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literature - hellog〜英語史ブログ

最終更新時間: 2024-03-29 09:30

2019-03-02 Sat

#3596. 文学の誕生 [literature][japanese][history]

 『新日本文学史』に「文学の誕生」 (12) という文章がある.日本文学がいかにして誕生するに至ったかを説明する文脈ではあるが,おそらく日本文学に限らず一般に通用する説だろう.先にエッセンスを示しておくと,次のような流れで文学が誕生するという.

┌───────────────┐
│ 自然への畏怖                │
│   ↓                      │
│ 神を祭る                    │
│   ↓                      │
│ 神聖な詞章の発達            │
│   ↓                      │
│ 詞章の自立・洗練            │
│   ↓                      │
│ 歌謡・神話などの文学の誕生  │
└───────────────┘

 では,以下に説明の文章を引用しよう.

 日本列島にも,一万年以上前には先土器文化の時代があった.それから数千年を経て縄文時代に入ると,石器や土器などの生産用具を用いた採集生活が営まれるようになった.紀元前三から二世紀ころになると,弥生時代が始まり,水稲耕作の技術が伝来して,採集生活の時代に比べて生産力は一段と高められた.水稲耕作は,組織的な作業を必要とするので,定住化した集団生活がそこに営まれるようになった.共同体的社会が形成され,血縁関係によって結ばれる氏族集団がまとめ上げられていくのである.こうした氏族共同体は,独自の文化を生み出していったが,一方,生産力の上昇に伴ってしだいに統合され,やがていくつかの小国へと進展していった.
 採集生活の時代から,人々は,外界の自然に対する畏怖の念をもち続けていた.その脅威からのがれ,生産の豊穣を祈念するため,そこにあらわれる超人間的な力を神として祭った.これが<祭り>の起源であり,共同体の安定は,こうした祭りによって維持されることとなった.祭りの場で語られる神聖な詞章(呪言や呪詞と呼ばれる)が,文学の原型である.これらの詞章は,日常の言語とは異なる,韻律やくり返しをもつ律文としての表現をもっていた.それはまた,祭りの場の音楽や舞踏とも一体化した,きわめて混沌とした表現であったと思われる.
 しかし,共同体が統合され,小国からやがて統一国家が形成される過程の中で,祭りも統合され,その神聖な詞章もしだいに言語表現として自立・洗練されていった.それが文学の誕生であり,そこに生み出されたのがさまざまな歌謡神話であった.


 ・ 秋山 虔,三好 行雄(編著) 『原色シグマ新日本文学史』 文英堂,2000年.

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2019-02-19 Tue

#3585. aureate の例文を OED より [oed][lydgate][style][latin][aureate_diction][literature][terminology][rhetoric]

 連日話題にしている "aureate termes" (あるいは aureate_diction)と関連して,OED で aureate, adj. の項を引いてみた.まず語義1として原義に近い "Golden, gold-coloured." との定義が示され,c1450からの初例が示されている.続いて語義2に,お目当ての文学・修辞学で用いられる比喩的な語義が掲載されている.

2. fig. Brilliant or splendid as gold, esp. in literary or rhetorical skill; spec. designating or characteristic of a highly ornamental literary style or diction (see quotes.).

1430 Lydgate tr. Hist. Troy Prol. And of my penne the traces to correcte Whiche barrayne is of aureat lycoure.
1508 W. Dunbar Goldyn Targe (Chepman & Myllar) in Poems (1998) I. 186 Your [Homer and Cicero's] aureate tongis both bene all to lyte For to compile that paradise complete.
1625 S. Purchas Pilgrimes ii. 1847 If I erre, I will beg indulgence of the Pope's aureat magnificence.
1819 T. Campbell Specimens Brit. Poets I. ii. 93 The prevailing fault of English diction, in the fifteenth century, is redundant ornament, and an affectation of anglicising Latin words. In this pedantry and use of 'aureate terms', the Scottish versifiers went even beyond their brethren of the south.
1908 G. G. Smith in Cambr. Hist. Eng. Lit. II. iv. 93 The chief effort was to transform the simpler word and phrase into 'aureate' mannerism, to 'illumine' the vernacular.
1919 J. C. Mendenhall Aureate Terms i. 7 Such long and supposedly elegant words have been dubbed ???aureate terms???, because..they represent a kind of verbal gilding of literary style. The phrase may be traced back..in the sense of long Latinical words of learned aspect, used to express a comparatively simple idea.
1936 C. S. Lewis Allegory of Love vi. 252 This peculiar brightness..is the final cause of the whole aureate style.


 1819年, 1908年の批評的な例文からは,areate terms を虚飾的とするネガティヴな評価がうかがわれる.また,1919年の Mendenhall からの例文は,areate terms のもう1つの定義を表わしている.
 遅ればせながら,この単語の語源はラテン語の aureāus (decorated with gold) である.なお,「桂冠詩人」を表わす poet laureateaureate と脚韻を踏むが,この表現も1429年の Lydgate が初出である(ただし laureat poete の形ではより早く Chaucer に現われている).

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2019-02-18 Mon

#3584. "The dulcet speche" としての aureate terms [lydgate][style][latin][aureate_diction][literature][terminology][rhetoric]

 昨日の記事「#3583. "halff chongyd Latyne" としての aureate terms」 ([2019-02-17-1]) に引き続き,Lydgate の発展させた aureate terms という華美な文体が,同時代の批評家にどのように受け取られていたかを考えてみたい.厳密にいえば Lydgate の次世代の時代に属するが,Henry VII に仕えたイングランド詩人 Stephen Hawes (fl. 1502--21) が,The Pastime of Pleasure (1506年に完成,1509年に出版)のなかで,aureate terms のことを次のように説明している (Cap. xi, st. 2; 以下,Nichols 521fn より再引用) .

So that Elocucyon doth ryght well claryfy
The dulcet speche from the language rude,
Tellynge the tale in termes eloquent:
The barbry tongue it doth ferre exclude,
Electynge words which are expedyent,
In Latin or in Englyshe, after the entente,
Encensyng out the aromatyke fume,
Our langage rude to exyle and consume.


 Hawes によれば,それは "The dulcet speche" であり,"the aromatyke fume" であり,"the language rude" の対極にあるものだったのだである.
 これはラテン語風英語に対する16世紀初頭の評価だが,数十年おいて同世紀の後半になると,さらに本格的なラテン借用語の流入 --- もはや「ラテン語かぶれ」というほどの熱狂 --- が始まることになる.文体史的にも英語史的にも,Chaucer 以来続く1つの大きな流れを認めないわけにはいかない.
 関連して,「#292. aureate diction」 ([2010-02-13-1]),「#1463. euphuism」 ([2013-04-29-1]) を参照.

 ・ Nichols, Pierrepont H. "Lydgate's Influence on the Aureate Terms of the Scottish Chaucerians." PMLA 47 (1932): 516--22.

