中世前期のヨーロッパにおける俗語書記文化の発達は,周縁部から順に始まったようにみえる.ラテン語ではなく俗語 (vernacular) で書かれた文学が現われるのは,フランス語では1098年頃の『ローランの歌』,ドイツ語では13世紀の『ニーベルンゲンの歌』というタイミングだが,英語ではずっと早く700年頃とされる『ベオウルフ』が最初である.
地理的にさらに周縁に位置するアイルランド語については,現存する最古の文書は1106年頃の『ナ・ヌイドレ書』や1160年頃の『ラグネッヘ書』とされるが,その起源は6世紀にまでさかのぼるという.6世紀のダラーン・フォルギルによる「コルムキル(聖コルンバ)頌歌」が最もよく知られている.同じくウェールズ語についても現存する最古の文書は13世紀以降だが,「アネイリン」「タリエシン」などの詩歌の起源は6世紀にさかのぼるらしい.周縁部において俗語書記文化の発達がこれほど早かったのはなぜだろうか.原 (213) が次のように解説している.
この答えはまさにその文化的周縁性にあるといっていいだろう.フランスの社会言語学者バッジオーニの提唱していることだが,ローマ帝国の周縁部(リメース)とその隣接地帯,すなわちブリタニア諸島,ドイツ北東部,スカンジナビア,ボヘミアなどでは,ラテン語は教養人にとっても外国語でしかなく,その使われ方も古風なままであった.権威ある言語が自由に日常的に用いられないというなかで,地元のことばをそれに代用するという考え方が生まれ,ラテン語に似せた書きことばでの使用がはじまったというわけである.
したがって,ヨーロッパでは,ローマ帝国の周縁部,その内外で最初に,日常的に用いられる俗語による書きことばが誕生した.こうした俗語が現代の国語・民族語のはっきりとした外部であるヒベルニアでは,六世紀には詩歌ばかりでなく,年代記や法的文書までゲール語で書かれるようになった.カムリー語の法的文書は一〇世紀,聖人伝はラテン語からの翻訳で一一世紀末になって登場するので,ゲール語と比べるとその使用度は低い.ワリアが一部はローマ帝国領内だったということも関係しているだろう.
周縁部ではラテン語の権威が適度に弱かったという点が重要である.ラテン語と距離を置く姿勢が俗語の使用を促したのである.別の観点からみれば,周縁部の社会は,ラテン語から刺激こそ受けたが,ラテン語をそのまま使用するほどにはラテン語かぶれしなかったし,母語との言語差もあって語学上のハンディを感じていたということではないか.
そして,そのような語学上の困難を少しでも楽に乗り越えるために,学習の種々のテクニックがよく発達したのも周縁部の特徴である.「#1903. 分かち書きの歴史」 ([2014-07-13-1]) の記事で,分かち書きは「外国語学習者がその言語の読み書きを容易にするために編み出した語学学習のテクニックに由来する」と述べたが,この書記上の革新をもたらしたのは,ほかならぬイギリス諸島という周縁に住む修道僧たちだったのである.
・ 原 聖 『ケルトの水脈』 講談社,2007年.
アイルランドとアングロサクソンがみごとに融合した装飾写本の傑作『ケルズの書』 (The Book of Kells) が,オンライン化した.こちらより,写本の精密画像が閲覧できる.この情報は "The Medieval Masterpiece, the Book of Kells, Is Now Digitized & Put Online" という記事で知った.
『ケルズの書』は,insular half-uncial 書体のラテン語で書かれた4福音書である.680ページからなる大部のところどころに極めて緻密な装飾が施されており,至高の芸術的価値を誇る.7世紀後半から9世紀にかけて,おそらくアイオナ島のアイルランド修道院で,時間をかけて編纂され装飾されたものだろう.西洋中世の写本といえば,まずこの写本の名前が挙がるというほどのダントツの逸品である.Encyclopaedia Britannica によると,次のように解説がある.
Illuminated gospel book (MS. A.I. 6; Trinity College Library, Dublin) that is a masterpiece of the ornate Hiberno-Saxon style. It is probable that the illumination was begun in the late 8th century at the Irish monastery on the Scottish island of Iona and that after a Viking raid the book was taken to the monastery of Kells in County Meath, where it may have been completed in the early 9th century. A facsimile was published in 1974.
ダブリンに行かずとも,いながらにしてこの傑作を眺められるようになった.すごい時代になったなぁ・・・.
・ Encyclopaedia Britannica. Encyclopaedia Britannica 2008 Ultimate Reference Suite. Chicago: Encyclopaedia Britannica, 2008.
アイルランドとアングロサクソンがみごとに融合した装飾写本の傑作『ケルズの書』 (The Book of Kells) が,オンライン化した.こちらより,写本の精密画像が閲覧できる.この情報は "The Medieval Masterpiece, the Book of Kells, Is Now Digitized & Put Online" という記事で知った.
『ケルズの書』は,insular half-uncial 書体のラテン語で書かれた4福音書である.680ページからなる大部のところどころに極めて緻密な装飾が施されており,至高の芸術的価値を誇る.7世紀後半から9世紀にかけて,おそらくアイオナ島のアイルランド修道院で,時間をかけて編纂され装飾されたものだろう.西洋中世の写本といえば,まずこの写本の名前が挙がるというほどのダントツの逸品である.Encyclopaedia Britannica によると,次のように解説がある.
Illuminated gospel book (MS. A.I. 6; Trinity College Library, Dublin) that is a masterpiece of the ornate Hiberno-Saxon style. It is probable that the illumination was begun in the late 8th century at the Irish monastery on the Scottish island of Iona and that after a Viking raid the book was taken to the monastery of Kells in County Meath, where it may have been completed in the early 9th century. A facsimile was published in 1974.
ダブリンに行かずとも,いながらにしてこの傑作を眺められるようになった.すごい時代になったなぁ・・・.
・ Encyclopaedia Britannica. Encyclopaedia Britannica 2008 Ultimate Reference Suite. Chicago: Encyclopaedia Britannica, 2008.
