もしかすると英会話で最も頻出する表現は I want to . . . かもしれない.少なくともトラベル英会話では,少し丁寧な I'd like to . . . と並んで最重要表現の1つであることは間違いない.これさえ使いこなせれば最低限の用を足せるのではないかと思われるほどの基本表現である.実際「#2096. SUBTLEX-US Word Frequency List」 ([2015-01-22-1]) による語彙の頻度リストによれば,want はなんと62位である.超高頻度の単語といってよい.
実はこの want という頻出語に注目するだけで,かなり多くのことを論じることができる.少々おおげさではあるが「want の英語史」を展開することが可能なのである.というわけで,今日から何回かにわたって「want の英語史」のシリーズをお届けする.初回となる今回は,want の語源と意味変化 (semantic_change) に注目する.
want は語源的にいえばそもそも純粋な英単語ではない.これほど高頻度の単語が英語本来語でないというのは驚きだが,事実である.この動詞は古ノルド語 (old_norse) からの借用語だ(「#2625. 古ノルド語からの借用語の日常性」 ([2016-07-04-1]) を参照).古ノルド語の動詞 vanta (?を欠いている)に由来するが,これ自体はゲルマン祖語の *wan-,さらには印欧祖語の *wā にさかのぼる.月の満ち欠けの「欠け」を意味する wane や,ラテン語 vānus (empty) に由来する vain もこの印欧語根を共有している.原義は「欠けている」である.
古ノルド語の動詞 vanta が英語では wante(n) として受容されたが,その時期は1200年頃のことである.そこでの語義はやはり「欠いている」であり,ほぼ同時期に名詞として受け入れた際の語義も「欠乏」だった.つまり,当初は「欲する」の語義はなく,中英語期には専ら「欠いている」を意味するにとどまった.
中英語期も終わりに近づいた15世紀後半に「必要である」の語義が生じた.欠けている大事なものがあれば,当然人はそれを必要とするからだ.この意味変化は,フランス語の il me faut (原義は「私には?が欠けている」だが,「私には?が必要だ」の意味で用いられる)にも類例がみられる.近代英語期に入ると,連動して名詞にも「必要」の語義が加わった.さらに続けて,あるものが必要となれば,人はそれを欲するのが道理だ.そこで「欲する」の語義がさらに付け加わわることになった.欠けていれば,それを必要とし,さらにそれを欲するようになるという連鎖は,きわめて自然な因果関係である.メトニミー (metonymy) による意味変化の例といってよい.
ところで,この「欲する」という新しい語義での初出は OED によると1621年のことである.want to do に至っては初例が1698年である.さらに確かな例の出現ということでいえば,18世紀を待たなければならなかったといってよい.現在では超がつくほど頻度の高い語句となっているが,その歴史はおそらく300年ほどしかないということになる.何とも驚きの事実だ.
「馬から落馬する」「後の後悔」の類いの重言(重ねことば)は,英語では "redundancy", "pleonasm", "tautological expression" などと言及される.Usage and Abusage の "TAUTOLOGY" の項目の下に,この種の句がいろいろと挙げられている.長いリストだが,おもしろいので以下に引用しよう.
adequate enough, and etc., appear on the scene, ascend up, at about (e.g. 3 p.m.), attach together, attached hereto, both alike, burn down and burn up, classified into classes, collaborate together, connect together and connect up, consolidate together, continue on and continue yet, co-operate together, couple together, debate about (v.), descend down, discuss about, divide off and divide up, drink up and drink down, early beginnings, eat up, enclosed herewith (or herein), end up, equally as, file away (commercially), final completion, final upshot, finish up (v.t. and v.i.), first begin, flood over, follow after, forbear from, forbid from, free, gratis, and for nothing, fresh beginner, from hence, from thence, from whence, funeral obsequies, gather together, good benefit, have got (for 'have' or 'possess'), hoist up, hurry up, important essentials, in between, indorce on the back, inside of, join together, joint co-operation, just exactly, just merely, just recently, lend out, link together, little birdling, meet together, mention about, merge together, mingle together, mix together, more inferior, more preferable, more superior, mutual co-operation, necessary requisite, new beginner, new creation, new departure and entirely new departure, new innovation, not a one, (it) now remains, open up (v.t.), original source, outside of, over again, over with (done, ended, finished), pair of twins, past history, peculiar freak, penetrate into, plan on (v.), polish up, practical practice, (one's) presence on the scene, proceed on(ward), protrude out, raze to the ground, really realize, recall back, reduce down, refer back, relax back, remember of, render a return, renew again, repay back, repeat again, repeat the same (e.g. story), (to) rest up, retire back, return back, revert back, revive again, rise up, seldom ever, (to) separate apart, settle up, shrink down and shrink up, sink down, steady on!, still continue, still more yet, still remain, study up, sufficient enough, swallow down, taste of (for taste, v.), termed as, than what, this next week, twice over, two halves (except when from different wholes), two twins (of one pair), uncommonly strange, unite together, used to (do something) before, we all and you all, where at, where to, whether or not, widow woman, young infant
なるほどと思うものもあるが,めくじらを立てるほどでもない例や,語義や語源を厳密に解釈しすぎた語源論法風の屁理屈な例もある (cf. 「#720. レトリック的トポスとしての語源」 ([2011-04-17-1])) .たとえば meet together など together を伴う例が多いが,動詞にその意味が埋め込まれているかどうかは当該の動詞の(統語)意味論の問題であり,記述言語学の立場からは,意味が通時的に変化してきた(あるいは共時的に変異している)と解釈することもできるのである.規範は規範であるというのは認めるにせよ,一方で記述は記述という立場もあり得ることは押さえておきたい.
これらの冗長表現は,論理的には無駄が多いということになるが,修辞的にはある種の効果(強調,念押し,曖昧さの回避など)を担っており,それ自体に存在意義がないというのは言い過ぎだろう.だからといって,私ももちろん手放しに容認しているわけではない.社会的にはスティグマを伴うため,使用が一般的には推奨されない,といっておくのが現実的なところだろう.言葉は一面的には評価できない難しい代物なのだ.
・ Partridge, Eric. Usage and Abusage. 3rd ed. Rev. Janet Whitcut. London: Penguin Books, 1999.
