英語の歴史は1500年以上にわたりますが,その間の文法変化の潮流を一言で表現するならば「総合から分析へ」に尽きます.もしテストで英語史の文法変化を概説しなさいという問いが出されたならば,このフレーズを一言書いておけば100点満点中及第点の60点は取れます(←本当のテストではそう簡単な話しではないですが,それくらい重要だという比喩として解釈してください).もう少し丁寧に答えるならば「英語は総合的な言語から分析的な言語へとシフトしてきた」となります.
英語は,古英語から中英語を経て近(現)代英語に至る歴史のなかで,言語の類型を逆転させてきました.古英語は総合的な (synthetic) 言語といわれ,近現代英語は分析的な (analytic) 言語といわれます.変化の方向は「総合から分析へ」 (synthesis to analysis) への一方向ということになります.
ですが,言語において「総合」や「分析」とはそもそも何のことでしょうか.あまり良い術語ではないと常々思っているのですが,長らく確立してしまっているので仕方なく使っています.ざっと説明しましょう.
言語における「総合」とは,語の内部構成に関する形態論的な指標のことです.総合的な言語では,語は典型的に語彙的な意味を表わす部品(語幹)と文法的な機能を担う部品(屈折語尾など)の組み合わせからなっており,後者には複数の文法機能が押し込められていることが多いです.それ以上分割できない1つの小さな屈折語尾に,複数の文法機能が「総合的」に詰め込められているというわけです(英単語の synthesis は,異なるものを1つの箱に詰め込んで統合するイメージです).
一方,「総合」に対して「分析」があります.分析的な言語では,語を構成するパーツの各々が典型的に1つの機能に対応しており,形態と機能の紐付けが一対一で単純です(英単語の analysis は,もつれ合った糸を一本一本解きほぐすイメージです).
例えば,古英語で「家々の」を意味した hūsa (hūs + -a) を考えてみましょう.語幹の hūs が語彙的意味「家」を担い,屈折語尾 -a が複数・所有格の文法機能を担っています.-a は形態的にはこれ以上分解できない最小単位ですが,そこに数と格に関する2つの情報が詰め込まれているわけですから,この語形は総合的な性質を示しているといえます.一方,現代英語で「家々の」に対応する表現は of houses となり,house- が語彙的意味「家」を担っている点は古英語と比較できますが,複数は -s 語尾によって,属格(所有格)は of によって表わされています.数と格の各々の機能が別々のパーツで表わされているわけですから,この語形は分析的といえます.
もちろん現代英語にも総合的な性質はそこかしこに観察されます.動詞の3単現の -s などは,その呼び名の通り,この1音からなる小さい部品のなかに3人称・単数・現在(・直説法)という複数の文法情報が詰め込まれており,すぐれて総合的です.また,人称代名詞でも I, my, me などのように語形を変化させることで異なる格を標示しているのも,総合的な性質を示すものといえます.しかし,名詞,代名詞,形容詞,動詞などの主要語類の語形について古英語と現代英語を比較してみるならば,英語が屈折語尾の衰退という過程を通じて,現代にかけて総合性を減じ,分析性を高めてきたことは疑いようのない事実です.
このように英語史には一般に「総合から分析」への流れが見られ,この流れの進み具合にしたがって時代を大きく3区分する方法が伝統的に採られてきました.古英語は屈折語尾の区別がよく保持されている「完全な屈折の時代」 (period of full inflection),中英語は屈折語尾は残っているものの1つの語尾に収斂して互いに区別されなくなってきた「水平化した屈折の時代」 (period of levelled inflection),そして近代英語は屈折語尾が概ね消失した「失われた屈折の時代」 (period of lost inflection) とされます.各々,総合的な時代,総合から分析への過渡期的様相を示す時代,分析的な時代と呼んでもよいでしょう.英語史にみられるこの潮流は,実はゲルマン語史や,ひいては印欧語史という時間幅においても等しく認められる遠大な潮流でもあります.
印欧諸語の歴史に広くみられる,屈折語尾の衰退によって引き起こされた総合的な性質の弱まりは「潮流」というにとどまらず,しばしば「偏流」 (drift) とみなされてきました.drift とは,アメリカの言語学者 Edward Sapir (150) が "Language moves down time in a current of its own making. It has a drift." と述べたのが最初とされます.そしてゲルマン語派の諸言語,とりわけ英語は,この偏流におおいに流されてきた言語の1つと評されてきました.
そもそもなぜ英語を筆頭として印欧諸語にこのような偏流が見られるのでしょうか.これは長らく議論されてきてきた問題ですが,いまだに未解決です.言語変化における偏流はランダムな方向の流れではなく,一定方向の流れを示します.しかも,短期間の流れではなく,数十世代の長きに渡って持続する流れです.不思議なのは,言語変化の主体であるはずの話者の各々が,言語を用いる際に過去からの言語変化の流れなど意識していないにもかかわらず,一定方向の言語変化の流れを推し進め,さらに同じ流れを次の世代へと引き継いでゆくことです.言語変化の偏流とは,話者の意識を超えたところで作用している,言語に内在する力なのでしょうか.それとも,原動力は別のところにあるのでしょうか.謎です.
偏流の原因はさておき,英語の文法が「総合から分析へ」変化してきたことは確かです.英文法の歴史の研究は,単純化していえば「総合から分析へ」という一貫した背骨に,様々な角度から整骨治療を施したり肉付けしたりしてきたものといっても過言ではないでしょう.
最後に,今回の話題に関連する過去のブログ記事のうち重要なものを以下に挙げておきます.是非お読みください.
・ 「#2669. 英語と日本語の文法史の潮流」 ([2016-08-17-1])
・ 「#522. 形態論による言語類型」 ([2010-10-01-1])
・ 「#685. なぜ言語変化には drift があるのか (1)」 ([2011-03-13-1])
・ 「#1816. drift 再訪」 ([2014-04-17-1])
・ 「#656. "English is the most drifty Indo-European language."」 ([2011-02-12-1])
・ 「#2626. 古英語から中英語にかけての屈折語尾の衰退」 ([2016-07-05-1])
・ Sapir, Edward. Language. New York: Hartcourt, 1921.
標題は,先日,慶應義塾大学通信教育学部のメディア授業「英語史」の電子掲示板でいただいた素朴な疑問です.
with me, for her, against him, between us, among them など前置詞の後に人称代名詞が来るときには目的格に活用した形が用いられます.なぜ主格(見出し語の形)を用いて各々 *with I, *for she, *against he, *between we, *among they とならないのか,という質問です(星印はその表現が文法上容認されないことを示す記号です).
最も簡単な回答は「前置詞の目的語となるから」です.動詞の目的語が人称代名詞の場合に目的格の形を要求するように,前置詞の目的語も人称代名詞の目的格を必要とするということです.動詞(正確には他動詞)にしても前置詞にしても,それが表わす動作や関係の「対象」となるものが必ず直後に来ます.この「対象」を表わす語句が「目的語」であり,これが主体(主語)と区別される独特な形を取っていれば,文法上の機能が見た目にも区別しやすくなり便利です.
しかし,文中で他動詞や前置詞が特定できれば,その後ろに来るものは必然的に目的語ということになり,独特な形を取る必要はないのではないかという疑問が生じます.実際,文法上はダメだしされる上記の *with I, *for she, *against he, *between we, *among they でも意味はよく理解できます.他動詞の後でも *Do you love I/he/she/we/they? は文法的にダメと言われても,実は意味は通じてしまうわけです.
では,この疑問について英語史の視点から迫ってみましょう.千年ほど前の古英語の時代には,代名詞に限らずすべての名詞が,前置詞の後では典型的に「与格」と呼ばれる形を取ることが求められていました.前置詞の種類によっては「与格」ではなく「対格」や「属格」の形が求められる場合もありましたが,いずれにせよ予め決められた(主格以外の)格の形が要求されていたのです(cf. 「#30. 古英語の前置詞と格」 ([2009-05-28-1])).(ちなみに,現代英語の「目的格」は古英語の「与格」や「対格」を継承したものです.)
