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punctuation - hellog〜英語史ブログ

最終更新時間: 2024-11-22 17:50

2021-07-13 Tue

#4460. 古英語の母音字の上につける長音記号は写本にはないので要注意 [manuscript][oe][punctuation][vowel][spelling][palatalisation][alphabet]

 昨日の記事「#4459. なぜ drive の過去分詞 driven はドライヴンではなくドリヴンなの?」 ([2021-07-12-1]) をはじめとして,本ブログでは古英語の語句を引用することが多いが,その際に長母音を示すのに母音字の上に macron と呼ばれる横棒(長音記号)を付すことが多い.ā, ē, ī, ō, ū, ȳ 如くである.昨日の例であれば,現代英語の drove に対応する古英語の形態が drāf だったことに触れたが,ここでは長母音であることを示すのに ā の表記を用いている.
 注意すべきは,この macron 付き表記は,あくまで現代の古英語学習者の便宜のために現代の編者が付した教育用の符号にすぎず,実際の古英語の写本にはまったくなかったということである.macron に限らず,現代の古英語読本などに印刷されている種々の句読点 (punctuation) は,古英語初学者のために編者が現代英語ぽく補ってくれているものであることが多く,実際の写本に立ち戻ってみると,そのような符号はない,ということが少なくない.つまり,ありたがいような,おせっかいのような話しなのである.このことは明示的に述べておかないと,多くの古英語学習者が誤解してしまう.
 一般的にいえば,古英語は現代英語に比べて,綴字と発音の関係がストレートである.現代英語の knight, through, climb を /naɪt/, /θruː/, /claɪm/ を読むことは学習しない限り難しいが,対応する古英語の cniht, þurh, climban を /kniçt/, /θurx/, /clɪmban/ と読むことは比較的たやすいだろう.古英語は,現代英語における発音と綴字の乖離 (spelling_pronunciation_gap) の問題からおよそ免れていたと一般的に言われる.
 しかし,古英語における「発音と綴字の一致」を過大評価してはいけない.確かに「ローマ字通りに読めばよい」という原則でおよそうまくいくものの,「#17. 注意すべき古英語の綴りと発音」 ([2009-05-15-1]) で述べたように,発音と綴字が必ずしも1対1にならないものもある.<f, s, þ, ð> は,音声的にはそれぞれ無声と有声 (/f, v, s, z, θ, ð/) があり得るし,<c> と <g> にも軟音(口蓋化音)と硬音があり得る.後者については,現代の入門書では軟音の /ʧ/, /j/ は各々 <ċ>, <ġ> と表記することが多い.古英語でも,発音と綴字がきれいに1対1になっていないケースは,そこそこあるのである.
 その最たるものが母音の長短である.英語史においては,古英語から現代英語に至るまで,母音の長短は常に重要な区別であり続けてきた.例えば昨日取り上げた drive (OE drīfan) でいえば,短い母音をもつ drifen であれば過去分詞であり,長い母音をもつ drīfen であれば接続法複数現在として "we/you/they may drive" ほどを表わしたので,母音の長短が意味・機能を大きく違えたのである.しかし,現存する写本においては macron などなく,いずれも <drifen> と綴られていたことに気をつけたい.
 この限りにおいて,古英語も現代英語と同様に綴字と発音はさして一致していなかったともいえるのである.程度の問題として論じるならば,確かに古英語は現代英語よりはマシだったろう.しかし,古英語期にも発音と綴字の問題は,とりわけ母音の長短に関していえば,相当のものだったのである.この点は,英語史においてしばしば見逃されてきた非常に重要な事実だと考えている.
 関連して「#1826. ローマ字は母音の長短を直接示すことができない」 ([2014-04-27-1]),「#2092. アルファベットは母音を直接表わすのが苦手」 ([2015-01-18-1]),「#2887. 連載第3回「なぜ英語は母音を表記するのが苦手なのか?」」 ([2017-03-23-1]),「#3954. 母音の長短を書き分けようとした中英語の新機軸」 ([2020-02-23-1]) を参照.

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2021-03-19 Fri

#4344. -in' は -ing の省略形ではない [consonant][phonetics][suffix][apostrophe][punctuation][participle][orthography][spelling][gerund][infinitive]

 洋楽の歌詞を含め英語の詩を読んでいると,現在分詞語尾 -ing の代わりに -in' を見かけることがある.口語的,俗語的な発音を表記する際にも,しばしば -in' に出会う.アポストロフィ (apostrophe) が用いられていることもあり,直感的にいえばインフォーマルな発音で -ing から g が脱落した一種の省略形のように思われるかもしれない.しかし,このとらえ方は2つの点で誤りである.
 第1に,発音上は脱落も省略も起こっていないからである.-ing の発音は /-ɪŋ/ で,-in' の発音は /-ɪn/ である.最後の子音を比べてみれば明らかなように,前者は有声軟口蓋鼻音 /ŋ/ で,後者は有声歯茎鼻音 /n/ である.両者は脱落や省略の関係ではなく,交代あるいは置換の関係であることがわかる.
 後者を表記する際にアポストロフィの用いられるのが勘違いのもとなわけだが,ここには正書法上やむを得ない事情がある.有声軟口蓋鼻音 /ŋ/ は1音でありながらも典型的に <ng> と2文字で綴られる一方,有声歯茎鼻音 /n/ は単純に <n> 1文字で綴られるのが通例だからだ.両綴字を比べれば,-ing から <g> が脱落・省略して -in' が生じたようにみえる.「堕落」した発音では語形の一部の「脱落」が起こりやすいという直感も働き,-in' が省略形として解釈されやすいのだろう.表記上は確かに脱落や省略が起こっているようにみえるが,発音上はそのようなことは起こっていない.
 第2に,歴史的にいっても -in' は -ing から派生したというよりは,おそらく現在分詞の異形態である -inde の語尾が弱まって成立したと考えるほうが自然である.もっとも,この辺りの音声的類似の問題は込み入っており,簡単に結論づけられないことは記しておく.
 現在分詞語尾 -ing の歴史は実に複雑である.古英語から中英語を通じて,現在分詞語尾は本来的に -inde, -ende, -ande などの形態をとっていた.これらの異形態の分布は「#790. 中英語方言における動詞屈折語尾の分布」 ([2011-06-26-1]) で示したとおり,およそ方言区分と連動していた.一方,中英語期に,純粋な名詞語尾から動名詞語尾へと発達していた -ing が,音韻上の類似から -inde などの現在分詞語尾とも結びつけられるようになった(cf. 「#2421. 現在分詞と動名詞の協働的発達」 ([2015-12-13-1])).さらに,これらと不定詞語尾 -en も音韻上類似していたために三つ巴の混同が生じ,事態は複雑化した(cf. 「#2422. 初期中英語における動名詞,現在分詞,不定詞の語尾の音韻形態的混同」 ([2015-12-14-1])).
 いずれにせよ,「-in' は -inde の省略形である」という言い方は歴史的に許容されるかもしれないが,「-in' は -ing の省略形である」とは言いにくい.
 関連して,「#1764. -ing と -in' の社会的価値の逆転」 ([2014-02-24-1]) も参照されたい.

