昨日の記事[2012-05-13-1]に引き続き,分かち書きの話し.日本語の通常の書き表わし方である漢字仮名交じり文では,普通,分かち書きは行なわない.昨日,べた書きは世界の文字をもつ言語のなかでは非常に稀だと述べたが,これは,漢字仮名交じり文について,分かち書きしない積極的な理由があるというよりは,分かち書きする必要がないという消極的な理由があるからである.
1つは,漢字仮名交じり文を構成する要素の1つである漢字は,本質的に表音文字ではなく表語文字である.仮名から視覚的に明確に区別される漢字1字あるいは連続した漢字列は,概ね語という統語単位を表わす.昨日述べた通り,語単位での区別は,書き言葉において是非とも確保したい syntagma marking であるが,漢字(列)は,その字形が仮名と明確に異なるという事実によって,すでに語単位での区別を可能にしている.あえて分かち書きという手段に訴える必要がないのである.漢字の表語効果は,表音文字である仮名と交じって書かれることによって一層ひきたてられているといえる.
もう1つは,日本語の統語的特徴として「自立語+付属語」が文節という単位を形成しているということがある(橋本文法に基づく文節という統語単位は,理論的な問題を含んでいるとはいえ,学校文法に取り入れられて広く知られており,日本語母語話者の直感に合うものである).そして,次の点が重要なのだが,自立語は概ね漢字(列)で表記され,付属語は概ね仮名で表記されるのが普通である.通常,文は複数の文節からなっているので,日本語の文を表記すれば,たいてい「漢字列+仮名列+漢字列+仮名列+漢字列+仮名列+漢字列+仮名列…….」となる.漢字仮名交じり文においては,仮名と漢字の字形が明確に異なっているという特徴を利用して,文節という統語的な区切りが瞬時に判別できるようになっているのだ.漢字仮名交じり文のこの特徴は,より親切に読み手に統語的区切りを示すために分かち書きする可能性を拒むものではないが,スペースを無駄遣いしてまで分かち書きすることを強制しない.
日本語の漢字仮名交じり文とべた書きとの間に,密接な関係のあることがわかるだろう.このことは,漢字使用の慣習が変化すれば,べた書きか分かち書きかという選択の問題が生じうることを含意する.戦後,漢字仮名交じり文において漢字使用が減り,仮名で書き表わされる割合が増えてきている.特に自立語に漢字が用いられる割合が少なくなれば,上述のような文節の区切りが自明でなくなり,べた書きのままでは syntagma marking 機能が確保されない状態に陥るかもしれない.そうなれば,分かち書き化の議論が生じる可能性も否定できない.例えば,29年ぶりに見直された2010年11月30日告示の改訂常用漢字表にしたがえば,「文書が改竄され捏造された」ではなく「文書が改ざんされねつ造された」と表記することが推奨される.しかし,後者は実に読みにくい.読点を入れ「文書が改ざんされ,ねつ造された」としたり,傍点を振るなどすれば読みやすくなるが,別の方法として「文書が 改ざんされ ねつ造された」と分かち書きする案もありうる.いずれにせよ,日本語の書き言葉は,syntagma marking を句読点に頼らざるを得ない状況へと徐々に移行しているようである.分かち書きは,純粋に文字論や表記体系の問題であるばかりではなく,読み書き能力や教育の問題とも関与しているのである.
なお,日本語表記に分かち書きが体系的に導入されたのは室町時代末のキリシタンのローマ字文献においてだが,後代には伝わらなかった.仮名の分かち書きの議論が盛んになったのは,明治期からである.現代では,かな文字文,ローマ字文において,それぞれ文節単位,語単位での分かち書きが提案されているが,正書法としては確立しているとはいえない.日本語の表記体系は,今なお,揺れ動いている.
分かち書きとは,読みやすさを考慮して,その言語の特定の統語形態的な単位(典型的には語や文節)で区切り,空白を置きながら書くことである.「分け書き」「分別書き」「付け離し」とも呼ばれ,世界のほとんどすべての言語の正書法に採用されている.対する「べた書き」は日本語や韓国語に見られ,日本語母語話者には当然のように思われているが,世界ではきわめて稀である.
では,日本語ではなぜ分かち書きをしないのだろうか.そして,例えば,英語ではなぜ分かち書きをするのだろうか.それは,表記に用いる文字の種類および性質の違いによる([2010-06-23-1]の記事「#422. 文字の種類」を参照).日本語では,表音文字(音節文字)である仮名と表語文字である漢字とを混在させた漢字仮名交じり文が普通に用いられるのに対して,英語は原則としてアルファベットという表音文字(音素文字)のみで表記される.この違いが決定的である.
説明を続ける前に,書き言葉の性質を確認しておこう.書き言葉の本質的な役割は話し言葉を写し取ることだが,写し取る過程で,話し言葉においては強勢,抑揚,休止などによって標示されていたような多くの言語機能が捨象される.話し言葉におけるこのような言語機能は,メッセージの受け手にとって,理解を助けてくれる大きなキューである.聞こえている音声の羅列に,形態的,統語的,意味的な秩序をもたらしてくれるキューである.別の言い方をすれば,話し言葉には,文の構造の理解にヒントを与えてくれる,様々な syntagma marker ([2011-12-29-1], [2011-12-30-1]) が含まれている.書き言葉は,話し言葉とは異なるメディアであり,寸分違わず写し取ることは不可能なので,話し言葉のもっている機能の多くを捨象せざるを得ない.どこまで再現し,どこから捨象するのかという程度は文字体系によって異なるが,最低限,特定の統語的単位の区切りは示すのが望ましい.それは,多くの場合,語という単位であり,ときには文節のような単位であることもあるが,いずれにせよ文字をもつほとんどの言語で,ある統語的単位の区切りが syntagma marking されている.
さて,表音文字のみで表記される英語を考えてみよう.語の区切りがなく,アルファベットがひたすら続いていたら,さぞかし読みにくいだろう.書き手は頭の中にある統語構造を連続的に書き取っていけばよいだけなので楽だろうが,読み手は連続した文字列を自力で統語的単位に分解してゆく必要があるだろう.読み手を考慮すれば,特定の統語的単位(典型的には語)ごとに区切りをつけながら書いてゆくのが理に適っている.その方法はいくつか考えられる.各語を枠でくくるという方法もあるだろうし,(中世の英語写本にも実際に見られるように)語と語の間に縦線を入れるという方法もあるだろう.しかし,なんといっても簡便なのは,空白で区切ることである.これは話し言葉の休止にも相似し,直感的でもある.したがって,表音文字のみで表記される書き言葉では,分かち書きは syntagma marking を確保する最も普通のやり方なのである.
同じことは,日本語の仮名書きについても言える.漢字を用いず,平仮名か片仮名のいずれかだけで書かれる文章を考えてみよう.小学校一年生の入学当初,国語の教科書の文章は平仮名書きである.ちょうど娘がその時期なので光村図書の教科書「こくご 一上」の最初のページを開いてみると次のようにある.
