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phonetics - hellog〜英語史ブログ

最終更新時間: 2024-07-10 11:20

2022-08-10 Wed

#4853. 音節とモーラ [syllable][mora][phonology][phonetics][prosody][typology][japanese]

 音韻論上,音節 (syllable) とモーラ (mora) は異なる単位である.モーラのほうが小さい単位であり,たいてい長母音や2重母音は音節としては1音節とカウントされるが,モーラとしては2モーラとカウントされる.日本語からの例から,両者の関係を整理しておこう(窪薗,p. 15).

単語 音節 モーラ
---------------------- ----------------------------- -----------
オバマ 3 (o.ba.ma) 3 (o-ba-ma)
ブッシュ 2 (bus.syu) 3 (bu-s-syu)
クリントン 3 (ku.rin.ton) 5 (ku-ri-n-to-n)
トヨタ 3 (to.yo.ta) 3 (to-yo-ta)
ホンダ 2 (hon.da) 3 (ho-n-da)
ニッサン 2 (nis.san) 4 (ni-s-sa-n)

 ロシアの言語学者 Trubetkoy によれば,世界の言語は「モーラ言語」と「音節言語」に分類できるという.これに従うと,日本語はモーラ言語,英語は音節言語ということになる.しかし,窪薗 (16--17) は,最小性制約 (minimality constraint) の事例に触れながら,次のように指摘している.

 人間の言語を音節言語とモーラ言語に分ける考え方は,言語間の違いをある程度捉えている一方で,音節とモーラを共存できない単位として捉えるという問題点をはらんでいる.実際には,英語のような「音節言語」にもモーラは必要であり,一方,日本語(標準語)のように「モーラ言語」とされる言語にも音節が不可欠となる.
 例えば英語では,1音節の語は多いが1モーラの語は許容されない.[pin] pin や [pi:] pea という2モーラの1音節語は存在するが,[pi] という1モーラの長さの1音節語は存在しない.偶然に存在しないのではなく,構造的に許容されないのである.……〔中略〕……最小性制約は英語のアルファベット発音にも表れており,アルファベットを1つずつ語として発音する場合には A は [æ] ではなく [ei],B も [b] や [bi] ではなく [bi:] と2モーラ(以上)の長さで発音される.
 一方,モーラ言語とされる日本語(標準語)の記述にも音節という単位が不可欠となる.例えば外来語の短縮形には〔中略〕「2モーラ以上」という条件だけでなく,「2音節以上」という条件も課される.チョコ(<チョコレート)やスト(<ストライキ)という2音節2モーラの短縮はあっても,*パン(<パンフレット)や*シン(<シンポジウム),*パー(<パーマエント(ウェーヴ))という短縮形が許容されないのはこのためである.2モーラの音節で始まる語は3モーラ目までを残して,2音節の短縮形(パンフ,シンポ,パーマ)が作り出される.


 ここから,音節とモーラは二律背反的な単位ではなく,1つの言語のなかで同居し,補完的な関係にある単位ととらえる必要があることが分かる.日本語の音節やモーラについては,以下の記事も参照.

 ・ 「#1023. 日本語の拍の種類と数」 ([2012-02-14-1])
 ・ 「#3719. 日本語は開音節言語,英語は閉音節言語」 ([2019-07-03-1])
 ・ 「#3720. なぜ英語の make は日本語に借用されると語末に母音 /u/ のついた meiku /meiku/ となるのですか?」 ([2019-07-04-1])
 ・ 「#4621. モーラ --- 日本語からの一般音韻論への貢献」 ([2021-12-21-1])
 ・ 「#4624. 日本語のモーラ感覚」 ([2021-12-24-1])

 ・ 窪薗 晴夫 「第1章 音韻論」『日英対照 英語学の基礎』(三原 健一・高見 健一(編著),窪薗 晴夫・竝木 崇康・小野 尚久・杉本 孝司・吉村 あき子(著)) くろしお出版,2013年.

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2022-08-05 Fri

#4848. 母音と子音の有標性 [markedness][phonetics][vowel][consonant][typology]

 日本語の五十音図における母音の並びの基本は,言うまでもなく [a, i, u, e, o] である(cf. 「#2104. 五十音図」 ([2015-01-30-1])).動詞の5段活用でも「行かない」「行きます」「行く」「行くとき」「行けば」「行け」「行こう」と唱えるように,[a, i, u, e, o] の並びとなっている.なぜこの並びなのだろうか.
 答えは,この並びが音声学的に無標 (unmarked) から有標 (marked) への順序に沿っているからである.
 窪薗 (6) によれば,世界の言語を見渡すと,3母音体系の言語には [a, i, u] が最も多く,4母音体系では [a, i, u, e] が,5母音体系では [a, i, u, e, o] が最も多いという.つまり,類型論的にいって,母音の有標性 (markedness) は,低い方から高い方へ [a, i, u] → [e] → [o] という順序のようなのである.
 子音にも同様の有標性の序列がある.窪薗 (9) は,類型論のみならず言語習得の早さも念頭におきつつ,無標な子音と有標な子音の序列を次のように与えている.以下で A > B は,A が B よりも相対的に無標であることを示す.

a. 調音点:両唇,歯茎 > 軟口蓋
b. 調音法:閉鎖音 > 摩擦音
c. 閉鎖音・摩擦音・破擦音: 無声 > 有声
d. 閉鎖音・摩擦音・破擦音以外:有声 > 無声


 この子音の有標性を念頭において五十音図の「あかさたなはまやらわ」の並びを眺めると,必ずしも恣意的な順序ではない事実が浮かび上がってくる(「は」の子音は古くは [p] だったことに注意).
 ただし,有標性とは言語学においてもなかなか難しい概念である.「#550. markedness」 ([2010-10-29-1]),「#551. 有標・無標と不規則・規則」 ([2010-10-30-1]),「#3723. 音韻の有標性」 ([2019-07-07-1]),「#4745. markedness について再考」 ([2022-04-24-1]) などの議論を参照されたい.

 ・ 窪薗 晴夫 「第1章 音韻論」『日英対照 英語学の基礎』(三原 健一・高見 健一(編著),窪薗 晴夫・竝木 崇康・小野 尚久・杉本 孝司・吉村 あき子(著)) くろしお出版,2013年.

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2022-05-19 Thu

#4770. she の語源説 --- Laing and Lass による "Yod Epenthesis" 説の評価 [personal_pronoun][sound_change][phonetics][etymology][laeme][cone][orthography][epenthesis]

 昨日の記事「#4769. she の語源説 --- Laing and Lass による "Yod Epenthesis" 説の紹介」 ([2022-05-18-1]) で,英語史における積年の問題に対する新説を簡単に紹介した.Laing and Lass 論文の結論箇所を引用すると,次のようになる (231) .

