話し言葉と書き言葉は言語の2大メディアだが,それぞれに特有の,情報を整序し意味を伝える形式的なデバイスが存在する.英語に関するものとして,Stubbs (117) がいくつか列挙しているので,Milroy and Milroy (117--18) 経由で示そう.
Speech (conversation): intonation, pitch, stress, rhythm, speed of utterance, pausing, silences, variation in loudness; other paralinguistic features, including aspiration, laughter, voice quality; timing, including simultaneous speech; co-occurrence with proxemic and kinesic signals; availability of physical context.
Writing (printed material): spacing between words; punctuation, including parentheses; typography, including style of typeface italicization, underlining, upper and lower case; capitalization to indicate sentence beginnings and propoer nouns; inverted commas, for instance to indicate that a term is being used critically (Chimpanzees' 'language' is. . . .); graphics, including lines, shapes, borders, diagrams, tables; abbreviations; logograms, for example, &; layout, including paragraphing, spacing, margination, pagination, footnotes, headings and sub-headings; permanence and therefore availability of the co-text.
このようなデバイスのリストは,両メディアを比較対照して論じる際にたいへん有用である.本ブログでも,この種の比較対照は多くの記事で取り上げてきた話題なので,主たるものを参考のため,以下に示しておこう.
・ 「#230. 話しことばと書きことばの対立は絶対的か?」 ([2009-12-13-1])
・ 「#748. 話し言葉と書き言葉」 ([2011-05-15-1])
・ 「#849. 話し言葉と書き言葉 (2)」 ([2011-08-24-1])
・ 「#1001. 話しことばと書きことば (3)」 ([2012-01-23-1])
・ 「#1655. 耳で読むのか目で読むのか」 ([2013-11-07-1])
・ 「#1665. 話しことばと書きことば (4)」 ([2013-11-17-1])
・ 「#1829. 書き言葉テクストの3つの機能」 ([2014-04-30-1])
・ 「#2301. 話し言葉と書き言葉をつなぐスペクトル」 ([2015-08-15-1])
・ Milroy, Lesley and James Milroy. Authority in Language: Investigating Language Prescription and Standardisation. 4th ed. London and New York: Routledge, 2012.
・ Stubbs, M. Language and Literacy: The Sociolinguistics of Reading and Writing. London: Routledge & Kegan Paul, 1980.
「#3139. 講座「スペリングでたどる英語の歴史」のお知らせ」 ([2017-11-30-1]) でお知らせしたように,朝日カルチャーセンター新宿教室で,5回にわたる講座「スペリングでたどる英語の歴史」が始まっています.1月27日(土)に開かれた第2回「英語初のアルファベット表記 --- 古英語のスペリング」で用いたスライド資料を,こちらに上げておきます.
今回は,アルファベットの系譜を確認しつつ,古英語がどのように表記され綴られいたかを紹介する内容でした.ポイントは以下の3点です.
・ 英語の書記はアルファベットの長い歴史の1支流としてある
・ 最古の英文はルーン文字で書かれていた
・ 発音とスペリングの間には当初から乖離がありつつも,後期古英語には緩い標準化が達成された
以下,スライドのページごとにリンクを張っておきます.多くのページに,本ブログ内へのさらなるリンクが貼られていますので,リンク集として使えると思います.
1. 講座『スペリングでたどる英語の歴史』第2回 英語初のアルファベット表記 --- 古英語のスペリング
2. 要点
3. (1) アルファベットの起源と発達 (#423)
4. アルファベットの系統図 (#1849)
5. アルファベットが子音文字として始まったことの余波
6. (2) 古英語のルーン文字
7. 分かち書きの成立
8. (3) 古英語のローマン・アルファベット使用の特徴
9. Cædmon's Hymn を読む (#2898)
10. 当初から存在した発音とスペリングの乖離
11. 後期古英語の「標準化」
12. 古英語スペリングの後世への影響
13. まとめ
14. 参考文献
Crystal (220--21) が,標題の3つの句読点の使い分けを示すのに精妙な例を挙げている.以下の3つの違いがわかるだろうか.
(a) I looked around the room. Mike was winking. Jane was smiling.
(b) I looked around the room. Mike was winking; Jane was smiling.
(c) I looked around the room. Mike was winking: Jane was smiling.
(a) では,Mike のウィンクと Jane のニッコリの間に特別な関係が積極的には認められない.2つの別々の出来事が継起している,ただそれだけという構図である.
(b) では,Mike のウィンクと Jane のニッコリが1つのシーンとして同じ構図に納まっている.セミコロンにより,2つの出来事が何らかの関係をもって同時に起こっていることが含意される.
(c) では,Mike のウィンクと Jane のニッコリの間に密接な関係があることが含意される.同じ構図に納まっているのみならず,おそらくは因果関係がある.つまり,Mike がウィンクしたから,Jane が微笑んだのだろう.
それぞれの直後に新たな文脈を補うと,含意がわかりやすくなる.
(a) I looked around the room. Mike was winking. Jane was smiling. Graham was grinning widely. Everyone could see what had happened ...
(b) I looked around the room. Mike was winking; Jane was smiling. Graham, their next-door neighbour, was ignoring them, as he always did at parties. ...
(c) I looked around the room. Mike was winking: Jane was smiling. It was great to see that my plan to bring them together had worked.
非常に微妙なニュアンスの差だが,句読法に精通したプロの書き手はこのような差を利用する.精読において注意しておくべき「ポイント」(←文字通り)である.
・ Crystal, David. Making a Point: The Pernickety Story of English Punctuation. London: Profile Books, 2015.
「#574. punctuation の4つの機能」 ([2010-11-22-1]) で,Crystal の英語百科事典から句読法 (punctuation) の4つの機能を紹介した.同じ Crystal が,句読法を徹底的に論じた著書 Making a Point の最後に近いところで,別の切り口から句読法の機能の多様性を力説している.
For a long time, . . . people thought there were only two functions to punctuation: a guide to pronunciation and a guide to grammar. There are far more . . . . There is a ludic function, seen in poetry, informal letters, and many online settings where people are playing with punctuation. There is a psycholinguistic function, facilitating easy processing by writer and reader. There is a sociolinguistic function, contributing to rapport between users. There is a stylistic function, providing genres with some of their orthographic identity. (346)
句読点の働きは,発音や文法のガイド以外にもあるという.例えば,遊びとしての句読点がある.携帯メールなどで用いられる「#808. smileys or emoticons」 ([2011-07-14-1]) の一部にみられるような,ジョークとしての句読点使用などがこれに当たるだろう.
心理言語学的な機能としては,例えば節と節を分ける際に,ルールとしては必ずしもカンマを挿入する必要がない場合でも,長さによっては読み手の解析のしやすさに配慮してカンマを挿入するほうがよいケースがあるだろう.