はる
はるの はな
さいた
あさの ひかり
????????????
?????壔?????
?????壔?????
みんな ともだち
いちねんせい
一種の詩だからということもあるが,空白と改行を組み合わせた,文節区切りの分かち書きが実践されている(初期の国定教科書では語単位の分かち書きだったが,以後,現在の検定教科書に至るまで文節主義が採用されている).これがなければ「はるのはなさいたあさのひかりきらきらおはようおはようみんなともだちいちねんせい」となり,ひどく読みにくい.そういえば,娘が初めて覚え立ての平仮名で文を書いたときに,分かち書きも句読点もなしに(すなわち読み手への考慮なしに),ひたすら頭の中にある話し言葉を平仮名に連続的に書き取っていたことを思い出す.ピリオド,カンマ,句点,読点などの句読法 (punctuation) の役割も,分かち書きと同じように,syntagma marking を確保することであることがわかる.
日本語を音素文字であるローマ字で書く場合も,仮名の場合と同様である.海外から日本に電子メールを送るとき,PCが日本語対応でない場合にローマ字書きせざるを得ない状況は今でもある.その際には,語単位あるいは文節単位で日本語を区切りながら書かないと,読み手にとって相当に負担がかかる.いずれの単位で区切るかは方針の問題であり,日本語の正書法としては確立していない.
それでは,日本語を書き表わす通常のやり方である漢字仮名交じり文では,どのように状況が異なるのか.明日の記事で.
英語と日本語の語彙史は,特に借用語の種類,規模,受容された時代という点でしばしば比較される.語彙借用の歴史に似ている点が多く,その顕著な現われとして両言語に共通する三層構造があることは [2010-03-27-1], [2010-03-28-1] の両記事で触れた.
英語語彙の最上層にあたるラテン語,ギリシア語がおびただしく英語に流入したのは,語初期近代英語の時代,英国ルネッサンス (Renaissance) 期のことである(「#114. 初期近代英語の借用語の起源と割合」 ([2009-08-19-1]) , 「#478. 初期近代英語期に湯水のように借りられては捨てられたラテン語」 ([2010-08-18-1]) を参照).思想や科学など文化の多くの側面において新しい知識が爆発的に増えるとともに,それを表現する新しい語彙が必要とされたことが,大量借用の直接の理由である.そこへ,ラテン語,ギリシア語の旺盛な造語力という言語的な特徴と,踏み固められた古典語への憧れという心理的な要素とが相俟って,かつての中英語期のフランス語借用を規模の点でしのぐほどの借用熱が生じた.
ひるがえって日本語における洋語の借用史を振り返ってみると,大きな波が3つあった.1つ目は16--17世紀のポルトガル語,スペイン語,オランダ語からの借用,2つ目は幕末から明治期の英独仏伊露の各言語からの借用,3つ目は戦後の主として英語からの借用である.いずれの借用も,当時の日本にとって刺激的だった文化接触の直接の結果である.
英国のルネッサンスと日本の文明開化とは,文化の革新と新知識の増大という点でよく似ており,文化史という観点からは,初期近代英語のラテン語,ギリシア語借用と明治日本の英語借用とを結びつけて考えることができそうだ.しかし,語彙借用の実際を比べてみると,初期近代英語の状況は,明治日本とではなく,むしろ戦後日本の状況に近い.明治期の英語語彙借用は,英語の語形を日本語風にして取り入れる通常の意味での借用もありはしたが,多くは漢熟語による翻訳語という形で受容したのが特徴的である.「#901. 借用の分類」 ([2011-10-15-1]) で示した借用のタイプでいえば,importation ではなく substitution が主であったといえるだろう(関連して,##902,903 も参照).また,翻訳語も含めた英語借用の規模はそれほど大きくもなかった.一方,戦後日本の英語借用の方法は,そのままカタカナ語として受容する importation が主であった.また,借用の規模も前時代に比べて著大である.したがって,借用の方法と規模という観点からは,英国ルネッサンスの状況は戦後日本の状況に近いといえる.
中村 (60--61) は,「文芸復興期に英語が社会的に優勢なロマンス語諸語と接触して,一時的にヌエ的な人間を生み出しながら,結局は,ロマンス語を英語の中に取り込んで英語の一部にし得た」と,初期近代英語の借用事情を価値観を込めて解釈しているが,これを戦後日本の借用事情へ読み替えると「戦後に日本語が社会的に優勢な英語と接触して,一時的にヌエ的な人間を生み出しながら,結局は,英語を日本語の中に取り込んで日本語の一部にし得た」ということになる.仮に文頭の「戦後」を「明治期」に書き換えると主張が弱まるように感じるが,そのように感じられるのは,両時代の借用の方法と規模が異なるからではないだろうか.あるいは,「ヌエ的」という価値のこもった表現に引きずられて,私がそのように感じているだけかもしれないが.
価値観ということでいえば,中村氏の著は,英語帝国主義に抗する立場から書かれた,価値観の強くこもった英語史である.主として近代の外面史を扱っており,言語記述重視の英語史とは一線を画している.反英語帝国主義の強い口調で語られており,上述の「ヌエ的」という表現も著者のお気に入りらしく,おもしろい.展開されている主張には賛否あるだろうが,非英語母語話者が英語史を綴ることの意味について深く考えさせられる一冊である.
・ 中村 敬 『英語はどんな言語か 英語の社会的特性』 三省堂,1989年.
昨日の記事[2012-03-13-1]では,日本語史資料の種類を拠り所にして,英語史資料の種類を考えた.昨日参照した佐藤では,日本語史資料を,記録・伝承上の形式という観点からも分類している (17) .概ね英語史の資料にもあてはまる分類と思われるので,引用しよう.
(1) 文字言語資料(文献資料)
(ア)金石文 ─┬─ 口語的要素を投影する程度は文献
(イ)書籍(文書・典籍) ─┘ の性格によってさまざまである.
(2) 音声言語資料
(ウ)方言
(エ)謡物類(謡物・語り物など)
(オ)録音資料
(ア)は,英語史ではルーン文字等で刻まれた碑文などが相当するだろうか.The Ruthwell Cross (8世紀初頭;The Dream of the Rood の断片を記す)や The Franks Casket (ca. 650--700) などが有名である.量としては必ずしも多くないが,成立時のものが現存する一等資料が多く,貴重である.関連して,「#572. 現存する最古の英文」 ([2010-11-20-1]) を参照.
(イ)は,従来の英語史資料の大部分を占めるが,中世の写本では筆記者自身による原本 (autograph) が伝存しているものは稀であり,言語研究の資料として用いるには,文献学,書誌学,本文批判の手続きを経るなど,細心の注意が必要である.関連して,「#681. 刊本でなく写本を参照すべき6つの理由」 ([2011-03-09-1]) ,「#682. ファクシミリでなく写本を参照すべき5つの理由」 ([2011-03-10-1]) ,「#730. 写本文化の textual transmission」 ([2011-04-27-1]) の記事を参照.
