先日,社会言語学の講義で,標準語と方言という言語変種にみられる社会言語学的「ランク」の話しをした.どの方言も言語も,(伝統的な)言語学の見解によれば互いに平等である.しかし,社会言語学的な観点から実態をみると,古今東西,諸言語・方言間に序列が歴然と存在するのが常態である.その回の講義では,なぜ標準語が偉く,非標準語(いわゆる方言)がその下に位置づけられる傾向があるのかという議論を経た後で,日本語や英語による方言差別や方言撲滅運動の歴史を概観した(cf. 「#1786. 言語権と言語の死,方言権と方言の死」 ([2014-03-18-1]),「#2029. 日本の方言差別と方言コンプレックスの歴史」 ([2014-11-16-1]),「#2030. イギリスの方言差別と方言コンプレックスの歴史」 ([2014-11-17-1])).
現代の日本でも,母方言を捨て(あるいは「忘れる」というほうが適切か),標準語をピックアップするということは,少なからぬ個人が行なっていることと思われるが,母方言はアイデンティティの手形であるという考えのもとで,そのような態度は薦められるものではないという向きもあるだろう.そんなディスカッションをした後で,リアクションペーパーを書いてもらったのだが,ある学生から次のようなコメントが飛び出した.
方言を矯正すべきなのか?という問いに対し,私はそれは違うと思った.方言は,うまれもった個性であるため,それを変えるのは,極端な話,整形をするのと同じだと思う.
このコメントを読んだときの私の反応は「すごい比喩,なんだこの感性は!」というものだった.この衝撃というか感心は,たぶん学期に一度のレベルのものではなかろうか.
標準語という存在をポジティヴに捉えるかネガティヴに捉えるかという問題と,容貌を大きく変えてしまう美容整形の是非という問題は,そこそこパラレルではないかという趣旨のコメントである.このパラレリズムについて考えを巡らせてみたが,1つ大きく異なるのは,整形については一旦手術をしてしまうと,元の容貌に戻すのは不可能(少なくとも簡単にはできない)が,言語については母方言と標準語の間で(両方の能力を保持できている限りにおいて)自由意志のもとで切り替えができることだ.したがって,整形の場合には,その是非が白黒つけられるべき絶対的な問題となりがちだが,言語の場合には,あるときは母方言で,別のときは標準語でとスルスル切り抜けていけばよいという選択肢もあるので,必ずしも絶対的な議論へと発展しないのかもしれない.
切り替えられるか否かという点でいえば,整形の比喩よりも仮面の比喩のほうが適切かもしれない.すると,それはまさに社会言語学でいう face 理論そのものの発想だ(cf. 「#1564. face」 ([2013-08-08-1])).私がこの学生(おそらく face という概念は未習ではないかと思われる)のセンスの素晴らしさに反応したのは,学生が言語(方言)選択における face の作用(に近いもの)に半ば直観的に気づいてしまっていたからかもしれない.
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