2日間の記事 ([2019-08-24-1], [2019-08-25-1]) に引き続き,Wittgenstein の言語観について.Wittgenstein は言語ゲーム (Sprachspiel, language-game) というとらえ方を示すことによって,言語の体系的研究が不可能であることを示していたと考えられる.言語ゲームと言語研究の不可能性はどのように結びつくのだろうか.服部 (206--08) の考察を引用しよう.
ウィトゲンシュタインはなぜこのように考えたのだろうか.この疑問に対する答は明らかではないが,いくつかの理由(と思われるもの)を推察することはできる.
ウィトゲンシュタインは言語使用をゲームになぞらえて考え,それ故「言語ゲーム」という表現を多用する.例えば「言語ゲームにおける「これ」という語…はいったい何を名指しているのか」,「名指すことはそれだけでは言語ゲームにおける動きではまったくない」,等々.ところが,言語ゲームと言われるものすべてに共通する何かある一つのもの,そなわち言語ゲームの本質などというものは,彼によれば,ないのである.たしかに,様々な言語ゲームは互いに似通ってはいるが,それらに共通するものは存在しない.それらは家族的類似性を示しているだけなのである.「私はこの類似性を家族的類似性という語による以外,より良く特徴づける術を知らない」(六七節).もし科学的探究が,何であれ研究対象の本質の存在を前提し,それを探究するものだとするならば,言語には本質などそもそもないのであるから,それについて科学的探究をするということはありえないことになろう.
また,次のようなことも考えられる.科学は世界の中で何が生起しているか,ということを探究する.ところが,たとえばある語が何を指示するのか,ある文が何を意味するのか,というような問いは言語と世界の間の関係を問うている.したがって,それはウィトゲンシュタインによれば科学的問いではない.これは『論考』以来彼が採用している見解である.とすれば,ここからも,言語についての科学的探究への否定的態度が出て来るであろう.
あるいはまた,次のような発想もあるのかもしれない.言語には規則性ないし法則性があるとしばしば言われる.いわく,音声に関する法則性,統語論の規則,意味論の規則,等々.そして,実際,言語学者や哲学者(の一部)はこれらの法則性や規則性を見出そう,発見しようと努力しているのである.しかしながら,仮にそのような規則性があるとしても,それは科学的探究の対象となるような種類のものなのだろうか.ウィトゲンシュタインによれば,言語使用に関すかぎり,「すべてはむき出しにそこにあるのであるから,説明されるべきものは何もない」(一二六節)のである.これに対して,惑星の運行の法則性や原子の振舞いについての法則性などは「むき出しに」されてはいないし,したがって「説明」を要求されることが当然起こってくるだろう.
自然科学の法則性と言語現象に見られる規則性---そのようなものがあるとしての話であるが---の間にはさらに顕著な相違があるように思われる.というのは,後者の規則性が規範としての役割をもっているからである.たとえば,物理学の法則に従って運動している物体はそのように「運動すべき」だからそのように運動しているわけではない.単にその物体の運動にはそのような規則性が見出されるにすぎない.これに対して,「豚の豚足」というような表現は通常用いられないという場合には,単にそのような規則性があるというだけではなく,誰かが「私は豚の豚足を食べたことがある」と述べたならば,「それはおかしい」,「変な表現だ」,「そのような言い方はすべきではない」,と指摘されることになるのである.同じ論点を次のように説明することもできる.すなわち,自然科学の法則性の場合,その法則性を破るような事例---反証事例と言われる---が見出されたならば,その法則性がそもそも怪しい,それは法則ではなかったと,されるのに対して,言語現象に見られる規則性の場合---だけではなく,多くの社会現象に見られる規則性の場合---には,反証事例と見えるものが見出されたときには,その事例に関与した人,例えば「私は豚の豚足を食べたことがある」と言った人は「規則を破った」として批判され,「正しい言い方」をするよう助言されるのである(言語現象でない社会事象で同様のことが起こった場合には,「合理的でない」「非合理的」として批判されるかもしれない.仮に,同じ品質の商品が二つの会社から販売されているときには消費者は値段が安い方を買うという規則性が主張されたとしよう.このとき,ある人が高い方を買ったならば,この規則が正しくなかったとされるのではなく,むしろその人が合理的でなかったとされるわけである.)
ウィトゲンシュタインの言語思想によれば,言語には本質がなく,したがって科学の対象とはなり得ないということになる.言語は学究的対象にはなり得ず,あくまでゲームの現場にのみ存在する付帯現象にすぎないということになる.
・ 服部 裕幸 『言語哲学入門』 勁草書房,2003年.
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