(a) For the history of she, we posit an approximant epenthesis of a type already found in OE, spreading to further items in ME, and occurring in all periods of Scots as well as PDE. This turns the word-onset into a consonant cluster with its own history, independent of that of the nuclear vowel (though it seems primarily to occur before certain nuclear types).
   (b) The nuclear vowel derives in the normal way from OE [eo], with no need for 'resyllabification' or the creation of 'rising diphthongs'.
   (c) This account allows an etymology with no interim generation of trimoric nuclei, or the problem of maintaining vowel length when the first element of the nucleus is the first vowel of the diphthong that constitutes it. It therefore allows for the unproblematic derivation of both [ʃe:] (required for PDE [ʃi:]) and [ʃo:] (required for some regional types such as [ʃu:]).
   (d) We claim that the so-called 'she problem' has been a problem mainly because of a misconception of the kind of etymology it is. The literature (and this is true even of Britton's account, which is clearly the best) founders (sic) on the failure to separate the development of the word-onset and the development of the nuclear vowel.
   The mistake has been the attempt to combine a vocalic story and a consonantal story and at the same time make phonological sense. We suggest that in this case it cannot be done, and that by separating the two stories we arrive at a clean and linguistically justifiable narrative.


 ここで議論の詳細に立ち入ることはしないが,この新説に対する私自身の評価を述べるならば,これまで提案されてきた他の説よりも説得力があるとみている.

 まず,LAEME という最新のツールを利用しつつ,圧倒的な質・量の資料に依拠している点が重要である.大きな視点からこの問題に取り組んでいるとよく分かるところからくる信頼感といえばよいだろうか.視野の広さと深さに驚嘆する.
 上記と関連するが,LAEME と連携している CoNE (= A Corpus of Narrative Etymologies from Proto-Old English to Early Middle English) および CC (= the Corpus of Changes) の編纂という遠大な研究プロジェクトの一環として,she の問題を取り上げている点も指摘しておきたい.CoNE は,初期中英語に文証される単語のあらゆる異形態について,音変化や綴字変化の観点から説明尽くすそうという野心的な企画である(「初期中英語期を舞台とした比較言語学」と呼びたいほどだ).she についていえば,その各格形を含めたすべての異形態に説明を与えようとしており,[ʃ] を含む諸形態の扱いもあくまでその一部にすぎないのである.scha, þoe, þie, yo のような例外的な異形態についても,興味深い説明が与えられている.
 そして,"Yod Epenthesis" 説の提案それ自体がコペルニクス的転回だった.she の語源を巡る論争史では [j] をいかに自然に導出させるかが重要課題の1つとなっていた.しかし,新説は [j] を自然に導出させることをある意味で潔く諦め,「ただそこに [j] が入ってしまった」と主張するのである.ただし,新説による [j] の挿入が必ずしも「不自然」というわけでもない.散発的ではあれ,類例があることは論文内で明確に示されているからだ.

 理論的前提が多く,一つひとつの議論については著者らに問いただしてみたい点もあるのだが,全体として説得力があり,かつ刺激的な好論と評価したい.

 ・ Laing, Margaret and Roger Lass. "On Middle English she, sho: A Refurbished Narrative," Folia Linguistica Historica 35 (2014): 201-40.
 ・ Lass, Roger, Margaret Laing, Rhona Alcorn, and Keith Williamson. A Corpus of Narrative Etymologies from Proto-Old English to Early Middle English and accompanying Corpus of Changes, Version 1.1. Edinburgh: U of Edinburgh, 2013--. Available online at http://www.lel.ed.ac.uk/ihd/CoNE/CoNE.html.

Referrer (Inside): [2022-05-20-1]

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2022-05-18 Wed

#4769. she の語源説 --- Laing and Lass による "Yod Epenthesis" 説の紹介 [personal_pronoun][sound_change][phonetics][etymology][laeme][epenthesis]

 3人称単数女性代名詞 she の語源を巡って100年以上の論争が続いてきた.この問題については,hellog でも次の記事で取り上げてきた.

 ・ 「#792. she --- 最も頻度の高い語源不詳の語」 ([2011-06-28-1])
 ・ 「#793. she --- 現代イングランド方言における異形の分布」 ([2011-06-29-1])
 ・ 「#827. she の語源説」 ([2011-08-02-1])
 ・ 「#829. she の語源説の書誌」 ([2011-08-04-1])

  この古い問題に LAEME という最新のツールを用いて挑んだのが,2014年の Laing and Lass の論文である(LAEME については,「#4086. 中英語研究における LAEME の役割」 ([2020-07-04-1]),「#4396. 初期中英語の方言地図とタグ付きコーパスを提供してくれる LAEME」 ([2021-05-10-1]) をはじめ laeme の各記事を参照).
  she を巡る問題は,端的にいえば,初期中英語期より確認される異形態(現代の標準形 she に連なる形態も含む)に現われる (1) 子音 [ʃ],(2) [eː] および [oː],をどのように説明するのかという2点に集約される.とりわけ,問題解決の鍵となると目されている異形態 [hjoː] などに含まれる [j] が,どのように導出されるかが重要な問題となる.
 従来の説では,問題の [j] は既存の音連続のなかから内在的に導出されることを前提としていた.一方,Laing and Lass の新しさは,[j] は内在的に導出されたのではなく,外在的に挿入されたにすぎないとしたことだ.簡単にいえば,ただそこに [j] が入ってしまったのだ,という説だ.これを前提とすれば上記の (1), (2) のも無理なく解決できるし,LAEME が示す異形態の方言分布の観点からも矛盾は生じないという.
 「ただそこに [j] が入ってしまった」説は,同論文内では "Yod Epenthesis" (= YE) と名付けられている.古英語 [heo] が YE を経由して [hjeo] となり,その後 "eo-Monophthongisation/Merger" (= EOM) を通じて [hjeː] あるいは [hjoː] が導出されるという経路だ(実際には,この最後の過程の背景に中間的な [hjøː] が想定されているらしい).さらに,語頭の [hj] が "Fusional Assimilation" (= FA) を経て [ç] となり,最後に "Palatal Fronting" (= PF) の結果,[ʃ] が出力される,という道筋だ.
 古英語からの流れを図示すれば次のようになる (Laing and Lass 217) .

*heo ((YE)) > *hjeo ((EOM)) >
1 *hjo: ((FA)) > [ço:] ((PF)) > [ʃo:]
2 *hje: ((FA)) > [çe:] ((PF)) > [ʃe:]


 ・ Laing, Margaret and Roger Lass. "On Middle English she, sho: A Refurbished Narrative," Folia Linguistica Historica 35 (2014): 201-40.

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2022-02-26 Sat

#4688. Voicy と Mond などの近況報告 [hellog_entry_set][ukrainian][russian][slavic][mond][phonetics][acoustics][stress][intonation][prosody][sobokunagimon][notice]

 緊張状態だったウクライナ情勢が一線を越えていまい,たいへん憂えています.今朝アップした Voicy の「英語の語源が身につくラジオ」 では,平和を祈りつつ,そして今回の情勢の歴史的背景の理解に資するべく,謹んで「ウクライナ(語)について」という話題をお届けしています.どうぞお聴きください.関連する hellog 記事セットも合わせてどうぞ.



 話は変わりますが,「#4672. 知識共有サービス「Mond」で英語に関する素朴な疑問に回答しています」 ([2022-02-10-1]) で触れた通り,この3週間ほど「Mond」に寄せられてくる英語史,英語学,言語学の質問に回答しています.手に負えないほどの難問が多くすでにアップアップなのですが,これまで以下の10点に回答してきました.「回答」とはおこがましい限りで,質問をトリガーとして私が考えたことを書いてみた,という点で本ブログの活動の延長線なのですが,おもしろがってもらえればと思います.新着順に列挙します.

