「#3139. 講座「スペリングでたどる英語の歴史」のお知らせ」 ([2017-11-30-1]) でお知らせしたように,朝日カルチャーセンター新宿教室で,5回にわたる講座「スペリングでたどる英語の歴史」が始まっています.1月27日(土)に開かれた第2回「英語初のアルファベット表記 --- 古英語のスペリング」で用いたスライド資料を,こちらに上げておきます.
今回は,アルファベットの系譜を確認しつつ,古英語がどのように表記され綴られいたかを紹介する内容でした.ポイントは以下の3点です.
・ 英語の書記はアルファベットの長い歴史の1支流としてある
・ 最古の英文はルーン文字で書かれていた
・ 発音とスペリングの間には当初から乖離がありつつも,後期古英語には緩い標準化が達成された
以下,スライドのページごとにリンクを張っておきます.多くのページに,本ブログ内へのさらなるリンクが貼られていますので,リンク集として使えると思います.
1. 講座『スペリングでたどる英語の歴史』第2回 英語初のアルファベット表記 --- 古英語のスペリング
2. 要点
3. (1) アルファベットの起源と発達 (#423)
4. アルファベットの系統図 (#1849)
5. アルファベットが子音文字として始まったことの余波
6. (2) 古英語のルーン文字
7. 分かち書きの成立
8. (3) 古英語のローマン・アルファベット使用の特徴
9. Cædmon's Hymn を読む (#2898)
10. 当初から存在した発音とスペリングの乖離
11. 後期古英語の「標準化」
12. 古英語スペリングの後世への影響
13. まとめ
14. 参考文献
大英帝国の拡大という世界史的展開は,現代英語と英語の未来を論じる上で避けて通ることのできないトピックです.その英語史上の意義について,スライド (HTML) にまとめてみました.こちらからどうぞ.結論としては次のように述べました.
大英帝国の発展は
(1) 英語の標準化・規範化を後押しして,英語に「求心力」をもたらした一方で,
(2) 英語の多様化を招き,英語に「遠心力」をもたらし,
現在および未来の英語のあり方の基礎を築いた.
詳細は各々のページをご覧ください.本ブログの記事や各種画像へのリンクも豊富に張っています.
1. 大英帝国の拡大と英語
2. 要点
3. (1) 大英帝国の発展
4. 関連年表 (#777, #1377, #2562)
5. (2) 英語の求心力 --- 標準化・規範化
6. 標準化と規範化
7. 18世紀の規範主義
8. 辞書,文法書,発音指南書
9. 規範文法の例
10. (3) 英語の遠心力 --- 世界の様々な英語
11. 様々な英語変種の例
12. 英語変種の諸分類法
13. 21世紀,求心力と遠心力のせめぎ合い
14. まとめ
15. 参考文献
他の「まとめスライド」として,「#3058. 「英語史における黒死病の意義」のまとめスライド」 ([2017-09-10-1]),「#3068. 「宗教改革と英語史」のまとめスライド」 ([2017-09-20-1]),「#3089. 「アメリカ独立戦争と英語」のまとめスライド」 ([2017-10-11-1]),「#3102. 「キリスト教伝来と英語」のまとめスライド」 ([2017-10-24-1]),「#3107. 「ノルマン征服と英語」のまとめスライド」 ([2017-10-29-1]),「#3121. 「印刷術の発明と英語」のまとめ」 ([2017-11-12-1]) もどうぞ.
「#3101. 初期近代英語期の識字率」 ([2017-10-23-1]),「#3066. 宗教改革と識字率」 ([2017-09-18-1]) に引き続いての話題.16世紀ヨーロッパでは教育制度がおおいに拡充され,文字を読み書きできる人々が多くなってきたことは確かだが,識字率として具体的な数字を与えることは難しい.都市と地方の差,階級差,男女差などが大きく,一般化することが困難であるばかりでなく,そもそも多くの統計や研究が誤った前提に立っているという事情がある.その前提とは,法的書類に署名できる人は文字を読むこともできたとするものだ.近年の脳科学の知見によれば,書くことと読むことはまったく別の行為であり,両者が常に連動するものと考えることはできない.
そこで,ペティグリー (317--19) は,様々な地域からの識字能力に関する断片的な情報を寄せ集めて,識字率を総合的に求めるという手法に訴えかけた.その結果として,以下の見解を導き出している.まず,都市と地方の識字率の差異については,言われるほど大きくなかったのではないかと述べている.人々は年と地方の間を頻繁に移動したし,彼らの集まる市場や酒場ではどこでも印刷物が貼り出されていたからだ.地方出身者であっても,文字を見慣れてはいただろう.
識字率の男女差については,差があっただろうとは想像できても,それが具体的に確かめられるような資料は乏しい.女性は高い識字能力が要求される仕事につくことはなかったために,記録としても残りにくいのである.それでも本を読み,楽しむ女性は多くいたようではある.
よく記録の残っている都市部の男性に限定すれば,高い識字率を誇る都市は印刷以前より存在した.16紀末のヴェネツィアでは33%ほどあったし,1530年のヨークでは20--25%ほどあった.このヨークの男性識字率は,同世紀末までには41%にまで跳ね上がっている.
16世紀,そして続く17世紀にイングランドの識字率が大幅に上昇したことは間違いない.教育の拡充,印刷の普及,その他の社会的要因がこの上昇に貢献しているが,これらの諸要因はまた英語の綴字の標準化にも間接的に寄与しているのである.いよいよ大衆が本格的に文字に接し始めたときに,標準的な綴字が求められるようになったのだろう.
・ ペティグリー,アンドルー(著),桑木 幸司(訳) 『印刷という革命 ルネサンスの本と日常生活』 白水社,2015年.
英語史における印刷術の発明の意義について,スライド (HTML) にまとめてみました.こちらからどうぞ.結論は以下の通りです.
1. グーテンベルクによる印刷術の「改良」(「発明」ではなく)
2. 印刷術は,宗教改革と二人三脚で近代国語としての英語の台頭を後押しした
3. 印刷術は,綴字標準化にも一定の影響を与えた
詳細は各々のページをご覧ください.本ブログの記事や各種画像へのリンクも豊富に張っています.
