Hägerstrand model: it operated within what Blaut (1977) called a 'granular region', 'a sort of Adam Smithian landscape, totally without macrostructure'. In particular:
(1) The Hägerstrand model begins with a pool of 'potential adopters' and does not explain the selective process through which they are constituted in the first place. This suggests the need for a model of biased innovation, where (for example) CLASS or GENDER circumscribes access to innovations. 'Non-diffusion' is then not a passive but an active state arising directly from the structures of a particular society (Yapa and Mayfield, 1978). Critiques of this sort required diffusion theory to be integrated with fields such as POLITICAL ECONOMY and FEMINIST GEOGRAPHY that pay attention to the social as well as the spatial.
(2) The Hägerstrand model assumes a 'uniform cognitive region' and does not explain the selective process through which information flows are interpreted. This matters because 'resistance' to innovation is not invariably a product of ignorance or insufficient information: it may signal a political struggle by people whose evaluation of the information is strikingly different to that of the 'potential adopters'. Critiques of this sort required diffusion theory to be reconnected to a more general cultural geography (Blaut, 1977).
Gregory は,言語変化の diffusion については一言も触れていない.しかし,この人文地理学における diffusion 研究史を知っておくと,有益な洞察を得られる.言語変化の diffusion 研究も,今後,社会・政治的な "macrostructure" を念頭に置くアプローチがますます必要になってくるだろう.
・ Gregory, Derek. "Diffusion." The Dictionary of Human Geography. 4th ed. Ed. Derek Gregory, Ron Johnston, Geraldine Pratt, Michael Watts, and Sarah Whatmore. John Wiley & Sons, 2009. 160--162.
英文法について用いられる標記の3つの用語は,およそ同じ内容を指すものとして理解されているように思われる.個人によって語感は異なるかもしれないが,私自身あまり区別を意識せずに3者を用いることもあるし,自由に言い換えているケースが少なくない.
しかし,改めて考えてみると,微妙にニュアンスが異なるように思われる.明らかに類義語ではあるが同義語ではない.3者とも指示対象は同じ(とは言わずとも,少なくともおよそ重なる)ものだが,指示する角度が異なる.フレーゲ流にいえば,3者は「意味」 (Bedeutung) こそほぼ同じでも「意義」 (Sinn) は異なる(cf. 「#2795. 「意味=指示対象」説の問題点」 ([2016-12-21-1])).私の個人的な語感であることを断わりつつ,3者の区別について考えてみたい.
「規範文法」 (prescriptive_grammar) は,英語史研究者である私にとって第一に英語史用語である.17世紀の助走期を経て,理性の時代といわれる18世紀に興隆した言語規範主義 (prescriptivism) に立脚した,言葉遣いのマナーとして守らなければならない一連の語法,あるいは教養を示そうと思うならば決して発してはならない「べからず集」としての英文法である.Robert Lowth (1710--87) や Lindley Murray (1745--1826) による英文法書がその嚆矢とされる.現代では記述文法 (descriptive grammar) と対置されることが多く,生きた英文法ではないとして,しばしば批判の対象とされる.しかし,英語(学)史に位置づけるならば,規範文法の本質は,すでに英語を習得しており,普通に使いこなせる英語母語話者を念頭においた,言葉遣いのマナー集であるという点にあるだろうと私は考えている.
一方,「学校文法」は一応 "school grammar" と英訳を与えることはできるものの,基本的には日本の英語教育(史)上の用語ではないか.文字通り「学校で学ぶ/教える文法」と受け取るならば,上記の18世紀以来の規範文法に基づいていながらも,記述的な観点も加えて現代風にアップデートされた,日本の学校の英語教育における現役の英文法を指すものととらえることはできる.しかし,英文法として実際に説かれる内容としては,規範文法も学校文法も中核部分はたいして異ならない.指示対象は同一とは言わずとも,十分に共通している.学校文法の本質は,英語を母語としない英語学習者が学校において習得すべき英文法であるという点にある.規範文法が本質として据える「言葉遣いのマナー」は,先に英文法を習得している英語母語話者にとってこそ関心事となり得るのに対して,学校文法とはあくまで第2言語としての英語を習得するために学校で取り扱う英文法である.およそ同じ内容を指しているとはいえ,両者のスタンスは大きく異なる.