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2020-02-04 Tue

#3935. アルファベット頭字語の浮き沈みの歴史 [initialism][abbreviation][shortening][punctuation]

 「#2982. 現代日本語に溢れるアルファベット頭字語」 ([2017-06-26-1]) などの記事で,現代語において隆盛を極めるアルファベット頭字語 (initialism) という略語法の話題を取り上げてきた.英語の例でいえば CEO, GDP, EU などがすぐに挙がるし,aka (= "also known as"), asap (= "as soon as possible"), imho (= "in my humble opinion") などもよく知られている.
 英語に関していえば,このような略語法 (abbreviation) の氾濫は確かに20世紀以降に顕著であり,すぐれて現代的な現象といってよいだろう(cf. 「#875. Bauer による現代英語の新語のソースのまとめ」 ([2011-09-19-1]),「#878. Algeo と Bauer の新語ソース調査の比較」 ([2011-09-22-1])).しかし,それ以前にも見られなかったわけではない.アルファベット文化圏を全体的に調べたわけではなが,少なくともヨーロッパ世界においては,アルファベット頭字語の使用そのものはローマ時代にも確認される.よく知られているのは,ラテン語で「ローマの元老院と人民」を意味する Senatus Populusque Romanus を頭字語化した SPQR である.ラテン語原文では各文字の後に点が打たれ,それによっても略語法であることが分かるが,これは後の英語における Prof., Dr. などの省略を表わすピリオドに連なるものといえる.
 アルファベット頭字語には,1文字で1語を表わせるという便利さがある.とりわけ漢字の利点をよく知っている私たちにとって,この表語文字特有の便利さは,たやすく理解できるだろう.古代ローマでも,この便利さが昂じて法律文書で多用されるようになったようだが,皮肉なことに,厳密さが要求される法律文書で,ときに複数の解釈を許すアルファベット頭字語はふさわしくないと判断され,結局は帝国により使用が禁止されることになった.この影響が持続したのか,その後10世紀までアルファベット頭字語は冬の時代を迎えることになった.
 しかし,10世紀になると復活の兆しを示しだした.とりわけ11--12世紀には,頭文字を用いた記憶術の発展に伴い,聖書に関係する用語や固有人名などがアルファベット頭字語で表現されるようになった.この慣習は,中世後期を通じて続いたが,初期刊本時代の終わりに至って再び衰退していった.そしてその後,先に述べた通り,20世紀に再び復活・拡大してきたというのが歴史の流れである.このように,アルファベット頭字語は何度も浮き沈みの歴史を経てきたのだ.
 以上は,Saenger (64--65) の解説に依拠した.なお,Saenger はアルファベット頭字語のことを "suspension abbreviation" と呼んでいる.

 ・ Saenger, P. Space Between Words: The Origins of Silent Reading. Stanford, CA: Stanford UP, 1997.

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2020-02-02 Sun

#3933. コンマやコロンの前後のスペース [emode][punctuation][printing][typography]

 現代英語の句読法 (punctuation) の慣用によると,コンマ(comma; <,>),コロン(colon; <:>),セミコロン (semicolon; <;>)などの前にはスペースを入れず,後ろにはスペースを入れることになっている.しかし,このような慣用も時代とともに変化してきた.これらの句読点の使用が一般化してきたのは「#575. 現代的な punctuation の歴史は500年ほど」 ([2010-11-23-1]) でもみたとおり初期近代英語期にかけての時期だが,当時から使用の細部については必ずしも安定的ではなかった(cf. 「#2666. 初期近代英語の不安定な句読法」 ([2016-08-14-1])).
 Cook (170) によると,初期近代英語ではコンマやコロンの前後のスペースについて揺れがみられた.コンマに関しては前後ともにスペースなしという例が普通だったが,コロンに関してはむしろ前後ともにスペースを入れることが行なわれていた.これはフランス語の慣用の影響だという.

A word space following punctuation marks was not necessary 'in a Fixion,in a dreame', though there is a space both before and after the colon, following a French convention.
   A comparison of the Folio and Quarto editions shows considerable variation:
   
   Folio: Ham. I ʃo,God buy,ye : Now I am alone.
   Quarto: Ham. I ʃo,God buy to you,now I am alone,


 初期近代以降,句読法の慣用は,印刷,植字,レイアウトに関する技術の発展と平行的に変化してきた.また,ヨーロッパの他言語の句読法を横目で見て倣うこともあれば,独自の慣用を発達させてきたこともあった.その点では句読法も,綴字やその他の言語項と異ならず,常に通時的な変化と共時的な変異にさらされてきたということだ.

 ・ Cook, Vivian. The English Writing System. London: Hodder Education, 2004.

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2020-01-30 Thu

#3930. なぜギリシアとローマは続け書きを採用したか? (2) [alphabet][distinctiones][punctuation][reading][writing][latin][greek][literacy][word]

 昨日の記事 ([2020-01-29-1]) に引き続き,なぜギリシアとローマが,それ以前の地中海世界で普通に行なわれていた分かち書き (distinctiones) を捨て,代わりに続け書き (scriptura continua) を作用したかという問題について.
 Saenger によれば,この問題に迫るには,読むという行為に対する現代的な発想を脇に置き,古代の読書習慣とその社会的文脈を理解する必要があるという.端的にいえば,現代人はみな黙読や速読に慣れており,何よりも「読みやすさ」を重視するが,古代ギリシアやローマの限られた人口の読み手にとって,読む行為とは口頭の音読のことであり,現代的な「読みやすさ」を追求する姿勢はなかったのだという.以下,Saenger の解説を聞いてみよう (11--12) .

. . . the ancient world did not possess the desire, characteristic of the modern age, to make reading easier and swifter because the advantages that modern readers perceive as accruing from ease of reading were seldom viewed as advantages by the ancients. These include the effective retrieval of information in reference consultation, the ability to read with minimum difficulty a great many technical logical, and scientific texts, and the greater diffusion of literacy throughout all social strata of the population. We know that the reading habits of the ancient world, which were profoundly oral and rhetorical by physiological necessity as well as by taste, were focused on a limited and intensely scrutinized canon of literature. Because those who read relished the mellifluous metrical and accentual patterns of pronounced text and were not interested in the swift intrusive consultation of books, the absence of interword space in Greek and Latin was not perceived to be an impediment to effective reading, as it would be to the modern reader, who strives to read swiftly. Moreover, oralization, which the ancients savored aesthetically, provided mnemonic compensation (through enhanced short-term aural recall) for the difficulty in gaining access to the meaning of unseparated text. Long-term memory of texts frequently read aloud also compensated for the inherent graphic and grammatical ambiguities of the languages of late antiquity.
   Finally, the notion that the greater portion of the population should be autonomous and self-motivated readers was entirely foreign to the elitist literate mentality of the ancient world. For the literate, the reaction to the difficulties of lexical access arising from scriptura continua did not spark the desire to make script easier to decipher, but resulted instead in the delegation of much of the labor of reading and writing to skilled slaves, who acted as professional readers and scribes. It is in the context of a society with an abundant supply of cheap, intellectually skilled labor that ancient attitudes toward reading must be comprehended and the ready and pervasive acceptance of the suppression of word separation throughout the Roman Empire understood.


