言語的タブーの現象には多大な関心を寄せている.hellog でも taboo とタグ付けした多くの記事で取り上げてきた(とりわけ「#4041. 「言語におけるタブー」の記事セット」 ([2020-05-20-1]) を参照).タブーとは何か,なぜ人間社会にはタブーが生じるのか,謎が多く興味が尽きない.Allan and Burridge (1) が,言語的タブーに関する著書の冒頭で,タブーの範疇や源泉について次のように概説している.
Taboo is a proscription of behaviour that affects everyday life. Taboos that we consider in the course of the book include
・ bodies and their effluvia (sweat, snot, faeces, menstrual fluid, etc.);
・ the organs and acts of sex, micturition, and defecation;
・ diseases, death and killing (including hunting and fishing);
・ naming, addressing, touching and viewing persons and sacred beings, objects and places;
・ food gathering, preparation and consumption
Taboos arise out of social constraints on the individual's behaviour where it can cause discomfort, harm or injury. People are at metaphysical risk when dealing with sacred persons, objects and places; they are at physical risk from powerful earthly persons, dangerous creatures and disease. A person's soul or bodily effluvia may put him/her at metaphysical, moral or physical risk, and may contaminate others; a social act may breach constraints on polite behaviour. Infractions of taboos can lead to illness or death, as well as to the lesser penalties of corporal punishment, incarceration, social ostracism or mere disapproval. Even an unintended contravention of taboo risks condemnation and censure; generally, people can and do avoid tabooed behaviour unless they intend to violate a taboo.
これによると,タブーの源泉は,不快感,危害,損害を引き起こし得るような個人の行動に社会的制限を課そうとするところに存するのだという.社会秩序を平穏に維持すべく,越えてはいけない一線を社会のなかで共有するための知恵,あるいは仕掛け,と言い換えてもよいかもしれない.その目標を達成するために,人々が日常的に用いざるをえない言語というものを利用するというのは,何とも巧妙なやり方ではないか.
・ Allan, Keith and Kate Burridge. Forbidden Words: Taboo and the Censoring of Language. Cambridge: CUP, 2006.
現在,英語の世界的拡大に伴って生じている議論の最たるものは,標題の通り,英語は国際コミュニケーションのために標準化していく(べきな)のか,あるいは各地の独自性を示す英語諸変種がますます発達していく(べきな)のか,という問題だ.2つの対立する観点は,言語のもつ2つの機能,"mutual intelligibility" と "identity marking" にそれぞれ対応する(cf. 「#1360. 21世紀,多様性の許容は英語をバラバラにするか?」 ([2013-01-16-1]),「#1521. 媒介言語と群生言語」 ([2013-06-26-1])).
日本語を母語とする英語学習者のほとんどは,日本語という盤石な言語的アイデンティティを有しているために,使うべき英語変種を選択するという面倒なプロセスをもってアイデンティティを表明しようなどとは考えないだろう.したがって,英語を学ぶ理由は第一に国際コミュニケーションのため,世界の人々と互いに通じ合うため,ということになる.英語が標準化してくれることこそが重要なのであって,世界中でバラバラの変種が生じてしまう状況は好ましくない,と考える.日本に限らず EFL 地域の英語学習者は,おおよそ同じような見方だろう.
しかし,世界の ENL, ESL 地域においては,自らの用いる英語変種(しばしば非標準変種)を意識的に選択することでアイデンティティを示したいという欲求は決して小さくない.そのような人々は,英語の標準化がもつ国際コミュニケーション上の意義は理解しているにせよ,世界各地で独自の変種が発達していくことにも消極的あるいは積極的な理解を示している.
はたして,グローバルな英語の議論において標題の対立が立ち現われてくることになる.この話題に関するエッセイ集を編んだ Rubdy and Saraceni は,序章で次のように述べている (5) .
The global spread of English, its causes and consequences, have long been a focus of critical discussion. One of the main concerns has been that of standardization. This is also because, unlike other international languages such as Spanish and French, English lacks any official body setting and prescribing the norms of the language. This apparent linguistic anarchy has generated a tension between those who seek stability of the code through some form of convergence and the forces of linguistic diversity that are inevitably set in motion when new demands are made on a language that has assumed a global role of such immense proportions.
言語の標準化 (standardisation) とは何か? 標準英語 (Standard English) とは何か? なぜ英語を統制する公的機関は存在しないのか? 数々の疑問が生じてくる.このような疑問に立ち向かうには,英語の歴史の知識が武器になる.というのは,英語は,1600年近くにわたる歴史を通じて,標準化と脱標準化(変種の多様化)の波を繰り返し経験してきたからである.21世紀に生じている標準化と脱標準化の対立が,過去の対立と必ずしも直接的に比較可能なわけではないが,議論の参考にはなるはずだ.また,英語を統制する公的機関が不在であることも,英語史上で長らく論じられてきたトピックである.
言語の標準化を巡っては,近刊書(高田 博行・田中 牧郎・堀田 隆一(編著)『言語の標準化を考える --- 日中英独仏「対照言語史」の試み』 大修館,2022年)を参照されたい.同書の紹介は「#4784. 『言語の標準化を考える』は執筆者間の多方向ツッコミが見所です」 ([2022-06-02-1]) の記事とそのリンク先にまとまっている.
・ Rubdy, Rani and Mario Saraceni, eds. English in the World: Global Rules, Global Roles. London: Continuum, 2006.
昨日の記事「#4776. 初の対照言語史の本が出版されました 『言語の標準化を考える --- 日中英独仏「対照言語史」の試み』」 ([2022-05-25-1]) で紹介した編著書では,英語の標準化について2本の論考が掲載されている.1つは寺澤盾先生(青山学院大学)による「第7章 英語標準化の諸相 --- 20世紀以降を中心に」で,もう1つは拙論の「第6章 英語史における『標準化サイクル』」である.
そもそも「標準英語」 (Standard English) とは何かという根本的な問題については私もいろいろ考え続けてきたが,いまだによく分かっていない.以下の記事などは,その悩みの足跡ともいえる.
・ 「#1396. "Standard English" とは何か」 ([2013-02-21-1])
・ 「#3499. "Standard English" と "General English"」 ([2018-11-25-1])
・ 「#1237. 標準英語のイデオロギーと英語の標準化」 ([2012-09-15-1])
・ 「#3232. 理想化された抽象的な変種としての標準○○語」 ([2018-03-03-1])
・ 「#4277. 標準語とは優れた言語のことではなく社会的な取り決めのことである」 ([2021-01-11-1])
・ 「#1275. 標準英語の発生と社会・経済」 ([2012-10-23-1])
・ 「#1228. 英語史における標準英語の発展と確立を巡って」 ([2012-09-06-1])
本来,標準英語とは「皆に通じる英語」ほどを意味する用語から始まったと思われるが,歴史の過程でいつのまにか,威信 (prestige) が宿り社会言語学的な手垢のついた「えらい英語」という地位にすり替わってしまったかのように思われる.「標準」の意味が,中立的なものから底意のあるものに変容してしまったのではないか.おそらく,この変容の生じた時期の中心は,後期近代英語期から現代英語期にかけてだろう.
この変容を,Horobin (73--74) は Jonathan Swift (1667--1745) から Henry Cecil Wyld (1870--1945) への流れのなかに見て取っている.
