hellog〜英語史ブログ     ChangeLog 最新    

phatic_communion - hellog〜英語史ブログ

最終更新時間: 2019-03-18 05:56

2017-01-13 Fri

#2818. うわさの機能 [phatic_communion][function_of_language][sociolinguistics][communication][accommodation_theory][solidarity]

 松田著『うわさとは何か』を読んだ.社会学のコミュニケーション論やメディア論の立場からの,うわさ (rumor) の分析だが,社会言語学的な観点からも関心をもって読めた.コミュニケーションを便宜的に,道具的 (instrumental) なものと自己目的的 (consummatory) なものに分けると,うわさは後者のほうに接近している.個人に関するうわさであるゴシップを考えると,内容に情報としての価値もあるにはあるが,多くの場合,ゴシップすること自体が目的である.人々はゴシップのためにわざわざ集まったり,ワイドショーを見たりするのである.
 松田 (109--10) で述べられているが,うわさには「ここだけの話だけれど」という枕詞がつくことが多い.これは参与者の間に親密な人間関係,すなわち solidarity を作り出す言語的手段であり,実際にうわさの内容の秘密性が高ければ,solidarity はさらに高まる.
 また,うわさの拡大は,参与者の「気持ちの共有」とも深く関係する(松田,p. 110).災害や戦時中にうわさやデマが広まりやすいのは,人々が同じように危機的な状況にいるからであり,その状況を解決するための情報を共有したいという事情もあるが,それ以上に,不安を解消するためにみんなと一緒にいたいという気持ちが生じる.うわさを生み出す状況と solidarity が高まる状況とは互いに助長し合う関係にある.
 松田 (113--14) は,ゴシップの3つの機能に言及している.まず,「情報機能」がある.ゴシップそのものがある人についての情報であるということだけではなく,そのゴシップから何らかの教訓を引き出した場合には,間接的な情報を得たことになる.次に,「集団規範の形成・確認機能」がある.人はあるゴシップを他人と共有することで新しい集団を作り出したり,結束を強めたりするのである(いわゆる accommodation_theory とも関連する.「#1482. なぜ go の過去形が went になるか (2)」 ([2013-05-18-1]) 話題を参照).最後に,「エンターテインメントの機能」である.人は会話の促進剤として,単に楽しいものとしてゴシップする.
 当然ながら,うわさやゴシップは言語を用いた談話 (discourse) の1つである.したがって,上記のゴシップの機能は,言語の機能の一部でもあるはずだ.言語の人間関係構築機能ということでいえば,関連して「#1771. 言語の本質的な機能の1つとしての phatic communion」 ([2014-03-03-1]),「#1071. Jakobson による言語の6つの機能」 ([2012-04-02-1]) の記事も要参照.

 ・ 松田 美佐 『うわさとは何か』 中央公論新社〈中公新書〉,2014年.

Referrer (Inside): [2017-01-14-1]

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2016-09-17 Sat

#2700. 暗号によるコミュニケーションの特性 [cryptology][communication][phatic_communion][function_of_language][semiotics]

 昨日の記事「#2699. 暗号学と言語学」 ([2016-09-16-1]) の最後に触れたように,言語はメッセージを伝えたいという欲求とともに発達してきたと考えられるにもかかわらず,一方で人類はメッセージを秘匿したいという欲求を抱き,暗号技術を発達させてきた.これは,言語によるコミュニケーションに関する一種の矛盾と考えられるかもしれない.しかし,よく考えてみると,暗号は言語コミュニケーションの本質と矛盾するというよりも,むしろそのある側面を究極に推し進めたものとみなせるのではないか.というのは,暗号コミュニケーションにおいては,ある特定の相手にだけ,という強い限定はあるものの,むしろメッセージを伝えたいという欲求はことさらに強いからである.
 実際「#1070. Jakobson による言語行動に不可欠な6つの構成要素」 ([2012-04-01-1]) の図において,中央の「ことば (message)」を「暗号」と読み替えても,この図はそのまま通用しそうである.しかし,異なるところもある.暗号コミュニケーションでは話し手と聞き手を直接つなぐ「接触 (contact)」の回路が意図的に強く限定されており,排他的であることだ.たしかに,通常の言語コミュニケーションにおいても,ある程度の排他性が想定される機会はある.例えば,ひそひそ話し,陰口,私信などでは,物理的な方法で接触が制限されている.ところが,暗号コミュニケーションでは,物理的な方法で接触を制限することも含みはするが,それ以上に重要な制限方法として「言語体系 (code) 」にひねりを加えるという手段を用いる.特定の話し手と聞き手にしか共有されない排他的なコードを用いることにより,記号論的に他者が接触できない状況を作り出しているのである.
 このように,通常の言語コミュニケーションと対比すると,暗号コミュニケーションの本質が浮き彫りになる.話し手と聞き手が,排他的なコードにより排他的な接触の関係を作り上げて排他的なコミュニケーション回路を作るというのが,暗号コミュニケーションの前提のようだ.「山」に対して「川」という合い言葉は,原始的な暗号の一種だが,これは暗号コミュニケーションにおける phatic_communion を体現するものである (see 「#1771. 言語の本質的な機能の1つとしての phatic communion」 ([2014-03-03-1]),「#1071. Jakobson による言語の6つの機能」 ([2012-04-02-1])) .暗号を記号論的に論じてみるのもおもしろそうだ.