 ・ 各言語の発声法と声の高さには関係があるのでしょうか
 ・ 英語は他言語との言語接触により屈折や曲用などが無くなっていったとのことですが,こと音声についてはそのような傾向が見られないのはどうしてでしょうか?
 ・ 言語によって音素の数が大きく異なるのはなぜでしょうか?
 ・ 今現在たくさんのことわざや故事成語がありますが,今はまだ生まれていないことわざや故事成語が今後数百年で生まれる可能性はありますか?
 ・ 同じ発音なのにまったく意味の違う言葉が存在するのはなぜでしょうか?
 ・ 「日本語ならSOV型,英語ならSVO型,アラビア語ならVSO型,など言語によって語順が異なりますが,これはどのような原因から生じる違いなのでしょうか?」
 ・ 「アメリカ英語とイギリス英語,オーストラリア英語の関係は,日本で言う方言とは異なるものなのでしょうか?」
 ・ 「音韻論と音声学の違いがよく分からないのですが,具体例を用いて教えてください.」
 ・ 「ドイツ語やフランス語は「女性名詞」と「男性名詞」という分類がありますが,どのような理屈で性が決まっているのでしょうか?」
 ・ 「言語が文化を作るのでしょうか?それとも文化が言語を作るのでしょうか?」

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2022-02-24 Thu

#4686. 比較言語学では音の類似性ではなく対応こそが大事 [comparative_linguistics][reconstruction][methodology][phonetics][sound_change][etymology]

 比較言語学 (comparative_linguistics) では,系統関係にあるかもしれないと疑われる2つの言語をピックアップし,対応するとおぼしき語どうしの音形を比較する.その際に,両語の音形が何らかの点で「似ている」ことに注目するのが自然で直感的ではあるが,比較言語学の「比較」の要諦は類似性 (similarity) ではなく対応 (correspondence) である.これは意外と盲点かもしれない.音形としてまったく似ても似つかないけれども同一語源に遡る例もあれば,逆に見栄えはそっくりだけれども系統的に無関係な例もあるからだ.
 それぞれの例として「#778. P-Celtic と Q-Celtic」 ([2011-06-14-1]),「#1151. 多くの謎を解き明かす軟口蓋唇音」 ([2012-06-21-1]),「#1136. 異なる言語の間で類似した語がある場合」 ([2012-06-06-1]),「#4683. 異なる言語の間で「偶然」類似した語がある場合」 ([2022-02-21-1]),「#4072. 英語 have とラテン語 habere, フランス語 avoir は別語源」 ([2020-06-20-1]) などを参照されたい.
 この比較言語学の要諦について,Campbell (266--67) は次のように雄弁に指摘している.

. . . it is important to keep in mind that it is correspondences which are crucial, not mere similarities, and that such correspondences do not necessarily involve very similar sounds. It is surprising how the matched sounds in proposals of remote relationship are typically so similar, often identical, while among the daughter languages of well-established, non-controversial, older language families such identities are not as frequent. While some sounds may stay relatively unchanged, many undergo changes which leave phonetically non-identical correspondences. One wonders why correspondences that are not so similar are not more common in such proposals. The sound changes that lead to such non-identical correspondences often change cognate words so much that their cognancy is not apparent. These true but non-obvious cognates are missed by methods such as multilateral comparison which seek inspectional resemblances.


 音声は時とともに予想よりもずっと激しく変わり得る.これが比較言語学の教訓である.関連して「#411. 再建の罠---同根語か借用語か」 ([2010-06-12-1]) も参照.

 ・ Campbell, Lyle. "How to Show Languages are Related: Methods for Distant Genetic Relationship." Handbook of Historical Linguistics. Ed. Brian D. Joseph and Richard D. Janda. Oxford: Blackwell, 262--82.

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2022-02-22 Tue

#4684. 脱口音化 [glottal_stop][grimms_law][phonetics][consonant][debuccalisation][cockney]

 あまり聞き慣れないが,脱口音化 (debuccalisation) という音変化がある.調音点が口腔内から腔外に移ることだ.より具体的には,調音点が喉の奥に移った場合にいわれることが多い.Crystal (130) の言語学用語辞典より debuccalized の項を引用する.

debuccalized (adj.) A term used in some models of non-linear phonology to refer to consonants which lack an oral place feature, such as glottal stop or [h]. The process through which such consonants are formed is called debuccalization) (also deoralization): examples include [t] > [ʡ] and [s] > [h].


 これは通言語的に一般的な音変化のようで,英語史や日本語史を参照するだけでも,例がいくつか挙がってくる.まずグリムの法則 (grimms_law) の軟口蓋系列の無声子音の変化を一覧してみると [kh] > [k] > [x] > [h] のような経路が想定される.最終到達点は "debuccalised" な声門摩擦音 [h] である.
 上記引用にもあるが,コックニー (cockney) などの特徴とされる,[t] が声門閉鎖音 [ʡ] で代用される現象も脱口音化の例となるだろう.
 日本語史において知られる「唇音退化」 ([p] > [ɸ] > [h]) も脱口音化の典型的な1例となる(cf. 「#1271. 日本語の唇音退化とその原因」 ([2012-10-19-1])).
 その他,Bybee (27) によれば,スペイン語の /s, f/ > /h/ の例が挙げられている.また,ウガンダで話されるバンツー系の Lumasaaba 語において,音環境に応じて [p] > [h] が確認される事例も紹介されている.
 以上の例では主に [p] のような唇音の脱口音化が話題とされてきたが,歯茎音の [t] や軟口蓋音の [k] など,他の調音点の子音についても,事情は同じである.ある意味ではどんな口音も,弱化して脱口音化してしまえば,最終到達点は [h],さらには無音となるというわけだ.その点では,脱口音化というのは,"lenition" というより大きな過程の一部としてとらえるのがよいのかもしれない.Bybee の "Path of lenition for voiceless stops" の表を掲げておこう (29) .

Voiceless stop>Affricate>Fricative>Voiclessness>Zero
p>pf>f>h>ø
t>ts/tθ>s/θ>h>ø
k>kx>x>h>ø


 ・ Crystal, David, ed. A Dictionary of Linguistics and Phonetics. 6th ed. Malden, MA: Blackwell, 2008. 295--96.
 ・ Bybee, Joan. Language Change. Cambridge: CUP, 2015.