社会言語学的な機能,あるいは社会語用論的な機能といってもよいかもしれないが,例えば携帯メールなどで感情を表わす smileys を文末に添えることによって,相手との関係調整を行なうようなケースがある.
文体的な機能とは,例えば携帯メールのテキストに特有の句読法を用いることにより,それが携帯メールのテキストというジャンルに属することを標示するというようなケースを指す.
考えてみれば,これらは句読法の機能であるばかりか,およそ綴字の機能でもあるといってよい.句読法,綴字,文字などの書き言葉の要素は,それぞれ実に多種多様な機能を果たしているのである.
・ Crystal, David. The Cambridge Encyclopedia of the English Language. 2nd ed. Cambridge: CUP, 2003.
・ Crystal, David. Making a Point: The Pernickety Story of English Punctuation. London: Profile Books, 2015.
英語の分かち書きについて,以下の記事で話題にしてきた.「#1112. 分かち書き (1)」 ([2012-05-13-1]),「#1113. 分かち書き (2)」 ([2012-05-14-1]),「#2695. 中世英語における分かち書きの空白の量」 ([2016-09-12-1]),「#2696. 分かち書き,黙読習慣,キリスト教のテキスト解釈へのこだわり」 ([2016-09-13-1]),「#2970. 分かち書きの発生と続け書きの復活」 ([2017-06-14-1]),「#2971. 分かち書きは句読法全体の発達を促したか?」 ([2017-06-15-1]) .
現代的な語と語の分かち書きは,古英語ではまだ完全には発達していなかったが,語の分割する方法は確かに模索されていた.しかし,ある方法をとるにしても,その使い方はたいてい一貫しておらず,いかにも発展途上という段階にみえるのである.1例として,空白とともに中点 <・> を用いている Bede の Historia Ecclesiastica, III, Bodleian Library, Tanner MS 10, 54r. より冒頭の4行を再現しよう(Crystal 19).
ÞA・ǷÆS・GE・WORDENYMB
syx hund ƿyntra・7feower7syxtig æft(er) drihtnes
menniscnesse・eclipsis solis・þæt is sunnan・aspru
ngennis・
then was happened about
six hundred winters・and sixty-four after the lord's
incarnation・(in Latin) eclipse of the sun・that is sun eclipse
まず,空白と中点の2種類の分かち書きが,一見するところ機能の差を示すことなく併用されているという点が目を引く.また,現代の感覚としては,分割すべきところに分割がなく(7 [= "and"] の周辺),逆に分割すべきでないところに分割がある(題名の GE・WORDENYMB にみられる接頭辞と語幹の間)という点も興味深い.
空白で分かち書きする場合,手書きの場合には語と語の間にどのくらいの空白を挿入するかという問題があり,狭すぎると分割機能が脅かされる可能性があるが,中点は(前後の文字のストロークと融合しない限り)狭い隙間でも打てるといえば打てるので,有用性はあるように思われる.
中点は,英語に限らず古代の書記にしばしば見られたし,自然な句読法の1つといってよいだろう.現代日本語でも,中点は特殊な用法をもって活躍している.
・ Crystal, David. Making a Point: The Pernickety Story of English Punctuation. London: Profile Books, 2015.
昨日の記事「#3040. 古英語から中英語にかけて用いられた「休止」を表わす句読記号」 ([2017-08-23-1]) に引き続き,句読記号 (punctuation) の話題.<;> (semicolon) は,「#2666. 初期近代英語の不安定な句読法」 ([2016-08-14-1]) で触れたように,16世紀後半になってようやく用いられるようになった新参者である.その後,句読記号を多用する "heavy style" 好みの18世紀にはおおいに活躍したが,現代にかけて衰退してきている.近現代にほける semicolon の盛衰に関して,Crystal (207) の文章が興味深い.
It's often been reported that the semicolon is going out of fashion, and the evidence (from the study of large collections of written material) does support a steady drop in frequency during the twentieth century. (They're much more common in British English than American English.) A typical finding is to see that 90 per cent of all punctuation marks are either periods or commas, and semicolons are just a couple of percent. The figure was much higher once. The semicolon had its peak in the eighteenth century, when long sentences were thought to be a feature of an elegant style, heavy punctuation was in vogue, and punctuation was becoming increasingly grammatical. The rot set in during the nineteenth century, when the colon became popular, and took over some of the semicolon's functions. The economics of the telegraph (the shorter the message, the cheaper) fostered short sentences. And today it has virtually disappeared from styles where sentences tend to be short, such as on the Internet.
最近の日本でも,Twitter などの影響で,単純な思考を短文で書くことしかできず,まとまった思考を長文で書くことができない人が増えているというコメントが聞かれるが,それと連動して文章を書くスタイルや用いられる句読記号の種類や頻度も変化するというのは確かにありそうである.semicolon という,ある意味で中途半端な句読記号の盛衰を追うことによって,むしろ各々の時代の文章スタイルの特徴が浮き彫りになるというのはおもしろい.今後,semicolon は限定されたテキストタイプでしかお目にかからないレアな句読記号になっていく可能性もありそうだ.
・ Crystal, David. Making a Point: The Pernickety Story of English Punctuation. London: Profile Books, 2015.
現代英語で何らかのレベルの「休止」を表わす代表的な句読記号としては,<.> (period, full stop), <!> (exclamation mark), <?> (question mark), <;> (semicolon), <:> (colon), <,> (comma) がある.これらには古英語に起源を有するものもあれば,もっと後発のものもある.今回は Crystal (24--26) を参照しながら,古英語から中英語にかけて用いられていた「休止」を表わす4種類の主要な句読記号を紹介しよう.
(1) punctus versus.形としては現代の <;> (semicolon) に近いが,役割としては陳述の終わりを示す現代の <.> (period, full stop) に相当する.
(2) punctus elevatus.形としては現代の <;> (semicolon) を逆転回させたもの(つまり右上に向かってひげが伸びる)であり,上昇イントネーションを伴う文中の休止に用いられた.現代風に喩えれば,"When you arrive (2), get a key from the porter (1). When you leave (2), hand it in at reception (1)." のように,(2) の位置で punctus elevatus が,(1) の位置で punctus versus が典型的に用いられた.
(3) punctus interrogativus.いわゆる疑問文の末尾にふされる疑問符だが,もともとの形は現在の <?> ではなく,点の上に右上に伸びる <~> が加えられたような記号だった(punctus elevatus よりも曲がりくねって大袈裟なひげ).
(4) punctus admirativus または punctus exclamativus.中英語期の14世紀後半に導入された感嘆符.もともとの形は,右向きに傾いた <:> (colon) の上に長いアクセント符合がついたものだったが,これが後に <!> という形へ発展した.