日本文学史の概説を学ぶのであれば,『原色シグマ新日本文学史』の目次 (4--9) がよくできている.帯に「わずか630円(税込み)」と書いてあるとおり,これだけ安価にオールカラーのビジュアル解説で,しかもよく整理された文学史が読めるというのは,すごいことだと思う.目次シリーズで是非とも取りあげておきたい好著.日本語史との突き合わせには「#3389. 沖森卓也『日本語史大全』の目次」 ([2018-08-07-1]) を参照.さらに,イギリス文学史ともクロスさせようと思ったら「#3556. 『コンプトン 英国史・英文学史』の「英文学史」の目次」 ([2019-01-21-1]),「#3567. 『イギリス文学史入門』の目次」 ([2019-02-01-1]) もご覧ください.
『新日本文学史』に「文学の誕生」 (12) という文章がある.日本文学がいかにして誕生するに至ったかを説明する文脈ではあるが,おそらく日本文学に限らず一般に通用する説だろう.先にエッセンスを示しておくと,次のような流れで文学が誕生するという.
┌───────────────┐ │ 自然への畏怖 │ │ ↓ │ │ 神を祭る │ │ ↓ │ │ 神聖な詞章の発達 │ │ ↓ │ │ 詞章の自立・洗練 │ │ ↓ │ │ 歌謡・神話などの文学の誕生 │ └───────────────┘
日本列島にも,一万年以上前には先土器文化の時代があった.それから数千年を経て縄文時代に入ると,石器や土器などの生産用具を用いた採集生活が営まれるようになった.紀元前三から二世紀ころになると,弥生時代が始まり,水稲耕作の技術が伝来して,採集生活の時代に比べて生産力は一段と高められた.水稲耕作は,組織的な作業を必要とするので,定住化した集団生活がそこに営まれるようになった.共同体的社会が形成され,血縁関係によって結ばれる氏族集団がまとめ上げられていくのである.こうした氏族共同体は,独自の文化を生み出していったが,一方,生産力の上昇に伴ってしだいに統合され,やがていくつかの小国へと進展していった.
採集生活の時代から,人々は,外界の自然に対する畏怖の念をもち続けていた.その脅威からのがれ,生産の豊穣を祈念するため,そこにあらわれる超人間的な力を神として祭った.これが<祭り>の起源であり,共同体の安定は,こうした祭りによって維持されることとなった.祭りの場で語られる神聖な詞章(呪言や呪詞と呼ばれる)が,文学の原型である.これらの詞章は,日常の言語とは異なる,韻律やくり返しをもつ律文としての表現をもっていた.それはまた,祭りの場の音楽や舞踏とも一体化した,きわめて混沌とした表現であったと思われる.
しかし,共同体が統合され,小国からやがて統一国家が形成される過程の中で,祭りも統合され,その神聖な詞章もしだいに言語表現として自立・洗練されていった.それが文学の誕生であり,そこに生み出されたのがさまざまな歌謡や神話であった.
・ 秋山 虔,三好 行雄(編著) 『原色シグマ新日本文学史』 文英堂,2000年.
連日話題にしている "aureate termes" (あるいは aureate_diction)と関連して,OED で aureate, adj. の項を引いてみた.まず語義1として原義に近い "Golden, gold-coloured." との定義が示され,c1450からの初例が示されている.続いて語義2に,お目当ての文学・修辞学で用いられる比喩的な語義が掲載されている.
2. fig. Brilliant or splendid as gold, esp. in literary or rhetorical skill; spec. designating or characteristic of a highly ornamental literary style or diction (see quotes.).
1430 Lydgate tr. Hist. Troy Prol. And of my penne the traces to correcte Whiche barrayne is of aureat lycoure.
1508 W. Dunbar Goldyn Targe (Chepman & Myllar) in Poems (1998) I. 186 Your [Homer and Cicero's] aureate tongis both bene all to lyte For to compile that paradise complete.
1625 S. Purchas Pilgrimes ii. 1847 If I erre, I will beg indulgence of the Pope's aureat magnificence.
1819 T. Campbell Specimens Brit. Poets I. ii. 93 The prevailing fault of English diction, in the fifteenth century, is redundant ornament, and an affectation of anglicising Latin words. In this pedantry and use of 'aureate terms', the Scottish versifiers went even beyond their brethren of the south.
1908 G. G. Smith in Cambr. Hist. Eng. Lit. II. iv. 93 The chief effort was to transform the simpler word and phrase into 'aureate' mannerism, to 'illumine' the vernacular.
1919 J. C. Mendenhall Aureate Terms i. 7 Such long and supposedly elegant words have been dubbed ???aureate terms???, because..they represent a kind of verbal gilding of literary style. The phrase may be traced back..in the sense of long Latinical words of learned aspect, used to express a comparatively simple idea.
1936 C. S. Lewis Allegory of Love vi. 252 This peculiar brightness..is the final cause of the whole aureate style.
1819年, 1908年の批評的な例文からは,areate terms を虚飾的とするネガティヴな評価がうかがわれる.また,1919年の Mendenhall からの例文は,areate terms のもう1つの定義を表わしている.
遅ればせながら,この単語の語源はラテン語の aureāus (decorated with gold) である.なお,「桂冠詩人」を表わす poet laureate は aureate と脚韻を踏むが,この表現も1429年の Lydgate が初出である(ただし laureat poete の形ではより早く Chaucer に現われている).
昨日の記事「#3583. "halff chongyd Latyne" としての aureate terms」 ([2019-02-17-1]) に引き続き,Lydgate の発展させた aureate terms という華美な文体が,同時代の批評家にどのように受け取られていたかを考えてみたい.厳密にいえば Lydgate の次世代の時代に属するが,Henry VII に仕えたイングランド詩人 Stephen Hawes (fl. 1502--21) が,The Pastime of Pleasure (1506年に完成,1509年に出版)のなかで,aureate terms のことを次のように説明している (Cap. xi, st. 2; 以下,Nichols 521fn より再引用) .
So that Elocucyon doth ryght well claryfy
The dulcet speche from the language rude,
Tellynge the tale in termes eloquent:
The barbry tongue it doth ferre exclude,
Electynge words which are expedyent,
In Latin or in Englyshe, after the entente,
Encensyng out the aromatyke fume,
Our langage rude to exyle and consume.
Hawes によれば,それは "The dulcet speche" であり,"the aromatyke fume" であり,"the language rude" の対極にあるものだったのだである.
これはラテン語風英語に対する16世紀初頭の評価だが,数十年おいて同世紀の後半になると,さらに本格的なラテン借用語の流入 --- もはや「ラテン語かぶれ」というほどの熱狂 --- が始まることになる.文体史的にも英語史的にも,Chaucer 以来続く1つの大きな流れを認めないわけにはいかない.