名詞に関しては,たいてい主格に -e 語尾を付けたものが与格となっていました.例えば「神は」は God ですが,「神のために」は for Gode といった具合です.しかし,続く中英語の時代にかけて,この与格語尾の -e が弱まって消えていったために,形の上で主格と区別できなくなり for God となりました.したがって,現代英語の for God の God は,解釈の仕方によっては,-e 語尾が隠れているだけで,実は与格なのだと言えないこともないのです.
一方,人称代名詞に関しては,主格と区別された与格の形がよく残りました.古英語で「神」を人称代名詞で受ける場合,「神は」は He で「神のために」は for Him となりましたが,この状況は現代でもまったく変わっていません.人称代名詞は名詞と異なり使用頻度が著しく高く,それゆえに与格を作るのに -e などの語尾をつけるという単純なやり方を採用しなかったため,主格との区別が後々まで保持されやすかったのです.ただし,you と it に関しては,歴史の過程で様々な事情を経て,結局目的格が主格と合一してしまいました.
現代英語では,動詞の目的語にせよ前置詞の目的語にせよ,名詞ならば主格と同じ形を取って済ませるようになっており,それで特に問題はないわけですから,人称代名詞にしても,主格と同じ形を取ったところで問題は起こらなさそうです.しかし,人称代名詞については過去の慣用の惰性により,いまだに with me, for her, against him, between us, among them などと目的格(かつての与格)を用いているのです.要するに,人称代名詞は,名詞が経験してきた「与格の主格との合一」という言語変化のスピードに着いてこられずにいるだけです.しかし,それも時間の問題かもしれません.いつの日か,人称代名詞の与格もついに主格と合一する日がやってくるのではないでしょうか.その時には,星印の取れた with I, for she, against he, between we, among they が聞こえてくるはずです.
現代英語にはみられないが,印欧語族の多くの言語では形容詞 (adjective) に屈折 (inflection) がみられる.さらにゲルマン語派の諸言語においては,形容詞屈折に関して,統語意味論的な観点から強変化 (strong declension) と弱変化 (weak declension) の2種の区別がみられる(各々の条件については「#687. ゲルマン語派の形容詞の強変化と弱変化」 ([2011-03-15-1]) を参照).このような強弱の区別は,ゲルマン語派の著しい特徴の1つとされており,比較言語学的に興味深い(cf. 「#182. ゲルマン語派の特徴」 ([2009-10-26-1])).
英語では,古英語期にはこの区別が明確にみられたが,中英語期にかけて屈折語尾の水平化が進行すると,同区別はその後期にかけて失われていった(cf. 「#688. 中英語の形容詞屈折体系の水平化」 ([2011-03-16-1]),「#2436. 形容詞複数屈折の -e が後期中英語まで残った理由」 ([2015-12-28-1]) ).現代英語は,形容詞の強弱屈折の区別はおろか,屈折そのものを失っており,その分だけゲルマン語的でも印欧語的でもなくなっているといえる.
古英語における形容詞の強変化と弱変化の屈折を,「#250. 古英語の屈折表のアンチョコ」 ([2010-01-02-1]) より抜き出しておこう.
では,なぜ古英語やその他のゲルマン諸語には形容詞の屈折に強弱の区別があるのだろうか.これは難しい問題だが,屈折形の違いに注目することにより,ある種の洞察を得ることができる.強変化屈折パターンを眺めてみると,名詞強変化屈折と指示代名詞屈折の両パターンが混在していることに気付く.これは,形容詞がもともと名詞の仲間として(強変化)名詞的な屈折を示していたところに,指示代名詞の屈折パターンが部分的に侵入してきたものと考えられる(もう少し詳しくは「#2560. 古英語の形容詞強変化屈折は名詞と代名詞の混合パラダイム」 ([2016-04-30-1]) を参照).
一方,弱変化の屈折パターンは,特徴的な n を含む点で弱変化名詞の屈折パターンにそっくりである.やはり形容詞と名詞は密接な関係にあったのだ.弱変化名詞の屈折に典型的にみられる n の起源は印欧祖語の *-en-/-on- にあるとされ,これはラテン語やギリシア語の渾名にしばしば現われる (ex. Cato(nis) "smart/shrewd (one)", Strabōn "squint-eyed (one)") .このような固有名に用いられることから,どうやら弱変化屈折は個別化の機能を果たしたようである.とすると,古英語の形容詞弱変化屈折を伴う se blinda mann "the blind man" という句は,もともと "the blind one, a man" ほどの同格的な句だったと考えられる.それがやがて文法化 (grammaticalisation) し,屈折という文法範疇に組み込まれていくことになったのだろう.
以上,Marsh (13--14) を参照して,なぜゲルマン語派の形容詞に強弱2種類の屈折があるのかに関する1つの説を紹介した.
・ Marsh, Jeannette K. "Periods: Pre-Old English." Chapter 1 of English Historical Linguistics: An International Handbook. 2 vols. Ed. Alexander Bergs and Laurel J. Brinton. Berlin: Mouton de Gruyter, 2012. 1--18.
連日,きわめて日常的な動詞 want を取り上げ,何らかの角度から英語史している (cf. [2020-04-08-1], [2020-04-09-1], [2020-04-10-1]) .今回は want が非人称動詞として用いられていた過去について触れたい.(非人称動詞・構文のおさらいには「#204. 非人称構文」 ([2009-11-17-1]) を参照.)
現在では欲する人が主語に,欲しいものが目的語に立ち,I want refreshment. のように用いる.しかし,want が主として「欠いている」を意味した古い英語では,いわば Want (to) me of refreshment. のように,欠乏を感じている人が与格(あるいは to 句)に,欠けているものが属格(あるいは of 句)に典型的におかれるという非人称構文が併用されていた.非人称構文の起源は,want という語自体の起源と同様に古ノルド語にある.OED の want, v. の語源欄の記述をみてみよう.
The early Scandinavian verb was originally impersonal (personal uses in the individual Scandinavian languages reflect later developments); in English this is reflected by sense 2. Levelling of cases in Middle English made it possible for the object of the impersonal construction (often in initial position) to take over the function of the subject of a new personal construction, allowing further sense developments. For a detailed discussion see M. Bertschinger To Want: an Essay in Semantics (1941).
この記述によれば,古ノルド語ではむしろ非人称構文としての用法がオリジナルであり,人称構文は後に発達したということになる.英語での動詞 want の初出は1175年頃の Ormulum で,そこでの用法こそ人称構文だが,そこから間もない1200年頃の Sawles Warde に非人称構文としての使用がみられる.この事実から,英語に受容された当初より,オリジナルの非人称構文と,そこから人称化した新たな構文とが併用されていたと考えるのが妥当だろう.
上の語源欄の引用に解説されている want の人称化の過程は,他の非人称動詞の人称化にも当てはまり,標準的な説明として広く受け入れられているものである.もともと与格形で表わされていた「人」が,しばしば動詞の前位置に立ったこと,また屈折の衰退と格の融合を経たこと等により,主格形に置き換えられ,動詞が意味的・統語的に人称化したという流れだ.一方,「もの」は典型的に属格(あるいは of 句)で表現されたが,こちらも屈折の衰退と格の融合の結果,意味的・統語的に動詞の直接目的語として再解釈されるに至った.
OED より「欠いている」の語義での非人称構文の初例群を挙げよう.
c1225 (?c1200) Sawles Warde (Bodl.) (1938) 16 (MED) Of al þet eauer wa is ne schal ham neauer wontin.
?c1225 (?a1200) Ancrene Riwle (Cleo. C.vi) (1972) 298 Ne þunche hire neauer wunder ȝef hire wonti þe haligastes froure.
