hellog〜英語史ブログ

#2795. 「意味=指示対象」説の問題点[semantics][philosophy_of_language]

2016-12-21

 表現の意味は,それが指す何らかの対象,すなわち指示対象であるという説は,現代の意味論ではナイーブにすぎるとして受け入れられない.「エヴェレスト山」と「チョモランマ」を例に取ろう.両者は異なる表現形式である.2つは同一の山を指しているには違いないが,だからといって同じ意味をもっていると言い切ることができるだろうか.
 例えば,「太郎はチョモランマがエヴェレスト山であることを知らない」という文と,「太郎はエヴェレスト山がエヴェレスト山であることを知らない」という文とは,異なる意味をもっているように感じられる.前者は,チョモランマがエヴェレスト山の別名であることを太郎が知らない場合などに用いられるのに対し,後者は,目の前に見えている山がエヴェレスト山であることに太郎が気づいていない場合などに用いられる.しかし,「エヴェレスト山」と「チョモランマ」が同一の山を指すという点で同一の意味であると考えてしまうと,上に述べた2つの文の意味が異なる理由が説明できなくなる.
 この「意味=指示対象」という見解,より正確には「意味は指示対象によって尽くされる」という見解に疑問を投げかけたのが Gottlob Frege (1848--1925) である.服部 (16) より関連する箇所を引用しよう.

フレーゲのアイディアはこうである.語,たとえば「エヴェレスト山」という固有名はある事物,つまりエヴェレスト山そのものを指すが,それはその語の意味を尽くしてはいない.その語の意味には,その語が指すもの――彼はこれに「意味」 (Bedeutung) という名を与えた――とは別に,「意義」 (Sinn) というものがあり,語はその「意義」を通じて「意味」を指すとフレーゲは考えたのである.この場合,二つの表現が同じ「意味」(つまり指示対象)を異なる「意義」を通じて指すということも起こりうる.〔中略〕では,その「意義」とは何なのだろうか.フレーゲによれば,それは「意味」が与えられる様式にほかならない.この「「意味」が与えられる様式」というのがまた曲者で,いささか掴み所がなく,それを明らかにしなければならないのであるが,今はそれを措いておこう.


 ここでいう語の「意義」 (Sinn) とは「指示の仕方」と理解しておいてよい.これを文に拡張すれば,文の「意義」とは「文の真理値が与えられる様式」となるだろう.しかし,残念なことにフレーゲは,「指示の仕方」や「文の真理値が与えられる様式」がいかなるものなのか,その核心について明らかにしていない.
 いずれにせよ,「意味=指示対象」説が単純に受け入れられるものではないことが分かるだろう.この説の問題点については,「#1769. Ogden and Richards の semiotic triangle」 ([2014-03-01-1]),「#1770. semiotic triangle の底辺が直接につながっているとの誤解」 ([2014-03-02-1]) も参照.

 ・ 服部 裕幸 『言語哲学入門』 勁草書房,2003年.

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