現代の方言により過去の言語の姿を推定する(ウ)や,謡物に残る古語を拾い出す(エ)は,それぞれの保守性と伝承性を利用する方法だが,どの時代の言語を反映しているのかが必ずしも明らかでない場合があり,(イ)の補足として利用されるべき資料だろう.
(オ)の録音資料は,録音機器が発明されて以降の時代に限られるが,発音資料としてのほか談話資料としても価値がある.
・ 佐藤 武義 編著 『概説 日本語の歴史』 朝倉書店,1995年.
日本語の漢字という文字体系がもつ,極めて特異な性質の1つに,音読みと訓読みの共存がある.多くの漢字が,音と訓というまったく異なる発音に対応しており,場合によっては音読みには呉音,漢音,唐宋音(例として,脚気,脚本,行脚)が区別され,訓読みにも熟字訓などを含め複数の読みが対応することがある.1つの文字に互いに関連しない複数の音形があてがわれているような文字体系は,世界広しといえども,現代では日本語の漢字くらいしかない.歴史を遡れば,シュメール語 (Sumerian) の楔形文字にも漢字の音と訓に相当する2種類の読みが認められたが,いずれにせよ非常に珍しい文字体系であることは間違いない.
しかし,この漢字の特異性は,音と訓が体系的に備わっているという点にあるのであって,散発的にであれば英語にも似たような綴字と発音の関係がみられる.それは,ラテン語の語句をそのままの綴字あるいは省略された綴字で借用した場合で,(1) ラテン語として発音するか頭字語 (acronym) として発音する(概ね音読みに相当),あるいは (2) 英語へ読み下して(翻訳して)発音するか(訓読みに相当)で揺れが認められることがある.具体例を見るのが早い.以下,鈴木 (146--48) に補足して例を挙げる.
表記(綴字) | ラテン語(音読み) | 英語読み下し(訓読み) |
cf. | confer, /siː ˈɛf/ | (compare) |
e.g. | exempli gratia, /iː ˈʤiː/ | for example |
etc. | et cetera, /ˌɛt ˈsɛtərə/ | and so on |
i.e. | id est, /ˌaɪ ˈiː/ | that is |
viz. | videlicet, /vɪz/ | namely |
vs. | versus, /ˈvɜːsəs/ | against |
表記(綴字) | ラテン語(音読み) | 仏語読み下し(訓読み) |
1o | primo /primo/ | premièrement |
2o | secundo /səgɔ̃do/ | deuxièmement |
3o | tertio /tɛrsjo/ | troisièmement |
id. | idem /idɛm/ | la même |
N.B. | nota bene /nɔta bene/ | note bien |
op. cit. | opere citato | à l'ouvrage cité |
日本語で敬語表現が発達していることはよく知られているが,それとの対比で,英語には敬語表現がないと錯覚している人も少なくない.昨日の記事「#1033. 日本語の敬語とヨーロッパ諸語の T/V distinction」 ([2012-02-24-1]) の最後に触れた通り,敬語表現のあり方こそ,日本語型と非日本語型といった区別が認められるかもしれないが,何かしらの敬語表現をもたない言語というものは考えられない.言語を使用する人間どうしのあいだに敬意という感情がある限り,それは言語表現の上に,精粗はあるにせよ,何らかの形で反映するはずである.現代英語にもれっきとして敬語表現が存在する.
ただし,英語は,敬語のあり方としては非日本語型であり,「敬語的表現のための専用言語要素を持たないか,持っていても数がすくなく,むしろ一般的な言語要素の用法に依存するか,あるいは非言語表現を用いる」(南,p. 37) というタイプの言語である.南 (45--49) は,大杉邦三(『英語の敬意表現』 大修館,1982年)の分類を参照しながら,英語における種々の敬語表現(より適格には,敬意を示す言語的手段というべきか)を次のように紹介している.
(1) 言語的表現.使用する言語的要素を選ぶことにより敬意を示す.Please comment on that. の代わりに,Would you comment on that? あるいは I wonder if you would care to comment on that. と述べる,など.(これは,communicative grammar などで強調される敬意の段階差である.)
(2) 論理的敬意表現.断わったり礼を述べたりするのに,論理的に納得させるだけの根拠を提示して表現すること.(英語では日本語よりも,この手段に訴える機会が多いように思われる.)
(3) 心理的敬意表現.相手の心情を察する表現を用いる.I'm sorry ... や I'm afraid ... など.
(4) 倫理的敬意表現.英語では比較的珍しく敬意を表わす専門言語要素として,尊称や敬称がある([2010-07-11-1]の記事「#440. 現代に残る敬称の you」を参照).ほかには,Mr. Smith and I など,1人称代名詞を後置する語法などもこれに含まれる.I'm sorry, Excuse me, I beg your pardon などの謝りことばもある.
(5) 配慮的敬意表現.尊敬,称賛,祝福,同情,理解,弔慰など.Please accept my sincere congratulations on your marriage. など.
(6) 遠慮的敬意表現.いわゆる謙譲表現のことで,日本語に比べて少ないものの,あることはある.This is only my personal opinion, but ... や You may be right, but I think you're mistaken. など.(5) と (6) の境は微妙である.
(7) 強調的敬意表現.相手の立場などを強調することによって敬意を表わす.例えば,相手のことについて,I am sure ... や I can assure you ... などを用いる.
(8) 弱調的敬意表現.(7) の逆で,控えめに表現することは英語にもある.You're mistaken. ではストレートすぎるので,I think you're mistaken. や I would think you're mistaken. や I should have thought you're mistaken. などと弱調的に述べる.
(9) 直接的敬意表現.明示的に祝福,尊敬,歓迎,感謝,謝罪を述べるもの.I wish to express my deep appreciation to Professor Smith for his kind invitation. など.
(10) 間接的敬意表現.賞賛や非難を婉曲的に表現するもの.This is a terrible man. ではどぎついので,I'm afraid he is not a very nice person. などと表現する.あるいは,What's your name? と直接きかずに,May I have your name, please? と尋ねる.
上記の項目の多くは相互に密接に関わっており,この分類が最良がどうかはわからない.しかし,敬意を表わす専門の語句や文法は備わっていないものの,英語にも敬意を示す言語的手段はしっかりと準備されていることがよくわかる.(1) で示したような命令や依頼の表現も,実のところ,日本語に比べてヴァリエーションは豊富だという.むしろ,日本語では,相手や場面ごとに使用すべき専門敬語表現の種類がある程度決まっているために,それを超えるヴァリエーションは生まれにくいのかもしれない.これを指して,日本語の敬語表現は体系的,あるいはマニュアル的であると評することもできるだろう.
(a) ある言語に敬意を示す手段がどのくらい体系的に備わっているかという問題と,(b) その言語を用いてどのような敬意をどのくらい表現できるかという問題は,同じではない.この観点から,日本語が敬語表現に長けた特異な言語であるという,巷によく聞かれる評が妥当なのかかどうか,改めて考えなおす必要がある.(a) の点ですら,通言語的には日本語と同じくらい,いやそれ以上に敬語体系の発達した言語があることは知られるようになってきた.韓国・朝鮮語,ベトナム語,チベット語,ヒンディー語,ベンガル語,そしてとりわけジャワ語の敬語体系の複雑さが知られている.アジアの言語に偏っていること自体は興味深い.