1. 印刷術の発明と英語
2. 要点
3. (1) 印刷術の「発明」
4. 印刷術(と製紙法)の前史
5. 関連年表
6. Johannes Gutenberg (1400?--68)
7. William Caxton (1422?--91)
8. (2) 近代国語としての英語の誕生
9. 宗教改革と印刷術の二人三脚
10. 近代国語意識の芽生え
11. (3) 綴字標準化への貢献
12. 「印刷術の導入が綴字標準化を推進した」説への疑義
13. 綴字標準化はあくまで緩慢に進行した
14. まとめ
15. 参考文献
16. 補遺: Prologue to Eneydos (#337)
他の「まとめスライド」として,「#3058. 「英語史における黒死病の意義」のまとめスライド」 ([2017-09-10-1]),「#3068. 「宗教改革と英語史」のまとめスライド」 ([2017-09-20-1]),「#3089. 「アメリカ独立戦争と英語」のまとめスライド」 ([2017-10-11-1]),「#3102. 「キリスト教伝来と英語」のまとめスライド」 ([2017-10-24-1]),「#3107. 「ノルマン征服と英語」のまとめスライド」 ([2017-10-29-1]) もどうぞ.
英語史上,William Caxton (1422?--91) は英語を初めて印刷に付した人物として広く知られている.Caxton は,1476年にウェストミンスターに印刷所を構え,本格的に印刷業を開始した.印刷の起業家として最も大事なことは,誰に対して,何語で書かれたどのような出版物を売るかを明確にすることである.Caxton は王,貴族,富裕な商人に的を絞り,彼らが読みたがっているロマンスや歴史物語を英語で(翻訳し)印刷することに決めた.
しかし,この的の絞り方は当時の状況に照らせばギャンブルのようなものだった.Knowles (60--61) が次のように述べている.
William Caxton was a businessman who operated for a long time from Bruges, in modern Belgium. At that time the Low countries were ruled by Burgundy, and Caxton's Burgundian contacts put him in a good position to exploit the aristocratic book market. When he transferred his printing press to England, he set it up in Westminster, which was not only close to the Chancery, but also the ideal place for him to contact his aristocratic customers. With the benefit of hindsight we know he was successful. But in the 1470s it must have been far from obvious that publishing in the vernacular was going to succeed at all. Publishing in Latin for an international readership might have looked more promising, but Caxton's competitors in this area failed . . . . Nor was the aristocratic market promising, for England was at the time embroiled in the internal dynastic struggles known as the Wars of the Roses. The fall of an aristocratic patron could have serious consequences for a businessman who was dependent on him to determine what was fashionable, and thus for the credibility of his literary publications.
Aristocratic taste determined what Caxton decided to publish. He published the works of Chaucer, Gower and Lydgate rather than Langland and the northern poets . . . . In 1485 he published Malory's Le Morte d'Arthur. Some 28 of his 106 publications were translations from other languages . . . . However, taste determined not only what to publish, but the kind of English used. Caxton praises English influenced by French and denigrates native English. In his preface to the second edition (1484) of The Canterbury tales . . . he praises Chaucer, the 'laureate poete' who had 'enbelysshyd, ornated and made faire our Englisshe' which before was 'rude speche and incongrue'.
実際,Caxton が先鞭をつけたイングランドでの英語を主とした印刷産業は,英語の読者層の規模が小さかったことから,その後もイタリアやドイツやフランスほど発展することはなかった.上の引用にもあるとおり,ヨーロッパ市場を当てにしたラテン語の印刷のほうが前途有望だったかもしれないが,Caxton はその方向を選ばなかったのである.結果として,16世紀の末にかけてイングランドで出版された書物のうち,英語以外の言語のものはわずか1割ほどだったという(ペティグリー,p. 206--08).俗語の印刷に徹した点で,イングランドが他国と比べて特異だったことは銘記しておきたい.
Caxton がその後のイングランドの印刷産業の行方や印刷英語の標準化のなにがしかを決めた人物だったことは間違いない.その意味で英語史上重要な人物ではあるが,その背景には Caxton の起業家としての賭けと才覚が関わっていたのである.
Caxton の英語史上の役割の評価については,「#241. Caxton の英語印刷は1475年」 ([2009-12-24-1]),「#297. 印刷術の導入は英語の標準化を推進したか否か」 ([2010-02-18-1]),「#871. 印刷術の発明がすぐには綴字の固定化に結びつかなかった理由」 ([2011-09-15-1]),「#1312. 印刷術の発明がすぐには綴字の固定化に結びつかなかった理由 (2)」 ([2012-11-29-1]),「#1385. Caxton が綴字標準化に貢献しなかったと考えられる根拠」 ([2013-02-10-1]) を参照.
・ Knowles, Gerry. A Cultural History of the English Language. London: Arnold, 1997.
・ ペティグリー,アンドルー(著),桑木 幸司(訳) 『印刷という革命 ルネサンスの本と日常生活』 白水社,2015年.
「#3043. 後期近代英語期の識字率」 ([2017-08-26-1]),「#3066. 宗教改革と識字率」 ([2017-09-18-1]) で,英語社会の識字率について話題にしたが,今回は水井 (116--17) より,テューダー朝期を中心とする16--17世紀のイングランドの識字率をみてみよう.
ジェントリの子どもたちにとっては高等教育が社会的に必要であったし,聖職者や法律家になるにはこの方法しかなかった.また,都市の商人の子どもたちにとっては読み書きと計算が将来のために必要であった.しかし,教育費は高額で,富裕層の家庭でも子どもに高等教育を受けさせるためには,家計の中でも相当の割合を占めるような出費を覚悟せねばならなかったのである.より貧しい層では子どもの労働力を家計の足しにする必要があったので,子どもが読み書きを習うために村や町の初等学校に行ったとしても,仕事に就くために通学が短期間で終わることが多かった.読み書きは生きていくために不可欠というわけではなく,農業や手工業の経験的な技術・知識の取得のほうが重要だと考えられることも多かった.
この時期のイングランドではジェントリ層,商人,富裕な農民層を中心に識字率が向上した.一七世紀中にジェントルマン層の識字率はほぼ一〇〇%に近付いていき,商人層,浮遊農民層でも過半数を上回るようになる.しかし,職人層や貧しい農民,女性の識字率は低く一七世紀末でも一〇%から二〇%に達する程度であったと推定されている.
あくまで推計であるし,階層によって数値が異なるという事情も当然あったわけなので,当時の識字率の全体像をつかむことは容易ではない.しかし,この時期の印刷術の普及,出版物の大量の発行,宗教改革に後押しされた読書習慣,教育の向上などにより,着実に人々の識字率が向上していたという趨勢は間違いないだろう.標準綴字の模索と定着も,まさにこの時期の出来事だったことを合わせて確認しておきたい.