?c1225 (?a1200) Ancrene Riwle (Cleo. C.vi) (1972) 145 Hwenne ow ne wonteð nan þing þefaȝeneð wið ow.
a1325 (c1250) Gen. & Exod. (1968) l. 2155 Ðan coren wantede in oðer lond, Ðo ynug [was] vnder his hond.
a1400 (a1325) Cursor Mundi (Vesp.) l. 3053 þam wanted brede, þeir water es gan, Hope o lijf ne had þai nan.
OED によると,want の非人称構文の最終例は "1830 T. P. Thompson in Westm. Rev. Jan. 262 There wants a collection of dying speeches of nefarious governments." とあり,現代では廃用となっている.
連日 want という語を英語史的に掘り下げる記事を書いている(過去記事は [2020-04-08-1] と [2020-04-09-1]).今回は語末の t について考えてみたい.
英語史の教科書などでは,want のような日常的な単語が古ノルド語からの借用語であるというのは驚くべきこととしてしばしば言及される.また,語末の t が古ノルド語の形容詞の中性語尾であることも指摘される(cf. 「#1253. 古ノルド語の影響があり得る言語項目」 ([2012-10-01-1])).しかし,この t を巡っては意外と込み入った事情がある.
「#3999. want の英語史 --- 語源と意味変化」 ([2020-04-08-1]) で触れたように,英語の名詞 want と動詞 want とは語幹こそ確かに同一だが,入ってきた経路は異なる.名詞 want は,古ノルド語の形容詞 vanr (欠いた)が中性に屈折した vant という形態が名詞的に用いられるようになったものである.一方,動詞 want は古ノルド語の動詞 vanta (欠く,欠いている)に由来する.つまり,語根に対応する wan の部分こそ共通とみてよいが,語末の t に関しては,名詞の場合には形容詞の中性語尾に由来するといわなければならず,動詞の場合には(未調査だが)また別に由来があるということになる.したがって,want の t は形容詞の中性語尾であるという教科書的な指摘は,名詞としての want にのみ当てはまるということだ.
動詞の t については別途調べることにし,ここでは教科書で言及される,名詞の t が形容詞の中性語尾に由来する件について掘り下げたい.すでに述べたように,古ノルド語 vanr は形容詞で「?を欠いている」 (lacking) を意味した(古英語の形容詞 wana と同根語).古ノルド語では,これが be 動詞と組み合わさって非人称構文を構成した.OED の want, adj. and n.2 の語源欄に,次のように記述がある.
Old Icelandic vant (neuter singular adjective) is used predicatively in expressions of the type vera vant to be lacking, typically with the person lacking something in the dative and the thing that is lacking in the genitive and with vant thus behaving similarly to a noun (compare e.g. var þeim vettugis vant they were lacking nothing, they had want of nothing, or var vant kýr a cow was missing, there was want of a cow).
形容詞としての vanr (中性形 vant)は,つまり "was VANT to them of nothing" (彼らにとって何も欠けていなかった)のように主語のない非人称構文において用いられていたということである.この用法がよほど高頻度だったのだろうか,古ノルド語話者と接触した英語話者は,中性に屈折した vant それ自体があたかも語幹であるかのように解釈し,語頭子音を英語化しつつ t 語尾込みの want を「欠乏,不足」を意味する名詞として受容したと考えられる.
語の借用においては,受け入れ側の話者が相手言語の文法に精通していないかぎり,屈折語尾を含めて語幹と勘違いして,「原形」として取り込んでしまう例はいくらでもあったろう.実際,形容詞の中性語尾に由来する t をもつ他の例として,scant (乏しい), thwart (横切って), wight (勇敢な),†quart (健康な)などが挙げられる.
関連して,フランス語の不定詞語尾 -er を含んだまま英語に取り込まれた cesser, detainer, dinner, merger, misnomer, remainder, surrender なども,ある意味で類例といえるだろう.これにつていは「#220. supper は不定詞」 ([2009-12-03-1]),「#221. dinner も不定詞」 ([2009-12-04-1]) を参照.
昨日の記事 ([2020-03-30-1]) に引き続き,標記の問題についてさらに歴史をさかのぼってみましょう.昨日の説明を粗くまとめれば,現代英語の仮定法に人称変化がないのは,その起源となる古英語の接続法ですら直説法に比べれば人称変化が稀薄であり,その稀薄な人称変化も中英語にかけて生じた -n 語尾の消失により失われてしまったから,ということになります.ここでもう一歩踏み込んで問うてみましょう.古英語という段階においてすら直説法に比べて接続法の人称変化が稀薄だったというのは,いったいどういう理由によるのでしょうか.
古英語と同族のゲルマン語派の古い姉妹言語をみてみますと,接続法にも直説法と同様に複雑な人称変化があったことがわかります.現代英語の to bear に連なる動詞の接続法現在の人称変化表(ゲルマン諸語)を,Lass (173) より説明とともに引用しましょう.Go はゴート語,OE は古英語,OIc は古アイスランド語を指します.
(iii) Present subjunctive. The Germanic subjunctive descends mainly from the old IE optative; typical paradigms:
(7.24)
Go OE OIc sg 1 baír-a-i ber-e ber-a 2 baír-ai-s " ber-er 3 baír-ai " ber-e pl 1 baír-ai-ma ber-en ber-em 2 baírai-þ " ber-eþ 3 baír-ai-na " ber-e
The basic IE thematic optative marker was */-oi-/, which > Gmc */-ɑi-/ as usual; this is still clearly visible in Gothic. The other dialects show the expected developments of this diphthong and following consonants in weak syllables . . . , except for the OE plural, where the -n is extended from the third person, as in the indicative. . . .
. . . .
(iv) Preterite subjunctive. Here the PRET2 grade is extended to all numbers and persons; thus a form like OE bǣr-e is ambiguous between pret ind 2 sg and all persons subj sg. The thematic element is an IE optative marker */-i:-/, which was reduced to /e/ in OE and OIc before it could cause i-umlaut (but remains as short /i/ in OS, OHG).
ここから示唆されるのは,古いゲルマン諸語では接続法でも直説法と同じように完全な人称変化があり,表の列を構成する6スロットのいずれにも独自の語形が入っていたということです.一般的に古い語形をよく残しているといわれる左列のゴート語が,その典型となります.ところが,古英語ではもともとの複雑な人称変化が何らかの事情で単純化しました.
では,何らかの事情とは何でしょうか.上の引用でも触れられていますが,1つにはやはり音変化が関与していました.古英語の前史において,ゴート語の語形に示される類いの語尾の母音・子音が大幅に弱化・消失するということが起こりました.その結果,接続法現在の単数は bere へと収斂しました.一方,接続法現在の複数は,3人称の語尾に含まれていた n (ゴート語の語形 baír-ai-na を参照)が類推作用 (analogy) によって1,2人称へも拡大し,ここに beren という不変の複数形が生まれました.上記は(強変化動詞の)接続法現在についての説明ですが,接続法過去でも似たような類推作用が起こりましたし,弱変化動詞もおよそ同じような過程をたどりました (Lass 177) .結果として,古英語では全体として人称変化の薄い接続法の体系ができあがったのです.
・ Lass, Roger. Old English: A Historical Linguistic Companion. Cambridge: CUP, 1994.
現代英語の仮定法では,各時制(現在と過去)内部において直説法にみられるような人称変化がみられません.仮定法現在では人称(および数)にかかわらず動詞は原形そのものですし,仮定法過去でも人称(および数)にかかわらず典型的に -ed で終わる直説法過去と同じ形態が用いられます.
もっとも,考えてみれば直説法ですら3人称単数現在で -(e)s 語尾が現われる程度ですので,現代英語では人称変化は全体的に稀薄といえますが,be 動詞だけは人称変化が複雑です.直説法においては人称(および数)に応じて現在時制では is, am, are が区別され,過去時制では were, were が区別されるからです.一方,仮定法においては現在時制であれば不変の be が用いられ,過去時制となると不変の were が用いられます(口語では仮定法過去で If I were you . . . ならぬ If I was you . . . のような用例も可能ですが,伝統文法では were を用いることになっています).be 動詞をめぐる特殊事情については,「#2600. 古英語の be 動詞の屈折」 ([2016-06-09-1]),「#2601. なぜ If I WERE a bird なのか?」 ([2016-06-10-1]),「#3284. be 動詞の特殊性」 ([2018-04-24-1]),「#3812. was と were の関係」 ([2019-10-04-1]))を参照ください.