 引用の最後に示唆されているように,古代人は続け書きにシフトすることで,読みにくさをあえて高めようとした,という言い方さえできるのかもしれない.この観点は,中世後期に再び分かち書きへと回帰していく過程を理解する上でも示唆的である.関連して「#1903. 分かち書きの歴史」 ([2014-07-13-1]) も参照.

 ・ Saenger, P. Space Between Words: The Origins of Silent Reading. Stanford, CA: Stanford UP, 1997.

Referrer (Inside): [2020-02-01-1]

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2020-01-29 Wed

#3929. なぜギリシアとローマは続け書きを採用したか? (1) [alphabet][distinctiones][punctuation][reading][writing][latin][greek][indo-european][word]

 アルファベットの分かち書き (distinctiones) と続け書き (scriptura continua) の問題については,最近では「#3926. 分かち書き,表語性,黙読習慣」 ([2020-01-26-1]) で,それ以前にも distinctiones の各記事で取り上げてきた.
 Saenger (9) によると,アルファベットに母音表記の慣習が持ち込まれる以前の地中海世界では,スペースによるか点によるかの違いこそあれ,分かち書きが普通に行なわれていた.ところが,ギリシア語において母音表記が可能となるに及び,続け書きが生まれたという.これを時系列で整理すると次のようになる.
 まず,アルファベット使用の初期から分かち書きは普通にあった.ところが,ギリシア・ローマ時代にそれが廃用となり,代わって続け書きが一般化した.ローマ帝国が崩壊し,中世後期の8世紀頃になると分かち書きが改めて導入され,その後徐々に一般化して現代に至る.
 分かち書きは現在では当然視されているが,母音表記を享受し始めた古典時代の間に,その慣習が一度廃れた経緯があるということだ.では,なぜ母音表記の導入により,私たちにとって明らかに便利に思われる分かち書きが廃用となり,むしろ読みにくいと思われる続け書きが発達したのだろうか.Saenger (9--10) によれば,母音表記と続け書きの間には密接な関係があるという.

The uninterrupted writing of ancient scriptura continua was possible only in the context of a writing system that had a complete set of signs for the unambiguous transcription of pronounced speech. This occurred for the first time in Indo-European languages when the Greeks adapted the Phoenician alphabet by adding symbols for vowels. The Greco-Latin alphabetical scripts, which employed vowels with varying degrees of modification, were used for the transcription of the old forms of the Romance, Germanic, Slavic, and Hindu tongues, all members of the Indo-European language group, in which words were polysyllabic and inflected. For an oral reading of these Indo-European languages, the reader's immediate identification of words was not essential, but a reasonably swift identification and parsing of syllables was fundamental. Vowels as necessary and sufficient codes for sounds permitted the reader to identify syllables swiftly within rows of uninterrupted letters. Before the introduction of vowels to the Phoenician alphabet, all the ancient languages of the Mediterranean world---syllabic or alphabetical, Semitic or Indo-European---were written with word separation by either space, points, or both in conjunction. After the introduction of vowels, word separation was no longer necessary to eliminate an unacceptable level of ambiguity.
     Throughout the antique Mediterranean world, the adoption of vowels and of scriptura continua went hand in hand. The ancient writings of Mesopotamia, Phoenicia, and Israel did not employ vowels, so separation between words was retained. Had the space between words been deleted and the signs been written in scriptura continua, the resulting visual presentation of the text would have been analogous to a modern lexogrammatic puzzle. Such written languages might have been decipherable, given their clearly defined conventions for word order and contextual clues, but only after protracted cognitive activity that would have made fluent reading as we know it impractical. While the very earliest Greek inscriptions were written with separation by interpuncts, points placed at midlevel between words, Greece soon thereafter became the first ancient civilization to employ scriptura continua. The Romans, who borrowed their letter forms and vowels from the Greeks, maintained the earlier Mediterranean tradition of separating words by points far longer than the Greeks, but they, too, after a scantily documented period of six centuries, discarded word separation as superfluous and substituted scriptura continua for interpunct-separated script in the second century A.D.


 ここで展開されている議論について,私はよく理解できていない.母音表記の導入の結果,音節が同定しやすくなったという理屈がよくわからない.また,仮にそれが本当だったとして,文字の読み手が従来の分かち書きではなく続け書きにシフトしたとしても何とか解読できる,という点までは理解できるが,なぜ続け書きに積極的にシフトしたのかは不明である.上の議論は,消極的な説明づけにすぎないように思われる.
 母音文字を発明してアルファベットを便利にしたギリシア人が,読みにくい続け書きにシフトしたというのは,何か矛盾しているように感じられる.実際,この問題は多くの論者を悩ませ続けてきたようだ (Saenger 10)
 ギリシア人による母音文字の導入という文字史上の画期的な出来事については,「#423. アルファベットの歴史」 ([2010-06-24-1]) や「#2092. アルファベットは母音を直接表わすのが苦手」 ([2015-01-18-1]) を参照.

 ・ Saenger, P. Space Between Words: The Origins of Silent Reading. Stanford, CA: Stanford UP, 1997.

Referrer (Inside): [2020-02-01-1] [2020-01-30-1]

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2020-01-26 Sun

#3926. 分かち書き,表語性,黙読習慣 [silent_reading][distinctiones][punctuation][grammatology][reading][writing]

 西洋中世の読み書きに関する標記の3つのキーワードは,互いに関連している.語と語の間に空白を入れる分かち書き (distinctiones) の発達により,読者はアルファベットのつながりを表音的 (phonographic) に読み解くのではなく,より表語的 (logographic) に読み解く習慣を育むことができるようになった.結果として,声に出して理解する音読ではなく,頭のなかで語の意味を取る黙読および速読の文化が芽生え,私的に思考したり,大量の情報を処理することが可能になったのである.「#3881. 文字読解の「2経路モデル」」 ([2019-12-12-1]),「#3884. 文字解読の「2経路」の対比」 ([2019-12-15-1]) で挙げた用語に従えば,読解に用いられる神経回路の比重が「音韻ルート」から「語ルート」へとシフトしてきたといってもよいだろう.
 西洋における黙読習慣の発達の時期については,権威あるラテン語に対して土着語 (vernacular) への気付きがきっかけとなったタイミングとして,8世紀頃を指摘する見解がある.この見解に基づいて,Cook (152--53) が上述の解説を次のようにうまくまとめている.

Punctuation marks started as an aid for reading Latin aloud, in the form of various dots and other marks. These were necessary because Latin was written without word spaces, making texts difficult to read aloud on sight. Around the eighth century AD, it became usual to put a space between words. According to Saenger (1997), this transformed reading from reading aloud to reading in silence. Without spaces, the reader had to test out loud what the text meant; with spaces, the reader could interpret the text without saying it aloud and they could read and write with greater privacy since their activity was not audible to other people; indeed Galileo saw the advantages of 'communicating one's most secret thoughts to any other person' (cited in Chomsky 2002: 45). Hence, once the lexical route became possible for reading European languages, authors became more daring individuals; and the speed of reading could be increased beyond the speed of articulation. As Harris (1986) put it, 'One is tempted to compare the introduction of the space as a word boundary to the invention of the zero in mathematics . . .'.


 それにしても「分かち書きの発見は数学におけるゼロの発見に比較できる」というのは並一通りではない評価だ.
 本記事と関連して,ぜひ以下の記事にも目を通していただきたい.