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2019-02-17 Sun

#3583. "halff chongyd Latyne" としての aureate terms [lydgate][chaucer][style][latin][aureate_diction][literature][terminology][rhetoric]

 標題は "aureate diction" とも称される,主に15世紀に Lydgate などが発展させたラテン語の単語や語法を多用した「金ぴかな」文体である.この語法と John Lydgate (1370?--1450?) の貢献については「#292. aureate diction」 ([2010-02-13-1]),「#2657. 英語史上の Lydgate の役割」 ([2016-08-05-1]) で取り上げたことがあった.今回は "aureate terms" の定義と,それに対する同時代の反応について見てみたい.
 J. C. Mendenhall は,Areate Terms: A Study in the Literary Diction of the Fifteenth Century (Thesis, U of Pennsylvania, 1919) のなかで,"those new words, chiefly Romance or Latinical in origin, continually sought under authority of criticism and the best writers, for a rich and expressive style in English, from about 1350 to about 1530" (12) と定義している.Mendenhall は,Chaucer をこの新語法の走りとみなしているが,15世紀の Chaucer の追随者,とりわけスコットランドの Robert Henryson や William Dunbar がそれを受け継いで発展させたとしている.
 しかし,後に Nichols が明らかにしたように,aureate terms を大成させた最大の功労者は Lydgate といってよい.そもそも aureat(e) という形容詞を英語に導入した人物が Lydgate であるし,この形容詞自体が1つの aureate term なのである.さらに,MEDaurēāt (adj.) を引くと,驚くことに,挙げられている20例すべてが Lydgate の諸作品から取られている.
 この語法が Lydgate と強く結びつけられていたことは,同時代の詩人 John Metham の批評からもわかる.Metham は,1448--49年の Romance of Amoryus and Cleopes のエピローグのなかで,詩人としての Chaucer と Lydgate を次のように評価している(以下,Nichols 520 より再引用).

                 (314)
And yff I the trwthe schuld here wryght,
As gret a style I schuld make in euery degre
As Chauncerys off qwene Eleyne, or Cresseyd, doth endyght;
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
                 (316)
For thei that greyheryd be, affter folkys estymacion,
Nedys must be more cunne, be kendly nature,
Than he that late begynnyth, as be demonstration,
My mastyr Chauncerys, I mene, that long dyd endure
In practyk off rymyng;---qwerffore proffoundely
With many prouerbys hys bokys rymyd naturally.
                 (317)
Eke Ion Lydgate, sumtyme monke off Byry,
Hys bokys endyted with termys off retoryk
And halff chongyd Latyne, with conseytys fantastyk,
But eke hys qwyght her schewyd, and hys late werk,
How that hys contynwaunz made hym both a poyet and a clerk.


 端的にいえば,Metham は Chaucer は脚韻の詩人だが,Lydgate は aureate terms の詩人だと評しているのである.そして,引用の終わりにかけての箇所に "termys off retoryk / And halff chongyd Latyne, with conseytys fantastyk" とあるが,これはまさに areate terms の同時代的な定義といってよい.それにしても "halff chongyd Latyne" とは言い得て妙である.「#3071. Pig Latin」 ([2017-09-23-1]) を想起せずにいられない.

 ・ Nichols, Pierrepont H. "Lydgate's Influence on the Aureate Terms of the Scottish Chaucerians." PMLA 47 (1932): 516--22.

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2019-02-01 Fri

#3567. 『イギリス文学史入門』の目次 [toc][literature]

 「#3556. 『コンプトン 英国史・英文学史』の「英文学史」の目次」 ([2019-01-21-1]) に続き,英文学史の目次の第2弾.暗記すると時代の流れがよく呑み込める.



  1. 古期から中世へ(七世紀--十五世紀)
    なぜ「イングランド」か?
    イギリスの詩のはじまり
    中世の英語と文学
    『キャンタベリ―物語』
    その他の中世詩
  2. ルネッサンスが花ひらく(十五世紀--十六世紀)
    ヘンリー八世の宮廷
    人文思想とトマス・モア
    ワイアットとサリー
    栄光女王エリザベス
    フィリップ・シドニー
    エドマンド・スペンサー
    詩人としてのシェイクスピア
  3. 演劇時代の到来(十六世紀後半)
    三つの発生源
    常設の芝居小屋ができる
    トマス・キッドの血なまぐさい悲劇
    大学才人たち
    マーロウの力強き詩行
  4. そしてシェイクスピア登場(一五九〇--一六一三)
    若い劇作家
    創作第一期(一五九〇--五)
    創作第二期(一五九六--一六〇〇)
    創作第三期(一六〇一--九)
    創作第四期(一六〇九--一二)
  5. 時代は清教徒革命に向かう(十七世紀前半)
    ベーコンの新しい思想と散文
    ジェームズ王聖書
    ベン・ジョンソンの気質喜劇
    ジャコビアン・ドラマティストたち
    ベン・ジョンソンと叙情詩人たち
    ダンとその一派
    その他の形而上派詩人たち
  6. 清教徒革命の後(十七世紀後半)
    王政回復期の文学
    孤峰ミルトン
    『失楽園』
    『復楽園』『闘技者サムソン』
    もう一つの清教徒文学
    ドライデンの詩と劇と散文
  7. 十八世紀の散文,詩,そして劇(一七〇〇--一七九八)
    市民社会と<事実>の文学
    スウィフトの風刺文学
    ポープが詩壇の中心に立つ
    大御所ジョンソン博士
    十八世紀の劇作家たち
    夜の時間が長くなる
  8. 小説時代の到来(十八世紀)
    ロビンソン・クルーソー
    リチャードソンの『パメラ』と『クラリッサ』
    フィールディングの『トム・ジョーンズ』
    スターンの『トリスラム・シャンディ』
    スモレットと「悪党小説」
    オースティンと「分別」の小説
  9. ロマン主義の光と影(一七九八--一八三六)
    ブレイクと自由の主張
    ワーズワースと自然詩
    コールリッジの詩と批評
    バイロンとロマン派的パフォーマンス
    シェリーと空霊の歌
    純粋詩人キーツ
  10. ヴィクトリア朝の詩と散文(一八三七--一九〇一)
    時代の予言者カーライル
    テニソンはヴィクトリア朝詩を代表する
    もう一人のヴィクトリア朝詩人ブラウニング
    アーノルドは詩から散文に移った
    美の使徒たち--ラスキンとペイター
    ラファエロ前派の作家たち
    世紀末作家ワイルド
  11. ヴィクトリア朝の小説(一八三七--一九〇一)
    読書が新しいエンターテインメントとなった
    ディケンズ成功の秘密
    社会批判と愛のメッセージ
    サッカレーと『虚栄の市』
    ブロンテ姉妹のロマン主義
    ジョージ・エリオットと社会的義務の小説
    メレディスとエゴイズムの小説
    ハーディの暗い運命観
    外へ向かう視線
  12. 二十世紀の詩と劇
    群小詩人の風土
    ホプキンズと現代詩
    イェイツとケルト復興,およびその後
    エリオットの詩と批評
    オーデンと三十年代詩人
    ディラン・トマスと四十年代,そしてその後
    ショーとイギリス近代劇
    怒れる若者たち
    不条理劇のある部分
  13. 二十世紀の小説
    ジェイムズと小説の手法
    コンラッド--自然と人間の極限状況
    エドワード王朝期を代表する三人
    フォースターとブルームスベリー・グループ
    ウルフと意識の流れの小説
    ジョイスと神話的方法
    ロレンスと生命の哲学
    逆ユートピア小説
    二人のカトリック作家
    「怒れる」作家たちと,その後



 ・ 川崎 寿彦 『イギリス文学史入門』 研究社,1986年.

Referrer (Inside): [2020-03-14-1] [2019-05-10-1]

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2019-01-21 Mon

#3556. 『コンプトン 英国史・英文学史』の「英文学史」の目次 [toc][literature]

 昨日の記事「#3555. 『コンプトン 英国史・英文学史』の「英国史」の目次」 ([2019-01-20-1]) に引き続き,同じ『コンプトン』より今回は「英文学史」の部分の目次 (ix--x) を掲げよう.イギリス史と同じく,要点を押さえたコンパクトな英文学史概説として勧められる.