今回,英語史の観点からひもといていきたいのは,なぜ仮定法には上記の通り人称変化が一切みられないのかという疑問です.仮定法は歴史的には接続法 (subjunctive) と呼ばれるので,ここからは後者の用語を使っていきます.現代英語の to love (右表)に連なる古英語の動詞 lufian の人称変化表(左表)を眺めてみましょう.
古英語 lufian | 直説法 | 接続法 | → | 現代英語 love | 直説法 | 接続法 | ||||||
?????? | 茲???? | ?????? | 茲???? | ?????? | 茲???? | ?????? | 茲???? | |||||
現在時制 | 1人称 | lufie | lufiaþ | lufie | lufien | 現在時制 | 1人称 | love | love | love | ||
2篋榊О | lufast | 2篋榊О | ||||||||||
3篋榊О | lufaþ | 3篋榊О | loves | |||||||||
過去時制 | 1人称 | lufode | lufoden | lufode | lufoden | 過去時制 | 1人称 | loved | loved | |||
2篋榊О | lufodest | 2篋榊О | ||||||||||
3篋榊О | lufode | 3篋榊О |
2日間の記事 ([2020-03-23-1], [2020-03-24-1]) に引き続き,標題の疑問について議論します.ラテン語の文法用語 modus について調べてみると,おやと思うことがあります.OED の mode, n. の語源記事に次のような言及があります.
In grammar (see sense 2), classical Latin modus is used (by Quintilian, 1st cent. a.d.) for grammatical 'voice' (active or passive; Hellenistic Greek διάθεσις ), post-classical Latin modus (by 4th-5th-cent. grammarians) for 'mood' (Hellenistic Greek ἔγκλισις ). Compare Middle French, French mode grammatical 'mood' (feminine 1550, masculine 1611).
つまり,modus は古典時代後のラテン語でこそ現代的な「法」の意味で用いられていたものの,古典ラテン語ではむしろ別の動詞の文法カテゴリーである「態」 (voice) の意味で用いられていたということになります.文法カテゴリーを表わす用語群が混同しているかのように見えます.これはどう理解すればよいでしょうか.
実は voice という用語自体にも似たような事情がありました.「#1520. なぜ受動態の「態」が voice なのか」 ([2013-06-25-1]) で触れたように,英語において,voice は現代的な「態」の意味で用いられる以前に,別の動詞の文法カテゴリーである「人称」 (person) を表わすこともありましたし,名詞の文法カテゴリーである「格」 (case) を表わすこともありました.さらにラテン語の用語事情を見てみますと,「態」を表わした用語の1つに genus がありましたが,この語は後に gender に発展し,名詞の文法カテゴリーである「性」 (gender) を意味する語となっています.
以上から見えてくるのは,この辺りの用語群の混同は歴史的にはざらだったということです.考えてみれば,現在でも動詞や名詞の文法カテゴリーを表わす用語を列挙してみると,法 (mood),相 (aspect),態 (voice),性 (gender),格 (case) など,いずれも初見では意味が判然としませんし,なぜそのような用語(日本語でも英語でも)が割り当てられているのかも不明なものが多いことに気付きます.比較的分かりやすいのは時制 (tense),(number),人称 (person) くらいではないでしょうか.
英語の mood/mode, aspect, voice, gender, case や日本語の「法」「相」「態」「性」「格」などは,いずれも言葉(を発する際)の「方法」「側面」「種類」程度を意味する,意味的にはかなり空疎な形式名詞といってよく,kind, type, class,「種」「型」「類」などと言い換えてもよい代物です.ということは,これらはあくまで便宜的な分類名にすぎず,そこに何らかの積極的な意味が最初から読み込まれていたわけではなかったという可能性が示唆されます.
議論をまとめましょう.2日間の記事で「法」を「気分」あるいは「モード」とみる解釈を示してきました.しかし,この解釈は,用語の起源という観点からいえば必ずしも当を得ていません.mode は語源としては「方法」程度を意味する形式名詞にすぎず,当初はそこに積極的な意味はさほど含まれていなかったと考えられるからです.しかし,今述べたことはあくまで用語の起源という観点からの議論であって,後付けであるにせよ,私たちがそこに「気分」や「モード」という積極的な意味を読み込んで解釈しようとすること自体に問題があるわけではありません.実際のところ,共時的にいえば「法」=「気分」「モード」という解釈はかなり奏功しているのではないかと,私自身も思っています.
昨日の記事 ([2020-03-23-1]) に引き続き,言語の法 (mood) についてです.昨日の記事からは,mood と mode はいずれも「法」の意味で用いられ,法とは「気分」でも「モード」でもあるからそれも合点が行く,と考えられそうに思います.しかし,実際には,この両単語は語源が異なります.昨日「mood は mode にも通じ」るとは述べましたが,語源が同一とは言いませんでした.ここには少し事情があります.
mode から考えましょう.この単語はラテン語 modus に遡ります.ラテン語では "manner, mode, way, method; rule, rhythm, beat, measure, size; bound, limit" など様々な意味を表わしました.さらに遡れば印欧祖語 *med- (to take appropriate measures) にたどりつき,原義は「手段・方法(を講じる)」ほどだったようです.このラテン単語はその後フランス語で mode となり,それが後期中英語に mode として借用されてきました.英語では1400年頃に音楽用語として「メロディ,曲の一節」の意味で初出しますが,1450年頃には言語学の「法」の意味でも用いられ,術語として定着しました.その初例は OED によると以下の通りです.moode という綴字で用いられていることに注意してください.
mode, n.
. . . .
2.
a. Grammar. = mood n.2 1.
Now chiefly with reference to languages in which mood is not marked by the use of inflectional forms.
c1450 in D. Thomson Middle Eng. Grammatical Texts (1984) 38 A verbe..is declined wyth moode and tyme wtoute case, as 'I love the for I am loued of the' ... How many thyngys falleth to a verbe? Seuene, videlicet moode, coniugacion, gendyr, noumbre, figure, tyme, and person. How many moodes bu ther? V... Indicatyf, imperatyf, optatyf, coniunctyf, and infinityf.
次に mood の語源をひもといてみましょう.現在「気分,ムード」を意味するこの英単語は借用語ではなく古英語本来語です.古英語 mōd (心,精神,気分,ムード)は当時の頻出語といってよく,「#1148. 古英語の豊かな語形成力」 ([2012-06-18-1]) でみたように数々の複合語や派生語の構成要素として用いられていました.さらに遡れば印欧祖語 *mē- (certain qualities of mind) にたどりつき,先の mode とは起源を異にしていることが分かると思います.
さて,この mood が英語で「法」の意味で用いられたのは,OED によれば1450年頃のことで,以下の通りです.
mood, n.2
. . . .
1. Grammar.
a. A form or set of forms of a verb in an inflected language, serving to indicate whether the verb expresses fact, command, wish, conditionality, etc.; the quality of a verb as represented or distinguished by a particular mood. Cf. aspect n. 9b, tense n. 2a.
The principal moods are known as indicative (expressing fact), imperative (command), interrogative (question), optative (wish), and subjunctive (conditionality).
c1450 in D. Thomson Middle Eng. Grammatical Texts (1984) 38 A verbe..is declined wyth moode and tyme wtoute case.