 ・ 「#2058. 語源的綴字,表語文字,黙読習慣 (1)」 ([2014-12-15-1])
 ・ 「#2059. 語源的綴字,表語文字,黙読習慣 (2)」 ([2014-12-16-1])
 ・ 「#2696. 分かち書き,黙読習慣,キリスト教のテキスト解釈へのこだわり」 ([2016-09-13-1])
 ・ 「#1903. 分かち書きの歴史」 ([2014-07-13-1])

 ・ Cook, Vivian. The English Writing System. London: Hodder Education, 2004.
 ・ Saenger, P. Space Between Words: The Origins of Silent Reading. Stanford, CA: Stanford UP.
 ・ Chomsky, N. On Nature and Language. Cambridge: CUP, 2002.
 ・ Harris, R. The Origin of Writing. London: Duckworth, 1986.

Referrer (Inside): [2020-01-29-1]

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2020-01-25 Sat

#3925. 電子メールの返信で用いる引用の ">" は,実は中世の句読記号 [punctuation][netspeak]

 受け取った電子メールの文章を,返信メールなどで引用する際に,各行頭に不等号記号の「大なり」 ">" ("right angle bracket" or "greater than") を付す慣行が定着している.この慣行は各種のマークアップ言語でも応用されており,ネット時代において新しい句読点の用法が発達してきたことを物語るものである.
 しかし,驚くなかれ,テキスト引用のための ">" の用法は,実は中世に起源をもつのである.当時,">" に近い形の "diple" と呼ばれる記号があった.これは引用されるテキストの開始を示す記号として用いられたが,後に現代的な引用符 (quotation mark) へと発達した.diple そのものは廃用となり,忘れ去られたかと思いきや,現代のネット時代に新たな生命を吹き込まれたというわけだ(cf. 関連して「#1097. quotation marks」 ([2012-04-28-1]) も参照).
 記号として復活したというだけでも驚きだが,専ら「開き」のみに用い「閉じ」に対応する記号が存在しないというのも,中世の句読法に忠実であり,おもしろい.現代の感覚だと,括弧にせよ引用符にせよ,「開き」があったら必ずペアで「閉じ」も存在していないと気持ちが悪い.しかし,この現代的な慣習が一般化するのは「#2969. 閉じない quotation marks」 ([2017-06-13-1]) でも見たとおり,割と遅く18世紀のことである.中世では「開きっぱなし」だったのである.実用上はどこで「閉じ」るのか分かりにくいという難点はあり得たが,そこはコンピュータ言語ではない.おおらかだったのだ.
 現代の電子メールの慣習でも,各行の頭に ">" を付すが,末尾にはわざわざたとえば "<" を付すという面倒なことはしない.その意味では,コンピュータ上の言語行動でありながら,現代でもおおらかといえばおおらかだ.
 メールで引用の引用として ">" を2重にしたりするというのは,さすがに現代的な発展用法だと思われるが,それにしても歴史の断続と連続はおもしろい.

Referrer (Inside): [2021-01-01-1]

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2019-12-24 Tue

#3893. grammatical punctuation と correspondence punctuation [punctuation][hyphen]

 英語の句読法 (punctuation) は機能の観点から大きく2つに分けることができる.書き言葉の文法に関する句読法 (grammatical punctuation) と,書き言葉を話し言葉に対応付ける句読法 (correspondence punctuation) である.前者は形態素,語,句,節,文などの形式的な単位において文法的な機能を(補助的に)標示するものであり,後者は音読の便などのために韻律的な情報を(補助的に)標示するものである.現代は前者の文法的機能のほうが圧倒的に優勢で,重要とされているが,歴史的にいえば句読法は主として韻律的機能を果たすために発達してきた (cf. 「#575. 現代的な punctuation の歴史は500年ほど」 ([2010-11-23-1])) .17世紀以降,韻律重視から文法重視へ重心がシフトしてきたという経緯があるが,現在でも韻律的機能が無となったわけではない.
 もう1つ,両機能にまたがるともいえる第3の区分として,hyphen を用いた "line-breaks" の機能(分綴)を加えることもできるだろう.これら3種の機能を整理してくれているのが,Cook (107) の "English punctuation" と題する表である.そちらを再掲しよう.

Grammatical punctuation
   morphemes<'> 'Milton's paradise lost'
<-> 'sensori-motor'
wordsspaces: 'God bless the child that's got its own'/'Godblessthechildthat'sgotitsown'
phrases<,> 'Policemen, like red squirrels, must be protected.'
clauses<,> 'An Englishman, even if he is alone, forms an orderly queue of one'.
<–> 'Federal work teams – split by race – finish ratchetting together a grandstand.'
<:> 'Man proposes: God disposes.'
text-sentencesCapitals plus <.> 'War is peace. Freedom is slavery. Ignorance is strength.'
Correspondence punctuation
length of pauses (according to Lowth 1775)comma: single pause
semi-colon: 2 x pause
colon: 4 x pause
full stop: 8 x pause
tone-groupsclause-separating punctuation may conform to spoken tone-groups: 'Friends, Romans, countrymen, lend me your ears.'
inner voicePunctuation may show the 'prosody of the inner voice' (Chafe 1988)
'contraction'<'> sometimes corresponds to a weak spoken form: 'he's', 'can't', ''em'
'line-breaks'
words are broken by hyphens at line-breaks according to morphemes 'trans-port' or syllables 'tran-sport'


 Cook はこのように句読法の3種の機能を区別したが,Crystal はその他の機能にも注目している.そちらについては「#574. punctuation の4つの機能」 ([2010-11-22-1]),「#3045. punctuation の機能の多様性」 ([2017-08-28-1]) の記事を参照されたい.

 ・ Cook, Vivian. The English Writing System. London: Hodder Education, 2004.

Referrer (Inside): [2023-08-26-1]

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2019-12-23 Mon

#3892. greengrocer's apostrophe (2) [punctuation][apostrophe][spelling][orthography]

 「#1772. greengrocer's apostrophe」 ([2014-03-04-1]) の続編.-s として綴るべきところで apostrophe を付して -'s と綴る非標準的な事例が跡を絶たない.典型的に八百屋の値札にみられる(誤)用法なので,冗談交じりに "greengrocer's apostrophe" と称される.
 その実例を収集した The Golden Apostrophe Awards なるサイトがある.トップページに掲げられているのは,"Trump's First Campaign Event Had It's 4th Anniversary" と書き込まれた写真である.所有格代名詞の its を,apostrophe を入れて it's と綴ってしまう非常によくある事例の1つだ (cf. 「#198. its の起源」 ([2009-11-11-1])) .
 時節柄クリスマス絡みの例を挙げるのがふさわしいだろう.こちらのページ に掲載されている諸礼を眺めてみると,apostrophe がないべきところにあったり,逆にあるべきところになかったりと様々に楽しめる.

 ・ To our Valued Gowings Customer's Merry Christmas & Happy New Year
 ・ Camera's follow Vatican insiders to reveal the intrigue and manoeuvring behind the election of a new pope.
 ・ Your invited to join us for our Family Service each Sunday at 9.30am.
 ・ 16 DELUXE CHRISTMAS CARDS IN ASSORTED DESIGN'S

 現代英語の正書法としては確かに「誤用」とされるのだが,歴史的にみれば apostrophe がいつ付き,いつ付かないかについては長い混用の時代があった.以下の記事で関連する話題を取り上げているので,ご一読あれ.