・ 水井 万里子 『図説 テューダー朝の歴史』 河出書房,2011年.
英語に作用する求心力と遠心力の問題(cf. 「#2073. 現代の言語変種に作用する求心力と遠心力」 ([2014-12-30-1]))を議論する際には,英語史の知識がおおいに役立つ.英語の歴史において,英語は常に複数形の Englishes だったのであり,単数形 English の発想が生まれたのは,近代以降に標準化 (standardisation) という社会言語学的なプロセスが生じてから後のことである.そして,その近代以降ですら,実際には諸変種は存在し続けたし,むしろ英語が世界中に拡散するにつれて変種が著しく増加してきた.その意味において,English とはある種の虚構であり,英語の実態は過去も現在も Englishes だったのである.
では,21世紀の英語,未来の英語についてはどうだろうか.求心力と遠心力がともに働いていくとおぼしき21世紀において,私たちは English を語るべきなのか,Englishes を語るべきなのか.この問題を議論するにあたって,Gooden (230--31) の文章を引こう.
After undergoing many changes at the hands of the Angles and Saxons, the Norman French, and a host of other important but lesser influences, English itself has now spread to become the world's first super-language. While this is a process that may be gratifying to native speakers in Britain, North America, Australia and elsewhere, it is also one that raises certain anxieties. The language is no longer 'ours' but everybody's. The centre of gravity has shifted. Until well into the 19th century it was firmly in Britain. Then, as foreseen by the second US president John Adams ('English is destined to be in the next and succeeding centuries [ . . . ] the language of the world'), the centre shifted to America. Now there is no centre, or at least not one that is readily acknowledged as such.
English is emerging in pidgin forms such as Singlish which may be scarcely recognizable to non-users. Even the abbreviated, technical and idiosyncratic forms of the language employed in, say, air-traffic control or texting may be perceived as a threat to some idea of linguistic purity.
If these new forms of non-standard English are a threat, then they are merely the latest in a centuries-long line of threats to linguistic integrity. What were the feelings of the successive inhabitants of the British Isles as armies, marauders and settlers arrived in the thousand years that followed the first landing by Julius Caesar? History does not often record them, although we know that, say, the Anglo-Saxons were deeply troubled by the Viking incursions which began in the north towards the end of the eighth century. Among their responses would surely have been a fear of 'foreign' tongues, and a later resistance to having to learn the vocabulary and constructions of outsiders. Yet many new words and structures were absorbed, just as the outsiders, whether Viking or Norman French, assimilated much of the language already used by the occupants of the country they had overrun or settled.
With hindsight we can see what those who lived through each upheaval could not see, that each fresh wave of arrivals has helped to develop the English language as it is today. Similarly, the language will develop in the future in ways that cannot be foreseen, let alone controlled. It will change both internally, as it were, among native speakers, and externally at the hands of the millions in Asia and elsewhere who are already adopting it for their own use.
ここでは言語的純粋性 (linguistic purity; purism) についても触れられているが,いったい正統な英語というものは,単数形で表現される English というものは,存在するのだろうか.存在するとすれば,具体的に何を指すのだろうか.あるいは,存在しないとすれば,「英語」とは諸変種の集合体につけられた抽象的な名前にすぎず,意味上は Englishes に相当する集合名詞に等しいのだろうか.
これは英語の現在と未来を論じるにあたって,実にエキサイティングな論題である.「#2986. 世界における英語使用のジレンマ」 ([2017-06-30-1]) の問題と合わせて,ディスカッション用に.
・ Gooden, Philip. The Story of English: How the English Language Conquered the World. London: Quercus, 2009.
イングランド史において中世の終焉を告げる1大事件といえば,バラ戦争 (the Wars of the Roses; 1455--85) だろう(この名付けは,後世の Sir Walter Scott (1829) のもの).国内の貴族が,赤バラの紋章をもつ Lancaster 家と白バラの York 家の2派に分かれて,王位継承を争った内乱である.30年にわたる戦いで両派閥ともに力尽き,結局は漁父の利を得るがごとく Lancaster 家の Henry Tudor が Henry VII として王位に就くことになった.この戦いでは貴族が軒並み没落したため,王権は強化されることになり,さらに商人階級が社会的に台頭する契機ともなった.
バラ戦争は,イングランドが中世の封建制から脱皮して近代へと歩みを進めていく過渡期として,政治・経済・社会史上の意義を付されているが,英語史の観点からはどのように評価できるだろうか.Gramley (98--99) は次のように評価している.
. . . the series of wars that go under this name [= The Wars of the Roses] sped up the weakening of feudal power and strengthened the merchant classes since the wars further thinned the ranks of the feudal nobility and facilitated in this way the easier rise of ambitious and able people from the middle ranks of society. When the conflict was settled under Henry VII, a Lancastrian and a Tudor, power was essentially centralized. From the point of view of the language, this meant that the standard which had begun to emerge in the early fourteenth century would continue with a firm base in the usage which had been crystallizing in the London area at least since Henry IV (reign 1399--1413), the first king since the OE period who was a native speaker of English.
この評によると,14世紀の前半に始まっていた英語の標準化 (standardisation) が,バラ戦争の結果として王権が強化され,中産階級が台頭したことにより,15世紀後半以降もロンドンを基盤としていっそう推し進められることになった,という.もとより英語の標準化は非常にゆっくりとしたプロセスであり,引用にあるとおりその開始は "the early fourteenth century" のロンドンにあったと考えることができる(「#1275. 標準英語の発生と社会・経済」 ([2012-10-23-1]) を参照).その後,バラ戦争までの1世紀半の間にも標準化は進んでいたが,あくまで緩慢な過程だった.そのように標準化が穏やかに進んでいたところに,バラ戦争という社会的な大騒動が起こり,標準化を利とみる王権と中産階級が大きな影響力をもつに及んで,その動きが促進された,ということだろう.
その他の歴史的大事件の英語史上の意義については,以下の記事を参照.
・ 「#119. 英語を世界語にしたのはクマネズミか!?」 ([2009-08-24-1])
・ 「#208. 産業革命・農業革命と英語史」 ([2009-11-21-1])
・ 「#254. スペイン無敵艦隊の敗北と英語史」 ([2010-01-06-1])
・ 「#255. 米西戦争と英語史」 ([2010-01-07-1])
・ Gramley, Stephan. The History of English: An Introduction. Abingdon: Routledge, 2012.