  古代英文学
    古代の英詩
  中世英文学
    新文学の先駆者チョーサー
  ルネサンス期の文学
    イギリス=ルネサンス期の詩人たち
    スペンサーとマーロー
    劇作の天才シェイクスピア
    ジョンソンとその名作『ヴォルポーニ』
    欽定訳聖書
  17世紀の時代変化
    17世紀の散文
    バニヤンとピープス
    ピューリタン詩人ミルトン
    形而上詩人と王党派詩人
    17世紀後期の巨匠ドライデン
  18世紀 ―― 理性の時代
    アディソン,スティール,デフォー
    毒舌居士スウィフト
    ポープの詩に見る風刺
    詩壇の新声
    近代小説の発端
    ジョンソンとその一派
  ロマン主義運動
    ロマン主義の先駆者たち
    ロマン主義時代初期の大作家たち
    新進のロマン主義者たち
  ヴィクトリア朝の文学
    ヴィクトリア朝の大詩人たち
    ラファエロ前派
    ヴィクトリア朝の小説家たち
    心理小説の出現
    ロマンスと冒険
    19世紀のドラマ
    評論家と歴史家
  現代文学
    20世紀初期の散文
    20世紀初期の詩
    第一次世界大戦の影響
    第一次世界大戦後の英国詩壇
    第二次世界大戦後の文学



 ・ 加藤 憲一・加藤 治(訳) 『コンプトン 英国史・英文学史』 大修館書店,1987年.

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2018-11-10 Sat

#3484. 英詩の形式の変遷 [poetry][prosody][literature][alliteration][rhyme][meter][shakespeare]

 岡崎 (71) によれば,古英語以来,英詩の形式は,リズム,押韻方法,詩行構造,種類という点において大きな変化を遂げてきた.

 a. リズム:強弱から弱強へ
 b. 押韻:頭韻から脚韻へ
 c. 詩行構造:不定の長さ(音節数)から定まった長さ(音節数)へ
 d. 種類:単一の形式から多様な形式へ


 古英語期から中英語期へ,そして近代英語期以降へと,英詩の形式は確かに大変化に見舞われてきた.背景には,英語の音変化や外来の詩型からの影響というダイナミックな要因が関与している.それぞれの時代の代表的な詩型の種類と特徴を,岡崎の要約により示そう.

[ 古英語頭韻詩 ](p. 71)

 a. 1行(長行,long-line)は,二つの半行 (half-line) から構成されている.
 b. 半行の音節数は3音節以上だが,一定していない.
 c. 頭韻する分節音は,第1半行(前半)に最大二つ,第2半行(後半)に一つ.
 d. 半行中で頭韻する分節音を含む音節が強音部となり,強弱の韻律が実現される.

[ 中英語頭韻詩 ](p. 73)

 a. 音節数不定の長行が基本単位(の可能性が高い).
 b. 頭韻する子音を含む語が1行に最小で二つ,最大で四つ.三つの場合が多い.
 c. 頭韻詩ごとに個々の独自の詩型がある.

[ 中英語の様々な脚韻詩 ](p. 75)

 a. 8詩脚の脚韻付連句:1行16音節.弱強8詩脚.2行1組.第4詩脚のあとに行中休止 (caesura) .半行末で脚韻.
 b. アレグザンダー詩行 (Alexandrine) :1行12音節.弱強6詩脚.行末で脚韻.
 c. 弱強5歩格 (iambic pentameter) :1行10音節.弱強5詩脚.行末で脚韻.
 d. 弱強4歩格 (iambic tetrameter) :1行8音節.弱強4詩脚.行末で脚韻.
 e. 弱強3歩格 (iambic trimeter) :1行6音節.弱強3詩脚.アレグザンダー詩行を二分割したもの.
 f. (stanza) :複数行からなる詩行の意味上のまとまり.
 g. 2行連 (couplet) :2行から構成される詩行の意味上のまとまり.
 h. 尾韻 (tail rhyme) :6行1組で脚韻型が aabccb の詩.ラテン語の賛美歌から.
 i. 帝王韻 (rhyme royal) :7行連の弱強5歩格の詩で,脚韻型が abcbbcc.
 j. ボブ・ウィール連 (bob-wheel stanza) :5行の脚韻詩行で,第1行のボブは1強勢,それに続く4行のウィールの各行は3強勢.脚韻型は ababa.
 k. バラッド律 (ballad meter) :4行連 (quatrain) が基本の詩型.弱強4歩格と弱強3歩格の2行連二つから構成される.3歩格詩行の行末が脚韻.

[ 近代英語以降の脚韻詩 ](pp. 76--79)

 ・ 弱強(5歩)格 (iambic pentameter) を中心としつつも,弱弱強格 (anapestic meter),強弱格 (trochaic meter),強弱弱格 (dactylic meter),無韻詩 (blank verse),自由詩 (free verse) など少なくとも11種類の詩型が出現した.
 ・ 詩脚と実際のリズムの間に不一致 (mismatch) がある.詩脚のW位置に強勢音節が配置される不一致型には規則性があり,統語構造をもとに一般化できる.
 ・ Shakespeare のソネット:弱強5歩格「4行連×3+2行」という構成で,ababcdcdefefgg の脚韻型を示す.
 ・ 句またがり (enjambment) の使用:詩行末が統語節末に対応しない現象.行末終止行 (end-stopped line) と対比される.

 英詩の種類の豊富さは,歴史のたまものである.これについては「#2751. T. S. Eliot による英語の詩の特性と豊かさ」 ([2016-11-07-1]) も参照.

 ・ 岡崎 正男 「第4章 韻律論の歴史」 服部 義弘・児馬 修(編)『歴史言語学』朝倉日英対照言語学シリーズ[発展編]3 朝倉書店,2018年.71--88頁.

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2018-05-31 Thu

#3321. 英語の諺の起源,生成,新陳代謝 [proverb][literature]

 昨日の記事「#3320. 英語の諺の分類」 ([2018-05-30-1]) に引き続き,諺の話題.英語の諺の起源は様々である.英語独自に培われてきたものもあれば,他言語ですでに使われていたものを借りてきた場合もある.例えば,英語独自の諺の代表例としては It never rains but it pours (降れば必ずどしゃ降り)が挙げられる.この諺(の変異形)の初例は,The Oxford Dictionary of Proverbs によれば1726年の It cannot rain but it pours である.
 しかし,多くはギリシア語やラテン語などの古典語,あるいはフランス語などで用いられていた諺が,英訳されて入ってきたものである.つまり,「伝統的」とされる英語の諺も,多くが外国産というわけだ.There's many a slip 'twixt cup and lip (コップを口に持っていく間にも多くのしくじりがある;油断大敵)は1539年に初出しているが,ギリシア語やラテン語の原型から借りたものである.また,Nothing succeeds like success (一事成れば万事成る)は,1867年にフランス語から入ったものである.日本語の「井の中の蛙大海を知らず」が1918年に英語に入った,The frog in the well knows nothing of the sea もある.
 上記の例からも分かる通り,すべての諺が古い歴史をもっているかといえば,案外そうでもない.英語の諺でもアメリカで生まれて普段使いされているものもあり,それらは近現代の産物である.例として,1948年に初出の The family that prays together stays together (ともに祈りをする家族の結束は固い)や,1978年に初出の The opera isn't over till the fat lady sings (太った女性が歌うまでオペラは終らない;事は最後の最後までわからない)を挙げておこう.
 上のオペラの諺は最新の諺の1つだが,コンピュータ革命によってもたらされた知恵の1つ Garbage in, garbage out (不良情報を入力すれば,不良情報が出力される)も初出が1957年と若い.There's no such thing as a free lunch (無料の昼飯などない)は1967年の初出だが,すでに広く使われている.
 このように諺は各時代,各地域で新しいものが作られ,一方で古いもので忘れ去られていくものもあり,常に新陳代謝が生じている.その意味では,通時的な振る舞い方は語彙などと異なるところがない.

 ・ Speake, Jennifer, ed. The Oxford Dictionary of Proverbs. 6th ed. Oxford: OUP, 2015.

