英語史では一般に,母音(特に長母音)の変化は数多く生じてきたものの,子音の変化は比較的まれだったといわれる(cf. 「#1402. 英語が千年間,母音を強化し子音を弱化してきた理由」 ([2013-02-27-1])).この母音と子音の傾向の対照性については,英語の韻律 (prosody) が大きく関わっているといわれる.確かに子音の変化には目立ったものが見当たらないが,その中でもあえてメジャーなものを挙げるとすれば,Minkova and Stockwell (36) に依拠して,以下の5点に注目したい.
・ Simplification of long consonants
・ Phonemicization of the voiced fricatives [v, ð, z]
・ Vocalization or loss of [ɣ], [x], [ç] and distributional restrictions on [h]
・ Loss of [-r] in some varieties of English
・ Simplification of the consonant clusters [kn-], [gn-], [wr-], [-mb], [-ng]
1点目の "Simplification of long consonants" とは degemination ともいわれる過程で,後期古英語から初期中英語にかけて生じた.これにより,古英語 gyldenne "golden" が 中英語 gyldene などとなった.これの現代英語への影響としては,「#1854. 無変化活用の動詞 set -- set -- set, etc.」 ([2014-05-25-1]) や「#1284. 短母音+子音の場合には子音字を重ねた上で -ing を付加するという綴字規則」 ([2012-11-01-1]) を参照されたい.
2点目の "Phonemicization of the voiced fricatives [v, ð, z]" は,fricative_voicing と呼ばれる過程である.「#1365. 古英語における自鳴音にはさまれた無声摩擦音の有声化」 ([2013-01-21-1]) でみたように,これらの無声・有声摩擦音のペアは単なる異音の関係だったが,フランス借用語などの影響により,両者が異なる音素として独立することになった./v/ の音素化の話題については,「#1222. フランス語が英語の音素に与えた小さな影響」 ([2012-08-31-1]),「#2219. vane, vat, vixen」 ([2015-05-25-1]),「#2230. 英語の摩擦音の有声・無声と文字の問題」 ([2015-06-05-1]) を参照.
3点目の "Vocalization or loss of [ɣ], [x], [ç] and distributional restrictions on [h]" は,これらの摩擦音が音韻環境により複雑な変化を遂げたことを指す.例えば,古英語 dragan, sagu; hlot, hræfn, hnecca; boh, heah, sohte; toh, ruh, hleahtor が,それぞれ中英語で draw(en), saw(e); lot, raven, neck; bow(e), hei(e), sout(e); tuf, ruff, lauhter などとなった事例を挙げておこう.heir, honest, honour, hour などの語頭の h の不安定さの話題も,これと関わる(「#214. 不安定な子音 /h/」 ([2009-11-27-1]) および h の各記事を参照).
4点目の "Loss of [-r] in some varieties of English" は,non-prevocali r を巡る問題である(「#452. イングランド英語の諸方言における r」 ([2010-07-23-1]) および の各記事を参照).
5点目の "Simplification of the consonant clusters [kn-], [gn-], [wr-], [-mb], [-ng]" は,各子音群の端の子音が脱落する音韻過程である.これらの子音に対応する文字が現在も綴字に残っているので,それと認識しやすい.「#122. /kn/ で始まる単語」 ([2009-08-27-1]),「#34. thumb の綴りと発音」 ([2009-06-01-1]), 「#724. thumb の綴りと発音 (2)」 ([2011-04-21-1]) のほか,より一般的に「#1290. 黙字と黙字をもたらした音韻消失等の一覧」 ([2012-11-07-1]),「#2518. 子音字の黙字」 ([2016-03-19-1]) を参照.
以上のように,母音に比べて種類は少ないとはいえ,子音の変化もこうみてみると現代英語の音韻・綴字の問題にそれなりの影響を及ぼしているものだと感じられる.
・ Minkova, Donka and Robert Stockwell. "Phonology: Segmental Histories." A Companion to the History of the English Language. Ed. Haruko Momma and Michael Matto. Chichester: Wiley-Blackwell, 2008. 29--42.
イタリアの辛口赤ワイン CHIANTI (キャンティ)を飲みつつ,イタリア語の <chi> = /ki/ に思いを馳せた.<ch> という2重字 (digraph) に関して,ヨーロッパの諸言語を見渡しても,典型的に対応する音価はまちまちである.前舌母音字 <i> を付して <chi> について考えてみよう.主要な言語で代表させれば,英語では chill, chin のように /ʧi/,フランス語では Chine, chique のように /ʃi/,イタリア語では chianti, chimera のように /ki/,ドイツ語では China, Chinin のように /çi/ である.同じ <ch> という2重字を使っていながら,対応する音価がバラバラなのはいったいなぜだろうか.
この謎を解くには,文字記号の恣意性 (arbitrariness) と,各言語の音韻体系とその歴史の独立性について理解する必要がある.まず,文字記号の恣意性から.アルファベットを例にとると,<a> という文字が /a/ という音と結びつくはずと考えるのは,長い伝統と習慣によるものにすぎず,実際には両者の間に必然的な関係はない.この対応関係がアルファベットを使用する多くの言語で見られるのは,当該のアルファベット体系を借用するにあたって,借用元言語に見られたその結び付きの関係を引き継いだからにすぎない.特別な事情がないかぎりいちいち関係を改変するのも面倒ということもあろうが,確かに文字と音との関係は代々引き継がれることは多い.しかし,何らかの特別な事情があれば――たとえば,対応する音が自分の言語には存在しないのでその文字が使われずに余ってしまう場合――,<a> を廃用にすることもできるし,まったく異なる他の音にあてがうことだってできる.たとえば,言語共同体が <a> = /t/ と決定し,同意しさえすれば,その言語においてはそれでよいのである.文字記号は元来恣意的なものであるから,自分たちが合意しさえすれば,他人に干渉される筋合いはないのである.<ch> は単字ではなく2重字であるという特殊事情はあるが,この2文字の結合を1つの文字記号とみなせば,この文字記号を各言語は事情に応じて好きなように利用してよい.その言語に存在するどんな子音に割り当ててもよいし,極端なことをいえば母音に割り当てても,無音に割り当ててもよい.つまり,<ch(i)> の読みは,まずもって絶対的,必然的に決まっているわけではないと理解することが肝心である.
次に,各言語の音韻体系とその歴史の独立性について.言うまでもないことだが,同系統の言語であろうがなかろうが,それぞれ独自の音韻体系をもっている.英語には /f, l, θ, ð, v/ などの音素があるが,日本語にはないといったように,言語ごとに特有の音素セットがあるのは当然である.各言語の音韻体系の発展の歴史も,原則として独立的である.音韻の借用などがあった場合でも,その影響は限定的だ.したがって,異なる言語には異なる音素セットがあり,音素セット間で互いに対応させようとしても数も種類も違っているのだから,きれいに揃うということは望めないはずである.表音文字たるアルファベットは原則として音素を写すものだから,音素セット間でうまく対応しないものを文字セット間において対応させようとしたところで,やはり必ずしもきれいには揃わないはずである.