・ 南 不二男 『敬語』 岩波書店,1987年.
世界の言語における敬語(ここでは,狭い意味での,専門言語要素を用いた敬譲・丁寧表現を指す)の分類は様々になされているが,ネウストプニー氏による,相手敬語(対者敬語)と登場人物敬語(素材敬語)の2種類の分布による分類がある(南,pp. 34--36 参照.出典は,ネウストプニー,J. V. 「世界の敬語---敬語は日本語だけのものではない---」 『敬語講座8 世界の敬語』 林 四郎・南 不二男 編,明治書院,1974年.) .これは,一方で日本語のよく発達した敬語体系を,他方で中英語,現代フランス語,現代ドイツ語などにみられる T/V distinction などの比較的単純な敬語体系(実際の使い分けは精妙だが)を区別するのにも,ある程度は役に立つ分類である.
日本語は「○○がいらっしゃった」 (A),「○○がいらっしゃいました」 (B),「○○が来ました」 (C) ,さらにはそのいずれからも外れた「○○が来た」も含めて,素材敬語と対者敬語のありとあらゆる組み合わせが可能である.
一方,例えば現代フランス語では,Tu es vené venu (おまえは来た)と Vous êtes vené venu (あなたはいらっしゃった)といった対立が見られるものの,この T/V の対立は,聞き手に対して(対者),聞き手自身を指す2人称単数代名詞(素材)を用いる場合にしか生じない.Vous が素材敬語 (A) なのか対者敬語 (C) なのか,あるいは両者を兼ねているのか (B) は判然としないが,たとえ B だとしても,2人称単数代名詞に限られるという条件つきの敬語表現にすぎない.
英語では「#167. 世界の言語の T/V distinction」 ([2009-10-11-1]) や「#185. 英語史とドイツ語史における T/V distinction」 ([2009-10-29-1]) で見たように,近代英語期以降,T/V distinction すら失っており,現在ではこの図に関与すらしない.しかし,[2010-07-11-1]の記事「#440. 現代に残る敬称の you」で挙げたように Your Majesty のような称号は敬語表現として残っている.3人称単数として Her Majesty などとも言えるので,これは A や B に属する素材敬語の一種といえるだろう.
なお,世界の言語を見渡すと,A か C のいずれかの敬語タイプしかもたない言語はほとんどないという.
ネウストプニー氏の分類に代えて,南 (37) は「敬語的表現のための,多くの専用の言語要素を持ち,しかもそれがはっきりした組織をもっている」日本語型の言語と「敬語的表現のための専用言語要素を持たないか,持っていても数がすくなく,むしろ一般的な言語要素の用法に依存するか,あるいは非言語表現を用いる」非日本語型の言語とを区別することを提案している.
通言語的な敬語モデルに照らすと,日本語と英語が対蹠的であることは確かだ.
・ 南 不二男 『敬語』 岩波書店,1987年.
この2日間の記事 ([2012-02-20-1], [2012-02-21-1]) で,イングランドにおける現代英語方言区分の概略を示したが,イングランドは相当に細かく区分されていることを改めて思い知らされた.
イングランドの国土は比較的狭いにもかかわらず,方言がこれほどまでに分化したことは,国土は広いが言語的には同質的とされるアメリカ英語と好対照をなす.アメリカでは,「#591. アメリカ英語が一様である理由」 ([2010-12-09-1]) や「#457. アメリカ英語の方言区分( Kurath 版)」 ([2010-07-28-1]) で話題にした通り,方言区分はずっと粗い.両者の差異は,英語が根付くことになった経緯,歴史の長さ,交通の発達,規範に対する意識など,様々な要因に帰せられる.
しかし,程度の差はあれ,方言の分化は言語にとって普遍的だ.イングランド同様に国土が狭いとされる日本の方言状況を顧みれば,よく理解できる.以下は,佐藤 (167) の方言区画図を再現したものである.
*
日本語を2分する大分水嶺は,本土方言と琉球方言のあいだの海のなかだが,次に大きな分水嶺は本州の東と西を分ける線だろう.新潟県の糸魚川と静岡県の浜名湖を結ぶ,くの字の線だ.明治政府の『口語法調査報告書』によると,「假ニ全國ノ言語區域ヲ東西ニ分タントスル時ハ大略越中飛彈美濃三河ノ東境ニ沿ヒテ其境界線ヲ引キ此線以東ヲ西部方言トスルコトヲ得ルガ如シ」とある(佐藤,p. 169--71).
・ 佐藤 武義(編著) 『展望 現代の日本語』 白帝社,1996年.
日本語のコップとカップはどう違うか.『類義語使い分け辞典』によると,コップは,ガラス,プラスチック,金属製の冷たい飲み用の円筒形容器で,取っ手がない.一方,カップは陶磁製の熱い飲み物の容器で,取っ手がついている.前者の容量は200ccくらい,後者は250ccくらいというから,ここまで厳密に区別されていたのかと感心した.
以上は各語の指示対象の外見や用途の違いだが,語それ自体の違いはといえば,コップはオランダ語 kop に由来し,カップは英語 cup に由来する語である.コップは18世紀にすでに見られ,日本語に借用されて古い語である.
オランダ語 kop と英語 cup はもちろん同根語 (cognate) で,ラテン語 cūpa "vat, tub, cask" に遡る.これが両言語に借用され別々の語形で行なわれていたものが,そのまま日本語へ別々に借用され,意味を違えて定着したものである.
コップとカップのように,語源的には同根に遡るが,異なる借用元言語から別々に借用されて,異なる形態と意味をもって共存しているペアのことを2重語 (doublet) と呼ぶ.日本語で定着した2重語としては,ほかに,ゴムとガムがある.ゴムはオランダ語 gom から,ガム gum は英語から借用した語である.ポルトガル語 bolo のボーロと,英語 ball のボールも類例だ.また,3重語の例として,ポルトガル語 carta からのカルタ,英語 card からのカード,ドイツ語 Karte からのカルテが挙げられる.
さて,英語における2重語,3重語の例は,doublet の各記事で取り上げているのでそちらを見ていただくとして,日本語のコップとカップ,英語の regard と reward ([2009-07-13-1]) 及び ration と reason ([2011-11-27-1]) との関係を図示してみよう.
借用元言語のペアは,第1例のオランダ語と英語では姉妹語どうしの関係,第2例の中央フランス語とノルマン・フランス語では方言どうしの関係,第3例のラテン語とフランス語では母娘の関係であり,それぞれ異なっている.しかし,受け入れ側の言語にしてみれば,そのような系統関係はどうでもよい.後世の人間が調べてみたら,たまたまそのような関係にある2つの言語から借用したのだとわかる,という話しである.しかし,私たちのような後世の人間にとっては,こうした例は言語史や文化史の観点から実に興味深い.言語と文化の接触の歴史を雄弁に物語る例だからである.