The application of the adjective standard to refer to language is first recorded in the eighteenth century, a development of its earlier use to refer to classical literature. A desire to associate English literature with the Classics prompted a wish to see the English language achieve a standard form. This ambition was most clearly articulated by Jonathan Swift: 'But the English Tongue is not arrived to such a degree of Perfection, as to make us apprehend any Thoughts of its Decay; and if it were once refined to a certain Standard, perhaps there might be Ways found out to fix it forever' (A Proposal for Correcting, Improving and Ascertaining the English Tongue, 1712). By the nineteenth century, the term Standard English referred specifically to a prestige variety, spoken only by the upper classes, yet viewed as a benchmark against which the majority of native English speakers were measured and accused of using their language incorrectly.
The identification of Standard English with the elite classes was overtly drawn by H. C. Wyld, one of the most influential academic linguists of the first half of the twentieth century. Despite embarking on his philological career as a neutral observer, for whom one variety was just as valuable as another, Wyld's later work clearly identified Standard English as the sole acceptable form of usage: 'It may be called Good English, Well-bred English, Upper-class English.' These applications of the phrase Standard English reveal a telling shift from the sense of standard signalling 'in general use' (as in the phrase 'standard issue') to the sense of a level of quality (as in the phrase 'to a high standard').
From this we may discern that Standard English is a relatively recent phenomenon, which grew out of an eighteenth-century anxiety about the status of English, and which prompted a concern for the codification and 'ascertaining', or fixing, of English. Before the eighteenth century, dialect variation was the norm, both in speech and in writing.
Horobin は他の論考においてもそうなのだが,Wyld 批判の論調が色濃い.この辺りは本当におもしろいなぁと思う.
・ Horobin, Simon. How English Became English: A Short History of a Global Language. Oxford: OUP, 2016.
「井上逸兵・堀田隆一英語学言語学チャンネル」を始めて3ヶ月ほどが経ちました.英語・言語に関して大学の講義ぽいものではなく,あくまで研究者どうしの廊下での立ち話し的な,ゆるめのおしゃべりを目指して,毎週日曜日と水曜日の18:00に10分間前後の動画をアップロードしています.多くの方々にチャンネル登録をしていただいています.ありがとうございます.今後もよろしくお願いいたします.
昨日,第25弾が公開されました.「新説! go の過去形が went な理由」です.YouTube という場を借りまして,私のトンデモ仮説!?を開陳させていただきました(笑).反証可能な仮説ではなく,あくまで私論にとどまるものではありますが,長らく抱いている考え方です.
その私論を単純化していえば,go/went に限らず英語(ひいては言語一般)に観察される数々の不規則な言語項目は,それをマスターしていない個人は英語話者集団の仲間に入れてあげないよ,という社会言語学上のリトマス試験紙として機能しているのではないかということです.「go といえば goed ではなく went」という,仲間うちのみに共有されている合い言葉を,きちんと習得しているかどうかを確かめるリトマス試験紙なのではないかと.
もちろんそのようなリトマス試験紙が,取り立てて go/went のペアである必要はありません.ほかのどんなペアでも良かったはずです.ですが,英語においては,たまたま不規則性を歴史的に体現してきた go/went が,社会言語学的なリトマス試験紙として選ばれ,利用されている,ということなのだろうと考えています.
「なぜ go の過去形が went なのか」という素朴な疑問には,2つの側面があります.1つは,なぜよりによって went という形なのですか,という問いです.こちらへの回答は英語史が得意とするところです.「#43. なぜ go の過去形が went になるか」 ([2009-06-10-1]),「#4094. なぜ go の過去形は went になるのですか? --- hellog ラジオ版」 ([2020-07-12-1]),「#4403. 『中高生の基礎英語 in English』の連載第3回「なぜ go の過去形は went になるの?」」 ([2021-05-17-1]) をご覧ください.
一方,なぜいつまでたっても go の過去形として goed が採用されないのか,という問いに対しては,異なる回答ができるように思われます.上記の社会言語学的な観点からの回答です.これについて「#1482. なぜ go の過去形が went になるか (2)」 ([2013-05-18-1]) や,拙著『英語の「なぜ?」に答えるはじめての英語史』の p. 78 をご覧ください.
言葉にはあちこちに不規則性という罠がちりばめられているのです.
・ 堀田 隆一 『英語の「なぜ?」に答えるはじめての英語史』 研究社,2016年.
社会言語学 (sociolinguistics) と一口にいっても,幅広い領域なので研究内容は多岐にわたる.「#2545. Wardhaugh の社会言語学概説書の目次」 ([2016-04-15-1]) を眺めるだけでも,扱っている問題の多様性がうかがえるだろう.
社会言語学を研究対象となる現象の規模という観点からざっくり2区分すると,「#1380. micro-sociolinguistics と macro-sociolinguistics」 ([2013-02-05-1]) でみた通りになる.一方,学史的な観点を踏まえると,社会言語学では大きく3つのパラダイムが発展してきたので,3区分することも可能だ.以下は,Dittmar による3区分に依拠した Nevalainen and Raumolin-Brunberg (18) の表である.社会言語学の見取り図として有用だ.
Paradigm/Dimension | Sociology of language | Social dialectology | Interactional sociolinguistics |
---|---|---|---|
Object of study | * status and function of languages and language varieties in speech communities | * variation in grammar and phonology * linguistic variation in discourse * speaker attitudes | * interactive construction and organization of discourse |
Mode of inquiry | * domain-specific use of languages and varieties of language | * correlating linguistic and sociological categories | organization of discourse as social interaction |
Fieldwork | * questionnaire * interview | * sociolinguistic interview * participant observation | * documentation of linguistic and non-linguistic interaction in different contexts |
Describing | * the norms and patterns of language use in domain-specific conditions | * the linguistic system in relation to external factors | * co-operative rules for organization of discourse |
Explaining | * differences of and changes in status and function of languages and language varieties | * social dynamics of language varieties in speech communities * language change | * communicative competence; verbal and nonverbal input in goal-oriented interaction |
「#4738. 南アフリカ英語の歴史に生じた "swamping"?」 ([2022-04-17-1]) で触れたように,近年,新変種の形成についての関心が高まってきており,様々な学説が登場している.
Millar (40--54) は,対立する3つの新変種形成モデルを念頭に,いくつかの新変種形成の事例を紹介している.Tristan da Cunha English (cf. 「#2311. Tristan da Cunha」 ([2015-08-25-1])), Falkland Islands English (cf. 「#3249. The Falkland Islands」 ([2018-03-20-1])), Newfoundland English (cf. 「#4490. イギリスの北米植民の第2弾と第3弾」 ([2021-08-12-1])), Glaswegian Scots, Milton Keynes and 'Estuary English', Scottish Standard English (cf. 「#1719. Scotland における英語の歴史」 ([2014-01-10-1])) である.その結果わかったことは,いずれの新変種形成モデルにも一長一短があり,事例によってうまく説明できたり,できなかったりするということだ.Millar (55) を引用する.
The formation of new varieties of a language does appear to follow set patterns, based in particular upon the original inputs derived from the linguistic backgrounds of early settlers. A number of scholars --- most notably Trudgill --- are convinced that it would be possible to predict the outcome of this mix from the proportion of different origins in the initial settlement. Others are unconvinced by this argument, in particular in relation to a 'mindless' application of proportions, without reference to personal and group identities and the shifting linguistic attitudes found in all societies. Nevertheless, analyses of this type are useful in making us think about both origins and evolutionary change.