上で挙げた西ヨーロッパの主要な言語は,歴史の経緯からともにローマン・アルファベットを受容したし,範となるラテン語において <ch> という2重字が活用されていることも知っていた.また,原則としての恣意性や独立性は前提としつつも,互いの言語を横目で見てきたのも事実である.そこで,2重字 <ch> を活用しようというアイディア自体は,いずれの言語も自然に抱いていたのだろう.ただし,<ch> をどの音にあてがうかについては,各言語に委ねられていた.そこで,各言語では <c> で典型的に表わされる音と共時的・通時的に関係の深い別の音に対応する文字として <ch> をあてがうことにした,というわけだ.つまり,英語では /ʧi/,フランス語では /ʃi/,イタリア語では /ki/,ドイツ語では /çi/ である.たいていの場合,各言語の歴史において,もともとの /k/ が歯擦音化した音を表わすのに <ch> が用いられている.
まとめれば,いずれの言語も,歴史的に <ch> という2重字を使い続けることについては共通していた.しかし,各言語で歴史的に異なる音変化が生じてきたために,<ch> で表わされる音は,互いに異なっているのである.
英語における <ch> = /ʧ/ に関する話題については,以下の記事も参照.
・ 「#1893. ヘボン式ローマ字の <sh>, <ch>, <j> はどのくらい英語風か」 ([2014-07-03-1])
・ 「#2367. 古英語の <c> から中英語の <k> へ」 ([2015-10-20-1])
・ 「#2393. <Crist> → <Christ>」 ([2015-11-15-1])
・ 「#2423. digraph の問題 (1)」 ([2015-12-15-1])
言語変化の地理的な伝播の様式について,波状理論 (wave_theory) やその結果としての方言周圏論 (cf. 「#1045. 柳田国男の方言周圏論」 ([2012-03-07-1]))がよく知られている.池に投げ込まれた石の落ちた地点から同心円状に波紋が拡がるように,言語革新も発信地から同心円状に周囲へ伝播していくという考え方である.
しかし,言語変化は必ずしも同心円状に地続きに拡がるとは限らない.むしろ,飛び石伝いに点々と拡がっていくケースがあることも知られている.「#2034. 波状理論ならぬ飛び石理論」 ([2014-11-21-1]),「#2037. 言語革新の伝播と交通網」 ([2014-11-24-1]),「#2040. 北前船と飛び石理論」 ([2014-11-27-1]) などの記事で論じたように,飛び石理論のほうが説明として有効であるような言語変化の事例も散見される.この飛び石理論とほぼ同じ発想といってよいものに,社会言語学や方言学の文献で gravity model あるいは hierarchical model と呼ばれている言語変化の伝播に関するモデルがある.これは Trudgill が提起した仮説で,Wolfram and Schilling-Estes (724) が次のような説明を与えている.
According to this model, which is borrowed from the physical sciences, the diffusion of innovations is a function not only of the distance from one point to another, as with the wave model, but of the population density of areas which stand to be affected by a nearby change. Changes are most likely to begin in large, heavily populated cities which have historically been cultural centers. From there, they radiate outward, but not in a simple wave pattern. Rather, innovations first reach moderately sized cities, which fall under the area of influence of some large, focal city, leaving nearby sparsely populated areas unaffected. Gradually, innovations filter down from more populous areas to those of lesser population, affecting rural areas last, even if such areas are quite close to the original focal area of the change. The spread of change thus can be likened not so much to the effects of dropping a stone into a pond, as with the wave model, but, as . . . to skipping a stone across a pond.
gravity model の要点は,言語革新の伝播は,波状理論のように地点間の距離に依存するだけではなく,各地点の人口規模にも依存するということである.これは,2つの天体の引き合う力が距離と密度の関数であることに比較される.距離と人口規模の2つの変数のもとで伝播の様式が定まるという gravity model は,従来の波状理論をも取り込むことができる点で優れている.というのは,距離のみを有効な変数とし,人口規模の変数を無効とすれば,すなわち波状理論となるからである.
gravity model に沿った言語変化の事例報告は少なくない.Wolfram and Schilling-Estes (725) に挙げられている例のうち英語に関するものについていえば,London で開始された語頭の h-dropping が,中間の地域を飛び越えて直接 East Anglia の Norwich へと飛び火したという事例が報告されている.Chicago で生じた [æ] の二重母音化や [ɑ] の前舌化も,同様のパターンで Illinois 南部の諸都市へ伝播した.Oklahoma での /ɔ/ -- /a/ の吸収の伝播も然りである.
ただし,仮説の常として,gravity model も万能ではない.実際の伝播の事例を観察すると,距離と人口規模以外にもいくつかの変数を想定せざるを得ないからである.gravity model の限界については,明日の記事で取り上げる.
・ Wolfram, Walt and Natalie Schilling-Estes. "Dialectology and Linguistic Diffusion." The Handbook of Historical Linguistics. Ed. Brian D. Joseph and Richard D. Janda. Malden, MA: Blackwell, 2003. 713--35.
過去4日間の記事で,言語行動において聞き手が話し手と同じくらい,あるいはそれ以上に影響力をもつことを見てきた(「#1932. 言語変化と monitoring (1)」 ([2014-08-11-1]),「#1933. 言語変化と monitoring (2)」 ([2014-08-12-1]),「#1934. audience design」 ([2014-08-13-1]),「#1935. accommodation theory」 ([2014-08-14-1])).「#1070. Jakobson による言語行動に不可欠な6つの構成要素」 ([2012-04-01-1]),「#1862. Stern による言語の4つの機能」 ([2014-06-02-1]),また言語の機能に関するその他の記事 (function_of_language) で見たように,聞き手は言語行動の不可欠な要素の1つであるから,考えてみれば当然のことである.しかし,小松 (139) のいうように,従来の言語変化の研究において「聞き手にそれがどのように聞こえるかという視点が完全に欠落していた」ことはおよそ認めなければならない.小松は続けて「話す目的は,理解されるため,理解させるためであるから,もっとも大切なのは,話し手の意図したとおりに聞き手に理解されることである.その第一歩は,聞き手が正確に聞き取れるように話すことである」と述べている.
もちろん,聞き手主体の言語変化の存在が完全に無視されていたわけではない.言語変化のなかには,異分析 (metanalysis) によりうまく説明されるものもあれば,同音異義衝突 (homonymic_clash) が疑われる例もあることは指摘されてきた.「#1873. Stern による意味変化の7分類」 ([2014-06-13-1]) では,聞き手の関与する意味変化にも触れた.しかし,聞き手の関与はおよそ等閑視されてきたとはいえるだろう.