Referrer (Inside): [2018-08-22-1] [2018-05-27-1]

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2018-05-30 Wed

#3320. 英語の諺の分類 [proverb][literature][rhetoric]

 英語の諺の分類には,内容によるもの,形式によるもの,起源によるものなどがあるが,The Oxford Dictionary of Proverbs の序文に掲げられている内容による3分法を紹介しよう (xi) .

Proverbs fall readily into three main categories. Those of the first type take the form of abstract statements expressing general truths, such as Absence makes the heart grow fonder and Nature abhors a vacuum. Proverbs of the second type, which include many of the more colourful examples, use specific observations from everyday experience to make a point which is general; for instance, You can take a horse to water, but you can't make him drink and Don't put all your eggs in one basket. The third type of proverb comprises sayings from particular areas of traditional wisdom and folklore. In this category are found, for example, the health proverbs After dinner rest a while, after supper walk a mile and Feed a cold and starve a fever. These are frequently classical maxims rendered into the vernacular. In addition, there are traditional country proverbs which relate to husbandry, the seasons, and the weather, such as Red sky at night, shepherd's delight; red sky in the morning, shepherd's warning and When the wind is in the east, 'tis neither good for man nor beast.


 分類が微妙なケースはあるだろうが,例えば昨日の記事 ([2018-05-29-1]) で紹介した Handsome is as handsome does という諺は,第2のタイプに属するだろうか.
 なお,同辞書による諺の定義は,"A proverb is a traditional saying which offers advice or presents a moral in a short and pithy manner." (xi) である.

 ・ Speake, Jennifer, ed. The Oxford Dictionary of Proverbs. 6th ed. Oxford: OUP, 2015.

Referrer (Inside): [2018-08-22-1] [2018-05-31-1]

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2018-05-27 Sun

#3317. The Anglo-Saxon Chronicle にみる Hengest と Horsa [anglo-saxon][oe][literature][popular_passage][oe_text][jute][history]

 449年,Hengest と Horsa というジュート人の兄弟がブリトン人を助けるためにイングランドに渡り,その後むしろイングランドを征服してしまうという事件が起こった.このくだりは,The Anglo-Saxon Chronicle に詳しいが,以下では古英語初学者向けに改編された Smith (158--59) より,関連する古英語[2018-05-31-1]原文箇所を引用する.年代記の449年,455年,457年の記述より抜粋したものである.現代英語訳も付いているので,古英語読解の学習にもどうぞ.(別の関連する記述は「#389. Angles, Saxons, and Jutes の故地と移住先」 ([2010-05-21-1]) および「#2900. 449年,アングロサクソン人によるブリテン島侵略」 ([2017-04-05-1]) を参照.)

Anno 449. Hēr Martiānus and Valentīnus onfēngon rice, and rīcsodon seofon winter. And on hiera dagum Hengest and Horsa, fram Wyrtgeorne gelaþode, Bretta cyninge, gesōton Bretene on þǣm stede þe is genemned Ypwinesflēot, ǣrest Brettum tō fultume, ac hīe eft on hīe fuhton. Se cyning hēt hīe feohtan ongēan Peohtas; and hīe swā dydon, and sīge hæfdon swā hwǣr swā hīe cōmon. Hīe þā sendon tō Angle, and hēton him sendan māran fultum. Þā sendon hīe him māran fultum. Þā cōmon þā menn of þrim mǣgþum Germānie: of Ealdseaxum, of Englum, of Iotum.

455. Hēr Hengest and Horsa fuhton wiþ Wyrtgeorne þǣm cyninge in þǣre stōwe þe is genemned Æglesþrep; and his brōþor Horsan man ofslōg. And æfter þǣm Hengest fēng tō rīce, and Æsc his sunu.

457. Hēr Hengest and Æsc fuhton wiþ Brettas in þǣre stōwe þe is genemned Crecganford, and þǣr ofslōgon fēower þūsend wera. Þā forlēton þā Brettas Centland, and mid micle ege flugon tō Lundenbyrig.


Anno 449. In this year [lit. here] Martianus and Valentinus succeeded to [lit. received] kingship, and ruled seven years. And in their days Hengest and Horsa, invited by Vortigern, king of [the] Britons, came to Britain at the place which is called Ebbsfeet, first as a help to [the] Britons, but they afterwards fought against them. The king commanded them to fight against [the] Picts; and they did so, and had victory wherever they came. Then they sent to Angeln, and told them to send more help. They then sent to them more help. Then the men came from three tribes in Germany: from [the] Old Saxons, from [the] Angles, from [the] Jutes.

455. In this year Hengest and Horsa fought against Vortigern the king in the place which is called Aylesford; and his brother Horsa was slain [lit. one slew his brother Horsa]. And after that Hengest and Æsc his son succeeded to kingship [lit. Hengest succeeded to kingship, and Æsc his son].

457. In this year Hengest and Æsc fought against [the] Britons in the place which is called Crayford, and there slew four thousand men [lit. of men]. The Britons then abandoned Kent, and with great fear fled to London.


 Hengest と Horsa のブリテン島侵攻については,anglo-saxon の記事のほか,とりわけ以下を参照.

 ・ 「#33. ジュート人の名誉のために」 ([2009-05-31-1])
 ・ 「#389. Angles, Saxons, and Jutes の故地と移住先」 ([2010-05-21-1])
 ・ 「#1013. アングロサクソン人はどこからブリテン島へ渡ったか」 ([2012-02-04-1])
 ・ 「#2353. なぜアングロサクソン人はイングランドをかくも素早く征服し得たのか」 ([2015-10-06-1])
 ・ 「#2443. イングランドにおけるケルト語地名の分布」 ([2016-01-04-1])
 ・ 「#2493. アングル人は押し入って,サクソン人は引き寄せられた?」 ([2016-02-23-1])
 ・ 「#2900. 449年,アングロサクソン人によるブリテン島侵略」 ([2017-04-05-1])
 ・ 「#3094. 449年以前にもゲルマン人はイングランドに存在した」 ([2017-10-16-1])
 ・ 「#3113. アングロサクソン人は本当にイングランドを素早く征服したのか?」 ([2017-11-04-1]) を参照.

 ・ Smith, Jeremy J. Essentials of Early English. 2nd ed. London: Routledge, 2005.

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2018-03-07 Wed

#3236. スライドできるイギリス文学関連略年表 [literature][timeline][history]

 年表シリーズ (timeline) の一環として,「#3226. イギリス文学関連略年表」 ([2018-02-25-1]) を横方向にスライドできる年表に作り直した(下図をクリック).スライドできる年表としては,「#2358. スライドできる英語史年表」 ([2015-10-11-1]),「#2871. 古英語期のスライド年表」 ([2017-03-07-1]),「#3164. スライドできる英語史年表 (2)」 ([2017-12-25-1]),「#3205. スライドできる英語史年表 (3)」 ([2018-02-04-1]) も参照.

 HELIT Timeline by Kawasaki

 ・ 川崎 寿彦 『イギリス文学史入門』 研究社,1986年.

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2018-02-25 Sun

#3226. イギリス文学関連略年表 [literature][timeline][history]

 年表シリーズ (cf. timeline) .今回は,イギリス文学史より略年表を示す.川崎による英文学史概説書の巻末に挙げられているものである (175--80) .イギリス史と日本史との関連付けもあり,眺めて楽しめる.