Equally useful, but also suspect, are the concepts of founder effect and swamping. The primary issue with these explanations is that they are very effective in some contexts, but do not seem to have much effect elsewhere . . . . The fact that the two apparently antagonistic views are actually sometimes similar and may well work together under certain circumstances needs to be borne in mind. Whatever their full applicability, both are useful metaphors for how some parts of a population can affect the development of a new variety even when they are not in the majority.
お互いに対立するモデルというよりは,むしろ相補的にとらえるほうがよいのではないか,という提案と読んだ.
・ Millar, Robert McColl. Contact: The Interaction of Closely Related Linguistic Varieties and the History of English. Edinburgh: Edinburgh UP, 2016.
移民・植民による新しい変種はいかにして形成されるのか.これは近年の歴史社会言語学でおおいに注目されている問題である.Trudgill や Mufwene に代表される論客が様々な説を提唱してきた.初期の移民人口がいかなる比率でどのような変種を携えていたかといった人口統計学的要因が決定的に重要であるという見解もあれば,リーダー的な話者集団,すなわち "founder" が話している変種こそが,その後の変種の方向性を決めるという見解もある(後者については「#1841. AAVE の起源と founder principle」 ([2014-05-12-1]) を参照).
Millar (38--40) によると,また別の見解として "swamping" という過程が考え得るという.現在の南アフリカ英語の諸特徴は,初期の移民史を参照しても,うまく説明することができない.初期の移民史によって説明し得る諸特徴は,1850年代の新たな移民を契機に「水没」してしまい,現在まで痕跡を残していない,というのが "swamping" 説の主旨だ.
現在の南アフリカ英語には多分に東南イングランド英語の言語特徴が含まれるといわれるが,これは単純に移民史をたどるだけでは説明がつかないという.Millar (39) より引こう.
There is some evidence which suggests . . . that this South-Eastern English predominance does not represent well the history of the first English-speaking immigrants of the 1820s, when the Cape and its surrounding districts had newly been brought under British control. (English speakers would have been regular visitors to the Cape during the period of Dutch rule; they would have been unlikely to have made a lasting impression on the linguistic history of the region, however.) The settlers of the 1850s in KwaZulu-Natal may be more representative of the later speech patterns of South African English . . . . Practically all evidence for any local variety of English predating this central event has been expunged from the present dialect. Thus the nature of an initial variety is swamped.
ある変種を特徴づける言語特徴の「水没」なる現象は本当にあるのだろうか.あるのであれば,いかなる条件で起こり得るのだろうか.
・ Millar, Robert McColl. Contact: The Interaction of Closely Related Linguistic Varieties and the History of English. Edinburgh: Edinburgh UP, 2016.
一般的にいって綴字改革 (spelling_reform) は成功しないものである.実際,英語の歴史で見る限り成功例はほとんどない.その理由については「#606. 英語の綴字改革が失敗する理由」 ([2010-12-24-1]),「#2087. 綴字改革への心理的抵抗」 ([2015-01-13-1]),「#634. 近年の綴字改革論争 (1)」 ([2011-01-21-1]),「#635. 近年の綴字改革論争 (2)」 ([2011-01-22-1]) などで触れてきた.
英語史において綴字改革がそれなりに成功したとみなすことのできるほぼ唯一の事例が,Noah Webster によるアメリカ英語における綴字改革である(改革の対象となった単語例は「#3087. Noah Webster」 ([2017-10-09-1]) を参照).
では,なぜ Webster の綴字改革は類い希なる成功を収め得たのか.この問題については「#468. アメリカ語を作ろうとした Webster」 ([2010-08-08-1]),「#3086. アメリカの独立とアメリカ英語への思い」 ([2017-10-08-1]) でも取り上げてきた.端的にいえば,ウェブスターの綴字改革は,反イギリス(綴字)という時代の勢いを得たということである.アメリカ独立革命とそれに伴うアメリカの人々の新生国家に対する愛国心に支えられて,通常では実現の難しい綴字改革が奏功したのである.もちろん,Webster 自身も強い愛国者だった.
Webster の愛国心の強さについては上記の過去の記事でも言及してきたが,それをさらに雄弁に語る解説を見つけたので紹介したい.昨日の記事でも触れた Coulmas (267) が,アメリカ英語の歴史を著わした Mencken を適宜引用しながら,愛国者 Webster の綴字イデオロギーについて印象的な記述を施している.
Webster was an ardent nationalist who had an intuitive understanding of the symbolic significance of the written language as a national emblem. Like many of his contemporaries in England and in the colonies, Webster promoted a reformed mode of spelling; however, what distinguished him from others is that he realised the political significance of claiming an independent standard for American English. Spelling to him was a way to write history. Webster's various publications on the English language were intended to further America's intellectual independence and to prove political nationalism with a manifest appearance for all to see and identify with. 'As an independent nation, our honor requires us to have a system of our own, language as well as government' (Webster 1789: 20).
Reducing the number of letters, weeding out silent letters, and making the spelling more regular were general principles of reform in line with the Enlightenment's call for more rationality. While Webster subscribed to these ideals, to him the 'greatest argument', as Mencken put it, 'was the patriotic one: "A capital advantage of his reform in these States would be that it would make a difference between the English orthography and the American"' (quoted from Mencken 1945 [1919]: 382). Regulating spelling conventions since the Renaissance had been intended to advance homogeneity, but Webster's new spelling was, on the contrary, designed to bring about a schism. Reversing the printers' plea for as wide a distribution of print products as possible, he argued that 'the English would never copy our orthography for their own use' and that the alteration would thus 'render it necessary that all books should be printed in America' (Mencken 1945 [1919]: 382). The assumed economic advantages of a simpler spelling system that would accrue from savings in the cost of teaching as well as publishing books at home rather than buying them from England were an important part of his reasoning.
Self-interest and nationalism thus prevailed over rationalism. Webster's new spelling could succeed because it was supported by a strong political ideology, because it was not so sweeping as to burn all the bridges and make literature in the conventional orthography unintelligible, and because the population concerned was favourably disposed to novelty and not strongly tied to a literary tradition, hailing to a large part from less-educated strata of society. If any generalisation can be drawn from this example, it would seem to be that in spelling reforms ideological motives are more important than correcting system-intrinsic flaws of the extant norm, although it is usually properties of this kind --- irregularity, redundancy, polyvalence --- that are first put forth by reform proponents.
私が興味を引かれたのは,第2段落後半に言及がある印刷と本作りに関するくだりである.アメリカ綴字で印刷された本はイギリスでは売れない.それは結構なことである.アメリカ国内で印刷産業が育つことになり,イギリスから本を輸入する必要もなくなるからだ.この綴字改革の政治経済的インパクトを予見していたとすれば,Webster,まさに恐るべしである.
・ Coulmas, Florian. "Sociolinguistics and the English Writing System." The Routledge Handbook of the English Writing System. Ed. Vivian Cook and Des Ryan. London: Routledge, 2016. 261--74.
