今月は FIFA World Cup の開催で South Africa が熱い.South Africa の英語使用については[2010-04-05-1]の記事で触れたが,今日は英語とも親戚関係にある Afrikaans を話題にする.
南アの言語構成は複雑である.1993年の憲法によると,実に11の言語が公用語として認定されている.Afrikaans, English, Ndebele, North Sotho, South Sotho, Swazi (Swati), Tsonga, Tswana, Venda, Xhosa, Zulu.このなかでも Afrikaans は英語と並んで,第一言語としても第二言語としても国内で広く影響力を保っている言語である.Afrikaans はゲルマン語派の系統図 ( [2009-10-26-1] ) にも組み込まれているとおり,英語とは広い意味で親戚関係にある.アフリカの南端でなぜヨーロッパに端を発する二つの西ゲルマン語が話されているかというと,オランダとイギリスによる植民地の歴史が背景にあるからである.1652年,オランダ東インド会社は南西端の喜望峰 ( the Cape of Good Hope ) に交易所を設けた.このときに当時のオランダ語 ( Dutch ) が持ちこまれ,現在おこなわれている Afrikaans ( 別名 Cape Dutch ) の種が蒔かれた.オランダ語の一変種として種が蒔かれた後は,ドイツやフランスからの移民,原住民の Khoisan,アフリカやアジアからの奴隷による使用により言語変化を経て,言語体系は非常に簡略化してきた.Afrikaans は文法カテゴリーとして格 ( case ) や性 ( gender ) を失なっており,この点で英語ともよく似ている.両言語とも,諸民族に揉まれるなかで簡略化を経てきたと言えるだろう.
Afrikaans についてはオランダ語との関係で,[2009-09-22-1]の記事でも少し触れているのでそちらも要参照.Ethnologue の Afrikaans の記述も参照.
南米のギアナ ( The Guianas ) は,他の南米の国々がスペイン語かポルトガル語を公用語とするのに対して,言語的には特異である.ギアナは西から順にガイアナ ( Guyana ),スリナム ( Suriname ),仏領ギアナ ( French Guiana ) の3地域からなるが,それぞれ植民地の歴史に応じて英語,オランダ語,フランス語が公用語となっている.ガイアナについては[2010-05-17-1]の記事で南米唯一の英語国として紹介し,そのピジン語 ( pidgin ) にも触れたが,今日はガイアナの東の隣国スリナムの歴史と言語事情を簡単に紹介したい.
スリナムは1995年に共和国として独立した旧オランダ植民地で,旧名はオランダ領土ギアナ ( Dutch Guiana ) といった.海岸部の低地はオランダの堤防・干拓技術により拓かれたオランダ風の町並みが見られ,現在でも経済的にオランダとの連携は強い.漁業は近年のスリナムの産業の一つで,海岸で穫れるエビは日本にも輸出されている.
公用語はオランダ語だが,もともとはイギリス植民地として出発した歴史を背景に,イギリスの奴隷貿易時代に端を発する英語ベースのクレオール語 ( creole ) がいくつか話されている.その中でも Sranan ( Sranantonga or Taki-Taki ) というクレオール語は民族をまたいで国民の95%以上に理解されるので,国内コミュニケーションの主要な媒体となっている.英語そのものも広く用いられている.
この地域へは1651年にイギリス人が入植していたが,第2次英蘭戦争の結果,1667年にオランダ領となった.代わりにイギリスへ割譲されたのが,アメリカの Nieuw Amsterdam (現在の New York City )である.後から思えば,この領土交換はオランダにとって最大の損失だったといえるだろう.17世紀のイギリスとオランダは,北海の漁業権,海上貿易・海運,植民地支配を巡って反目していたが,この英蘭戦争の後,オランダの威信は衰退していった.
オランダ領ギアナでは黒人奴隷によってタバコ,コーヒー,カカオ,サトウキビが栽培されていたが,1863年の奴隷廃止令に伴い,農業が不況となった.そこで契約労働者として多数のインド人が呼ばれた.また,同じオランダ領であったインドネシアのジャワからも移民が続々と押しかけ,米も栽培されるようになった.結果として,アジア的な雰囲気の色濃い文化と民族構成になっている.国民の 1/3 強がインド系,さらに 1/3 ほどが黒人クレオール系というから,"a fruit salad rather than a melting pot" と表現されるのもうなずける.こうした民族構成のなかで,オランダ語の影響をうけつつも数世紀をかけて発達してきた古い英語ベースのピジン語 Sranan が果たしている役割は大きい.Sranan の雰囲気を示すとこんな感じである.