昨日の記事「#3843. なぜ形容詞・副詞の「原級」が "positive degree" と呼ばれるのか?」 ([2019-11-04-1]) や「#3835. 形容詞などの「比較」や「級」という範疇について」 ([2019-10-27-1]) で,形容詞・副詞の比較 (comparison) について調べている.以下は『新英語学辞典』の comparison の項からの要約にすぎないが,Kruisinga (Handbook, Vol. 4, §§1734--41) による比較級の4用法を紹介しよう.
(i) 対照比較級 (comparative of contrast)
a younger son における比較級 younger は,an elder son の elder を念頭に,それと対照的に用いられている.How slow you are! Try and be a little quicker. のように,テキスト中に明示的に対照性が示される場合もある.一方,unique, real, right, wrong などの形容詞は本来的に対照的な意味を有しており,それゆえに対照比較級をとることはない.
(ii) 優勢比較級 (comparative of superiority)
2者について同じ特徴をもつが,一方が他方よりも高い程度を表わす場合に用いられる.He worked harder than most men. のような一般的な比較文がこれである.対照比較級の特別な場合と考えることもできる.
(iii) 比例比較級 (comparative of proportion)
平行する2つの節で用いられることが多く,同じ比率で増加・減少する性質を表現する.The more he contemplated the thing the greater became his astonishment. や You grow queerer as you grow older. や Life seemed the better worth living because she had glimpsed death. などの例があがる.
(iv) 漸層比較級 (comparative of graduation)
ある性質が漸次増加・減少することを表わすのに and を用いて比較級を重ねるもの.The road got worse and worse until there was none at all. など.worse and worse とする代わりに even worse などと副詞を添える場合もあるし,worse 1つを単独で用いる場合もある.
比較級を意味論的に分類してみると興味深い.これらの歴史的発達も調べてみるとおもしろそうだ.
・ 大塚 高信,中島 文雄 監修 『新英語学辞典』 研究社,1987年.
語彙がその言語を用いる共同体の関心事を反映しているということは,サピア=ウォーフの仮説 (sapir-whorf_hypothesis) や Humboldt の「世界観」理論 (Weltanschauung) でも唱えられてきた通りであり,言語について広く関心をもたれる話題の1つである(「#1484. Sapir-Whorf hypothesis」 ([2013-05-20-1]) を参照) .
言語学には語彙論 (lexicology) という分野があるが,この研究(とりわけ歴史的研究)が有意義なのは,1つには上記の前提があるからだ.Kastovsky (291) が,この辺りのことを上手に言い表わしている.
It is the basic function of lexemes to serve as labels for segments of extralinguistic reality that for some reason or another a speech community finds noteworthy. Therefore it is no surprise that even closely related languages will differ considerably as to the overall structure of their vocabulary, and the same holds for different historical stages of one and the same language. Looked at from this point of view, the vocabulary of a language is as much a reflection of deep-seated cultural, intellectual and emotional interests, perhaps even of the whole Weltbild of a speech community as the texts that have been produced by its members. The systematic study of the overall vocabulary of a language is thus an important contribution to the understanding of the culture and civilization of a speech community over and above the analysis of the texts in which this vocabulary is put to communicative use. This aspect is to a certain extent even more important in the case of dead languages such as Latin or the historical stages of a living language, where the textual basis is more or less limited.
したがって,たとえば英語歴史語彙論は,過去1500年余にわたる英語話者共同体の関心事(いな,世界観)の変遷をたどろうとする壮大な試みということになる.そのような試みの1つの結実が,OED のような歴史的原則に基づいた大辞典ということになる.
語彙が世界観を反映するという視点は言語相対論 (linguistic_relativism) の視点でもあるし,対照言語学的な関心を呼び覚ましてもくれる.そちらに関心のある向きは,「#1894. 英語の様々な「群れ」,日本語の様々な「雨」」 ([2014-07-04-1]),「#1868. 英語の様々な「群れ」」 ([2014-06-08-1]),「#2711. 文化と言語の関係に関するおもしろい例をいくつか」 ([2016-09-28-1]),「#3779. brother と兄・弟 --- 1対1とならない語の関係」 ([2019-09-01-1]) などを参照されたい.一方,単純な語彙比較とそれに基づいた文化論に対しては注意すべき点もある.「#364. The Great Eskimo Vocabulary Hoax」 ([2010-04-26-1]),「#1337. 「一単語文化論に要注意」」 ([2012-12-24-1]) にも目を通してもらいたい.
・ Kastovsky, Dieter. "Semantics and Vocabulary." The Cambridge History of the English Language. Vol. 1. Ed. Richard M. Hogg. Cambridge: CUP, 1992. 290--408.
なぜ英語では兄と弟の区別をせず,ひっくるめて brother というのか.よく問われる素朴な疑問である.文化的な観点から答えれば,日本語社会では年齢の上下は顕点として重要な意義をもっており,人間関係を表わす語彙においてはしばしば形式の異なる語彙素が用意されているが,英語社会においては年齢の上下は相対的にさほど重要とされないために,1語にひっくるめているのだ,と説明できる.日本語でも上下が特に重要でない文脈では「兄弟」といって済ませることができるし,逆に英語でも上下の区別が必要とあらば elder brother や younger brother ということができる.しかし,デフォルトとしては,英語では brother,日本語では兄・弟という語彙素をそれぞれ用いる.
よく考えてみると,brother 問題にかぎらず,大多数の日英語の単語について,きれいな1対1の関係はみられない.一見対応するようにみえる互いの単語の意味を詳しく比べてみると,たいてい何らかのズレがあるものである.そうでなければ,英和辞典も和英辞典も不要なはずだ.単なる単語の対応リストがあれば十分ということになるからだ.
安藤・澤田 (237--38) が,以下のような例を引いている.
上段の brother, rice, give のように,英語のほうが粗い区分で,日本語のほうが細かい例もあれば,逆に下段のように英語のほうが細かく,日本語のほうが粗い例もある.その点ではお互い様である.日英語の比較にかぎらず,どの2言語を比べてみても似たようなものだろう.多くの場合,意味上の精粗に文化的な要因が関わっているという可能性はあるにしても,それ以前に,言語とはそのようなものであると理解しておくのが妥当である.この種の比較対照の議論にいちいち過剰に反応していては身が持たないというくらい,日常茶飯の現象である.