西暦イギリス(文学)関係参考事項
410ローマの Britain 島支配終わる 
1000 (日)清少納言『枕草子』,紫式部『源氏物語』この頃起稿
1066ノーマン征服.ウィリアム一世即位 (--1087) 
1154プランタジネット朝始まる (--1399) 
1167Oxford 大学の基礎成る 
1313 (イ)ダンテ『神曲』この頃,イタリア人文主義思潮起こる
1337英仏百年戦争始まる (--1453) 
1349 (イ)ボッカチオ『デカメロン』
1380Wyclif が聖書の翻訳を始める 
1382Chaucer, Troilus and Criseyde (--1385. 出版 1484) 
1387Chaucer, The Canterbury Tales 執筆開始(出版 1478) 
1455ばら戦争 (--1485) 
1469Malory, Le Morte d'Arthur (出版 1485) 
1475W. Caxton, 最初の英語による印刷物出版 
1485ヘンリー七世即位 (--1509) 
1492 (ス)コロンブス,新大陸へ航海
1513 (イ)マキャベルリ『君主論』この頃成る
1516More, Utopia 
1517 ルターの宗教改革始まる
1519 マゼランの世界周航 (--1522)
1534The Church of England (or Anglican Church) 成立し,England の宗教改革成る 
1535Sir Thomas More (1478--) 処刑さる 
1543 (日)ポルトガル人,種子島に来る
1557England で the Stationers' Company (書籍出版業組合)誕生 
1558Elizabeth I 即位 (--1603) 
1576最初の常設公開劇場 The Theatre を建設 
1579Spenser, E., The Shepheardes Calendar 
1587Scotland 女王 Mary 処刑さる 
1588Drake, Hawkins ら,スペイン無敵艦隊 (The Armada) を破る 
1589Spenser, E., The Faerie Queene, I?ス曵II 
1593ペスト流行のためロンドンの劇場が2月から年末まで閉鎖(日)最初の木版活字本印刷される
1595Shakespeare, Romeo and Juliet 
1596Shakespeare, A Midsummer Night's Dream; Spenser, E., The Faerie Queene, IV?ス朷I 
1597Shakespeare, The Merchant of Venice 
1599グローブ劇場開場 
1600Shakespeare, As You Like It 
1601Shakespeare, Hamlet 
1603ジェイムス一世即位 (--1625) 
1605Shakespeare, Othello(ス)セルバンテス『ドン・キホーテ』
1606Shakespeare, King Lear; Macbeth 
1618 (ド)三十年戦争(宗教戦争) (--1648)
1620Pilgrim Fathers が Mayflower 号でアメリカに渡航 
1634Milton, Comus 
1642清教徒革命始まる 
1649チャールズ一世処刑され,王制が廃止され,イギリスは「共和国にして自由国」となる (--1660) 
1666ロンドンの大火 
1667Milton, Paradise Lost (初版10巻本) 
1684Bunyan, The Pilgrim's Progress, Pt. ii (Pt. i は1678) 
1687 ニュートン,万有引力の法則を発表
1688名誉革命 (Glorious Revolution) 起こる 
1702The Daily Courant 創刊(イギリス最初の日刊新聞) 
1707England, Scotland を併合,Great Britain 成立 
1711Addison と Steele が The Spectator を創刊 
1714ジョージ一世即位 (--1727) ハノーヴァー朝始まる 
1719Defoe, Robinson Crusoe 
1721R. ウォールポールが組閣し,イギリス最初の首相となる 
1724 (日)近松門左衛門 (1635--)歿
1726Swift, Gulliveris Travel 
1731イギリス,公用語としてのラテン語全廃 
1739イギリスとスペインが開戦 
1740Richardson, Pamela 
1742Fielding, Joseph Andreas 
1748 (仏)モンテスキュ『法の精神』
1749Fielding, Tom Jones 
1755Johnson の『英語辞典』成る 
1756英仏間に七年戦争始まる 
1760Sterne, Tristram Shandy 
1767この頃イギリス産業革命 
1774 (日)杉田玄白『解体新書』;(ド)ゲーテ『若きヴェルテルの悩み』
1776 アメリカ,独立宣言
1789 フランス革命起こる
1791The Observer 創刊 
1798Wordsworth & Coleridge, Lyrical Ballads 
1801イギリスがアイルランドを併合,the Union of Great Britain and Ireland が成立 
1805Wordsworth, The Prelude 
1807イギリスが奴隷売買を禁止 
1812Byron, Childe Harold's Pilgrimage;英米戦争始まる (--1814) 
1813Austen, Pride and Prejudice 
1817Byron, Manfred(日)イギリス船,浦賀に来航
1819Keats, 'Ode to a Nightingale'; Scott, Ivanhoe 
1820Shelley, Prometheus Unbound; 'To a Skylark' 
1823Lamb, The Essays of Elia 
1836Dickens, Pickwick Papers (出版は1837);イギリス経済恐慌始まる 
1837Dickens, Oliver Twist;ヴィクトリア女王即位 (--1901) 
1840イギリスが New Zealand を併合;アヘン戦争始まる (--42) 
1847C. Brontë, Jane Eyre; E. Brontë, Wuthering Heights; Thackeray, Vanity Fair 
1848 マルクス=エンゲルス『共産党宣言』をロンドンで発表
1849Dickens, David Copperfield 
1850Tennyson, In Memoriam 
1851ロンドンで万国博覧会開催 
1854 クリミア戦争起きる (--1856);(日)ペリー,浦賀に来航.日米和親条約
1856イギリス国王,インドを直轄日本,英米修好通商条約締結
1859Darwin, On the Origin of Species; G. Eliot, Adam Bede 
1865Carroll, Alice's Adventures in Wonderland 
1868(日)明治と改元,江戸を東京と改める 
1871G. Eliot, Middlemarch(日)津田梅子らアメリカ留学
1872Butler, Erewhon(日)福沢諭吉『学問のすすめ』
1877 (日)東京大学創立
1883Stevenson, Treasure Island 
1891Hardy, Tess 
1893Wilde, Salomé (仏語版,英訳版は1894) 
1894Shaw, Arms and the Man; Kipling, The Jungle Book日清戦争
1895Wells, The Time Machine 
1896 アテネで近代オリンピック第一回大会
1899 ボーア戦争 (--1902)
1900Conrad, Lord Jim(日)津田梅子,女子英学塾(津田塾大学)創立.夏目漱石,イギリス留学
1901ヴィクトリア女王歿.エドワード七世即位 
1902The Times Literary Supplement 創刊日英同盟成立
1907 (日)英語研究社(のち研究社)創業
1909 (日)坪内逍遙訳『ハムレット』(以後次々に翻訳)
1913Lawrence, Sons and Lovers 
1914Joyce, Dubliners第一次世界大戦始まる (--18)
1917 ロシア革命
1920 国際連盟成立
1922T. S. Eliot, The Waste Land; Galsworthy, The Forsyte Saga; Joyce, Ulysses (パリで出版); Ireland 自由国,正式に成立 
1924Forster, A Passage to India 
1925Woolf, Mrs. Dalloway 
1927Woolf, To the Lighthouse 
1928Lawrence, Lady Chatterley's Lover; Huxley, Brave New World 
1929 (日)日本英文学会結成
1936エドワード八世,シンプソン夫人との結婚を選び王位放棄.ジョージ六世即位 (--52)スペイン内乱 (--39)
1937Ireland 自由国,国名をエール (Eire) と改める 
1936Joyce, Finnegans Wake第二次世界大戦始まる
1940Greene, The Power and Glory 
1941 日本,米英に宣戦布告
1945Orwell, Animal Farm第二次世界大戦終結
1948Greene, The Heart of the Matter 
1949Orwell, Nineteen Eighty-Four; Eire 共和国,Ireland 共和国として独立 
1950 (日)ロレンス著,伊藤整訳『チャタレー夫人の恋人』発禁
1951 日米安保条約調印
1952Beckett, En Attendant Godot(『ゴドーを待ちながら』);エリザベス二世即位宣言 
1954Golding, Lord of the Flies; Murdock, Under the Net 
1956Osborne, Look Back in Anger 
1957Braine, Room at the Top 
1958Weaker, Chicken Soup with Barley 
1959Sillitoe, The Loneliness of the Long-Distance Runner 
1960Pinter, The Caretaker日米新安保条約成立
1963 (日)実用英検始まる
1964 オリンピック東京大会
1965Pinter, The Homecoming(日)大学生数百万人突破
1970 大阪で万国博覧会開催
1971貨幣制度を十進法に切り替え 
1975ベトナム戦争終結 
1979サッチャー,イギリス初の女性首相となる東京サミット
1980レーガン,アメリカ大統領に就任;オリンピックモスクワ大会 
1981チャールズ皇太子,ダイアナ・スペンサーと結婚 
1982ローマ法王が訪英,英国国教会と和解成る 
1984T. Hughes, J. Betjeman のあとの桂冠詩人となるオリンピックロサアンゼルス大会


 ・ 川崎 寿彦 『イギリス文学史入門』 研究社,1986年.