最後に「伝統文法」について."traditional grammar" と英訳されるが,これも指示している内容は,規範文法や学校文法と大きく異なるわけではないように思われる.18世紀以来の規範文法,および21世紀まで教授されている学校文法の間のスタンスの違いは上述の通りだが,歴史的にいえば両者は「伝統」として連続しているという事実を強調したい場合に,ピタッと来る用語ではないかと考えている.現代言語学理論に基づく最新の英文法と対置して用いられることもあるだろうが,私にとっては,18世紀の規範文法の流れを汲みつつ,現代まで(学校文法においても)影響力を持ち続けているタイプの英文法,という含意がある.そのため,英語の母語話者にとっても非母語話者にとっても等しく使える用語なのではないか.
以上をまとめると,規範文法,学校文法,伝統文法の3つの用語は,指している文法項目の内容そのものは大きく異ならない.しかし,それをどうとらえるかという視点に応じて,私自身は(使い分けている場合には)使い分けているように思われるのである.
みなさんは,3つの用語をどのようにとらえていますか?
常々考えており,学生たちともよく議論していることなのだが,「他動詞」 (transitive verb) と「自動詞」 (intransitive verb) という用語は紛らわしい.
ある動詞のことを「他動詞」か「自動詞」かに分類するよりも,その動詞には「他動詞的用法」 (transitive use) があるとか,「自動詞的用法」 (intransitive use) があるとか,両用法があるとか,そのような用語使いのほうが分かりやすいのではないかと思うからだ.
確かに,通常は自動詞的用法しかもたない exist, fall, matter のような動詞を「自動詞」と呼んでおくのは一見すると分かりやすいし,同様に普通は他動詞的用法しかもたない greet, have, visit のような動詞を「他動詞」と称するのは問題ないように思われる.しかし,eat, write, move など大多数の動詞が実は両用法をもつのであり,これらの動詞を個々の具体的な文脈における用法に注目せず,所属タイプとして「他動詞」や「自動詞」と分類してしまうのは適切ではない.eat は基本的には「他動詞」だが,場合によっては目的語が省略され「自動詞」ともなり得る,というような言い方は混乱のもとである.
似たようなことは「可算名詞」 (countable noun) や「不可算名詞」 (uncountable noun or mass noun) についても言えるし,「限定形容詞」 (attributive adjective) や「叙述形容詞」 (predicative adjective) についても言えるだろう.これらの用語は,動詞,名詞,形容詞のタイプとしての「種別」を表わす用語ではなく,具体的に実現されるトークンとしての「用法」を表わす用語と解釈しておくのが妥当に思われる.
タイプ種別として A か B かに厳密にカテゴライズできないのは,言語(学用語)の常である.およそA的だがB的な要素もあるとか,状況に応じてA的にもB的にもなり得るとか,そのようなケースのほうが多い.言語事象も言語学用語もたいていプロトタイプ (prototype) の観点からみておくのがよい.
このような問題を考察したい方は,ぜひ Taylor をどうぞ.さらにこちらも「#1258. なぜ「他動詞」が "transitive verb" なのか」 ([2012-10-06-1]) .
・ Taylor, John R. Linguistic Categorization. 3rd ed. Oxford: OUP, 2003.
言語接触 (contact) に関わる標題の3つの重要な用語を解説する.このような用語を用いる際に注意すべき点は,論者によって何を指すかが異なり得ることだ.ここでは当該分野の専門家である Hickey (486--87) の定義を引用したい.
(1) Borrowing. Items/structures are copied from language X to language Y, but without speakers of Y shifting to X. In this simple form, borrowing is characteristic of "cultural" contact (e.g. Latin and English in the history of the latter, or English and other European languages today). Such borrowings are almost exclusively confined to words and phrases.
(2) Transfer. During language shift, when speakers of language X are switching to language Y, they transfer features of their original native language X to Y. Where these features are not present in Y they represent an innovation. For grammatical structures one can distinguish (i) categories and (ii) their realizations, either or both of which can be transferred.