関連する日英語の興味深い事例として「#1868. 英語の様々な「群れ」」 ([2014-06-08-1]),「#1894. 英語の様々な「群れ」,日本語の様々な「雨」」 ([2014-07-04-1]) や,諸言語より「#2711. 文化と言語の関係に関するおもしろい例をいくつか」 ([2016-09-28-1]) の事例も参照.一方,このような事例は,しばしばサピア=ウォーフの仮説 (sapir-whorf_hypothesis) を巡る議論のなかで持ち出されるが,「#1337. 「一単語文化論に要注意」」 ([2012-12-24-1]) という警鐘があることも忘れないでおきたい.
・ 安藤 貞雄・澤田 治美 『英語学入門』 開拓社,2001年.
昨日の記事 ([2019-08-24-1]) で Wittgenstein の言語ゲーム (Sprachspiel, language-game) に触れた.Bussmann (262) の用語辞典の定義によると次の通り.
language game
L. Wittgenstein's term referring to complex units of communication that consist of linguistic and non-linguistic activities (e.g. the giving of and complying with commands in the course of collaborating on the building of a house). Signs, words, and sentences as 'tools of language' have in and of themselves no meaning; rather meaning is derived only from the use of these items in particular contexts of language behavior.
論理実証主義 (logical positivism) から転向した後の Wittgenstein の,このような コンテクスト重視の言語観や意味観は,後の日常言語哲学 (ordinary language philosophy) に大きな影響を与え,発話行為 (speech_act) を含めた語用論 (pragmatics) の発展にも貢献した."the meaning of a word is its use in the language" という意味のとらえ方は,なお問題があるものの,1つの見解とみなされている.
意味の意味に関連して「#1782. 意味の意味」 ([2014-03-14-1]),「#1990. 様々な種類の意味」 ([2014-10-08-1]),「#2199. Bloomfield にとっての意味の意味」 ([2015-05-05-1]),「#2794. 「意味=定義」説の問題点」 ([2016-12-20-1]),「#2795. 「意味=指示対象」説の問題点」 ([2016-12-21-1]) などの内容とも比較されたい.
・ Bussmann, Hadumod. Routledge Dictionary of Language and Linguistics. Trans. and ed. Gregory Trauth and Kerstin Kazzizi. London: Routledge, 1996.
昨日の記事「#3523. 構文文法における構文とは?」 ([2018-12-19-1]) で,構文文法の特徴を1つ挙げた.構文文法は,語彙と文法を明確に異なるものとしてとらえないという言語観に立つ.語の構造と統語の構造では確かに内部の複雑さは異なるものの,形式と機能をペアリングさせた単位である点で違いはない,と考えるのである.
構文文法の言語観として,ほかにも特徴的なことがある.1つは,意味論と語用論のあいだに明確な区分を設けないということだ.意味論的な情報は,焦点,話題,使用域といった語用論的な情報とともに表現されているという立場をとる.
構文文法の今ひとつの特徴は,一見すると意外なことに,生成文法風に「生成的」 (generative) な立場をとっていることだ.「生成的」とは,文法的に許容される無限の表現を説明しようとする一方で,許容されない無限の表現を排除しようとしていることを指す.ただし,生成文法のように「変形的」 (transformational) ではないことに注意が必要である.基底の統語・意味的な形式から,何らかの変形を経て表層の形式が生み出されるという過程は想定していない.
明らかに,構文文法は生成文法寄りではなく認知文法寄りの立場のように見えるが,「#3511. 20世紀からの各言語学派を軸上にプロットする」 ([2018-12-07-1]) の図でみたように,形式にも十分なこだわりを示している点では中間的な文法ともいえそうだ.昨今注目されている文法だが,バランサー的な位置取りにいることが魅力的なのかもしれない.
・ Goldberg, Adele E. Constructions: A Construction Grammar Approach to Argument Structure. Chicago: U of Chicago P, 1995.
「#2478. 祈願の may と勧告の let の発達の類似性」 ([2016-02-08-1]) で,両構文の意外とも思える類似性について歴史的な観点から紹介した.現代英語の共時的観点からも,Huddleston and Pullum (944) が両者の意味論的な類似性に言及している.
[Optative may C]onstruction . . . , which belongs to somewhat formal style, has may in pre-subject position, meaning approximately "I hope/pray". There is some semantic resemblance between this specialised use of may and that of let in open let-imperatives, but syntactically the NP following may is clearly subject . . . . The construction has the same internal form as a closed interrogative, but has no uninverted counterpart.
may と let が「意味論」的に似ているという点は首肯できる(ここでいう「意味論」は語用論も含んだ「意味論」だろう).発話行為としての「祈願」を行なえば,次に「勧告」したくなるのが人情だろうし,「勧告」の前段階として「祈願」は付きもののはずだ.
一方,「統語」的には,続く名詞句が主格に置かれるか目的格に置かれるかという点で明らかに区別されると指摘されている.確かに,両者はおおいに異なる.しかし,may と let を,対応する発話行為を表わす語用標識ととらえ,その後に来る名詞句の格の区別は無視すれことにすれば,いずれも「語用標識+名詞句(+動詞の原形)」となっていることは事実であり,統語的にも似ていると議論することはできる.少なくとも表面的な統語論においては,そうみなせる.
may も let も,文頭の動詞原形で命令を標示したり,文頭の Oh で感嘆を標示したりするのと同様の語用論的な機能を色濃くもっていると考えることができるかもしれない.「#2923. 左と右の周辺部」 ([2017-04-28-1]) という観点からも迫れそうな,語用論と統語論の接点をなす問題のように思われる.
・ Huddleston, Rodney and Geoffrey K. Pullum. The Cambridge Grammar of the English Language. Cambridge: CUP, 2002.
昨日の記事「#3400. 英語の中核語彙に借用語がどれだけ入り込んでいるか?」 ([2018-08-18-1]) で取り上げた Durkin の論文では,英語語彙史の実証的調査は,OED と HTOED という2大ツールを使ってですら大きな困難を伴うとして,方法論上の問題が論じられている.結論部 (405--06) に,諸問題が要領よくまとまっているので引用する.