 ・ 「#3661. 複数所有格のアポストロフィの後に何かが省略されているかのように感じるのは自然」 ([2019-05-06-1])
 ・ 「#3656. kings' のような複数所有格のアポストロフィの後には何が省略されているのですか?」 ([2019-05-01-1])

Referrer (Inside): [2022-08-06-1]

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2019-12-22 Sun

#3891. 現代英語の様々な句読記号の使用頻度 [punctuation][alphabet][diacritical_mark][net_speak][brown][corpus][frequency][statistics][exclamation_mark]

 英語は同じローマン・アルファベットを用いる文字圏のなかでも,句読法 (punctuation) に関しては比較的単純な部類に入る.現代的な句読記号が出そろったのは500年前くらいであり,その数も多くない (cf. 「#575. 現代的な punctuation の歴史は500年ほど」 ([2010-11-23-1])) .また,文字そのものが26文字しかない上に,フランス語やドイツ語などにみられる,文字の周辺に付す特殊な発音区別符(号) (diacritical mark; cf. 「#870. diacritical mark」 ([2011-09-14-1])) も原則として用いられない.さらに,現代の印刷文化では句読記号が控えめに使われるようになってきているとも言われる.一方,net_speak などでは,新たな句読記号の使用法が生み出されていることも確かであり,句読法の発展が止まってしまったわけではないようだ (cf. 「#808. smileys or emoticons」 ([2011-07-14-1])) .
 さて,約100万語のアメリカ英語の書き言葉コーパス Brown Corpus を用いた調査によると,英語の主要な句読記号の使用頻度 (%) は次の通りだという (Cook 92) .

Commas47
Full stops45
Dashes2
Parentheses2
Semi-colons2
Question marks1
Colons1
Exclamation marks1


 用いられている句読記号の9割以上が <,> か <.> であるというのは,英語の読み手・書き手の直感としてうなづける.英語の読み書き学習の観点からいえば,まずはこの2つの句読記号に習熟することに努めればよいことになる.
 ローマン・アルファベット文字圏の句読記号の変異について関心のある方は,Character design standards - Punctuation for Latin 1 などを参照されたい.

 ・ Cook, Vivian. The English Writing System. London: Hodder Education, 2004.

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2019-12-17 Tue

#3886. 話しことばと書きことば (6) [writing][medium][punctuation][link]

 話しことばと書きことばの比較・対照について,以下の記事で取り上げてきた.

 ・ 「#230. 話しことばと書きことばの対立は絶対的か?」 ([2009-12-13-1])
 ・ 「#748. 話し言葉と書き言葉」 ([2011-05-15-1])
 ・ 「#849. 話し言葉と書き言葉 (2)」 ([2011-08-24-1])
 ・ 「#1001. 話しことばと書きことば (3)」 ([2012-01-23-1])
 ・ 「#1665. 話しことばと書きことば (4)」 ([2013-11-17-1])
 ・ 「#2301. 話し言葉と書き言葉をつなぐスペクトル」 ([2015-08-15-1])
 ・ 「#3274. 話し言葉と書き言葉 (5)」 ([2018-04-14-1])
 ・ 「#3411. 話し言葉,書き言葉,口語(体),文語(体)」 ([2018-08-29-1])
 ・ 「#3799. 話し言葉,書き言葉,口語(体),文語(体) (2)」 ([2019-09-21-1])
 ・ 「#2535. 記号 (sign) の種類 --- 伝える手段による分類」 ([2016-04-05-1])

 この問題を論じる際に重要なのは,両者が言語の媒体 (medium) として「物理的に」異なるものであるという基本的な認識である.話しことばは聴覚に訴えかける音を利用し,書きことばは視覚に訴えかける記号を利用する.この基本的な違いから,ほぼすべての重要な違いが生み出されるということだ.つまり,一見言語学的な問題にみえるが,実のところ物理学や生理学の問題に帰着するといえる (cf. 「#1063. 人間の言語はなぜ音声に依存しているのか (1)」 ([2012-03-25-1]),「#1064. 人間の言語はなぜ音声に依存しているのか (2)」 ([2012-03-26-1]),「#1065. 第三者的な客体としての音声言語の特徴」 ([2012-03-27-1])).
 Cook (38) は両媒体の特徴を,次のように簡潔にまとめている.

Speech is spoken soundsWriting is written symbols
Speech is fleetingWriting is permanent
Speech is linear in timeWriting can be consulted, regardless of time
Speech is processed 'on-line'Writing is stored 'off-line'
Speech can be produced and comprehended at around 150 words per minuteWriting can be read at up to 350 words per minutes
Speech is spontaneous first-draftWriting is carefully worked, final-draft
Speech is linked to a definite shared contextWriting has an indefinite non-shared context
Speech attributes definite roles to the listenerWriting attributes indefinite roles to the reader
Speech can use sound features such as intonationWiring can use written features such as punctuation


 このような違いがあるので,当然ながら話しことばでしか表現できないこと,逆に書きことばでしか表現できないことがある.後者の例としては,inn (名詞)と in (前置詞)の区別,art (普通名詞)と Art (固有名詞)の区別,各種の句読記号 (punctuation) や {;-) のような emoticon も,話し言葉には対応するものがない(cf. 「#808. smileys or emoticons」 ([2011-07-14-1])).

 最近では,書き言葉は話し言葉の写しにすぎないという従来の見方から脱した,書き言葉の自立性を主張する議論もちらほらと見聞きするようになってきた.以下の記事を参照されたい.

 ・ 「#1829. 書き言葉テクストの3つの機能」 ([2014-04-30-1])
 ・ 「#2339. 書き言葉の自立性に関する Vachek の議論 (1)」 ([2015-09-22-1])
 ・ 「#2340. 書き言葉の自立性に関する Vachek の議論 (2)」 ([2015-09-23-1])
 ・ 「#2431. 書き言葉の自立性に関する Bolinger の議論」 ([2015-12-23-1])
 ・ 「#2508. 書き言葉の自立性に関する Samuels の議論」 ([2016-03-09-1])
 ・ 「#2819. 話し言葉中心主義から脱しつつある言語学」 ([2017-01-14-1])

 ・ Cook, Vivian. The English Writing System. London: Hodder Education, 2004.

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2019-11-30 Sat

#3869. ヨーロッパ諸言語が初期近代英語の書き言葉に及ぼした影響 [spelling][j][v][punctuation][standardisation][apostrophe][capitalisation][punctuation]

 ラテン語が初期近代英語(ひいては後の現代英語)の書き言葉に及ぼした影響については,語源的綴字 (etymological_respelling) がよく知られている.ラテン語は,威信のある言語としてルネサンス期に英語の標準化の第一のお手本になったことは確かだろう.しかし,同時代のヨーロッパの土着語であるフランス語,スペイン語,イタリア語も,英語の書き言葉に少なからぬ影響を与えてきた.英語史でもあまり強調されることはないが,地味に重要な事実である.
 Scholfield (158) によれば,次の点が指摘されている.