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2014-10-21 Tue

#2003. アボリジニーとウォロフのおしゃべりの慣習 [ethnography_of_speaking][sociolinguistics][phatic_communion]

 「#1633. おしゃべりと沈黙の民族誌学」 ([2013-10-16-1]),「#1644. おしゃべりと沈黙の民族誌学 (2)」 ([2013-10-27-1]),「#1646. 発話行為の比較文化」 ([2013-10-29-1]) で,世界のいくつかの文化におけるおしゃべりと発話行為を比較した.今回は,人類言語学の概説書を著わした Foley を参照し,オーストラリアのアボリジニー (Aborigine) からの例と,セネガルのウォロフ族 (Wolof) からの例を追加し,おしゃべりの民族誌学 (ethnography_of_speaking) のヴァリエーションを味わいたい.
 ヨーロッパ系の文化を受け継ぐオーストラリアの白人は,会話において日本人とも大きく異ならない一連の慣習に従っている.通常,発話は特定の聞き手に向けられ,目を合わせることが多い.発話はおよそ順繰りに一人ひとりに番が回ってきて,同時に複数の話者が発話することは避けられる傾向がある.会話の輪に入っていくときと抜けるときには,何らかの挨拶が交わされるのが普通である.そして,知識や情報は広く共有されるべきとの前提で会話が進行する.このようなおしゃべりの慣習は,それを日頃実践している者にとってはあまりに当然のように思われ,同じ慣習が世界のおよそすべての言語文化にもあてはまるだろうと信じている.
 しかし,オーストラリアのアボリジニーは異なるおしゃべりの作法を示す.発話は特定の聞き手に向けられるというよりは,誰にともなく "broadcast" され,互いに視線を合わせることも要求されない.聞き手も自分に向けられた発話ではないのだから,必ずしも応答する義務を負わない.気が向いたら応答するにすぎない.また,しゃべる順番にも特別な規範はない.会話の輪への出入りに際しても,互いに挨拶を交わすでもなく,静かに入り,静かに抜けていくのが通常だ.Foley (253) が別の研究者より引用したアボリジニーの典型的な会話風景を再現しよう.

A group of men is sitting on a beach facing the sea. They are there for some hours and little is said. After a long period of silence someone says: "Tide's coming in." Some of the group murmur "Yes" but most remain silent. After another very long pause someone says "Tide's coming in". And there is some scattered response. This happens many times until someone says: "Must be tide's going out."