ラテン語で positurae (positions) と呼ばれたこれらの句読記号が常用されるようになるのは8世紀以降のことであり,(4) のように中英語で初めて現われたものもあれば,ほかに近代英語になって確立した遅咲きのものもある.関連して「#575. 現代的な punctuation の歴史は500年ほど」 ([2010-11-23-1]),「#2666. 初期近代英語の不安定な句読法」 ([2016-08-14-1]) を参照されたい.
・ Crystal, David. Making a Point: The Pernickety Story of English Punctuation. London: Profile Books, 2015.
日本語では段落の始めは1字下げして書き始めるのが規範とされている.近年この規範と実践が揺れ始めている件については,「#2848. 「若者は1字下げない」」 ([2017-02-12-1]) の記事で触れた.では,英語についてはどうだろう.
英語の本を読んでいるとわかるとおり,通常,段落開始行は数文字程度の字下げが行なわれている.しかし,これには別の作法もある.例えば,字下げは行なわない代わりに,段落を始める語の頭文字を他の文字よりも大きくして(ときに複数行の高さで)目立たせるやり方,すなわち "drop capital" の使用がある.これは,中世の写本において,同じ目的で用いられた大きな装飾文字に起源をもつ.あるいは,その変種と考えられるが,雑誌や新聞の記事でよくお目にかかるように,最初の1語か数語をすべて大文字で書くという方法もある.
もう1つ注意すべきは,字下げも行なわず,かつ特別な目立たせ方もしないで段落を開始することがあるということだ.それは,章や節の第1段落においてである.章や節の題名を示す行の直後では,そこが新段落の始めであることは自明であり,特別な合図をせずともよいということだ.日本語では第1段落といえども律儀に1字下げをするので,英語のこの流儀はいかにも合理性を重んじているかのように感じられる.
私も長らくこの英語書記の合理性に感じ入っていたが,歴史的にはそれほど古い流儀ではないようだ.Crystal (131) によると,100年ほど前には,第1段落といえども他の段落と同じように数文字の字下げを行なうのが通常だったようだ.結局のところ,句読法 (punctuation) の慣習は,時代にも地域にもよるし,house style によるところも大きい.ある程度の合理性の指向は認められるにせよ,句読法もまた絶対的なものではないということだろう.
・ Crystal, David. Making a Point: The Pernickety Story of English Punctuation. London: Profile Books, 2015.
昨日の記事「#2970. 分かち書きの発生と続け書きの復活」 ([2017-06-14-1]) に引き続いて,分かち書き (distinctiones) の話題.Crystal (17) は,分かち書きの発生こそが,他の句読法の体系的な発達を促したと考えている.
It's difficult to see how punctuation could have developed in a graphic world where scriptura continua was the norm. If there are no word-spaces, there's no room to insert marks. Writers or readers might be able to insert the occasional dot or simple stroke, to show where the sense change, but it would be impossible to develop a sophisticated system that would keep pace with the complex narratives and reflections being expressed in such domains as poetry, chronicles, and sermons. However, once word-spaces became the norm, new punctuational possibilities were available.
確かに,この因果関係はある程度の説得力をもつように聞こえるかもしれない.しかし,おそらく部分的にはその通りであると思われるものの,さほど自明な議論ではない.というのは,日本語を考えてみれば分かるとおり,分かち書きが定着していない書記においても,他の句読法は十分に体系的に発達しているからだ.そこでは,むしろ他の句読法が分かち書きの果たすはずの役割を部分的に果たしている.したがって,書記上の機能や発生順序の自然さという観点から,分かち書きと他の句読法という二分法を設けるべき根拠は強くないように思われる.空白があれば,その分,他の記号が書き込まれる契機が増し,したがって句読法も発達しやすい,という Crystal の論理は,完全に無効とは決めつけられないものの,どこまで有効なのかを積極的に示すことは難しいのではないか.
それでも,分かち書きは,言語使用者にとって最も直観的で基本的な単位である語を区切るものであるという点で,他の句読法よりも本質的な地位を占めると主張することもまた可能のように思われる.日本語のような稀な例も考慮に入れながら,より説得力をもって主張できそうなことは,分かち書きという方法にかぎらず,語と語の区分を示す何らかの手段が確立しさえすれば,次にその他の句読法も発達していきやすい,ということではないか.
・ Crystal, David. Making a Point: The Pernickety Story of English Punctuation. London: Profile Books, 2015.
書記における分かち書き (distinctiones) については,「#1112. 分かち書き (1)」 ([2012-05-13-1]),「#1113. 分かち書き (2)」 ([2012-05-14-1]),「#2695. 中世英語における分かち書きの空白の量」 ([2016-09-12-1]),「#2696. 分かち書き,黙読習慣,キリスト教のテキスト解釈へのこだわり」 ([2016-09-13-1]) などで話題としてきた.今回も,分かち書きが歴史の過程で生み出されてきた発明品であり,初めから自然で自明の慣習であったわけではないことを,再度確認しておきたい.
西洋の書記の歴史では,分かち書き以前に,長い続け書き (scriptura continua) の時代があった.Crystal (3) の説明を引こう.
Word-spaces are the norm today; but it wasn't always so. It's not difficult to see why. We don't actually need them to understand language. We don't use them when we speak, and fluent readers don't put pauses between words as they read aloud. Read this paragraph out loud, and you'll probably pause at the commas and full stops, but you won't pause between the words. They run together. So, if we think of writing purely as a way of putting speech down on paper, there's no reason to think of separating the words by spaces. And that seems to be how early writers thought, for unspaced text (often called, in Latin, scriptura continua) came to be a major feature of early Western writing, in both Greek and Latin. From the first century AD we find most texts throughout the Roman Empire without words being separated at all. It was thus only natural for missionaries to introduce unspaced writing when they arrived in England.
しかし,英語の書記の歴史に関する限り,古英語期までには語と語を分割する何らかの視覚的な方法が模索されるようになっていた.Crystal (8--9) によれば,様々な方法が実験されたという(以下の引用中にある "Undley bracteate" については,「#572. 現存する最古の英文」 ([2010-11-20-1]) を参照).
People experimented with word division. Some inscriptions have the words separated by a circle (as with the Undley bracteate) or a raised dot. Some use small crosses. Gradually we see spaces coming in but often in a very irregular way, with some words spaced and others not --- what is sometimes called an 'aerated' script. Even in the eleventh century, less than half the inscriptions in England had all the words separated.
考えてみれば,昨今のデジタル時代でも,分かち書きの手段は複数ある.URLやファイル名の文字列など,処理上の理由で空白が避けられる傾向がある場合には,例えば "this is an example of separation" と表記したいときに,次のようなヴァリエーションが考えられるだろう (Crystal 8--9 の議論も参照).
