授業で Chaucer の "The Physician's Tale" を読んでいて,ll. 187--88 で現代英語にも見られる譲歩表現に出会った(引用は The Riverside Chaucer より).
She nys his doghter nat, what so he seye.
Wherfore to yow, my lord the juge, I preye,
悪徳裁判官 Apius に乗せられた町の悪漢 Claudius が,騎士 Virginius からその娘 Virginia を奪い取るために法廷ででっち上げの訴えを起こしている箇所である.「Virginius が何と言おうと,Virginia は奴の娘ではない」という行である.what so he seye は現代英語でいう whatsoever he may say に相当し,譲歩を表わす副詞節である.譲歩の文なので,Chaucer では seye と接続法の活用形 ( subjunctive form ) が用いられている.
ここで現代英語の what(so)ever についても言及したところ,現代英文法ではなぜこれを「複合関係代名詞」 ( compound relative pronoun ) と呼ぶのかという質問があった.これの何がどう関係代名詞なのかという問題である.何か別のよい用語はないものかという疑問だが,これを考えるに当たっては,まず現代英文法の「関係詞」 ( relative ) の分類から議論を始めなければならない.これ自体に様々な議論があり得るが,今回は『現代英文法辞典』 "relative" に示される分類に従い,「複合関係代名詞」という呼称の問題を考えてみたい.
最も典型的な関係詞として想起されるのは who, which, that; whose; when, where 辺りだろう.関係代名詞 ( relative pronoun ) に絞れば,who, which 辺りがプロトタイプということになるだろう.いずれの関係代名詞も先行詞 ( antecedent ) を取り,先行詞を含めた全体が名詞句として機能する ( ex. a gentleman who speaks the truth, a grammatical problem which we cannot solve easily ) .つまり,典型的な関係代名詞は「先行詞の明示的な存在」と「全体が名詞句として機能する」の2点を前提としていると考えられる.
しかし,『現代英文法辞典』の分類を参照する限り,この2点は関係代名詞の必要条件ではない.一般に関係詞には,先行詞を明示的に取るものと取らないものとがある.前者を単一関係詞 ( simple relative ) ,後者を複合関係詞 ( compound relative ) と呼び分けている.複合関係詞は先行詞を明示的に取らないだけで,関係詞中に先行詞を埋め込んでいると理解すべきもので,what や what(so)ever がその代表例となる.(注意すべきは,ここで形態的に複合語となっている what(so)ever のことを what などに対して「複合」関係詞と呼ぶわけではない.しかし,このように形態的な複合性を指して「複合」関係詞と呼ぶケースもあり,混乱のもととなっている.)
関係代名詞に話しを絞ると,複合関係代名詞のなかでも一定の先行詞をもたない what のタイプは自由関係代名詞 ( free relative pronoun ) ,指示対象が不定のときに使用される what(so)ever のタイプは不定関係代名詞 ( indefinite relative pronoun ) として分類される.さらに後者は,名詞節として機能する典型的な用法と,譲歩の副詞節として機能する周辺的な用法に分けられる.ここにいたってようやく what(so)ever he may say の説明にたどりついた.この what(so)ever は,正確にいえば「(複合)不定関係代名詞の譲歩節を導く用法」ということになろう.
先にも述べたとおり,この用法の what(so)ever は,先行詞を明示的に取らないし,全体が名詞句として機能していないし,典型的な関係代名詞の振る舞いからは遠く隔たっている.その意味で複合関係代名詞という呼称が適切でないという意見には半分は同意する.しかし,この what(so)ever を典型的な関係代名詞と関連付け,その周辺的な用法として分類すること自体は,それなりに妥当なのではないだろうか.より適切な用語を提案するには広く関係詞の分類の問題に首を突っ込まなければならず,本記事では扱いきれないが,大きな問題につながり得る興味深い話題だろう.
・ 荒木 一雄,安井 稔 編 『現代英文法辞典』 三省堂,1992年.