・ Webster, Noah. Dissertation on the English language. Boston, MA: Isaiah Thomas and Co., 1789. Available online at https://archive.org/stream/dissertationsone00webs#page/20/mode/2up.
・ Mencken, H. L. The American Language: An Inquiry into the Development of English in the United States. 4th ed. New York: Alfred A. Knopf, 1945 [1919].
英語の書記体系を題材に「社会言語学」してみたらどうなるだろうか.Coulmas の論文は,そのような試みである.
新しいメディアやコミュニケーションの発達,そしてそれに伴う言語行動パターンの変化により,近い将来,英語の書き言葉はどのように変化していくのだろうか.誰にとっても未知の領域ではあるが,Coulmas (271-72) が論点をいくつか挙げている.
・ The admittance of spell checkers and electronic dictionaries in ever-lower grades at school could alter public attitudes toward the importance of spelling.
・ By virtue of easy access to materials in other languages and automatic translation software, language contact in the written mode has acquired a new dimension.
・ Non-native written English text is made public on an unprecedented scale.
・ Communities of vernacular writing are more easily formed. To what extent is this potential actually exploited?
・ More people partake in word play (Leetspeak, Lolcat) and Internet memes like Doge.
・ Non-standard and loaded spellings (e.g., imagiNation, a book title prior to Scotland's independence referendum) and cacography (wot? magick, marshall law) can gain currency in ways unimaginable only a generation ago (by 'going viral'). The exposure of the reading public to text on the Internet that has not gone through the traditional filters has grown exponentially. Will this have an effect on what is considered Standard English?
・ The authority the written word was traditionally accorded could be undermined and the grip of norm-preserving institutions (i.e., school, government printing offices, newspapers, dictionaries) on the language could weaken as a result.
・ New forms of writing practices evolve as the new media take hold in society. The handwritten CV is already anachronistic, while it is becoming more common for employers to screen job applicants' social media pages. At the same time, digital literacy is becoming ever more important for any employment and full participation in society.
Coulmas の挙げている論点から浮かび上がってくるのは,世界中のメディア空間においてますます多くの非標準的な英語表記が飛び交うことにより,従来の標準的な書記からの逸脱が進行するのではないか,という近未来像だ.もちろん他に論点はあり得るし,標準からの逸脱に抵抗する力学も何らかの形で作用するに違いない.一度ゼミなどで議論するにふさわしい話題とみた.
・ Coulmas, Florian. "Sociolinguistics and the English Writing System." The Routledge Handbook of the English Writing System. Ed. Vivian Cook and Des Ryan. London: Routledge, 2016. 261--74.
井上逸兵さんとの YouTube の第8弾が公開されました.英語の大人な謝り方---でも,日本人から見るとなんだかなー【井上逸兵・堀田隆一英語学言語学チャンネル #8 】です.前回からの続きものとなります.
謝罪「ごめんなさい」→誓い・意志「二度としません」→意志を問う Will you . . . ? について→Will you . . . ? は本当に丁寧か,のようにアチコチに話しが飛んでいきました.まさに雑談という感じですので.肩の力を抜いて気軽にご視聴ください.
過去数回の動画で,発話行為 (speech_act) が話題の中心となっています.発話行為とは何なのでしょうか.
専門的な語用論 (pragmatics) の立場からいえば「話し手と聞き手のコミュニケーション上の振る舞いとの関連からみた発話の役割」ほどです.しかし,これではよく分かりませんね.
一般には,発話行為には3種類あるとされています.1つは,話し手による発話そのもの (locutionary act;狭い意味での「発話行為」) .2つめは,話し手の意図,あるいは話し手が発話によって行なっていること (illocutionary act;「発話内行為」) .3つめは,話し手が発話を通じて聞き手に及ぼす効果 (perlocutionary act;「発話媒介行為」) です.
いくつかの用語辞典で "speech act (theory)" を調べてみました.比較的わかりやすくて短めだった2点を引用しましょう.
speech act theory A theory associated with the work of the British philosopher J. L. Austen, in his 1962 book How to do things with words, which distinguishes between three facets of a speech act: the locutionary act, which has to do with the simple act of a speaker saying something; the illocutionary act, which has to do with the intention behind a speaker's saying something; and the perlocutionary act, which has to do with the actual effect produced by a speaker saying something. The illocutionary force of a speech act is the effect which a speech act is intended to have by the speaker. (Trudgill 125)
speech act A term derived from the work of the philosopher J. L. Austin (1911--60), and now used widely in linguistics, to refer to a theory which analyses the role of utterances in relation to the behaviour of speaker and hearer in interpersonal communication. It is not an 'act of speech' (in the sense of parole), but a communicative activity (a locutionary act), defined with reference to the intentions of speakers while speaking (the illocutionary force of their utterances) and the effects they achieve on listeners (the perlocutionary effect of their utterances). Several categories of speech act have been proposed, viz. directives (speakers try to get their listeners to do something, e.g. begging, commanding, requesting), commissives (speakers commit themselves to a future course of action, e.g. promising, guaranteeing), expressives (speakers express their feelings, e.g. apologizing, welcoming, sympathizing), declarations (the speaker's utterance brings about a new external situation, e.g. christening, marrying, resigning) and representatives (speakers convey their belief about the truth of a proposition, e.g. asserting, hypothesizing). The verbs which are used to indicate the speech act intended by the speaker are sometimes known as performative verbs. The criteria which have to be satisfied in order for a speech act to be a successful are known as felicity conditions. (Crystal 446)
関連して本ブログより以下の記事もご参照ください.
・ 「#2665. 発話行為の適切性条件」 ([2016-08-13-1])
・ 「#2674. 明示的遂行文の3つの特徴」 ([2016-08-22-1])
・ 「#2831. performative hypothesis」 ([2017-01-26-1])
・ 「#1646. 発話行為の比較文化」 ([2013-10-29-1])
・ Trudgill, Peter. A Glossary of Sociolinguistics. Oxford: Oxford University Press, 2003.
・ Crystal, David, ed. A Dictionary of Linguistics and Phonetics. 6th ed. Malden, MA: Blackwell, 2008. 295--96.
昨日18:00に井上逸兵さんとの YouTube の第5弾が公開されました.グラスゴー vs. エディンバラ・方言のイメージはどのようにできる?【井上逸兵・堀田隆一英語学言語学チャンネル #5 】と題する,8分程度の緩いおしゃべりです.今回は脱線も豊富です.
今回は,動画内でも話題となっているスコットランド英語について私的な体験を少々お話ししたいと思います.私はスコットランドのグラスゴー大学に留学していたことがありますが,当初(だけではないですが)は聞き慣れないスコットランド英語 (Scottish English or Scots) に戸惑いました.イギリス国内でも,とりわけグラスゴー訛りの英語 (Glaswegian) はアクセントがきついというのは広く知られている評価で,実際なかなかの難物でした.
「○○方言」や「○○訛り」と一言でいっても,そのなかで「上」から「下」までの幅広いヴァリエーションがあるのが通例です.例えば,同じスコットランド英語といっても,(主にスコットランドの首都エディンバラの)知識人が用いる「標準スコットランド英語」は,私たちが一般的に標準イギリス英語として理解している発音とは一線を画しているものの,澄んでいて聞き取りやすい印象を受けます.エディンバラの発音は,イングランド(そしてイギリス全体)の首都であるロンドンとの政治的連携も意識され,「威信ある発音」とみなされています.逆にいえば,コテコテのスコットランド訛りで話す地方出身者からすると,気取った発音に聞こえるようです.