・ thisisanexampleofwordseparation
・ this.is.an.example.of.word.separation
・ this+is+an+example+of+word+separation
・ this_is_an_example_of_word_separation
・ this-is-an-example-of-word-separation
・ thiSiSaNexamplEoFworDseparatioN
・ ThisIsAnExampleOfWordSeparation
現代は,ある意味で scriptura continua が蘇りつつある時代とも言えるのかもしれない.続け書きを当然視する日本語書記の出番か!?
・ Crystal, David. Making a Point: The Pernickety Story of English Punctuation. London: Profile Books, 2015.
「#1097. quotation marks」 ([2012-04-28-1]) で,英語の引用符の single か double の差について論じた.今回は,引用符の開きと閉じの習慣について歴史をひもといてみよう.
現在の慣習では,引用符を “ で開いたら ” で閉じるというのは自明のように思われる.しかし,前の記事でみたように,本来的にこの記号は「ここから引用が始まりますよ」という合図として,欄外に置かれるマークとして出発したのだった.「ここから始まる」と言っておいて「どこそこで終わる」と言わないのは,引用者として無責任のように思われるかもしれないが,これは現代的な思考法なのかもしれない.古くは,閉じの引用符は置かれなかったのである! 書き手にとって,どこで引用が終わるかは明らかだし,読み手もそれで何とかなるだろうと,ある種の鷹揚さを持ち合わせていたかのようだ.
話者が頻繁に交替する会話の再現が稀な時代であれば,実際,何とかなったろう.しかし,小説のようなジャンルが盛んになると,閉じない引用符の問題は深刻となる.こうして,小説が人気を獲得する18世紀に,ついに閉じの引用符が慣習的に用いられるようになった.おりしも18世紀には現代人にとっては見苦しいほど句読法を多用することが是とされたので,Murray の規範文法でも,このような2重引用符の使用が推奨されたのである.新たな文学ジャンルの発達とそれに伴う直接話法の頻用,そして当時の重めの句読法の慣習が,新しい記号使用を促進したことになる (Crystal 308--09) .
引用符の開きと閉じの問題について,印刷家が直面したもう1つの問題があった.それは,引用が複数の段落にまたがるとき,前の段落の最後に閉じの引用符を含めるか,あるいは後の段落の最初に開きの引用符を繰り返すか,といった問題である.印刷家によっては,各段落の始めと終わりを,それぞれ開きと閉じの引用符で標示するという方法を採用した.しかし,これでは各段落で独立して引用が導入されているかのように誤読される恐れがある.現在採用されているのは,各段落の始めは改めて開きの引用符を付して引用の継続を示すが,閉じの引用符は引用全体の終末時にしか付さない,という方法だ (Crystal 310) .一見すると論理的ではないかのようだが,説明されれば,その実用性と合理性のバランスの取れていることは納得できるだろう.
歴史的には,引用符は必ずしも閉じるのが当然ではなかったという事実に注意すべきである.かつての緩い句読法は,開きと閉じの括弧の対応が正確でないとすぐにエラーとなる現代のプログラミング言語のようなガチガチの理屈とは対極にある,実におおらかな世界の慣習だったのである.
・ Crystal, David. Making a Point: The Pernickety Story of English Punctuation. London: Profile Books, 2015.
2月1日の読売新聞夕刊11面に「若者は1字下げない」と題する記事が掲載されていた.筆者も大学で学生が書く長めの日本語文章を読む機会が多いが,この「1字下げない」現象には戸惑っている.課題レポート,試験の記述解答,入試の願書に至るまで,段落を1字下げずに書くということが,普通になってきている.
専門家によると,若者が1字下げを行なわなくなってきているのは,普段書き慣れている SNS でそのような慣習がなく,まとまった文章を書く際にも段落という単位を意識する機会が減っているからだろうという.
これを問題として指摘するにあたって,いくつかの角度がありそうだ.思いつくのは,(1) 1字下げしないという慣習を無視している(あるいは知らない)ということ,(2) 友人相手の SNS の文章と,ある程度の正式さとまとまりが必要とされる種類の文章の区別ができていないこと,(3) 文章を構成するという感覚がなさそうであること,辺りだろうか.
(1) は「小学校の作文でしっかり習っていたはずなのに,それをすっかり忘れている,けしからん」という批判である.個人的にはこの批判に加担するし,1字下げは日本社会の常識の1つだと思っている.しかし,規則なのだからとにかく守れ,と述べて済ませるだけでは,言語を論じる者として大人げない気もする.実際,段落の最初の1字下げがどこまで日本語の文章における公式な「規則」なのかは,イマイチよく分からない.学習指導要領では,改行については小学3,4年生の国語で学ぶことになっているが,1字下げについては,指導実態としては教えているものの,「必要性の評価が学術的に定まっていない」ために明示はされていないという.国語教科書の歴史でみると,戦前に1字下げされていない例もあったようだ.そもそも日本語書記における1字下げは,西洋の文章の翻訳に伴って発展し,その慣習が教科書の文章などにも取り込まれて一般化したもののようで,金科玉条の規則というよりは,あくまで慣習やマナーといった位置づけと見ておくのがよさそうだ.とすると,「守らざれば即ち非」と断じるのも難しくなる.
(2) と (3) は繋がっていると思われるが,慣習を守る守らないだけの問題ではなく,長いまとまった種類の文章を書く機会がないという,一種の書記経験の貧困さの問題のことである.1字下げをしない→その必要性や意義を認識していない→段落構成のある文章を普段書いていない→そのような文章を書く機会がそもそもない,という疑いが生じる.
SNS の1字下げをしない文章の書き方が悪いというよりは,1字下げすべき類いの文章を書く機会が激減しているという状況がある,と認識すると,問題は別次元のものになっていきそうだ.
畢竟,句読法 (punctuation) も時間とともに変化するものである.しかし,その変化も,実際的意義と歴史的慣習とのせめぎ合いを通じて進行していくはずのものであって,それゆえに最も大事なことは,保守派にせよ革新派にせよこのような話題に関心をもち,議論していくことだろう.
昨日の記事「morn, morning, morrow, tomorrow」 ([2016-09-25-1]) で tomorrow の語源に触れたが,今回はこの語と,もう1つ語形成上関連する today について探ってみよう.
tomorrow の語形成としては,前置詞 to に「(翌)朝」を表わす名詞 morrow の与格形が付加したものと考えられ,すでに古英語でも tō morgenne という句として用いられていた.その意味は,昨日の記事で解説したとおり,すでに「明日に」を発展させていた.中英語では,morrow のたどった様々な形態的発達にしたがって to morwen や to morn が生じたが,現在にかけて,前者が標準的な tomorrow に,後者が北部方言などに残る tomorn に連なった.本来,前置詞句であるから,まず副詞「明日に」として発達したが,15世紀からは品詞転換により,名詞としても用いられるようになった.