関連して,「#292. aureate diction」 ([2010-02-13-1]),「#1463. euphuism」 ([2013-04-29-1]) を参照.
・ Nichols, Pierrepont H. "Lydgate's Influence on the Aureate Terms of the Scottish Chaucerians." PMLA 47 (1932): 516--22.
標題は "aureate diction" とも称される,主に15世紀に Lydgate などが発展させたラテン語の単語や語法を多用した「金ぴかな」文体である.この語法と John Lydgate (1370?--1450?) の貢献については「#292. aureate diction」 ([2010-02-13-1]),「#2657. 英語史上の Lydgate の役割」 ([2016-08-05-1]) で取り上げたことがあった.今回は "aureate terms" の定義と,それに対する同時代の反応について見てみたい.
J. C. Mendenhall は,Areate Terms: A Study in the Literary Diction of the Fifteenth Century (Thesis, U of Pennsylvania, 1919) のなかで,"those new words, chiefly Romance or Latinical in origin, continually sought under authority of criticism and the best writers, for a rich and expressive style in English, from about 1350 to about 1530" (12) と定義している.Mendenhall は,Chaucer をこの新語法の走りとみなしているが,15世紀の Chaucer の追随者,とりわけスコットランドの Robert Henryson や William Dunbar がそれを受け継いで発展させたとしている.
しかし,後に Nichols が明らかにしたように,aureate terms を大成させた最大の功労者は Lydgate といってよい.そもそも aureat(e) という形容詞を英語に導入した人物が Lydgate であるし,この形容詞自体が1つの aureate term なのである.さらに,MED の aurēāt (adj.) を引くと,驚くことに,挙げられている20例すべてが Lydgate の諸作品から取られている.
この語法が Lydgate と強く結びつけられていたことは,同時代の詩人 John Metham の批評からもわかる.Metham は,1448--49年の Romance of Amoryus and Cleopes のエピローグのなかで,詩人としての Chaucer と Lydgate を次のように評価している(以下,Nichols 520 より再引用).
(314)
And yff I the trwthe schuld here wryght,
As gret a style I schuld make in euery degre
As Chauncerys off qwene Eleyne, or Cresseyd, doth endyght;
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
(316)
For thei that greyheryd be, affter folkys estymacion,
Nedys must be more cunne, be kendly nature,
Than he that late begynnyth, as be demonstration,
My mastyr Chauncerys, I mene, that long dyd endure
In practyk off rymyng;---qwerffore proffoundely
With many prouerbys hys bokys rymyd naturally.
(317)
Eke Ion Lydgate, sumtyme monke off Byry,
Hys bokys endyted with termys off retoryk
And halff chongyd Latyne, with conseytys fantastyk,
But eke hys qwyght her schewyd, and hys late werk,
How that hys contynwaunz made hym both a poyet and a clerk.
端的にいえば,Metham は Chaucer は脚韻の詩人だが,Lydgate は aureate terms の詩人だと評しているのである.そして,引用の終わりにかけての箇所に "termys off retoryk / And halff chongyd Latyne, with conseytys fantastyk" とあるが,これはまさに areate terms の同時代的な定義といってよい.それにしても "halff chongyd Latyne" とは言い得て妙である.「#3071. Pig Latin」 ([2017-09-23-1]) を想起せずにいられない.
・ Nichols, Pierrepont H. "Lydgate's Influence on the Aureate Terms of the Scottish Chaucerians." PMLA 47 (1932): 516--22.
「#3556. 『コンプトン 英国史・英文学史』の「英文学史」の目次」 ([2019-01-21-1]) に続き,英文学史の目次の第2弾.暗記すると時代の流れがよく呑み込める.
昨日の記事「#3555. 『コンプトン 英国史・英文学史』の「英国史」の目次」 ([2019-01-20-1]) に引き続き,同じ『コンプトン』より今回は「英文学史」の部分の目次 (ix--x) を掲げよう.イギリス史と同じく,要点を押さえたコンパクトな英文学史概説として勧められる.
岡崎 (71) によれば,古英語以来,英詩の形式は,リズム,押韻方法,詩行構造,種類という点において大きな変化を遂げてきた.
a. リズム:強弱から弱強へ
b. 押韻:頭韻から脚韻へ
c. 詩行構造:不定の長さ(音節数)から定まった長さ(音節数)へ
d. 種類:単一の形式から多様な形式へ
古英語期から中英語期へ,そして近代英語期以降へと,英詩の形式は確かに大変化に見舞われてきた.背景には,英語の音変化や外来の詩型からの影響というダイナミックな要因が関与している.それぞれの時代の代表的な詩型の種類と特徴を,岡崎の要約により示そう.
[ 古英語頭韻詩 ](p. 71)
a. 1行(長行,long-line)は,二つの半行 (half-line) から構成されている.
b. 半行の音節数は3音節以上だが,一定していない.
c. 頭韻する分節音は,第1半行(前半)に最大二つ,第2半行(後半)に一つ.
d. 半行中で頭韻する分節音を含む音節が強音部となり,強弱の韻律が実現される.
[ 中英語頭韻詩 ](p. 73)
a. 音節数不定の長行が基本単位(の可能性が高い).
b. 頭韻する子音を含む語が1行に最小で二つ,最大で四つ.三つの場合が多い.
c. 頭韻詩ごとに個々の独自の詩型がある.
[ 中英語の様々な脚韻詩 ](p. 75)
a. 8詩脚の脚韻付連句:1行16音節.弱強8詩脚.2行1組.第4詩脚のあとに行中休止 (caesura) .半行末で脚韻.
b. アレグザンダー詩行 (Alexandrine) :1行12音節.弱強6詩脚.行末で脚韻.
c. 弱強5歩格 (iambic pentameter) :1行10音節.弱強5詩脚.行末で脚韻.
d. 弱強4歩格 (iambic tetrameter) :1行8音節.弱強4詩脚.行末で脚韻.
e. 弱強3歩格 (iambic trimeter) :1行6音節.弱強3詩脚.アレグザンダー詩行を二分割したもの.
f. 連 (stanza) :複数行からなる詩行の意味上のまとまり.
g. 2行連 (couplet) :2行から構成される詩行の意味上のまとまり.
h. 尾韻 (tail rhyme) :6行1組で脚韻型が aabccb の詩.ラテン語の賛美歌から.
i. 帝王韻 (rhyme royal) :7行連の弱強5歩格の詩で,脚韻型が abcbbcc.
j. ボブ・ウィール連 (bob-wheel stanza) :5行の脚韻詩行で,第1行のボブは1強勢,それに続く4行のウィールの各行は3強勢.脚韻型は ababa.
k. バラッド律 (ballad meter) :4行連 (quatrain) が基本の詩型.弱強4歩格と弱強3歩格の2行連二つから構成される.3歩格詩行の行末が脚韻.