一方,エディンバラからバスでも鉄道でも1時間ほどしか離れていないグラスゴーの訛りは,かなりコテコテといわれています.グラスゴー訛りの話者は,エディンバラの発音とあえて距離を取ることで,自分たちこそが(イングランドに媚びを売らない)真のスコットランド人なのだというアイデンティティを表出しているところがあります.関連して,スコットランド人でもエリート志向はエディンバラ大学へ進学し,地元志向はグラスゴー大学へ進学するという傾向があると聞いたことがあります.
対象を「グラスゴー訛り」と狭く絞っても,やはりそのなかで上下の幅があります.私は主に大学の環境にいたので,ある程度コテコテ度の抑えられたグラスゴー訛りを聴く機会が多かったと思います.分からない素振りをすれば,"foreigner talk" のように多少は容赦してしゃべってくれるということもありました.しかし,滞在していたフラットで,(イギリス生活の風物詩ですが)シャワーが壊れたり,タイルが剥がれたりすると,職人さんが修理しに来てくれるわけですが,彼らの文字通りコテコテのグラスゴー訛りには,まったくお手上げでした.職人さん同士で話しているのを立ち聞きしていると,ここがイギリスだと知らなかったならば,そもそも英語として認識できなかったと思います.フラットメイトに地元学生が複数いたために,そこそこグラスゴー訛りの聞き取りスキルは鍛えられていただろうと思い込んでいたのですが,いやはやまったく太刀打ちできませんでした.
自らのグラスゴー訛りにコンプレックスを抱く学生もいました.地元志向であればそれほどでもないのでしょうが,「中央進出」を考えている学生にとっては,評価の低いグラスゴー訛りが足かせになるのではないかという不安があるようです.関連して「#2029. 日本の方言差別と方言コンプレックスの歴史」 ([2014-11-16-1]),「#2030. イギリスの方言差別と方言コンプレックスの歴史」 ([2014-11-17-1]) もご参照ください.
方言差別や方言コンプレックスというものはあってはならないとは思いますが,現実には多くの言語共同体において方言格差が厳然として存在します.これは社会言語学の一級の話題ですし,私自身も英語史の観点から関連する問題にアプローチしています.
昨日,井上逸兵さんとの YouTube の第4弾が公開されました.pleaseの使いすぎはキケン!?ーコミュニケーションの社会言語学【井上逸兵・堀田隆一英語学言語学チャンネル #4 】と題するおしゃべりですが社会言語学 (sociolinguistics) という分野について概観してみました.
社会言語学は井上氏と私が関心を共有する分野です.そもそも英語史研究は伝統的に,扱う時代の社会的・文化的な背景を考慮するのが一般的です.言語と社会の関係を考察する社会言語学とは本質的に相性がよいのです.20世紀後半より社会言語学が理論的に成熟してくると,英語史研究もその成果を取り込み,新たな可能性が開かれてきました.とりわけ言語項の社会的な変異の存在を前提とする "variationist" な言語観は,社会言語学から生み出されたもので,昨今の英語史研究でも一般的に採用されています.
社会言語学の取り上げる話題は多岐にわたります.「#2545. Wardhaugh の社会言語学概説書の目次」 ([2016-04-15-1]) などを概観すると,カバーする範囲の広さが分かると思います.言語と方言,標準化,地域方言,社会方言,レジスター,リンガ・フランカ,ピジン語,クレオール語,ダイグロシア,2言語使用,多言語使用,コードスイッチング,アコモデーション,言語変化,サピア=ウォーフの仮説,プロトタイプ,タブー,婉曲表現,おしゃべり,呼称,ポライトネス,発話行為,協調の原理,ジェンダー,言語差別,言語権,言語計画など,キーワードを挙げ始めると止まりません.英語史でも,これらの各々を念頭において研究することが可能です.
今回の YouTube では,ミクロとマクロの社会言語学に触れました.ミクロな社会言語学では,例えば典型的に2人の間の相互行為 (interaction) に注目するようなアプローチが取られます.語用論にも接近することが多いです.一方,マクロな社会言語学では,2人にとどまらず言語共同体というより大きな単位で言語と社会の関係をとらえようとします.しかし,井上氏も私も,両者は地続きだという考え方をしています.
社会言語学のミクロとマクロについては,以下の記事も参照してください.
・ 「#1380. micro-sociolinguistics と macro-sociolinguistics」 ([2013-02-05-1])
・ 「#1623. セネガルの多言語市場 --- マクロとミクロの社会言語学」 ([2013-10-06-1])
・ 「#2005. 話者不在の言語(変化)論への警鐘」 ([2014-10-23-1])
・ 「#3204. 歴史社会言語学と歴史語用論の合流」 ([2018-02-03-1])
社会言語学に関心をもった方は,ぜひ「#1480. (英語)社会言語学概説書の書誌」 ([2013-05-16-1]) よりいずれかの概説書を手に取ってみてください.
2月27日に開設した「井上逸兵・堀田隆一英語学言語学チャンネル」の第2弾が公開されました.「標準英語」がイギリスの○○方言だったら,日本人,楽だったのにー!!・英語学への入り口(堀田編)です.
堀田が英語学・英語史に関心を持ったきっかけが「英語の複数形とは何ぞや?」であったことから始まり,同じ -s つながりで動詞の3単現の話しに移り,3単現でも -s のつかないイギリス方言があるぞという話題に及びました.さらに,今度はアメリカ方言にまで飛び火し,最後には黒人英語の話題,とりわけ Ebonics 論争に到達しました.10分間の英語学のお散歩を楽しんでいただければ.
今回の話題と関連する本ブログからの記事を以下に紹介しておきます.一括して読みたい方はこちらからどうぞ.
・ 「#946. 名詞複数形の歴史の概要」 ([2011-11-29-1])
・ 「#2112. なぜ3単現の -s がつくのか?」 ([2015-02-07-1])
・ 「#2310. 3単現のゼロ」 ([2015-08-24-1])
・ 「#2566. 「3単現の -s の問題とは何か」」 ([2016-05-06-1])
・ 「#4255. なぜ名詞の複数形も動詞の3単現も同じ s なのですか?」 ([2020-12-20-1])
・ 「#591. アメリカ英語が一様である理由」 ([2010-12-09-1])
・ 「#3653. Ebonics 論争」 ([2019-04-28-1])
・ 「#2672. イギリス英語は発音に,アメリカ英語は文法に社会言語学的な価値を置く?」 ([2016-08-20-1])
昨日の記事「#4670. アジェージュによる「フリジア語の再征服」」 ([2022-02-08-1]) に引き続き,アジェージュ (264) より「コーンウォールの不死鳥」と題する1節を引こう.コーンウォール語 (Cornish) はフリジア語 (Frisian) 以上に再生・復活という概念からかけ離れているように思われるが,どうだろうか.