形態素 ( morpheme ) の定義は一筋縄ではいかない.形態素はしばしば「意味を有する最小の言語単位」とされるが,下で述べるように必ずしも明確な意味を有していない場合もある.
blackberry, blueberry, strawberry を考えよう.3語に現われる berry は明らかに形態素とみなすことができる.しかも,単独でも用いられる自由形態素 ( free morpheme ) である.「漿果」という意味も3語に共通している.では,berry の前に来る要素はどうだろうか.black, blue, straw ともに独り立ちできる自由形態素だが,これらの要素は複合語全体の意味に貢献しているだろうか.確かに blackberry は黒いし,blueberry は青いので,意味的な貢献が認められるが,straw 「わら」が strawberry 「イチゴ」の意味にどのように貢献しているかは定かではない.形態素を有意味の単位と仮定するのであれば,straw の形態素としての地位は危うくなる.
straw の場合は単独で「わら」の意味をもつ語となれるので,形態素としての地位は危ぶまれこそすれ,すぐに蹴落とされることはないだろう.だが,cranberry や huckleberry はどうだろうか.cran や huckle は単独で語となりえない(なりえたとしても著しく稀な語としてのみ)ばかりか,部品としても他の語に現われることはない.当然ながら意味も明確ではなく,有意味な単位としては不適格である.だが,無意味だという理由で cran や huckle を形態素とみなさないとすると,それはそれで問題である.というのは,その場合 cranberry や huckleberry の全体を有意味な1つの形態素とみなすことになるが,明らかに複合語の意味に貢献している berry を切り出せないことになるからである.
この矛盾を解消するには,形態素と意味との連結を絶対的なものではなく緩やかなものにとどめておくのがよい.cran が何を意味するのかは不明だが,black や blue と同様に有意味「らしく」は見える.その程度で形態素の地位を認めてやればいいのではないか.部品としてただ1つの語にしか現われない cran のような形態素は cranberry morpheme と呼ばれている ( Carstairs-McCarthy, pp. 19--20 ) .
[2010-10-17-1]の記事で,bikini をもじったことば遊びで monokini と trikini という語があることに触れた.ことば遊びとして異分析で切り出された形態素 -kini は当初は bikini にしか現われない cranberry morpheme だったわけだが,「布,ピース;水着」ほどの意味を獲得して他の語の部品として機能するようになった.他にも bankini 「背中の開いたワンピース水着」, camikini 「キャミソール・トップのビキニ」, tankini 「タンクトップ風水着」, zerokini 「素っ裸」などがあり,ことばの戯れとはいえ "cranberry" がとれて一人前の "morpheme" となったとみなしてよいかもしれない.
・ Carstairs-McCarthy, Andrew. An Introduction to English Morphology. Edinburgh: Edinburgh UP, 2002.
英語史や言語学の入門書で 借用 ( borrowing ) が取り上げられるときに,セレモニーのように繰り返される但し書きがある:「言語における借用は一般のモノの借用とは異なり,借りた後に返す必要はない.だが,借用という概念は理解しやすいし,広く受け入れられているので,本書ではこの用語を使い続けることにする.」
もっともなことである.みな,確かにそうだとうなずくだろう.だが,一般のモノの借用と言語の借用の差異について,それ以上つっこんで議論されることはほとんどない.今回の記事では,この問題をもう少し掘り下げてみたい.
モノの借用と語の借用の違いを挙げてみよう.
(1) モノを借りるときにはたいてい許可を求めるが,語を借りるときには許可を求めない.好きなものを好きなだけ好きなときに勝手に「借りる」ことができる.
(2) モノの場合,貸し手は貸したという認識があるが,語の場合,貸し手は貸したという認識がない.
(3) モノを貸したらそれは貸し手の手元からなくなるが,語を貸したとしても,依然としてそれは貸し手の手元に残っている.つまり,語の場合には移動ではなくコピーが起こっている.
(4) 貸し手は(2)(3)のとおり,貸した後に喪失感がない.なので,借り手は特に返す必要もない.たとえ返したところで,貸し手の手元には同じものがすでにあるのだ.一方,モノの場合には,貸し手には喪失感が生じるかもしれない.
上記のポイントは,言語の性質を論じる上で重要な点である.他言語から語を借用するという過程は,誰にも迷惑をかけずに,しかもノーコストで自言語に新たな項目を付加するという過程である.語の借用過程の本質が移動ではなくコピーであることが,これを可能にしている.移動の場合には,その前後でモノの量は不変だが,コピーの場合には,その前後でモノの量が一つ増える.
物質世界では,他を変化させずに1を2にすることは不可能である.もし2になったとしたら,必ずよそから1を奪っているはずである.それに対して,言語世界ではいとも簡単に1を2にすることができる.その際,誰にも喪失感はなく,常に純増である.
このことは,言語が,あるいは言語をつかさどる人の精神が,無限の可能性を秘めていることを示唆しているのではないだろうか.
Powered by WinChalow1.0rc4 based on chalow