One of the most striking and well-known features of lexical data is its extreme variability: as the familiar dictum has it 'chaque mot a son histoire', and accounting for the varied histories of individual words demands classificatory frameworks that are flexible, nonetheless consistent in their approach to similar items. Awareness is perhaps less widespread that the data about word histories presented in historical dictionaries and other resources are rarely 'set in stone': sometimes certain details of a word's history, for instance the details of a coinage, may leave little or no room for doubt, but more typically what is reported in historical dictionaries is based on analysis of the evidence available at time of publication of the dictionary entry, and may well be subject to review if and when further evidence comes to light. First dates of attestation are particularly subject to change, as new evidence becomes available, and as the dating of existing evidence is reconsidered. In particular, the increased availability of electronic text databases in recent years has swollen the flow of new data to a torrent. The increased availability of data should also not blind us to the fact that the earliest attestation locatable in the surviving written texts may well be significantly later than the actual date of first use, and (especially for periods, varieties, or registers for which written evidence is more scarce) may actually lag behind the date at which a word or meaning had already become well established within particular communities of speakers. Additionally, considering the complexities of dating material from the Middle English period . . . highlights the extent to which there may often be genuine uncertainty about the best date to assign to the evidence that we do have, which dictionaries endeavour to convey to their readers by the citation styles adopted. Issues of this sort are grist to the mill of anyone specializing in the history of the lexicon: they mean that the task of drawing broad conclusions about lexical history involves wrestling with a great deal of messy data, but the messiness of the data in itself tells us important things both about the nature of the lexicon and about our limited ability to reconstruct earlier stages of lexical history.
語源情報は常に流動的であること,初出年は常に更新にさらされていること,初出年代は口語などにおける真の初使用年代よりも遅れている可能性があること,典拠となっている文献の成立年代も変わり得ること等々.ここに指摘されている証拠 (evidence) を巡る方法論上の諸問題は,英語語彙史ならずとも一般に文献学の研究を行なう際に常に意識しておくべきものばかりである.OED3 の編者の1人である Durkin が,辞書は(OED ですら!)研究上の万能なツールではあり得ないと説いていることの意義は大きい.
・ Durkin, Philip. "The OED and HTOED as Tools in Practical Research: A Test Case Examining the Impact of Loanwords in Areas of the Core Lexicon." The Cambridge Handbook of English Historical Linguistics. Ed. Merja Kytö and Päivi Pahta. Cambridge: CUP, 2016. 390--407.
英語語彙における借用語の割合が高いことは,本ブログの多くの記事で取り上げてきた.この事実に関してとりわけ注目すべき質的な特徴として,借用語が基本語彙にまで入り込んできているという点が挙げられる(例えば「#2625. 古ノルド語からの借用語の日常性」 ([2016-07-04-1]) を参照).諸言語の比較研究によれば,借用語が基本語彙に入り込むという事例は,非常に稀かといえばそうでもなく,ある程度は観察されるのも事実であり,従来しばしば指摘されてきたように,英語がきわめて特異であると評価することはもはやできない.とはいえ,そのような事例が通言語的には "unusual" (Durkin 391) であるというのも傾向としては確かである.
Durkin は,標記の問いに答えるべく OED と HTOED を用いて実証的な調査を行なった.まず,'Leipzig-Jakarta list of basic vocabulary' と呼ばれる通言語的に有効とされる基本語彙のリストを参照し,そこから100の核心的な意味を取り出す.次に,その各々の意味が,英語語彙史においてどのような単語(群)によって担われてきたかを両辞書によって同定し,その単語の語源情報(借用語か否かなどの詳細)を記録・整理していく.そして,現在,借用語が100の核心的な意味のどれくらいをカバーしているのかを割り出す.その結果は,Durkin (392) によれば次の通り.
To summarize the results of this exercise very briefly . . ., looking in detail at the 100-meaning 'Leipzig-Jakarta list of basic vocabulary' in this way suggests that, while only twenty-two of these meanings appear never to have been realized by a loanword in the data of the OED as summarized in the HTOED, there are only twelve cases where a good case can be made for a loanword being the usual realization of the relevant core meaning in contemporary English:
(from early Scandinavian): root, wing, hit, leg, egg, give, skin, take; (from French): carry, soil, cry, (probably) crush
見方を変えれば,100の核心的な意味のうち78までが,部分的であれ何らかの借用語によって担われているということだ.ここから,借用語が幅広く核心的な意味領域を覆っているということが分かる.しかし,その借用語が,そのような核心的な意味領域を表わす単語群のなかでも典型的・代表的な語であるかどうかは別問題であり,そのような数え方をすると,上記の12語ほどに限定されるということだ.
もっとも,語彙や意味について何をもって「核心」や「基本」とみなすのかは難しい問題であり,それによって結果の数値も変わり得ることはいうまでもない.この問題その他について,以下のような記事で様々に取り上げてきたので参照を.
・ 「#1128. glottochronology」 ([2012-05-29-1])
・ 「#1961. 基本レベル範疇」 ([2014-09-09-1])
・ 「#1965. 普遍的な語彙素」 ([2014-09-13-1])
・ 「#1970. 多義性と頻度の相関関係」 ([2014-09-18-1])
・ 「#2659. glottochronology と lexicostatistics」 ([2016-08-07-1])
・ 「#2660. glottochronology と基本語彙」 ([2016-08-08-1])
・ 「#2661. Swadesh (1952) の選んだ言語年代学用の200語」 ([2016-08-09-1])
・ 「#308. 現代英語の最頻英単語リスト」 ([2010-03-01-1])
・ 「#202. 現代英語の基本語彙600語の起源と割合」 ([2009-11-15-1])
・ 「#429. 現代英語の最頻語彙10000語の起源と割合」 ([2010-06-30-1])
・ 「#845. 現代英語の語彙の起源と割合」 ([2011-08-20-1])
・ 「#1202. 現代英語の語彙の起源と割合 (2)」 ([2012-08-11-1])
・ Durkin, Philip. "The OED and HTOED as Tools in Practical Research: A Test Case Examining the Impact of Loanwords in Areas of the Core Lexicon." The Cambridge Handbook of English Historical Linguistics. Ed. Merja Kytö and Päivi Pahta. Cambridge: CUP, 2016. 390--407.