(3) Convergence. A feature in language X has an internal source (i.e. there is a systemic motivation for the feature within language X), and the feature is present in a further language Y with which X is in contact. Both internal and external sources "converge" to produce the same result as with the progressive form in English. . . .
この3つの区分は,接触に起因する過程の agentivity が X, Y のいずれの言語話者側にあるのか,あるいは両側にあるのかに対応するといってよい.この agentivity の観点については「#3968. 言語接触の2タイプ,imitation と adaptation」 ([2020-03-08-1]),「#3969. ラテン語,古ノルド語,ケルト語,フランス語が英語に及ぼした影響を比較する」 ([2020-03-09-1]) も参照.
・ Hickey, Raymond. "Assessing the Role of Contact in the History of English." Chapter 37 of The Oxford Handbook of the History of English. Ed. Terttu Nevalainen and Elizabeth Closs Traugott. New York: OUP, 2012. 485--96.
英語史の古典的著書といってよい Algeo and Pyles を読んでいて,語の意味変化 (semantic_change) の話題と関連して clang association という用語を知った.もともとは心理学の用語のようだが「類音連想(連合),音連合」と訳され,例えば cling と ring のように押韻するなど発音が似ている語どうしに作用する意味的な連想のことをいうようだ.いくつかの英語学用語辞典を引いても載っていなかったので,これを取り上げている Algeo and Pyles (233--34) より引用するほかない.
Sound Associations
Similarity or identity of sound may likewise influence meaning. Fay, from the Old French fae 'fairy' has influenced fey, from Old English fǣge 'fated, doomed to die' to such an extent that fey is practically always used nowadays in the sense 'spritely, fairylike.' The two words are pronounced alike, and there is an association of meaning at one small point: fairies are mysterious; so is being fated to die, even though we all are so fated. There are many other instances of such confusion through clang association (that is, association by sound rather than meaning). For example, in conservative use fulsome means 'offensively insincere' as in "fulsome praise," but it is often used in the sense 'extensive' because of the clang with full. Similarly, fruition is from Latin frui 'to enjoy' by way of Old French, and the term originally meant 'enjoyment' but now usually means 'state of bearing fruit, completion'; and fortuitous earlier meant 'occurring by chance' but now is generally used as a synonym for fortunate because of its similarity to that word.
発音が近い単語どうしが,意味の点でも影響し合うというのは,記号論的にはもっともなことだろう.当然視しており深く考えることもなかったが,記号間の連携というのは,高度に記号を操ることのできるヒトならでは芸当である.ダジャレや,それに立脚するオヤジギャグを侮ることなかれ.立派な clang association なのだから.
・ Algeo, John, and Thomas Pyles. The Origins and Development of the English Language. 5th ed. Boston: Thomson Wadsworth, 2005.
語の意味変化の典型的なパターンとして,ある語の意味が技術や文化の発展に伴って変化するというもの例がある.例えば,英語 ship は古英語からある古株の単語だが,当時のへっぽこな船と,中世の帆船と,近代の蒸気船と,現代のコンピュータ搭載の最新鋭の船とでは,指示対象の姿形や性能が大きく異なるにもかかわらず,「水に浮かぶ移動手段」という基本機能の点で同一であるために,同じ ship という名で呼ばれている.ship の意味が変化したといえるのかどうかは微妙だが,指示対象が相当に変化してきたということは認めざるを得ないだろう.この手のタイプは,語の意味変化の議論において,しばしば最初に挙げられるタイプの事例である (cf. 「#1873. Stern による意味変化の7分類」 ([2014-06-13-1]),「#1953. Stern による意味変化の7分類 (2)」 ([2014-09-01-1])).
Stern はこの種の意味変化を "substitution" と呼んでいる.一方,今回調べるなかで初めて知ったのだが,Pearce (183--84) によると,"subreption" という術語も用意されているようだ.
Subreption A process of semantic change in which objects, entities, social roles, concepts, institutions and so on change over time, but the words for them remain the same. Take, for example, the phrase 'the driver of the car looked at the dashboard'. The emphasized words have their English origins at a time when all wheeled vehicles were powered by horses: the original meaning of drive (a meaning which it still retains) was 'to force to move before one' (which is what a 'driver' did with horses); car is derived from an earlier word meaning 'chariot', and dashboard originally referred to the wooden board located at the fron of a horse-drawn carriage to prevent objects kicked up by the horses' hooves from hitting the driver.
subreption は通常は「虚偽申請」を意味する法律用語である.普通の辞書では詳しく載っていないほどの専門用語である.OED を引いてみると,言語学用語としては掲載されていないようだ.第1語義は "Misrepresentation or suppression of the truth or facts; an act or instance of this." にとどまる.