[ 近代英語以降の脚韻詩 ](pp. 76--79)
・ 弱強(5歩)格 (iambic pentameter) を中心としつつも,弱弱強格 (anapestic meter),強弱格 (trochaic meter),強弱弱格 (dactylic meter),無韻詩 (blank verse),自由詩 (free verse) など少なくとも11種類の詩型が出現した.
・ 詩脚と実際のリズムの間に不一致 (mismatch) がある.詩脚のW位置に強勢音節が配置される不一致型には規則性があり,統語構造をもとに一般化できる.
・ Shakespeare のソネット:弱強5歩格「4行連×3+2行」という構成で,ababcdcdefefgg の脚韻型を示す.
・ 句またがり (enjambment) の使用:詩行末が統語節末に対応しない現象.行末終止行 (end-stopped line) と対比される.
英詩の種類の豊富さは,歴史のたまものである.これについては「#2751. T. S. Eliot による英語の詩の特性と豊かさ」 ([2016-11-07-1]) も参照.
・ 岡崎 正男 「第4章 韻律論の歴史」 服部 義弘・児馬 修(編)『歴史言語学』朝倉日英対照言語学シリーズ[発展編]3 朝倉書店,2018年.71--88頁.
昨日の記事「#3320. 英語の諺の分類」 ([2018-05-30-1]) に引き続き,諺の話題.英語の諺の起源は様々である.英語独自に培われてきたものもあれば,他言語ですでに使われていたものを借りてきた場合もある.例えば,英語独自の諺の代表例としては It never rains but it pours (降れば必ずどしゃ降り)が挙げられる.この諺(の変異形)の初例は,The Oxford Dictionary of Proverbs によれば1726年の It cannot rain but it pours である.
しかし,多くはギリシア語やラテン語などの古典語,あるいはフランス語などで用いられていた諺が,英訳されて入ってきたものである.つまり,「伝統的」とされる英語の諺も,多くが外国産というわけだ.There's many a slip 'twixt cup and lip (コップを口に持っていく間にも多くのしくじりがある;油断大敵)は1539年に初出しているが,ギリシア語やラテン語の原型から借りたものである.また,Nothing succeeds like success (一事成れば万事成る)は,1867年にフランス語から入ったものである.日本語の「井の中の蛙大海を知らず」が1918年に英語に入った,The frog in the well knows nothing of the sea もある.
上記の例からも分かる通り,すべての諺が古い歴史をもっているかといえば,案外そうでもない.英語の諺でもアメリカで生まれて普段使いされているものもあり,それらは近現代の産物である.例として,1948年に初出の The family that prays together stays together (ともに祈りをする家族の結束は固い)や,1978年に初出の The opera isn't over till the fat lady sings (太った女性が歌うまでオペラは終らない;事は最後の最後までわからない)を挙げておこう.
上のオペラの諺は最新の諺の1つだが,コンピュータ革命によってもたらされた知恵の1つ Garbage in, garbage out (不良情報を入力すれば,不良情報が出力される)も初出が1957年と若い.There's no such thing as a free lunch (無料の昼飯などない)は1967年の初出だが,すでに広く使われている.
このように諺は各時代,各地域で新しいものが作られ,一方で古いもので忘れ去られていくものもあり,常に新陳代謝が生じている.その意味では,通時的な振る舞い方は語彙などと異なるところがない.
・ Speake, Jennifer, ed. The Oxford Dictionary of Proverbs. 6th ed. Oxford: OUP, 2015.
英語の諺の分類には,内容によるもの,形式によるもの,起源によるものなどがあるが,The Oxford Dictionary of Proverbs の序文に掲げられている内容による3分法を紹介しよう (xi) .
Proverbs fall readily into three main categories. Those of the first type take the form of abstract statements expressing general truths, such as Absence makes the heart grow fonder and Nature abhors a vacuum. Proverbs of the second type, which include many of the more colourful examples, use specific observations from everyday experience to make a point which is general; for instance, You can take a horse to water, but you can't make him drink and Don't put all your eggs in one basket. The third type of proverb comprises sayings from particular areas of traditional wisdom and folklore. In this category are found, for example, the health proverbs After dinner rest a while, after supper walk a mile and Feed a cold and starve a fever. These are frequently classical maxims rendered into the vernacular. In addition, there are traditional country proverbs which relate to husbandry, the seasons, and the weather, such as Red sky at night, shepherd's delight; red sky in the morning, shepherd's warning and When the wind is in the east, 'tis neither good for man nor beast.
分類が微妙なケースはあるだろうが,例えば昨日の記事 ([2018-05-29-1]) で紹介した Handsome is as handsome does という諺は,第2のタイプに属するだろうか.
なお,同辞書による諺の定義は,"A proverb is a traditional saying which offers advice or presents a moral in a short and pithy manner." (xi) である.
・ Speake, Jennifer, ed. The Oxford Dictionary of Proverbs. 6th ed. Oxford: OUP, 2015.
449年,Hengest と Horsa というジュート人の兄弟がブリトン人を助けるためにイングランドに渡り,その後むしろイングランドを征服してしまうという事件が起こった.このくだりは,The Anglo-Saxon Chronicle に詳しいが,以下では古英語初学者向けに改編された Smith (158--59) より,関連する古英語[2018-05-31-1]原文箇所を引用する.年代記の449年,455年,457年の記述より抜粋したものである.現代英語訳も付いているので,古英語読解の学習にもどうぞ.(別の関連する記述は「#389. Angles, Saxons, and Jutes の故地と移住先」 ([2010-05-21-1]) および「#2900. 449年,アングロサクソン人によるブリテン島侵略」 ([2017-04-05-1]) を参照.)