Mi sa gi(bi) yu tin sensi ( I shall give you ten cents )
Ethnologue の記述も参照.
・ Svartvik, Jan and Geoffrey Leech. English: One Tongue, Many Voices. Basingstoke: Palgrave Macmillan, 2006. 181--83.
英語史で母音推移といえば,Great Vowel Shift ( see [2009-11-18-1] ) が圧倒的に有名だが,類似した母音推移は,Late Middle Chinese に生じたものなど世界にも例がある.現代英語に生じている母音推移としては,BrE で広がりをみせている Estuary English のものがよく知られているが,AmE にも五大湖南岸の大都市で生じている Northern Cities Shift も有名である.
Northern Cities Shift は Chicago, Detroit, Cleveland, Buffalo などの諸都市を核に周辺の州へも拡大している様子である(下の地図を参照).
GVS が長母音に起こっているのに対して,NCS は短母音に起こっているのが特徴的である.おもしろいことに,英語史では長母音の変化こそ頻繁に起こっているが,短母音は古英語以来かなり安定しており,体系的に推移したことはない.NCS は,英語の短母音体系が千年以上の眠りから覚めて,歯車のようにゆっくりと回り出しかのような珍しい母音推移である.NCS は,AmE のなかでも特に中立的で標準的な General American の発音をもつとして自他共に評価していた Michigan などで生じているので,今後,どのような展開を示すかが気になるところである.
母音推移は,下の図でまとめられる.
新しい母音音素が増えたわけではなく,あくまで既存の体系のなかで chain shift が起こっているだけである.生起したとされる順番を見る限り,push chain と drag chain の両機構が働いているようだ.
これは慣れないとコミュニケーションの阻害要因になるだろうなあ.Ann (女子) が Ian (男子)になってしまう.
・ Svartvik, Jan and Geoffrey Leech. English: One Tongue, Many Voices. Basingstoke: Palgrave Macmillan, 2006. 239--41.
英語の歴史は,449年に北ドイツや南デンマークに分布していたアングル人 ( Angles ),サクソン人 ( Saxons ),ジュート人 ( Jutes ) の三民族が西ゲルマン語派の方言を携えてブリテン島に渡ってきたときに始まる ( see [2009-06-04-1] ).ケルトの王 Vortigern が,北方民族を撃退してくれることを期待して大陸の勇猛なゲルマン人を招き寄せたということが背景にある.その年を限定的に449年と言えるのは,古英語期の学者 Bede による The Ecclesiastical History of the English People という歴史書にその記述があるからである.この記述は後に The Anglo-Saxon Chronicle にも受け継がれ,ブリテン島における英語を含めた Anglo-Saxon の伝統の創始にまつわる神話として,現在に至るまで広く言及されてきた.The Anglo-Saxon Chronicle の北部系校訂本の代表である The Peterborough Chronicle の449年の記述から,有名な一節を古英語で引用しよう.現代英語訳とともに,Irvine (35) より抜き出したものである.
Ða comon þa men of þrim megðum Germanie: of Aldseaxum, of Anglum, of Iotum. Of Iotum comon Cantwara 7 Wihtwara, þet is seo megð þe nu eardaþ on Wiht, 7 þet cyn on Westsexum þe man nu git hæt Iutnacynn. Of Ealdseaxum coman Eastseaxa 7 Suðsexa 7 Westsexa. Of Angle comon, se a syððan stod westig betwix Iutum 7 Seaxum, Eastangla, Middelangla, Mearca and ealla Norþhymbra.
PDE translation: Those people came from three nations of Germany: from the Old Saxons, from the Angles, and from the Jutes. From the Jutes came the inhabitants of Kent and the Wihtwara, that is, the race which now dwells in the Isle of Wight, and that race in Wessex which is still called the race of the Jutes. From the Old Saxons came the East Saxons, the South Saxons, and the West Saxons. From the land of the Angles, which has lain waste between the Jutes and the Saxons ever since, came the East Anglians, the Middle Anglians, the Mercians, and all of the Northumbrians.