気づいたでしょうか,c1450の初出の例文が,先に挙げた mode のものと同一です.つまり,ラテン語由来の mode と英語本来語の mood が,形態上の類似(引用中の綴字 moode が象徴的)によって,文法用語として英語で使われ出したこのタイミングで,ごちゃ混ぜになってしまったようなのです.OED は実のところ「心」の mood, n.1 と「法」の mood, n.2 を別見出しとして立てているのですが,後者の語源解説に "Originally a variant of mode n., perhaps reinforced by association with mood n.1." とあるように,結局はごちゃ混ぜと解釈しています.意味的には「気分」「モード」辺りを接点として,両単語が結びついたと考えられます.したがって,「法」を「気分」「モード」と解釈する見方は,ある種の語源的混同が関与しているものの,一応のところ1450年頃以来の歴史があるわけです.由緒が正しいともいえるし,正しくないともいえる微妙な事情ですね.昨日の記事で「法」を「気分」あるいは「モード」とみる解釈が「なかなかうまくできてはいるものの,実は取って付けたような解釈だ」と述べたのは,このような背景があったからです.
では,標題の疑問に対する本当の答えは何なのでしょうか.大本に戻って,ラテン語で文法用語としての modus がどのような意味合いで使われていたのかが分かれば,「法」 (mood, mode) の真の理解につながりそうです.それは明日の記事で.
印欧語言語学では「法」 (mood) と呼ばれる動詞の文法カテゴリー (category) が重要な話題となります.その他の動詞の文法カテゴリーとしては時制 (tense),相 (aspect),態 (voice) がありますし,統語的に関係するところでは名詞句の文法カテゴリーである数 (number) や人称 (person) もあります.これら種々のカテゴリーが協働して,動詞の形態が定まるというのが印欧諸語の特徴です.この作用は,動詞の活用 (conjugation),あるいはより一般的には動詞の屈折 (inflection) と呼ばれています.
印欧祖語の法としては,「#3331. 印欧祖語からゲルマン祖語への動詞の文法範疇の再編成」 ([2018-06-10-1]) でみたように直説法 (indicative mood),接続法 (subjunctive mood),命令法 (imperative mood),祈願法 (optative mood) の4種が区別されていました.しかし,ずっと後の北西ゲルマン語派では最初の3種に縮減し,さらに古英語までには最初の2種へと集約されていました(現代における命令法の扱いについては「#3620. 「命令法」を認めず「原形の命令用法」とすればよい? (1)」 ([2019-03-26-1]),「#3621. 「命令法」を認めず「原形の命令用法」とすればよい? (2)」 ([2019-03-27-1]) を参照).さらに,古英語以降,接続法は衰退の一途を辿り,現代までに非現実的な仮定を表わす特定の表現を除いてはあまり用いられなくなってきました.そのような事情から,現代の英文法では歴史的な「接続法」という呼び方を続けるよりも,「仮定法」と称するのが一般的となっています(あるいは「叙想法」という呼び名を好む文法家もいます).
さて,現代英語の法としては,直説法 (indicative mood) と仮定法 (subjunctive mood) の2種の区別がみられることになりますが,この対立の本質は何でしょうか.一般には,機能的にデフォルトの直説法に対して,仮定法は話者の命題に対する何らかの心的態度がコード化されたものだといわれます.何らかの心的態度というのも曖昧な言い方ですが,先に触れた例でいうならば「非現実的な仮定」が典型です.If I were a bird, I would fly to you. における仮定法過去形の were は,話者が「私は鳥である」という非現実的な仮定の心的態度に入っていることを示します.言ってみれば,妄想ワールドに入っていることの標識です.
同様に,仮定法現在形 go を用いた I suggest that she go alone. という文においても,話者の頭のなかで希望として描いているにすぎない「彼女が一人でいく」という命題,まだ起こっていないし,これからも確実に起こるかどうかわからない命題であることが,その動詞形態によって示されています.先の例ほどインパクトは強くないものの,これも一種の妄想ワールドの標識です.
「法」という用語も「心的態度」という説明も何とも思わせぶりな表現ですが,英語としては mood ですから,話者の「気分」であるととらえるのもある程度は有効な解釈です.つまり,法とは話者がある命題をどのような「気分」で述べているのか(たいていは「妄想的な気分」)を標示するものである,という見方です.あるいは mood は mode 「モード,様態」にも通じ,実際に両単語とも言語学用語としての法の意味で用いられますので,話者の「モード」と言い換えてもよさそうです.仮定法は,妄想モードを標示するものということです.
法については上記のような「気分」あるいは「モード」という解釈で大きく間違いはないと思います.ただし,この解釈は,用語の歴史を振り返ってみると,なかなかうまくできてはいるものの,実は取って付けたような解釈だということも分かってきます.それについては明日の記事で.
連日引用している Space Between Words: The Origins of Silent Reading の著者 Saenger は,中世後期に分かち書き (distinctiones) の慣習が改めて発達してきた背景には,ラテン語から派生したロマンス系諸言語の語順の固定化も一枚噛んでいたのではないかと論じている.
比較的緩やかだったラテン語の語順が,フランス語などに発展する過程でSVO等の基本語順へ固定化していったことにより,読者の語(句)境界に対する意識が強くなってきたのではないかという.また語順の固定化と並行して屈折の衰退という言語変化が進行しており,後者も読者の語(句)の認識の仕方に影響を与えていただろうと考えられる.そして,もう一方の分かち書きの発達も,当然ながら語(句)境界の認識の問題と密接に関わる.これらの現象はいずれも語(句)境界の同定を重視するという方向性を共有しており,互いに補完し合う関係にあったのではないか.さらには,このような複合的な要因が相俟って黙読や速読の習慣も発達してきたにちがいない,というのが Saenger 流の議論展開だ.
興味深い論点の1つは,文章を読解するにあたっての短期記憶に関するものである.語順が比較的自由で,かつ続け書きをする古典ラテン語においては,読者は1文を構成する長い文字列をじっくり解読していかければならない.文字を最後まで追いかけた上で,逆走し,全体の意味を確認する必要がある.この読み方では読者の短期記憶にも重い負担がかかることになるだろう.そこで,朗々と読み上げることによってその負担をいくらか軽減しようとしていると考えることもできる.
一方,中世ラテン語やロマンス諸語などのように,ある程度語順が定まっており,かつ分かち書きがなされていれば,文中で次にどのような要素がくるか予想しやすくなると同時に,単語を逐一自力で切り分ける面倒からも解放されるために,短期記憶にかかる負担が大幅に減じる.わざわざ朗々と読み上げなくとも,速やかに読解できるのだ.語順の自由さと続け書きは平行的であり,語順の固定化と分かち書きも,向きは180度異なるものの,やはり平行的ということである.
もう1つのおもしろい議論は,ちょうど屈折の衰退(と語順の固定化)が広く文法の堕落だと考えられてきたのと同様に,続け書きから分かち書きへのシフトも言語生活上の堕落だと考えられてきた節があるということだ.統語論の問題と書記法の問題は,このようにペアでとらえられてきたようだ.
Saenger (17) のまとめの文は次の通り.
The evolution of rigorous conventions, both of word order and of word separation, had the similar and complementary physiological effect of enhancing the medieval reader's ability to comprehend written text rapidly and silently by facilitating lexical access.
・ Saenger, P. Space Between Words: The Origins of Silent Reading. Stanford, CA: Stanford UP, 1997.
[2019-10-07-1]の記事で取り上げた話題について,少し調べてみた.中英語から近代英語にかけて,この動詞(過去形)の母音(字)には様々なものが認められたようだが,特に <a> や <o> で綴られたものについて,短音だったのか長音だったのかという問題がある(現代の標準的な quoth /kwoʊθ/ は長音タイプである).
これについて Dobson (II §339) に当たってみた,次の1節を参照.
It is commonly assumed, as by Sweet, New English Grammar, 則1473, that ME quod and quoth are both weak-stressed forms with rounding of ME ă; but they should be distinguished. Quod, which occurs as early as Ancrene Wisse and its group, undoubtedly has ME ŏ < ME ă rounded under weak stress (though its final d is more simply explained from the OE plural stem than, with Sweet, as a special weak-stressed development of OE þ. Quoth, on the other hand, is not a blend-form with a ModE spelling-pronunciation, as Sweet thinks; the various ModE forms (see 則421 below) suggest strongly that the vowel descends from ME , which is to be explained from ON á in the p.t.pl. kváðum. Significantly the ME quoþ form first appears in the plural quoðen in the East Anglian Genesis and Exodus (c. 1250), and next in Cursor Mundi.