Noah Webster がアメリカ英語の地位を強烈に推進する役割を担ったことは英語史上よく知られているが,その背後で影が薄かったものの,1人の興味深い登場人物がいたことを忘れてはならない.アメリカ第2代大統領 John Adams (1735--1826) である.Adams は,英語を改善すべくアカデミーを設立することに意欲を示していた.ちょっとした Jonathan Swift のアメリカ版といったところか.大統領職に就く以前の話だが,1780年9月5日にアムステルダムから議会議長に宛てて,アメリカにおける英語という言語の役割の重要さを説く手紙を書いている.Baugh and Cable (355) に引用されている手紙の文章を再現しよう.
The honor of forming the first public institution for refining, correcting, improving, and ascertaining the English language, I hope is reserved for congress; they have every motive that can possibly influence a public assembly to undertake it. It will have a happy effect upon the union of the States to have a public standard for all persons in every part of the continent to appeal to, both for the signification and pronunciation of the language. The constitutions of all the States in the Union are so democratical that eloquence will become the instrument for recommending men to their fellow-citizens, and the principal means of advancement through the various ranks and offices of society. . . .
. . . English is destined to be in the next and succeeding centuries more generally the language of the world than Latin was in the last or French is in the present age. The reason of this is obvious, because the increasing population in America, and their universal connection and correspondence with all nations will, aided by the influence of England in the world, whether great or small, force their language into general use, in spite of all the obstacles that may be thrown in their way, if any such there should be.
It is not necessary to enlarge further, to show the motives which the people of America have to turn their thoughts early to this subject; they will naturally occur to congress in a much greater detail than I have time to hint at. I would therefore submit to the consideration of congress the expediency and policy of erecting by their authority a society under the name of "the American Academy for refining, improving, and ascertaining the English language. . . ."
最後に "refining, improving, and ascertaining" と表現しているが,これは数十年前にイングランドの知識人が考えていた「#2741. ascertaining, refining, fixing」 ([2016-10-28-1]) をすぐに想起させるし,もっといえば Swift の "Correcting, Improving and Ascertaining" のなぞりである.この意味では,Adams の主張はまったく新しいものではなく,むしろ陳腐ともいえる.また,このような提案にもかかわらず,結局はアメリカにおいてもアカデミーは設立されなかったことからも,Adams の主張はむなしく響く.
しかし,ここで Adams が,イギリスにおいてイギリス英語に関する主張をしていたのではなく,アメリカにおいてアメリカ英語に関する主張をしていたという点が重要である.Adams は,イギリスでのアカデミー設立の議論の単なる蒸し返しとしではなく,アメリカという新天地での希望ある試みとして,この主張をしていた.アメリカ英語への賛歌といってもよい.同時代人の Webster が行動で示したアメリカ英語への信頼を,Adams は彼なりの方法で示そうとした,と解釈できるだろう.
なお,上の引用の第2段落にある,英語は次世紀以降,世界の言語となるだろうという Adams の予言は見事に当たった.彼が挙げている人口統計,イングランドの影響力,アメリカの国際関係上の優位などの予言の根拠も,適切というほかない.母国に対する希望と自信に満ちすぎているとも思えるトーンではあるが,Adams の慧眼,侮るべからず,である.
・ Baugh, Albert C. and Thomas Cable. A History of the English Language. 6th ed. London: Routledge, 2013.
昨日の記事 ([2016-11-28-1]) の続編.今回は,英語史における標準化と規範化の試みが語彙→文法→発音の順序で進んでいったのはなぜか,という問いについて考えてみたい.この順番に関する議論はあまり読んだ記憶がないが,考察してみる価値はありそうだ.
まず,歴史的事実を改めて確認しておくが,昨日説明したように,およそ語彙→文法→発音の順で進んだということは言えそうだ.しかし,注意しなければならないのは,それぞれの部門の標準化・規範化の期間には当然ながらオーバーラップする部分があることだ.語彙が終わってから文法が始まり,文法が終わってから発音が始まった,というような人工的な区切りのよさが確認されるわけではない.規範主義者たちが,最初から問題を3部門に切り分け,数世紀の時間をかけて "divide and conquer" しようと計画していたわけでもなさそうだ.
1つ考えられるのは,この順序は標準化・規範化の取り組みやすさと関連しているのではないかということだ.言語を標準化・規範化するというときに対象となるのは,たいてい話し言葉よりも書き言葉が先である.それは,書き言葉に関する規則ほうが制定・公表・普及しやすいという事情があったろう.その効果も,書き言葉という持続的な媒体に残るほうが,評価しやすい.言語の標準化・規範化の目的が国家の威信を内外に示すという点にあったとすれば,その効果はまさに目に見える形で現われ,残ってくれないと困るのである.そうだとすれば,語彙および綴字が,最も見えやすく,具体的に,手っ取り早く片付けられる部門ということになりそうだ.
次に,語彙よりも抽象的ではあるが,やはり「正しい書き言葉」と強く結びつけられる部門である文法がターゲットとなる.こうして書き言葉の肉(=語彙)と骨(=文法)が完成すれば,初期近代英語からの標準化・規範化の課題は最低限のところ達成されたことになるだろう.
さらにもう一歩進めるとなれば,ターゲットを書き言葉から話し言葉へ移すよりほか残されていない.しかし,人々の話し言葉を統制するということは,古今東西,著しく困難である.実際,「#1456. John Walker の A Critical Pronouncing Dictionary (1791)」 ([2013-04-22-1]) の衝撃は,後に容認発音 (rp) が発達する契機となりはしたが,実際に容認発音を採用するようになった人は,現在に至るまで少数派であり,大多数の一般大衆の発音は「統制」されていない.つまり,発音の標準化・規範化は,語彙や文法に比べて「成功している」とは言い難い(もっとも,語彙や文法とて,どこまで「成功している」のかは怪しいが,相対的にいえばより「成功している」ように思われる).
英語史における言語の標準化・規範化は,上記のように,規制とその効果の見えやすさ,換言すれば取り組みやすさの順で進んだということができるのではないか.