Anno 449. Hēr Martiānus and Valentīnus onfēngon rice, and rīcsodon seofon winter. And on hiera dagum Hengest and Horsa, fram Wyrtgeorne gelaþode, Bretta cyninge, gesōton Bretene on þǣm stede þe is genemned Ypwinesflēot, ǣrest Brettum tō fultume, ac hīe eft on hīe fuhton. Se cyning hēt hīe feohtan ongēan Peohtas; and hīe swā dydon, and sīge hæfdon swā hwǣr swā hīe cōmon. Hīe þā sendon tō Angle, and hēton him sendan māran fultum. Þā sendon hīe him māran fultum. Þā cōmon þā menn of þrim mǣgþum Germānie: of Ealdseaxum, of Englum, of Iotum.
455. Hēr Hengest and Horsa fuhton wiþ Wyrtgeorne þǣm cyninge in þǣre stōwe þe is genemned Æglesþrep; and his brōþor Horsan man ofslōg. And æfter þǣm Hengest fēng tō rīce, and Æsc his sunu.
457. Hēr Hengest and Æsc fuhton wiþ Brettas in þǣre stōwe þe is genemned Crecganford, and þǣr ofslōgon fēower þūsend wera. Þā forlēton þā Brettas Centland, and mid micle ege flugon tō Lundenbyrig.
Anno 449. In this year [lit. here] Martianus and Valentinus succeeded to [lit. received] kingship, and ruled seven years. And in their days Hengest and Horsa, invited by Vortigern, king of [the] Britons, came to Britain at the place which is called Ebbsfeet, first as a help to [the] Britons, but they afterwards fought against them. The king commanded them to fight against [the] Picts; and they did so, and had victory wherever they came. Then they sent to Angeln, and told them to send more help. They then sent to them more help. Then the men came from three tribes in Germany: from [the] Old Saxons, from [the] Angles, from [the] Jutes.
455. In this year Hengest and Horsa fought against Vortigern the king in the place which is called Aylesford; and his brother Horsa was slain [lit. one slew his brother Horsa]. And after that Hengest and Æsc his son succeeded to kingship [lit. Hengest succeeded to kingship, and Æsc his son].
457. In this year Hengest and Æsc fought against [the] Britons in the place which is called Crayford, and there slew four thousand men [lit. of men]. The Britons then abandoned Kent, and with great fear fled to London.
Hengest と Horsa のブリテン島侵攻については,anglo-saxon の記事のほか,とりわけ以下を参照.
・ 「#33. ジュート人の名誉のために」 ([2009-05-31-1])
・ 「#389. Angles, Saxons, and Jutes の故地と移住先」 ([2010-05-21-1])
・ 「#1013. アングロサクソン人はどこからブリテン島へ渡ったか」 ([2012-02-04-1])
・ 「#2353. なぜアングロサクソン人はイングランドをかくも素早く征服し得たのか」 ([2015-10-06-1])
・ 「#2443. イングランドにおけるケルト語地名の分布」 ([2016-01-04-1])
・ 「#2493. アングル人は押し入って,サクソン人は引き寄せられた?」 ([2016-02-23-1])
・ 「#2900. 449年,アングロサクソン人によるブリテン島侵略」 ([2017-04-05-1])
・ 「#3094. 449年以前にもゲルマン人はイングランドに存在した」 ([2017-10-16-1])
・ 「#3113. アングロサクソン人は本当にイングランドを素早く征服したのか?」 ([2017-11-04-1]) を参照.
・ Smith, Jeremy J. Essentials of Early English. 2nd ed. London: Routledge, 2005.
年表シリーズ (timeline) の一環として,「#3226. イギリス文学関連略年表」 ([2018-02-25-1]) を横方向にスライドできる年表に作り直した(下図をクリック).スライドできる年表としては,「#2358. スライドできる英語史年表」 ([2015-10-11-1]),「#2871. 古英語期のスライド年表」 ([2017-03-07-1]),「#3164. スライドできる英語史年表 (2)」 ([2017-12-25-1]),「#3205. スライドできる英語史年表 (3)」 ([2018-02-04-1]) も参照.
・ 川崎 寿彦 『イギリス文学史入門』 研究社,1986年.
年表シリーズ (cf. timeline) .今回は,イギリス文学史より略年表を示す.川崎による英文学史概説書の巻末に挙げられているものである (175--80) .イギリス史と日本史との関連付けもあり,眺めて楽しめる.
西暦 | イギリス(文学)関係 | 参考事項 |
---|---|---|
410 | ローマの Britain 島支配終わる | |
1000 | (日)清少納言『枕草子』,紫式部『源氏物語』この頃起稿 | |
1066 | ノーマン征服.ウィリアム一世即位 (--1087) | |
1154 | プランタジネット朝始まる (--1399) | |
1167 | Oxford 大学の基礎成る | |
1313 | (イ)ダンテ『神曲』この頃,イタリア人文主義思潮起こる | |
1337 | 英仏百年戦争始まる (--1453) | |
1349 | (イ)ボッカチオ『デカメロン』 | |
1380 | Wyclif が聖書の翻訳を始める | |
1382 | Chaucer, Troilus and Criseyde (--1385. 出版 1484) | |
1387 | Chaucer, The Canterbury Tales 執筆開始(出版 1478) | |
1455 | ばら戦争 (--1485) | |
1469 | Malory, Le Morte d'Arthur (出版 1485) | |