[2012-02-12-1]の記事「#1021. 英語と日本語の音素の種類と数」では,音素という単位で両言語の一覧を掲げたが,音節という単位ではどうだろうか.今回は,日本語の拍の一覧表を示したい.以下,出典は金田一 (90) .
a | i | u | e | o | ja | ju | jo | (je) | wa | (wi) | (we) | wo |
ha | hi | hu | he | ho | hja | hju | hjo | (hje) | (hwa) | (hwi) | (hwe) | (hwo) |
ga | gi | gu | ge | go | gja | gju | gjo | (gwa) | ||||
ka | ki | ku | ke | ko | kja | kju | kjo | (kwa) | ||||
ŋa | ŋi | ŋu | ŋe | ŋo | ŋja | ŋju | ŋjo | |||||
da | (di) | (du) | de | do | (dju) | |||||||
ta | (ti) | (tu) | te | to | (tju) | |||||||
na | ni | nu | ne | no | nja | nju | njo | |||||
ba | bi | bu | be | bo | bja | bju | bjo | |||||
pa | pi | pu | pe | po | pja | pju | pjo | |||||
ma | mi | mu | me | mo | mja | mju | mjo | |||||
za | zi | zu | ze | zo | zja | zju | zjo | (zje) | ||||
sa | si | su | se | so | sja | sju | sjo | (sje) | ||||
(ca) | ci | cu | (ce) | (co) | cja | cju | cjo | (cje) | ||||
ra | ri | ru | re | ro | rja | rju | rjo | |||||
N | T | R |
ある言語の音素一覧は,構造言語学の手法にのっとり,最小対語 (minimal pair) を取り出してゆくことによって作成できることになっている.しかし,その言語のどの変種を対象にするか(英語であれば BrE か AmE かなど),どの音韻理論に基づくかなどによって,様々な音素一覧がある.ただし,ほとんどが細部の違いなので,標題のように英語と日本語を比較する目的には,どの一覧を用いても大きな差はない.以下では,英語の音素一覧には,Gimson (Gimson, A. C. An Introduction to the Pronunciation of English. 1st ed. London: Edward Arnold, 1962.) に基づいた Crystal (237, 242) を参照し,日本語には金田一 (96) を参照した.英語はイギリス英語の容認発音 (RP) を,日本語は全国共通語を対象としている.
英語の音素一覧(20母音+24子音=44音素):
/iː/, /ɪ/, /e/, /æ/, /ʌ/, /ɑː/, /ɒ/, /ɔː/, /ʊ/, /uː/, /ɜː/, /ə/, /eɪ/, /aɪ/, /ɔɪ/, /əʊ/, /aʊ, ɑʊ/, /ɪə/, /eə/, /ʊə/; /p/, /b/, /t/, /d/, /k/, /g/, /ʧ/, /ʤ/, /f/, /v/, /θ/, /ð/, /s/, /z/, /ʃ/, /ʒ/, /h/, /m/, /n/, /ŋ/, /l/, /r/, /w/, /j/
日本語の音素一覧(5母音+16子音+3特殊音素=24音素):
/a/, /i/, /u/, /e/, /o/; /j/, /w/; /k/, /s/, /c/, /t/, /n/, /h/, /m/, /r/, /g/, /ŋ/, /z/, /d/, /b/, /p/; /N/, /T/, /R/
実際には多くの言語の音素一覧を比較すべきだろうが,この音素一覧からだけでもそれぞれの言語音の特徴をある程度は読み取ることができる.以下に情報を付け加えながらコメントする.
・ 母音について,英語は20音素,日本語は5音素と開きがあるが,5母音体系は世界でもっとも普通である.もっと少ないものでは,アラビア語,タガログ語,日本語の琉球方言の3母音,黒海東岸で話されていたウビフ語の2母音という体系がある.日本語では,古代は4母音,上代は8母音と通時的に変化してきた.
・ 子音について,英語は24音素,日本語は16音素で,日本語が比較的少ない.少ないものでは,ハワイ語の8子音,ブーゲンビル島の中部のロトカス語の6子音,多いものでは先に挙げたウビフ語の80子音という驚くべき体系がある.
・ 日本語には摩擦音が少ない./z/ は現代共通語では [dz] と破擦音で実現されるのが普通.また,上代では /h/, /s/ はそれぞれ /p/, /ts/ だったと思われ,摩擦音がまったくなかった可能性がある.一方,英語では摩擦音が充実している.
・ 日本語では,通時的な唇音退化 (delabialisation) を経て,唇音が少ない.後舌高母音も非円唇の [ɯ] で実現される(ただし近年は円唇の調音もおこなわれる).
日本語母語話者にとって英語の発音が難しく感じられる点については,「#268. 現代英語の Liabilities 再訪」 ([2010-01-20-1]) と「#293. 言語の難易度は測れるか」 ([2010-02-14-1]) で簡単に触れた.
(英語)音声学の基礎に関する図表には,以下を参照.
・ 「#19. 母音四辺形」: [2009-05-17-1]
・ 「#118. 母音四辺形ならぬ母音六面体」: [2009-08-23-1]
・ 「#31. 現代英語の子音の音素」: [2009-05-29-1]
・ Crystal, David. The English Language. 2nd ed. London: Penguin, 2002.
・ 金田一 春彦 『日本語 新版(上)』 岩波書店,1988年.
昨日の記事「#1017. par の派生語」 ([2012-02-08-1]) の続き.昨日の記事では,ラテン語 par から派生し,英語へ借用された語に通底する原義は,印欧語根 *perə- "to allot" に想定される「割り当てる,あてがう」であるというところまで述べた.
意味の発展と語の派生という点で par と瓜二つなのが,日本語の「あてる」だ.さらに語根へと還元すれば,「あた(あだ)」となる.大野 (146) の語根表より,"ata" の部分を引用しよう.
ata | (敵) |
ata-Fi | (値) |
ata-Fë | (与) |
ata-kamö | (恰) |
ata-ra | (惜) |
ata-rasi | (惜) |
ata-ri | (当・辺) |
ate | (当) |
[2012-01-29-1]の記事「#1007. Veldt jynx grimps waqf zho buck.」で,アルファベットの26字母すべてを用いて文を作る pangram ということば遊びを紹介した.
その記事で,よく知られたものとして,タイピストがタイプ確認に利用したという The quick brown fox jumps over the lazy dog. を紹介したが,この pangram とその亜種は,現在,通信業界で "fox message" (FOXメッセージ)と呼ばれており,通信テストのために利用されているというから,pangram は単なることば遊びである以上に,実用性も兼ね備えているというべきだろう.
pangram という語は,pan "all" + gram "letter" というギリシア語の combining form を組み合わせた neo-classical compound で,1933年が初出と新しいが,遊びそのものは古く,OED の "pangram" のもとに引用されている Medium Ævum からの例文を(文脈なしではあるが)一瞥したかぎりでは,13世紀よりずっと以前にさかのぼるようだ.