四世紀にサクソン人が拡大すると,ケルノウ語〔コーンウォール語〕はカムリ語〔ウェールズ語〕から切り離され,コーンウォール半島のさらに西に閉じ込められた.こうして,ケルノウ語はケルト系の兄弟言語であるカムリ語から遠ざかるとともに,同じケルト語派のいとこ言語にあたるブレイス語〔ブルトン語〕からも分離した.十六世紀後半の宗教改革の犠牲になったケルノウ語は,そのころから徐々に衰退していき,一八〇〇年ごろには話しことばとして消滅してしまった.しかし,驚くべき現象がこの言語の歴史に生じた.ケルノウ語は,二十世紀になってよみがえったのである.運動の推進者にしてみれば,ケルノウ語の再生は,コーンウォールの住民とその伝統との結びつきからくる自然な結果と思われた.この結びつきについての反論の余地のない論理は,一九〇一年に創設されたケルト-ケルノウ協会の有力なメンバーであったH・ジェンナーがきわめて簡潔に言いあらわしている.「なぜコーンウォール人はケルノウ語を学ばなくてはならないのか? なぜなら彼らはコーンウォール人だからである」〔中略〕.再生させようとする言語形態はどの時代のものとすべきかという選択についての議論があることはある.しかし,言語の再生に情熱を傾けるグループのひとびとが,二〇〇年近く前に死んでしまったこのことばを日常生活のなかで使おうとしており,しかもそれに共鳴するひとびとの数がしだいに増えているという事実は,きわめて注目すべきである.なかには,イスラエス国家におけるヘブライ語の再生と比較する者もあるほどである.
宗教改革の時代は,イングランドがブリテン諸島の周辺地域へと「帝国」を拡大しようとした時代である.ブリテン島の南西端にあるコーンウォールもその餌食となり,同地に英語が浸透していくことになった.その後,コーンウォール語は実質的には死語となってしまったが,それを20世紀になってから地元の有志が再生・復活しようとしている,というのだ.
「#779. Cornish と Manx」 ([2011-06-15-1]) でも触れたように,このコーンウォール語の復興活動には象徴的な意義しかないという向きもある.確かに現実的には難しいかもしれない.しかし,「民族が言語を生み出す」ということの意味を改めて考えさせてくれる,現代の生きた事例ではある.
・ グロード・アジェージュ(著),糟谷 啓介・佐野 直子(訳) 『共通語の世界史 --- ヨーロッパ諸語をめぐる地政学』 白水社,2018年.
印欧語比較言語学では,英語と最も近親の言語は何かといえばフリジア語 (Frisian) ということになっている.本ブログでは英語史の周辺の話題も様々に扱ってきたが,フリジア語については「#787. Frisian」 ([2011-06-23-1]) や「#3169. 古英語期,オランダ内外におけるフリジア人の活躍」 ([2017-12-30-1]) で取り上げた程度で,あまり注目してこなかった.
そこで近現代のフリジア語の状況について話題を提供すべく,アジェージュより「フリジア語の再征服」と題する魅力的な1節を引用したい (262--63) .「民族が言語を生み出す」1例としてフリジア語が取り上げられている箇所だ.
ある言語がより勢力の強い言語の圧力によって消滅の危機にさらされても,民族的マイノリティがアイデンティティを要求することで,その言語の地位の向上につながることがある.フリジア語の場合がそれである.フリジア語は,英語と同じく西ゲルマン語群の海洋語群〔アングロ・フリジア語群〕に属し,英語と多くの共通点を持っている.この言語は非常に古い歴史をもっており,紀元一世紀ごろから古代ローマと関係をもっていたヨーロッパの民族の言語である.かつてフリジア語の話者は,彼らの海との戦いを示す治水と干拓の営みをさして,誇り高くこういっていた.《Deus mare, Friso litora fecit》「神が海をつくり,フリジア人が海岸をつくった」と.ところが,フリジア語を話すひとびとは,オランダ(フリースラント州とフローニンゲン州に三五万人)とドイツ(デンマークと国境を接するシュレスヴィヒ=ホルシュタイン州,ニーダーザクセン州のうちエムス川とヴィルヘルムスハーフェンの間にある地域,さらに北部沿岸をとりまく諸島で話されている大陸部諸方言とはかなり異なる方言も入れて数万人)のあいだに分散してしまい,そのなかでフリジア語は二十世紀初めには衰退していた.
衰退の動きは十七世紀半ばからすでに始まっていた.そのころオランダでは,フリジア語は農村でしか話されていなかったし,オランダ語が行政や法律文書においてフリジア語にとって代わりはじめた.けれども,近代になって,領域をもつ行政体としてオランダ・フリースラントが存在したことは,アイデンティティの覚醒を促した.作家たちは,方言横断的な規範に留意しつつ,この言語にまとまった統一正書法をあたえようとした.こんにち,オランダにはフリジア・アカデミーがあり,新造語を管理している.フリジア語は教育や法律の領域にはまだほとんど導入されていないけれども,一九三七年以降小学校で選択科目として導入され,一九五四年から裁判で随時使用できるようになったことを見ると,その後退を食い止めた自覚的な行動のおかげで,フリジア語はオランダ語の非常に強い圧力に以前よりもよくもちこたえているといえる〔後略〕.
「フリジア・アカデミー」なる組織があることは知らなかったので驚いた.オランダ語,英語,ドイツ語,北欧諸語という,地理的にも歴史的にも社会的にも強大な諸言語の狭間にあって,たくましく生き延びているというのは奇跡のようにも思える.
・ グロード・アジェージュ(著),糟谷 啓介・佐野 直子(訳) 『共通語の世界史 --- ヨーロッパ諸語をめぐる地政学』 白水社,2018年.
通常,言語共同体には様々な世代が一緒に住んでいる.言語変化はそのなかで生じ,広がり,定着する.新しい言語項は時間とともに使用頻度を増していくが,その頻度増加のパターンは世代間で異なっているのか,同じなのか.
理論的にも実際的にも,相反する2つのパターンが認められるようである.1つは「世代変化」 (generational change),もう1つは「共同変化」 (communal change) だ.Nevalainen (573) が,Janda を参考にして次のような図式を示している.
(a) Generational change ┌──────────────────┐ │ │ │ frequency │ │ ↑ ________ G6 │ │ ________ G5 │ │ ________ G4 │ │ ________ G3 │ │ ________ G2 │ │ ________ G1 time → │ │ │ └──────────────────┘ (b) Communal change ┌──────────────────┐ │ │ │ frequency | │ │ ↑ | | G6 │ │ | | G5 │ │ | | G4 │ │ | | G3 │ │ | | G2 │ │ | G1 time → │ │ │ └──────────────────┘
世代変化の図式の基盤にあるのは,各世代は生涯を通じて新言語項の使用頻度を一定に保つという仮説である.古い世代の使用頻度はいつまでたっても低いままであり,新しい世代の使用頻度はいつまでたっても高いまま,ということだ.一方,共同変化の図式が仮定しているのは,全世代が同じタイミングで新言語項の使用頻度を上げるということだ(ただし,どこまで上がるかは世代間で異なる).2つが対立する図式であることは理解しやすいだろう.
音変化や形態変化は世代変化のパターンに当てはまり,語彙変化や統語変化は共同変化に当てはまる,という傾向が指摘されることもあるが,実際には必ずしもそのようにきれいにはいかない.Nevalainen (573--74) で触れられている統語変化の事例を見渡してみると,16世紀における do 迂言法 (do-periphrasis) の肯定・否定平叙文での発達は,予想されるとおりの世代変化だったものの,17世紀の肯定文での衰退は世代変化と共同変化の両パターンで進んだとされる.また,19世紀の進行形 (progressive) の増加も統語変化の1つではあるが,むしろ共同変化のパターンに沿っているという.