この一節に基づいて形成されてきた移住神話 ( migration myth ) は,いくつかの事実を覆い隠しているので注意が必要である.449年は移住の象徴の年として理解すべきで,実際にはそれ以前からゲルマン民族が大陸よりブリテン島に移住を開始していた形跡がある.また,449年に一度に移住が起こったわけではなく,5世紀から6世紀にかけて段階的に移住と定住が繰り返されたということもある.他には,アングル人,サクソン人,ジュート人の三民族の他にフランク人 ( Franks ) もこの移住に加わっていたとされる.同様に,現在では疑問視されてはいるが,フリジア人 ( Frisians ) の混在も議論されてきた.移住の詳細については,いまだ不明なことも多いようである ( Hoad 27 ).
上の一節にもあるとおり,主要三民族は大陸のそれぞれの故地からブリテン島のおよそ特定の地へと移住した.大雑把に言えば,ジュート人は Kent や the Isle of Wight,サクソン人はイングランド南部へ,アングル人はイングランド北部や東部へ移住・定住した(下の略地図参照).古英語の方言は英語がブリテン島に入ってから分化したのではなく,大陸時代にすでに分化していた三民族の方言に由来すると考えられる.
西ゲルマン諸民族のなかで,特に Jutes の果たした役割については[2009-05-31-1]を参照.また,上の一節については,オンラインからも古英語と現代英語訳で参照できる.
・ Irvin, Susan. "Beginnings and Transitions: Old English." The Oxford History of English. Ed. Lynda Mugglestone. Oxford: OUP, 2006. 32--60.
・ Hoad, Terry. "Preliminaries: Before English." The Oxford History of English. Ed. Lynda Mugglestone. Oxford: OUP, 2006. 7--31.
ELF ( English as a Lingua Franca ) を扱っている本にはよく掲載されているが,現代世界における英語の広がりを示す世界地図がある.最初は Strevens によって作成されたが,後に改変されたものが Crystal (70) に現れた.Crystal 版のタイトルは "A family tree representation (based on a model by Peter Strevens) of the way English has spread around the world, showing the influence of the two main branches of American and British English".
Crystal の地図をそのままブログに掲載することはできないので,今回はそれをもとに作成した「ちょっと改訂版」を掲げる.ELF という文脈なので,英米ではなくあえて日本を中心にした世界地図の上に英米二大変種の展開を描いてみた.
この地図は,現代世界でおこなわれている主な英語の地域変種の祖をイギリス変種とアメリカ変種のいずれかに遡らせており,結果として歴史的展開と地理的展開を同時に表現することに成功している.英米二大変種の影響力が一目瞭然であり,概念図としては非常によくできていると思う.
一つの English が諸方言へ次々と枝分かれしていく様はちょうど印欧語族の系統図 ( see [2009-06-17-1] ) を想起させるが,[2010-05-03-1]の記事で話題にした「系統と影響は必ずしも峻別できない」という議論も同時に想起させられる.というのは,青とピンクに色分けされた二本の大枝は歴史的な「系統」を示すものの,現代では両者間の「影響」,特にアメリカ変種からの「影響」が著しく,現実的には青とピンクが混交しているからである.[2010-04-21-1]の記事で触れた英語の Americanization は,この地図でいえばさしずめピンク化ということになろう.
・ Strevens, P. "English as an International Language." The Other Tongue: English across Cultures. Ed. B. B. Kachru. Urbana: U of Illinois P, 1992.
・ Crystal, David. English As a Global Language. 2nd ed. Cambridge: CUP, 2003.
(後記 2010/05/23(Sun):Strevens のオリジナルとして挙げた Strevens の書誌情報は誤っていました.正しくは,以下のものです.また,いろいろな場所で再掲されているようです.
・ Strevens, Peter. Teaching English as an International Language. Oxford: Pergamon P, 1980.
・ Strevens, Peter. "English as an International Language: Directions in the 1990s." The Other Tongue: English across Cultures. 2nd ed. Ed. B. B. Kachru. Urbana: U of Illinois P, 1992.
・ McArthur, Tom. "Models of English." English Today 32 (October 1992). 12--21.
・ McArthur, Tom. The English Languages. Cambridge: CUP, 1998. 94.
)
1588年,Philip II 率いるスペイン無敵艦隊 ( the Spanish Invincible Armada ) が Elizabeth I 率いるイングランドに敗北を喫した事件は,歴史上に名高い.この事件により,ヨーロッパにおける政治・軍事・交易の大国たるスペインの威信が揺らぐこととなり,代わってイングランドが国際情勢に影響力をもつようになった.