小松 (118--38) は,現代日本語のハ行子音体系の不安定さを歴史的なハ行子音の聞こえの悪さに帰している.語中のハ行子音は,11世紀頃に [ɸ] から [w] へ変化した(「#1271. 日本語の唇音退化とその原因」 ([2012-10-19-1]) を参照).例えば,この音声変化に従って,母は [ɸawa],狒狒は [ɸiwi],頬は [ɸowo] となった.そのまま自然発達を遂げていたならば,語頭の [ɸ] は [h] となり,今頃,母は「ハァ」,狒狒は「ヒィ」,頬は「ホォ」(実際に「ホホ」と並んで「ホオ」もあり)となっていただろう.しかし,語中のハ行子音の弱さを補強すべく,また子音の順行同化により,さらに幼児語に典型的な同音(節)重複 (reduplication) も相まって2音節目のハ行子音が復活し,現在は「ハハ」「ヒヒ」「ホホ」となっている.ハ行子音の調音が一連の変化を遂げてきたことは,直接には話し手による過程に違いないが,間接的には歴史的ハ行子音の聞こえの悪さ,音声的な弱さに起因すると考えられる.蛇足だが,聞こえの悪さとは聞き手の立場に立った指標である.ヒの子音について [h] > [ç] とさらに変化したのも,[h] の聞こえの悪さの補強だとしている.
日本語のハ行子音と関連して,英語の [h] とその周辺の音に関する歴史は非常に複雑だ.グリムの法則 (grimms_law),「#214. 不安定な子音 /h/」 ([2009-11-27-1]) および h の各記事,「#1195. <gh> = /f/ の対応」 ([2012-08-04-1]) などの話題が関係する.小松 (132) も日本語と英語における類似現象を指摘しており,<gh> について次のように述べている.
……英語の light, tight などの gh は読まない約束になっているが,これらの h は,聞こえが悪いために脱落し,スペリングにそれが残ったものであるし,rough, tough などの gh が [f] になっているのは,聞こえの悪い [h] が [f] に置き換えられた結果である.[ɸ] と [f] との違いはあるが,日本語のいわゆる唇音退化と逆方向を取っていることに注目したい.
この説をとれば,rough や tough の [f] は,「#1195. <gh> = /f/ の対応」 ([2012-08-04-1]) で示したような話し手主体の音声変化の結果 ([x] > [xw] > f) としてではなく,[x] あるいは [h] の聞こえの悪さによる(すなわち聞き手主体の) [f] での置換ということになる.むろん,いずれが真に起こったことかを実証することは難しい.
・ 小松 秀雄 『日本語の歴史 青信号はなぜアオなのか』 笠間書院,2001年.
「#1292. 中英語から近代英語にかけての h の位置づけ」 ([2012-11-09-1]),「#1675. 中英語から近代英語にかけての h の位置づけ (2)」 ([2013-11-27-1]),「#1677. 語頭の <h> の歴史についての諸説」 ([2013-11-29-1]) などに引き続いての話題.
昨日の記事「#1898. ラテン語にもあった h-dropping への非難」 ([2014-07-08-1]) で取り上げたように,後期ラテン語にかけて /h/ の脱落が生じていた.過剰修正 (hypercorrection) もしばしば起こる始末で,脱落傾向は止めようもなく,その結果は後のロマンス諸語にも反映されることになった.すなわち,古典ラテン語の正書法上の <h> に対応する子音は,フランス語を含むロマンス諸語へ無音として継承され,フランス語を経由して英語へも受け継がれた.ところが,ラテン語正書法の綴字 <h> そのものは長い規範主義の伝統により,完全に失われることはなく中世ヨーロッパの諸言語へも伝わった.結果として,中世において,自然の音韻変化の結果としての無音と人工的な規範主義を体現する綴字 <h> とが,長らく競い合うことになった.
英語でも,ラテン語に由来する語における <h> の保持と復活は中英語期より意識されてきた問題だった.「#1292. 中英語から近代英語にかけての h の位置づけ」 ([2012-11-09-1]) で触れたように,これは初期近代英語期に盛んにみられることになる語源的綴り字 (etymological_respelling) の先駆けとして,英語史上評価されるべき現象だろう.この点については Horobin (80--81) も以下のようにさらっと言及しているのみだが,本来はもっと評価が高くあって然るべきだと思う.
Because of the loss of initial /h/ in French, numerous French loanwords were borrowed into Middle English without an initial /h/ sound, and were consequently spelled without an initial <h>; thus we find the Middle English spellings erbe 'herb', and ost 'host'. But, because writers of Middle English were aware of the Latin origins of these words, they frequently 'corrected' these spellings to reflect their Classical spelling. As a consequence, there is considerable variation and confusion about the spelling of such words, and we regularly find pairs of spellings like heir, eyr, here, ayre, ost, host. The importance accorded to etymology in determining the spelling of such words led ultimately to the spellings with initial <h> becoming adopted; in some cases the initial /h/ has subsequently been restored in the pronunciation, so that we now say hotel and history, while the <h> remains silent in French hôtel and histoire.
近現代英語ならずとも歴史英語における h-dropping は扱いにくい問題だが,一般に考えられているよりも早い段階で語源的綴り字が広範に関与している例として,英語史上,掘り下げる意義のあるトピックである.
・ Horobin, Simon. Does Spelling Matter? Oxford: OUP, 2013.
英語史における子音 /h/ の不安定性について,「#214. 不安定な子音 /h/」 ([2009-11-27-1]) ,「#459. 不安定な子音 /h/ (2)」 ([2010-07-30-1]) ,「#494. hypercorrection による h の挿入」 ([2010-09-03-1]),「#1292. 中英語から近代英語にかけての h の位置づけ」 ([2012-11-09-1]),「#1675. 中英語から近代英語にかけての h の位置づけ (2)」 ([2013-11-27-1]),「#1677. 語頭の <h> の歴史についての諸説」 ([2013-11-29-1]) ほか,h や h-dropping などの記事で多く取り上げてきた.
近代英語以後,社会言語学的な関心の的となっている英語諸変種の h-dropping の起源については諸説あるが,中英語期に,<h> の綴字を示すものの決して /h/ とは発音されないフランス借用語が,大量に英語へ流れ込んできたことが直接・間接の影響を与えてきたということは,認めてよいだろう.一方,フランス語のみならずスペイン語やイタリア語などのロマンス諸語で /h/ が発音されないのは,後期ラテン語の段階で同音が脱落したからである.したがって,英語の h-dropping を巡る話題の淵源は,時空と言語を超えて,最終的にはラテン語の1つの音韻変化に求められることになる.
おもしろいことに,ラテン語でも /h/ の脱落が見られるようになってくると,ローマの教養人たちは,その脱落を通俗的な発音習慣として非難するようになった.このことは,正書法として <h> が綴られるべきではないところに <h> が挿入されていることを嘲笑する詩が残っていることから知られる.この詩は h-dropping に対する過剰修正 (hypercorrection) を皮肉ったものであり,それほどまでに h-dropping が一般的だったことを示す証拠とみなすことができる.この問題の詩は,古代ローマの抒情詩人 Gaius Valerius Catullus (84?--54? B.C.) によるものである.以下,Catullus Poem 84 より和英対訳を掲げる.