英語の pangram の例について,『学研 日本語知識辞典』のミニ知識欄「英語版いろは歌」で新たに見つけたものを,以下に挙げておきたい.
The five boxing wizards jump quickly. (5人のボクシングの魔術師がすばやくジャンプする)
Mr. Jock, TV quiz Ph.D., bags few lynx. (テレビのクイズ博士ジョック氏は山猫をほとんど袋に入れない)
Quick wafting zephyrs vex bold Jim. (さやさやとそよぐそよ風が,大胆なジムを苛立たせる)
Waltz, nymph, for quick jigs vex Bud. (ワルツになさい,乙女よ,速いジグだとバドが苛立つから)
日本語のいろは歌については,[2012-01-27-1]の記事「#1005. 平仮名による最古の「いろは歌」が発見された」で触れたが,いろは歌に先行する,同じく47字の「たゐに歌」を紹介しよう.
たゐにいでなつむわれをぞきみめすとあさりおひゆくやましろのうちゑへるこらもはほせよえふねかけぬ
(田居に出で菜摘む我をぞ君召すと 求食り追ひ行く山城の 打酔へる子ら藻は干せよ え舟繋けぬ)
「たゐに歌」にさらに先行する平安初期の「あめつちの詞」についても触れておく.当時はまだ [e] と [je] が区別されており,47字ではなく48字からなる pangram だ.後半の「えのえお」の2つめの「え」は [je] を表わしたと考えられる.
あめ(天)つち(地)ほし(星)そら(空)やま(山)かは(川)みね(峰)たに(谷)くも(雲)きり(霧)むろ(室)こけ(苔)ひと(人)いぬ(犬)うへ(上)すゑ(末)ゆわ(硫黄)さる(猿)おふせよ(生ふせよ)えのえを(榎の枝を)なれゐて(馴れ居て)
また,『学研 日本語知識辞典』によると,明治時代に新聞「万朝報」が新いろは歌を募集したところ,「とりな歌」なる次のものが選ばれたという.
とりなくこゑすゆめさませみよあけわたるひんかしをそらいろはえておきつへにほふねむれゐぬもやのうち[ 固定リンク | 印刷用ページ ]
(鳥鳴く声す 夢覚ませ 見よ明けわたる 東を 空色栄えて 沖つ辺に 帆船群れゐぬ 靄の中)
[2012-01-27-1]の記事「#1005. 平仮名による最古の「いろは歌」が発見された」で,いろは歌のもつ日本語音韻史上の意義に触れた.中古後半より,48字の「あめつちの詞」に代わって47字の「太為仁歌」や「いろは歌」が受け入れられてきたという事実は,この頃までに [e] と [je] の音韻上の対立が解消されていたことを強く示唆する.しかし,このように論じられるのは,ある一つの前提を無条件に受け入れているからにすぎない.この前提が崩れれば,上の推論も成り立たない.
その前提とは,いろは歌が,当時の日本語の主要な音韻に対応する仮名のすべてを一度ずつ用いて意味のある文章を組み立てなければならない,というルールに基づいたことば遊びであるという点だ.あくまで過去のことば遊びのルールはこうだったに違いないという前提のもとにいろは歌を解釈すると,過去の音韻はこうだったのではないか,と推論しているにすぎない.しかし,ことば遊びもルールが厳格であればあるほど,それを乗り越えて完成された作品は高く称賛されるはずであり,後代のいろは歌の普及は,当時のくだんのルールの存在を支持していると考えられる.
ところで,文字一覧のすべての要素を用いて文章を作るということば遊びは,英語でも知られている.pangram と呼ばれることば遊びで,"A sentence or series of words that contains all the letters of the alphabet. The ideal pangram contains each letter only once, but it is difficult to compose a meaningful sentence of this kind." (McArthur 744) と説明される.有名な例としては,タイピストが各文字を確かめるために打ったという The quick brown fox jumps over the lazy dog. という伝統的な pangram があるが,文字の重複がある.ほかに26文字きっかりの力作としては Quiz my black Whigs---export fund. や Blowzy night-frumps vex'd Jack Q. というものもある.さらに,辞書なしではほとんど意味の取れない1984年の労作として,標題の Veldt jynx grimps waqf zho buck. (草原アリスイ(鳥)が(イスラム教の)寄付の雄ゾー(ヤクとウシの雑種)を引き上げる)がある (Crystal, English 118) .
なお,フランス語での最短の pangram として,Whisky vert: jugez cinq fox d'aplomb. (緑のウィスキーよ,好調な5匹のフォックステリアを裁け)という作品がある (Crystal, Encyclopedia 65) .
この点,いろは歌は,涅槃経第十四聖行品の偈の「諸行無常,是生滅法,生滅滅已,寂滅為楽」の意訳とされ,内容からもできの良い作品といえる.ことば遊びでありながら,韻律や含蓄にもすぐれ,なおかつ文字の順序を表わす実用的な役割も兼ねてきたとあって,文化史上の偉大な発明だったことがわかる.
・ McArthur, Tom, ed. The Oxford Companion to the English Language. Oxford: OUP, 1992.
・ Crystal, David. The English Language. 2nd ed. London: Penguin, 2002.
・ Crystal, David. The Cambridge Encyclopedia of Language. 2nd ed. Cambridge: CUP, 1997. 199--205.
1月18日の新聞記事で知ったのだが,三重県明和町にある斎宮跡から,平仮名で「いろは歌」の墨書された土師器が出土した.11世紀末から12世紀前半のものとされ,いろは歌で平仮名書きされたものとしては最古である.平安時代からは,万葉仮名や片仮名で記されたものは出土していたが,平仮名のものはいまだ発見されていなかった.これまでの平仮名いろはの最古は,岩手県平泉町の志羅山遺跡から出土した12世紀後半の木簡に記されたものだった.
筆跡が繊細で,平凡な土器の両面に書かれており,女官の生活場所と目されるところから出土したことから,斎王(天皇の代わりに伊勢神宮に仕えた皇女)の女官が習書したものと考えられる.いろは歌が都から斎宮へいち早く伝えられ,比較的身分の低い地元出身の女官までがいろは歌を学んでいたとすれば,当時のいろは歌の普及の程度が推し量れることになり,貴重な史料となる.なお,12世紀半ばには都の子供は教養の一部としていろは歌で手習いをしていたとされている.
この土器の出土について,詳しくは,斎宮歴史博物館による記事「斎宮跡から日本最古の「いろは歌」平仮名墨書土器が出土しました!」,あるいはGoogle News による記事リストを参照.
「いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむうゐのおくやまけふこえてあさきゆめみしゑひもせす」の47文字からなるいろは歌は,手習い歌のほか,辞書などで順序を表わすのにも長く用いられ(平安末期,橘忠兼の「色葉字類抄」はいろは順で編まれた最初の辞書),昭和の初めまで習字の手本ともされていた.文献上の初出は,1079年の仏教経典「金光明最勝王経音義」の巻頭部分で,万葉仮名と片仮名で書かれている.成立年代は,今回の土器より約1世紀早く,10世紀末から11世紀中頃と考えられている.