 さて,オーストラリアでは,ヨーロッパの慣習に則った法廷訴訟が行われている.しかし,そのような法廷訴訟は,著しく異なるおしゃべり文化をもつアボリジニーにとって明らかに不利な前提を含んでいる.アボリジニーが証人として立たされ,質問を受けている場面を想定しよう.証人は,質問が自分に対して向けられているとは意識せず,応答する必要を感じないかもしれない.それどころか,傍聴者の別のアボリジニーが応答してしまう可能性がある.別の場合には,証人が長々とした独話を誰に向けてともなく始めてしまうこともありうる.これらの行為は,アボリジニーのおしゃべりに関する慣習への理解が不足していれば,いずれも法廷への侮辱行為とみなされうる.さらに,アボリジニーの文化では,特定の知識や情報を開示する権利は,親族関係や仲間入りの儀式によって許可された者のみに与えられるため,その権利をもたない証人は,たとえ重要な証拠を知っていたとしても,法廷で開示することを拒むかもしれない.そして,そのような証人は,非協力的であるとみなされかねない.前提とすべきおしゃべり文化の違いにより,思ってもみない摩擦が生じることもありうるのである.
 私たちにとって異質に見えるおしゃべり文化を示す2つ目の例として,セネガルのウォロフ族を取り上げよう.とりわけ彼らの出会いの挨拶に関する社会言語学的戦略は,説明だけ聞いていると,息苦しいほどだ.Foley (256--58) によると,ウォロフ族の2人が出会うときには必ず挨拶をするのだが,どちらがどちらに先に声を掛けるかにより,2人の間の社会関係が一時的あるいは持続的に決定してしまうという.ウォロフの社会では,貴族と庶民の2階層が区別され,前者には受動的でおとなしい役割が,後者には能動的でおしゃべりの役割がそれぞれ社会的に付与されている.挨拶においても,たとえ擬似的にであれ2人の間の上下関係が確定しなければ先へ進むことができないため,おしゃべり役を買って下手に出る者から挨拶の言葉が発せられることになる.一方,挨拶された方は,寡黙で上手の役割を演じることを期待され,それに応じたやりとり(挨拶した側が質問し,挨拶された側が答えるという役割分担など)が続くことになる.ただし,上手役は,演技上のみならず実際的にも社会的に上位であることが含意されるので,例えば経済的な援助を施すことなどが期待されてしまう.挨拶の出方によってとりあえず確定した上下関係は,会話を通じて,別の戦略(挨拶の一からのやり直しや逆質問など)によって逆転させたり再定義したりもできるが,そこで複雑な交渉と心理戦が展開されることになるかもしれない.はたからみると,挨拶ひとつが実に厄介な出来事となりうるのである.
 挨拶が2人の間の関係を確認し合いコミュニケーションの回路を開くのを助けるという機能,すなわち phatic_communion の役割を担っていることは,ウォロフでも日本でも欧米でも同じである.しかし,ウォロフでは,挨拶はもっと積極的に2人の社会的な上下関係を確定するという役割を担っている点が特異である.
 ウォロフ語については,「#1623. セネガルの多言語市場 --- マクロとミクロの社会言語学」 ([2013-10-06-1]) も参照されたい.

 ・ Foley, William A. Anthropological Linguistics: An Introduction. Malden, MA: Blackwell, 1997.

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2014-03-03 Mon

#1771. 言語の本質的な機能の1つとしての phatic communion [pragmatics][function_of_language][phatic_communion]

 この2日間の記事「#1769. Ogden and Richards の semiotic triangle」 ([2014-03-01-1]) と「#1770. semiotic triangle の底辺が直接につながっているとの誤解」 ([2014-03-02-1]) で,Ogden and Richards の The Meaning of Meaning から話題を取った.同著に影響を受けた言語論として,ポーランド生まれの米国の社会人類学者 Malinowski を挙げないわけはにいかない.Malinowski は,phatic communion という用語の生みの親である.
 言語の機能の1つとしての phatic communion については,「#523. 言語の機能と言語の変化」 ([2010-10-02-1]) や「#1071. Jakobson による言語の6つの機能」 ([2012-04-02-1]) で触れた程度だが,Malinowski によれば,この機能は言語の諸機能のなかでも最も原始的,本質的なものである.一般に言語は "an instrument of thought" とみなされがちだが,むしろそれ自体が社会的な行為であるところの "a mode of action" であると,Malinowski は主張する.phatic communion は後者の代表例であり,とりわけ原始社会における言語機能の大部分を占める.西洋近代に代表される文明社会では,phatic communion は,言語の "an instrument of thought" としての機能の陰で比較的目立たなくなっているように思われるが,実際には挨拶,相づち,無駄話しなどの形態で脈々と生き続けている.
 Malinowski (315) による,phatic communion のオリジナルの定義を示そう.