この引用を私なりに解釈すると,次の通りとなる.中英語以来,この単語に関して短音と長音の両系列が並存していたが,それが由来するところは,前者については古英語の第1過去形の短母音 (cf. cwæþ) であり,後者については古ノルド語の kváðum である.語末子音(字)が th か d かという問題についても,Dobson は様々な異形態の混合・混同と説明するよりは,歴史的な継続(前者は古英語の第1過去に由来し,後者は第2過去に由来する)として解釈したいという立場のようだ.
・ Dobson, E. J. English Pronunciation 1500--1700. 1st ed. 2 vols. Oxford: Clarendon, 1957.
「#2130. "I wonder," said John, "whether I can borrow your bicycle."」 ([2015-02-25-1]),「#2158. "I wonder," said John, "whether I can borrow your bicycle." (2)」 ([2015-03-25-1]) で少し触れたが,quoth /kwoʊθ/ は「?と言った」を意味する古風な語である.1人称単数と3人称単数の直説法過去形のみで,原形などそれ以外の形態は存在しない妙な動詞である.古英語や中英語ではきわめて日常的かつ高頻度の動詞であり,古英語ウェストサクソン方言では強変化5類の動詞として,その4主要形は cweðan -- cwæþ -- cwǣdon -- cweden だった(「#3812. was と were の関係」 ([2019-10-04-1]) を参照).
ウェストサクソン方言の cweðan の語幹母音を基準とすると,その後の音変化により †queath などとなるはずであり,実際にこの形態は16世紀末まで用いられていたが,その後廃用となった(しかし,派生語の bequeath (遺言で譲る)を参照).したがって,現在の quoth の語幹母音は cweðan からの自然の音変化の結果とは考えられない.
OED の quoth, v. と †queath, v. を参照してみると,o の母音は,Northumbrian など非ウェストサクソン方言における後舌円唇母音を示す,同語の異形に由来するとのことだ.その背景には複雑な音変化や類推作用が働いていたようだ.OED は,quoth, v. の下で次の3点を紹介している.
(i) levelling of the rounded vowel resulting from combinative back mutation in Northumbrian Old English (see discussion at queath v.); (ii) rounding of Middle English short a (of the 1st and 3rd singular past indicative) after w; (iii) borrowing of the vowel (represented by Middle English long open ō) of the early Scandinavian plural past indicative forms (compare Old Icelandic kváðum (1st plural past indicative)); both short and long realizations are recorded by 17th-cent. orthoepists (see E. J. Dobson Eng. Pronunc. 1500--1700 (ed. 2, 1968) II. 則則339, 421).
中英語における異形については MED の quēthen v. も参照.スペリングとして hwat など妙なもの(MED は "reverse spelling" としている)も見つかり,興味が尽きない.
現代英語において be 動詞が形態的にきわめて特殊な動詞であることについて,歴史的な観点から「#2600. 古英語の be 動詞の屈折」 ([2016-06-09-1]) で解説した.端的にいえば,4つの異なる語根からなる寄せ集め所帯ということだ.
be 動詞の屈折形のなかでも過去形に注目すると,w- で始まる形態が現われている.直説法においては人称・数によって was と were が区別され,接続法(現在の仮定法)においては不変の were となる.古英語では,過去形のみならず,現在形 wes, wesað,不定詞形 wesan,現在分詞形 wesende なども用いられたが,これらは後に衰退してしまった(命令形の化石としては「#3275. 乾杯! wassail」 ([2018-04-15-1]) を参照).
さて,was と were の2つの屈折形は,古英語から現代英語に至るまで,人称・数・法によって使い分けがなされてきたことになるが,なぜ s と r で子音が異なっているのだろうか.実は,これは英語史ではよく知られている Verner's Law (verners_law) と rhotacism のたまものである./s/ は,有声音に囲まれた環境では有声化して /z/ となり,さらに直前に強勢が落ちない環境では /r/ へと変化したのである(概要は「#36. rhotacism」 ([2009-06-03-1]) を参照).
was, were の素となる wesan (to live, remain) という動詞は,歴史的に強変化第5類の動詞として分類されるが,これは「言う」を意味する古英語の高頻度語 cweðan と同じ振る舞いをする.後者の4主要形が cweðan (不定詞形)-- cwæþ (第1過去形)-- cwǣdon (第2過去形) -- cweden (過去分詞形)となるように,前者は wesan (不定詞形)-- wæs (第1過去形)-- wǣron (第2過去形)となる(過去分詞形は欠損;Hogg and Fulk 246) .
ポイントは,古英語の直説法屈折においては人称・数によって wæs, wǣre, wǣron が使い分けられ,s と r が共存していたが,接続法屈折においては人称は不問であり,単数ならば wære,複数ならば wæren というように r しか現われなかった点である.この直説法と接続法の微妙な差異が,現在にまで響いており,なぜ *If I WAS a bird ではなく If I WERE a bird なのかという疑問を引き起こすことになる(「#2601. なぜ If I WERE a bird なのか?」 ([2016-06-10-1]) を参照).
この問題を裏からみれば,ほぼすべての動詞では形態的な区別が失われてしまった直説法と接続法がいまだに「公式に」区別されているのは,be 動詞にのみ残されている was と were の子音の違いゆえなのである.古英語以前に生じた Verner's Law と rhotacism という,ちょっとした音変化のいたずらのなせる技というわけだ.
なお,上記からもわかるとおり,be 動詞はかつての第1過去形と第2過去形の区別を残す唯一の動詞である.いや,sing の過去形として,フォーマルには sang と言いながらインフォーマルには sung と言う英語母語話者を知っているが,彼はある意味では第1過去形と第2過去形を(古英語とは別のやり方ではあるが)区別しているといえなくもない(「#2084. drink--drank--drunk と win--won--won」 ([2015-01-10-1]) を参照).
・ Hogg, Richard M. and R. D. Fulk. A Grammar of Old English. Vol. 2. Morphology. Malden, MA: Wiley-Blackwell, 2011.
set, put, cut の類いの無変化活用の動詞について「#1854. 無変化活用の動詞 set -- set -- set, etc.」 ([2014-05-25-1]),「#1858. 無変化活用の動詞 set -- set -- set, etc. (2)」 ([2014-05-29-1]) の記事で取り上げてきた.そこでは,これらの動詞の振る舞いが,英語の音韻形態論の歴史に照らせば,ある程度説得力のある説明が与えられることをみた.
語幹末に t や d が現われる単音節語である,というのがこれらの動詞の共通項だが,歴史的には,この条件を満たしている限りにおいて,ほかの動詞も同様に無変化活用を示していたことがあった.たとえば,fast, fret, lift, start, waft などである.Jespersen (36) から引用例を再現しよう.
4.42. The influence of analogy has increased the number of invariable verbs. Especially verbs ending in -t tend in this direction. The tendency perhaps culminated in early ModE, when several words now regular had unchanged forms, sometimes side by side with forms in -ed:
fast. Sh Cymb IV. 2.347 I fast and pray'd for their intelligense. || fret. More U 75 fret prt. || lift (from ON). AV John 8.7 hee lift vp himselfe | ib 8.10 when Iesus had lift vp himselfe (in AV also regular forms) | Mi PL 1. 193 With Head up-lift above the wave | Bunyan P 19 lift ptc. || start. AV Tobit 2.4 I start [prt] vp. || waft. Sh Merch. V. 1.11 Stood Dido .. and waft her Loue To come again to Carthage | John II. 1.73 a brauer choice of dauntlesse spirits Then now the English bottomes haue waft o're.