中英語の末期から近代英語の半ばにかけて起こった英語の標準化と規範化の潮流について,「#1237. 標準英語のイデオロギーと英語の標準化」 ([2012-09-15-1]),「#1244. なぜ規範主義が18世紀に急成長したか」 ([2012-09-22-1]),「#2741. ascertaining, refining, fixing」 ([2016-10-28-1]) を中心として,standardisation や prescriptive_grammar の各記事で話題にしてきた.この流れについて特徴的かつ興味深い点は,時代のオーバーラップはあるにせよ,語彙→文法→発音の順に規範化の試みがなされてきたことだ.
イングランド,そしてイギリスが,国語たる英語の標準化を目指してきた最初の部門は,語彙だった.16世紀後半は語彙を整備していくことに注力し,その後17世紀にかけては,語の綴字の規則化と統一化に焦点が当てられるようになった.語彙とその綴字の問題は,17--18世紀までにはおよそ解決しており,1755年の Johnson の辞書の出版はだめ押しとみてよい.(関連して,「#1407. 初期近代英語期の3つの問題」 ([2013-03-04-1]),「#2321. 綴字標準化の緩慢な潮流」 ([2015-09-04-1]) を参照).
次に標準化・規範化のターゲットとなったのは,文法である.18世紀には規範文法書の出版が相次ぎ,その中でも「#2583. Robert Lowth, Short Introduction to English Grammar」 ([2016-05-23-1]) や「#2592. Lindley Murray, English Grammar」 ([2016-06-01-1]) が大好評を博した.
そして,やや遅れて18世紀後半から19世紀にかけて,「正しい発音」へのこだわりが感じられるようになる.理論的な正音学 (orthoepy) への関心は,「#571. orthoepy」 ([2010-11-19-1]) で述べたように16世紀から見られるのだが,実践的に「正しい発音」を行なうべきだという風潮が人々の間でにわかに高まってくるのは18世紀後半を待たなければならなかった.この部門で大きな貢献をなしたのは,「#1456. John Walker の A Critical Pronouncing Dictionary (1791)」 ([2013-04-22-1]) である.
「正しい発音」の主張がなされるようになったのが,18世紀後半という比較的遅い時期だったことについて,Baugh and Cable (306) は次のように述べている.
The first century and a half of English lexicography including Johnson's Dictionary of 1755, paid little attention to pronunciation, Johnson marking only the main stress in words. However, during the second half of the eighteenth century and throughout the nineteenth century, a tradition of pronouncing dictionaries flourished, with systems of diacritics indicating the length and quality of vowels and what were considered the proper consonants. Although the ostensible purpose of these guides was to eliminate linguistic bias by making the approved pronunciation available to all, the actual effect was the opposite: "good" and "bad" pronunciations were codified, and speakers of English who were not born into the right families or did not have access to elocutionary instruction suffered linguistic scorn all the more.
では,近現代英語の標準化と規範化の試みが,語彙(綴字を含む)→文法→発音という順序で進んでいったのはなぜだろうか.これについては明日の記事で.
・ Baugh, Albert C. and Thomas Cable. A History of the English Language. 6th ed. London: Routledge, 2013.
Ferguson は,言語の "language 'development'" を計測する方法を提案している.'development' と引用符があることから示唆されるように,これは進化論的な言語観に基づいているわけではなく,社会言語学的な発展の度合いを測ろうとする試みである.Ferguson (23) が具体的に挙げているのは,「書き言葉の使用の度合い」 ("the degree of use of written language") と「標準化の性質と程度」 ("the nature and extent of standardization") の2点である.
1つ目の指標である「書き言葉の使用の度合い」については,大雑把に W0, W1, W2, W3 の4段階が認められるという (23--24) .各段階の説明をみれば分かる通り,当面の便宜的な指標といってよいだろう.
・ W0. --- not used for normal written purposes
・ W1. --- used for normal written purposes
・ W2. --- original research in physical sciences regularly published
・ W3. --- languages in which translations and resumés of scientific work in other languages are regularly published
2つ目の指標である「標準化の性質と程度」は,もっと込み入っている.この指標には2つの側面があり,第1のものは "the degree of difference between the standard form or forms of a language and all other varieties of it" (24) である.つまり,言語変種間の差異性・類似性の度合いに関する側面である(関連して「#1523. Abstand language と Ausbau language」 ([2013-06-28-1]) や「#1522. autonomy と heteronomy」 ([2013-06-27-1]) を参照されたい).
第2の側面は "the nature of the standardization and the degree to which a standard form is accepted as such throughout the community" (24) である.Ferguson (24--25) は3段階を設定した.
・ St0. --- "a language in which there is no important amount of standardization" (ex. Kurdish) (24)
・ St1. --- a language which "requires considerable sub-classification to be of any use. Whatever scheme of classification is developed, it will have to take account in the first instance of whether the standardization is unimodal or bi- or multimodal, and in the case of more than one norm, the nature of the norms must be treated" (ex. bimodal Armenian, Greek, Serbo-Croatian, Norwegian; multimodal Hindi-Urdu) (25)
・ St2. --- "a language which has a single, widely-accepted norm which is felt to be appropriate with only minor modifications or variations for all purposes for which the language is used" (24)
測定のための指標として荒削りではあるが,分かりやすさの点では優れている.
このような測定値に基づいて,諸言語(共同体)を社会言語学的に類型化しようとする試みは,ほかにもある.「#1519. 社会言語学的類型論への道」 ([2013-06-24-1]) や「#1547. 言語の社会的属性7種」 ([2013-07-22-1]) も要参照.
・ Ferguson, Charles A. "The Language Factor in National Development." Anthropological Linguistics 4 (1962): 23--27.
近代国家にとって,国語 (national language) の果たす役割は大きい.国家という単位を自覚した為政者たちは,方言の弾圧,言語の標準化,国語の制定などを通じて政治的統治を実現しようとした.その動機としては,内的団結 (internal cohesion) と外的区別 (external distinction) の2種類があった.Haugen (927--28) の指摘と説明が的を射ている.
[The nation] minimizes internal differences and maximizes external ones. On the individual's personal and local identity it superimposes a national one by identifying his ego with that of all others within the nation and separating it from that of all others outside the nation. In a society that is essentially familial or tribal or regional it stimulates a loyalty beyond the primary groups, but discourages any conflicting loyalty to other nations. The ideal is: internal cohesion---external distinction. / Since the encouragement of such loyalty requires free and rather intense communication within the nation, the national ideal demands that there be a single linguistic code by means of which this communication can take place.