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2018-02-11 Sun

#3212. 黒死病,死の舞踏,memento mori [literature][black_death]

 英語死における黒死病 (black_death) の意義について,「#119. 英語を世界語にしたのはクマネズミか!?」 ([2009-08-24-1]),「#138. 黒死病と英語復権の関係について再考」 ([2009-09-12-1]),「#139. 黒死病と英語復権の関係について再々考」 ([2009-09-13-1]),「#3058. 「英語史における黒死病の意義」のまとめスライド」 ([2017-09-10-1]) をはじめとする諸記事で考えてきた.
 14世紀半ばの黒死病の到来は中世ヨーロッパの死生観を変え,「死の舞踏」 (dance of death, danse macabre) のモチーフの流行をもたらすなど,文化史や社会史において甚大な影響を及ぼしたとも言われるが,松田の近著『煉獄と地獄』によれば,正確には「死の普遍性を再認識する契機となった」と捉えるべきだろうという.死の普遍性という捉え方は,古今東西,それこそ普遍的であり,特に中世のヨーロッパに特有のはずはない.むしろ,黒死病はその普遍的な言説のなかに取り込まれていったとみるべきではないか.松田 (19--20) を引用する.

 こうした〔黒死病の〕光景は一四世紀のヨーロッパの多くの都市に共通して見られ,死の普遍性を再認識する契機となったことだろう。一五―一六世紀に「死の舞踏」の壁画がシチリアからイングランド北部に至るまで広く人気を博した背景には,この悲惨な共通体験があったとヨハン・ホイジングは『中世の秋』(一九一九年)で指摘した。両者を直接の因果関係で結びつけることは短絡的だとしても,「死の舞踏」にはドリュモーが指摘した「神罰の様相,死の攻撃の凶暴さ,貧富老若を問わぬ死の平等性」というペストの三つの特徴がそのままあてはまると感じられたことは想像に難くない。
 ペストという共通体験は,死の文学における地域性を見えにくくしていると言えるかもしれない。しかし,本書で扱う中世後期のポピュラーな死の文学ジャンルやモチーフ――現世蔑視,三人の生者と三人の死者,往生術,死語世界探訪譚,死の舞踏など――は,いずれも特定の地域に限定されたものではなく,少なくとも西ヨーロッパの複数の言語で同時的に見られるものばかりである。文学史的な見方をするならば,死の文学に関しては聖書にまで遡るモチーフや比喩の伝統が確立していて,ペストといえどもその受け継がれてきた表現形態や機能を大きく変革することはなかったと考えることができる。実際,ペストが神に対する絶望のような神学的問題を引き起こすことは稀で,むしろ原因追及の矛先は,中世の天変地異の解釈がしばしばそうであったように,人間の道徳的堕落へと向けられた。ペストは死神を介して与えられた神罰であり,その衝撃は最終的に教化という死の文学の機能のなかに吸収されて,予定調和的に処理されたと言えるだろう。


 上でみたように,黒死病と「死の舞踏」のモチーフの流行の間に直接の因果関係があるかどうかは別として,後者は中世から近代にかけてのヨーロッパの死生観をヴィジュアルに示したものとして際立っている.松田 (223) によれば,

この死の遍在性を端的に視覚化したモチーフとして,中世の終わりから近代初期にかけて流行した「死の舞踏」がある。「死の舞踏」とは,腐乱あるいは白骨化した屍がさまざまな階級や職業,年齢の生者の手を取って,ときに踊るようなステップであの世へと誘う姿を描いたもので,屍と生者が一組となって通常三〇組ほどの列を成す。パリのイノサン墓地の四方を取り囲む納骨堂の回廊に一四二四年に描かれた一連の壁画を嚆矢とするとされ,一五世紀から一六世紀にかけてヨーロッパ各地で製作された。現在でもフランス,イタリア,ドイツの教会を中心にかなりの数が保存されている。


 黒死病以降の人々にとって,死はこれまで以上に身近になり,いまわの際にのみ恐れおののく対象ではなく,日頃から意識すべき対象,つまり memento mori そのものとなった.これを松田は,終章の副題として「薄く引き延ばされた死」と表現している.
 死は人間にとって普遍的ではあるが,その扱い方は文化によっても時代によっても変異するし,変化もする.中英語期から初期近代英語期の各世紀のコーパスで,「死」,「死」の類義語,「死」と関連するキーワード等を分析し,通時比較してみると,死のモチーフの流行度の推移が測れたりするかもしれない.文化研究を念頭においた語彙調査の対象としておもしろそうだ.

 ・ 松田 隆美 『煉獄と地獄 ヨーロッパ中世文学と一般信徒の死生観』 ぷねうま舎,2017年.

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2017-10-12 Thu

#3090. 英語英文学は南方から滋養をとってきた [literature][borrowing][loan_word]

 福原 (33) によれば,英文学がドイツ文学から影響を受け始めたのは,Carlyle の手を経ての19世紀のことであり,それ以前にはほとんどなかった.言語上の接触についても,「#2164. 英語史であまり目立たないドイツ語からの借用」 ([2015-03-31-1]),「#2621. ドイツ語の英語への本格的貢献は19世紀から」 ([2016-06-30-1]) で触れたとおり,英語はドイツ語からの影響を比較的最近まで受けていなかった.英語の文学・言語がドイツの言語・文学と長らく接点をもたなかったことは,一般に英語英文学が,主に北方ではなく南方から滋養をとってきた歴史を反映している.福原 (33--34) は,英文学におけるこの歴史的傾向について次のように述べている.

英文學といふものは,どうも南方から滋養を取つてくるので,北方文學はあまり奮ひません.十九世紀末につてイプセンが來ます.それから,二十世紀になりまして,ロシア文學が入つて参りますけれども,どうも性に合はないらしく,トルストイもドストエフスキーも十分消化されないやうでありました.〔中略〕そんなわけで北よりも南,ことに十九世紀末は,フランスの頽廢派の文學に共鳴した友人達が輩出いたしました〔後略〕.


 英語史,とりわけ英語の語彙借用史に照らしても,概ね「南方」の言語(フランス語,ラテン語,ギリシア語など)から滋養をとってきたことは事実である.確かに古ノルド語,低地地方の言語など「北方」のゲルマン諸語からの借用語もあったが,少なくとも量的な観点からみれば明らかに「南方」過多といってよいだろう.
 文学にせよ言語にせよ,本来的に北方的な体質をもっていたところに,歴史的に南方的な滋養が入り込んで,現在あるような English ができあがってきた.これは,英文学史と英語史を大きく俯瞰する視点である.

 ・ 福原 麟太郎 『英文学入門』 河出書房,1951年.