語の意味変化に関して何がどう「虚偽申請」なのかと考えたのだが,こういうことだろうか.例えば,上の引用にもある dashboard は,本来は「馬車馬によって跳ね飛ばされた泥をよける板」ほどの意味だが,それを基準とすると,現在の普通の意味「自動車・飛行機などの計器盤」は,虚偽とはいわずとも原義が隠蔽されてしまっていることは確かだ.現在の意味は dash + board から常識的に推測される意味から遠く離れてしまっている.そのような意味での「虚偽申請」(大げさな呼び方ではあるが)ということだろうか.
現代日本語では,下駄ではなく靴を入れているのに,いまだに「下駄箱」ということがある.これも厳密にいえば確かに「虚偽申請」ではある(=突っ込みどころがある)から,subreption の例になるのだろう.
・ Stern, Gustaf. Meaning and Change of Meaning. Bloomington: Indiana UP, 1931.
・ Pearce, Michael. The Routledge Dictionary of English Language Studies. Abingdon: Routledge, 2007.
2言語話者どうしが2つの言語の間を行き来しながら話す状況は code-switching や code-mixing として知られている.これはあくまで両言語の間を行き来しているコミュニケーションの過程としてみるべきもので,両言語を源とする何らかの新しい言語変種が生まれたということにはならない.
しかし,なかにはそのようなコミュニケーション過程が一定のパターンとして化石化し,新しい混成言語というべきものになる場合がある.この言語変種は "bilingual mixed languages" と呼ばれる.「#1781. 言語接触の類型論」 ([2014-03-13-1]) に照らせば,"extreme language mixture" の名の下で,ピジン語 (pidgin) やクレオール語 (creole) と同列に扱われる言語変種である.ただし,ピジン語やクレオール語とは多くの点で性質が異なっている.Winford (170) の解説を引用しよう.
There is general consensus that bilingual mixed languages are composites of materials drawn from just two languages. In what are perhaps the prototypical cases, the grammar is derived primarily from one of the languages, and the lexicon primarily from the other. Examples include Anglo-Romani and Media Lengua (a blend of Spanish lexicon and Quechua grammar). However, the neat separation of grammar and vocabulary by respective source language is not found in all cases. There are cases where structural materials are derived from both sources, as in Michif, which combines French NP structure with Cree VP structure. Whatever the nature of the mixture might be, there is agreement that the resulting outcome is a new creation, distinct from either of its source languages.
"bilingual mixed languages" は,その名が示すとおり,2言語使用が広く行なわれている環境において生じる.特徴的なのは,混成要素の各々がいずれの言語に由来するものかが明確に区別されることだ.また,典型的にピジン語に観察されるような単純化 (simplification) がほとんど生じないという著しい特徴も示す.
事例としては,キプロスで話されるアラビア語とギリシア語が混成した Kormakiti Arabic,ギリシア語とトルコ語が混成した Asia Minor Greek,中国語とチベット語が混成した Wutun,ロマニー語とスペイン語が混成した Caló,クシ語とバントゥー語が混成した Ma'a,スペイン語とケチュア語が混成した Media Lengua, フランス語とクリー語が混成した Michif,ロシア語とアリュート語が混成した Mednyj (Copper Island) Aleut などがある.最後の2つについては「#1717. dual-source の混成語」 ([2014-01-08-1]) でも取り上げた.
・ Winford, Donald. An Introduction to Contact Linguistics. Malden, MA: Blackwell, 2003.
連日 World Englishes のハンドブックを読み進めている.今回取り上げるのは "World Englishes, Code-Switching, and Convergence" と題する章だ.世界英語は2言語使用 (bilingualism) あるいは多言語使用 (multilingualism) の環境で用いられることが多いが,共通の言語的レパートリーをもつ2(多)言語使用者どうしが共通の英語変種を用いて会話する機会が多い社会において,複数言語の使用の観点からは対照的な2つのことが起こり得る.