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2022-02-20 Sun

#4682. kiln, Milne などの /ln/ [consonant][spelling_pronunciation][degemination][phonetics][assimilation][nasal]

 「炉,かま」を意味する kiln や,イギリスの詩人・劇作家・童話作家の Milne (1882--1956) に含まれる ln という子音字連鎖は,主流な発音ではそのまま /ln/ と発音される.しかし,n が響かない /l/ のみの発音もあるにはある.
 歴史的には,/ln/ の子音連鎖は,中英語期に主に南部方言で /n/ が削除され,/l/ へと簡略化した(中尾,p. 419).例えば,古英語 eln, cyln, myln は,それぞれ現代英語の ell, kiln, mill に対応する(中尾,p. 319).現代の kiln, Milne の主要発音は /ln/ の子音連鎖を含むが,これは「#2518. 子音字の黙字」 ([2016-03-19-1]) で触れたように綴字発音 (spelling_pronunciation) によるものである.
 さて,中英語期に生じたとされる /ln/ > /l/ の音変化は,中尾の指摘する通り /n/ の削除と捉えておくのが簡便ではあるが,音声変化の実態としては順行同化 (progressive assimilation or "carry over") とそれに続く奪重子音化 (degemination) の結果だったという可能性もある.というのも,Bybee (24) が mill を,(少なくとも順行同化の部分に関して)そのような例の1つとして挙げているからである.通言語的な観点から,よく観察される音変化として取り上げている.

One type of carry over that occurs in Indo-European languages involves cases where an /n/ assimilates to a preceding liquid, as in the case of Proto-Germanic (PGmc) *wulna > *wullō > OE wull 'wool', PGmc *fulnaz > *fullaz > OE full 'full', and PGmc *hulnis > OE hyll 'hill' . . . . Similar examples are Proto-Indo-European (PIE) *kolnis > Latin collis, 'hill' and OE myln > PDE mill. L. Cambell 1999 also supplies a similar example from alternations in Finnish: kuul-nut > kuullut 'heard', pur-nut > purrut 'bitten', and nous-nut > noussut 'risen'. A similar assimilation is found in Kanakuru, a Chadic language of Nigeria . . . and in Kanuri, a Nilo-Saharan language . . . . In these examples, both consonants are coronal, and a notable feature is that nasality is lost. From a gestural perspective, a nasal assimilating to a non-nasal must be viewed as the loss of the gesture that opens the velum. Thus two things are going on in these examples: the two coronal gestures blend, with the [l], [r], and [s], none of which involve complete closure, affecting the closure of the nasal and the loss of velum opening, perhaps in response to the loss of closure.


 ・ 中尾 俊夫 『音韻史』 英語学大系第11巻,大修館書店,1985年.
 ・ Bybee, Joan. Language Change. Cambridge: CUP, 2015.

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2022-02-19 Sat

#4681. 言語音の周波数とピッチの関係 [phonetics][acoustics][stress][intonation][prosody]

 言語音にはピッチ (pitch) という属性がある.高い声の人,低い声の人もいれば,同じ人でも高い声で話すとき,低い声で話すときがある.話者個人の問題というよりも,言語的な特徴としてのピッチもある.抑揚 (intonation),高低アクセント (pitch accent),声調 (tone) などがそれである.
 ピッチは周波数 (frequency) と関連が深い.両者は同一視されることも多いが,厳密にいえば周波数は音の高低に対応する物理的な指標であり,ピッチはそのような音の高低に対する心理的な指標である.前者は音響音声学的な指標,後者は聴覚音声学的な指標といってもよいだろう.この点について,言語学百科辞典の PITCH の項より2カ所ほど引用する.

When an object vibrates, its movement produces changes in air pressure that radiate like waves from the source. If the frequencies of the vibrations are roughly between 20 and 20,000 cycles per second, or Hertz (Hz), ideally they can be heard by a young, healthy human listener. The range of hearing frequencies declines with age. The physical characteristic of the vibrating body, frequency, produces a psychological experience called pitch. In general, a low frequency produces the sensation of a low pitch (for example, the 60 Hz hum produced by electrical power in a poorly grounded radio), with the pitch increasing as the frequency increases (a male voice at 100 Hz, a female voice at 200 Hz, a child's voice at 300 Hz). Because there is a close correspondence between frequency and pitch, people frequently use the terms interchangeably. However, in addition to frequency, the sensation of pitch is influenced by an interaction between the amplitude of the vibration and the range of the frequency. Pitch is also influenced by the complexity of the vibration and its corresponding wave form. (623)


Pitch is closely related to the physical stimulus frequency, but as a psychological event, it is influenced by the complexity, frequency range, and loudness of the tone. (624)


 要点は,音響装置が機械的に感知する言語音の高さ(周波数)と人間が感知する言語音の高さ(ピッチ)は,確かに密接な関係はあるもののイコールではないということだ.ピッチは,言語音の音響学的な要因のほかにも,他の様々な要因の影響を受けて決まる.関連して「#2687. 言語音の周波数と音圧レベル」 ([2016-09-04-1]) も参照.

 ・ Hogan, Patrick Colm, ed. The Cambridge Encylopedia of the Language Sciences. Cambridge :CUP, 2011.

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2022-02-04 Fri

#4666. 世界英語で扱いにくい th-sound [fricative][phonetics][phonology][world_englishes][th]

 英語の th-sound が,通言語的に厄介な発音であることは「#842. th-sound はまれな発音か」 ([2011-08-17-1]) その他で見てきた.標準英語においては th-sound と称される歯摩擦音 [θ, ð] は,歯茎破裂音 [t, d] とも歯茎摩擦音 [s, z] とも唇歯摩擦音 [f, v] とも異なる子音であり,独立した音素を構成している.しかし,多くの言語ではこの英語の th-sound を独立した音素としてもっていないため,英語を話す際には別の子音で代替するなど何らかの対処法が必要となる.
 これは世界英語の文脈では厄介な問題となり得る.例えば,日本語では th-sound は「ス」あるいは「ズ」として取り入れることが基本となっているが,そうすると s/z との区別がつかない.かくして,「スィング」は sing にも thing にも対応することになり,「ゼン」は Zen にも then にも対応するという,困った事態となる.
 これは,日本語だけではなく世界中の言語で広く観察される問題である.多くの言語が,この子音を受容するに当たって悩んでいるのだ.Mesthrie and Bhatt (126--27) は,th-sound の世界的受容について次のように記述している.

Fricatives: The most striking feature among fricatives is that all New Englishes varieties treat /θ/ and /ð/ as something other than an interdental fricative. /θ ð/ are realised similarly as a pair as follows:

   Dental stops [t̪ d̪] in CFl [= Cape Flats] Eng (variably) and regularly in IndSAf Eng, Pak Eng;
   An aspirated dental stop [t̪h] occurs widely in Ind Eng, but its voice counterpart [d̪] is not usually aspirated;
   Alveolar stops [t d] in EAf Eng, Ghan Eng, Sgp Eng, Mal Eng, Phl Eng;
   Variably as [t t̪] for /θ/ and [d d̪] for /ð/ in BlSAf Eng and Ghan Eng;
   Affricate realisations [t θ] and [d ð] are reported as lesser variants in Ghan Eng.

/θ/ is realised as [f] word-finally in some words in EAf Eng, Ghan Eng and Sgp Engl
   In EAfr Eng /θ/ and /ð/ may be realised as [t s f] and [d z v] respectively, Other changes to fricatives are less widespread;


 東アフリカ英語変種を中心として,多くの変種において th-sound は,標準英語と同じように調音されていないことがわかるだろう.

 ・ Mesthrie, Rajend and Rakesh M. Bhatt. World Englishes: The Study of New Linguistic Varieties. Cambridge: CUP, 2008.