1475 | W. Caxton, 最初の英語による印刷物出版 | |
1485 | ヘンリー七世即位 (--1509) | |
1492 | (ス)コロンブス,新大陸へ航海 | |
1513 | (イ)マキャベルリ『君主論』この頃成る | |
1516 | More, Utopia | |
1517 | ルターの宗教改革始まる | |
1519 | マゼランの世界周航 (--1522) | |
1534 | The Church of England (or Anglican Church) 成立し,England の宗教改革成る | |
1535 | Sir Thomas More (1478--) 処刑さる | |
1543 | (日)ポルトガル人,種子島に来る | |
1557 | England で the Stationers' Company (書籍出版業組合)誕生 | |
1558 | Elizabeth I 即位 (--1603) | |
1576 | 最初の常設公開劇場 The Theatre を建設 | |
1579 | Spenser, E., The Shepheardes Calendar | |
1587 | Scotland 女王 Mary 処刑さる | |
1588 | Drake, Hawkins ら,スペイン無敵艦隊 (The Armada) を破る | |
1589 | Spenser, E., The Faerie Queene, I?ス曵II | |
1593 | ペスト流行のためロンドンの劇場が2月から年末まで閉鎖 | (日)最初の木版活字本印刷される |
1595 | Shakespeare, Romeo and Juliet | |
1596 | Shakespeare, A Midsummer Night's Dream; Spenser, E., The Faerie Queene, IV?ス朷I | |
1597 | Shakespeare, The Merchant of Venice | |
1599 | グローブ劇場開場 | |
1600 | Shakespeare, As You Like It | |
1601 | Shakespeare, Hamlet | |
1603 | ジェイムス一世即位 (--1625) | |
1605 | Shakespeare, Othello | (ス)セルバンテス『ドン・キホーテ』 |
1606 | Shakespeare, King Lear; Macbeth | |
1618 | (ド)三十年戦争(宗教戦争) (--1648) | |
1620 | Pilgrim Fathers が Mayflower 号でアメリカに渡航 | |
1634 | Milton, Comus | |
1642 | 清教徒革命始まる | |
1649 | チャールズ一世処刑され,王制が廃止され,イギリスは「共和国にして自由国」となる (--1660) | |
1666 | ロンドンの大火 | |
1667 | Milton, Paradise Lost (初版10巻本) | |
1684 | Bunyan, The Pilgrim's Progress, Pt. ii (Pt. i は1678) | |
1687 | ニュートン,万有引力の法則を発表 | |
1688 | 名誉革命 (Glorious Revolution) 起こる | |
1702 | The Daily Courant 創刊(イギリス最初の日刊新聞) | |
1707 | England, Scotland を併合,Great Britain 成立 | |
1711 | Addison と Steele が The Spectator を創刊 | |
1714 | ジョージ一世即位 (--1727) ハノーヴァー朝始まる | |
1719 | Defoe, Robinson Crusoe | |
1721 | R. ウォールポールが組閣し,イギリス最初の首相となる | |
1724 | (日)近松門左衛門 (1635--)歿 | |
1726 | Swift, Gulliveris Travel | |
1731 | イギリス,公用語としてのラテン語全廃 | |
1739 | イギリスとスペインが開戦 | |
1740 | Richardson, Pamela | |
1742 | Fielding, Joseph Andreas | |
1748 | (仏)モンテスキュ『法の精神』 | |
1749 | Fielding, Tom Jones | |
1755 | Johnson の『英語辞典』成る | |
1756 | 英仏間に七年戦争始まる | |
1760 | Sterne, Tristram Shandy | |
1767 | この頃イギリス産業革命 | |
1774 | (日)杉田玄白『解体新書』;(ド)ゲーテ『若きヴェルテルの悩み』 | |
1776 | アメリカ,独立宣言 | |
1789 | フランス革命起こる | |
1791 | The Observer 創刊 | |
1798 | Wordsworth & Coleridge, Lyrical Ballads | |
1801 | イギリスがアイルランドを併合,the Union of Great Britain and Ireland が成立 | |
1805 | Wordsworth, The Prelude | |
1807 | イギリスが奴隷売買を禁止 | |
1812 | Byron, Childe Harold's Pilgrimage;英米戦争始まる (--1814) | |
1813 | Austen, Pride and Prejudice | |
1817 | Byron, Manfred | (日)イギリス船,浦賀に来航 |
1819 | Keats, 'Ode to a Nightingale'; Scott, Ivanhoe | |
1820 | Shelley, Prometheus Unbound; 'To a Skylark' | |
1823 | Lamb, The Essays of Elia | |
1836 | Dickens, Pickwick Papers (出版は1837);イギリス経済恐慌始まる | |
1837 | Dickens, Oliver Twist;ヴィクトリア女王即位 (--1901) | |
1840 | イギリスが New Zealand を併合;アヘン戦争始まる (--42) | |
1847 | C. Brontë, Jane Eyre; E. Brontë, Wuthering Heights; Thackeray, Vanity Fair | |
1848 | マルクス=エンゲルス『共産党宣言』をロンドンで発表 | |
1849 | Dickens, David Copperfield | |
1850 | Tennyson, In Memoriam | |
1851 | ロンドンで万国博覧会開催 | |
1854 | クリミア戦争起きる (--1856);(日)ペリー,浦賀に来航.日米和親条約 | |
1856 | イギリス国王,インドを直轄 | 日本,英米修好通商条約締結 |
1859 | Darwin, On the Origin of Species; G. Eliot, Adam Bede | |
1865 | Carroll, Alice's Adventures in Wonderland | |
1868 | (日)明治と改元,江戸を東京と改める | |
1871 | G. Eliot, Middlemarch | (日)津田梅子らアメリカ留学 |
1872 | Butler, Erewhon | (日)福沢諭吉『学問のすすめ』 |
1877 | (日)東京大学創立 | |
1883 | Stevenson, Treasure Island | |
1891 | Hardy, Tess | |
1893 | Wilde, Salomé (仏語版,英訳版は1894) | |
1894 | Shaw, Arms and the Man; Kipling, The Jungle Book | 日清戦争 |
1895 | Wells, The Time Machine | |
1896 | アテネで近代オリンピック第一回大会 | |
1899 | ボーア戦争 (--1902) | |