1 CHOMMODA dicebat, si quando commoda uellet ARRIUS, if he wanted to say "winnings " used to say "whinnings", 2 dicere, et insidias Arrius hinsidias, and for "ambush" "hambush"; 3 et tum mirifice sperabat se esse locutum, and thought he had spoken marvellous well, 4 cum quantum poterat dixerat hinsidias. whenever he said "hambush" with as much emphasis as possible. 5 credo, sic mater, sic liber auunculus eius. So, no doubt, his mother had said, so his uncle the freedman, 6 sic maternus auus dixerat atque auia. so his grandfather and grandmother on the mother's side. 7 hoc misso in Syriam requierant omnibus aures When he was sent into Syria, all our ears had a holiday; 8 audibant eadem haec leniter et leuiter, they heard the same syllables pronounced quietly and lightly, 9 nec sibi postilla metuebant talia uerba, and had no fear of such words for the future: 10 cum subito affertur nuntius horribilis, when on a sudden a dreadful message arrives, 11 Ionios fluctus, postquam illuc Arrius isset, that the Ionian waves, ever since Arrius went there, 12 iam non Ionios esse sed Hionios are henceforth not "Ionian," but "Hionian."
問題となる箇所は,1行目の <commoda> vs <chommoda>,2行目の <insidias> vs <hinsidias>, 12行目の <Ionios> vs <Hionios> である.<h> の必要のないところに <h> が綴られている点を,過剰修正の例として嘲っている.皮肉の効いた詩であるからには,オチが肝心である.この詩に関する Harrison の批評によれば,12行目で <Inoios> を <Hionios> と(規範主義的な観点から見て)誤った綴字で書いたことにより,ここにおかしみが表出しているという.Harrison は ". . . the last word of the poem should be χιoνέoυς. When Arrius crossed, his aspirates blew up a blizzard, and the sea has been snow-swept ever since." (198--99) と述べており,誤った <Hionios> がギリシア語の χιoνέoυς (snowy) と引っかけられているのだと解釈している.そして,10行目の nuntius horribilis がそれを予告しているともいう.Arrius の過剰修正による /h/ が,7行目の nuntius horribilis に予告されているように,恐るべき嵐を巻き起こすというジョークだ.
Harrison (199) は,さらに想像力をたくましくして,Catullus のようなローマの教養人による当時の h に関する非難の根源は,気音の多い Venetic 訛りに対する偏見,すなわち基層言語の影響 (substratum_theory) による耳障りなラテン語変種に対する否定的な評価にあるのでないかという.同様に Etruscan 訛りに対する偏見という説を唱える論者もいるようだ.これらの見解はいずれにせよ speculation の域を出るものではないが,近現代英語の h-dropping への stigmatisation と重ね合わせて考えると興味深い.
・ Horobin, Simon. Does Spelling Matter? Oxford: OUP, 2013.
・ Harrison, E. "Catullus, LXXXIV." The Classical Review 29.7 (1915): 198--99.
whole は,古英語 (ġe)hāl (healthy, sound. hale) に遡り,これ自身はゲルマン祖語 *(ȝa)xailaz,さらに印欧祖語 * kailo- (whole, uninjured, of good omen) に遡る.heal, holy とも同根であり,hale, hail とは3重語をなす.したがって,<whole> の <w> は非語源的だが,中英語末期にこの文字が頭に挿入された.
MED hōl(e (adj.(2)) では,異綴字として wholle が挙げられており,以下の用例で15世紀中に <wh>- 形がすでに見られたことがわかる.
a1450 St.Editha (Fst B.3) 3368: When he was take vp of þe vrthe, he was as wholle And as freysshe as he was ony tyme þat day byfore.
15世紀の主として南部のテキストに現れる最初期の <wh>- 形は,whole 語頭子音 /h/ の脱落した発音 (h-dropping) を示唆する diacritical な役割を果たしていたようだ.しかし,これとは別の原理で,16世紀には /h/ の脱落を示すのではない,単に綴字の見栄えのみに関わる <w> の挿入が行われるようになった.この非表音的,非語源的な <w> の挿入は,現代英語の whore (< OE hōre) にも確認される過程である(whore における <w> 挿入は16世紀からで,MED hōr(e (n.(2)) では <wh>- 形は確認されない).16世紀には,ほかにも whom (home), wholy (holy), whoord (hoard), whote (hot)) whood (hood) などが現れ,<o> の前位置での非語源的な <wh>- が,当時ささやかな潮流を形成していたことがわかる.whole と whore のみが現代標準英語まで生きながらえた理由については,Horobin (62) は,それぞれ同音異義語 hole と hoar との区別を書記上明確にするすることができるからではないかと述べている.
Helsinki Corpus でざっと whole の異綴字を検索してみたところ(「穴」の hole などは手作業で除去済み),中英語までは <wh>- は1例も検出されなかったが,初期近代英語になると以下のように一気に浸透したことが分かった.
<whole> | <hole> | |
---|---|---|
E1 (1500--1569) | 71 | 32 |
E2 (1570--1639) | 68 | 2 |
E3 (1640--1710) | 84 | 0 |
英語史における語頭の <h> を巡る問題は,それ自体が歴史をもっている.英語史において語頭の <h> は実際に発音されてきたのか,それとも発音されてこなかったのか.発音されなかったとすると,どの時代に,どの変種で発音されなかったのか.そして,いつどのようにして標準変種では <h> が発音 [h] として「復活」したのか.その音韻論的位置づけはどうなっているのか.フランス借用語などによる影響はあったのか,なかったのか.解決していない問題が山積みである.
語頭の <h> の研究史上,最も古い説は,今では「アングロ・ノルマン写字生の神話」と呼ばれている仮説である(「#1238. アングロ・ノルマン写字生の神話」 ([2012-09-16-1]) を参照).この説によれば,語頭の <h> は常に発音 [h] として実現されてきた.基本的には <h> = [h] の関係は,中英語を含む英語史の全時代にわたって維持されてきた.中英語によく見られる <h> に関する綴字の誤りは,英語を理解しないアングロ・ノルマン写字生により導入されたものにすぎず,英語史において [h] が消失したことを示す証拠とはなりえない,とする.この説に関して,Crisma (Were 51) が明快に要約しているので,引用する.
[T]he traditional view . . . is that [h]- was preserved before vowels throughout ME, though it could be dropped in words bearing weak stress, such as pronouns and forms of auxiliary have. Spelling errors involving <h>- are noted, but they are not considered sufficient evidence for [h]- loss, being dismissed by attributing them to '(Anglo-)Norman' scribes. The general validity of this treatment of errors, however, has been very convincingly questioned by Clark . . ., who labels it as a 'myth'.
現在では「アングロ・ノルマン写字生の神話」説は受け入れられていない.そこで,新しい仮説が現れた.中英語期に語頭の <h> は綴字としては旧来通りに残っていたが,発音としては消失したというものである.語頭の <h> の綴字を巡る誤りが頻繁であること,Pearl-poet などで <h> で始まる語と母音で始まる語が頭韻を踏む例があること,Chaucer などで語末の <e> の脱落に関して,後続する語頭の <h> と母音が同じ振る舞いを示すことなどから,語頭の [h] は発音としては失われていたと解釈すべきだという議論である.現在ではすでに伝統的となっている仮説だが,「#1675. 中英語から近代英語にかけての h の位置づけ (2)」 ([2013-11-27-1]) でも問題として取り上げたとおり,もし中英語期での消失を仮定すると,近代英語期でのほぼ完全なる「復活」をどのように説明するかという難問が生じる.Crisma (Were 52) もこの難点を指摘している.