Referrer (Inside): [2023-10-07-1]

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2021-11-11 Thu

#4581. 例の少ない /i/ の開音節長化 [meosl][sound_change][phonetics][vowel][gvs][diphthong]

 中英語期に生じた開音節長化 (meosl) は,後の大母音推移 (gvs) の入力となる音形を出力した音変化として英語史上重要な役割を担っている.この音変化については様々な論点があり,現在でも議論が続いているが,一般的にいって高母音についてはしばしば適用されないことが知られている.例えば,/i/ であれば開音節長化が生じる環境において /eː/ となることが予想されるが,実際にこのルートを経た単語は少ない.
 少ない中でもこの音変化を経て現代標準英語に伝わったと考えられるものを Prins (108) よりいくつか挙げよう.

OE ieME iME e:MoE i:
wicuwik gen. wikes > wēkes // wēkweek 
ifelivelēvelevil
clipianclipenclēpen 
bitelbitelbētelbeetle
wifelwivelwēvelweevil


 古英語の /i/ が中英語にかけて開音節長化を経て /eː/ となり,これが近代英語期にかけての大母音推移の入力となって,最終的に /iː/ が出力された.開始点と終着点を見比べると,要するに /i/ が /iː/ へと長母音化した結果となっている.なぜ /i/ (および /u/)の開音節長化の例が少ないのか,これは英語史における未解決の問題といってよい.

 ・ Prins, A. A. A History of English Phonemes. 2nd ed. Leiden: Leiden UP, 1974.

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2021-09-19 Sun

#4528. イギリス諸島の周辺地域に残る3つの発音 [pronunciation][h][r][rhotic][vowel][centralisation][phonology][phonetics][phoneme][substratum_theory][celtic_hypothesis][cockney]

 イギリス諸島全体のなかで中心的な英語といえば,ブリテン島のイングランドのロンドンを中心とするイングランド南部標準英語のことを指すのが普通である.これ以外のイングランドの南西部・中部・北部や,ウェールズ,スコットランド,アイルランド,その他の島嶼部などをまとめて周辺地域と呼ぶことにすると,この周辺地域の英語変種にはしばしば古い言語特徴 (relic features) が観察される.音韻論的な特徴として,Corrigan (355) より3つの有名な事例を挙げておこう.

(1) "FOOT/STRUT split"
 歴史的な /ʊ/ が,中心地域で /ʊ/ と /ʌ/ に分裂した音韻変化をさす.17世紀に生じた中舌化 (centralisation) と呼ばれる過程で,これにより母音音素が1つ増えたことになる.一方,周辺地域では分裂は起こっていないために footstrut は相変わらず /ʊt/ で脚韻を踏む.「#1297. does, done の母音」 ([2012-11-14-1]) で方言地図を示したように,分裂の有無の方言分布は明確である.

(2) "non-prevocalic /r/"
 この話題は本ブログでも rhotic の多くの記事で話題にしてきた.「#452. イングランド英語の諸方言における r」 ([2010-07-23-1]) に方言地図を掲載しているが,周辺部では母音前位置に来ない歴史的な r が実現され続けているが,中心部では実現されない.スコットランドやアイルランドも rhotic である(ただしウェールズでは一部を除き non-rhotic である).

(3) "h-dropping"
 Cockney 発音としてよく知られている h が脱落する現象.実は Cockney に限らず,初期近代英語期以降,中心地域で広く行なわれてきた.h-dropping は地域変種としての特徴ではなく社会変種としての特徴とみられることが多いが,周辺地域の変種ではあまり見られないという事実もあり,ことは単純ではない.ケルト系の基層をもつ英語変種では一般的に語頭の h が保持されている.

 このように周辺地域は古い特徴を保持していることが多いが,純粋に地理的な観点から分布を説明するだけで十分なのだろうか.これらの地域は,地理的な意味で周辺であるだけでなく,ケルト系言語・方言を基層にもつ英語変種が行なわれている地域として民族的な意味でも周辺である.Corrigan は上記の特徴がケルト語基層仮説によるものだと強く主張しているわけではないが,それを示唆する書き方で紹介している.

 ・ Corrigan, Karen P. "The Atlantic Archipelago of the British Isles." Chapter 17 of The Oxford Handbook of World Englishes. Ed. by Markku Filppula, Juhani Klemola, and Devyani Sharma. New York: OUP, 2017. 335--70.

Referrer (Inside): [2023-05-23-1]

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2021-09-13 Mon

#4522. 声質の音声学は未開拓 [phonetics][voice_quality][paralinguistics]

 声質 (voice quality) は,音声学・言語学の観点からは,意味作用への関与が少ないために周辺的な現象とされており,科学的な研究もほとんどなされていない.「○○語は鼻に抜けるような発音をする」とか「誰々はハスキーボイスだ」というような話題はときに聞かれるが,だからといって言語学とどう関係するのかは自明ではない.発音の癖として片付けられて終わることが多いのではないか.
 Cruttenden (302) によれば,声質とは次のようなものを指す.

The term 'voice quality' refers to positions of the vocal organs which characterise speakers' voices on a long-term basis. Long-term tendencies in positioning the tongue and the soft palate are referred to as ARTICULATORY SETTINGS; those referring to positions of the vocal cords are called PHONATION TYPES.


 ここで挙げられている2種類の声質は,日本語でいえば「舌構え」と「声帯の使い方」ほどとなろうか.「舌構え」についていえば,例えば(イギリス)英語の平均的な声質を基準とすると,スペイン語話者の舌構えは前寄りで,ロシア語話者の舌構えは後寄りだという.また,アメリカ英語話者には鼻音化の傾向があり,イギリス英語のなかでもリヴァプール発音は非鼻音化の傾向があるという.フランス語やドイツ語は,イギリス英語に比べて調音が緊張気味ともいわれる.
 「声帯の使い方」に関しては,キーキー声,息漏れ声,腹声,ささやき越え,裏声などのヴァリエーションがある.これらは話者個人の発声の癖にとどまらない.例えば,キーキー声はデンマーク語やオランダ語の話者から多く聞かれ,腹声はスコットランド英語やコックニーの話者から多く聞かれるという.言語ごとの癖というものがあるようだ.
 しかし,上記はいずれも印象や逸話レベルの話のようにも思われる.声質の音声学や言語学は未開拓の分野といってよいだろう.

 ・ Cruttenden, Alan. Gimson's Pronunciation of English. 8th ed. Abingdon: Routledge, 2014.

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2021-09-12 Sun

#4521. 英語史上の主要な母音変化 [sound_change][vowel][phonetics][phonology][diphthong][gvs][r]

 「#3386. 英語史上の主要な子音変化」 ([2018-08-04-1]) の母音版を書いていなかったので,今回は英語史における母音の音変化について,主要なものをまとめたい.
 とはいっても,英語史上の音変化は「#1402. 英語が千年間,母音を強化し子音を弱化してきた理由」 ([2013-02-27-1]) からも示唆されるように,母音変化のほうがずっと種類や規模が著しい.したがって,少数の主な変化にまとめ上げるのも難しい.そこで,Cruttenden (72) に従って,古英語と現代英語の母音体系を比較対照したときに際立つポイントを6点挙げることで,この難題の当面の回答としたい.