1900 | Conrad, Lord Jim | (日)津田梅子,女子英学塾(津田塾大学)創立.夏目漱石,イギリス留学 |
1901 | ヴィクトリア女王歿.エドワード七世即位 | |
1902 | The Times Literary Supplement 創刊 | 日英同盟成立 |
1907 | (日)英語研究社(のち研究社)創業 | |
1909 | (日)坪内逍遙訳『ハムレット』(以後次々に翻訳) | |
1913 | Lawrence, Sons and Lovers | |
1914 | Joyce, Dubliners | 第一次世界大戦始まる (--18) |
1917 | ロシア革命 | |
1920 | 国際連盟成立 | |
1922 | T. S. Eliot, The Waste Land; Galsworthy, The Forsyte Saga; Joyce, Ulysses (パリで出版); Ireland 自由国,正式に成立 | |
1924 | Forster, A Passage to India | |
1925 | Woolf, Mrs. Dalloway | |
1927 | Woolf, To the Lighthouse | |
1928 | Lawrence, Lady Chatterley's Lover; Huxley, Brave New World | |
1929 | (日)日本英文学会結成 | |
1936 | エドワード八世,シンプソン夫人との結婚を選び王位放棄.ジョージ六世即位 (--52) | スペイン内乱 (--39) |
1937 | Ireland 自由国,国名をエール (Eire) と改める | |
1936 | Joyce, Finnegans Wake | 第二次世界大戦始まる |
1940 | Greene, The Power and Glory | |
1941 | 日本,米英に宣戦布告 | |
1945 | Orwell, Animal Farm | 第二次世界大戦終結 |
1948 | Greene, The Heart of the Matter | |
1949 | Orwell, Nineteen Eighty-Four; Eire 共和国,Ireland 共和国として独立 | |
1950 | (日)ロレンス著,伊藤整訳『チャタレー夫人の恋人』発禁 | |
1951 | 日米安保条約調印 | |
1952 | Beckett, En Attendant Godot(『ゴドーを待ちながら』);エリザベス二世即位宣言 | |
1954 | Golding, Lord of the Flies; Murdock, Under the Net | |
1956 | Osborne, Look Back in Anger | |
1957 | Braine, Room at the Top | |
1958 | Weaker, Chicken Soup with Barley | |
1959 | Sillitoe, The Loneliness of the Long-Distance Runner | |
1960 | Pinter, The Caretaker | 日米新安保条約成立 |
1963 | (日)実用英検始まる | |
1964 | オリンピック東京大会 | |
1965 | Pinter, The Homecoming | (日)大学生数百万人突破 |
1970 | 大阪で万国博覧会開催 | |
1971 | 貨幣制度を十進法に切り替え | |
1975 | ベトナム戦争終結 | |
1979 | サッチャー,イギリス初の女性首相となる | 東京サミット |
1980 | レーガン,アメリカ大統領に就任;オリンピックモスクワ大会 | |
1981 | チャールズ皇太子,ダイアナ・スペンサーと結婚 | |
1982 | ローマ法王が訪英,英国国教会と和解成る | |
1984 | T. Hughes, J. Betjeman のあとの桂冠詩人となる | オリンピックロサアンゼルス大会 |
英語死における黒死病 (black_death) の意義について,「#119. 英語を世界語にしたのはクマネズミか!?」 ([2009-08-24-1]),「#138. 黒死病と英語復権の関係について再考」 ([2009-09-12-1]),「#139. 黒死病と英語復権の関係について再々考」 ([2009-09-13-1]),「#3058. 「英語史における黒死病の意義」のまとめスライド」 ([2017-09-10-1]) をはじめとする諸記事で考えてきた.
14世紀半ばの黒死病の到来は中世ヨーロッパの死生観を変え,「死の舞踏」 (dance of death, danse macabre) のモチーフの流行をもたらすなど,文化史や社会史において甚大な影響を及ぼしたとも言われるが,松田の近著『煉獄と地獄』によれば,正確には「死の普遍性を再認識する契機となった」と捉えるべきだろうという.死の普遍性という捉え方は,古今東西,それこそ普遍的であり,特に中世のヨーロッパに特有のはずはない.むしろ,黒死病はその普遍的な言説のなかに取り込まれていったとみるべきではないか.松田 (19--20) を引用する.
こうした〔黒死病の〕光景は一四世紀のヨーロッパの多くの都市に共通して見られ,死の普遍性を再認識する契機となったことだろう。一五―一六世紀に「死の舞踏」の壁画がシチリアからイングランド北部に至るまで広く人気を博した背景には,この悲惨な共通体験があったとヨハン・ホイジングは『中世の秋』(一九一九年)で指摘した。両者を直接の因果関係で結びつけることは短絡的だとしても,「死の舞踏」にはドリュモーが指摘した「神罰の様相,死の攻撃の凶暴さ,貧富老若を問わぬ死の平等性」というペストの三つの特徴がそのままあてはまると感じられたことは想像に難くない。
ペストという共通体験は,死の文学における地域性を見えにくくしていると言えるかもしれない。しかし,本書で扱う中世後期のポピュラーな死の文学ジャンルやモチーフ――現世蔑視,三人の生者と三人の死者,往生術,死語世界探訪譚,死の舞踏など――は,いずれも特定の地域に限定されたものではなく,少なくとも西ヨーロッパの複数の言語で同時的に見られるものばかりである。文学史的な見方をするならば,死の文学に関しては聖書にまで遡るモチーフや比喩の伝統が確立していて,ペストといえどもその受け継がれてきた表現形態や機能を大きく変革することはなかったと考えることができる。実際,ペストが神に対する絶望のような神学的問題を引き起こすことは稀で,むしろ原因追及の矛先は,中世の天変地異の解釈がしばしばそうであったように,人間の道徳的堕落へと向けられた。ペストは死神を介して与えられた神罰であり,その衝撃は最終的に教化という死の文学の機能のなかに吸収されて,予定調和的に処理されたと言えるだろう。
上でみたように,黒死病と「死の舞踏」のモチーフの流行の間に直接の因果関係があるかどうかは別として,後者は中世から近代にかけてのヨーロッパの死生観をヴィジュアルに示したものとして際立っている.松田 (223) によれば,
この死の遍在性を端的に視覚化したモチーフとして,中世の終わりから近代初期にかけて流行した「死の舞踏」がある。「死の舞踏」とは,腐乱あるいは白骨化した屍がさまざまな階級や職業,年齢の生者の手を取って,ときに踊るようなステップであの世へと誘う姿を描いたもので,屍と生者が一組となって通常三〇組ほどの列を成す。パリのイノサン墓地の四方を取り囲む納骨堂の回廊に一四二四年に描かれた一連の壁画を嚆矢とするとされ,一五世紀から一六世紀にかけてヨーロッパ各地で製作された。現在でもフランス,イタリア,ドイツの教会を中心にかなりの数が保存されている。
黒死病以降の人々にとって,死はこれまで以上に身近になり,いまわの際にのみ恐れおののく対象ではなく,日頃から意識すべき対象,つまり memento mori そのものとなった.これを松田は,終章の副題として「薄く引き延ばされた死」と表現している.
死は人間にとって普遍的ではあるが,その扱い方は文化によっても時代によっても変異するし,変化もする.中英語期から初期近代英語期の各世紀のコーパスで,「死」,「死」の類義語,「死」と関連するキーワード等を分析し,通時比較してみると,死のモチーフの流行度の推移が測れたりするかもしれない.文化研究を念頭においた語彙調査の対象としておもしろそうだ.