「#2698. hyphen」 ([2016-09-15-1]) で簡単に触れたように,元来は to morrow と分かち書きされたが,近代英語期に入ると to-morrow とハイフンで結合され,1語として綴られるようになった(それでも近代英語の最初期には『欽定訳聖書』や Shakespeare の First Folio などで,まだ分かち書きのほうが普通だった).ハイフンでつなぐ綴字は20世紀初頭まで続いたが,その後,ハイフンが脱落し現在の標準的な綴字 tomorrow が確立した.
today についても,おそらく同様の事情があったと思われる.古英語の前置詞句 tō dæġ (on the day; today) が起源であり,16世紀までは分かち書きされたが,その後は20世紀初頭まで to-day とハイフン付きで綴られた.名詞としての用法は,tomorrow と同様に16世紀からである.
tomorrow と today は発展の経緯が似ている点が多く,互いに関連づけ,ペアで考える必要があるだろう.
現代英語の書記にみられる句読法 (punctuation) の発達と定着は,一般に近代以降の出来事といってよい (see 「#574. punctuation の4つの機能」 ([2010-11-22-1]),「#575. 現代的な punctuation の歴史は500年ほど」 ([2010-11-23-1]),「#582. apostrophe」 ([2010-11-30-1]),「#2666. 初期近代英語の不安定な句読法」 ([2016-08-14-1])) .ハイフン (hyphen) にしても例外ではなく,広く用いられるようになり,一般化したのは1570年代以降である.実際,hyphen という呼び名が英語に現われるのは1620年辺りになってからであり,案外遅い.この語は,"together" を意味するギリシア語 huphén (hupó "under" + hén "one") がラテン語経由で英語に入ったものである.それ以前にも,この句読記号自体は用いられており,様々に呼ばれていたが,例えばその使用を重視した John Hart (c. 1501--74) は joiner と呼んでいた.
実際,ハイフン記号の使用は写本時代の最初期から一貫して確認される.その役割も様々だったが,基本的な機能は,現代に伝わるものと同様であり,語やその一部の境目に関する種々の関係を明示することにあった.単語の内部で行またぎをする必要が生じたときには「分割記号」 (divider) の役割を果たし,複数の形態素の関連が密であり1語にまとめたい場合には「連係記号」 (linker) の役割を果たした.いずれにせよ,語の単位を明示する目的で用いられる符号である (Crystal 260--61) .
しかし,ハイフンの正書法は,現代ですら定着したものがない.その使用には,相当程度,揺れが見られる.例えば,変種間というレベルの揺れとしても見られ,イギリス英語ではアメリカ英語よりもハイフンを多用する傾向がある.カナダ英語などでは,英米変種の中間的な振る舞いを示すともいわれる.また,個人差もあり,e-mail vs email, ice-cream vs ice cream や,flowerpot vs flower-pot vs flower pot など,揺れが激しい.通時的にも,以前は2語で書かれていたものが,後にハイフンを付され,さらに後にハイフンを省いて1語として綴られるような変化を遂げた語がいくつか確認される.例えば,type writer > type-writer > typewriter がその例であり,ほかに today, tomorrow, tonight などの to- 接頭辞をもつ語も to day > to-day > today のように,似たような経路を辿っている (Crystal 266) .
・ Crystal, David. Making a Point: The Pernickety Story of English Punctuation. London: Profile Books, 2015.
昨日の記事「#2695. 中世英語における分かち書きの空白の量」 ([2016-09-12-1]) に引き続き,分かち書きに関連する話題.
「#1903. 分かち書きの歴史」 ([2014-07-13-1]) でみたように,分かち書きの慣習の発生には,ラテン語を非母語とするアイルランドの修道僧の語学学習テクニックが関与していた.しかし,分かち書きが定着に貢献した要因は,そればかりではない.Crystal (10--13) によれば,7世紀までに発達していた黙読習慣や,St Augustine によるキリスト教教義の正しい伝授法という文化的・社会的な要因も関与していた.
黙読習慣が発達するということは,書き言葉が話し言葉とは区別される媒体として機能するようになったということであり,読み手に優しい書き方が模索される契機が生じたということである.別の観点からいえば,続け書きが本来もつ「読みにくさ」への寛容さが失われてきた.このことは,語間空白のみならず句読法 (punctuation) 一般の発達にも関係するだろう.
By the seventh century in England, word-spacing had become standard practice, reflecting a radical change that had taken place in reading habits. Silent reading was now the norm. Written texts were being seen not as aids to reading aloud, but as self-contained entities, to be used as a separate source of information and reflection from whatever could be gained from listening and speaking. It is the beginning of a view of language, widely recognized today, in which writing and speech are seen as distinct mediums of expression, with different communicative aims and using different processes of composition. And this view is apparent in the efforts scribes made to make the task of reading easier, with the role of spacing and other methods of punctuation becoming increasingly appreciated. (Crystal 10)
次に,キリスト教との関係でいえば,St Augustine などの初期キリスト教の教父が神学的解釈をめぐってテキストの微妙な差異にこだわりを示したことが,後の分かち書きを含む句読法を重視する傾向を生み出したという.
The origins of the change are not simply to do with the development of new habits of reading. They are bound up with the emergence of Christianity in the West, and the influential views of writers such as St Augustine. Book 3 of his (Latin) work On Christian Doctrine, published in the end of the fourth century AD, is entitled: 'On interpretation required by the ambiguity of signs', and in its second chapter we are given a 'rule for removing ambiguity by attending to punctuation'. Augustine gives a series of Latin examples where the placing of a punctuation mark in an unpunctuated text makes all the difference between two meanings. The examples are of the kind used today when people want to draw attention to the importance of punctuation, as in the now infamous example of the panda who eats, shoots and leaves vs eats shoots and leaves. But for Augustine, this is no joke, as the location of a mark can distinguish important points of theological interpretation, and in the worst case can make all the difference between orthodoxy and heresy. (Crystal 12--13)
また,上記2点とも間接的に関わるが,語間空白なしではとても読むに堪えないジャンルのテキストが現われるようになったことも,分かち書きの慣習を促進することになったろう.例えば,いわゆる文章ではなく,単語集というべき glossary の類いである.この種の単語一覧はそもそも備忘録用,参照用であり,声を出して読み上げるというよりは,見て確認する用途で使われることが多く,語と語の境界を明示することが特に要求されるテキストといってよい (Crystal 10--11) .
このように互いに関連するいくつかの文化的・社会的水脈が前期古英語の7世紀までに合流し,分かち書きの慣習が,いまだ現代風の完璧さは認められないものの,およそ一般化する契機を獲得したと考えられる,
・ Crystal, David. Making a Point: The Pernickety Story of English Punctuation. London: Profile Books, 2015.