1つは,共通する2つの言語をところどころで切り替えながら会話を進める code-switching である.たとえて言えば白黒白黒白黒白黒・・・と続けることによって,平均量として灰色に至る状況だ.ここでは2つの言語の自立性は保たれる.
一方,共通する2つの言語の要素を混ぜる,あるいは互いに近似させることによって灰灰灰灰灰灰灰灰・・・とし,質として灰色に至るということもあるだろう.これが convergence と呼ばれるものである.ここでは各言語の自立性は小さくなる.
このように code-switching と convergence は,ともに同じような社会言語学的条件下で生じ得るものの,反対の方向を向いている.両者がこのような関係にあったとは,これまで気づかなかった.Bullock et al. (218) より,この対比について説明している箇所を引用しよう.
Bilingual speech comprises diverse types of language mixing phenomena, of which CS [= code-switching] is but one example. Another process that may arise in bilingual speech is convergence. CS is characterized by divergence; it is the alternation between linguistic systems that are kept distinct. In convergence, on the other hand, the perceived distance between the language systems is narrowed such that they become structurally more similar, sometimes to the extreme point that the boundaries between languages collapse. In such cases, it is quite possible that the structural constraints that once functioned to preserve the autonomy of the languages while a speaker code-stitches between them are gradually abandoned. As bilingual speakers perceive more overlap between languages, they may mix more liberally between them.
code-switching と convergence の対比はあくまで図式的・理論的なものであり,実際上は両者の区別は曖昧であり,連続体の両端を構成するものと理解しておくのが妥当だろう.この点では,「#1661. 借用と code-switching の狭間」 ([2013-11-13-1]),「#1985. 借用と接触による干渉の狭間」 ([2014-10-03-1]),「#2009. 言語学における接触,干渉,2言語使用,借用」 ([2014-10-27-1]) などでみた,code-switching なのか借用なのか区別が不明瞭という問題にも関わってくる.
・ Bullock, Barbara E., Lars Hinrichs, and Almeida Jacqueline Toribio. "World Englishes, Code-Switching, and Convergence." Chapter 11 of The Oxford Handbook of World Englishes. Ed. by Markku Filppula, Juhani Klemola, and Devyani Sharma. New York: OUP, 2017. 211--31.
一昨日の記事「#4507. World Englishes の類型論への2つのアプローチ」 ([2021-08-29-1]) で "angloversals" という用語に触れた.世界英語 world_englishes の諸変種を見渡すと,歴史的・遺伝的関係は希薄であるにも関わらず,異なる変種間で似たような言語特徴が確認されることがある.いずれも広い意味では「英語」であるのだから,共通項が見つかること自体はさほど不思議ではないと思われるかもしれない.しかし,標準英語では認められない言語特徴が,歴史的な関係が希薄な諸変種間に広く認められるということであれば,そこには何か抜き差しならぬ理由があるのではないかと疑うのも当然である.こういった共通特徴を,仮に "Angloversals" と呼んでおこうということらしい."universals" をもじっていて少々ミスリーディングな名称だが,厳密な意味での「普遍」というよりは多くの変種に見られる「傾向」として理解しておくべきであることは,念のために指摘しておこう.
さて,この用語を作ったのは Mair である.似たような用語として,Chambers の作った "vernacular universals" というものもある.この辺りの用語を巡る経緯について,Siemund and Davydova (135) の説明を参照しよう.
Another line of research departs from the observation that World Englishes (or varieties of English) frequently exhibit identical, or at least similar, non-standard morpho-syntactic phenomena, with common ancestors of these phenomena being difficult to reconstruct in the historical dialects of the British Isles. Such observation have led to the coinage of the label 'angloversals' (Mair 2003). Another notion used with a similar extension is 'vernacular universals' (Chambers 2001, 2003, 2004).
Chambers defines vernacular universals as 'a small number of phonological and grammatical processes [that] recur in vernaculars wherever they are spoken' and views them as inherent features of unmonitored speech coming about as a result of the workings of the human language faculty (Chambers 2004: 128--29).