国家にとって,域内の人々のあいだの円滑なコミュニケーションは,統治する上で必須である.ここから,必然的に言語統一の要求が生じる.「内的団結のための国語」の必要性である.一方,国家にとっては,域内の人々が,域外の人々とも同じように円滑にコミュニケーションを取ることができては困る.それは,人々の忠誠心を自分側の国家に引きつけておくのに不都合だからだ.したがって,そのような対外的なコミュニケーションをなるべく非効率にするために,国家は他の国家の規準からなるべく異なる規準を採用しようとする.「外的区別のための国語」の必要性である.
ある国家が内的団結と外的区別を求めて国語を制定すると,他の国家も防衛的見地から同じような方針で国語を制定するようになるだろう.こうして,近代において「国家」と「国語」が芋づる式に増加していったのである.
ちなみに,「#2743. 貨幣と言語」 ([2016-10-30-1]),「#2746. 貨幣と言語 (2)」 ([2016-11-02-1]) で考えてきたように,貨幣もコミュニケーションの道具の一種であると考えると,なぜそれが内的団結と外的区別をという指向性をもっているのかが分かる.上の引用文の最後の文で,"a single linguistic code" を "a single monetary system" と置き換えても,そのまま理解できるだろう.
・ Haugen, Einar. "Dialect, Language, Nation." American Anthropologist. 68 (1966): 922--35.
Haugen (922--23) によれば,dialect という英単語は,ルネサンス期にギリシア語から学術用語として借用された語である.OED の「方言」の語義での初例は1566年となっており,そこでは英語を含む土着語の「方言」を表わす語として用いられている.フランス語へはそれに先立つ16年ほど前に入ったようで,そこではギリシア語を評して abondante en dialectes と表現されている.1577年の英語での例は,"Certeyne Hebrue dialectes" と古典語に関するものであり,1614年の Sir Walter Raleigh の The History of the World では,ギリシア語の "Æeolic Dialect" が言及されている.英語での当初の使い方としては,このように古典語の「方言」を指して dialect という用語が使われることが多かったようだ.そこから,近代当時の土着語において対応する変種の単位にも応用されるようになったのだろう.
ギリシア語に話を戻すと,古典期には統一した標準ギリシア語なるものはなく,標準的な諸「方言」の集合体があるのみだった.だが,注意すべきは,これらの「方言」は,話し言葉としての方言に対してではなく,書き言葉としての方言に対して与えられた名前だったことである.確かにこれらの方言の名前は地方名にあやかったものではあったが,実際上は,ジャンルによって使い分けられる書き言葉の区分を表わすものだった.例えば,歴史書には Ionic,聖歌歌詞には Doric,悲劇には Attic などといった風である (see 「#1454. ギリシャ語派(印欧語族)」 ([2013-04-20-1])) .
これらのギリシア語の書き言葉の諸方言は,元来は,各地方の話し言葉の諸方言に基盤をもっていたに違いない.後者は,比較言語学的に再建できる古い段階の "Common Greek" が枝分かれした結果の諸方言である.古典期を過ぎると,これらの話し言葉の諸方言は消え去り,本質的にアテネの方言であり,ある程度の統一性をもった koiné によって置き換えられていった (= koinéization; see 「#1671. dialect contact, dialect mixture, dialect levelling, koineization」 ([2013-11-23-1])) .そして,これがギリシア語そのもの (the Greek language) と認識されるようになった.
つまり,古典期からの歴史をまとめると,"several Greek dialects" → "the Greek language" と推移したことになる.諸「方言」の違いを解消して,覇権的に統一したもの,それが「言語」なのである.本来この歴史的な意味で理解されるべき dialect (と language)という用語が,近代の土着語に応用される及び,用語遣いの複雑さをもたらすことになった.その複雑さについては,明日の記事で.
・ Haugen, Einar. "Dialect, Language, Nation." American Anthropologist. 68 (1966): 922--35.
「#2743. 貨幣と言語」 ([2016-10-30-1]) に引き続き,"LANGUAGE IS MONEY" の概念メタファーについて.貨幣と言語の共通点を考えることで,この比喩のどこまでが有効で,どこからが無効なのか,そして特に言語の本質とは何なのかについて議論するきっかけとしたい.以下は,ナイジェル・トッド (152--67) の貨幣論における言語のアナロジーを扱った部分などを参照しつつ,貨幣と言語の機能に関する対応について,自分なりにブレストした結果である.
貨幣 | 言語 |
---|---|
貨幣は社会に流通する | 言語は社会に流通する |
物流の活発化に貢献 | (主として書き言葉により)情報の活発化に貢献 |
貨幣統一(cf. 日本史では家康が650年振りに「寛永通宝」など) | 言語の標準化(cf. 英語史では書き言葉の標準化が400?500年振りに) |
撰銭(種々の貨幣から良質のものを選る) | 言語の標準化にむけての "selection" (cf. 「#2745. Haugen の言語標準化の4段階 (2)」 ([2016-11-01-1])) |
貨幣の改鋳 | 言語の "refinement" (cf. 「#2745. Haugen の言語標準化の4段階 (2)」 ([2016-11-01-1])) |
貨幣システムはゼロサムではない(使用者間の信用創造が可能) | 言語システムはゼロサムではない(使用者間の関係創造が可能) |
貨幣はどのような相互行為においても使用できるわけではない | 言語はどのような相互行為においても使用できるわけではない |
非即時交換性を実現する掛け売り,付けでの支払い(cf. 通帳) | 書き言葉により可能となる非同期コミュニケーション |
貨幣は価値を貯蔵できる(=貯金) | 言語は価値を貯蔵できる(=記憶)? |
金貨,銀貨,銭貨,紙幣のあいだの換金性 | 言語(変種)間の翻訳可能性 |
偽造・変造・私銭の違法性 | 規範から外れた語法に対する批判 |
貨幣の収集(趣味のコレクション;貨幣で貨幣を買う) | 語彙の収集(メタ言語的な関心;言語で言語を説明する) |
貨幣は諸悪の根源 | 言葉は諸悪の根源? |
貨幣の魔術性(魔除け,悪魔払い;cf. 硬貨に記された言葉や絵) | 言語の魔術性 |
商品価値のシンボルのなかのシンボル | 概念価値のシンボルのなかのシンボル? (cf. semantic primitive) |
[2016-10-29-1]の記事に引き続き,標準化 (standardisation) の過程に認められる4段階について,Haugen を参照する.標準化は,時系列に (1) Selection, (2) Codification, (3) Elaboration, (4) Acceptance の順で進行するとされるが,この4つの過程と順序は,社会と言語,および形式と機能という2つの軸で整理することができる (下図は Haugen 933 をもとに作成).