海戦の背景には,当時の複雑な政治情勢があった.まず Catholic Spain にとって Protestant England をカトリック国へ回帰させることは至上の課題だった.また,England が the Spanish Netherlands の独立を支持したことも Philip II を怒らせた.そのほか,England が海賊行為をもって大西洋貿易に絡んできたことも Philip II にとっては我慢ならないことであった.
Philip II は二年がかりで艦隊を作り上げ,1588年,いざ England へと出航させた.ところが,準備不足だった.スペイン艦隊は the Spanish Netherlands に戦略基地となるはずの港をしっかり確保しないままにイングランド海域に突っ込んでしまったのである.攻め損なったスペイン艦隊は逆に北海へ敗走させられ,スコットランドを回ってスペインへの帰路につかざるをえなかった(地図参照).こうして,スペイン艦隊は戦略ミスによりあっけなく敗退した.
この事件がもつ英語史上の意義は,英語を携えたイングランドが国際的な競争力を回復した点にある.百年戦争後の100年間で,かつてフランスにもっていた領土をすべて失ってしまったイングランドは,すっかり自信をなくしていた.そこへ今回の起死回生の大国スペイン打倒である.競争力と自信を取り戻したイングランドは,今後,堂々とアメリカへの進出を果たしてゆく.これが数百年後の英語の世界化への足がかりになったことはいうまでもない.
海戦の詳細については,British History in depth: The Spanish Armada が参考になる.
日本人にとってイギリスという国は,明治時代より親近感をもって見られてきた.
日本の皇室とイギリスの王室という類似点,明治以来の両国の交流,日英同盟の経験が,その親近感を醸成してきたといってよい.さらには,地理的な共通点,すなわち日本とイギリスはともにユーラシア大陸の両端に位置する島国という点で共通している,ということが言われる.
しかし,特に最後に挙げた共通点には注意しなければならない.ともにユーラシア大陸の両端にある島国であることは,純粋に地理的な観点からは確かにその通りなのだが,歴史的にみると,イギリスには島国らしからぬ特徴がある.
イギリスはその歴史においてブリテン島のみにとどまっていた期間は驚くほど短い.中世以来,イギリスがブリテン島の外側に領土を有していなかった経験は,16世紀のElizabeth朝の短期間に過ぎない.それ以前も以降も,イギリスは海外のどこかしらに領土をもっていたのである.つまり,内から外へ展開していた.また,イギリスはそもそも海外からの移住・征服によって形成されてきた国であることからして,外から内へも開かれていた.このように,あたかも地続きの国であるかのように内外の移動が自然だった.大陸と海で隔てられていることを感じさせない「島国」である.この点,同じ「島国」でも,日本は,外からの大規模な移住・征服を経ていないし,海外に領土をもつようになったのは近代期のみである.
なぜ同じ島国もでこのように異なるか.その大きな要因は地勢にある.以下の地勢図を比べてみれば,ブリテン島は,西部や北部に高地(黄色い部分)が広がっているが,大陸に向かう南東部は低地(緑の部分)である.海峡を越えたフランス側も低地であるから,ブリテン島がまさに大陸に向かって開かれていることがわかる.山から一気に低地に駆け下りて,海峡をひとまたぎ,といったふうである.
それと対照的に,日本は国土のほとんどが山間部である.対馬海峡をまたいで朝鮮半島側も山間部であるから,勢いをつけて一またぎというわけにはいかない.地勢からして,大陸に向かって開かれていないのである.
そんな日本ですら,文化的にも言語的にも大陸の影響を相当に受けてきた.ましてや,ブリテン島の文化や言語が大陸の影響を受けずにすまされるわけはない.英語史を考える上でも,ブリテン島の地勢の特徴を念頭においておく必要があるだろう.
[2009-08-31-1], [2009-09-02-1], [2009-09-14-1]などでフラマン語 ( Flemish ) について触れたが,そもそもフラマン語とは何かについて触れていなかった.英語史でもちらほらと顔を出してくる言語なので,簡単に紹介する.