   There can be no doubt that we have here a new type of linguistic use---phatic communion I am tempted to call it, actuated by the demon of terminological invention---a type of speech in which ties of union are created by a mere exchange of words. Let us look at it from the special point of view with which we are here concerned; let us ask what light it throws on the function or nature of language. Are words in Phatic Communion used primarily to convey meaning, the meaning which is symbolically theirs? Certainly not! They fulfil a social function and that is their principal aim, but they are neither the result of intellectual reflection, nor do they necessarily arouse reflection in the listener. Once again we may say that language does not function here as a means of transmission of thought.
   But can we regard it as a mode of action? And in what relation does it stand to our crucial conception of context of situation? It is obvious that the outer situation does not enter directly into the technique of speaking. But what can be considered as situation when a number of people aimlessly gossip together? It consists in just this atmosphere of sociability and in the fact of the personal communion of these people. But this is in fact achieved by exchange of words, by the specific feelings which form convivial gregariousness, by the give and take of utterances which make up ordinary gossip. The whole situation consists in what happens linguistically. Each utterance is an act serving the direct aim of binding hearer to speaker by a tie of some social sentiment or other. Once more language appears to us in this function not as an instrument of reflection but as a mode of action.


 狭い意味での phatic communion は,話者と聴者の間に,言語による通信の回路が開かれているかどうかを確認・追認するための言語使用とも言いうる.例えば,マイクテストでの「本日は晴天なり,本日は晴天なり」や,電波状況の悪い通話での「おーい,聞こえるか」も phatic communion と言えるだろう.しかし,Malinowski の念頭にある phatic communion は,内容ではなく言語使用それ自体が社会的な意味をもつケースにおける言語機能を広く指している.挨拶,相づち,無駄話しなどは,言語によって実現されるという特殊事情があるだけで,人と人との交感に資するという点では,飲み会,デート,団らん,スキンシップなどの行為と同じ目的をもっているのである.

 ・ Malinowski, Bronislaw. "The Problem of Meaning in Primitive Languages." Supplement 1. The Meaning of Meaning. C. K. Ogden and I. A. Richards. San Diego, New York, and London: Harcourt Brace Jovanovich, 1989. 296--336.

Referrer (Inside): [2017-01-13-1] [2016-09-17-1]

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2013-08-08 Thu

#1564. face [face][politeness][terminology][euphemism][honorific][phatic_communion][t/v_distinction][solidarity]

 「#1559. 出会いと別れの挨拶」 ([2013-08-08-1]) で触れた Goffman の face-work の理論は,近年の語用論や社会言語学で注目される politeness 研究において有望な理論とみなされている.
 言語によるコミュニケーションにせよ,その他の社会的な交流にせよ,人は肉体的,精神的なエネルギーを費やしながらそれに従事している.だが,なぜ人はわざわざそのようなことをするのだろうか.社会から課される種々の制限を受け入れてまで,交流を図るのはなぜだろうか.自らの欲求を満たすためにそうするのだというのであれば理解できるが,例えば phatic communion (交感的言語使用)はどのようにして欲求の満足に関係するというのだろうか.アメリカの社会学者 Goffman は,人はみな face という概念をもっており,それを尊重し合うという行為 (face-work) によって社会生活を営んでいると主張した.Goffman (213) の定義によると,face とは次のようなものである.

The term face may be defined as the positive social value a person effectively claims for himself by the line others assume he has taken during a particular contact. Face is an image of self delineated in terms of approved social attributes---albeit an image that others may share, as when a person makes a good showing for his profession or religion by making a good showing for himself.


 日本語にも「面目を失う」「面子を重んずる」などの表現があるので face の概念は分かりやすいだろう.英語にも "to lose/save face" という言い方がある.
 face-work の理論の骨子は,Hudson (113--14) が以下の通りに述べている.

The basic idea of the theory is this: we lead unavoidably social lives, since we depend on each other, but as far as possible we try to lead our lives without losing our own face. However, our face is a very fragile thing which other people can very easily damage, so we lead our social lives according to the Golden Rule ('Do to others as you would like them to do to you!') by looking after other people's faces in the hope that they will look after ours. . . . Face is something that other people give to us, which is why we have to be so careful to give it to them (unless we consciously choose to insult them, which is exceptional behaviour).


 人には自他ともに認める「面子」がある.自分はそれを宣伝し,失わないように努力していると同時に,他人もそれを立て,傷つけないように努力している.これが,face-work の原理だ.
 Brown and Levinson の politeness の研究以来,face には positive face と negative face の2種類が区別されると言われる.両者ともに自他の尊重を表わすが,前者はその人への尊重を示すこと,後者はその人の権利を尊重することに対応する.だが,この区別は必ずしも分かりやすいものではない.Hudson は代わりにそれぞれを solidarity-face と power-face と呼びかえている (114) .