Form | Function | ||
Society | (1) Selection | (4) Acceptance | |
↓ | ↑ | ||
Language | (2) Codification | → | (3) Elaboration |
昨日の記事「#2741. ascertaining, refining, fixing」 ([2016-10-28-1]) で,17世紀までの英語標準化から18世紀にかけての英語規範化へと続く時代の流れを見た.
一言で「標準化」 (standardisation) といっても,その過程にはいくつかの局面が認められる.Haugen の影響力の強い論文によれば,ある言語変種が標準化するとき,典型的には4つの段階を経るとされる.Hudson (33) による社会言語学の教科書からの引用を通じて,この4段階を要約しよう.
(1) Selection --- somehow or other a particular variety must have been selected as the one to be developed into a standard language. It may be an existing variety, such as the one used in an important political or commercial centre, but it could be an amalgam of various varieties. The choice is a matter of great social and political importance, as the chosen variety necessarily gains prestige and so the people who already speak it share in this prestige. However, in some cases the chosen variety has been one with no native speakers at all --- for instance, Classical Hebrew in Israel and the two modern standards for Norwegian . . . .
(2) Codification --- some agency such as an academy must have written dictionaries and grammar books to 'fix' the variety, so that everyone agrees on what is correct. Once codification has taken place, it becomes necessary for any ambitious citizen to learn the correct forms and not to use in writing any 'incorrect' forms that may exist in their native variety.
(3) Elaboration of function --- it must be possible to use the selected variety in all the functions associated with central government and with writing: for example, in parliament and law courts, in bureaucratic, educational and scientific documents of all kinds and, of course, in various forms of literature. This may require extra linguistic items to be added to the variety, especially technical words, but it is also necessary to develop new conventions for using existing forms --- how to formulate examination questions, how to write formal letters and so on.
(4) Acceptance --- the variety has to be accepted by the relevant population as the variety of the community --- usually, in fact, as the national language. Once this has happened, the standard language serves as a strong unifying force for the state, as a symbol of its independence of other states (assuming that its standard is unique and not shared with others), and as a marker of its difference from other states. It is precisely this symbolic function that makes states go to some lengths to develop one.
当然ながら,いずれの段階においても,多かれ少なかれ,社会による意図的で意識的な関与が含まれる.標準語の出来方はすぐれて社会的な問題であり,常に人工的,政治的な匂いがまとわりついている.「社会による意図的な介入」の結果としての標準語という見解については,上の引用に先立つ部分に,次のように述べられている (Hudson 32) .
Whereas one thinks of normal language development as taking place in a rather haphazard way, largely below the threshold of consciousness of the speakers, standard languages are the result of a direct and deliberate intervention by society. This intervention, called 'standardisation', produces a standard language where before there were just 'dialects' . . . .
関連して,「#1522. autonomy と heteronomy」 ([2013-06-27-1]) を参照.
・ Haugen, Einar. "Dialect, Language, Nation." American Anthropologist. 68 (1966): 922--35.
・ Hudson, R. A. Sociolinguistics. 2nd ed. Cambridge: CUP, 1996.
英語史上有名な Swift による A Proposal for Correcting, Improving and Ascertaining the English Tongue (1712) では,題名に3つの異なる動詞 correct, improve, ascertain が用いられている.英語を「訂正」し,「改善」し,「確定する」ことを狙ったものであることが分かる.「英語の言葉遣いをきっちりと定める」という点では共通しているが,これらの動詞の間にはどのような含意の差があるのだろうか.correct には「誤りを指摘して正しいものに直す」という含意があり,improve には「より良くする」,そして ascertain には古い語義として「確定させる」ほどの意味が感じられる.
この3つの動詞とぴったり重なるわけではないが,Swift の生きた規範主義の時代に,「英語の言葉遣いをきっちりと定める」ほどの意味でよく用いられた,もう1揃いの3動詞がある.ascertain, refine, fix の3つだ.Baugh and Cable (251) によれば,それぞれは次のような意味で用いられる.
・ ascertain: "to reduce the language to rule and set up a standard of correct usage"
・ refine: "to refine it--- that is, to remove supposed defects and introduce certain improvements"
・ fix: "to fix it permanently in the desired form"
「英語の言葉遣いをきっちりと定める」点で共通しているように見えるが,注目している側面は異なる.ascertain はいわゆる理性的で正しい標準語の策定を狙ったもので,Johnson は ascertainment を "a settled rule; an established standard" と定義づけている.具体的にいえば,決定版となる辞書や文法書を出版することを指した.
次に,refine はいわばより美しい言葉遣いを目指したものである.当時の知識人の間には Chaucer の時代やエリザベス朝の英語こそが優雅で権威ある英語であるというノスタルジックな英語観があり,当代の英語は随分と堕落してしまったという感覚があったのである.ここには,「#1947. Swift の clipping 批判」([2014-08-26-1]) や「#1948. Addison の clipping 批判」 ([2014-08-27-1]) も含まれるだろう.
最後に,fix は一度確定した言葉遣いを永遠に凍結しようとしたもの,ととらえておけばよい.Swift を始めとする18世紀前半の書き手たちは,自らの書いた文章が永遠に凍結されることを本気で願っていたのである.今から考えれば,まったく現実味のない願いではある (cf. 「#1421. Johnson の言語観」 ([2013-03-18-1])) .
18世紀の規範主義者の間には,どの側面に力点を置いて持論を展開しているのかについて違いが見られるので,これらの動詞とその意味は区別しておく必要がある.
最近「美しい日本語」が声高に叫ばれているが,これは日本語について ascertain, refine, fix のいずれの側面に対応するものなのだろうか.あるいは,3つのいずれでもないその他の側面なのだろうか.よく分からないところではある.
・ Baugh, Albert C. and Thomas Cable. A History of the English Language. 6th ed. London: Routledge, 2013.