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2017-09-30 Sat

#3078. kenning と枕詞 [kenning][japanese][literature]

 古英語の修辞技法である kenning について,「#472. kenning」 ([2010-08-12-1]),「#2677. Beowulf にみられる「王」を表わす数々の類義語」 ([2016-08-25-1]),「#2678. Beowulf から kenning の例を追加」 ([2016-08-26-1]) などでみてきた.今回は,福原 (70) が古英語の kenning と日本語の枕詞とを比較している文章を見つけたので,引用したい.ここでは,「海」を表わすのに whale-road (鯨の道)という隠喩的複合語をもってする例を念頭においている.

此處に whale-road といふ言葉でありますが,吾々の國には枕詞といふものがあつて,例へば「あしびきの山鳥」「たらちねの父母」といふ様に申します.丁度此の枕詞が之に似て居ります.「たらちねの父母」といふ言葉の代りに,お終ひには「たらちね」だけですませ,枕詞の中に父母という意味がある様になつて來ました.それから「いさなとり」,是は海の枕言葉でありますが,「いさな」とは鯨のことらしい,whale-road と「いさなとり」といふ枕詞と大變似て居ります.吾々の國の文學でさういふ枕詞を使つた時代は平安朝で一應お終ひになりました.平安朝といふ非常に爛熟した時代でお終ひになりましたが,文化の爛熟といふことと修飾した言葉を無暗に使つて喜ぶことと関係があるのではないかと思ひます.でセルマの歌なんか頗る感情的な,形容詞的な歌でありますが,實質的なことをいはないで無暗に形容詞でもつて人の心を掻き立てる様な演説がある時代が現はれると,其の國はそろそろお終ひだと思つて良いかも知れない.文學に使はれる言葉とその國の文化との關係といふものは一つの注意すべき問題であると思ふのであります.


 福原は,kenning と枕言葉の語形成や用法が似ているという点を指摘するのみならず,そのような形容詞的,修飾的な言葉遣いは文化の爛熟期に見られることが多いと述べている.爛熟期ということは,次には退廃期が待っているということを示唆しており,つまり件の語法の存在は,それをもつ文化の「お終ひ」を暗示しているのだ,という評価だ.何だかものすごい議論である.
 なお,引用中の「セルマの歌」は,ケルト民族の歌の時代を思い起こさせるスコットランドの古詞である.

 ・ 福原 麟太郎 『英文学入門』 河出書房,1951年.

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2017-09-14 Thu

#3062. 1665年のペストに関する Samuel Pepys の記録 [black_death][pepys][literature][history][demography][statistics]

 17世紀のイングランドの海軍大臣 Samuel Pepys (1633--1703) は,1660--69年ロンドンでの出来事を記録した日記 The Diary of Samuel Pepys で知られる.1665--66年にロンドンを襲った腺ペスト (The Great Plague) についても,不安をもって記録している.関連する箇所をいくつか抜き出そう.

Sunday 30 April 1665 . . . . Great fears of the sickenesse here in the City, it being said that two or three houses are already shut up. God preserve as all!


Sunday 7 June 1665 . . . . This day, much against my will, I did in Drury Lane see two or three houses marked with a red cross upon the doors, and "Lord have mercy upon us" writ there; which was a sad sight to me, being the first of the kind that, to my remembrance, I ever saw. It put me into an ill conception of myself and my smell, so that I was forced to buy some roll-tobacco to smell to and chaw, which took away the apprehension.


Sunday 10 June 1665 . . . . In the evening home to supper; and there, to my great trouble, hear that the plague is come into the City (though it hath these three or four weeks since its beginning been wholly out of the City) . . . .


Saturday 16 September 1665 . . . . At noon to dinner to my Lord Bruncker, where Sir W. Batten and his Lady come, by invitation, and very merry we were, only that the discourse of the likelihood of the increase of the plague this weeke makes us a little sad, but then again the thoughts of the late prizes make us glad.


 上の3つめの引用にあるとおり,ペストがシティに入ってきたのは6月10日頃である.6月下旬には,ロンドン市長と市参事会の連名でペスト条例が公布されている.当時のロンドンの人口は25万人ほどという説があるが,その1/5ほどがわずか1年のあいだに腺ペストに倒れたというから,その勢いは凄まじい(蔵持,pp. 219--226).ペストは翌1666年には下火になっていたものの,くすぶってはいた.ペストが完全に制圧されたのは,皮肉にも9月2日のロンドン大火によってだった.その日の Pepys の日記 (Sunday 2 September 1666) も参照されたい.

 ・ 蔵持 不三也 『ペストの文化誌 ヨーロッパの民衆文化と疫病』 朝日新聞社〈朝日選書〉,1995年.

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2017-09-09 Sat

#3057. "The Pardoner's Tale" にみる黒死病 [chaucer][black_death][literature][popular_passage]

 中英語文学における黒死病の表象は様々あるが,Chaucer の The Canterbury Tales の "Pardoner's Tale" より,pestilenceDeeth と同一視されながら言及されている箇所を引こう.黒死病以後の強烈な memento mori の強迫観念,あるいは黒死病が死(神)のイメージと重ね合わされていることが,よく感じられるくだりである.Riverside Chaucer より関連箇所 (ll. 661--91) を引く.

   Thise riotoures three of whiche I tell,
Longe erst er prime rong of any belle,
Were set hem in a taverne to drynke,
And as they sat, they herde a bell clynke
Biforn a cors, was caried to his grave.
That oon of hem gan callen to his knave:
"Go bet," quod he, "and axe redily
What cors is this that passeth heer forby;
And looke that thou reporte his name weel."
   "Sir," quod this boy, "it nedeth never-a-deel;
It was me toold er ye cam heer two houres.
He was, pardee, an old felawe of youres,
And sodeynly he was yslayn to-nyght,
Fordronke, as he sat on his bench upright.
There cam a privee theef men clepeth Deeth,
That in this contree al the peple sleeth,
And with his spere he smoot his herte atwo,
And wente his wey withouten wordes mo.
He hath a thousand slayn this pestilence.
And, maister, er ye come in his presence,
Me thynketh that it were necessarie
For to be war of swich an adversarie.
Beth redy for to meete hym everemoore;
Thus taughte me my dame; I sey namoore."
"By Seinte Marie!" seyde this taverner,
"The child seith sooth, for he hath slayn this yeer,
Henne over a mile, withinne a greet village,
Bothe mam and womman, child, and hyne, and page;
I trowe his habitacioun be there.
To been avysed greet wysdom it were,
Er that he dide a man a dishonour."


 物語の主人公である3人の放蕩者が,酔っ払いながら黒死病の象徴である「死」(=伝染病)を探しだそうと決意する場面の描写だ.物語の最後には,彼らも「死」の餌食となる.暗喩に満ちた韻文だが,引用の前半にある黒死病の犠牲者の葬儀の描写は,穏やかならぬリアリズムを感じさせもする.このような描写に特徴づけられる「ペスト文学」は1つの文化といってよく,現実のむごさに比例して精彩を放つものなのだろう.黒死病蔓延の時代背景を理解するために,以下を薦めておきたい.

 ・ 蔵持 不三也 『ペストの文化誌 ヨーロッパの民衆文化と疫病』 朝日新聞社〈朝日選書〉,1995年.
 ・ ジョン・ケリー(著),野中 邦子(訳) 『黒死病 ペストの中世史』 中央公論新社,2008年.
 ・ ウィリアム・H・マクニール(著),佐々木 昭夫(訳) 『疫病と世界史 上・下』 中央公論新社〈中公文庫〉,2007年.
 ・ 村上 陽一郎 『ペスト大流行 --- ヨーロッパ中世の崩壊 ---』 岩波書店〈岩波新書〉,1983年.