 ・ <i> と <j>,<u> と <v> の区別は,ラテン語ではなくスペイン語やイタリア語にあった区別により促された(cf. 「#1650. 文字素としての j の独立」 ([2013-11-02-1]), 「#2415. 急進的表音主義の綴字改革者 John Hart による重要な提案」 ([2015-12-07-1]))
 ・ long <s> の衰退は,おそらく大陸からの影響である(cf. 「#584. long <s> と graphemics」 ([2010-12-02-1]),「#2997. 1800年を境に印刷から消えた long <s>」 ([2017-07-11-1]))
 ・ アポストロフィ (apostrophe) の導入も大陸から
 ・ 大文字化 (capitalisation) が広く行なわれるようになった習慣も大陸から
 ・ 大陸の言語から語を借用したときに,借用元言語での綴字を英語化せずに取り入れる傾向も,上記の諸傾向と同じ方向性を示す
 ・ 初期の印刷字体もイタリアやフランスなど大陸から来たものだった

 Scholfield (158) の以下の指摘は,「ラテン語が英語に及ぼした影響」以上に「ヨーロッパ諸言語が英語に及ぼした影響」へと目を向けさせてくれる.

. . . those with influence over how English writing developed were at least in the sixteenth/seventeenth centuries motivated to locate English as a modern European national language perhaps rather more than as another classical language.


 初期近代英語は,理想のモデルとしてこそラテン語を念頭においていたが,現実的な敵対者かつ協力者として注視していたのは,同時代のヨーロッパの諸言語だったということになりそうだ.

 ・ Scholfield, Phil. "Modernization and Standardization since the Seventeenth Century." Chapter 9 of The Routledge Handbook of the English Writing System. Ed. Vivian Cook and Des Ryan. Abingdon: Routledge, 2016. 143--61.

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2019-11-30 Sat

#3869. ヨーロッパ諸言語が初期近代英語の書き言葉に及ぼした影響 [spelling][j][v][punctuation][standardisation][apostrophe][capitalisation][punctuation]

 ラテン語が初期近代英語(ひいては後の現代英語)の書き言葉に及ぼした影響については,語源的綴字 (etymological_respelling) がよく知られている.ラテン語は,威信のある言語としてルネサンス期に英語の標準化の第一のお手本になったことは確かだろう.しかし,同時代のヨーロッパの土着語であるフランス語,スペイン語,イタリア語も,英語の書き言葉に少なからぬ影響を与えてきた.英語史でもあまり強調されることはないが,地味に重要な事実である.
 Scholfield (158) によれば,次の点が指摘されている.

 ・ <i> と <j>,<u> と <v> の区別は,ラテン語ではなくスペイン語やイタリア語にあった区別により促された(cf. 「#1650. 文字素としての j の独立」 ([2013-11-02-1]), 「#2415. 急進的表音主義の綴字改革者 John Hart による重要な提案」 ([2015-12-07-1]))
 ・ long <s> の衰退は,おそらく大陸からの影響である(cf. 「#584. long <s> と graphemics」 ([2010-12-02-1]),「#2997. 1800年を境に印刷から消えた long <s>」 ([2017-07-11-1]))
 ・ アポストロフィ (apostrophe) の導入も大陸から
 ・ 大文字化 (capitalisation) が広く行なわれるようになった習慣も大陸から
 ・ 大陸の言語から語を借用したときに,借用元言語での綴字を英語化せずに取り入れる傾向も,上記の諸傾向と同じ方向性を示す
 ・ 初期の印刷字体もイタリアやフランスなど大陸から来たものだった

 Scholfield (158) の以下の指摘は,「ラテン語が英語に及ぼした影響」以上に「ヨーロッパ諸言語が英語に及ぼした影響」へと目を向けさせてくれる.

. . . those with influence over how English writing developed were at least in the sixteenth/seventeenth centuries motivated to locate English as a modern European national language perhaps rather more than as another classical language.


 初期近代英語は,理想のモデルとしてこそラテン語を念頭においていたが,現実的な敵対者かつ協力者として注視していたのは,同時代のヨーロッパの諸言語だったということになりそうだ.

 ・ Scholfield, Phil. "Modernization and Standardization since the Seventeenth Century." Chapter 9 of The Routledge Handbook of the English Writing System. Ed. Vivian Cook and Des Ryan. Abingdon: Routledge, 2016. 143--61.

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2019-09-20 Fri

#3798. 古英語の緩い分かち書き [punctuation][writing][scribe][manuscript][distinctiones][anglo-saxon][orthography][hyphen]

 英語表記において単語と単語の間に空白を入れる分かち書きの習慣については,「#1112. 分かち書き (1)」 ([2012-05-13-1]),「#1113. 分かち書き (2)」 ([2012-05-14-1]),「#1903. 分かち書きの歴史」 ([2014-07-13-1]) を始めとする distinctiones の各記事で取り上げてきた.この習慣は確かに古英語期にも見られたが,現代のそれに比べれば未発達であり,あくまで過渡期の段階にあった.実のところ,続く中英語期でも規範として完成はしなかったので,古英語の分かち書きの緩さを概観しておけば,中世英語全体の緩さが知れるというものである.
 Baker は,古英語入門書において単語の分かち書き,および単語の途中での行跨ぎに関して "Word- and line-division" (159--60) と題する一節を設けている.以下,分かち書きについての解説.

Word-division is far less consistent in Old English than in Modern English; it is, in fact, less consistent in Old English manuscripts than in Latin written by Anglo-Saxon scribes. You may expect to see the following peculiarities.

・ spaces between the elements of compounds, e.g. aldor mon;
・ spaces between words and their prefixes and suffixes, e.g. be æftan, gewit nesse;
・ spaces at syllable divisions, e.g. len gest;
・ prepositions, adverbs and pronouns attached to the following words, e.g. uuiþbret walū, hehæfde;
・ many words, especially short ones, run together, e.g. þær þeherice hæfde.

The width of the spaces between words and word-elements is quite variable in most Old English manuscripts, and it is often difficult to decide whether a scribe intended a space. 'Diplomatic' editions, which sometimes attempt to reproduce the word-division of manuscripts, cannot represent in print the variability of the spacing on a hand-written page.


 続けて,単語の途中での行跨ぎの扱いについて.

Most scribes broke words freely at the ends of lines. Usually the break takes place at a syllabic boundary, e.g. ofsle-gen (= ofslægen), sū-ne (= sumne), heo-fonum. Occasionally, however, a scribe broke a word elsewhere, e.g. forhæf-dnesse. Some scribes marked word-breaks with a hyphen, but many did not mark them in any way.


 古英語期にもハイフンを使っていた写字生がいたということだが,この句読記号が一般化するのは「#2698. hyphen」 ([2016-09-15-1]) で述べたように16世紀後半のことである.
 以上より,古英語の分かち書きの緩さ,ひいては正書法の緩さが分かるだろう.

 ・ Baker, Peter S. Introduction to Old English. 2nd ed. Malden, MA: Wiley-Blackwell, 2007.