 (1) OE rounded front vowels [yː, ʏ] were lost by ME (following even earlier loss of [øː, œ]).
 (2) Vowels in weakly accented final syllables (particularly in suffixes) were elided or obscured to [ə] or [ɪ] in ME or eModE.
 (3) All OE long vowels closed or diphthongised in eModE or soon after.
 (4) Short vowels have remained relatively stable. The principal exception is the splitting of ME [ʊ] into [ʌ] and [ʊ], the latter remaining only in some labial and velar contexts.
 (5) ME [a] was lengthened and retracted before [f,θ,s] in the eighteenth century.
 (6) The loss of post-vocalic [r] in the eighteenth century gave rise to the centring diphthongs /iə,eə,ɔə,ʊə/ (later /ɔə/ had merged with /ɔː/ by 1950 and /eə/ became /ɛː/ by 2000). The pure vowel /ɜː/ arose in the same way and the same disappearance of post-vocalic [r] introduced /ɑː,ɔː/ into new categories of words, e.g. cart, port


 (3) がいわゆる「大母音推移」 (gvs) に関連する変化である,
 英語史上の多数の母音変化のなかで何を重視して有意義とするかというのはなかなか難しい問題なのだが,こうして少数の項目に絞って提示されると妙に納得する.非常に参考になるリストであることは間違いない.

 ・ Cruttenden, Alan. Gimson's Pronunciation of English. 8th ed. Abingdon: Routledge, 2014.

Referrer (Inside): [2022-09-10-1]

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2021-09-06 Mon

#4515. <gn> の発音 [phonetics][consonant][spelling][phoneme][nasal][etymological_respelling][analogy]

 英語の綴字 <gn> について,語頭に現われるケースについては <kn> との関係から「#3675. kn から k が脱落する音変化の過程」 ([2019-05-20-1]) の記事で簡単に触れた.16--17世紀に [gn] > [n] の過程が生じたということだった.では,語頭ではなく語中や語末に <gn> の綴字をもつ,主にフランス語・ラテン語由来の語について,綴字と発音の関係に関していかなる対応があるだろうか.Carney (247, 325) を参照してみよう.
 まず <gn(e)> が語末にくる例を挙げてみよう.arraign, assign, benign, campaign, champagne, cologne, deign, design, ensign, impugn, malign, reign, resign, sign などが挙がってくる.これらの語においては <g> は黙字として機能しており,結果として <gn(e)> ≡ /n/ の関係となっている.ちなみに foreignsovereign は非歴史的な綴字で,勘違いを含んだ語源的綴字 (etymological_respelling) あるいは類推 (analogy) の産物とされる.
 ただし,上記の単語群の派生語においては <g> と <n> の間に音節境界が生じ,発音上 /g/ と/n/ が別々に発音されることが多い.assignation, benignant, designate, malignant, regnant, resignation, signature, significant, signify の通り.
 上記の単語群のソースとなる言語はたいていフランス語である.フランス語では <gn> は硬口蓋鼻音 [ɲ] に対応するが,英語では [ɲ] は独立した音素ではないため,英語に取り込まれる際には,近似する歯茎鼻音 [n] で代用された.[ɲ] に近い音として英語には [nj] もあり得るのだが,音素配列的に語末には現われ得ない規則なので,結果的に [n] に終着したことになる.なお,語末でなければ /nj/ で取り込まれたケースもある.例えば,cognac, lorgnette, mignonette, vignette などである.イタリア語からの Bologna, Campagna も同様.poignant については,/nj/ のほか /n/ の発音もある.
 綴字について妙なことが起こったのは,フランス語 ligne に由来する line である.本来であればフランス語 signe が英語に取り込まれて <sign> ≡ /saɪn/ として定着したように,ligne も英語では <lign> ≡ /laɪn/ ほどで定着していたはずと想像される.だが,後者については英語的な綴字規則に則って <line> と綴り替えられて現在に至る.これに接頭辞をつけた動詞形にあっては <align> が普通の綴字(ただし aline もないではない)であるし,別に sign/assign というペアも見られるだけに,<line> はなんとも妙である.
 line/align という語幹を共有する語の綴字上のチグハグは,ほかにも deign/disdainfeign/feint に見られる (Upward and Davidson 140) .

 ・ Carney, Edward. A Survey of English Spelling. Abingdon: Routledge, 1994.
 ・ Upward, Christopher and George Davidson. The History of English Spelling. Malden, MA: Wiley-Blackwell, 2011.

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2021-08-04 Wed

#4482. Shakespeare の発音辞書? [shakespeare][pronunciation][reconstruction][phonetics][phonology][rhyme][pun]

 Crystal による The Oxford Dictionary of Original Shakespearean Pronunciation をパラパラと眺めている.Shakespeare は400年ほど前の初期近代の劇作家であり,数千年さかのぼった印欧祖語の時代と比べるのも妙な感じがするかもしれないが,Shakespeare の「オリジナルの発音」とて理論的に復元されたものである以上,印欧祖語の再建 (reconstruction) と本質的に異なるところはない.Shakespeare の場合には,綴字 (spelling),脚韻 (rhyme),地口 (pun) など,再建の精度を高めてくれるヒントが圧倒的に多く手に入るという特殊事情があることは確かだが,それは質の違いというよりは量・程度の違いといったほうがよい.実際,Shakespeare 発音の再建・復元についても,細かな音価の問題となると,解決できないことも多いようだ.
 この種の「オリジナルの発音」の辞書を用いる際に,注意しなければならないことがある.今回の The Oxford Dictionary of Original Shakespearean Pronunciation の場合でいえば,これは Shakespeare の発音を教えてくれる辞書ではないということだ! さて,これはどういうことだろうか.Crystal (xi) もこの点を強調しているので,関連箇所を引用しておきたい.

The notion of 'Modern English pronunciation' is actually an abstraction, realized by hundreds of different accents around the world, and the same kind of variation existed in earlier states of the language. People often loosely refer to OP as an accent', but this is as misleading as it would be to refer to Modern English pronunciation as 'an accent'. It would be even more misleading to describe OP as 'Shakespeare's accent', as is sometimes done. We know nothing about how Shakespeare himself spoke, though we can conjecture that his accent would have been a mixture of Warwickshire and London. It cannot be be stated too often that OP is a phonology---a sound system---which would have been realized in a variety of accents, all of which were different in certain respects from the variety we find in present-day English.