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2017-07-02 Sun

#2988. Wycliffe の聖書英訳正当化の口上 [wycliffe][bible][reformation][me_text][literature]

 14世紀後半の Wycliffe (一門)による聖書英訳は,英国史や聖書翻訳史のみならず英語史においても重要なできごとである.ラテン語原典から完訳した英訳聖書として初のものであり,時代をはるかに先取りした「宗教改革」ののろしだった.
 Wycliffe は,いかにして聖書の英訳を正当化しようとしたか.その口上が,Wyclif's Treatise, De Officio Pastorali (Chapter 15) に見られる.中英語テキストの講読に適している箇所と思うので,Crystal (198) に掲載されている校訂テキストを引用しよう.

Also the worthy reume of Fraunse, notwithstondinge alle lettingis, hath translated the Bible and the Gospels, with othere trewe sentensis of doctours, out of Lateyn into Freynsch. Why shulden not Engliyschemen do so? As lordis of Englond han the Bible in Freynsch, so it were not aghenus resoun that they hadden the same sentense in Engliysch; for thus Goddis lawe wolde be betere knowun, and more trowid, for onehed of wit, and more acord be bitwixe reumes.
   And herfore freris han taught in Englond the Paternoster in Engliysch tunge, as men seyen in the pley of York, and in many othere cuntreys. Sithen the Paternoster is part of Matheus Gospel, as clerkis knowen, why may not al be turnyd to Engliysch trewely, as is this part? Specialy sithen alle Cristen men, lerid and lewid, that shulen be sauyd, moten algatis sue Crist, and knowe His lore and His lif. But the comyns of Engliyschmen knowen it best in ther modir tunge; and thus it were al oon to lette siche knowing of the Gospel and to lette Engliyschmen to sue Crist and come to heuene.


 骨子は明確である.お隣のフランスでも翻訳がなされているではないか.また,イングランド庶民にとっても,英語の聖書のほうが理解しやすいではないか.現代の我々にとっては実に明快な理由づけだが,14世紀のイングランドでは,この考え方は異端も異端だった.
 さらに,この時代には,宗教的な異端性もさることながら,高尚なテキストを執筆するのに英語をもってするということ自体が,いまだ確立した慣習とはなっていなかった.もちろん同時代のチョーサーも文学を英語で書いたわけだが,それ自体一種の冒険であり,実験だったとも考えられる.ジャンルにもよるが,「英語で書く」という行為が当然でなかったことは,先立つ初期中英語でもそうだったし,後続する初期近代英語でも然り.関連して,「#2861. Cursor Mundi の著者が英語で書いた理由」 ([2017-02-25-1]),「#2612. 14世紀にフランス語ではなく英語で書こうとしたわけ」 ([2016-06-21-1]),「#1407. 初期近代英語期の3つの問題」 ([2013-03-04-1]),「#2580. 初期近代英語の国語意識の段階」 ([2016-05-20-1]) も参照されたい.

 ・ Crystal, David. The English Language. 2nd ed. London: Penguin, 2002.

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2017-06-17 Sat

#2973. 格の貧富の差 [case][syncretism][eme][literature][inflection]

 Allen (205) に,(主として初期)中英語のテキストを,形態的な格標示が比較的残っているもの (case-rich texts) と,形態的縮減 (deflexion) により,さほど残っていないもの (case-impoverished texts) におおまかに分類している.各テキストにみられる格の「貧富」の差は,時代や方言によるところが大きいが,その他,テキストや写本の伝統に起因するものもあるだろう.初期中英語の格を巡る研究に役立ちそうなので,このテキストの分類を再現しておく.ただし,網羅的なリストではなく,Allen がケース・スタディで利用したテキストのみを掲載しているにすぎないので,注意しておきたい.

Case-rich textsDateCase-impoverished textsDate
PC I (not very rich)c.1131PC IIc.1155
Kentish Homiliesa.1150, c.1125Ormulum (Vol. II)c.1180
Lambeth Homiliesc.1200, mostly OEAncrene Wisse (Parts 1--5)c.1230, somewhat earlier
Poema Morale (Lambeth version)c.1200, c.1170--90Katherine Groupc.1225, 1200--20
Trinity Homiliesa.1225, ?OEWohungec.1220, post 1200
Brut (C MS) (1st 3,000 lines)s.xiii2, post 1189Cursor Mundi (Vesp. MS, Vol. I)c.1350
Vices and Virtuesc.1200, a.1225Havelok the Danec.1300, c.1295--1310
Owl and Nightingale (C MS)s.xiii2, 1189--1216Robert of Gloucester's Chronicle (A MS, Vol. I)c.1325, c.1300
Kentish Sermonsc.1275, pre-1250Genesis and Exodusa.1325, c.1250
Aȝenbite of Inwit1340Sir Orfeo and Amis and Amiloun (Auchinleck MS)c.1330
  Early Prose Psalterc.1350


 ついでに,格の貧富の差のもう1つの指標となり得る,Hotta (40--43) による "syncretism rate" というアイディアも参照されたい.

 ・ Allen, Cynthia L. "Case Syncretism and Word Order Change." Chapter 9 of The Handbook of the History of English. Ed. Ans van Kemenade and Bettelou Los. Malden, MA: Blackwell, 2006. 201--23.

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2017-06-13 Tue

#2969. 閉じない quotation marks [punctuation][literature][genre][prescriptive_grammar][printing]

 「#1097. quotation marks」 ([2012-04-28-1]) で,英語の引用符の single か double の差について論じた.今回は,引用符の開きと閉じの習慣について歴史をひもといてみよう.
 現在の慣習では,引用符を “ で開いたら ” で閉じるというのは自明のように思われる.しかし,前の記事でみたように,本来的にこの記号は「ここから引用が始まりますよ」という合図として,欄外に置かれるマークとして出発したのだった.「ここから始まる」と言っておいて「どこそこで終わる」と言わないのは,引用者として無責任のように思われるかもしれないが,これは現代的な思考法なのかもしれない.古くは,閉じの引用符は置かれなかったのである! 書き手にとって,どこで引用が終わるかは明らかだし,読み手もそれで何とかなるだろうと,ある種の鷹揚さを持ち合わせていたかのようだ.
 話者が頻繁に交替する会話の再現が稀な時代であれば,実際,何とかなったろう.しかし,小説のようなジャンルが盛んになると,閉じない引用符の問題は深刻となる.こうして,小説が人気を獲得する18世紀に,ついに閉じの引用符が慣習的に用いられるようになった.おりしも18世紀には現代人にとっては見苦しいほど句読法を多用することが是とされたので,Murray の規範文法でも,このような2重引用符の使用が推奨されたのである.新たな文学ジャンルの発達とそれに伴う直接話法の頻用,そして当時の重めの句読法の慣習が,新しい記号使用を促進したことになる (Crystal 308--09) .
 引用符の開きと閉じの問題について,印刷家が直面したもう1つの問題があった.それは,引用が複数の段落にまたがるとき,前の段落の最後に閉じの引用符を含めるか,あるいは後の段落の最初に開きの引用符を繰り返すか,といった問題である.印刷家によっては,各段落の始めと終わりを,それぞれ開きと閉じの引用符で標示するという方法を採用した.しかし,これでは各段落で独立して引用が導入されているかのように誤読される恐れがある.現在採用されているのは,各段落の始めは改めて開きの引用符を付して引用の継続を示すが,閉じの引用符は引用全体の終末時にしか付さない,という方法だ (Crystal 310) .一見すると論理的ではないかのようだが,説明されれば,その実用性と合理性のバランスの取れていることは納得できるだろう.
 歴史的には,引用符は必ずしも閉じるのが当然ではなかったという事実に注意すべきである.かつての緩い句読法は,開きと閉じの括弧の対応が正確でないとすぐにエラーとなる現代のプログラミング言語のようなガチガチの理屈とは対極にある,実におおらかな世界の慣習だったのである.

 ・ Crystal, David. Making a Point: The Pernickety Story of English Punctuation. London: Profile Books, 2015.

Referrer (Inside): [2020-01-25-1]

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