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2019-05-06 Mon

#3661. 複数所有格のアポストロフィの後に何かが省略されているかのように感じるのは自然 [apostrophe][genitive][plural][punctuation][haplology][folk_etymology][sobokunagimon]

 先日「#3656. kings' のような複数所有格のアポストロフィの後には何が省略されているのですか?」 ([2019-05-01-1]) と題する素朴な疑問を取り上げた.歴史的な観点からの回答として,端的に「何も省略されていない」と答えた.共時的に想像を膨らませれば,kings という複数形に,さらに所有格の 's を付したが,綴字上,末尾が s's とうるさくなりそうなので,簡略表記したのではないか,とみることもできそうだ (cf. haplology) .実際,そのような発想のもとで近代英語期に現行の句読法 (punctuation) が定まっていた可能性は高いのではないかと思われる.もしそうだったとしたら,歴史的な事実に基づくというよりは,共時的な想像に基づく正書法の確立だったということになる.これを非難するつもりもないし,先の記事で述べたように複数形 kings,単数所有格形 king's,複数所有格形 kings' の3つが,せめて表記上は区別されることになったわけだから,結果として便利になったと考えている.ただし,歴史的にはそういうわけではなかった,ということをここでは主張しておきたい.
 この辺りの問題については,Jespersen (272) がまさに取り上げている.それを引用するのが手っ取り早いだろう.

   16.86. These forms [genitive plurals with -es] (in which e was still pronounced) show that the origin of the ModE gen pl is the old gen pl in -a (which in ME became e) + the ending s from the gen sg, which was added analogically for the sake of greater distinctiveness. The s' in kings' thus is not to be considered a haplological pronunciation of -ses, though some of the early grammarians look upon it as an abbreviation: Bullokar Æsop 225 writes the gen pl ravenzz and crowzz with his two z-letters, which do not denote two different sounds, but are purely grammatical signs, one for the plural and the other for the genitive.---Wallis 1653 writes "the Lord's [sic] House, the House of Lords . . pro the Lords's House", with the remark "duo s in unum coincident." Lane, Key to the Art of Lettters 1700 p. 27: "Es Possessive is often omitted for easiness of pronunciation as . . . the Horses bridles, for the Horsesses bridles."
   In dialects and in vg speech the ending -ses is found: Franklin 152 (vg) before gentle folkses doors | GE M 1.10 other folks's children; thus also 1.293, 1.325, 2.7 | id A 251 gentlefolks's servants; ib 403; all in dialect | London schoolboy, in Orig. English 25: I wish my head was same as other boyses. Cf Murray D 164 the bairns's cleose, the færmers's kye, the doags's lugs; Elworthy, Somers. 155 voaksez (not other words, cf GE)


 このような解説を読んでいると,標準語の「正史」としては -s's がうるさいから -s' にしたという理屈は採用できないものの,非標準語の歴史という観点からみると,それもあながち間違っているとは言い切れないのかなと思い直したりする.

 ・ Jespersen, Otto. A Modern English Grammar on Historical Principles. Part VI. Copenhagen: Ejnar Munksgaard, 1942.

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2019-05-01 Wed

#3656. kings' のような複数所有格のアポストロフィの後には何が省略されているのですか? [sobokunagimon][apostrophe][genitive][plural][punctuation]

 令和時代の第1号の記事は,素朴な疑問シリーズより.鋭くも素朴な疑問です.
 現代英語では表記上 kings (王たち), king's (王の),kings' (王たちの)と,意味に応じて3種類の書き方が区別されます.発音上はすべて /kɪŋz/ で同じなのですが,綴字・句読法上はしっかりと区別することになっているのです.この表記上の区別は何に由来するのでしょうか.
 アポストロフィ (apostrophe) は,典型的に省略を表わすために用いられます.it'sit is の省略ですし,I'mI am の省略,you'reyou are の省略です.しかし,アポストロフィは省略のために用いられるとは限りません.「#582. apostrophe」 ([2010-11-30-1]),「#1772. greengrocer's apostrophe」 ([2014-03-04-1]) でみたように,第一義的には省略を表わすために用いられますが,その他の目的にも使われます.標題の疑問も,この観点からみる必要がありそうです.kings, king's, kings' の各々の成り立ちを紹介していきましょう.
 古英語で「王たち」を表わす「王」の複数形(主格・対格)は cyningas でした.これが後の複数形 kings になるわけですが,これは古英語 cyningas → 中英語 kinges → 近代英語 kings という音変化の過程を経た結果です.語尾に注目すると,-as や -es という古い複数語尾が母音を消失させ,-s となったわけです.このように通時的には複数語尾の曖昧母音 /ə/ が「消失」したととらえますが,共時的には母音が「省略」されたようにもみえます.複数形の綴字 kings は実はこのように「省略」が絡んでいるにもかかわらず,それを示唆するアポストロフィは用いずに済ませているというわけです.
 次に,「王の」を表わす単数所有格形の綴字 king's について考えましょう.古英語では,単数属格(所有格のことを古英語ではこう呼びます)形は cyninges と綴られ,これが中英語にそのまま kinges として受け継がれました.近代英語期にかけて,先の複数形の場合とパラレルに語尾の曖昧母音が消えたため,同じく kings と綴られていました.そのままでもよさそうなものでしたが,後にせめて綴字上は区別しようということなのか,単数所有格形のほうは king's と表記することになりました.今回は曖昧母音 /ə/ が「省略」されているのだから,それを標示するために king's というアポストロフィ付きの書き方になったのだ,と理屈をつけることができます.
 最後に「王たちの」を表わす複数属格形の kings' ですが,これにはやや詳しい歴史的な説明が必要です.古英語では複数属格形は cyninga のように -a 語尾をもっていました.しかし,中英語にかけてこの -a が脱落し,代わって単数属格語尾 -es (後に母音消失を経て -s)が複数属格語尾としても用いられるようになったのです.つまり,king(e)s という形態で「王の」と「王たちの」(と「王たち」)を同時に表わしうる状況が出現したのです.そして,近代以降,いずれにせよ発音上は区別できないのですが,せめて書き言葉においては区別しようと,単数所有格形は king's,複数所有格は kings' という書き分けが発達したのでした.
 以上をまとめれば次のようになります.複数(主格)の kings は中英語の kinges に由来し,屈折語尾の e が「省略」されたとみることができますが,その省略を表わすのにアポストロフィを付けることをしませんでした.これは理に適っていないようにみえます.一方,単数所有格形の king's は,先の複数形と同じく中英語の kinges に由来し,屈折語尾の e が「省略」された結果の形態ですので,アポストロフィを付けた綴字は理に適っているといえそうです.最後に複数所有格形の kings' は,単数所有格形と合一した形態にすぎず,その意味では問題のアポストロフィの後に何かが省略されているわけではありません.

 (1) 何かが省略されているのにアポストロフィが付いていない複数形 kings
 (2) 何かが省略されているから(という理由で)アポストロフィが付いている(と解せる)単数所有格形 king's
 (3) 何も省略されていないのにアポストロフィが付いている複数所有格形 kings'

 何だかメチャクチャという感じなのですが,せめて表記上は3者を区別したいという方針だったのでしょう,その意図は理解できます.いずれにせよ,これが英語の正書法なのです.

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2018-12-11 Tue

#3515. 現代英語の祈願文,2種 [optative][subjunctive][auxiliary_verb][syntax][word_order][punctuation][may]

 細江 (158--59) によれば,現代英語には,現在または未来の「ひたすらな願い」を表わす祈願法 (optative) の形式として,2種が認められる.1つは仮定法(歴史的な接続法 (subjunctive))を用いる方法(以下の (a)),もう1つは語頭に may を立てて「主語+動詞」を続ける方法である(以下の (b)).それぞれを示そう.