いろは歌のもつ日本語史上の意義は大きい.いろは歌の成立年代は日本語史でも重要な論点となっているが,それは日本語文化史上の問題であるばかりか,中古に生じていた音韻変化の問題に大いにかかわってくるからだ.いろは歌は,当時の異なる音節(ただし清濁の別は問わない)に相当する仮名をすべて用い,意味のある文章を作ったもので,一種のことば遊びだ.手習い歌としては,やはり47の仮名になる「太為仁歌」(たゐに歌)なるものがあったが,源為憲が970年頃の著で,さらに先行する平安初期の48字からなる「あめつちの詞」よりも「太為仁歌」のほうがすぐれていると言及している.この言及は,2つのことを示唆する.1つは,この段階ではいろは歌はまだなかったらしいこと.もう1つは,手習い歌としては,48字版から47字版がふさわしいと感じられるようになっていたこと,である.後者は,素直に考えれば,仮名の数だけでなく,仮名で表わされていた音節の数も1つ減っていたことを示す.問題の音節の消失は,950年頃より後に [e] と [je] の区別が失われたことに対応し,ここから,いろは歌の成立も早くてもこの年代以降であることが確実視される.したがって,平安末から広く聞かれた弘法大師(空海)(774--835) の作とする説は,現在では俗説として退けられている.ただし,いろは歌の原形が48字だったとする説もある.
上記のように,音標文字一覧が時代とともに変わるということは,音韻体系の変化を示唆する.英語史あるいはゲルマン語史でこれに対応する例の1つに,ルーン・アルファベット (the runic alphabet) の文字数の変化と変異がある.これについては,明日の記事で.
古音の推定については,[2010-07-08-1], [2011-05-25-1]の記事を参照.また,「#572. 現存する最古の英文」については[2010-11-20-1]を参照.
[2012-01-24-1]の記事「#1002. this の不定指示形容詞としての用法」で取り上げた this の用法に関する質問とは別に,this について,もう一つ違う観点から質問が寄せられていた.this は非過去指向という理解でよいか,という質問である.
this の中心的な語義として「目の前にある」が想定できそうだが,そうすると確かに時間的には現在か未来を指示すると考えるのが自然だ.that time に対する this time など,that と this の対比表現によっても,「that = 過去」「this = 非過去」という等式の想定が容易になっている.
しかし,this が過去を指示することは皆無ではない.標題の this Sunday は,単独では「来たる日曜日」と未来を指すものと解釈する向きが強いが,月曜日に直前の週末の出来事を語っているという文脈では,普通に用いられる.this weekend, this summer なども同様である.要するに,話者がより近いと感じている方の端点に this の矢印が向くのであり,その限りでは this が過去を指示することもある.同じ未来の一点を指す場合でも,this Sunday のほうが next Sunday より近接感があるとされるから,this の選択は時間軸上の向きにもまして,心理的な距離の近さが効いていることがわかる.上記の点では,日本語の「この日曜日」「この週末」「この夏」もまったく同じ使い方である.
さて,日英の 近称指示代名詞「この」と this は,いずれの言語の deixis 体系においても,歴史的に比較的用法が安定している.一方,近称 this に対応する遠称 that は,[2009-09-30-1]の記事「#156. 古英語の se の品詞は何か」で触れたように,古英語決定詞 se からの分化であり,形態と機能の歴史はやや複雑だ.同様に,古代日本語でも,近称コ系列に対して中称ソ系列や遠称ア系列(あるいはカ系列)の位置づけは安定していない.奈良時代にはカ系列がほとんど例証されないことから,コとソの2系列だったとする説もあるし,ソ系列に現場指示(指さし)用法が発達したのは中古,本格的には中世だったことから,古代にソ系列を想定しない説もある(高山・青木,pp. 151--52).付け加えれば,フランス語の指示代名詞の deixis 体系 (遠近で区別のない ce のみ)も,ラテン語要素から歴史的に発展してきたものである.各言語の deixis の歴史的発展を対照的に研究するのもおもしろそうだ.
・ 高山 善行,青木 博史 編 『ガイドブック日本語文法史』 ひつじ書房,2010年.
[2011-05-15-1], [2011-08-24-1]に引き続き,標題の話題.両媒体の差異が絶対的なものではないことについては,[2009-12-13-1]の記事「#230. 話しことばと書きことばの対立は絶対的か?」で議論したが,一般的な理解としては,両者は対置されるとしておいて問題はないだろう.用語上の対立も,話し言葉と書き言葉,音声言語と文字言語,口頭言語と書記言語,口頭語と文章語,談話と文章など広く認められ,私たちの日常の意識のなかでも二つの媒体は明確に区別されている.
[2011-08-24-1]の記事で両媒体の特徴の違いを詳しく見たが,語用論的な特徴の指摘に偏っていたきらいがあるので,今回は言語形式上の特徴に焦点を当てて,差異を明らかにしたい.今回参考にしたのは『日本語概説』(204--06) で,日本語からの例を挙げるが,多くの項目は英語にもその他の言語にも対応するものが認められるだろう.
同著 (p. 206) でのまとめは,「話しことばがコミュニケーションのスピードと手軽さに優る社会生活上の利器であるならば,書きことばは高度な思想や深い文学的な妙味をつくりだす点に秀でた表現として,思索する人間の生活を支えている,と言えるであろう.」
メール,ツイッター,チャットなどの新種のコミュニケーションには,話しことばと書きことばの両方の特徴が混在しているといわれるが,上記の特徴を見比べてゆくと,確かにそのとおりだ.話しことばよろしく待遇表現には気を遣う側面もあるし,かといって互いに同じ場所にいるわけではないので,書きことばのように,指示語の使用は控えることが多い.文学的表現は必ずしも使わずとも,同音異義語や同音類義語を活用することはやぶさかではない.
・ 加藤 彰彦,佐治 圭三,森田 良行 編 『日本語概説』 おうふう,1989年.
flat_adverb に関連して,強意副詞として用いられる real bad や mighty hungry や pretty cold などの表現について調べながら,ずっと考えていたことだが,この real と日本語の「すごい」の強意副詞的な用法とがすごいよく似ている.類似点を列挙すると,以下の通り.
(1) 程度のはなはだしいことを示す強意の副詞として用いられる
(2) 形容詞が,語幹のままの形態(終止・連体形)で副詞(連用修飾)として用いられる
(3) 口語,俗語として広く行なわれており,規範の立場からは非標準とされる
日本語の口語において「すごい楽しい」がすでに市民権を獲得していることは改めて指摘するまでもない.書き言葉には使えないという規範意識はあるものの,話し言葉での使用について強く非難すべき時代は過ぎているように思う.
上の3点は,近年の「すごい」のみに当てはまる特徴ではない.増井 (78) を引用しよう.