現代の英語の書記では当然視されている分かち書き (distinctiones) が,古い時代には当然ではなく,むしろ続け書き (scriptio continua) が普通だったことについて,「#1903. 分かち書きの歴史」 ([2014-07-13-1]) で述べた.実際,古英語の碑文などでは語の区切りが明示されないものが多いし,古英語や中英語の写本においても現代風の一貫した分かち書きはいまだ達成されていない.
だが,分かち書きという現象そのものがなかったわけではない.「#572. 現存する最古の英文」 ([2010-11-20-1]) でみた最初期のルーン文字碑文ですら,語と語の間に空白ではなくとも小丸が置かれており,一種の分かち書きが行なわれていたことがわかるし,7世紀くらいまでには写本に記された英語にしても,語間の空白挿入は広く行なわれていた.ポイントは,「広く行なわれていた」ことと「現代風に一貫して行なわれていた」こととは異なるということだ.分かち書きへの移行は,古い続け書きの伝統の上に新しい分かち書きの方法が徐々にかぶさってきた過程であり,両方の書き方が共存・混在した期間は長かったのである.英語の句読法 (punctuation) の歴史について一般に言えるように,語間空白の規範は中世期中に定められることはなく,あくまで書き手個人の意志で自由にコントロールしてよい代物だった.
書き手には空白を置く置かないの自由が与えられていただけではなく,空白を置く場合に,どれだけの長さのスペースを取るかという自由も与えられていた.ちょうど現代英語の複合語において,2要素間を離さないで綴るか (flowerpot),ハイフンを挿入するか (flower-pot),離して綴るか (flower pot) が,書き手の判断に委ねられているのと似たような状況である.いや,現代の場合にはこの3つの選択肢しかないが,中世の場合には空白の微妙な量による調整というアナログ的な自由すら与えられていたのである.例えば,語より大きな統語的単位や意味的単位をまとめあげるために長めの空白が置かれたり,形態素レベルの小単位の境を表わすのに僅かな空白が置かれるなど,書き手の言語感覚が写本上に精妙に反映された.
Crystal (11-12) はこの状況を,Ælfric の説教からの例を挙げて説明している.
Very often, some spaces are larger than others, probably reflecting a scribe's sense of the way words relate in meaning to each other. A major sense-break might have a larger space. Words that belong closely together might have a small one. It's difficult to show this in modern print, where word-spaces tend to be the same width, but scribes often seemed to think like this:
we bought a cup of tea in the cafe
The 'little' words, such as prepositions, pronouns, and the definite article, are felt to 'belong' to the following content words. Indeed, so close is this sense of binding that many scribes echo earlier practice and show them with no separation at all. Here's a transcription of two lines from one of Ælfric's sermons, dated around 990.
þærwæronðagesewene twegenenglas onhwitumgẏrelū;
þær wæron ða gesewene twegen englas on hwitum gẏrelū;
'there were then seen two angels in white garments'
Eacswilc onhisacennednẏsse wæronenglasgesewene'.
Eacswilc on his acennednẏsse wæron englas gesewene'.
'similarly at his birth were angels seen'
The word-strings, separated by spaces, reflect the grammatical structure and units of sense within the sentence.
話し言葉では,休止 (pause) や抑揚 (intonation) の調整などを含む各種の韻律的な手段でこれと似たような機能を果たすことが可能だが,書き言葉でその方法が与えられていたというのは,むしろ現代には見られない中世の特徴というべきである.関連して「#1910. 休止」 ([2014-07-20-1]) も参照.
・ Crystal, David. Making a Point: The Pernickety Story of English Punctuation. London: Profile Books, 2015.
15世紀後半に印刷術 (printing) がもたらされた後,続く16世紀の間に標準的な正書法への模索が始まったが,その際の懸案事項は綴字にとどまらず句読法 (punctuation) にも及ぶことになった.
先立つ中世の手書き写本の時代には,各種の句読記号が,統語意味的な目的というよりは音読のためのガイドとして様々に用いられていた.多くは印刷の時代以降に消えてしまったが,その数は30種類を超えた.現在使われているのと同形の句読記号もあったが,中世の写本ではその機能は必ずしも現代のものと同じではなかった.この中世の奔放な状況が,印刷時代の到来を経て徐々に整理へと向かい出したが,その過程は緩慢としており,初期近代英語期中にもいまだ安定を示さなかった.
初期の印刷業者は基本的には写本にあった句読記号を再現しようとしたが,対応する活字がないものもあり,選択を迫られることも多かった.一般的には,</> (virgule) や <.> (point) は広く認められた(</> の機能は現在の <,> (comma) に相当し,1520年代から現在のような <,> に置き換えられるようになったが,印刷業者によっては両者ともに用いるものもあった).
初期の印刷では,ほかに <:> (colon), <¶> (paragraph mark), <//> (double virgule) なども用いられ,新しい句読記号としては <( )> (parentheses), <;> (semicolon), <?> (question mark) なども導入されたが,定着には時間を要した.例えば,<;> などは,Coverdales による1538年の新約聖書の献題に現われこそするが,イングランドで用いられるようになるのは1570年代以降といってよい.
17世紀に入っても,いまだ句読法の不安定は続いた.例えば,Shakespeare の First Folio (1623) でも,疑問符と感嘆符,コロンとセミコロンの使い分けは一貫していなかったし,アポストロフィ (apostrophe) やハイフン (hyphen) も予期しないところに現われた (ex. advan'st (= advanced), cast-him (= cast him)) .この不安定さは現代の Shakespeare の校訂にも反映しており,異なる版が異なる句読点を採用するという事態になっている.
アポストロフィについて一言加えておこう.この句読記号は近代の新機軸であり,省略を示すために用いられ出したのは1559年からである.なお,現在のアポストロフィの用法として所有格を表わす <'s> での使用があるが,この発達はずっと遅れて18世紀のことである.
このように,現代では正書法の一環として用法が定まっている種々の句読記号も,初期近代英語ではいまだ定着していなかった.このことは,印刷術導入の衝撃がいかに革命的だったか,印刷業者が新時代に適応するのにいかに試行錯誤したのかを示す1つの指標とみなすことができるのではないか.以上,Crystal (261) を参照して執筆した.
関連して,「#574. punctuation の4つの機能」 ([2010-11-22-1]),「#575. 現代的な punctuation の歴史は500年ほど」 ([2010-11-23-1]),「#582. apostrophe」 ([2010-11-30-1]) も参照されたい.
・ Crystal, David. The Stories of English. London: Penguin, 2005.