Assuming an early and widespread loss of word-initial [h]- poses the problem of how to account for its eventual restoration. It seems dubious that this might have happened 'mainly via spelling and the influence of the schools' (Lass, 1992: 62), first because [h], if it was really generally lost at some point, was re-established without errors in all native words, which would be a spectacular success indeed.
語頭の [h] は消失したのか,しなかったのか.次いで,この問題を巡って折衷的な仮説が現れた.Milroy, J. ("On the Sociolinguistic History of /h/-Dropping in English." Current Topics in English Historical Linguistics. Ed. M. Devenport, E. Hansen, and H. -F. Nielsen. Odense: Odense UP, 1983. 37--53) は,語頭の [h] が消失した変種と消失しなかった変種があり,両変種が文体的な変異として話者個人のなかに共存していたと考えた.これによれば,近代英語期の語頭の [h] の復活も大きな問題とはならない.
現在,この折衷路線は,異なった形ではあるが,Paola Crisma や Julia Schlüter などの研究者が推進している.
・ Crisma, Paola. "Were They 'Dropping their Aitches'? A Quantitative Study of h-Loss in Middle English." English Language and Linguistics 11 (2007): 51--80.
・ Crisma, Paola. "Word-Initial h- in Middle and Early Modern English." Phonological Weakness in English: From Old to Present-Day English. Ed. Donka Minkova. Basingstoke: Palgrave Macmillan, 2009. 130--67.
・ Schlüter, Julia. "Consonant or 'Vowel'? A Diachronic Study of Initial <h> from Early Middle English to Nineteenth-Century English." Phonological Weakness in English: From Old to Present-Day English. Ed. Donka Minkova. Basingstoke: Palgrave Macmillan, 2009. 168--96.
英語史における /h/ の不安定性について h の各記事で扱ってきたが,今回は語頭の /h/ の歴史について,Crisma の論文を読んでみた.
この問題について従来唱えられてきた説の1つに次のようなものがある.語頭の /h/ は音としては中英語期に完全に消えたが,近代英語期に標準変種で復活を果たしたというものだ.だが,Crisma (136--37) は以下の3点を指摘しつつ,この説を批判している.
(1) この説によると,後の /h/ の復活は綴字発音 (spelling_pronunciation) の原理によるものということになるが,少なくともすべての本来語において復活した事実を考えれば,復活の完璧さと徹底ぶりは信じがたいほどである(「#1292. 中英語から近代英語にかけての h の位置づけ」 ([2012-11-09-1]) を参照).通常,綴字発音はここまで体系的には作用せず,単語ごとに単発で生じることが多い.
(2) 綴字発音の原理の作用と想定されている現象は,フランス借用語においては,効き始める時期が遅かった.なかには効き目が現れずに後の標準変種に残った heir, honest, honour, hour などの語も散見される.完全消失→完全復活という仮説では,フランス借用語と本来語の振る舞いの違いを説明できない.
(3) 近代英語期の /h/ の完全復活は /h/ を保っていた北部方言からの影響であると考える説もあるが,そもそもなぜ北部方言が標準変種に影響を与えうるのかが分からない.
代案として Crisma が唱えているのは,具体的な議論は込み入っているが,一言で次のようにまとめられるだろう.中英語において,語頭の /h/ は消えたわけではなく,基底に確たるものとして存在していた /h/ が,複雑に絡みあう条件のもとで,予期される [h] ではなく [φ] として実現された,ということである.Crisma は,中英語と近代英語のコーパスを駆使して,h で始まる語に先行する不定冠詞 a vs an の分布および所有形容詞 my/thy vs myn(e)/thyn(e) の分布を詳細に調査し,その調査結果を最適性理論 (Optimality Theory) で分析した.最適性理論は,淵源に生成文法の思想があり,深層(入力)と表層(出力)を区別する理論である.単純に /h/ が消失したとみるのではなく,入力には /h/ があったけれども出力としては [φ] となるものがあったと議論するのである.Crisma (158) の結論部を引用して,新説の要約としよう.
To sum up, I propose that the distribution of the different forms of the indefinite article and of the 1st and 2nd person singular possessive pronouns can be captured in its diachronic development in Middle and Early Modern English assuming that the phonetic realization of the phoneme /h/- became at some point `disliked' in the grammar of the language. This dislike results in its inability to surface in a series of contexts, which vary along time because of the slight differences in the interaction with other constraints on the well-formedness of the phonetic output. This proposal is empirically superior to theories failing to distinguish between true /h/-loss and a (sic) the coexistence of a lexical /h/-ful underlying representation with a contextually-bound [h]-less phonetic output, and therefore unable to account for the complex and apparently contradictory evidence.
・ Crisma, Paola. "Word-Initial h- in Middle and Early Modern English." Phonological Weakness in English: From Old to Present-Day English. Ed. Donka Minkova. Basingstoke: Palgrave Macmillan, 2009. 130--67.
中英語以降,h は常に不安定な発音であり,綴字と発音との関係において解決しがたい問題を呈してきた.h の不安定性については,「#214. 不安定な子音 /h/」 ([2009-11-27-1]) ,「#459. 不安定な子音 /h/ (2)」 ([2010-07-30-1]) ,「#494. hypercorrection による h の挿入」 ([2010-09-03-1]) を始めとする h の各記事で取り上げてきた通りである.しかし,中英語から近代英語にかけての h の位置づけについては,不安定だったことこそ知られているが,詳細はわかっていない.ある種の証拠をもとに,推測してゆくしかない.中英語以降における h の発音と綴字の関係について,Schmitt and Marsden (140) の記述に沿って説明しよう.
古英語では h は規則的に発音されていたが,ノルマン征服以降,フランス借用語が大量に流入するにいたって h を巡る状況は大きく変化した.Anglo-Norman 方言のフランス語では /h/ はすでに脱落しており,綴字上でも erbe (= herbe) や ost (= host) のように <h> が落ちることがあった.しかし,語源となるラテン語の形態 herba, hostem に h が含まれていたことから <h> が改めて綴られることとなった.後に初期近代英語で盛んになる etymological_respelling の先駆けである.この効果が歴史的に h をもつフランス借用語全体に及び,/h/ で発音されないが <h> で綴る多数の英単語が生み出された.実際には,発音における /h/ のオンとオフの交替がどの程度の割合で起こっていたのかを確かめるのは困難だが,脱落が頻繁だったことを示す証拠はあるという.例えば,18世紀末より前に,そもそも h を文字とみなしてよいのかという論評すらあったという (Marsden 140--41) .