 第1に,同辞書は,劇作家 Shakespeare 自身の発音について教えてくれるものではないということである.そこで提示されているのは Shakespeare 自身の発音ではなく,Shakespeare が登場人物などに語らせようとしている言葉の発音にすぎない.辞書のタイトルが "Shakespeare's Pronunciation" ではなく,形容詞を用いて少しぼかした "Shakespearean Pronunciation" となっていることに注意が必要である.
 第2に,同辞書で与えられている発音記号は,厳密にいえば,Shakespeare が登場人物などに語らせようとしている言葉の発音を表わしてすらいない.では何が表わされているのかといえば,Shakespeare が登場人物などに語らせようとしている言葉の音韻(論) (phonology) である.実際に当時の登場人物(役者)が発音していた発音そのもの,つまり phonetics ではなく,それを抽象化した音韻体系である phonology を表わしているのである.もちろん,それは実際の具現化された発音にも相当程度近似しているはずだとは言えるので,実用上,例えば役者の発音練習の目的のためには十分に用を足すだろう.しかし,厳密にいえば,発音そのものを教えてくれる辞書ではないということを押さえておくことは重要である.要するに,この辞書の正体は "The Oxford Dictionary of Original Shakespearean Phonology" というべきものである.
 Shakespeare に限らず古音を復元する際に行なわれていることは,原則として音韻体系の復元なのだろうと思う.その背後に実際の音声が控えていることはおよそ前提とされているにせよ,再建の対象となるのは,まずもって抽象的な音韻論体系である.
 音声学 (phonetics) と音韻論 (phonology) の違いについては,「#3717. 音声学と音韻論はどう違うのですか?」 ([2019-07-01-1]) および「#4232. 音声学と音韻論は,車の構造とスタイル」 ([2020-11-27-1]) を参照.

 ・ Crystal, David. The Oxford Dictionary of Original Shakespearean Pronunciation. Oxford: OUP, 2016.

Referrer (Inside): [2023-11-18-1] [2021-08-21-1]

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2021-06-29 Tue

#4446. 低地諸語が英語に及ぼした語彙以外の影響 --- 南部方言の TH-stopping と当中部方言の3単現のゼロ [th][phonetics][dutch][flemish][low_german][contact][me_dialect][contact][dialect_levelling][3sp][aave]

 オランダ語を中心とする低地諸語の英語への影響について,連日「#4444. オランダ借用語の絶頂期は15世紀」 ([2021-06-27-1]) と「#4445. なぜ英語史において低地諸語からの影響が過小評価されてきたのか?」 ([2021-06-28-1]) で取り上げてきた.今回は,語彙以外への影響について Hendriks の指摘している2点を取り上げよう.
 まず1点目は,中英語期,Flemish 話者の影響により,英語の歯摩擦音 [ð] が,対応する閉鎖音 [d] に置き換えられたのではないかという説について.この説の出所である Samuels を参照した Hendriks (1668) によれば,中英語の Kent, East Sussex, East Surrey の方言より,"the" が de として,thickdykke として,"this" が dis として文証されるという.Samuels の報告によれば,この "TH-stopping" は上記の地域で15世紀初頭までに起こっており,現在でも指示詞に限られるものの,その効果が残っているという.
 2点目は,Trudgill の研究で知られるようになった East Midland 方言における3単現のゼロである (cf. 「#2310. 3単現のゼロ」 ([2015-08-24-1])).Trudgill は,この地域で英語と低地諸語が言語接触し,動詞屈折が多様化・複雑化しすぎた結果,最終的に水平化する方向で解決をみた,という議論により現在の3単現のゼロを説明しようとしている.Hendriks (1668) の説明により,この議論のニュアンスをもう少し丁寧に追ってみよう.

In an article first published in 1997, Trudgill (2002) seeks to understand why the present-tense, third person singular verb forms lack -s in the East Anglian dialects. Surviving evidence suggests that from the 11th to the 15th century, Est Anglian dialects had the original -th form, but by 1700, the zero form had become a typical feature of these dialects. Noting a number of zero forms in the early 17th letters of Katherine Paston, he situates the emergence of the zero forms in the 16th century. This time-frame corresponds to massive migration into East Anglia from the Low countries and France as a result of the Dutch Revolt in the southern Netherlands and civil wars in France. Trudgill concludes that the zero from is due to contact at a time when the East Anglian system itself was in flux and this is the key to his argument. There is evidence of variation between the native southern -th forms and the northern -s forms at the same time that this region experience[d] a massive influx of immigrants who would have found the typologically highly marked third person singular verb forms difficult to acquire. In this situation of dialect contact, Trudgill (2002: 185) asserts, "natural forms tend to win out over non-natural ones".


 特に後者の「3単現のゼロ」問題は aave の起源論においても鍵となるトピックであり,英語史上きわめて重要な論題である.

 ・ Hendriks, Jennifer. "English in Contact: German and Dutch." Chapter 105 of English Historical Linguistics: An International Handbook. 2 vols. Ed. Alexander Bergs and Laurel J. Brinton. Berlin: Mouton de Gruyter, 2012. 1659--70.
 ・ Samuels, Michael L. "Kent and the Low countries: Some Linguistic Evidence." Edinburgh Studies in English and Scots. Ed. A. J. Aitken, Angus McIntosh, and Hermann Pálsson. London: Longman, 1971. 3--19.
 ・ Trudgill, Peter. "Third-Person Singular Zero: African-American English, Anglian Dialects and Spanish Persecution in the Low Countries." East Anglian English. Ed. Jacek Fisiak and Peter Trudgill. Cambridge: D. S. Brewer, 2002. 179--86.

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2021-06-21 Mon

#4438. 古英語の母音体系 [oe][vowel][monophthong][diphthong][phonetics][phonology][phoneme]

 古英語の母音は複雑な体系をなしていた.短母音,長母音,短2重母音,長2重母音の系列があり,古英語の前後半の時期によっても方言によっても母音の種類と数は異なっていたため,古英語の母音(音素)一覧を作ろうとすると厄介である.また,長2重母音の系列が本当にあったかどうかを巡って「#3955. 古英語の "digraph controversy"」 ([2020-02-24-1]),「#3964. 古英語の "digraph controversy" (2)」 ([2020-03-04-1]) でみたような激しい論争もあり,一筋縄ではいかない.
 ここでは Prins (51--52) に依拠して,古英語の後期ウェストサクソン方言の母音体系を示すことにする.

Short Vowels
iüu
eö ( → e )o
æ, a
Long Vowels
i:ü:u:
e:ö: ( → e: )o:
æ:
ɑ:
Short Diphthongs
ie( → i )
eo
ea
Long Diphthongs
i:e( → ü )
e:o
e:a


 注記しておくべき点は,

 (1) 短母音 ö と長母音 ö は,後に非円唇化した
 (2) 短母音 æ と a は同一音素の位置異音だが,長母音 æ: と ɑ: は異なる音素である
 (3) 短2重母音 ie は,後に i へ変化した
 (4) 長2重母音 i:e は,後に ü: へ変化した

となる.
 各種の変化後の母音体系において系列ごとに音素を数えると,短母音系列6音素,長母音系列7音素,短2重母音系列2音素,長2重母音系列2音素となり,少なく見積もっても17個の母音音素があったことになる.現代英語の母音音素は20個ほどあり相当に複雑だが,古英語も負けていない(cf. 「#1021. 英語と日本語の音素の種類と数」 ([2012-02-12-1]),「#1601. 英語と日本語の母音の位置比較」 ([2013-09-14-1])).後の中英語では複雑さが少し緩和されたのだが,全体としてみれば歴史を通じて英語の母音体系は込み入っていたといってよいだろう.

 ・ Prins, A. A. A History of English Phonemes. 2nd ed. Leiden: Leiden UP, 1974.