Solidarity-face is respect as in I respect you for . . ., i.e. the appreciation and approval that others show for the kind of person we are, for our behaviour, for our values and so on. If something threatens our solidarity-face we feel embarrassment or shame. Power-face is respect as in I respect your right to . . ., which is a 'negative' agreement not to interfere. This is the basis for most formal politeness, such as standing back to let someone else pass. When our power-face is threatened we feel offended. . . . Solidarity-politeness shows respect for the person, whereas power-politeness respects their rights.


 親しい者に呼びかける mate, love, darling, Hi! などは solidarity-politeness の例であり,目上の人に呼びかける敬称,please などの丁寧化表現,婉曲語法などは power-politeness の例である.英語に T/V distinction があった時代の親しみの thou と敬いの you は,向きこそ異なれ,いずれも相手の face を尊重する politeness の行為だということになる.
 関連して,「#1059. 権力重視から仲間意識重視へ推移してきた T/V distinction」 ([2012-03-21-1]) と「#1552. T/V distinction と face」 ([2013-07-27-1]) の記事,および「#1126. ヨーロッパの主要言語における T/V distinction の起源」 ([2012-05-27-1]) に張ったリンク先の記事を参照されたい.「顔」についての日本語の読みやすい文献としては,岡本真一郎の『言語の社会心理学 伝えたいことは伝わるのか』の第3章を挙げておこう

 ・ Goffman, Erving. "On Face-Work: An Analysis of Ritual Elements in Social Interaction." Psychiatry 18 (1955): 213--31.
 ・ Hudson, R. A. Sociolinguistics. 2nd ed. Cambridge: CUP, 1996.
 ・ 岡本 真一郎 『言語の社会心理学 伝えたいことは伝わるのか』 中央公論新社〈中公新書〉,2013年.

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2013-08-03 Sat

#1559. 出会いと別れの挨拶 [function_of_language][politeness][face][phatic_communion]

 言語の重要な機能の1つに,phatic communion (交感的言語使用)がある.情報交換というよりは,相手との関係を構築・維持するための発話で,「波長合わせ」と考えるとわかりやすい.挨拶がその典型であり,用いられる言語形式はたいてい儀式的だが,儀式的というよりは儀式そのものと考えるほうが適切かもしれない.では,なぜ挨拶という儀式は必要なのだろうか.例えば,出会いと別れの挨拶は日常において,任意というよりは必須である.なぜ人々は儀式を演じる必要があるのだろうか.
 多くの通常のコミュニケーションでは,まず出会いの挨拶が交わされ,コミュニケーションの本体が続き,別れの挨拶が交わされて終了する.普通,出会いと別れの挨拶はこの順序でセットとして理解されているが,発想を転換して,まず別れの挨拶が交わされ,コミュニケーションの不在が続き,出会いの挨拶が交わされる,と考えてみよう.妙な順序のように思われるが,ここでおもしろい洞察が得られる.コミュニケーションの不在が短いと予想されるとき,例えば明日にも再会するはずの相手との別れの場面では,「じゃあね」「バイバイ」と軽く済ませることが多いが,長い間会うことはないだろうと予想されるとき,例えば海外赴任で向こう3年間会えないかもしれないという場面では,軽く済ませずに,言葉を尽くして別れの挨拶が述べられる.言葉で述べるだけでなく,はなむけの品を用意したり,お別れ会を設定するなどの労を取ることすらある.永遠の別れ(死別)に至っては,残された者は,言語においても行為においても,葬儀という儀式の限りを尽くすのである.
 一般に,次に続く不在期間の長さに比例して,別れの挨拶や儀式の長さが増す.同様に,ある期間をおいて次に再会するとき,その不在期間の長さに比例して,出会いの挨拶や儀式の長さが増すということも,誰しも経験から知っている.face-work を理論化した Goffman は,次のように述べている.