しかし,この不安定な状況は,規範主義の嵐が吹き荒れた18世紀末に急展開を見せる./h/ の脱落は,階級の低い,無教育な話者の特徴であるとして,社会的な烙印 (stigmatisation) を押されたのである.劇作家 Thomas Sheridan (1719--88) は Course of Lectures on Elocution (1762) で,h-dropping を "defect" と呼んだ初めての評者だった.なぜこれほどまでに急速に stigmatisation が生じたのかはわかっていないが,以降,標準英語においては <h> = /h/ の関係が正しいものとして定着した.ただし,どういうわけか heir, honest, honour, hour の4語(アメリカ英語では herb を加えて5語)においては,/h/ の響かない中英語以来の発音が受け継がれた.一方,非標準変種,特にイギリス英語の諸変種では,現在に至るまで h を巡る混乱は連綿と続いている.極端な例として,Hi'm hextremely 'appy to be'ere. を挙げておこう.
Schmitt and Marsden の記述を読んでいると,h について謎が深まるばかりだ.発音としてはいつ消滅してもおかしくなかった /h/ が,標準英語においては,綴字と規範主義の力でほぼ完全復活を果たしたということになる.h のたどった歴史は,ある意味では英語史上最大規模かつ体系的な etymological respelling の例であり,spelling pronunciation の例でもある.Hope の主張する「#1247. 標準英語は言語類型論的にありそうにない変種である」 ([2012-09-25-1]) をもう一歩進めて,「標準英語は自然の言語変化の類型からは想像できないような言語変化を経た変種である」とも言えそうだ.
・ Schmitt, Norbert, and Richard Marsden. Why Is English Like That? Ann Arbor, Mich.: U of Michigan P, 2006.
[2010-07-30-1]の記事で,英語の <h> の綴字が表わす子音 [h] にまつわる混乱の歴史的背景を見た.そこでは英語語彙における <h> と [h] の関係を3パターンに分けたが,改めて分かりやすく図示してみよう.< > が綴字,[ ] が発音を表わす.
[h] | no [h] | |
<h> | host | hour |
no <h> | ? | able |
正用(形)・標準発音に自信のない人が,正用(形)・標準発音を意識しすぎてかえって誤った形式を用いることで,overcorrection (直しすぎ)とも hyperurbanism (過度都会風)ともいい,この形式を過剰修正形 ( hypercorrect form ) という.
[2010-07-13-1]で触れたように,過剰修正は話者が正用と誤用の差をある程度意識しているからこそ生じる言語現象である.h の場合でいえば,(多く教養のない)話者が <h> と [h] の混乱についてある程度は意識しているからこそ,歴史的に母音のみでよいところを,わざわざ /h/ を先行させて発音してしまうということになる.
この過剰修正を示す英語史上の興味深い例としては,16世紀中葉に書かれた Henry Machyn の Diary からの例がある.これはロンドンの仕立屋の私生活を綴った日記で,私的なだけに必ずしも標準的な綴字を示しているわけではない.そこで現れるのが,本来あるべきでないところに現れる <h> の綴字である.Helsinki Corpus で調査した Nevalainen (127) によると,Machyn が playing とすべきところを playhyng と綴り,ordained とすべきところを hordenyd と綴っている例があるという.
この場合には <h> がしっかりと綴られており,おそらくは [h] が発音されていたものと考えられるので,厳密にいえば playhyng や hordenyd が上のマトリックスの左下マスを埋める例とはなり得ない.しかし,このような非歴史的な /h/ が過剰修正形として私的な言語使用の場で用いられていたということは,標準綴字に <h> がなかったとしても /h/ が発音された例は多くあっただろうことを強く示唆する.現在でも,非標準語法に限れば左下マスは多くの例で埋まるのではないだろうか.
ちなみに,Nevalainen (127) によれば hypercorrect /h/ の使用が公に非難されるようになるのは規範主義の伝統が確立する18世紀終わりからであり,Machyn の時代にはまだ忌むべき誤用とはなっていなかったとのことである.
・ 大塚 高信,中島 文雄 監修 『新英語学辞典』 研究社,1987年.
・ Nevalainen, Terttu. An Introduction to Early Modern English. Edinburgh: Edinburgh UP, 2006.
現代英語にみられる発音の揺れについて,本ブログではこれまで controversy, harass, Caribbean と具体例を取り上げてきた.揺れ ( fluctuation ) があるということは言語変化の種である変異 ( variation ) があるということであり,音声変化が今まさに起こっていることを示唆するものと考えられる.
[2010-05-31-1]の記事で現代英語に起こっている言語変化の代表的なものを部門ごとに列挙したが,特に発音部門について,現在揺れを示している例,今後の音声変化を示唆する例を一覧にしておくと,言語変化ウォッチャーとしては便利だろうと考えた.そこで,Longman Pronunciation Dictionary の発音傾向調査 ( Pronunciation Preference Polls ) で取り上げられている,揺れを示す語をアルファベット順に取り出してみた.発音傾向調査の結果とともに詳しく解説されている語ばかりなので,音声変化の観点からは「注目語」とみなしてよいだろう.揺れの基準は英米差や世代差に関わるものが多いが,語ごとに異なっているのでこの一覧はあくまで目安と捉えておきたい.また,say は見出しとしては say となっているが,実際の揺れは3単現形 says の発音が [sez] か [seɪz] かという問題なので,個々の例については辞書を参照されたい.
absorb, absurd, accomplish, address, adult, again, ally, almond, alto, amphitheater, applicable, Asia, associate, association, assume, asterisk, ate, attitude, auction, aunt, baptize, bath, because, bedroom, been, bequeath, booth, bouquet, brochure, broom, capsize, caramel, Caribbean, casual, caviar, chance, chromosome, chrysanthemum, cigaret, circumstance, citizen, clandestine, coffee, communal, complex, congratulate, contribute, controversy, costume, coupon, covert, cream, create, creek, crescent, cyclical, data, debris, debut, decade, defect, deity, delirious, demonstrable, depot, deprivation, detail, diagnose, diphthong, direct, direction, discount, dispute, dissect, distribute, donate, drama, drastic, due, during, economic, ecosystem, egotistic, electoral, electronic, envelope, ephemeral, equation, equinox, evolution, exasperate, exit, exquisite, extraordinarily, falcon, false, February, fiance, finance, financial, forehead, formidable, garage, gibberish, giga-, Glasgow, gone, gradual, graph, greasy, H, halt, handkerchief, harass, herb, hero, historic, homogeneous, homosexual, hurricane, ice, idea, ideology, illustrate, impious, incomparable, increase, inherent, innovative, inquiry, insurance, involve, irrefutable, issue, jump, jury, justifiable, juvenile, kilometer, lamentable, lather, lawyer, length, -less, licorice, longitude, lure, luxurious, luxury, maintain, mall, malpractice, marry, masquerade, Massachusetts, mayonnaise, measure, migraine, mischievous, Muslim, necessarily, necessary, nephew, new, newspaper, niche, nuclear, often, ogle, omega, ominous, one, onerous, opposite, oral, orange, ordinary, pajama, palm, patriotic, patronise, perpetual, plaque, plastic, poem, Polynesia, poor, predecessor, premature, Presley, prestigious, presume, primarily, princess, privacy, process, project, protester, puncture, quagmire, quarter, questionnaire, real, really, regulatory, research, resource, respiratory, restaurant, room, route, salt, sandwich, say, scallop, schedule, schism, scone, semi-, shortcut, simultaneous, situation, soot, sorry, soviet, spectator, stereo, strength, student, submarine, subsidence, substantial, suggest, suit, sure, syrup, thanksgiving, thespian, tinnitus, tomorrow, transferable, transistor, transition, translate, tube, tune, umbrella, usage, vacation, vehicle, via, visa, voluntarily, were, white, with, year, yours, youth, zebra
一覧を作成している過程で驚いたのは,アルファベットの8文字目の H がイギリス英語の若年層で [heɪtʃ] と発音されるようになってきているということだ.LPD の以下の調査結果を参照.