言語的にいえば,「フラマン語=オランダ語」とイコールでつなげて差し支えない.英語でも Flemish と Dutch と呼称を分けるが,事実上は同じ言語と考えてよい.なぜ呼称を分けるかといえば,それぞれの背後に控えている国家が異なるからである.オランダ ( The Netherlands ) という国で使用されるオランダ語のことを「オランダ語」 ( Dutch ) と呼び,ベルギー ( Belgium ) という国で使用されるオランダ語のことを「フラマン語」 ( Flemish ) と呼び分けているだけの話しである.
ただ,ベルギーで話されている地方変種に Vlaams と呼ばれる言語があり,これに Flemish という英単語を当てる場合があるので注意を要する.この場合には,Flemish はいわゆるオランダ語の一方言という意味になる.Flemish という語にこのように二つの用法があることが混乱のもとのわけだが,いずれにせよ,同じ言語のわずかばかり異なる変種ととらえておけばよい.詳細な情報は,Ethnologue のベルギーの項とEthnologue のベネルクス言語地図を参照.
さて,Dutch とか Flemish とか,異なる呼称を用いることは混乱を招くので,分けずに Netherlandic language と呼ばれることがある.確かにこのほうがすっきりする.名前を改め Netherlandic language は,現在,以下のような国・地域で使用されている.
・オランダ(公用語として)
・ベルギー北部のフランドル地方(英語名 Flanders 「フランダース」)(フランス語とともに国の公用語として)
・フランス北西部のベルギー国境地域(8万人ほどの話者がいる)
・スリナム(行政の言語として.地図を参照.)
・オランダ領アンティル諸島 ( the Netherlands Antilles )(行政の言語として.地図を参照.)
これとは別に17世紀に南アフリカの植民地に Netherlandic language が持ち込まれ,そこから独自に発展した言語がある.これは現在 Afrikaans と呼ばれている言語で,南アフリカ共和国で広く話されている同国の公用語の一つである.
さて,この Netherlandic language (とそこから派生した Afrikaans )は,印欧比較言語学によると,英語と同じ西ゲルマン語派に属しており,そもそも英語との関係はかなり近い(印欧語の系統図[2009-06-17-1]を参照).西フランク族の話していた Old Low Franconian なる言語が,紀元700年頃に周辺のゲルマン諸語との言語接触を経て「生まれ変わった」のが Netherlandic language と考えられている.この新生言語で書かれた現存する最も古い文献は,12世紀末のものとされる.ちなみに英語の最古の文献は700年頃とされるので,文献学的には Netherlandic language は「新しい言語」に見える.
昨日[2009-09-09-1]に引き続き,民族名称接尾辞 -i の話題.-i を英語の語彙項目として扱ってよいか不明という話をしたが,もし扱ってよいことにしても,やはり相当に珍しい接尾辞となる.
接尾辞は,たいてい基体のもつ何らかの条件にしたがって付加される.典型的には基体の音韻・形態の条件や語彙的な条件である.例えば,別の民族名称接尾辞の -ese でいえば,基体に /n/ 音が含まれていることが多い ( ex. Cantonese, Chinese, Japanese, Milanese, Pekinese, Taiwanese, Viennese ) .この場合,条件というと言い過ぎかもしれないが,このような傾向があることは間違いない.
語彙的な条件の例としては,[2009-09-07-1]で話題にしたように,接尾辞 -ish は色彩語や数詞という語類に付加する傾向が顕著である.また,例外があるとはいえ,-ish は名詞や形容詞に付くのが原則である.ここにも語類という語彙的な制限がかかっている.
ところが,民族名称の接尾辞 -i の場合は,条件がさらに複雑かつ特異である.確かに,国・地域の名称に付加されるという語彙的な条件はある.さらに,例証はされないものの,おそらくは *Lebanoni, *Libyai, *Moroccoi などという語は音韻的な条件にブロックされて生じないだろうと推測される ( Bauer 253 ).だが,条件はそれだけではない.「中東・アジア」という地理が関わってくるのである.音韻や語彙の条件が言語内で発生する条件であるのに対し,地理の条件はあくまで言語外の条件である.この点が特異である.
地理的な条件というのは,既存の例から判断する限りこのような条件が設定されているようだという類のもので,今後この条件を乗り越える派生語が誕生する可能性を否定するものではない.だが,大雑把にいって下の地図の円内が,接尾辞 -i にとって prototype たる地域であると言える.円から外れる可能性はあるが,遠く外れれば外れるほど -i が適用される可能性は低くなると考えられる.