Greetings provide a way of showing that a relationship is still what it was at the termination of the previous coparticipation, and, typically, that this relationship involves sufficient suppression of hostility for the participants temporarily to drop their guards and talk. Farewells sum up the effect of the encounter upon the relationship and show what the participants may expect of one another when they next meet. The enthusiasm of greetings compensates for the weakening of the relationship caused by the absence just terminated, while the enthusiasm of farewells compensates the relationship for the harm that is about to be done to it by separation. (229)


 長い不在期間中に,相手との間にそれまで構築してきた社会的関係の強さが逓減してゆくことは避けられない.その見込まれる減少分を先に埋め合わせておこうとするのが別れの儀式であり,実際の減少分を後から補おうとするのが再会の儀式なのではないか.言葉による挨拶は,別れと出会いに際する種々の儀式の一部をなす.このような現象は,言語のもつ情報交換以外の役割,すなわち社会的関係を構築・維持する役割を再確認させてくれる点で,広くいえば社会言語学に属する話題といってよいだろう.狭くいえば,言語の社会心理学という分野の話題である.

 ・ Goffman, Erving. "On Face-Work: An Analysis of Ritual Elements in Social Interaction." Psychiatry 18 (1955): 213--31.

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2012-04-02 Mon

#1071. Jakobson による言語の6つの機能 [linguistics][function_of_language][phatic_communion]

 昨日の記事「#1070. Jakobson による言語行動に不可欠な6つの構成要素」 ([2012-04-01-1]) の最後に触れたように,Jakobson によると,言語行動の6つの構成要素はそれぞれ言語の機能に緩やかに対応する.鈴木 (69--78) の要約に従って説明を加えたい.

 (1) 表出.第1の構成要素である話し手に対応する言語の機能は,思考や感情などの表出である.話し手は,自己の内部の変化を外部へと押し出し (express) て,発話する.「アッ」「イテッ」等の間投詞は純粋に表出的である.突然「やめろ!」と叫ぶときにも感情は表出しているが,聞き手に対する具体的な働きかけも兼ねているので,次の (2) との複合と考えられる.
 (2) 他動.第2の構成要素である聞き手に対応するのは,聞き手への働きかけという機能である.聞き手の反応は,ことばによる返答かもしれないし,行動による応答かもしれないし,外からは判別できない微妙な心理変化かもしれない.これらの反応を広義の行動ととらえれば,話し手の発言は,聞き手に訴えかけ,何らかの行動を促していることになる.命令,挑発,皮肉,お世辞,感動のスピーチなどは,言語の他動の機能と密接に関わる.
 (3) 描写.第3の構成要素である事物・現象に対応する.話し手は,言語を通じて外の世界で生じていることを解釈,記述,叙述,言及,記録する.描写は,通常,言語の最たる機能とみなされており,ことさら説明を要しないだろう.
 (4) 詩的機能.第4の構成要素であることばそのものに注目した機能である.この機能が活躍する典型的な場として詩を考えよう.詩には,描写や表出に力点を置く叙事詩や叙情詩などもある.しかし,鈴木 (73--74) の言葉を借りれば,「おしなべて詩が他の形式の文学,さらには一般の散文と異なるところは,リズム,韻律,反復繰り返しといった独特の手法で,ことばという音声素材のもつ美しさを,極限まで引き出す努力がなされる点にある」.詩ではなく通常の言語使用の場でさえ,私たちは調子や語呂を尊ぶし,冗談やしゃれも大好きである.詩的機能とは,何を言うかではなくどのように言うかを重視する,言語の自己実現の機能ということができるだろう.
 (5) 交話.第5の構成要素である接触に関わるのが交話 (phatic) の機能である.言語行動の構成要素としての接触とは,話し手と聞き手の双方が,意思疎通において「波長」を合わせている状態である.交話とは,この波長合わせの機能にほかならない.挨拶や各種の社交辞令は,その伝達内容が重要なのではなく,それを取り交わす行為そのものが波長合わせのために重要なのである.しばしば無駄話しとみなされる,雑談,おしゃべり,井戸端会議も,共同体の一体感を高める波長合わせの働きをもっている.波長合わせの会話は,むしろ内容が希薄であるほうが,交話機能に特化させられ,その目的にとっては都合がよい.small talk に,天気や当たり障りのない話題が選ばれやすいのはそのためだろう.
 (6) メタ言語.第6の構成要素である言語体系に関連するのは,言語について語るという言語の機能である.(3) の描写が言語の外の世界を語ることであるのに対して,メタ言語の機能は言語そのものを語ることである.「この単語の意味は何?」「お名前のヨウコさんってどういう漢字?」「この文の主語を指摘しなさい」「あの人の言葉遣いが気にくわない」など,言語を語るのに言語を用いる機会はことのほか多い.