Irish English では [heɪtʃ] が標準だということも知らなかった.[h] 音の脱落や spelling-pronunciation による復活については,これまでもいくつかの記事で扱ってきたが,文字名としての H 自身も関わっていたとは・・・.
・ Wells, J C. ed. Longman Pronunciation Dictionary. 3rd ed. Harlow: Pearson Education, 2008.
現代英語の3人称代名詞 it は,古英語では語頭に <h> の付された <hit> という綴字で用いられていた.[2009-09-29-1]に掲げた古英語の人称代名詞体系を見れば分かるとおり,すべての屈折形が <h> で始まっており,非常にきれいな体系をなしている.このなかで特に中性単数主格の <hit> は「軽い」参照機能を果たすときに語頭が弱まり,it へ変化して定着したと考えられている.古英語後期ですでに it の形態が確認されており,1200年頃からは強勢が置かれる環境ですら it が用いられるようになってくる.一方 hit は中英語期に衰退し,1500年頃まで細々と続いていたが,現在では北部方言で強調表現として使われる het, hit などを除いては廃用となっている.これが,古英語 hit が徐々に it に置換された歴史として一般的に語られる記述である.
しかし,その前史として興味深い説がある ( Scragg, p. 42fn ) .古英語の hit はより古い段階ではやはり <h> のない <it> であり,後に他の人称代名詞の屈折に合わせようとする類推作用 ( analogy ) によって <h> が加えられたのではないかという.つまり,[2009-09-29-1]に掲げた「すべてが <h> で始まるきれいな体系」は「きれいにされた」ものではないかという.これによると,it の歴史は,<h> のない形態から開始して,古英語期に類推によって <h> をとるようになったが,後に再び語頭音の弱化で <h> のない形態に回帰したということになる.
他のゲルマン語の同根語 ( cognate ) には,Old Saxon や Middle Low German の it,Low German の et,Gothic の ita,Old High German の ëz, Old Icelandic es があり,いずれも <h> をもっていない.しかし,Old Frisian や Middle Dutch には hit があるので,上記の説を正当化するならば,この2言語でも古英語と同様に類推が起こったと考えなければならないのだろう.
仮にこの説を受け入れるとして,it → hit → it と回帰した現代英語で将来的に再び hit になる可能性はあるだろうか.恐らくないだろう.現代英語の人称代名詞では,<h> を語頭にもつのは男性単数の he の屈折だけになってしまったので,古英語のときに働いた(とされる)「体系の要請する語頭音揃えの圧力」はすでに弱いのだから.
・ Scragg, D. G. A History of English Spelling. Manchester: Manchester UP, 1974.
昨日の記事[2010-08-01-1]の OANC からの結果に飽き足りずに,語頭を <h> と綴るが /h/ で発音されない単語をより多く探すべく,BNC でも同じことをやってみた.そちらのほうがおもしろい結果が出たので,結果報告する( OANC の面目丸つぶれ?).
216種類の語が得られたが,固有名詞や頭字語が多く,一覧してもあまりおもしろくない(見たい方はHTMLソースを参照).また,品詞のタグ付けに誤りがある例もあったので,今回はあくまで概要を知るための初期調査として理解されたい.一般名詞や形容詞に絞った117例をアルファベット順に示す.
habitual, habituated, habitué, haemoglobin, half, half-hour, hallucination, hallucinatory, hallucinogenic, handful, haphazardly, happy, haute-couture, hazard, heap, heartening, hedonistic, heir, heir-apparent, heiress, heirloom, hell, heparin, hepatic, heraldic, herbaceous, herbalist, hereditary, heretical, hermaphrodite, heroic, heterogenous, heterologous, heuristic, hexadecimal, hexagonal, hi, hiatus, hibiscus, hide, hierarchical, hierarchically, hierarchy, high, higher, hilarious, historian, historic, historically, historically-created, historically-evolved, historicist, historiographical, history, histrionic, hitherto, hockey, hole, holiday, holistic, holoenzyme, holy, home-grown, homogeneous, homologous, hon., honest, honest-to-god, honest-to-goodness, honestly, honesty, honorable, honorarium, honorary, honour, honour-able, honourable, honourably, honoured, honouring, hopeful, horchata, horizon, horizontal, horrendous, horrific, horror, hors-d'oeuvre, horse, hospital, host/target, hotel, hotel-keeper, hour's-worth, hour-an-a-half, hour-and-a-half, hour-glass, hour-long, hourglass, hourglass-shaped, hourly, hours, howitzer, human, humanities, humble, hundred, hydraulic, hydraulically, hydroxyapatite, hydroxyl, hypnotic, hypostasised, hypothesis, hypothetical, hysterical, hysterically
history, honest, honour, hour の関連語はやはり多い.おもしろいところを取りあげると,habitual, hallucination, hepatic, hereditary, heretical, heroic, hierarchical, hilarious, homogeneous, horizon, horrendous, horrific, hypothetical, hysterical あたりだろうか.いずれも第1音節に主強勢がおかれないので語頭の /h/ が特に弱まりやすい.ただ,第1音節に主強勢が落ちる例も少なくないことは確かである.
昨日の OANC での結果として出た herb や homage が BNC では出なかった.いずれの語も /h/ のない発音はアメリカ英語発音のみであるという辞書の記述と一致しているようだ.
それにしても,BNC と OANC の収録語数に差があるとはいえ,イギリス英語からの例の種類の豊富さは際立っている.確かにイギリス英語には h-dropping で名高い Cockney などの方言もあるし,/h/ の不安定さは著しいのではないかと予想はしていた.また,アメリカ英語では綴り字発音 ( spelling-pronunciation ) の傾向が強いことも一般論としては分かっていた.今回の BNC と OANC での初期調査の結果は予想と一致するものだったが,より詳しく調べていくと結構おもしろいテーマに発展してゆくかもしれない.
昨日の記事[2010-07-31-1]で OANC (Open American National Corpus) を導入したことを報告したので,今日はそれを実際にいじってみた報告をしよう.