具体的な事例に照らすと難しい問題は多々ありそうだが,理論上2つのパターンを区別しておくことは有用だろう.
・ Nevalainen, Terttu. "Historical Sociolinguistics and Language Change." Chapter 22 of The Handbook of the History of English. Ed. Ans van Kemenade and Bettelou Los. Malden, MA: Blackwell, 2006. 558--88.
・ Janda, R. D. "Beyond 'Pathways' and 'Unidirectionality': On the Discontinuity of Language Transmission and the Counterability of Grammaticalization''. Language Sciences 23.2--3 (2001): 265--340.
昨日の記事「#4647. 言語とジェンダーを巡る研究の動向」 ([2022-01-16-1]) に引き続き,昨今の言語とジェンダーを巡る研究について.『日本語学大辞典』より「ジェンダー」の項を執筆している,この分野の第一人者である中村桃子氏によれば,同分野の研究には3つのタイプがあるという.
ジェンダー 社会文化的性差.1960年代にフェミニズムによって提案された.一般には「女らしさ,男らしさ」と呼ばれる.セックス(生物学的性別)と別にジェンダーを設定することにより,「女/男らしさ」は社会によってつくられ,ゆえに,変えられることを示した.多くの近代社会のジェンダーには,(1) 両極に2分されている,(2) 補い合う対をなす,(3) 非対称的な権力関係である(男が「主体」で,女は「他者」),(4) 人種・民族・階級・宗教・年齢など他の権力関係と交差している,などの特徴が認められる.しかし,セックスは生物学的事実でジェンダーは文化的構築物だとして両者を区別する考え方は,1980年代のポスト構造主義によって否定された.スコット (Joan Scott) は,ジェンダーとは「身体的差異に意味を付与する知」だと述べ,バトラー (Judith Butler) も,ジェンダーはセックスをあたかもその起源であるかのように遡及的に構築すると主張している.さらに,異性愛を規範とみなすセクシュアリティもジェンダーの2分法によって構築されていることが指摘され,セックスもセクシュアリティもジェンダーによって規定されていることが明らかになった.現在ジェンダーは人文社会科学に不可欠な重要概念である.言語とジェンダーの研究は,大きく3つに分けられる.第1は,ジェンダーに関する常識や知識(ジェンダー・イデオロギー)はどのように構築されたのかを明らかにする言説分析である.これは,常識や知識は言説によって作られるというフーコー (Michel Foucault) 等の指摘に基づいている.性差別表現や言葉によるセクハラなど,性差別を構成する言語の是正が提案された.また,女性語や男性語も,女性や男性が実際に使ってきた言葉使いではなく,言語に関わるジェンダー・イデオロギーとして捉え直され,言説による歴史的構築が研究されている.第2は,会話分析,談話分析,語用論などにより,ジェンダー・アイデンティティの構築過程を明らかにする分野である.初期の研究においては,ジェンダーを話し手の属性とみなす本質主義に基づいて,男女の話し方の違いを明らかにする性差研究が行われていた.しかし,人は,あらかじめ持っているアイデンティティを表現するためにことばを使っているのではなく,さまざまな話し方を使い分けることで多様なアイデンティティを表現していることが明らかになった.そこで,アイデンティティを言語行為の原因ではなく結果とみなす構築主義が提案された.ジェンダーは,言語行為によって作り上げるアイデンティティ,「ジェンダーする」行為の結果である.構築主義によれば,女性語のように特定のアイデンティティと結びついた言語要素は,女性に限らずだれもがアイデンティティ構築に利用できる言語資源として捉え直される.いつ,どのような言語資源をアイデンティティ構築に利用するのか,話し手の主体性が強調される.第3は,この主体的な言語行為が既存のジェンダー秩序を変革する方策を明らかにすることである.聞き手に理解してもらうためには,社会で共有されている言語資源を使うしかない.しかし社会には,限られたアイデンティティと結びついた言語資源しか用意されていない.その結果,話し手は,さまざまな言語資源を組み合わせたりずらしたりしながら,多様なアイデンティティを表現することになる.このような「ずれた言語行為」には,ジェンダーの支配関係を変化させる可能性がある.
3つのタイプにラベルを貼りつければ,次のようになるだろうか.
(1) 社会のジェンダー・イデオロギーの構築に関する研究
(2) 個人のジェンダー・アイデンティティの構築に関する研究
(3) 既存のジェンダー秩序の変革に関する研究
なお,英語史研究においては,古い時代の文献を主に扱うからだろうか,いまだに言語使用の男女差という「古典的」というべき話題が多いように思われる.
・ 日本語学会(編) 『日本語学大辞典』 東京堂,2018年.
本ブログでは主に社会言語学の観点から言語とジェンダーの問題を様々に取り上げてきた.gender と gender_difference の各記事,とりわけ私が厳選した「言語と性」に関する記事セットを参照されたい.
言語とジェンダーを巡る研究は,言語使用の男女差という問題にとどまらない.むしろ,男女差の問題は昨今は流行らなくなってきている.言語におけるジェンダーは,初期の研究で前提とされてきたように固定的な属性ではなく,むしろ動的な属性であるととらえられるようになってきたことが背景にある.Swann et al. からの引用 (165--66) により,現代の研究の動向をつかんでおきたい.
language and gender The relationship between language and gender has long been of interest within SOCIOLINGUISTICS and related disciplines. Early twentieth-century studies in LINGUISTIC ANTHROPOLOGY looked at differences between women's and men's speech across a range of languages, in many cases identifying distinct female and male language forms (although at this point language and gender did not exist as a distinct research area). GENDER has also been a SOCIAL VARIABLE in studies of LANGUAGE VARIATION carried out since the 1960s, a frequent finding in this case being that, among speakers from similar social class backgrounds, women tend to use more standard or prestige language features and men more vernacular language features. There has been an interest, within INTERACTIONAL SOCIOLINGUISTICS, in female and male interactional styles. Some studies have suggested that women tend to use more supportive or co-operative styles and men more competitive styles, leading to male DOMINANCE of mixed-gender talk. Feminist researchers, in particular, have also been interested in SEXISM, or sexist bias, in language.
Studies that focus simply on gender differences have been criticised by feminist researchers for emphasising difference (rather than similarity); seeing male speech as the norm and female speech as deviant; providing inadequate and often stereotypical interpretations of WOMEN'S LANGUAGE; and ignoring difference in POWER between female and male speakers.
More recently (and particularly in studies carried out since the late 1980s and 1990s) gender has been reconceptualised to a significant extent. It is seen as a less 'fixed' and unitary phenomenon than hitherto, with studies emphasising, or at least acknowledging, considerable diversity among female and male speakers, as well as the importance of CONTEXT in determining how people use language. Within this approach, gender is also seen less as an attribute that affects language use and more as something that is performed (or negotiated and perhaps contested) in interactions . . . .
前世紀末以降,ジェンダーによる言語使用の差異というよりも,言語によるジェンダーの生成過程のほうに研究の関心が移ってきた,と要約できるだろう.構造主義からポスト構造主義への流れ,とも表現できる.