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2021-06-14 Mon

#4431. cockney にみられる「冠詞 + 声門閉鎖音 + 母音で始まる語」 [article][glottal_stop][phonetics][cockney][euphony]

 不定冠詞にせよ定冠詞にせよ,母音の前位置にあっては,通常の [ə], [ðə] ではなく [ən], [ði] と発音されるのが規範的とされる.実際には「#907. 母音の前の the の規範的発音」 ([2011-10-21-1]) で触れた通り,必ずしも規範通りの発音が行なわれているわけではないのだが,一般的な傾向として認められることは事実である.関連する歴史的経緯や理論的側面は,以下の記事で取り上げてきた.

 ・ 「#831. Why "an apple"?」 ([2011-08-06-1])
 ・ 「#906. the の異なる発音」 ([2011-10-20-1])
 ・ 「#907. 母音の前の the の規範的発音」 ([2011-10-21-1])
 ・ 「#2236. 母音の前の the の発音について再考」 ([2015-06-11-1])
 ・ 「#2814. 母音連続回避と声門閉鎖音」 ([2017-01-09-1])

 とりわけ最後の記事「#2814. 母音連続回避と声門閉鎖音」 ([2017-01-09-1]) に注目してもらいたい.昨日の記事「#4430. cockney の現在」 ([2021-06-13-1]) で引用・参照した Fox が,cockney の発音の特徴の1つとして「冠詞 + 声門閉鎖音 + 母音で始まる語」を取り上げている.母音連続を回避するために声門閉鎖音を挿入するという実例が,cockney にあったことになる.しかも,比較的最近の革新だというので,ますますおもしろい.
 cockney の若者の多くは,そもそも上記の冠詞の発音に関する規範的な区別を実践しておらず,母音の前でも [ə], [ðə] を用いるという.しかし,母音の前では母音連続 (hiatus) を避けるように,声門閉鎖音 [ʔ] を挟み込む傾向がみられるという.Fox (2025) の説明を引用する.

In an investigation of young speakers of Bangladeshi and white British origin, Fox . . . found high frequency of the use of a [ə] and the [ðə] before vowel-initial words among Bangladeshi male adolescents in Tower Hamlets, London, and to a lesser extent in the speech of their white Anglo male peers. All speakers used glottal stop to resolve hiatus in the V#V context. Multi-ethnic friendship networks were shown to play a key role in the diffusion of these features.


 音韻理論的に十分おもしろい問題だが,さらに社会言語学的にも考察できる問題ということでエキサイティングだ.

 ・ Fox, Sue. "Varieties of English: Cockney." Chapter 128 of English Historical Linguistics: An International Handbook. 2 vols. Ed. Alexander Bergs and Laurel J. Brinton. Berlin: Mouton de Gruyter, 2012. 2013--31.

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2021-05-14 Fri

#4400. 「犬猫」と cats and dogs の順序問題 [sound_symbolism][phonaesthesia][onomatopoeia][idiom][binomial][prosody][alliteration][phonetics][vowel][khelf_hel_intro_2021][clmet][coca][coha][bnc][sobokunagimon]

 目下開催中の「英語史導入企画2021」より今日紹介するコンテンツは,学部生よりアップされた「犬猿ならぬ犬猫の仲!?」です.日本語ではひどく仲の悪いことを「犬猿の仲」と表現し,決して「犬猫の仲」とは言わないわけですが,英語では予想通り(?) cats and dogs だという興味深い話題です.They fight like cats and dogs. のように用いるほか,喧嘩ばかりして暮らしていることを to lead a cat-and-dog life などとも表現します.よく知られた「土砂降り」のイディオムも「#493. It's raining cats and dogs.」 ([2010-09-02-1]) の如くです.
 これはこれとして動物に関する文化の日英差としておもしろい話題ですが,気になったのは英語 cats and dogs の語順の問題です.日本語では「犬猫」だけれど,上記の英語のイディオム表現としては「猫犬」の順序になっています.これはなぜなのでしょうか.
 1つ考えられるのは,音韻上の要因です.2つの要素が結びつけられ対句として機能する場合に,音韻的に特定の順序が好まれる傾向があります.この音韻上の要因には様々なものがありますが,大雑把にいえば音節の軽いものが先に来て,重いものが後に来るというのが原則です.もう少し正確にいえば,音節の "openness and sonorousness" の低いものが先に来て,高いものが後にくるという順序です.イメージとしては,近・小・軽から遠・大・重への流れとしてとらえられます.音が喚起するイメージは,音象徴 (sound_symbolism) あるいは音感覚性 (phonaesthesia) と呼ばれますが,これが2要素の配置順序に関与していると考えられます.
 母音について考えてみましょう.典型的には高母音から低母音へという順序になります.「#1139. 2項イディオムの順序を決める音声的な条件 (2)」 ([2012-06-09-1]) で示したように flimflam, tick-tock, rick-rack, shilly-shally, mishmash, fiddle-faddle, riffraff, seesaw, knickknack などの例が挙がってきます.「#1191. Pronunciation Search」 ([2012-07-31-1]) で ^([BCDFGHJKLMNPQRSTVWXYZ]\S*) [AEIOU]\S* ([BCDFGHJKLMNPQRSTVWXYZ]\S*) \1 [AEIOU]\S* \2$ として検索してみると,ほかにも chit-chat, kit-cat, pingpong, shipshape, zigzag などが拾えます.ding-dong, ticktack も思いつきますね.擬音語・擬態語 (onomatopoeia) が多いようです.
 では,これを cats and dogs の問題に適用するとどうなるでしょうか.両者の母音は /æ/ と /ɔ/ で,いずれも低めの母音という点で大差ありません.その場合には,今度は舌の「前後」という対立が効いてくるのではないかと疑っています.前から後ろへという流れです.前母音 /æ/ を含む cats が先で,後母音 /ɔ/ を含む dogs が後というわけです.しかし,この説を支持する強い証拠は今のところ手にしていません.参考までに「#242. phonaesthesia と 遠近大小」 ([2009-12-25-1]) と「#243. phonaesthesia と 現在・過去」 ([2009-12-26-1]) をご一読ください.対句ではありませんが,動詞の現在形と過去形で catch/caught, hang/hung, stand/stood などに舌の前後の対立が窺えます.
 さて,そもそも cats and dogs の順序がデフォルトであるかのような前提で議論を進めてきましたが,これは本当なのでしょうか.先に「英語のイディオム表現としては」と述べたのですが,実は純粋に「犬と猫」を表現する場合には dogs and cats もよく使われているのです.英米の代表的なコーパス BNCwebCOCA で単純検索してみたところ,いずれのコーパスにおいても dogs and cats のほうがむしろ優勢のようです.ということは,今回の順序問題は,真の問題ではなく見せかけの問題にすぎなかったのでしょうか.
 そうでもないだろうと思っています.18--19世紀の後期近代英語のコーパス CLMET3.0 で調べてみると,cats and dogs が18例,dogs and cats が8例と出ました.もしかすると,もともと歴史的には cats and dogs が優勢だったところに,20世紀以降,最近になって dogs and cats が何らかの理由で追い上げてきたという可能性があります.実際,アメリカ英語の歴史コーパス COHA でざっと確認した限り,そのような気配が濃厚なのです.
 「犬猫」か「猫犬」か.単なる順序の問題ですが,英語史的には奥が深そうです.

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