Jespersen のいうように,これらは歴史的に,あるいは音韻変化によって説明できるタイプの無変化動詞というよりは,あくまで set など既存の歴史的な無変化動詞に触発された,類推作用 (analogy) の結果として生じた無変化動詞とみるべきだろう.その点では2次的な無変化動詞と呼んでもよいかもしれない.これらは現代までには標準英語からは消えたとはいえ,重要性がないわけではない.というのは,それらが新たな類推のモデルとなって,次なる類推を呼んだ可能性もあるからだ.つまり,語幹が -t で終わるが,従来の語のように単音節でもなければゲルマン系由来でもないものにすら,同現象が拡張したと目されるからだ.ここで念頭に置いているのは,過去の記事でも取りあげた -ate 動詞などである(「#3764. 動詞接尾辞 -ate の起源と発達」 ([2019-08-17-1]) を参照).
同じく Jespersen (36--37) より,この旨に関する箇所を引用しよう.
4.43. It was thus not at all unusual in earlier English for a ptc in -t to be = the inf. The analogy of these cases was extended even to a series of words of Romantic origin, namely such as go back to Latin passive participle, e. g. complete, content, select, and separate. These words were originally adopted as participles but later came to be used also as infinitives; in older English they were frequently used in both functions (as well as in the preterit), often with an alternative ptc. in -ed; . . . A contributory cause of their use as verbal stems may have been such Latin agent-nouns as corruptor and editor; as -or is identical in sound with -er in agent-nouns, the infinitives corrupt and edit may have been arrived at merely through subtraction of the ending -or . . . . Finally, the fact that we have very often an adj = a vb, e. g. dry, empty, etc . . ., may also have contributed to the creation of infs out of these old ptcs (adjectives).
引用の後半で,類推のモデルがほかにも2つある点に触れているのが重要である.corruptor, editor タイプからの逆成 (back_formation),および dry, empty タイプの動詞・形容詞兼用の単語の存在である.「#1748. -er or -or」 ([2014-02-08-1]),「#438. 形容詞の比較級から動詞への転換」 ([2010-07-09-1]) も参照.
・ Jespersen, Otto. A Modern English Grammar on Historical Principles. Part VI. Copenhagen: Ejnar Munksgaard, 1942.
標題は bend -- bent -- bent, lend -- lent -- lent, rend -- rent -- rent, wend -- went -- went などとともに語末が -nd -- -nt -- -nt となるタイプの不規則動詞だが,なぜ過去・過去分詞形において無声の -t が現われるのかは,歴史的には必ずしも明らかにされていない.feel -- felt -- felt, keep -- kept -- kept など,過去・過去分詞形として -t を示す他の動詞からの類推 (analogy) によるものと説かれることもあるが,さほど説得力があるわけでもない.
音韻論的には,send の過去・過去分詞形が sent となる理由はない.古英語において,sendan の過去形は典型的に sende であり sent(en) には発展し得ない.同様に,過去分詞形は (ge)send(ed) であり,やはり sent にはなり得ないのだ.したがって,この -t は音韻過程の結果とみることはできず,類推なり何なりの形態過程によってもたらされた新機軸ということになる.
実際 -t を示す過去・過去分詞形が現われるのは,13世紀になってからのことである.古英語でも3単現形 sendeþ が縮約 (contraction) を起こして sent となるケースは頻繁にあったが,それはあくまで3単現形であり,過去形でも過去分詞形でもない.Jespersen (33--34) は以下のように,この頻用された3単現の形態が過去・過去分詞にも転用されたのではないかという説に消極的に与している.しかし,苦しい説と言わざるを得ないように思われる.今のところ,謎というよりほかない.
In the send--sent group OE suppressed the d of the stem before the ending: sendan, sende, gesend(ed). I have often thought that the ME innovation sent(e) may originally have stood for sendd with a long, emphatic d to distinguish it from the prs form. This explanation, however, does not account for felt, meant, left, etc.
There is a remarkably full treatment of Origin and Extension of the Voiceless Preterit and the Past Participle Inflections of the English Irregular Weak Verb Conjugation by Albert H. Marckwardt in Essays and Studies in English and Comparative Literature by Members of the English Department of the Univ. of Michigan (Ann Arbor 1935). He traces the beginning of these t-forms back to the eleventh century and then follows their chronological and geographical spreading from century to century up to the year 1400, thus just the period where the subject-matter of my own work begins. There is accordingly no occasion here to deal with details in Marckwardt's exposition, but only to mention that according to him the first germ of these 't'-forms lay in stems in -nd, -ld and -rd. The third person sg of the present of such a verb as OE sendan was often shortened into sent from sendeþ. On the analogy of such very frequently occurring syncopated presents the t was transferred to the prt and ptc. It must be admitted that this assumption is more convincing than the analogy adduced by previous scholars, but it is rather difficult to explain why the t-forms spread, e.g., to such verbs as leave : left. From the point of view of Modern English Grammar, however, we must be content to leave this question open: we must take forms as we find them in the period with which we are concerned.
・ Jespersen, Otto. A Modern English Grammar on Historical Principles. Part VI. Copenhagen: Ejnar Munksgaard, 1942.
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17世紀後半の英文学の巨匠 John Dryden (1631--1700) が,3世紀ほど前の Chaucer の韻律を理解できていなかったことは,よく知られている.後期中英語から初期近代英語にかけてのこの時期には,"final e" に代表される屈折語尾に現われる無強勢母音が完全に消失し,「屈折の水平化」と呼ばれる英語史上の一大変化が完遂された.この変化の後の時代を生きていた Dryden は,変化が起こる前(正確にいえば,起こりかけていた)時代の Chaucer の音韻や韻律を想像することができなかったのである.Dryden は,Chaucer の詩行末に現われる final e を,17世紀の英語さながらに存在しないものと理解していた.結果として,Chaucer の韻律は Dryden の琴線に触れることはなかった.
上記のことは,Dryden 自身の Chaucer 評からわかる.Cable (25) 経由で,Dryden (Essays II: 258--59) の批評を引用しよう.
The verse of Chaucer, I confess, is not harmonious to us . . . there is the rude sweetness of a Scotch tune in it, which is natural and pleasing, though not perfect. It is true, I cannot go so far as he who published the last edition of him; for he would make us believe the fault is in our ears, and that there were really ten syllables in a verse where we find but nine. But this opinion is not worth confuting; it is so gross and obvious an errour, that common sense (which is rare in everything but matters of faith and revelation) must convince the reader, that equality of numbers in every verse which we call heroic, was either not known, or not always practiced in Chaucer's age.
Dryden の抱いていたような誤解は,その後2世紀ほどかけて文献学の進展により取り除かれることになったものの,final -e という形式的には小さな要素が,英語史においても英文学史においても,いかに大きな存在であったかが知られる好例だろう.
・ Cable, Thomas. "Restoring Rhythm." Chapter 3 of Approaches to Teaching the History of the English Language: Pedagogy in Practice. Introduction. Ed. Mary Heyes and Allison Burkette. Oxford: OUP, 2017. 21--28.
・ Dryden, John. Essays. Ed. W. P. Ker. Oxford: Clarendon, 1926.
先日3月9日(土)の15:00?18:15に,朝日カルチャーセンター新宿教室にて,「英語の歴史」と題するシリーズ講座の第2弾として「北欧ヴァイキングと英語」をお話ししました.参加者の方々には,千年以上前のヴァイキングの活動や言葉(古ノルド語)が,私たちの学んでいる英語にいかに多大な影響を及ぼしてきたか分かっていただけたかと思います.本ブログでは,これまでも古ノルド語 (old_norse) に関する話題を豊富に取り上げてきましたので,是非そちらも参照ください.
今回は次のような趣旨でお話ししました.
英語の成り立ちに,8 世紀半ばから11世紀にかけてヨーロッパを席巻した北欧のヴァイキングとその言語(古ノルド語)が大きく関与していることはあまり知られていません.例えば Though they are both weak fellows, she gives them gifts. という英文は,驚くことにすべて古ノルド語から影響を受けた単語から成り立っています.また,英語の「主語+動詞+目的語」という語順が確立した背景にも,ヴァイキングの活動が関わっていました.私たちが触れる英語のなかに,ヴァイキング的な要素を探ってみましょう.