このように「すごい」は「規則に反して新しく使われ始めた表現と考えられるわけであるが,「すごく」の代わりに「すごい」を用いるのは最近ではあっても,それによく似た例は近世や近代にも見られるものであった.
この「形容詞終止連体形の副詞的用法」は,「程度のはなはだしさ」を表わす形容詞の中に見られる用法である.
現代語において「程度のはなはだしさ」を表わし,連用形の形で形容詞・形容動詞などを修飾する形容詞として「えらい」,「おそろしい」,「すごい」,「すさまじい」,「すばらしい」,「ひどい」,「ものすごい」といった語が挙げられる.このうちほぼ無条件で形容し・形容動詞などを修飾可能なものとなると「えらい」,「おそろしい」,「すごい」,「ものすごい」に限られる.
増井は,近世,近代における上方での「えらい」と「おそろしい」の連用修飾用法を実証的に調査した.それによると (82) ,寛政期に「ゑらう」に代わって用言を修飾する「ゑらい」が現われ,後者は幕末には前者と肩を並べるほどに成長した.特に「ゑらい美(うま)い」のように,形容詞終止連体形を修飾する場合には語調の都合でか,「ゑらい」のみが用いられた.しかし,昭和の初め頃には,「えろう」の勢力は完全に後退した.一方,「おそろしい」については,明治・大正期に「おそろしく」の代わりに用いられた例がみられるが,現代にはつながらずに終わった.「おそろしい」の衰退については,この形容詞には本来の「恐い」という語義が強く残っていたために,程度のはなはだしさを表わす用法は副次的にとどまらざるを得なかったのではないかと,増井は論じている.
「ゑらい」と「おそろしい」の発達の差は,[2012-01-14-1]の記事「#992. 強意語と「限界効用逓減の法則」」で取り上げた,意味の漂白化 (bleaching) と関連しているようにみえる.「ゑらい」では意味が漂白して純粋な強意語となったが,「おそろしい」では原義が色濃く残っており,強意語へと漂白しきれなかったということではないか.意味特性のほかには,漂白化に成功した「えらい」は「おそろしい」の5音節に比べて3音節と短いことが関与しているかもしれない.「すごい」も3音節である.語呂のよさや口語らしさということでいえば,短いほうが調子が出そうだ.
「えらい」「おそろしい」の発達についての結論として,増井 (84--85) はこう述べている.
言語変化は,より安易で単純な方向に進むとされるが,その言語変化の一環として形容詞の無活用化がみられ,その流れの中で右のような用法が出てきたとする考え方もあろう.しかし,右の終止連体形の副詞的用法は形容詞一般にみられるものではなく,「程度のはなはだしさ」を強調する場合にのみ現われることを考えると,単に,「安易で単純な方向に流れて無活用化したもの」ということで片付づけるにはためらいがある.むしろ,強調効果を高めるために意図的に終止連体形を用いたものと考えたい.「えらう」「おそろしく」と活用変化させた形より,原形である「えらい」「おそろしい」の形の方が強い印象が与えられるという意識が働いた結果ではないかと私は考える.
副詞(連用形)に対して形容詞(終止・連体形)のもつ力強さについては,昨日の記事「#996. flat adverb のきびきびした性格」 ([2012-01-18-1]) をはじめ ##983,993,995 で議論済みである.上でみた (1), (2), (3) の特徴,すなわち強い意味,形態の単純さ,口語らしさは,いずれも「きびきびした性格」としてまとめられる.real bad と「すごいヤバい」における flat adverb の精神は,ここにありだ.
最後に,「すごい」の語法問題に対する,井上ひさし氏の回答を参照しよう (238) .鋭い意見だと思う.
なぜ,「すごい楽しい」という言い方が流行しているのかを考えてみると,まず,「程度が並々でない」のを表わす形容詞であることが大きい.並々でないことを強調しようとして,つい,すこしばかり破格の表現をとってしまったと考えられます.また,わたしたちは,いつも新しい言い方を求めていますから,その好みにあっているのかもしれません.そして,なによりも,わたしたちは,「正しい言い方」の味気なさを知っています.これは,その味気ない正しさへの,ちょっとした悪戯なのかもしれない.
・ 増井 典夫 「形容詞終始連体形の副詞的用法 ---「えらい」「おそろしい」を中心に ---」 『国語学研究』第27号 東北大学「国語学研究」刊行会,1987年.77--86頁.
・ 井上 ひさし 『井上ひさしの日本語相談』 新潮社,2011年.
日本語の「背広」は明治時代から用いられているが,その語源は不詳とされている.従来,様々な説が提案されてきた.
(1) 「背幅の広い服」から
(2) sack coat の訳語でゆったりした上衣
(3) 「市民服」を表わす civil clothes の civil から(従来もっとも有力とされてきた説)
(4) ロンドンにある高級紳士服の仕立屋の多い街路 Savile Row から
(5) スコットランドの羊毛・服地の産地 Cheviot から
(6) 英語の中国語訳に vest 「背心」,new waistcoat 「新背心」などと「背」が使用されることにならって
(4) の Savile Row 説もその真偽のほどは分からないが,確かにこの通りには18世紀から続く老舗が多く,そこでスーツを仕立てることが紳士のステータスとされる.一生のうち1着だけでも仕立ててみたいなあ,本物のセヴィロゥを(夢).
・ 前田 富祺 監修 『日本語源大辞典』 小学館,2005年.
[2010-06-19-1]で bracketing paradox という現象を取り上げた.派生や複合など複雑な構造をもった形式において,意味と形態の構造が一致しない現象である.unhappiest は,意味的には間違いなく [[un-[happi-A]]A-est]A ( unhappi-est ) だが,形態的には [un-[[happi-A]-est]A]A ( un-happiest ) でなければおかしい.
この問題に関心をもち関連する Spencer の論文を読んでみたら,これまでに様々な理論的な説明が与えられてきたことがわかった.しかし,いまだに完全な解決には至っていないようである.
同じ論文で bracketing paradox について日本語からの例が挙げられていたので紹介したい (665 fn) .「小腰(こごし)をかがめる」という表現で,「小」は「腰をかがめる」という動詞句全体にかかって「ちょっと腰をかがめる」ほどの意味である.ここでは大腰に対して小腰なるものを話題にしているわけではなく,「小」と「腰をかがめる」の間に統語意味上の切れ目がある.ところが,「こごし」と連濁が生じていることから,形態的には「小」と「腰」は密接に関係していると考えざるをえない.ここに意味と形態の構造の不一致が見られる.
なるほどと思い,類似表現を考えてみたらいくつか思いついた.「小腹がすく」や「小気味悪い」は連濁を含んでおり,同様の例と考えてよいだろう.「小耳にはさむ」も,連濁を含んではいないが類例として当てはまりそうだ.他にも「小?」でいろいろ出てきそうだが,「大?」では思いつかなかった.
・ Spencer, Andrew. "Bracketing Paradoxes and the English Lexicon." Language 64 (1988): 663--82.
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