標題の2つの用語は言語学ではいずれもよく使われるが,はたして同じものなのか,それとも異なるのか.語の意味にまつわる話題であり,案外難しい問題である.実用上は,厳密に定義を与えないままに,両用語を「適当に,常識的に」使用し(分け)ているものと思われる.実際,英語の synonym は「同義語」にも「類義語」にも相当するのだ.
一般的には,語義が完全に一致する「完全同義語」 (absolute synonym) のペアは(ほとんど)ないと言われる (cf. 「#1498. taboo が言語学的な話題となる理由 (3)」 ([2013-06-03-1])) .ということは,synonym という用語が有意味となるためには,「完全同義語」ではなく「不完全同義語」を,すなわち「類義語」ほどを指していることが望ましい.一方,英語には near-synonym あるいはより専門的に plesionym (< Gr. plēsios (近接した) + onoma (名前)) という用語もある.ここから,synonym, near-synonym, plesionym という用語は,それこそ互いに synonymous な関係にあると解釈できそうである.語義の似ている度合いというのは数値化できるわけでもなく,当然ながら微妙な問題になることはやむを得ない.
Cruse (176--77) の意味論の用語辞典の説明を覗いてみよう.
synonymy, synonyms A word is said to be a synonym of another word in the same language if one or more of its senses bears a sufficiently close similarity to one or more of the senses of the other word. It should be noted that complete identity of meaning (absolute synonymy) is very rarely, if ever, encountered. Words would be absolute synonyms if there were no contexts in which substituting one for the other had any semantic effect. However, given that a basic function of words is to be semantically distinctive, it is not surprising that such identical pairs are rare. That being so, the problem of characterising synonymy is one of specifying what kind and degree of semantic difference is permitted. One possibility is to define synonymy as 'propositional synonymy': two words A and B are synonyms if substituting either one for the other in an utterance has no effect on the propositional meaning (i.e. truth conditions) of the utterance. This is the case with, for instance, begin: commence and false: untrue (on the relevant readings):
The concert began/commenced with Beethoven's Egmont Overture.
What he told me was false/untrue.
By this definition, synonyms will typically differ in respect of non-propositional aspects of meaning, such as expressive meaning and evoked meaning. Thus, begin and commence differ in register; the difference between false and untrue (indicating lack of veracity) is rather subtle, but the former is more condemnatory, perhaps because of a stronger presumption of deliberateness. However, while this is a convenient and easily applied way of defining synonymy, it does not capture the way the notion is used by, for instance, lexicographers, in the compilation of dictionaries of synonyms or in the assembly of groups of words for information on 'synonym discrimination'. Certainly, some of the words in such lists are propositional synonyms, but others are not, and for these we need some such notion as 'near-synonymy' ('plesionymy'). This is not easy to define, but roughly speaking, near-synonyms must share the same core meaning and must not have the primary function of contrasting with one another in their most typical contexts. (For instance, collie and spaniel share much of their meaning, but they contrast in their most typical contexts.) Examples of near-synonyms are: murder: execute: assassinate; withhold: detain; joyful: cheerful; heighten: enhance; injure: damage; idle: inert: passive.
synonyms を分析するにあたって,命題的意味 (propositional meaning) と非命題的意味 (non-propositional meaning) を区別するという方法は確かにわかりやすい.これは概念的意味 (conceptual meaning) と非概念的意味 (non-conceptual meaning) の区別にも近いだろう(「#1931. 非概念的意味」 ([2014-08-10-1]) を参照).命題的意味や概念的意味はイコールだが,非命題的意味や非概念的意味が何かしら異なっている場合に,その2語を synonyms と呼ぼう,というわけだ.
しかし,類義語辞典などに挙げられている類義語リストを構成する各単語は,たいていさらに緩い意味で「似ている」単語群にすぎない.最も中心的な意味のみを共有しており,かつ互いに異なる周辺的な意味はあくまで2次的なものとして,当面はうっちゃっておけるほどの関係であれば (near-)synonyms と呼べるということになろうか.ややこしい問題ではある.
・ Cruse, Alan. A Glossary of Semantics and Pragmatics. Edinburgh: Edinburgh UP, 2006.
国立国会図書館では,平成29年4月より日本十進分類法 (NDC) の新訂10版が適用されている(こちらの案内を参照).10版の分類基準(2017年1月版)はこちら (PDF). *
9版から10版への内容的な変更はほとんどなく,用語の整備が主である.10版の綱目表(第2次区分表)に基づき,以下のマインドマップを作ってみた(PDF版やSVG版もどうぞ).
私の関心は特に「80 言語」あたりにあるが,9版から少し変わったのは,「84 ドイツ語」だったものが「84 ドイツ語.その他のゲルマン諸語」となったところである.同様に,「85 フランス語」「86 スペイン語」「87 イタリア語」もそれぞれ「85 フランス語.プロバンス語」「86 スペイン語.ポルトガル語」「87 イタリア語.その他のロマンス諸語」と名目上拡充された.「90 文学」の対応する部分にも同様の拡充が施されている.もちろん,このような拡充や細分化は始めればキリがないし,どこまで表記するかは,図書分類上の現実的な問題ともおおいに絡んで決定的な対処法はないだろう.
日本十進分類法は図書に関する分類法 (taxonomy) の1つだが,いわば百科事典的な分類法ともいえる.分類法といえば,意味論や類義語辞典 (thesaurus) 編纂においても意味分類は最も難しい問題だが,これらの諸分野は森羅万象の整理という共通の課題を抱えているとわかる.
英語史との関係でいえば,本格的な歴史的類義語辞典 HTOED の分類表を,「#3159. HTOED」 ([2017-12-20-1]) 経由で参照されたい.
Algeo and Pyles は,語の意味の変化を論じた章の最後で,意味変化の不可避性を再確認している.そこで印象的なのは,Esperanto などの人工言語の話題を持ち出しながら,そのような言語的理想郷と意味変化の不可避性が相容れないことを熱く語っている点だ.少々長いが,"SEMANTIC CHANGE IS INEVITABLE" と題する問題の節を引用しよう (243--44) .