1. 北欧ヴァイキングの活動
2. 英語と古ノルド語の関係
3. 古ノルド語が英語の語彙に及ぼした影響
4. 古ノルド語が英語の文法に及ぼした影響
5. なぜ英語の語順は「主語+動詞+目的語」で固定なのか?
講座で使用したスライド資料をこちらにアップしておきます.スライド中から,本ブログの関連記事へもたくさんのリンクが張られていますので,そちらで「北欧ヴァイキングと英語」の関係について復習しつつ,理解を深めてもらえればと思います.
1. シリーズ「英語の歴史」 第2回 北欧ヴァイキングと英語
2. 本講座のねらい
3. 1. 北欧ヴァイキングの活動
4. ブリテン島の歴史=征服の歴史
5. ヴァイキングのブリテン島来襲
6. 関連用語の整理
7. 2. 英語と古ノルド語の関係
8. 3. 古ノルド語が英語の語彙に及ぼした影響
9. 古ノルド語からの借用語
10. 古ノルド借用語の日常性
11. イングランドの地名の古ノルド語要素
12. 英語人名の古ノルド語要素
13. 古ノルド語からの意味借用
14. 句動詞への影響
15. 4. 古ノルド語が英語の文法に及ぼした影響
16. 形態論再編成の「いつ」と「どこ」
17. 古英語では屈折ゆえに語順が自由
18. 古英語では屈折ゆえに前置詞が必須でない
19. 古英語では文法性が健在
20. 古英語は屈折語尾が命の言語
21. 古英語の文章の例
22. 屈折語尾の水平化
23. 語順や前置詞に依存する言語へ
24. 文法性から自然性へ
25. なぜ屈折語尾の水平化が起こったのか? (1)
26. なぜ屈折語尾の水平化が起こったのか? (2)
27. なぜ屈折語尾の水平化が起こったのか? (3)
28. 形態論再編成の「どのように」と「なぜ」
29. 英文法の一大変化:総合から分析へ
30. 5. なぜ英語の語順は「主語+動詞+目的語」で固定なのか?
31. 本講座のまとめ
32. 参考文献
Encyclopaedia Britannica の "English language" の記事の冒頭に,現代英語の基本的特徴が3つ挙げられている.屈折の単純さ (simplicity of inflection) ,機能の柔軟さ (flexibility of function) ,語彙の開放性 (openness of vocabulary) である.屈折の単純さと語彙の開放性については「#151. 現代英語の5特徴」 ([2009-09-25-1]) をはじめ pde_characteristic の記事などで取り上げてきたが,機能の柔軟さを現代英語の基本的特徴の1つに数え上げる見解は比較的珍しいのではないかと思う.以下,Britannica より引用する.
Flexibility of function has grown over the last five centuries as a consequence of the loss of inflections. Words formerly distinguished as nouns or verbs by differences in their forms are now often used as both nouns and verbs. One can speak, for example, of "planning a table" or "tabling a plan," "booking a place" or "placing a book," "lifting a thumb" or "thumbing a lift." In the other Indo-European languages, apart from rare exceptions in Scandinavian, nouns and verbs are never identical because of the necessity of separate noun and verb endings. In English, forms for traditional pronouns, adjectives, and adverbs can also function as nouns; adjectives and adverbs as verbs; and nouns, pronouns, and adverbs as adjectives. One speaks in English of the Frankfurt Book Fair, but in German one must add the suffix -er to the place-name and put attributive and noun together as a compound, Frankfurter Buchmesse. In French one has no choice but to construct a phrase involving the use of two prepositions: Foire du Livre de Francfort. In English it is now possible to employ a plural noun as adjunct (modifier), as in "wages board" and "sports editor"; or even a conjunctional group, as in "prices and incomes policy" and "parks and gardens committee."
ここで話題になっている「機能の柔軟さ」とは,言語学用語を使えば,要するに品詞転換 (conversion) あるいはゼロ派生 (zero derivation) のことである.形態をいじらずに機能・意味を自由に変えられてしまうという性質は,確かに英語のきわだった特徴といってよい.英語のこの融通無碍な性質は,屈折の衰退に起因する「語根主義」とも深く関係し,英語の諸部門に深く染み込んだ特質となっている(cf. 「#655. 屈折の衰退=語根の焦点化」 ([2011-02-11-1])).
関連して,「#190. 品詞転換」 ([2009-11-03-1]) を筆頭に conversion の記事を参照されたい.
・ Encyclopaedia Britannica. Encyclopaedia Britannica 2008 Ultimate Reference Suite. Chicago: Encyclopaedia Britannica, 2008.
古今東西の○○英語において,3単現の動詞はどのように屈折しているのか.長らく追いかけている問題で,本ブログでも以下の記事をはじめとして 3sp の各記事で取り上げてきた.
・ 「#790. 中英語方言における動詞屈折語尾の分布」 ([2011-06-26-1])
・ 「#1850. AAVE における動詞現在形の -s」 ([2014-05-21-1])
・ 「#1889. AAVE における動詞現在形の -s (2)」 ([2014-06-29-1])
・ 「#1852. 中英語の方言における直説法現在形動詞の語尾と NPTR」 ([2014-05-23-1])
・ 「#2310. 3単現のゼロ」 ([2015-08-24-1])
・ 「#2112. なぜ3単現の -s がつくのか?」 ([2015-02-07-1])
・ 「#2136. 3単現の -s の生成文法による分析」 ([2015-03-03-1])
・ 「#2566. 「3単現の -s の問題とは何か」」 ([2016-05-06-1])
・ 「#2857. 連載第2回「なぜ3単現に -s を付けるのか? ――変種という視点から」」 ([2017-02-21-1])
現在の世界中の○○英語においては,3単現の語尾はどのようになっているのか,Mesthrie and Bhatt (66--67) の記述をまとめておきたい.
3単現で -s 語尾とゼロ語尾が交替するケースは,数多く報告されている.ナイジェリア変種や東アフリカ諸変種をはじめ,アメリカ・インディアン諸変種,インド変種,インド系南アフリカ変種,黒人南アフリカ変種,フィリピン変種 (e.g. He go to school.),シンガポール変種,ケープ平地変種などがある.
標準英語の反対を行く興味深い変種もある.単数でゼロとなり,複数で -s を取るという分布だ.アメリカ・インディアン変種のなかでもイスレタ族変種 (Isletan) では,次のような文例が確認されるという.
・ there are some parties that goes on over there.
・ Some peoples from the outside comes in.
・ All the dances that goes on like that occur in the spring.
・ The women has no voice to vote.
・ Maybe the governor go to these parents' homes.
・ About a dollar a day serve out your term.
・ This traditional Indian ritual take place in June.
・ By this time, this one side that are fast have overlapped.
・ The governor don't take the case.
イスレタ族変種と同様の傾向が,ケープ平地変種でも確認されるという (e.g. They drink and they makes a lot of noise.) .
標準英語の逆を行くこれらの変種の文法もある意味では合理的といえる.主語が単数であれば主語の名詞にも述語の動詞にも -s が現われず,主語が複数であればいずれにも -s が付加されるという点で一貫しているからだ.Mesthrie and Bhatt (66) は,この体系を "-s plural symmetry" と呼んでいる.
ただし,"-s plural symmetry" を示す変種は inherent variety なのか,あるいは話者個人が標準英語などを目標として過剰修正 (hypercorrection) した結果の付帯現象なのかは,今後の調査を待たなければならない.また,これらの変種が,北部イングランドの歴史的な Northern Present Tense Rule (nptr) と歴史的因果関係があるのかどうかも慎重に検討しなければならないだろう.
・ Mesthrie, Rajend and Rakesh M. Bhatt. World Englishes: The Study of New Linguistic Varieties. Cambridge: CUP, 2008.
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