・ Swann, Joan, Ana Deumert, Theresa Lillis, and Rajend Mesthrie, eds. A Dictionary of Sociolinguistics. Tuscaloosa: U of Alabama P, 2004.
言語変化の伝播や拡散 (diffusion) というテーマに関心を持ち続けている.この話題についてすぐに思い浮かぶのは語彙拡散 (lexical_diffusion) だろう.音変化や形態変化が語彙の間を縫うように進行していくという現象である.一方,ある言語変化が人から人へ,方言から方言へと物理的,地理的に広がっていくという意味での伝播や拡散の話題もある(cf. 「#1053. 波状説の波及効果」 ([2012-03-15-1])).また,昨今ではインターネットなどを経由して非物理的,非地理的に広がっていく言語変化というものも起こっているようである.言語変化の diffusion にも様々なアプローチがあるということが分かるだろう.
diffusion とは,もともと人文地理学 (human geography) や疫学 (epidemiology) において注目されてきた概念であり,思想,事物,生物が分布を広げていく現象を指す.例えば,ある技術や病原菌がいかにして周囲に伝播し拡散していくかという観点から考察がなされてきた.人文地理学の分野では19世紀末に始まる研究史があり,とりわけ影響力の大きい研究者としては Torsten Hägerstrand (1916--2004) の名前が挙がる.オリジナルの著書はスウェーデン語で書かれたが,1967年に英語版の Innovation Diffusion as a Spatial Process が出版されると世に広く知られることになった.人文地理学事典で diffusion の項を執筆した Gregory (160) によると,その革新的な意義は次の通り.
Hágerstrand's work had two catalytic consequences: it set in motion the frozen worlds of SPATIAL SCIENCE, and it opened the door to sophisticated computer modelling of spatial processes.
この Hägerstrand の傑作により diffusion 研究は一時的に勢いを得たものの,やがて社会学的な観点から多くの問題点が指摘されるようになり,diffusion 研究全体が沈滞するようになった.Gregory (161) より,その状況を確認しておこう.
Just ten years after the translation of Hágerstrand's magnum opus, Blaikie (1978) could speak of a 'crisis' in diffusion research, which he said arose from its preoccupation with spatial form and space-time sequence, while Gregory (1985) attributed the 'stasis' of diffusion theory to a pervasive unwillingness to engage with SOCIAL THEORY and social history to explore the conditions and the consequences of diffusion processes. Critics argued that the spatial circulation of information remained the strategic element in most applications of the Hägerstrand model and its derivatives, and while flows of information through different propagation structures and contact networks were exposed in more detail, the primacy accorded to the reconstruction of these spatial pathways obscured a crucial limitation of the Hägerstrand model: it operated within what Blaut (1977) called a 'granular region', 'a sort of Adam Smithian landscape, totally without macrostructure'. In particular:
(1) The Hägerstrand model begins with a pool of 'potential adopters' and does not explain the selective process through which they are constituted in the first place. This suggests the need for a model of biased innovation, where (for example) CLASS or GENDER circumscribes access to innovations. 'Non-diffusion' is then not a passive but an active state arising directly from the structures of a particular society (Yapa and Mayfield, 1978). Critiques of this sort required diffusion theory to be integrated with fields such as POLITICAL ECONOMY and FEMINIST GEOGRAPHY that pay attention to the social as well as the spatial.
(2) The Hägerstrand model assumes a 'uniform cognitive region' and does not explain the selective process through which information flows are interpreted. This matters because 'resistance' to innovation is not invariably a product of ignorance or insufficient information: it may signal a political struggle by people whose evaluation of the information is strikingly different to that of the 'potential adopters'. Critiques of this sort required diffusion theory to be reconnected to a more general cultural geography (Blaut, 1977).
Gregory は,言語変化の diffusion については一言も触れていない.しかし,この人文地理学における diffusion 研究史を知っておくと,有益な洞察を得られる.言語変化の diffusion 研究も,今後,社会・政治的な "macrostructure" を念頭に置くアプローチがますます必要になってくるだろう.
・ Gregory, Derek. "Diffusion." The Dictionary of Human Geography. 4th ed. Ed. Derek Gregory, Ron Johnston, Geraldine Pratt, Michael Watts, and Sarah Whatmore. John Wiley & Sons, 2009. 160--162.
英語の歴史を通じて観察されてきた "the complaint tradition" 「英語に関する不平不満の伝統」については「#3239. 英語に関する不平不満の伝統」 ([2018-03-10-1]) を始めとして complaint_tradition の各記事で取り上げてきた.中世から現代に至るまで,そしておそらくは未来にかけても,この伝統は続いていくだろう.
しかし,これを伝統とひとくくりにしてしまうと,かえって見えなくなることもある.というのは,英語に関する不平不満の内実や種類は時代とともに変化してきたからである.ある時代には不平不満の矛先は国家主義や方言変異に向けられていたが,別の時代には規範主義や政治的公正さ (pc) に向けられるなど,不平不満のあり方そのものが通時的に変化してきたのである.
上記の趣旨での Crowley (981) による "the complaint tradition" の概説を読み,たいへん刺激を受けた.そのイントロの文章を引用したい.
It is worth noting at the start of this account that the phrase "the complaint tradition" is slightly misleading. What it suggests is a continuing practice which, although it differs over time, is recognisably the same by dint of a common set of features. That is to say, a legacy which is more or less passed down over a prolonged period in which certain characteristics and themes recur. In one limited sense this is an accurate description of a practice which does indeed reach far back into the history of the English language; yet in another sense the conception of a "complaint tradition" is far too abstract and non-specific for analytical purposes. For while it is undoubtedly a matter of interest that people have consistently sought to complain about English since it became a language which was considered to be worthy of comment at all, what the general phrase "the complaint tradition" obscures is that fact that what precisely people were complaining about --- and why --- has varied historically. If the same complaints had been made about the English language throughout its history, it would perhaps be an interesting phenomenon but one which might be easily explained. As will be seen, however, complaints about English have been radically different at distinct points in the history of the language, and it is this which makes the "complaint tradition" both fascinating and complicated. The complaints themselves have ranged all the way from accusations that the English language was not "copious" enough for the purposes of various forms of written usage, to the charge that it is a vehicle of neo-imperialism in its acquired role as a global language; from the allegation that it was a debased and inconsistent language as a result of political corruption to the claim that it somehow caused moral decadence on the part of its users. What such variability tells us is that there has indeed been a long-standing practice of complaining about English, but that the criticism of the language has been historically specific and has often been intertwined with other arguments beyond the linguistic sphere. In other words, as has been noted elsewhere, language debates are very rarely simply debates about language; they are, more often than not, intertwined with questions of value.
各時代の人々の間に,言語に対する何らかの理想があるからこそ,そこに達していない現実への不平不満が募るのだろう.とすると,これは言語イデオロギー (linguistic_ideology) の問題といえる.英語(否,一般に言語)に関する不平不満の伝統そのものの歴史を明らかにしたいという気にさせる,素晴らしいイントロではないだろうか.
・ Crowley, Tony. "Standardization: The Complaint Tradition." Chapter 61 of English Historical Linguistics: An International Handbook. 2 vols. Ed. Alexander Bergs and Laurel J. Brinton. Berlin: Mouton de Gruyter, 2012. 980--94.
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