・ 松田 隆美 『煉獄と地獄 ヨーロッパ中世文学と一般信徒の死生観』 ぷねうま舎,2017年.
福原 (33) によれば,英文学がドイツ文学から影響を受け始めたのは,Carlyle の手を経ての19世紀のことであり,それ以前にはほとんどなかった.言語上の接触についても,「#2164. 英語史であまり目立たないドイツ語からの借用」 ([2015-03-31-1]),「#2621. ドイツ語の英語への本格的貢献は19世紀から」 ([2016-06-30-1]) で触れたとおり,英語はドイツ語からの影響を比較的最近まで受けていなかった.英語の文学・言語がドイツの言語・文学と長らく接点をもたなかったことは,一般に英語英文学が,主に北方ではなく南方から滋養をとってきた歴史を反映している.福原 (33--34) は,英文学におけるこの歴史的傾向について次のように述べている.
英文學といふものは,どうも南方から滋養を取つてくるので,北方文學はあまり奮ひません.十九世紀末につてイプセンが來ます.それから,二十世紀になりまして,ロシア文學が入つて参りますけれども,どうも性に合はないらしく,トルストイもドストエフスキーも十分消化されないやうでありました.〔中略〕そんなわけで北よりも南,ことに十九世紀末は,フランスの頽廢派の文學に共鳴した友人達が輩出いたしました〔後略〕.
英語史,とりわけ英語の語彙借用史に照らしても,概ね「南方」の言語(フランス語,ラテン語,ギリシア語など)から滋養をとってきたことは事実である.確かに古ノルド語,低地地方の言語など「北方」のゲルマン諸語からの借用語もあったが,少なくとも量的な観点からみれば明らかに「南方」過多といってよいだろう.
文学にせよ言語にせよ,本来的に北方的な体質をもっていたところに,歴史的に南方的な滋養が入り込んで,現在あるような English ができあがってきた.これは,英文学史と英語史を大きく俯瞰する視点である.
・ 福原 麟太郎 『英文学入門』 河出書房,1951年.
古英語の修辞技法である kenning について,「#472. kenning」 ([2010-08-12-1]),「#2677. Beowulf にみられる「王」を表わす数々の類義語」 ([2016-08-25-1]),「#2678. Beowulf から kenning の例を追加」 ([2016-08-26-1]) などでみてきた.今回は,福原 (70) が古英語の kenning と日本語の枕詞とを比較している文章を見つけたので,引用したい.ここでは,「海」を表わすのに whale-road (鯨の道)という隠喩的複合語をもってする例を念頭においている.
此處に whale-road といふ言葉でありますが,吾々の國には枕詞といふものがあつて,例へば「あしびきの山鳥」「たらちねの父母」といふ様に申します.丁度此の枕詞が之に似て居ります.「たらちねの父母」といふ言葉の代りに,お終ひには「たらちね」だけですませ,枕詞の中に父母という意味がある様になつて來ました.それから「いさなとり」,是は海の枕言葉でありますが,「いさな」とは鯨のことらしい,whale-road と「いさなとり」といふ枕詞と大變似て居ります.吾々の國の文學でさういふ枕詞を使つた時代は平安朝で一應お終ひになりました.平安朝といふ非常に爛熟した時代でお終ひになりましたが,文化の爛熟といふことと修飾した言葉を無暗に使つて喜ぶことと関係があるのではないかと思ひます.でセルマの歌なんか頗る感情的な,形容詞的な歌でありますが,實質的なことをいはないで無暗に形容詞でもつて人の心を掻き立てる様な演説がある時代が現はれると,其の國はそろそろお終ひだと思つて良いかも知れない.文學に使はれる言葉とその國の文化との關係といふものは一つの注意すべき問題であると思ふのであります.
福原は,kenning と枕言葉の語形成や用法が似ているという点を指摘するのみならず,そのような形容詞的,修飾的な言葉遣いは文化の爛熟期に見られることが多いと述べている.爛熟期ということは,次には退廃期が待っているということを示唆しており,つまり件の語法の存在は,それをもつ文化の「お終ひ」を暗示しているのだ,という評価だ.何だかものすごい議論である.
なお,引用中の「セルマの歌」は,ケルト民族の歌の時代を思い起こさせるスコットランドの古詞である.
・ 福原 麟太郎 『英文学入門』 河出書房,1951年.
17世紀のイングランドの海軍大臣 Samuel Pepys (1633--1703) は,1660--69年ロンドンでの出来事を記録した日記 The Diary of Samuel Pepys で知られる.1665--66年にロンドンを襲った腺ペスト (The Great Plague) についても,不安をもって記録している.関連する箇所をいくつか抜き出そう.
Sunday 30 April 1665 . . . . Great fears of the sickenesse here in the City, it being said that two or three houses are already shut up. God preserve as all!
Sunday 7 June 1665 . . . . This day, much against my will, I did in Drury Lane see two or three houses marked with a red cross upon the doors, and "Lord have mercy upon us" writ there; which was a sad sight to me, being the first of the kind that, to my remembrance, I ever saw. It put me into an ill conception of myself and my smell, so that I was forced to buy some roll-tobacco to smell to and chaw, which took away the apprehension.
Sunday 10 June 1665 . . . . In the evening home to supper; and there, to my great trouble, hear that the plague is come into the City (though it hath these three or four weeks since its beginning been wholly out of the City) . . . .
Saturday 16 September 1665 . . . . At noon to dinner to my Lord Bruncker, where Sir W. Batten and his Lady come, by invitation, and very merry we were, only that the discourse of the likelihood of the increase of the plague this weeke makes us a little sad, but then again the thoughts of the late prizes make us glad.
上の3つめの引用にあるとおり,ペストがシティに入ってきたのは6月10日頃である.6月下旬には,ロンドン市長と市参事会の連名でペスト条例が公布されている.当時のロンドンの人口は25万人ほどという説があるが,その1/5ほどがわずか1年のあいだに腺ペストに倒れたというから,その勢いは凄まじい(蔵持,pp. 219--226).ペストは翌1666年には下火になっていたものの,くすぶってはいた.ペストが完全に制圧されたのは,皮肉にも9月2日のロンドン大火によってだった.その日の Pepys の日記 (Sunday 2 September 1666) も参照されたい.
・ 蔵持 不三也 『ペストの文化誌 ヨーロッパの民衆文化と疫病』 朝日新聞社〈朝日選書〉,1995年.
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