英語の綴字標準化の歴史は,後期ウェストサクソン方言で標準的なものが現われるが,ノルマン征服後の初期中英語にはそれが無に帰し,後期中英語になって徐々に再標準化の兆しが芽生え,初期近代英語期中に標準化が進み,17--18世紀に標準綴字が確立した,と大雑把に要約できる.この概観によれば,初期中英語期は綴字の標準がまるでなかった時代ということになる.それはそれで間違ってはいないが,綴字標準とはいわずとも,ある程度一貫した綴字慣習ということであれば,この時代にも個人や小集団のレベルで実践されていた形跡が少数見つかる.よく知られているのは,(1) "AB language" の綴字, (2) Ormulum の作者 Orm の綴字,(3) ブリテン史 Brut をアングロ・フレンチ版から翻訳した Laȝamon の綴字である.
(1) "AB language" の名前は,修道女のための指南書 Ancrene Wisse を含む Cambridge, Corpus Christi College 402 という写本 (= A) と,関連する聖女伝や宗教論を含む Oxford, Bodleian Library, Bodley 34 の写本 (=B) に由来する.この2写本(及び関連するいくつかの写本)には,かなり一貫した綴字体系が採用されており,しかも複数の写字生によってそれが用いられていることから,おそらく13世紀前半に,ある南西中部の修道院か写本室が中心となって,標準綴字を作り上げる試みがなされていたのだろうと推測されている.
(2) Orm は,Lincolnshire のアウグスティノ修道士で,1200年頃に,聖書を分かりやすく言い換えた書物 Ormulum を著わした.現存する唯一のテキストは2万行を超す韻文の大作であり,それが驚くほど一貫した綴字で書かれている.Orm は,母音の量にしたがって後続する子音を重ねるなどの合理性を追究した独特な綴字体系を編みだし,それを自分の作品で実践したのである.この Orm の綴字は,他の写本にも類するものが発見されておらず,きわめて個人的な綴字標準化の事例だが,これは後の16世紀の個性的な綴字改革論者の先駆けといってよい.
(3) Laȝamon は,Worcestershire の司祭で,13世紀初頭に韻文の年代記を韻文で英語へ翻訳した.当時すでに古めかしくなっていたとおぼしき頭韻 (alliteration) や,古風な語彙・綴字を復活させ,ノスタルジックな雰囲気をかもすことに成功した.Laȝamon は,実際に古英語にあった綴字かどうかは別として,いかにも古英語風な綴字を意識的に用いた点で特異であり,これをある種の個人的な綴字標準化の試みとみることも可能だろう.
以上,Horobin (98--102) を参照して執筆した.
・ Horobin, Simon. Does Spelling Matter? Oxford: OUP, 2013.
「#2675. 人工言語と言語変化研究」 ([2016-08-23-1]) で,Jones and Singh の社会言語学的,言語変化理論的な観点からの人工言語への関心について考えた.Esperanto のような人工言語の話題を持ち出すと,強烈な信奉者もあれば,鼻で笑う向きもあれば,人口の共通言語だなんて何となくおもしろそうだと関心を示す者もある.いずれにせよ,極端な反応が示されるケースが多いように思われる.
私個人としては,少なくとも近い将来,人々に受け入れられる現実性はないと思っているし,実用性の観点からは強い関心をもっているわけではないが,Jones and Singh の議論を追うなかで,なぜ(ある種の)人々は人工言語を真剣に提案するに至るのだろうかという問題に関心が湧いてきた.過去から現在にかけて,人類は常に人工言語に対して常に憧れを抱いてきたからである (cf. 「#958. 19世紀後半から続々と出現した人工言語」 ([2011-12-11-1])) .Jones and Singh (154--55) は,Eco を引き合いに出しながら,少なくともヨーロッパにおけるこの関心について分析しようとしている.
[F]or many, deliberate creation still smacks of the quasi-academic and the 'geeky'; a fringe and fantasy-based pastime that produces 'eccentricities' such as Klingon and Esperanto. . . .
Yet while deliberate invention has long been nothing more than a game for many, it has also been seriously considered as an ideal solution to what have been characterised by some as (linked) linguistic and social 'problems'. Eco (1995: 1) [= Eco, U. The Search for the Perfect Language. Oxford: Blackwell, 1995.], for example, argues that the perception of linguistic diversity and difference has long been current in practically every culture, as has been the notion that this 'Babel' can be redeemed through 'the rediscovery or invention of a language common to all humanity'. In European thought, this has prompted various linguistic projects throughout the centuries, such as those listed in 7.2.a (adapted from Eco 1995: 2--3):
7.2.a Typology of 'language projects' in European scholarship
1. The rediscovery of languages postulated as original or as mystically perfect, such as Hebrew, Egyptian or Chinese.
2. The reconstruction of languages postulated, either fancifully or not, as original or mother tongues.
3. Languages constructed artificially for one of thee ends:
(a) Perfection in terms of either function or structure, such as the a-priori philosophical languages of the seventeenth century, designed to express ideas perfectly.
(b) Perfection in terms of universality, such as the a-posteriori international languages of the nineteenth century.
(c) Perfection in terms of practicality, if only presumed, such as the so-called polygraphies.
4. Magic languages, discovered or invented, whose perfection is extolled on account of either their mystic effability or their initiatic secrecy.
ここでは,ヨーロッパでの広い意味での「言語計画」 (language_planning) の試案が話題になっているが,この Eco のリストにもう1つ加えたいものがある.それは,近代以降,西洋諸国(及び日本)での標準的国語の制定である.19世紀以降の人工言語の提案は世界規模での「国際的」共通語を志向するものであるのに対し,初期近代の各国における国語の標準化と規範化はあくまで「国内的」共通語の策定を目指しているにすぎない.しかし,両者の発想は根本的には大きく異なっていない.国内の諸変種の多様性を1つの変種で置き換えることと,世界の諸言語の多様性を1つの言語で置き換えることは,規模の問題にすぎないともいえるからだ.確かに,前者には人工言語が関わるが,後者は自然言語のなかでの話であるという大きな違いがある.だが,後者の標準変種の制定にも少なからぬ人為性が混じっていることに注意すべきである.近代以降,国内における標準変種を必死に策定した知識人とその活動は,歴史的に概ね評価されているといってよいが,その国際版である Esperanto や Volapük を真剣に提案したり信奉したりする者たちとその活動は "geeky" とみられるのは,不思議といえば不思議である.人工言語の称揚が "geeky" でカルト的であるとすれば,標準語の制定の歴史を肯定的に受け取り,今なお標準語を遵守している事態も,等しく "geeky" でカルト的といえるのかもしれない.
・ Jones, Mari C. and Ishtla Singh. Exploring Language Change. Abingdon: Routledge, 2005.
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