お題は一昨日の記事[2010-07-30-1]で語頭の h を話題にしたので,それに引っかけて,語頭に <h> の綴字をもつが直前の不定冠詞に an を取る語を取り出してみた.[2009-11-27-1]でも触れたように,heir, honest, honour, hour のような語が /h/ をもたないことでよく知られているが,他にどのような語があるだろうか.今回はフラットな単純検索で,話し言葉と書き言葉を区別するとか,その他の細かい処理は行なっていない.以下に結果を頻度とともに一覧.
word | freq. |
---|---|
heir | 1 |
Henri | 1 |
herb | 2 |
hereditary | 3 |
Hermes | 1 |
historian | 1 |
historic | 6 |
historical | 1 |
HMO | 10 |
homage | 4 |
hommage | 5 |
honest | 24 |
honor | 5 |
honorable | 14 |
honorarium | 1 |
honorary | 13 |
honored | 1 |
honorific | 3 |
hour | 135 |
hourglass | 1 |
hourlong | 3 |
hourly | 1 |
hours-long | 1 |
[2009-11-27-1]に取りあげた話題の続編.英語の <h> の綴字が表わす子音 [h] にまつわる混乱は,この子音が単に音声的に不安定であるからばかりではなく,<h> を含んだフランス単語を英語が借用する際に一貫性を欠いていたという事情にもよる.このことを理解するには,話を古典ラテン語まで遡らなければならない.
古典ラテン語では <h> の綴字は /h/ として発音しており規則的だった.ところが,古典期も後期になると /h/ 音の脱落が始まった.ところが,綴字は <h> で固定していたので綴字と発音のズレが起こり出した.このズレた状態が後のロマンス諸語にもそのまま伝わった.中世のフランス語も例外ではなく,<h> と綴る単語では /h/ は決して発音されなかった.そして,英語は中英語期にこのようなズレを抱えたフランス語から大量の <h> を含む語を借用することとなったのである.
このとき,英語は <h> と綴るのに無音というズレに対処するのに3つの方法を採用した ( Scragg, p. 41 ).
(1) 発音しないのだから綴る必要なしということで <h> を落として取り入れた.able, ability, arbour などがあるが,例は少ない.(フランス語の habile, habileté,ラテン語の herbarium と比較.)
(2) ズレたフランス語の通りに従った.つまり,<h> と綴るが発音しないというズレを甘受した.heir, honest, honour, hour など,(1) よりは例が多い.(an historical study や an hotel のような例も参考.)
(3) 綴りがあるのだから発音しようという spelling-pronunciation の発想で <h> を /h/ として読むことにした.horrible, hospital, host など大多数の <h> を含む借用語がこのパターン.
英語は原則として (3) の方法を選んだ.これ自体は合理的であり,綴字と発音の関係がすっきりする.英語の spelling-pronunciation の歴史では,<h> と /h/ ほどに一貫して起こった spelling-pronunciation の例はないのではないか.まさに spelling-pronunciation の鏡といってよい.ただし,100%一貫していたわけではなく,少数の語ではあるが (1) や (2) が適用されてしまったことで,尊い完璧な分布の夢は崩れてしまった.(2) の少数の語によって,英語は中世ラテン語やフランス語の負の遺産を引きずることになってしまい,その混乱は現代英語にも続いているのである.
関連する話題として「アデランス」の記事[2010-04-22-1]も参照.
・ Scragg, D. G. A History of English Spelling. Manchester: Manchester UP, 1974.
先日,今年9月にアデランスが「ユニヘアー」に社名変更するという新聞記事を読んだ.アデランスにお世話になっているわけではないが,社名としてなくなってしまうのには一抹の寂しさがあるくらいに名の知れた企業である.幸い (?!) ブランド名としてのアデランスは残るようだ.
さて,アデランスは日本におけるかつら関連商品の代名詞となっているが,上級英語学習者であっても英語としてこの語を知っている者は少ないのではないか.アデランスと発音しても英単語を思い浮かべられないかもしれないが,adherence とスペリングで書けば,ああ!と思い当たるだろう.
この語は,フランス語の adhérence を借用した語で,「付着するもの」が基本的な意味である.確かに,安々とはがれてしまっては困る代物である.英語での発音は /ədˈhɪərəns/ だが,フランス語ではずばり /aderɑ̃s/ である.強勢は,日本語では第1音節,英語では第2音節,フランス語では第3音節に落ちるのがおもしろい.
フランス語ではこのように綴字に現れる /h/ は発音されない.英語にとって厄介なのは,フランス借用語を多く取り入れているために,フランス語由来の <h> を発音するか否かで単語ごとに揺れがあることだ.これについては,[2009-11-27-1]で話題にしたのでそちらを参照.ちなみに,社名アデランスの英語名は Aderans らしい.
昨日の記事[2009-11-26-1]で,「え゛ー」の子音は有声声門摩擦音ではないかとの意見を示した.非公式の意見とはいえ,複数の言語学者の出した共通見解ということで,ぜひ認めていただきたい.・・・という冗談は別として,発音記号で [ɦ] と表記されるこの子音と,その無声の片割れである [h] との関係を考えてみたい.
[h] と [ɦ] は,無声と有声の違いこそあれ,調音点と調音様式が同一のよく似た子音である.ところが,英語や日本語を含め多数の言語において,無声の /h/ は音素として存在しても,有声の [ɦ] は音素として存在しないことが多い.これは音素体系としては欠陥ともいえる.現代英語の摩擦音と閉鎖音の無声・有声の対立を表で示そう.
声門摩擦音以外は,きれいに無声と有声でペアをなしている.体系のなかで /h/ だけが孤立していることになる.この欠陥がなぜなのかはよくわからないが,有声の [ɦ] が比較的珍しい音だということははっきりしているので,/h/ が音韻論的に孤立する傾向にあることは確かである.
さて,[ɦ] が音素として欠けている事実は受け入れるよりほかないが,[2009-10-24-1]で触れたとおり,言語が体系や対称性を指向するものであるとするならば,この欠陥を解消しようという力は働いていないのだろうか.欠陥を解消するということになると,その方法は論理的には二種類ありうる.一つは,有声の [ɦ] を音素として取り入れるということである.だが,この音は先にも述べたとおり音声的には珍しい音であるし,その音素化 ( phonemicisation ) の傾向は現代英語に見受けられない.もう一つは,音素として存在する /h/ を消失させてしまい,無声・有声の対立の問題そのものをなくしてしまうことである.
現代英語に限らず英語の歴史において長らく採用されてきたのは,まさに後者の手段だった./h/ が失われれば問題が解消されるはずである.しかし,そう簡単には失われないのが現実である.欠陥がなかなか解消されず,結果として /h/ という音素は歴史的に常に不安定な音素であり続けてきた.heir, honest, honour, hour などの語頭の /h/ が発音されない問題,a historiy と並んで an history も可能であるという事実,ロンドンのコックニー訛り ( Cockney ) における /h/ の脱落,中世ラテン語やフランス語における /h/ の脱落 --- こうした問題は,頼りない音素 /h/ に起因するといえるだろう.
詳しくは,寺澤先生の著書を参照.
・寺澤 盾 『英語の歴史』 中央公論新社〈中公新書〉,2008年. 110--14頁.
(後記 2010/08/01(Sun):a history と並んで an history が可能というのは誤りで,a historical study と並んで an historical study が可能と書くべきところだった.history は第1音節にアクセントがあり,an を取りにくい.)
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