(a) 通常主語を文頭に立て,叙想法現在の動詞を述語とする.ただし,この際強勢のため形容詞・副詞などを先に立て主語と述語とを転置することも多い.たとえば,
   Thy kingdom come. Thy will be done.---Matthew, vi. 10.
   God bless and reward you for all your kindness.---Stowe.
   God forgive me!---Miss Mulock.
   Long live the Duke!---Charles Reade.
   Mine be a cot beside the hill!---Rogers.
   So be it, O Queen!---H. Hoggard.
   So help me God!---Hardy.
 このようなものは昔は常に用いられた形ではあるが,現今では詩および少数の固定した言い方のほかはあまり多く用いられない.しかし,ここに一つ特に注意すべきは,次のような呪罵の語では今なお普通に用いられるということである.
   Murrain take thee!---Scott.
   Devil take me!---Lamb.
   Generosity be hanged!---Thackeray.
   Dauphin be damned!---Shaw.
(b) 前記の場合,叙想法代用として may+不定詞を用いる.この場合に may はいつも主語より前に立つものである.たとえば,
   May no evil dream disturb my rest!---Evening Hymn.
   May he rest in peace!---Irving.
   So may it be for ages!---William Morris.


 仮定法の利用にせよ法助動詞 may の利用にせよ,法 (mood) が強く関わっていることがわかる.しばしば,祈願「法」 (optative mood) と呼ばれる所以である.また,(a) の場合は随意だが,(b) の場合は必ず語順の倒置が起こるという点も特徴的だ.これは,通常の叙述ではなく祈願という有標の発話行為であることを示すマーカーとして機能しているものではないかと思われる.書き言葉では,通常感嘆符 (exclamation mark) を伴うという特徴もある.
 なお,may に対応するドイツ語の mögen の接続法第1式も,may と同様の統語的振る舞いを示す.たとえば,Möge das neue Jahr viel Glück bringen! (新しい年が多幸でありますように!」,Möge er glücklich werden! (彼に幸あれ!)など.

 ・ 細江 逸記 『英文法汎論』3版 泰文堂,1926年.

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2018-10-24 Wed

#3467. 文献学における校訂の信頼性の問題 [philology][methodology][manuscript][punctuation][editing][corpus][evidence]

 英語史・英語文献学に携わる者にとって,標題は本質的な問題,もっといえば死活問題でもある.この問題について,児馬 (31) が古英語資料との関係でポイントを要領よくまとめている.

OE資料を使う際に,校訂の信頼性という問題は避けて通れない.歴史言語学で引用されているデータ(例文)の多くは写本研究,すなわち写本から校訂・編集を経て活字となった版 (edition) か,ないしは,特に最近はその版に基づいた電子コーパスに基づくことが多い.そうした文献学研究の多大な恩恵を受けて,歴史言語学研究が成り立っていることも忘れてはならないが,と同時に,校訂者 (editor) の介入がオリジナル写本を歪めることもありうるのである.一つの作品にいくつか複数の写本があって,異なる写本に基づいた複数の版が刊行されていることもあるので,その点は注意しなければならない.現代と同じように,構成素の切れ目をわかりやすくしたり,大・小文字の区別をする punctuation の明確な慣習はOE写本にはない.行の区切り,文単位の区切りなどが校訂者の判断でなされており,その判断は絶対ではないということを忘れてはならない.ここでは深入りしないが,それらの校訂本に基づいて作成された電子コーパスの信頼性もさらに問題となろう.少なくとも,歴史言語学で使用するデータに関しては,原典(本来は写本ということになるが,せいぜい校訂本)に当たることが不可欠である.


 上で述べられていることは,古英語のみならず中英語にも,そしてある程度は近代英語以降の研究にも当てはまる.文献学における「証拠」を巡るメタな議論は非常に重要である.
 関連して,「#681. 刊本でなく写本を参照すべき6つの理由」 ([2011-03-09-1]) ,「#682. ファクシミリでなく写本を参照すべき5つの理由」 ([2011-03-10-1]),「#2514. Chaucer と Gawain 詩人に対する現代校訂者のスタンスの違い」 ([2016-03-15-1]),「#1052. 英語史研究の対象となる資料 (2)」 ([2012-03-14-1]),「#2546. テキストの校訂に伴うジレンマ」 ([2016-04-16-1]) .

 ・ 児馬 修 「第2章 英語史概観」服部 義弘・児馬 修(編)『歴史言語学』朝倉日英対照言語学シリーズ[発展編]3 朝倉書店,2018年.22--46頁.

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2018-05-15 Tue

#3305. なぜ can の否定形は cannot と1語で綴られるのか? [sobokunagimon][negative][spelling][auxiliary_verb][clitic][punctuation][pronunciation]

 標題の疑問が寄せられた.実際には,助動詞 can の否定形としては標題の cannot のほか,can'tcan not の3種類がある.一般には1語であるかのように綴られる can'tcannot が圧倒的に多いが,分かち書きされた can not もあるにはある.ただし,後者が用いられるのは,形式的な文章か,あるいは強調・対照・修辞が意図されている場合のみである.
 まず,主に Fowler's を参照し,can'tcannot について現代英語での事実を確認しておこう.can't の発音は,イギリス英語で /kɑːnt/, アメリカ英語で /kænt/ となるが,特に子音の前ではしばしば語末の t が落ちて,/kɑːn/, /kæn/ のようになる.肯定形の can とは異なり,否定形では弱形は存在しない.一方,cannot は英米音でそれぞれ /ˈkæn ɒt/, /ˈkæn ɑːt/ となるが,実際には can't として発音される場合もある.
 can'tcannot の使い分けは特になく,いずれかを用いるかは個人の習慣によるところが大きいとされる.ただし,原則として cannot が使われるケースとして,「?せざるを得ない」を意味する cannot but do や cannot help doing の構文がある.逆に,口語で「努力してはみたが?することができないようだ」を意味する can't seem to do では,もっぱら can't が用いられる.
 歴史的には cannot のほうが古く,後期中英語から使用例がある(OED では a1425 が初出).can't も後期中英語で使われていた可能性は残るが,まともに出現してくるのは17世紀からのようだ.can't は Shakespeare でも使われていない.
 さて,標題の疑問に戻ろう.実際のところよく分からないのだが,1つ考えられそうなところを述べておく.can't は子音の前で t が落ちる傾向があると上述したが,とりわけ後続音が t, d, n のような歯茎音の場合には,その傾向が強いと推測される.すると,肯定形と否定形が同形となってしまい,アクセントによる弁別こそまだ利用可能かもしれないが,誤解を招きやすい.その点では,cannot の2音節発音は,少なくとも2音節目の母音の存在が否定形であることを保証しているために,有利である.また,完全形 can not とは形式的にも機能的にも区別されるべき省略形には違いないため,綴字上も省略形にふさわしく1語であるかのように書かれる,ということではないか.他の助動詞の否定形の音韻・形態とその歴史も比較してみる必要がありそうだ.

 ・ Burchfield, Robert, ed. Fowler's Modern English Usage. Rev. 3rd ed. Oxford: OUP, 1998.

Referrer (Inside): [2019-05-22-1]

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