以上,Bauer (254) に示されている見解を解説して視覚化してみたが,prototype 理論を -i が付加されうる地理的領域へ適用したという発想がおもしろいと思った.
・ Bauer, Laurie. English Word-Formation. Cambridge: CUP, 1983. 253--55.
現在の言語学では,通時的な研究にしろ共時的な研究にしろ,方言が重視されている.とりわけ中英語に関しては方言研究が盛んである.その現れの一つとして,このブログでも何度か紹介してきたが,初期中英語期の方言地図 LAEME がオンラインで公表されたことが挙げられる.
とりわけ中英語研究が方言学と相性がよいのには理由がある.古英語や現代英語では,標準語なるものが存在する.ここでは 標準変種 ( standard variety ) と呼んでおくことにしよう.古英語では書き言葉に限定すれば West-Saxon 方言が標準変種であったし,現代英語では英国に限定すれば BBC English や Estuary English などが標準変種とされる.このように社会的に広く認められた標準変種が存在すると,そうでない変種,特に地方方言は,標準から逸脱した変種,堕落した変種としてとらえられることが,従来は多かった.このような従来の風潮では,方言研究は亜流であるとのステレオタイプから免れることは難しかった.
ところが,中英語にはそもそも標準変種と呼ばれるものがない.確かに中英語の末期には書き言葉標準の萌芽が見られるようになるが,確立された標準変種は,中英語期を通じてほぼなかったといってよい.政治・経済・文化の中心地たるロンドンで話されていた言葉ですら,特別視されるような変種ではなく,あくまで「ロンドン方言」であった.したがって,中英語には標準変種もなければ,方言間の社会的な上下差もなく,まさに各方言が百花繚乱に咲き乱れた時代といえる.
その百花繚乱の中英語方言を地理的に区分する試みは古くからなされているが,どんな言語特徴を基準に区分するかによって諸説ある.下に掲げたのは,現在,比較的ひろく受け入れられている区分である.
区分線は,およそ注目する語(群)の等語線 ( isogloss ) によるが,その選択は恣意的である.また,特に West Midland と East Midland を分ける線などは,実際にはこれほど明確ではなく,かなり曖昧であった.地図上の区分はあくまで目安までに.
・ Laing, Margaret and Roger Lass, eds. A Linguistic Atlas of Early Middle English, 1150--1325. http://www.lel.ed.ac.uk/ihd/laeme1/laeme1.html . Online. Edinburgh: U of Edinburgh, 2007.
日本では新型インフルエンザが早くも猛威をふるっており,今年度の後期は注意を要する学期になりそうである.
流行病は世界中でいつの時代でも脅威であったが,14世紀中葉にヨーロッパを席巻したペスト被害である黒死病 ( Black Death ) は,当時のヨーロッパ社会にとって一大事件であった.様々な推計があるが,ヨーロッパの全人口の三分の一が死んだというからすさまじい.イングランドだけでも200万人が死んだとされ,1300年と1400年の時点での人口を比べると半減しているという.それ以前の西洋史において,黒死病ほど多くの人命を奪った出来事は,戦争や他の疫病を含めてためしがない.
このペストは,1347年に中央アジア方面からコンスタンティノープルに侵入してきたのち,地中海貿易経路をたどり,翌1348年にはイタリア,フランス,イングランドの南部に到達.続く1349年,1350年とかけて,ヨーロッパの内陸部や島嶼部の奥へも広がっていった(地図参照).
わずか数年という短期間でこれだけの人口が死んだわけであるから,人々の話す言語にも相応のインパクトがあった.イングランドでは,1066年のノルマン人の征服 ( Norman Conquest ) 以来,支配者の言語としてフランス語が優位にあった.農民を含めて庶民はみな英語話者であり,人口こそ多かったものの,英語の社会的地位はまだ低かった.ところが,14世紀に入ると,1337年に英仏百年戦争 ( Hundred Years' War ) が始まり,フランス語が敵対語になったこともあり,イングランドにおける英語の復権が徐々に始まっていた.そのタイミングで,黒死病が勃発したのである.
英語史における黒死病の意義は小さくない.疫病は襲う人を選ばないとはいうものの,劣悪な生活環境にある社会の底辺の人々や,逃げ場のない閉ざされた空間たる修道院などで特に猛威をふるった.労働者が激減したことによって,労働力の需要が高まり,それに応じて労働者の社会的地位も高まった.