It is a great pity that language cannot be the exact, finely attuned instrument that deep thinkers wish it to be. But the facts are, as we have seen, that the meaning of practically any word is susceptible to change of one sort or another, and some words have so many individual meanings that we cannot really hope to be absolutely certain of the sum of these meanings. But it is probably quite safe to predict that the members of the human race, homines sapientes more or less, will go on making absurd noises with their mouths at one another in what idealists among them will go on considering a deplorably sloppy and inadequate manner, and yet manage to understand one another well enough for their own purposes.
The idealists may, if they wish, settle upon Esperanto, Ido, Ro, Volapük, or any other of the excellent scientific languages that have been laboriously constructed. The game of construction such languages is still going on. Some naively suppose that, should one of these ever become generally used, there would be an end to misunderstanding, followed by an age of universal brotherhood---the assumption being that we always agree with and love those whom we understand, though the fact is that we frequently disagree violently with those whom we understand very well. (Cain doubtless understood Abel well enough.)
But be that as it may, it should be obvious, if such an artificial language were by some miracle ever to be accepted and generally used, it would be susceptible to precisely the kind of changes in meaning that have been our concern in this chapter as well as to such change in structure as have been our concern throughout---the kind of changes undergone by those natural languages that have evolved over the eons. And most of the manifold phenomena of life---hatred, disease, famine, birth, death, sex, war, atoms, isms, and people, to name only a few---would remain as messy and hence as unsatisfactory to those unwilling to accept them as they have always been, no matter what words we use in referring to them.
私の好きなタイプの文章である.なお,引用の最後で "no matter what words we use in referring to them" と述べているのは,onomasiological change/variation に関することだろう.Algeo and Pyles は,semasiological change と onomasiological change を合わせて,広く「意味変化」ととらえていることがわかる.
人工言語の抱える意味論上の問題点については,「#961. 人工言語の抱える問題」 ([2011-12-14-1]) の (4) を参照.関連して「#963. 英語史と人工言語」 ([2011-12-16-1]) もどうぞ.また,「#1955. 意味変化の一般的傾向と日常性」 ([2014-09-03-1]) もご覧ください.
・ Algeo, John, and Thomas Pyles. The Origins and Development of the English Language. 5th ed. Thomson Wadsworth, 2005.
Historical Thesaurus of the Oxford English Dictionary (HTOED) は,英語の類義語辞典 (thesaurus) として最大のものであるだけでなく,「歴史的な」類義語辞典として,諸言語を通じても唯一の本格的なレファレンスである.1965年に Michael Samuels によって編纂プロジェクトののろしが上げられ,初版が完成するまでに約45年の歳月を要した(メイキングの詳細は The Story of the Thesaurus を参照) .
HTOED は,現在3つのバージョンで参照することができる.
(1) 2009年に出版された紙媒体の2巻本.第1巻がシソーラス本体,第2巻が索引である.Historical Thesaurus of the Oxford English Dictionary (HTOED). Ed. Christian Kay, Jane Roberts, Michael Samuels and Irené Wotherspoon. 2 vols. Oxford: OUP, 2009.
(2) グラスゴー大学の提供する (1) のオンライン版.The Historical Thesaurus of English として提供されている.
(3) OED Online に組み込まれたオンライン版.
各バージョン間には注意すべき差異がある.もともと HTOED は OED の第2版に基づいて編纂されたものであるため,第3版に向けて改変された内容を部分的に含む OED Online と連携しているオンライン版との間で,年代や意味範疇などについて違いがみられることがある.また,OED Online 版は,OED の方針に従って1150年以降に伝わっていない古英語単語がすべて省かれているので,古英語単語について中心的に調べる場合には A Thesaurus of Old English (TOE). Ed. Jane Roberts and Christian Kay with Lynne Grundy. Amsterdam: Rodopi, [1995] 2000. Available online at http://oldenglishthesaurus.arts.gla.ac.uk/ . の成果を収録した (1) か (2) の版を利用すべきである.
HTOED で採用されている意味範疇は,235,249項目にまで細分化されており,そこに793,733語が含まれている.分類の詳細は Classification のページを参照.第3階層までの分類表はこちら (PDF) からも参照できる. *
言語学において統語論 (syntax) とは何か,何を扱う分野なのかという問いに対する答えは,どのような言語理論を念頭においているかによって異なってくる.伝統的な統語観に則って大雑把に言ってしまえば,統語論とは文の内部における語と語の関係の問題を扱う分野であり,典型的には語順の規則を記述したり,句構造を明らかにしたりすることを目標とする.
もう少し抽象的に統語論の課題を提示するのであれば,Los の "Three dimensions of syntax" がそれを上手く要約している.これも1つの統語観にすぎないといえばそうなのだが,読んでなるほどと思ったので記しておきたい (Los 8) .
1. How the information about the relationships between the verb and its semantic roles (AGENT, PATIENT, etc.) is expressed. This is essentially a choice between expressing relational information by endings (inflection), i.e. in the morphology, or by free words, like pronouns and auxiliaries, in the syntax.
2. The expression of the semantic roles themselves (NPs, clauses?), and the syntactic operations languages have at their disposal for giving some roles higher profiles than others (e.g. passivisation).
3. Word order.
Dimension 1 は,動詞を中心として割り振られる意味役割が,屈折などの形態的手段で表わされるのか,語の配置による統語的手段で表わされるのかという問題に関係する.後者の手段が用いられていれば,すなわちそれは統語論上の問題となる.
Dimension 2 は,割り振られた意味役割がいかなる表現によって実現されるのか,そこに関与する生成(や変形)といった操作に焦点を当てる.
Dimension 3 は,結果として実現される語と語の配置に関する問題である.
これら3つの次元は,最も抽象的で深層的な Dimension 1 から,最も具体的で表層的な Dimension 3 という順序で並べられている.生成文法の統語観に基づいたものであるが,よく要約された統語観である.
・ Los, Bettelou. A Historical Syntax of English. Edinburgh: Edinburgh UP, 2015.