では,"angloversals" として,具体的にはどのような言語特徴が候補として挙げられているのだろうか.Siemund and Davydova (135--36) より,いくつか挙げてみよう.
・ 不規則動詞の水平化
・ 無標の単数形
・ 主語と動詞の不一致
・ 多重否定
・ 連結詞 (copula) の省略
・ 単位名詞の複数標示の欠如
・ yes/no 疑問文における倒置の欠如
・ 等位される主語として I ではなく me を用いる傾向
・ 副詞が形容詞と同形となる現象
・ 過去形の否定を表わすのに never が動詞に前置される現象
・ 定冠詞の過剰使用
これらは,一般にL2英語によく見られる言語特徴と同じであると言っても,さほど外れていない.一般言語学的普遍性が英語の諸変種において顕現しているもの,それが "angloversals" なのだろう.
・ Siemund, Peter and Julia Davydova. "World Englishes and the Study of Typology and Universals." Chapter 7 of The Oxford Handbook of World Englishes. Ed. by Markku Filppula, Juhani Klemola, and Devyani Sharma. New York: OUP, 2017. 123--46.
・ Mair, Christian. "Kreolismen and verbales Identitätsmanagement im geschriebenen jamaikanischen Englisch." Zwischen Ausgrenzung und Hybridisierung. Ed. E. Vogel, A. Napp and W. Lutterer. Würzburg: Ergon, 2003.
・ Chambers, J. K. "Vernacular Universals." ICLaVE 1: Proceedings of the First International Confrerence on Language Variation in Europe. Ed. J. M. Fontana, L. McNally, M. T. Turell, and E. Vallduvi. Barcelona: Universitat Pompeu Fabra, 2001.
・ Chambers, J. K. Sociolinguistic Theory: Linguistic Variation and its Social Implications. Oxford, UK/Malden, US: Blackwell.
・ Chambers, J. K. "Dynamic Typology and Vernacular Universals." Dialectology Meets Typology: Dialect Grammar from a Cross-Linguistic Perspective. Ed. B. Kortmann. Berlin/New York: Gruyter, 2004.
この概念と用語を知っていれば英語の語彙関係についてもっと効果的に説明したり議論したりできただろう,と思われるものに最近出会った.Görlach (110) が,consociation と dissociation という語彙関係について紹介している(もともとは Leisi によるものとのこと)
Words can be said to be consociated if linked by transparent morphology; they are dissociated if morphologically isolated. Consociation is common in languages in which compounds and derivations are frequent (OE, Ge, Lat). Dissociation occurs when foreign words are borrowed, or when derivations become opaque . . . .
例えば,heart → hearty → heartiness は形態的に透明に派生されており,典型的な consociation の関係にあるといえる.foul → filth → filthy → filthiness についても,最初の foul → filth こそ透明度は若干下がるが(ただし古英語では音韻形態規則により,ある程度の透明度があったといえる),全体としては consociation の関係といえるだろう.ただ,consociation といっても程度の差のありうる語彙関係であることが,ここから分かる.
一方,いわゆる英語語彙の3層構造の例などは,典型的な dissociation の関係を示す.「#334. 英語語彙の三層構造」 ([2010-03-27-1]) からいくつか示せば,ask -- question -- interrogate, fair -- beautiful -- attractive, help -- aid -- assistance などだ.「#331. 動物とその肉を表す英単語」 ([2010-03-24-1]) も有名だが,cow -- beef, swine -- pork, sheep -- mutton などの語彙関係も dissociation といえる.
eye -- ocular などの名詞・形容詞の対応も,dissociation の関係ということになる.ここから日本語に話を広げれば,和語と漢語の関係,あるいは漢字の読みでいえば訓読みと音読みの関係も,典型的な dissociation といってよいだろう.「めがね」(眼鏡)と「眼鏡」(眼鏡)の関係は,上記の eye -- ocular の関係に似ている.関連して「#335. 日本語語彙の三層構造」 ([2010-03-28-1]) も参照されたい.
・ Görlach, Manfred. The Linguistic History of English. Basingstoke: Macmillan, 1997.
・ Leisi, Ernst. Das heutige Englische: Wesenszüge und Probleme.'' 5th ed. Heidelberg, 1969.
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