現代の研究者が古英語や中英語の文書を読む場合,写本から直接読むこともあるが,アクセスの点で難があるので,通常は校訂されたエディションで読むことが多い.校訂されたテキストは,校訂者により多かれ少なかれ手が加えられており,少なからず独自の「解釈」も加えられているので,写本に記録されている本物のテキストそのものではない.したがって,読者は,校訂者の介入を計算に入れた上でテキストに対峙しなければならない.ということは,読者にしても,校訂者が校訂するにあたって抱く悩みや問題にも通じていなければならない.
校訂者の悩みには様々な種類のものがある.The Owl and the Nightingale を校訂した Cartlidge (viii) が,校訂に際するジレンマを告白しているので,それを読んでみよう.
The presentation of medieval text to a modern audience---even leaving aside the question of emending obvious errors or obscurities in the extant manuscripts---inevitably faces the modern editor with a dilemma. The conventions of spelling, punctuation and word-division followed by the scribes have to be modernized to some extent in order to produce a reasonably accessible text for readers accustomed to the different conventions now current---but how much modernization is actually compatible with editorial fidelity to the text as it survives in the manuscripts? For example, neither surviving manuscript of The Owl and the Nightingale provides punctuation of a kind expected by a modern reader (except very occasionally) and units of sense are generally marked quite naturally by the metrical structure. It is only reasonable that modern punctuation should be inserted by the editor of a medieval literary text, but the effect of this is that the edited text often makes syntactic links much more explicit than they are in the medieval copies. Thus, even punctuation is not just a matter of presentation, but also, potentially, an act of interpretation. Recent editors of medieval texts have generally agreed that the editor should be prepared to punctuate, but once intervention has begun, even at this fairly minimal level, it is impossible to claim that the text has been handled wholly "conservatively". The problem is that editorial conservatism is not a matter of a choice between various absolute principles (and fidelity to them), but a scale that stretches from an absolute conservatism at the one end (which could only be achieved in a facsimile---if at all), through changes to word-spacing, capitalization, punctuation, spelling-reforms of various kinds, morphological regularization, alterations in syntax---and so to the point, at the other end, at which the "edition" is not an "edition" at all, but a translation into modern English. The challenge is to determine the point along the scale of editorial intervention that yields the greatest gain, in terms of making the text accessible to a modern readership, in exchange for the smallest loss, in terms of fidelity to the presentation of its medieval copies.
ここで Cartlidge が吐露しているのは,(1) オリジナルの雰囲気や勢いを保持しつつも,(2) 現代の読者のためにテキストを読みやすく提示したい,という相反する要求の板挟みについてである.(1) のみを重視して,まったく手を入れないのであれば,写本をそのまま写真に撮ってファクシミリとして公開すればよく,校訂版を出す意味はない.また,(2) のみを重視するのであれば,極端な場合には意訳なり超訳なりに近づく.そこで,校訂版の存在意義を求めるのであれば,校訂者は (1) と (2) のあいだで妥当なバランスをとり,ある程度手を入れたテキストを提示する必要がある.だが,「ある程度」の程度によっては,たとえ句読法1つの挿入にすぎないとしても,それは校訂者の特定の解釈を読者に押しつけることになるかもしれないのである.校訂者によるほぼすべての介入が,文献学的な解釈の差異をもたらす可能性を含んでいる.
editing という作業は,テキストの presentation にとどまらず,すでに interpretation の領域へ1歩も2歩も踏み込んでいるということを,校訂版を利用する読者としても知っておく必要がある.
この問題と関連して,「#681. 刊本でなく写本を参照すべき6つの理由」 ([2011-03-09-1]) ,「#682. ファクシミリでなく写本を参照すべき5つの理由」 ([2011-03-10-1]) の記事を参照.
・ Cartlidge, Neil, ed. The Owl and the Nightingale. Exeter: U of Exeter P, 2001.
英語における大文字使用については,いくつかの観点から以下の記事で扱ってきた.
・ 「#583. ドイツ語式の名詞語頭の大文字使用は英語にもあった」 ([2010-12-01-1])
・ 「#1309. 大文字と小文字」 ([2012-11-26-1])
・ 「#1310. 現代英語の大文字使用の慣例」 ([2012-11-27-1])
・ 「#1844. ドイツ語式の名詞語頭の大文字使用は英語にもあった (2)」 ([2014-05-15-1])
語頭の大文字使用の問題について,塩田の論文を読んだ.現代英語の語頭の大文字使用には,「視覚の大文字化」と「意味の大文字化」とがあるという.視覚の大文字化とは,文頭や引用符の行頭に置かれる語の最初の文字を大文字にするものであり,該当する単語の品詞や語類は問わない.「大文字と大文字化される単語の機能の間に直接的なつながりがな」く,「文頭とか,行頭を示す座標としての意味しかもたない」 (47) .外的視覚映像の強調という役割である.
もう1つの意味の大文字化とは,語の内的意味構造に関わるものである.典型例は固有名詞の語頭大文字化であり,塩田はその特徴を「名詞の通念性」と表現している.意味論的には,この「通念性」をどうみるかが重要である.塩田 (48--49) の解釈と説明がすぐれているので,関係する箇所を引こう.
大文字化された名詞は自己の意味構造の一つである通念性を触発されて通念化する.名詞の意味構造の一つである通念性が大文字という形式を選んで具視化したと考えられる.ここが視覚の大文字化とは違う点である.名詞以外の品詞には大文字化を要求する内部からの意味的及び心理的要求が欠けている.
名詞は潜在的に様々な可能性を持っている.様々ある可能性の内,特に「通念」という可能性を現実化し,これをひき立てて,読者の眼前に強調してみせるのが大文字化の役割である.
しからばこの通念とはいかなる概念であるのであろうか.
通念は知的操作が加わる以前の名詞像である.耳からある言葉を聴いてすぐに心に浮ぶイメージが通念である.聴覚映像とも言えよう.したがって,知的,論理的に定義や規定を行う以前の原初的,前概念が通念である.
通念には二つの派生的性質がある.
第一に通念は名詞に何の操作も加えない極めて普遍的なイメージである.ラングとしての名詞の聴覚映像と呼ぶことが出来る.名詞の聴覚映像のうち万人に共通した部分を通念と呼ぶわけである.したがって名詞は,この通念の領域に属する限り,一言で,背景や状況を以心伝心の如く伝達することが出来る.名詞のうちによく人口に膾炙し,大衆伝達のゆきとどいているものほど一言で背景や状況を伝達する力は大きい.そこで,特に名詞の内広い通念性を獲得したものを Mass Communicated Sign MCS と呼ぶことにする.
MCS は一言で全てを伝達する.一言でわかるのだから,その「すべて」は必ずしも細やかで概念的に正確な内容ではなく,単純で直線的なインフォメーションに違いない.