語彙意味論のアプローチの1つに,Pustejovsky の生成語彙論 (Generative Lexicon) がある.この理論では,語の意味を分析するのに "quolia role" という考え方が導入される.Cruse (149--50) の用語解説に基づいて要約すると,以下の通りである.
語の概念の特性には "quolia roles" と呼ばれるいくつかのタイプが区別され,文脈によって活性化されるタイプが異なる,という前提に立つ.Pustejovsky によれば,名詞で考えると4つの quolia roles が区別されるという."formal", "constitutive", "telic", "agentive" である(これは,アリストテレスの4原因説を思い起こさせる).
formal: This includes information about an item's position in a taxonomy, what it is a type of, and what sub-types it includes.
constitutive: This includes information about an item's part-whole structure, its physical attributes like size, weight, and what it is made of, and sensory attributes like colour and smell.
telic: This includes information about how an item characteristically interacts with other entities, whether as agent or instrument, in purposeful activities.
agentive: This includes information about an item's 'life-history', how it came into being, and how it will end its existence.
"formal" は語彙・概念上のタイプ,"constitutive" は物理的・認知的なタイプ,"telic" は目的・存在理由に関わるタイプ,"agentive" は出自・来歴に関わるタイプと概略的に示されるだろうか.
Pustejovsky によると,名詞の意味は,これら各々の quolia role に対して詳細が与えられることによって定義づけられる.このように語の意味が独立した quolia roles から構成されると考えることにより,両義性の問題がきれいに説明されるというのが,この理論のセールスポイントだ.
例えば,Pete finished the book yesterday. という文は,本を「読み終えた」のか「書き終えた」のかという2つの解釈が可能である.この両義性は,名詞 book を構成するどの quolia role が活性化されるかに基づくものとして説明される.「読み終えた」という解釈においては,名詞 book の telic role,すなわち「人に読まれるものとしての本」という目的・存在理由に関わる役割が活性化されるが,「書き終えた」という解釈においては,agentive role,すなわち「人に書かれたことによって存在している本」という出自・来歴に関わる特性が活性化されると考えることができる.
・ Cruse, Alan. A Glossary of Semantics and Pragmatics. Edinburgh: Edinburgh UP, 2006.
昨日の話題の続編.トランプ大統領が carnage という強烈な言葉を使ったことについて,やはりメディアは湧いているようである.
20日の就任演説について,22日の朝日新聞朝刊で,原文と訳と解説が付されていた.問題の "This American carnage stops right here and stops right now." のくだりの解説に,こうあった.
「carnage」は「殺戮の後の惨状」といった意味で,「死屍累々」に近い.線状などの表現に使われる極めて強い言葉.トランプ氏は直前に都市部の貧困や,犯罪・麻薬の蔓延に触れ,「悲惨な状況にある米国」を描いた.今回の演説を象徴する言葉として,米メディアも注目している.
この「死屍累々」という訳語と解釈は,優れていると思う.英和辞典にある並一通りの「殺戮」という訳語ではなく「死屍累々」に近いと解釈したセンスが素晴らしい.
昨日の記事で引いた OED での語義 3a とは別の語義 2a に,次のような定義がある."Carcases collectively: a heap of dead bodies, esp. of men slain in battle. ? Obs.".「殺戮」というよりは,その結果としての「死屍累々」である.同じように,Johnson の辞書でもこの語義は "Heaps of flesh" として定義されている.carnage が,昨日の記事で指摘したようにラテン語で「肉」を意味する carn-, carō からの派生語であることを考えれば,直接的な意味発達としては,行為としての「殺戮」ではなく,「死体(の集合)」を指すとするのが妥当である.英語での初出年代こそ,「殺戮」の語義では1600年,「死体(の集合)」の語義では1667年 ("Milton Paradise Lost x. 268 Such a sent I [sc. Death] draw Of carnage, prey innumerable.") と,前者のほうが早いが,意味発達の自然の順序を考えると,因果関係を「果」→「因」とたどったメトニミー (metonymy) として「死体(の集合)」→「殺戮」のように変化したのではないかと想像される.喩えていうならば,トランプ大統領の carnage は,「殺す」という動詞が現在完了として用いられたかのような「完了・結果」の意味,すなわち「殺戮後の状態」=「死屍累々」を意味するものと捉えるのが適切となる.少なくとも,トランプ大統領(あるいは,その意を汲んだとされる31歳の若きスピーチライター Stephen Miller)は,過去の「殺戮」だけでなく,その結果としての「死屍累々」の現状を指示し,強調したかったはずである.
なお,「戮」という漢字についていえば,これは「ころす.ばらばらに切ってころす.敵を残酷なやり方でころす.また,罪人を残酷なやり方で死刑にする.」を意味する.一方,この漢字は,同じ「リク」という読みの「勠」に当てて「力をあわせる」の意味ももっており,「一致団結」と同義の「戮力協心」なる四字熟語もある.こちらの「戮」であればよいのだが,と淡い期待を抱く.
標題について「#286. homonymy, homophony, homography, polysemy」 ([2010-02-07-1]),「#815. polysemic clash?」 ([2011-07-21-1]),「#1801. homonymy と polysemy の境」 ([2014-04-02-1]),「#2174. 民間語源と意味変化」 ([2015-04-10-1]) などで扱ってきた.今回はもう2つの例を挙げ,同音異義 (homonymy) と多義 (polysemy) の境界の曖昧性について改めて考えてみたい.
意味論の概説書を著わした Saeed (65) が,英語から sole と gay の語を挙げている.sole には,名詞として "bottom of the foot" (足の裏)と "flatfish" (カレイの仲間)の2つの語義がある.両語義は多くの母語話者にとって互いに関係のないものとして理解されており,したがって同音異義語と認識されている.しかし,歴史的にはラテン語 solea "sandal" がフランス語経由で英語に入ったものであり,同根である.確かに,言われてみれば,ともに平べったい「サンダル」である.辞書での扱いもまちまちであり,2つの見出し語を立てているものもあれば,1つの見出し語のもとに2つの語義を分けているものもある.とすると,公正な立場を取るのであれば,歯切れは悪いが,両者の関係は homonymy でもあり polysemy でもあると結論せざるを得ない.