もともと人口過密状態だったところでは,人口が減ることで庶民の生活条件が改善されたということもあった.だが,その恩恵にあずからない不満分子の農民たちが1381年に農民一揆 ( Peasants' Revolt ) を起こし,一般庶民の地位の向上をさらに訴えた.それに応じて,彼らの言語である英語の地位も着々と向上していった.
一方,当時,都市に集まって社会集団を形成していた職人たちの社会的地位も向上し,農民でも貴族でもない実力をもった中産階級が台頭することになった.このことも,英語の地位の向上に結びついた.1356年に地方裁判所の記録が初めて英語でとられ,続いて1362年に議会の開会宣言が初めて英語でなされたことは,英語の地位の向上を如実に物語っている.
さて,そもそも黒死病を引き起こしたペストのヨーロッパ上陸は,13世紀にシルクロードを通じて東西の交流が盛んになったことと関係する.ペストを保菌していたインド産のクマネズミ ( Rattus rattus ) が,おそらくは気候変動による食物連鎖の不順が原因で,インドを出て西進し,その菌がシルクロードを運ばれたという.
以下は戯れの if に過ぎないが,もしクマネズミが西進しなければ,ヨーロッパで黒死病は起こらなかったかもしれない.もし黒死病が起こらなければ,イングランドでの英語の復権はもっと遅れていたかもしれない.もし遅れていれば,場合によっては,英語は書き言葉として定着する機会を永遠に得られず,イングランド社会はフランス語優勢のまま進んだかもしれない.そうすると,後に英語はアメリカへ渡ることもなかったろうし,現在,世界語としての地位を確立していることもないだろう.そうすると,われわれ日本人が義務教育として英語を学ぶこともなかったろうし,このブログ自体も存在していないかもしれない・・・.
英語史を動かした(かもしれない)インドのクマネズミ,恐るべし.
[2009-08-06-1]の記事で,100年ほど前に,印欧語族の centum グループに属すると証明されたトカラ語 ( Tocharian ) について簡単に触れた.トカラ語について,少し調べてみた.
1890年代に紀元6?8世紀のものとされるトカラ語の記された仏教文献が,中国の新疆ウイグル自治区 ( Uygur Autonomous Region of Xinjiang ) で発見された.(新疆ウイグル自治区といえば,一ヶ月ほど前に大規模暴動があったばかりなので記憶に新しいだろう.)
この地では,現在では主としてアルタイ語族 ( Altaic ) のチュルク語派 ( Turkic ) の言語であるウイグル語 ( Uighur ) が話されている.どうも,このウイグル語が10世紀くらいまでにトカラ語を滅ぼしたようだ.
この地からのトカラ語文献の発見は,かつてここに印欧語族の担い手が居住していたことを示唆し,歴史的に大変に興味深い発見であるが,比較言語学的にも同じくらい興味深い疑問を提供してくれている.その一つは,印欧語圏では最も「東」に位置していながら,言語的には「西」的な特徴を示す centum グループに属していることである.語彙的には satem グループのイラン語派やサンスクリット語の影響を受けていながらも,音韻的には明らかに centum グループと関連づけられることは,「百」を表す語が Tocharian A では känt,Tocharian B では kante であることからも知られる([2009-08-05-1]).だが,centum グループのどの語派と類縁関係があるのかはよくわかっていない.
Despite its historical position on the eastern frontier of the Indo-European world and the obvious lexical influence of Indo-Aryan and Iranian, Tocharian seems more closely allied linguistically with languages of the Indo-European northwest, particularly Italic and Germanic, in the matter of common vocabulary and certain verbal categories. To a lesser extent Tocharian appears to share certain features with Balto-Slavic and Greek. ( Tocharian languages. Encyclopaedia Britannica. Encyclopaedia Britannica 2008 Ultimate Reference Suite. Chicago: Encyclopaedia Britannica, 2008. )
上に挙げた Tocharian A,Tocharian B というのは,それぞれ別名で East Tocharian,West Tocharian と呼ばれるが,タリム盆地 ( Tarim Basin ) の東に位置するトルファン ( Turfan ) と西に位置するクチャ ( Kucha ) のそれぞれで発見された文書の言語に与えられた暫定的な名称である.下の地図は,Turfan と Kucha のおよその位置を示したものである.