第二に通念は MCS のように共通で同一のイメージを背景とした面を持っている.巾広い共通の含みが通念の命である.したがって通念の持つ含みは,個人的個別的であってはならない.個人にしかないなにかを伝達するには色々の説明や断わりが必要である.個人差や地方差が少なくなればなる程,通念としての適用範囲を増すし,純度も高くなる.したがって通念は常に個別差をなくす方向に動く.類と個の区別を意識的に排除し,類で個を表わしたり,部分で全体を代表させたりする.通念は個をこえて 類へ一般化する傾向がある.
通念の一般化や普遍化がすすむと,個有化絶対化にいたる.この傾向は人間心理に強い影響を及ぼす通念であるほど,強い.万人に影響を与えられたイメージは一本化され,集団の固有物となる.
以上をまとめると,通念には,大衆伝達性と,固有性という二つの幅があることになる.
通念の固有性という側面は,典型的には唯一無二の固有名詞がもつ特徴だが,個と類の混同により固有性が獲得される場合がある.例えば,Bible, Fortune, Heaven, Sea, World の類いである.これらは,英語文化圏の内部において,あたかも唯一無二の固有名詞そのものであるかのようにとらえられてきた語である.特定の文化や文脈において疑似固有名詞化した例といってもいい.曜日,月,季節,方位の名前なども,個と類の混同に基づき大文字化されるのである.同じく,th River, th Far East, the City などの地名や First Lady, President などの人を表す語句も同様である.ここには metonymy が作用している.
通念の大衆伝達性という側面を体現するのは,マスコミが流布する政治や社会現象に関する語句である.Communism, Parliament, the Constitution, Remember Pearl Harbor, Sex without Babies 等々.その時代を生きる者にとっては,これらの一言(そして大文字化を認識すること)だけで,その背景や文脈がただちに直接的に理解されるのである.
なお,一人称段数代名詞 I を常に大書する慣習は,「#91. なぜ一人称単数代名詞 I は大文字で書くか」 ([2009-07-27-1]) で明らかにしたように,意味の大文字化というよりは,むしろ視覚の大文字化の問題と考えるべきだろう.I の意味云々ではなく,単に視覚的に際立たせるための大文字化と考えるのが妥当だからだ.一般には縦棒 (minim) 1本では周囲の縦棒群に埋没して見分けが付きにくいということがいわれるが,縦棒1本で書かれるという側面よりも,ただ1文字で書かれる語であるという側面のほうが重要かもしれない.というのは,塩田の言うように「15世紀のマヌスクリプトを見るとやはり一文字しかない不定冠詞の a を大書している例があるからである」 (49) .
大文字化の話題と関連して,固有名詞化について「#1184. 固有名詞化 (1)」 ([2012-07-24-1]),「#1185. 固有名詞化 (2)」 ([2012-07-25-1]),「#2212. 固有名詞はシニフィエなきシニフィアンである」 ([2015-05-18-1]),「#2397. 固有名詞の性質と人名・地名」 ([2015-11-19-1]) を参照されたい.
・ 塩田 勉 「Capitalization について」『時事英語学研究』第6巻第1号,1967年.47--53頁.
昨日の記事「#2431. 書き言葉の自立性に関する Bolinger の議論」 ([2015-12-23-1]) で,Bolinger の視覚的形態素 (visual morpheme) という用語を出した.それによると,書記言語の一部には,音声言語を媒介しない直接的な表形態素性を示す事例があるという.Bolinger (335--38) は現代英語の正書法の綴字を題材として,いくつかの種類に分けて事例を紹介している.説明や例を,他からも補いながら解説しよう.
(1) 同音異綴語 (homonyms) .例えば,"Sea is an ocean and si is a tone, as you can readily see." という言葉遊びに見られるような例だ.ここでは文脈のヒントが与えられているが,3語が単体で発音されれば区別がつかない.しかし,書記言語においては3者は明確に区別される.したがって,これらは目に見える形で区別される形態素と呼んでよい.おもしろいところでは,"The big clock tolled (told) the hour." や "The danger is safely passed (past)." のように,単語対の使い分けがほとんど意味の違いに結びつかないような例もある.
(2) 綴字の意味発達 (semantic evolution of spellings) .本来的には同一の単語だが,綴字を異ならせることにより,意味・機能を若干違えるケースがある.let us と let's,good and と good などがその例である.gray と grey では,前者が She has lovely gray eyes. などのように肯定的に用いられる傾向があるのに対して,後者は It was a grey, gloomy day. などのように否定的に用いられるとも言われる.check/cheque, controller/comptroller, compliment/complement なども類例ととらえられるかもしれない.なお,Hall (17) は,この (2) の種類を綴字の "semantic representation" と呼んでおり,文学ジャンルとしての fantasy と幻想としての phantasy の違いや,Ye Olde Gifte Shoppe などにおける余剰的な final_e の効果に注目している (cf. 「#13. 英国のパブから ye が消えていくゆゆしき問題」 ([2009-05-11-2]),「#1428. ye = the」 ([2013-03-25-1])) .(1) と (2) の違いは,前者が homonymy で,後者が polysemy に対応すると考えればよいだろうか.
(3) 群集 (constellations) .ある一定の綴字をもつ語群が,偶然に共有する意味をもつとき,その綴字と意味が結びつけられるような場合に生じる.例えば,行為者接尾辞 (agentive suffix, subject suffix) の -or は,adjustor, auditor, chancellor, editor, mortgagor, sailor, settlor, tailor などに示唆されるように,-er に比べて専門性や威信の高さを含意するようである (see 「#1748. -er or -or」 ([2014-02-08-1])) .また,接尾辞 -y と -ie では,後者のほうが指小辞 (diminutive) としての性格が強いように感じられる.このような事例から,音声言語における phonaesthesia の書記言語版として "graphaesthesia" なる術語を作ってもよいのではないか.
(4) 視覚的な掛詞 (visual paronomasia) .視覚的な地口として,収税吏に宛てた手紙で City Haul であるとか,意図的な誤綴字として古めかしさを醸す The Compleat Military Expert など.「海賊複数の <z>」 ([2011-07-05-1]) や「#825. "pronunciation spelling"」 ([2011-07-31-1]) の例も参照.
(5) 綴字ではなく句読点 (punctuation) を利用するものもある.the dog's masters と the dogs' masters は互いに異なる意味を表わすし,the longest undiscovered vein と the longest-undiscovered vein も異なる.「#1772. greengrocer's apostrophe」 ([2014-03-04-1]) も,この種類に数えられるだろう.
以上の "visual morpheme" は,いずれも書記言語にのみ与えられている機能である.
・ Bolinger. "Visual Morphemes." Language 22 (1946): 333--40.
・ Hall, Robert A., Jr. "A Theory of Graphemics." Acta Linguistica 8 (1960): 13--20.
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