もう1つの例は,形容詞 gay である.この語には "homosexual" (同性愛の)と "lively, light-hearted, bright" (陽気な)という,2つの主たる意味がある.特に若い世代にとって,両語義の関連は,あったとしても薄いものに感じられるようで,その点では homonymy の関係にあると把握されているのではないか.しかし,なかには両語義は相互に関係するととらえている人もいるかもしれないし,実際,通時的には「陽気な」から「同性愛の」への意味変化が生じたものとされている.ここでも,ある人にとっては homonymy,別の人にとっては polysemy という状況が見られる.ある見方をすれば homonymy,別の見方をすれば polysemy と言い換えてもよい.
客観的な意味論の観点から,いずれの関係かを決めることは極めて難しい.homonymy と polysemy の境について,言語学的に理論化するのが困難な理由が分かるだろう.
gay の用法については,American Heritage Dictionary の Usage Note より gay も参照.
・ Saeed, John I. Semantics. 3rd ed. Malden, MA: Wiley-Blackwell, 2009.
「#1962. 概念階層」 ([2014-09-10-1]) や「#1961. 基本レベル範疇」 ([2014-09-09-1]) でみた概念階層 (conceptual hierarchy) あるいは包摂関係 (hyponymy) においては,例えば「家具」という上位語 (hypernym) の配下に「机」という下位語 (hyponym) があり,さらにその「机」が上位語となって,その下に「勉強机」や「作業机」という下位語が位置づけられる.ここでは,包摂という関係に基づいて,全体が階層構造をなしているのが特徴的である.
このような hyponymy と類似しているが区別すべき語彙的関係として,meronymy (部分と全体の関係)と呼ばれるものがある.例えば,「車輪」と「自転車」は部分と全体の関係にあり,「車輪」は「自転車」の meronym (部分語),「自転車」は「車輪」の holonym (全体語)と称される.meronymy においても hyponymy の場合と同様に,その関係は相対的なものであり,例えば「車輪」は「自転車」にとっては meronym だが,車輪を構成する「輻(スポーク)」にとっては holonym である.Cruse (105--06) からの meronymy の説明を示そう.
meronymy This is the 'part-whole' relation, exemplified by finger: hand, nose: face, spoke: wheel, blade: knife, harddisk: computer, page: book, and so on. The word referring to the part is called the 'meronym' and the word referring to the whole is called the 'holonym'. The names of sister parts of the same whole is called 'co-meronyms'. Notice that this is a relational notion: a word may be a meronym in relation to a second word, but a holonym in relation to a third. Thus finger is a meronym of hand, but a holonym of knuckle and fingernail. (Meronymy must not be confused with by hyponymy, although some of their properties are similar: for instance, both involve a type of 'inclusion', co-meronyms and co-taxonyms have a mutually exclusive relation, and both are important in lexical hierarchies. However, they are distinct: a dog is a kind of animal, but not a part of an animal; a finger is a part of a hand, but not a kind of hand.
meronymy と hyponymy は,いずれも「包摂」と「階層構造」を示す点で共通しているが,上の説明の最後にあるように,前者は part,後者は kind に対応するものであるという差異が確認される.また,meronymy では,部分と全体が互いにどのくらい必須であるかについて,hyponymy の場合よりも基準が明確でないことが多い.「顔」と「目」の関係はほぼ必須と考えられるが,「シャツ」と「襟」,「家」と「地下室」はどうだろうか.
さらに,hyponymy と meronymy は移行性 (transitivity) の点でも異なる振る舞いを示す.hyponymy では移行性が確保されているが,meronymy では必ずしもそうではない.例えば,「手」と「指」と「爪」は互いに meronymy の関係にあり,「手には指がある」と言えるだけでなく,「手には爪がある」とも言えるので,この関係は transitive とみなせる.しかし,「部屋」と「窓」と「窓ガラス」は互いに meronymy の関係にあるが,「部屋に窓がある」とは言えても「部屋に窓ガラスがある」とは言えないので,transitive ではない.
・ Cruse, Alan. A Glossary of Semantics and Pragmatics. Edinburgh: Edinburgh UP, 2006.
Ray Jackendoff の提唱している概念意味論 (conceptual semantics) においては,意味とは人間が頭のなかでコード化した情報構造である.以下の原理は "the Mentalist Postulate" と呼ばれている.
Meaning in natural language is an information structure that is mentally encoded by human beings. (qtd. in Saeed 278)
Jackendoff は,文の意味は構成要素たる各語の意味からなると考えているため,概念意味論では語の意味に特別の注意が払われることになる.名詞の意味の分析を通じて,概念意味論の一端を覗いてみよう.以下,Saeed (283--84) を参照する.
Jackendoff は,名詞の意味特徴として [±BOUNDED] と [±INTERNAL STRUCTURE] を提案している.[±BOUNDED] は,典型的には可算名詞 (count noun) と質量名詞 (mass noun) を区別するのに用いられる.可算名詞は明確な境界をもつ単位を指示する.例えば,a car や a banana の指示対象を物理的に切断したとき,切断された各々のモノはもはや a car や a banana とは呼べない.それに対して,water や oxygen のような質量名詞は,複数の部分に分割したとしても,各々の部分は water や oxygen と呼び続けることができる.したがって,可算名詞は [+b] として,質量名詞は [-b] として記述することができる.
次に [±INTERNAL STRUCTURE] について見てみよう.可算名詞の複数,例えば cars や bananas は,内部に構造があるとみなし,[+i] と表わす.対して,water や oxygen のような質量名詞は内部構造なしとみなし,[-i] となる.
2つの意味特徴 [±BOUNDED], [±INTERNAL STRUCTURE] を掛け合わせると,4通りの組み合わせができるだろう.そして,この4通りの各々に相当する名詞が存在することが期待される.実際,英語にはそれがある.これを図示してみよう.
[ Material Entity ] │ ┌──────────┬────┴────┬─────────┐ │ │ │ │ individuals groups substances aggregates (count nouns) (collective nouns) (mass nouns) (plural nouns) │ │ │ │ │ │ │ │ [+b, -i] [+b, +i] [-b, -i] [-b, +i] │ │ │ │ │ │ │ │ a banana, a government, water, bananas, a car a committee oxygen cars
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