Tocharian A と B は互いに方言関係にあるとも言われるが,別の有力な説によれば,A は仏典にのみ用いられ言語的に体系化されているため仏典用の文語であり,B は仏典以外の商用文書にも用いられていることから口語であるともされる.A で書かれた写本と B で書かれた写本が合わせて東の僧院から発見されており,これは西側出身の僧が,古い教えの上に乗る形で,新しい布教を主導した可能性を示唆する.
一つの発見によって,様々な角度から検証が加えられ,少しずつ歴史が解明されてゆく.まさに,比較言語学のロマンである.
5世紀,ブリトン人(ケルトの一派)が北方のピクト人・スコット人に対抗するために,大陸のゲルマン人に援助を求めた.そこで,アングル人 (Angles),サクソン人 (Saxons),ジュート人 (Jutes) が後に英語と呼ばれる言語を携えてブリテン島へやってきた.彼らは招待主であるブリトン人を排除し,自らの王国をブリテン島に樹立した.以上が,英語の始まりを告げる出来事である.
アングル人とサクソン人は "Anglo-Saxon" という語を通じ広く知られている.特にアングル人などは "England" や "English" という語そのものに貢献している.それに比べて,ジュート人は非常に影が薄い.彼らは,現在のデンマークのユトランドからやってきたとされる.ユトランドは,英語では "Jutland" 「ジュート人の地」と表記する(地図参照).
ジュート人は,ブリテン島では Kent,the Isle of Wight, そして一部 Hampshire に住み着いたようだ.
さて,比較的かげの薄いジュート人の名誉のために,彼らの果たした歴史的役割を紹介しておこう.古英語期に活躍した歴史家・神学者の Bede によれば,ブリトン人の王 Vortigern が援助を求めて大陸から呼び寄せたゲルマン人を統括していたのは Hengist と Horsa という名の兄弟であった.彼らの子孫が後にケント王国を治める王となったことから,この家系はジュート人だった可能性が高い.つまり,ブリテン島に英語が根付く最初の契機に関わったのは,ジュート人の首領だったというわけである.彼らがブリテン島への定住の先鞭をつけ,その後で,大陸に残っていたアングル人やサクソン人を含む親戚を,追加的にブリテン島へ呼び寄せたのである.
ジュート人の英語史上の意義,つまりブリテン島で英語を開始したという功績,は念頭に置いておきたい.
授業で英語を含むゲルマン語派の系統図を学んだ.下の地図は,ヨーロッパにおける現在のゲルマン諸語の分布である.
ゲルマン語派の3区分のなかで東ゲルマン語派はいずれも死語となっており影が薄いように思われるが,そのなかのゴート語は英語史的には次の二つの観点から非常に重要な言語である.
(1) ゲルマン諸語のなかで最も古い文献が現存する.具体的には,4世紀に Wulfila によって西ゴート族のために翻訳された聖書の写本が現在に伝わっている.古英語やその他のゲルマン諸語の文献が現れるのが700年頃からなので,ゴート語はそれに先立つこと実に4世紀ほどという早い段階のゲルマン語の姿を見せてくれる.実際に言語的にはウムラウトを示さないなど非常に古く,最もゲルマン祖語 (Proto-Germanic) に近いとされるので,古英語や古英語以前の歴史を知るのに重要なヒントを与えてくれる.
(2) ゴート語の担い手であったゴート族は,フン族などの異民族とともに,4世紀にローマ帝国を崩壊させた.ローマ帝国の弱体化により,ローマのブリテン支配も410年に終焉した.そして,このブリテン島の無政府状態につけ込む形で侵入したのが,後に英語と呼ばれる言語を話していたAngles,Saxons,Jutesといった西ゲルマンの部族だったのである.つまり,大陸ヨーロッパにおけるゴート族の活躍がなければ,ブリテン島に英語は根付かなかった(かも?)
ちなみに,「ゴシック様式」「ゴシック建築」などと用いられる形容詞としての「ゴシック」は,ゴート人が用いた様式のことを直接的に指すわけではない.ローマ帝国を滅ぼしたゴート族を「野蛮で洗練されていない」部族と評価したルネサンス期のヒューマニストたちが,中世に流行った様式を同様に「野蛮で洗練されていない」と蔑視したことに由来する.
Powered by WinChalow1.0rc4 based on chalow