 以上が,よく知られている言語の6機能だが,これで言語の機能が尽くされているというわけではない.言語には,話し手の聞き手への配慮を示す待遇表現や,自らの置かれている帰属,立場,状況を含意する表現が豊富に備わっている.これらの社会言語学的・語用論的な表現のもつ機能は,(1), (3), (5) の機能を組み合わせたものとも考えられるが,独立した機能として別項を立てることもできるのではないか.
 なお,言語の機能を Jakobson より細分化して8機能とする説もある.[2010-10-02-1]の記事「#523. 言語の機能と言語の変化」を参照.

 ・ 鈴木 孝夫 『教養としての言語学』 岩波書店,1996年.

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

2010-10-02 Sat

#523. 言語の機能と言語の変化 [function_of_language][language_change][phatic_communion]

 ヒトの言語には様々な機能がある.言語学概論で習うことだが,言語はコミュニケーションのためだけにあるわけではない.Hinzen (128) より,言語の機能を列挙してみよう.

 (1) 何かを指し示すこと ( reference )
 (2) 自然現象(事実)の記録 ( the recording of natural phenomena (facts) )
 (3) 思考の表現 ( the expression of one's thoughts )
 (4) 創造的想像 ( creative imagination )
 (5) 他人を操作すること ( the manipulation of others )
 (6) メタ言語的機能 ( the metalinguistic function (using language to talk about language itself ) )
 (7) 交感的機能 ( the phatic function (establishing and maintaining contact) )
 (8) 詩的機能 ( the poetic function )

 (7) の "phatic" については,9月26日の Merriam-Webster's Word of the Day でこの語を取り上げていたので,そちらを参照すると次のようにある.

adjective : of, relating to, or being speech used for social or emotive purposes rather than for communicating information


 要するに,相手との関係を構築・維持するための発話で,実質的な情報交換は伴わない.How are you? --- Fine, thank you. And you? --- Fine, thank you. の類が典型である.言葉に詰まったときの「今日も暑いですねえ」も同様だ.
 言語にこれだけの機能があると,言語はコミュニケーションのためというよりも,むしろ別の目的で使われていることのほうが多いのではないかという疑問が生じる.言語の起源と進化に関する近年の研究によれば,そもそもコミュニケーションを言語の機能の1つとして認めてよいかどうかすら怪しいという.上記のリストでも,ずばり「コミュニケーション」という項目は含まれていない.

Whether communication is a distinct function additional to all these, or simply an abstraction denoting one joint overall effect of several of them on certain occasions, is unclear. It is certainly true that we continuously use language without quite literally 'communicating our thoughts' or wanting to do so in talking to others, let alone in talking to ourselves. We may be just talking for social reasons, for purposes of manipulation, or for fun. (Hinzen 128)


 言語がコミュニケーションのためにあるのかないのかという議論は「コミュニケーション」をどのように定義するかにかかっている.例えば,池内 (144) による次の定義を仮定してみよう.

話し手と聞き手との間でことばによる情報や意思の伝達・交換が行われ,それによって相互理解・共通理解がなされる,あるいは,図られること。


 この定義を受け入れるとすると,上記 (1) から (8) の言語の機能のなかでコミュニケーションを果たすことができるものは (1), (2), (3) くらいで,それも部分的にだろう.定義上,一方向の会話や文章はすべて非コミュニケーションになるから,このブログの文章も大学の講義もコミュニケーションではないことになる.
 言語の機能が何であるかを探り理解することは,言語の進化や変化を論じる上でも決定的な意味をもつ.というのは,言語変化は言語の機能を大きく損なわない範囲で生じるということが仮定できるからだ.あるいは,もし言語の機能を損なうような言語変化があるのであれば,ヒトにとって言語とは何なのかを改めて考える契機となる.
 確かにコミュニケーションを阻害する方向への言語変化というのは多々ある.音素の融合だとか同音異義語の形成などがそうだ.もし言語が真にコミュニケーションのために存在するのであれば,このような言語変化は起こらないはずだ.
 言語はコミュニケーションのためにあるという常識は一体どのくらい妥当なのだろうか.

 ・ Hinzen, Wolfram. Mind Design and Minimal Syntax. Oxford: OUP, 2006.
 ・ 池内 正幸 『ひとのことばの起源と進化』 〈開拓社 言語・文化選書19〉,2010年.

[ | 固定リンク | 印刷用ページ ]

Powered by WinChalow1.0rc4 based on chalow